2015年12月26日土曜日

2015年12月24日木曜日

久々に本郷でチベット関係書籍を

4冊ほど買いました。

最近仕事が忙しくて、当blog関係の調べものも低調。全然進まない。すいません。

本郷に行ったのも、目的地は東大なんですが、チベット方面とは全く関係ない用事。

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本郷に行ったのも久々だったので、中文書店にも行ってみました。昔はよく行ってたけど、5年ぶりくらいかなあ。

そしたら、チベット関係中文書が100円とか200円で転がってるではありませんか。ええ、買いましたよ。4冊600円(笑)。

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・漢藏対照詞典協作編纂組(1991.1)『漢藏対照詞典  རྒྱ་བོད་ཤན་སྦྱར་ཚིག་མཛོད། rgya bod shan sbyar tshig mdzod/』. 2+2+26+1448pp. 民族出版社, 北京.

Goldsteinの英蔵辞典、カワチェンの辞典でも時々物足りないことがあるので、これはきっと使うでしょう。年に数回?(笑)それにしても重かった。

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・洲塔(1996.1)『甘粛藏族部落的社会與歴史研究』. 564+17pp. 甘粛民族出版社, 蘭州.

アムドのこの手の本も、何冊かすでに持ってるんだけど、ほとんど使う機会がない。でも安いのがあると買っちゃう。病気ですな。

この本では、地名にチベット文字表記があるので助かる。チベット文字表記が全くない『中国藏族部落』を補完するのに使おう。

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・王堯 དབང་རྒྱལ་ dbang rgyal+陳践 བསོད་ནམས་སྐྱིད་ bsod nams skyid・訳注(1992.2)『敦煌本吐蕃歴史文書 ཏུནཧོང་ནས་ཐུན་པའི་བོད་ཀྱིལོ་རྒྱུས་ཡིག་ཆ། tun hong nas thun pa'i bod kyi lo rgyus yig cha/ (増訂本)』. 212pp.+pls. 民族出版社, 北京.

これは、敦煌文献の主要部の藏文・中国式Wylie転写・中文訳が載っているものです。藏文印影もあり非常に使いでがあります。1990年代の中国印刷物ですから写真はすこぶる不鮮明ですが、あるだけでも素晴らしい。

普段、敦煌文献で調べものをする時は主に

・黄布凡+馬徳・編著(2000.6)『敦煌藏文吐蕃史歴史文書訳注  ཏུན་ཧོང་བོད་ཀྱི་གནའ་བོའི་ལོ་རྒྱུས་ཡིག་ཆའི་བསྒྱུར་ཡིག་དང་མཆན་འགྲེལ། tun hong bod kyi gna' bo'i lo rgyus yig cha'i bsgyur yig dang mchan 'grel/』(敦煌少数民族歴史文献叢書). pls.+7+3+4+389pp. 甘粛教育出版社, 蘭州.

を使っているんですが、そちらでわからない時は、この王堯(修正@2016/04/03)先生の訳注を参照しています。

ええ、すでに1冊持ってるんですよ。でも結構ボロボロになってきているので、ここは100円本コーナーから救出しておいたわけです。

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・傅懋勣(2012.1)『納西族図画文字《白蝙蝠取経記》研究』. pls.+334pp. 商務印書館, 北京.
←初出:(1981-1983)(上冊・下冊). 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所, 東京.

納西族、トンパ教の話もいくつかネタは持ってるんですが、なかなか書く機会がやってこない。この本でも眺めて、少しやる気出さねば。

久々に、筆ペンでトンパ文字を書いたりして楽しみましたよ。チベット文字を書く時とは、また別の喜びがありますね。

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いずれも100円か200円でした。昔だったら、この5倍の値段でも買っていたところだが、誰も買わないなんてもったいない。

もちろん買っただけで、まだ全然読んでないのですけどね。

宿題が溜まりまくっているので、少しやる気を出させるためにこんな駄文を書いてみました。

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(追記)@2016/04/03

上で書いた王堯先生は2015年末に亡くなられたそうです。

・チベット学の最新情報 > 2015/12/18 【訃報】王堯氏逝去
http://tibetanstudiesinformation.blogspot.jp/2015/12/blog-post_18.html
・捜狐新聞 > 国内要聞 > 時事 > 著名藏学家王堯去世 曾親歴毛沢東会見達頼、班禅 2015-12-17 23:20:40来源:澎湃
http://news.sohu.com/20151217/n431698641.shtml

このエントリーを書いた時にはすでに訃報が伝えられていたのですね。

上記 『敦煌本吐蕃歴史文書』をはじめ、『吐蕃金石録』などでお世話になりました。

 『敦煌本吐蕃歴史文書』にdbang rgyalというチベット名があるので、チベット人なのかな?などとも思ってしまいましたが、これはチベット文字表記でチベット人風に洒落たものだったんですね。↓参照。

・百度百科 > 王堯 (中央民族大学教授) (最近更新:2016-03-19)
http://baike.baidu.com/subview/484626/9620067.htm

というわけで「ワンギャル→王堯」に修正。

2015年12月5日土曜日

2015年11月29日(日)大学共同利用機関シンポジウム2015

というのに行ってきました。これです↓

・大学共同利用機関シンポジウム2015「研究者に会いに行こう!」
https://www2.kek.jp/intersympo/2015/

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国立の諸研究機関の研究者トークがほぼずっと続くイベントです。

それがおもしろくておもしろくて、結局昼から晩までずっとトークを聞いてしまいました。おかげで各研究機関のブースを回る時間がほとんどなかった。

スーパーコンピュータのノードをランダムに接続すると処理速度が上がる、だの、シアノバクテリアの体内時計タンパク質、だの、Dual fMRI、だの、ペンギンの背中にミニミニレコーダをくっつけてペンギン目線でエサ捕りの場面を見る、だの・・・。

最先端の研究を学ぶのは本当に楽しい。

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大半が理系研究者で、文系トークは3分の1だったんですが、このイベントに行った目的は、民博の吉岡乾先生のトークを聞くため。

吉岡先生は日本で唯一のBurushaski語の研究者。このblogでも、

2009年6月17日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(1) ブルシャスキー語 

で、その著作の一部を使わせていただいております。

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周りはほとんどが理系の研究者や、理系に興味を持っている客ばかりだったようで、冒頭に置かれた文系研究者はいずれも苦戦していましたね。司会が「時間があるようですので、何か質問は?」と切り出しても、シーンと静まり返る会場。

そんな中でも吉岡先生のトークは質問が4つくらい出て、結構盛り上がっていました。

理系のトークでも、質問はいつも二人くらいの同じ人(おそらく科学雑誌とか新聞科学欄とかその辺の人?)がしていましたから、いろんな人から質問が出た吉岡先生のトークは、全体を見渡してもかなり反応がよかったトークだったんじゃないでしょうか。

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「Burushaski語」と言っても、知っている人は会場には全然いませんから、世界中の系統不明言語の分布とか語族の分布とか、一般にも伝わる内容を多く入れたのが勝因かも。

私としてはBurushaski語の話とか、Karakorum地域の言語分布とかの話題をもっと聞きたかったのですが、まあそれはブースでたくさん訊いたから十分です。

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Domaki(語)調査中の映像もおもしろかった。あんまり乗り気でないインフォーマントをなだめすかしながら語彙を訊き出す現場は、私にも少し身に覚えがあるだけに興味深い映像でした。

私が一番苦労したのはインドHimachal Pradesh州Malanaで、Kanashi語会話帳を作るため聞き取りをした時。あそこはほとんどcharas目当ての客しか相手にしませんから、charas抜きでKanashi語について訊いてばかりいる外国人など胡散臭いヤツなのです。

訊いているうちにだんだん空気が悪くなってくるし。あー思い出す。まあ、私の話はいいや。

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ブースでも吉岡先生には、Hunza-Nagarより北にもBurushaski語話者がいる、とか、Domakiの「ki」はBurushaskiの「(s)ki」と同じ、とか、Shin人がGilgitに移って来た時期はやっぱりよくわからない、とか、インド亜大陸からその周辺の能格言語の分布とか、面白いお話をたくさん教えていただき、目からウロコが落ちる思いでした。

そんな話を聞いていると、やっぱりチベット/ヒマラヤ周辺へ行きたくなってしまうわけですが、金も暇もない、という状況が変わるはずもなく、しばらくはここで書いたりしてウサを晴らすしかなさそうです。

まあでも、こないだの外語大イベントもおもしろかったし、今後はもう少しこういうイベントにも顔を出してみようかと思いましたね。

2015年11月10日火曜日

2015年11月1日(日)東京外語大でドキュメンタリー映画「Nowhere to Call Home」を見てきました-その2

『中国蔵族部落』のpp.432-435が、「第三編 四川省藏族部落 第一章 阿壩藏族自治州藏族部落 第二節 紅原県的墨洼部落」です。

墨洼=麦洼(རྨེ་བ་ rme ba メワ)は、前回の地図にも載っていますが、ルマ村のすぐ西の地域で、メ・チュー(རྨེ་ཆུ་ rme chu 麦曲)流域。その中心地もメワと呼ばれます。

ルマがこのメワ地域に入るのか、それともバンユル・チュー流域なのでゾルゲやバンユル(བན་ཡུལ་ ban yul 班佑)の影響下にあるのかちょっとわかりません。

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そのメワの人々ですが、『中国藏族部落』にはこうあります。

メワ部落は、もともとカム北部のダンゴ(བྲག་མགོ brag mgo 章谷=炉霍)からセルタル(གསེར་ཐར་ gser thar 色達)付近の小遊牧部落であった。牧民数約200戸で墨柯河(チベット語表記・位置不明)一帯で遊牧を行っていたため、元の名を墨洼(メワ)と云った(カムのチベット民は麦巴(メパ=smad pa?)と呼んだ)。

メワ部落は近郊部落と折り合いが悪くなり、清末にセルタルに移動。ここで多くの集団を吸収して勢力を拡大。中阿壩の墨顙(メサン?)土官の配下となり、阿木柯河(現・紅原近郊)に移動。

ところがメワ部落は松潘県政府にも内通。松潘県政府が抑えていた現在の麦洼に牧地を得て、今度はそこに落ち着いた。

墨顙土官との関係も依然続いており、黒水土官やラブラン寺勢力に対して共に戦った。

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これを見ると、メワの人々の中には、ダンゴやセルタルといったカムに出自を持つ人々がかなりいることがわかります。

しかし腑に落ちないのは、メワの地にはメ・チュー(rme chu)という川が流れているのですが、メワ(rme ba)とは偶然同じ名前だったのでしょうか?それとも元はsmad paかなんかだったのが、ここに移動してrme baになったのか?どうもすっきりしません。

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さて、ザンタの故郷ルマ(rma)に戻ります。ルマとメワの関係もよくわからないわけですが、メワ経由でセルタルあたりの言語・習俗がルマに伝わっているかもしれません。

セルタルとザチュカ(セルシュー周辺)はまだ離れているわけですが、私は行ったことがないので、両者がどの程度似ているのか、どの程度違いがあるのか全然知りません。

全然まとまらないな、こりゃ・・・。

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ルマ(rma)というのは、黄河のチベット名マ・チュー(རྨ་ཆུ་ rma chu)の「rma」と全く同じなのですが、どういう関係なのでしょう?

rmaというのは、黄河上流域を指す地域名で、そこから派生した地名がたくさんあります。

rmaの地を治める山神であり、山そのものでもあるマチェン・ポムラ(རྨ་ཆེན་སྤོམ་ར་ rma chen spom ra)=アムニェ・マチェン(ཨ་མྱེས་རྨ་ཆེན་ a myes rma chen)。マ・チュー(黄河)。マチュー(རྨ་ཆུ་ rma chu 瑪曲)、マチェン(རྨ་ཆེན་ rma chen 瑪沁)、マトゥー(རྨ་སྟོད་ rma stod 瑪多)という町もあります。

さらに吐蕃時代には旧・吐谷渾領占領地の拠点として、マトム(རྨ་གྲོམ་ rma grom/རྨ་ཁྲོམ་ rma khrom)という基地が置かれていました。

参考 :

・石川巌 (2003.05) 吐蕃帝国のマトム(rMa grom)について. 日本西蔵学会会報, no.49, pp.37-46.

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じゃあこの「rma」って何でしょう?

一般には「怪我・傷」になりますが、地名の由来としてはパッとしない。「美しさ」を意味する場合もあります。「རྨ་བྱ་ rma bya 孔雀」のrmaですね。

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吐蕃時代にはrmaという氏族もいましたが、氏族名だけがちらほら現れるだけで、さほど有力な氏族ではありません。

後のチューチュン類になると、ティソン・デツェン(ཁྲི་སྲོང་ལྡེ་བརྩན་ khri srong lde brtsan)時代初期に仏教に反対して、墓に生き埋めにされてしまったマシャン・トムパキェー(མ་ཞང་ཁྲོམ་པ་སྐྱེས་ ma zhang khrom pa skyes)という人物が出てきます。これはどうも架空の人物らしい。

この人物がrma氏であるのか確証が持てないのですが、名前は先ほどのマトムと似ていて、何やら気になるのですよ。

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私は、このマシャン・トンパキェーには、ロンチェ(བློན་ཆེ་ blon che)にもなったンゲンラム・タクラ・ルーコン(ངན་ལམ་སྟག་སྒྲ་ཀླུ་ཁོང་ ngan lam stag sgra klu khong)の姿が投影されていると考えています。敦煌文献では、タクラ・ルーコンが仏教に反対したとか誅殺された形跡はないのですが。

ショル碑文(ཞོལ་རྡོ་རིང་ zhol rdo ring)によれば、タクラ・ルーコンは主に北東戦線で活躍したようです。おそらくマトムとは関係あったでしょう。

彼は吐蕃軍が長安を占領した際の主将の一人でしたが、なぜか漢籍にその名は現れず、代わって「馬重英」という人物が出てきます。おおむね「タクラ・ルーコン=馬重英」という比定が定説となっていますが、なぜこの漢名で呼ばれるのか謎のままです。気になるのはこの「馬 ma」という姓ですね。

タクラ・ルーコン、馬重英、マトム、マシャン・トムパキェー、こんな風に並べて考えると、なにやら関係が見えてきそうな気がするのですが、決定的証拠がない。今のところは材料を並べるだけで精一杯。まとめきれん。

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『སྦ་བཞེད། sba bzhed バシェー』、『རྒྱལ་རབས་གསལ་བའི་མེ་ལོང་། rgyal rabs gsal ba'i me long 王統明示鏡』、『དེབ་ཐེར་དམར་པོ་གསར་མ། deb ther dmar po sar ma 新紅史』、『མཁས་པའི་དགའ་སཏོན། mkhas pa'i dga' ston 賢者の喜宴』などには両者が現れますが、マシャンしか現れないものも多い。

一般にチューチュン類ではタクラ・ルーコンの影が薄い。実在の人物タクラ・ルーコンの人格を、チューチュン類ではタクラ・ルーコンとマシャンに分けたのではないかと推測していますが、これもまた決定的証拠がない。

まあ今はまだ仮説の前段階といった程度ですが、いずれまた調べます。

なお、この辺の話は、

・林冠群 (2006.9) 瑪祥仲巴桀與恩蘭達札路恭-吐蕃佛教法統建立前的政教紛争. 『唐代吐蕃史論集』(《西藏通史》専題研究叢刊2)所収. pp.316-349. 中国藏学出版社, 北京.
← 原版:(1989) 蒙藏専題研究叢書之四十一, 台北.

を大いに参考にしていますが、上記論文では両者を同一人物と比定しているわけではなく、同時代の人物として併論しているだけです。

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さて、地名rmaの話題から動けなくなって、映画のところに全然戻らないわけですが、この暴走はもう少し続きます(笑)。

2015年11月7日土曜日

2015年11月1日(日)東京外語大でドキュメンタリー映画「Nowhere to Call Home」を見てきました-その1

ちょっと古い話になってしまいますが、このblogは速報性など期待されていないので平気。

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東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所. 言語の動態と多様性プロジェクト (LingDy2) 主催映画上映会.
Nowhere to Call Home. ノーウェア・トゥ・コール・ホーム. ジャスリン・フォード監督 2014年
日時:2015年11月1日 (日) 16:00-18:30 (15:45開場)
場所:東京外国語大学アゴラ・グローバル3階プロジェクトスペース

というのに行ってきました。こういう催し物にはあまり参加しないのですが、久々に行ったところ、星先生をはじめ10年ぶりくらいに見る人、会う人がたくさんいて楽しい時間を過ごしました。

参考 :

・TibetanCinema/チベット文学と映画制作の現在 > 2015年10月19日月曜日 ドキュメンタリー映画 "Nowhere To Call Home" 上映会
http://tibetanliterature.blogspot.jp/2015/10/nowhere-to-call-home.html
・東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所 > 過去のイベント > 2015/11/01(日) “Nowhere To Call Home” 上映会 【公開】
http://www.aa.tufs.ac.jp/documents/sympo_ws/film_20151101ja.pdf

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あちこち寄り道しながら、映画の内容を紹介してみましょうか。

北京に住む記者Jocelyn Ford(女性、USA出身)が、北京の街角でチベット・アクセサリーを売るゲリラ路面商ザンタと出会うところから物語が始まる。話を聞いてみると・・・

ザンタは夫と死別。婚家とも折り合いが悪くなり、息子ヤンチェンを連れて北京に逃げて来ました。北京の映像は、ヤンチェンの学校探し、家探し、ゲリラ路面商活動と公安とのイタチごっこで右往左往する様子を中心に綴られます。

中でもヤンチェンの教育問題が、ザンタの心配事でも映像でも中心に置かれています。

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まず名前から。

主役ザンタ(女性)は、

(1)bzang rtags བཟང་རྟགས་ = 吉兆
(2)bzang khrag བཟང་ཁྲག = 無病息災
(3)bzang zla བཟང་ཟླ་ = 吉月(8月の別称)

のどれかではないかと思いますが、個人的には(3)が有力か?という気が。

なおアムド語は、西チベット諸語と似て字面に近い発音。よってbzangは「ザン」と濁ります。

息子ヤンチェンは、

g-yang can གཡང་ཅན་ = 幸運を有する(者)

に間違いない。同音では、

dbyangs can དབྱངས་ཅན་ = 妙音を有する(者)

の方が有名ですが、この名はヤンチェンマ dbyangs can ma དབྱངས་ཅན་མ་ (弁財天)の略称でもあり、通常女性名なので違うでしょう。

名前はこれくらいにして、次に行きましょう。

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ザンタの出身地は、四川省チベット圏の「ルマ རྨ་ rma」という村だといいます。

てっきりカムのどこかと思っていましたが、ザンタの姿を見ると、ヒョウ柄の帽子をよくかぶっています。ということで、薄々アムド方面のようだとわかってきました(アムドワはヒョウ柄が大好き)。

しかし、この場所がわからない。『四川省地図冊』を見ても、Amnye Machen Instituteの地図を見ても見つからない。

結局Google Mapで見つかりました。といっても一筋縄では行きません。まあやってみてください。違う場所ばかりひっかかって、なかなかたどり着きませんから。

























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四川省阿壩藏族羌族自治州紅原県の北東はずれ、スンチュー(ཟུང་ཆུ་ zung chu 松潘)とゾルゲ(མཛོད་དགེ mdzod dge 若爾盖)の間あたりです。

ザンタとヤンチェンが故郷へ向かう途中、「2008年の四川大地震被災地をバスで通った」というナレーションが入ります。これは、成都から汶川(ལུང་དགུ lung dgu)、茂県(མའོ་ཝུན་ ma'o wun)を通ったのでしょう。ここからスンチュー(松潘)を経てゾルゲ行バスを途中下車。

ゾルゲへ向かう213国道沿いにバンユル・チュー(བན་ཡུལ་ཆུ་  ban yul chu 班佑河)が流れています。この河に流入する南南西→北北東の谷の一つがルマ(རྨ་ rma 爾瑪)村のある谷。ルマ村は、街道から谷へ入って6kmほど。

ただし、このルマはザンタの実家なのか婚家なのかよくわからない。婚家の方なのかな?

ra mgo(ར་མགོ) も読んで「ルマ」になるのがアムドらしいですね。

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上映後にアムド研究者の方々と話していたら「場所はどこ?」という話になり、アムドの中でも「ヂャロン(རྒྱལ་རོང་ rgyal rong 嘉絨)近くではないか?」とか、「ザ・チュー(རྫ་ཆུ rdza chu 扎曲)の方かも?」などと意見が出ていました。

このザ・チューは、セルシュー(སེར་ཤུལ་ ser shul 石渠)あたりを流れるニャロン・チュー(nyag rong chu 雅礱江)上流部のことか、メコン河最上流部でゴロク(མགོ་ལོག mgo log 果洛)のことかわかりませんが。よく訊いておけばよかった・・・。

(追記)@2015/11/07

よく考えたら、四川省を通っていないメコン河のはずはありませんね。失礼しました。ということは、やっぱりザチュカ(རྫ་ཆུ་ཁ་ rdza chu kha)のことか。

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私には皆目わかりませんでしたが、おそらく言葉や習俗などから判断してのことと思います。

ヂャロンにはほどほど近いですね。なるほど。ザ・チューはどっちにしてもちょっと遠い。

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ところが、私がアムドを調べるときにいつも頼りにする

・青海省社会科学院蔵学研究所・編, 陳慶英・主編 (1991) 『中国蔵族部落』. 14+5+651pp. 中国蔵学出版社, 北京.

におもしろいことが書いてありました。

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構成も何も考えずダラ書きしているので、長くなってしまいました。

以下次回。

2015年10月23日金曜日

ヒマーチャル小出し劇場(28) 外国人なんか誰も来ないところへ行くと・・・

そして、そこに小学校があったりすると、こうなります。
















ちょっと変顔でもしようものなら、受ける、受ける。なんでこんなに受けるの?というくらい受けまくり。で、囲まれて身動き取れなくなる、という。

場所はUpper KinnaurのChango(བྱང་སྒོ)。

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もう1枚。仲よし兄弟。これもChangoです。
























君たちはヤノマミか?ってな髪形。この村には床屋なんかはありませんから、親に切られちゃったんだろうなあ。でも、なかなかいいよ。

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今、大きな調べものを2つ平行でやっていて、なかなか書くところまで到達しないので、久々に小出し劇場で誤魔化してみました。

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(追記1)@2015/10/31

Changoのチベット文字スペルをbyang goからbyang sgoに訂正。

(追記2)@2015/10/31

ついでなので、

2012年3月3日土曜日
ヒマーチャル小出し劇場(3) タシ・ポン(絵師タシ・ツェリン)

で紹介したタシ・ポンの名品を。Khargo Gonpa(mkhar sgo dgon pa མཁར་སྒོ་དགོན་པ་)のシト百尊壁画。Changoは彼の地元です。


2015年10月14日水曜日

柱建て祭りとKumariのお話(14) Kashmir盆地のNaga神話-その2

仏教に彩られた神話もあります。こちらは玄奘が『大唐西域記』(7C)で報告したもの。

Kashmir(迦濕彌羅)は、かつて龍王(Nagaraja)が棲む龍池でした。釈尊が予言した通り、孫弟子にあたるArhat Madhyantika(अर्हत् मध्यान्तिक 末田底迦阿羅漢)がKashmirにやって来て、龍王を仏法に帰依させました。

Madhyantikaは、自分が立てる陸地を龍王に求めます。龍王は湖を縮め陸地を現出させますが、Madhyantikaは身体をどんどん大きくするので、龍王も湖をどんどん縮めざるを得ず、ついに湖は消滅してしまいました。

今度は龍王が、住まう池をMadhyantikaに求めます。そこでその地の北西に池が作られ、龍王はそこに住まいます。また各地に小池が作られそちらには諸龍が住まい、みな仏法に帰依するようになりました。これが神話上のKashmir仏教の始まりです。

この龍王が住まう池とはおそらくWular湖(वुलर झील)。ここに住まうNagaraja Mahapadma(महापद्म)は、今もヒンドゥ教徒に崇められています。

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一方、イスラム側の史料では、オリエント神話の影響を受け、洪水神話になっています。

神罰により大洪水が起こり、Takht-i-Slaimanの丘(現在のShankaracarya Hill)のみが水没しなかった。この丘に辿り着き生き残った人々は、KashfとMirという二人の精霊(イスラムではjinといいます)に頼んで水を排出。Kashmirという地名は、このKashfとMirにちなむもの、という地名伝説がオチです。

イスラム系の神話は他にもありますが、いずれも西方系ストーリーの転用が多く、そこにはもはやNagaは登場しません。

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Kashmir語では、泉のこともNag(a)と呼びます。まさに水を司る神ですね。Kashmir盆地にはNagのつく地名が多数残っていますが、いずれも川の源流部の池・沼・泉で、Nagarajaの在所として崇められています。

(1)Anantnag(अनंतनाग)

Srinagar(श्रीनगर)の南55kmの町。別名Islamabad。Jhelum川(झेलम नदी)とLiddar川(लिद्दर नदी)の合流地点に当たります。

地名の由来は、ShivaがAmarnath洞窟(अमरनाथ गुफा、注)に向かう途中、身につけていたものをすべてここに捨てた。首に巻きつけていたAnantaをはじめとする多くのNagaもここで置き去りにされた。この地に居残ったNagaたちが棲む泉(nag)がたくさんあるため、Anantaを代表としてAnantnagと呼ばれるようになった、というもの。

先のKashmir盆地起源神話とは矛盾する内容です。すっかりヒンドゥ教Shiva派の神話になっています。

Anantaが棲む泉はNagbal(नागबल)という場所。もちろんAnantaを祀った寺院があります。この他、Anantnag周辺にはSarak Nag、Malik Nagなど多くの泉があります。

(2) Sheshnag(शेषनाग)

Jhelum川の支流Liddar川。その源流部の湖です。Pahalgamから23km、Amarnath洞窟への途上にあり、ここも重要な巡礼地。

Nagaraja Sheshaにちなむものですが、具体的な由来はよくわかりません。かなりの山奥なので、寺院もないようです。

実に美しい湖。1990年代から続く紛争がなければ、トレッキングの名所として有名になっていたはず。

(3) Verinag(वेरीनाग)

Srinagarの南78kmの町。Jhelum河源流部の町。Verinagという泉があり、これはJhelum川の源流の一つとされています。

ここはNagaraja Nilaの在所とされています。Kashmir Nagarajaの大御所登場ですね。

また、Jhelum川の女神Vitasta(वितस्ता、Parvatiの別名あるいは化身)がShivaに助けられて、ここから現れたためViranag(विरानाग、妻の泉)→Verinagと呼ばれるようになった、という神話もあります。こちらもすっかりShiva派の神話に変わっていますね。

ここはムガル領時代に皇帝たちに愛され、庭園として整備されています。ここも、紛争がなければ観光客で賑わっているはず・・・。

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この他、Vasak Nag(Qazigund近く、Nagaraja Vasukiの在所)、Takshak Nag(Srinagar南部、Nagaraja Takshakaの在所)など、Nagaの在所とされる湖・泉はたくさんあります。先程紹介したWular湖もその一つ(Nagaraja Mahapadmaの在所)。

いずれの場所にもささやかな祠がありますが、ShivaやVishnuが共に祀られていることが多く、今ではNagaはKashmirのヒンドゥ教信仰の中心にはいないことがわかります。Kashmirで強いShiva派の一部として生きながらえている状態でしょうか。

イスラム教徒が大半のKashmirでは、ヒンドゥ教徒自体すでに少数派ですが・・・。

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しかし、Nagaの存在はKashmirの文化に今も深く根ざしています。

・Iramanjari Puja(3~4月)→Nagaを祀る
・Varuna Panchami(7~8月)→Nagaraja Nilaを祀る
・初雪を祝う祭り(初冬)→Nagaraja Nilaを祀る

などの祭りは、いずれもNagaを祀るものです。

現在のKashmirではNaga信仰は大勢力とはとても言えませんが、Kashmir文化の基層として重要な存在であることに変わりはありません。

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Kathmandu盆地やKashmir盆地のようなヒマラヤ南縁の山間盆地は、ヒマラヤの隆起の中心が、徐々に南へと移り変わることにより形成されたものです。

Kathmandu盆地では、南のSiwalik山地が隆起することにより南へ流れる川がせき止められKathmandu盆地は湖となりました。

ここKashmir盆地では、Pir Panjal(पीर पंजाल)山脈が隆起して水流をせき止め、湖が形成されました。状況はKathmandu盆地と全く同じ。この湖はKarewara(करेवर)湖と呼ばれます。karewaraとは乳香のこと。

Karewara湖が存在したのは700万年前(中新世Miocene)から70万年前(更新世Pleistocene)まで。古期Kathmandu湖とほぼ同時代。

その後はJhelum川がPir Panjal山脈を越えて湖水を排出し、Karewara湖は消滅しました。大湖の名残はDal湖(दल सरोवर)、Wular湖(वुलर झील)、Manasbal湖(मानसबल झील )などKashmir盆地の各地に残っています。

しかしJhelum川もまっすぐ南へ流れることはできず、北西へ大きく回りこんでからPir Panjal山脈のはずれをようやく越えることができた感じです。

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Kathmandu盆地やKashmir盆地のような、湖が干上がった地域では、Nagaに関するよく似た神話・信仰が見られます。この神話がどこからどのように広まったのかはわかりません。発祥の地は北インドなのか南インドなのか、実はNepalやKashmirのようなその周縁部が本家なのか、はたまたインダス文明なのか・・・?

いずれにしても、この手の神話はNaga信仰とともに広がったのでしょうから、起源はかなり古いものに違いありません。

それは、インド・アーリア人のインド亜大陸侵入以前にまで逆上る可能性が高く、その辺の事情を語る史料も多くはありません。今は、その断片を落ち穂拾いのように集めて、再構成する作業が必要でしょう。

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水を司る神Naga信仰をインドおよびその周辺(Nepal、Kashmir)で見てきましたが、次はさらにその外側にあたるチベット文化圏でのNaga信仰と聖樹信仰を見て行きましょう。これがKathmandu盆地のNaga信仰と聖樹信仰を探る上で重要です。

参考:

・玄奘 (唐646) 『大唐西域記』.
→ 邦訳 : 水谷真成・訳注(1971) 『大唐西域記』(中国古典文学大系 第22巻). 15+463+5pp. 平凡社, 東京.
→ 再版 : (1999) 『大唐西域記 1~3』(東洋文庫653・655・657). 380+396+493pp. 平凡社, 東京.
・Samsar Chand Kaul (1948) SRINAGAR & ITS ENVIRONS. 73pp. Wesley Press, Mysore.
→ Reprinted : KASHMIRI OVERSEAS ASSOCATION, INC. > Culture > Personalities > Surender Kaul/Master Samsar Chand Kaul - Great Ornithologist of Kashmir > Samsar Chand Kaul/Srinagar and its Environs (as of 2015/10/03)
http://www.koausa.org/SamsarChandKoul/
・M. L. Kapur (1983) KINGDOM OF KASHMIR. viii+402pp. Kashmir History Publications, Jammu.
・S.L. Shali (1993) KASHMIR : HISTORY AND ARCHAEOLOGY THROUGH THE AGES. 311pp.+pls. Indus Publishing, New Delhi.
・K.S. Valdiya (1998) DYNAMIC HIMALAYA. xv+178pp. Universities Press (India), Hyderabad.
・Khandro Net > Symbolism > Misterious Beings & Objects > Nagas(as of 2015/10/03)
http://www.khandro.net/mysterious_naga.htm
・Kashmiri Pandit Network > Culture – Writeups – Writers & Columnists > Chander (M.) Bhat > Writeups (as of 2015/10/03)
http://ikashmir.net/chanderbhat/articles.html
・Kashmiri Pandit Network > Brigadier Rattan Kaul > KASHMIR, SACRED RIVERS AND WULAR LAKE (as of 2015/10/03)
http://ikashmir.net/rattankaul/doc/WularLake.pdf
・Verinag Kashmir : Natural Spring and Garden (as of 2015/10/10)
http://www.verinag.com/

===========================================

(注)

Amarnath洞窟とは、Kashmir盆地北東Pahalgam(पहलगाम)から45kmの山中にある洞窟。洞窟内の穴から出ている氷柱がShivalinga(शिवलिङ्ग)として崇められています。Shravan(श्रावण)月(7~8月)に、数千の巡礼がこの洞窟目指して長い列を作ります。

参考:

・宮本久義 (1990) 氷河上の聖窟をめざして. 季刊民族学, vol.14, no.2[1990/4], pp.6-25.
→加筆・再録 : (2003) 凍れるシヴァに会いに氷河を越えて聖窟アマルナートに向かう. 『ヒンドゥー聖地 思索の旅』所収. pp.31-62. 山川出版社, 東京.

2015年10月11日日曜日

柱建て祭りとKumariのお話(13) Kashmir盆地のNaga神話-その1

インドの北西Kashmir(काश्मीर)盆地にも、Kathmandu盆地と似たような神話が残っています。

・Kalhana कल्हण (1148-49) 『Rajatarangini राजतरंगिणी』
・Unknown (6-7C) 『Nilamata Purana नीलमत पुराण』

より

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太古の昔、Kashmir盆地はSatidesha(सतीदेश)あるいはSatisar(सतीसर)という湖でした。この名はShiva妃Sati(सती)にちなむものです。この湖を支配していたのはNagarajaである Nila(नील)です。

湖はIndraが遊びに来る聖地でしたが、悪鬼Sangraha(सङ्ग्राह)がやって来て戦いになります。IndraとSangrahaの戦いは1年間続きましたが、Sangrahaはついに調伏されます。

SangrahaはJalodbhava(जलोद्भव)という遺児を残しましたが、これを哀れんだNilaによって育てられます。ところがJalodbhavaは所詮悪鬼の子だったのです。成長したJalodbhavaは周囲を荒らし回るようになります。

Nilaは父である聖仙Kashyapa(कश्यप)に助けを求めます(注)。これにVishnu、Shiva、Brahmaをはじめとする神々が加担。

湖に逃げ込んだJalodbhavaをおびき出すために、VishnuはNagaraja Ananta(अनन्त)に命じ、盆地を取り囲む山脈を切り開き排水します。そして無事Jalodbhavaを退治。湖は干上がり盆地となり、以後人が移り住むようになった、という神話です。

なお、Kashmirという地名はKashyapaにちなむもの、というのがこの神話での説です(他にも諸説ある)。

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この神話はKathmandu盆地のものと似てはいますが、ヒンドゥ教の神々が活躍する点、Jalodbhavaという悪役が登場する点が異なります。

Nagaを信仰する原住民が、インド・アーリヤ人あるいはバラモン教の進出に抵抗し、後にはこれを受け入れたエピソードを表している、と考える説もあります。

この原住民は、いわゆるMunda系(オーストロ・アジア系民族の一派で東南アジアのMon-Khmer系とは親戚とされる)と推測する学者が多いのですが、確証はありません。また、ブルシャスキー語話者だった、と考える説もあるが、こちらも確証はありません。

参考:

・Mark Aurel Stein (1900-26) KALHAŅA'S RĀJATARANGINĪ : A CHRONICLE OF THE KINGS OF KAŚMĪR : .VOL.1-5. 1555pp.+pls.+maps. A. Constable, Westminster. 
→ Reprinted : (1989) VOL.1-3. Motilal Banarsidass, Delhi. 
・M. L. Kapur (1983) KINGDOM OF KASHMIR. viii+402pp. Kashmir History Publications, Jammu.
・S.L. Shali (1993) KASHMIR : HISTORY AND ARCHAEOLOGY THROUGH THE AGES. 311pp.+pls. Indus Publishing, New Delhi.
・Khandro Net > Symbolism > Misterious Beings & Objects > Nagas(as of 2015/10/03)
http://www.khandro.net/mysterious_naga.htm
・Kashmiri Pandit Network > Religion – Nilamata Purana(as of 2015/10/03)
http://ikashmir.net/nilmatapurana/index.html

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(注)

聖仙Kashyapaは、すべてのNagaの父とされます。Kashyapaには妻がたくさんおり、この妻たちが神々や魔神を産んだとされます。その妻の一人Kadru(कद्रु)がすべてのNagaの母です。

Kadruの妹Vinata(विनता)もKashyapaの妻であり、こちらはGaruda(गरुड)を産みました。

KadruとVinataはある賭けをしますが、Kadruとその子Nagaたちの策略によりVinataは賭けに負け、奴隷の身に落とされてしまいます。

Nagaたちは、Vinataの身を解放する条件として、天界よりAmrita(अमृता、甘露)を盗んでくることをGarudaに要求します。天界に向かったGarudaはAmritaを守る神々を撃ち破り、Amritaを手に入れることに成功します。

VishnuとIndraが追撃にやって来ますが、双方ともGarudaの勇敢さに感心し、逆にGarudaの願いを叶えてやります。Vishnuには、不老不死とVishnuの乗り物になることを願い、かなえられました。Indraには、NagaたちにはAmritaを見せるだけで天界に返すことを申し出て、蛇を常食とする願いをかなえられました。

GarudaはNagaたちのところへ行き、Amritaをkusha(कुश)草の上に置き「沐浴してからAmritaを飲むように」とNagaたちに告げました。Nagaたちが沐浴をしている間に、IndraがそのAmtritaを持ち去ってしまいました。Nagaたちは戻ってみるとAmritaがなくなっているため、Amritaが置いてあったkusha草を未練たらしく舐めまわしました。kusha草は葉先が鋭く、このためNagaたちの舌先は二つに避けてしまった、というのがこの神話のオチです。

参考:

・上村勝彦 (1981) 『インド神話』. 286pp.+pls. 東京書籍, 東京.
→(2003) 『インド神話 マハーバーラタの神々』(ちくま学芸文庫マ-14-14). 350pp. 筑摩書房, 東京.

2015年9月23日水曜日

龍神を祀る田無神社

に行ってみました。龍だらけでしたね。















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前々回紹介した狛蛇のいる矢川弁財天は、水源(近く)にある神社でした。田無神社は、それとは対照的に、市街地のちょっと小高い場所にありました。

神社の周りに川はありません。西武新宿線の南を石神井川が流れていますが、その支流があるわけでもなさそうです。

この神社は、水源に建立されたものではなく、水を求めて龍神に祈りを捧げ、井戸を掘ったことが始まりとされています(17世紀)。

「田無」ですからね、水には苦労したのでしょう。この井戸から引かれた用水路が田無用水。

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祭神は金龍(尉殿大権現)。境内の東南西北にはそれぞれ青龍、赤龍、白龍、黒龍が祀られています。五行説の色ですね。

拝殿の装飾や四方龍神像として、龍がいっぱいです。ここは蛇神ではなく完全に龍神ですね。

ちょっと期待とは違っていましたが、威厳のある神社でなかなか楽めました。















参考:

・田無神社 > 田無神社とは(as of 2015/09/22)
http://tanashijinja.or.jp/about.html

2015年9月20日日曜日

狛犬ならぬ狛蛇?

この夏は全然休みがなくて、調べものや書きものも全く出来ない始末だったんですが、そろそろ再開します。その前に少し小ネタを。

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写真は、東京都立川市にある神社・矢川弁財天。一般には、ここが矢川の水源と認識されています。


















矢川は多摩川の支流ではありますが、支流という名称は矢川にふさわしくない。それよりも「小川」ですね。すぐに多摩川に流入してしまいますし。

高架の「みのわ通り(注1)」を挟んで、矢川弁財天の東には、矢川沿いに湿地帯・矢川緑地が広がっています。そして小川には子どもたちが水遊びをする姿が。いい光景です

いつかはここに住んでみたいなあ、などと考えたりもするのですが、「夏の虫は多いんじゃないか?特に蚊は?」などと気になってしまい、すぐに行動に移す気にもならない、といった状況。

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矢川は、多摩川沿いを構成している河岸段丘である、上段の立川面と下段の青柳面を画する崖線(いわゆる「はけ」)の麓から湧き出ています。

矢川弁財天の先は暗渠になってしまい、本当の水源は見ることができません。矢川弁財天から西へ700m程進んだ立川七小あたりが本当の水源らしいです。そう言われてみると、立川七小北側の曲がりくねった道は、小川を覆った暗渠上の小道だったんですね。

参考:

・すずき/曙町から 一立川市民のご近所・町内観察日記 > 矢川 水源 2007-03-20
http://blog.goo.ne.jp/home-goo/e/f60a7ed7f78d8b0ef83fbe47c50433d7

矢川と立川断層の関係なども面白いのですが、いつまでたっても「狛蛇」にたどり着かないので、いつかまた。

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さて、みのわ通りから下に降り、鯉が泳ぐ池を橋で渡ります。鳥居をくぐるとお目当ての二匹(「匹」でいいんだろうか?)の「狛蛇」が出迎えてくれます。



















どうでしょう、この見事なトグロ。まるでマンガのウ●コのようではありませんか。

顔がまたかわいいんですよ。変に凝った表情を作っていないところが好感。ウロコの造形もいいですね。





























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この狛蛇が守っている矢川弁財天の祭神は、もちろん弁財天(Saraswati सरस्वती)。インドの女神様です。

もともとSaraswatiは古代、北インドに存在した河の名前です。Saraswati河はほどなく消滅してしまい、その場所も不明になってしまいました。そのSaraswati河を治め、象徴する女神がSaraswatiだったわけです。

古代インドの有名な河の女神には、もう一人Ganga गङ्गा がいます。こちらはガンジス河を治め、象徴する女神。Gangaはガンジス河ですから、当然今も存在しています。よって、Gangaは今も河の女神として生き残っています(注2)。

一方Saraswatiは、その在所である河が存在しなくなってしまったため、河の女神としての存在感を失います。河→流れからの連想で、流れを有するもの「言葉」、「音楽」、そして「学問」の女神として崇拝されるようになりました。Saraswatiは、インドでも日本でもvina वीणा (琵琶)をかかえた姿として描かれます。

Saraswatiは仏教を通じて中国へ、そして日本にも導入されます。民間信仰では、七福神の紅一点「弁財天」として信仰されているのはご存知の通り。

もともとは「弁才天」と綴られていましたが、同音の「弁財天」と綴られ「富の女神」ともみなされるようになります。「銭洗い弁天」がそうですね。

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上述のように、現在は音楽・学問の女神とされているSaraswatiですが、ここ矢川弁財天では本来の姿「河・水の女神」として祀られています。いいですねえ。

その弁財天を二匹の蛇神が守っています。これまで述べてきたように、蛇神Nagaはインドでは水を司る神です。それが中国を経て日本に入ってくる頃には、中国の龍と混交して「龍神」と呼ばれるようになりましたが、ここでは古来の蛇の姿そのままです。うれしいですね。

実はこの二匹の狛蛇、一匹は「龍神」、もう一匹は「白蛇」とされており、左巻き・右巻きと巻き方も逆になっています(どっちがどっちかは知らない)。とはいえ、ここでは龍神よりも蛇神としての属性の方が勝っていますね。

龍は、中国では王権を象徴する神獣でもあります。龍を門神として置くのは、立派な姿すぎて憚られたのかもしれません。

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矢川弁財天の由来というのは、よくわかりません。弁財天と蛇神の関係も、両者が同時に導入されたのか、あるいはどちらかが先に導入されたのかもわかりません。私は蛇神が先で、弁財天が後ではないか、と推測していますが、特に証拠はありません。

同じ東京多摩地区の吉祥寺にある、井の頭弁天の影響もあるのかもしれません。井の頭弁天でも、弁財天と共に蛇神である宇賀神が祀られています。

矢川弁財天は、かつては少し東の矢川緑地にあったものですが、1941年に現在の場所に移転しました。

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それにしても、この狛蛇はかわいい。宇賀神になると、人間の顔がとぐろからにゅっと出ていて不気味感を醸し出しますが、こちらはシンプルな蛇そのもので、実に和む。

それにしてもインドで水を司る神であるNagaが、遠いこの日本でもその本来の職能が認められているというのはうれしいじゃありませんか。

インドは、思ったよりも身近なところにもあるのです。

全般的な参考:

・ののわ > みんなのののわ > 2013年9月 > 伊藤万里・文・編集,松井信雄・写真/2013.09.20 「矢川緑地保全地域」と「矢川弁財天」 ~地域の人々に守られてきた自然環境~
http://www.nonowa.co.jp/areamagazine/blog/201309/01.html

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(注1)

実は、この「みのわ通り」の下にも、人工河川である緑川が流れており、緑川と矢川は立体交差しています。

参考:

・yunomi-chawan/俺の居場所 > 暗渠になった「緑川」 下流編(2014-11-19 00:00)
http://ricebowl.exblog.jp/21313861/

(注2)

なぜ河を治める神様が女神なのでしょうか?理由は簡単、サンスクリット語で、河(nadi नदी)は女性名詞だからです。

2015年7月25日土曜日

柱建て祭りとKumari(12) Naga Panchamiと女神Manasa

Kathmandu盆地におけるNag Panchami(नागपञ्चमी)の始まりを伝える伝説も紹介しておきましょう。

10世紀末の王Gunakamadeva(गणकाम देव)は強力な王で、Kantipur(कान्तिपुर 、現在のKathmandu)の町や多くの寺院を作り、数多くの神々の信仰を導入した、とされます。Indra Jatraを始めたのもこのGunakamadeva王です。

歴史上は立派な王ですが、伝説では魔力を持つ悪王とされます。Gunakamadeva王の悪業に怒ったNagaraja Karkotaka(कर्कोटक)は7年間雨を降らせず、Kathmandu盆地は旱魃に見舞われました。王は師であるShantashri(शान्तश्री、Shantikar Acarya शान्तिकर आचार्य)の元へ向かいアドヴァイスをもらいます。ShantashriはSwayambhu Stupaを建立した仏僧として有名です

王はKathmandu盆地に住むすべてのNagaを招き供養を行います(Nagaは招かれたわけではなく、Gunakamadeva王の魔力で無理矢理集められた、というヴァージョンもあります)。しかしこのNagaたちを統べるNagaraja Karkotakaだけはやって来ませんでした。

そこでGunakamadeva王はNagaraja Karkotakaが棲むTaudahaに赴き、ようやくKarkotakaをSwayambunathに招くことに成功します。そして雨乞いの儀式を行ったところ、ついに雨が降り出しました。

Nagarajaたちは、王とShantashriに、自らの血で描いたNagarajaの絵を渡し、「今後旱魃の際にはこの絵を拝むように」と伝えました。

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Kathmandu盆地のNaga Panchamiでは、魔除けとしてNagaの絵を家に貼ることが特徴ですが、それにはこういう由来があったのです。

上記に由来に従えば、Kathmandu盆地のNaga Panchamiは、本来雨乞いの儀式だったと思われますが、現在ではその意味合いは薄れ、Nagaのもう一つの属性「病気予防・治癒・魔除け」が祭りの主題となっています。

Nagaに雨乞いをするという古来からの儀式に、インドから入って来たNaga Panchamiという祭りとその名称がオーヴァーラップし、次第に古来の祭儀が薄れて行った、のかもしれません。

そのあたりの過程はまだまだ研究されてはいません。長い歴史を持つネパールならではの調査・研究の難しさです。

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インドでのNaga Panchamiの由来はこれとは異なっており、次のようなものです。もちろんこっちの方が本家なのですが。

話は『Mahabharata महाभारत』の時代に逆上ります。Kuru(कुरु)王Parikshit(परीक्षित्)は、Nagaraja Takshaka(तक्षक)に噛まれ死んでしまいます。その子であるJanamejaya(जनमेजय)王は、報復として数千人のバラモンと共にSarpasattra(सर्पसत्त्र)という儀式を開始。Yajnakunda(यज्ञकुण्ड)と呼ばれる拝火壇を取り囲み儀式を行うと、世界中の蛇が集まりその火に飛び込む、という強力な儀式です。

蛇たちは次々とこの拝火壇に飛び込みますが、Takshakaのみはこれを逃れてIndraの元に避難しました。しかし、Sarpasattraの力は強力で、Takshakaと共にIndraまでが火に引き寄せられます。

IndraはShivaの心から生まれた女神Manasa(मनसा)に助けを求めます。Manasaは、その子Astika(आस्तीक)をJanamejaya王のもとに派遣。AstikaはJanamejaya王の説得に成功し、ついにSarpasattraをやめさせることが出来ました。以来、Shravan(श्रावण)月(7~8月)の5日目に、女神Manasaに感謝する祭りNaga Panchamiが行われるようになった、ということです。

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ネパールとインドのNaga Panchami由来はよく似ています。後者が元ネタなのは間違いありません。

ネパールではManasaのエピソードが脱落し、王がJanamejayaからGunakamadevaに変わっています。また雨乞いの要素が加わっていることにも注目です(ただし今は薄れていますが)。

Manasaのエピソードが脱落しているのがちょっと不思議です。現在のネパールのNaga PanchamiではManasaの属性である病気予防・治癒が強調されているのですが、肝心のManasaが出てきません。

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Manasaは、Shivaの心から生まれたとされますが、Nagaraja Vasukiの妹、という出自でもあります。矛盾していますが、おそらく2系統の神格が混交しているものと見られます。

Indraが登場することに注目。おそらくKathmanduのIndra Jatraにもこの神話が影響していると思われます。Indraはここでも間抜けな役回りです。

IndraやBrahmaなどの古い神格は、時代が下がるにつれ人気がなくなっていき、このような間抜け役が振られるようになります。

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Manasaには、Shivaが毒を飲んで苦しんでいたところを解毒して助けた、という神話もあります。このエピソードから、Manasaは治療、特に蛇の毒、天然痘などの伝染病の治療の女神として崇められるようになりました。

現在のNaga Panchamiは、このManasaの属性によるところが大きく、主に魔除け、病気予防・治癒を祈る祭りとなっています。

Taudaha、Nag Daha、そしてKathmandu盆地各地のNaga Panchamiも同様で、魔除け、病気予防・治癒を祈る祭りです。ただし上記のKathmandu盆地独自の伝説に基づき、Nagaを描いた絵を家の壁に貼るところが特徴となっています。

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TaudahaのNagaraja Karkotakaは、実はRato Matsyendara Jatra、Indra Jatraでも重要な役割を担っています。それは各々の祭りについて説明するときにお話しましょう。

その前に、Kathmandu盆地と似た環境のKashmir盆地のNaga信仰、チベット文化圏でのNaga=klu信仰を見ておきましょう。

なかなかBisket Jatraに戻りませんが、まあNaga信仰の諸相を楽しく見ていきましょう。

参考:

・斎藤昭俊 (1984) 第四 インドの動物崇拝 四 蛇の崇拝. 『インドの民俗宗教』所収. pp.97-137. 吉川弘文館, 東京.
・菅沼晃・編 (1985) 『インド神話伝説辞典』. pls.+23+454pp. 東京堂出版, 東京.
・Netra B Thapa (1990) A SHORT HISTORY OF NEPAL(The Fifth Edition). xi+187pp.Ratna Pustak Bhandar, Kathmandu.
・佐伯和彦 (2003) 『ネパール全史』(世界歴史叢書). 767pp. 明石書店, 東京.
・Shapalya Amatya (2006) WATER & CULTURE. 95pp. Jalsrot Vikas Sanstha, Nepal.
http://www.jvs-nwp.org.np/sites/default/files/Number%20%2033.pdf
・Wikipedia (English) > Nag Panchami (This page was last modified on 15 April 2015, at 12:59)
https://en.wikipedia.org/wiki/Nag_Panchami
・Wikipedia (English) > Manasa (This page was last modified on 6 June 2015, at 05:38)
https://en.wikipedia.org/wiki/Manasa

2015年7月18日土曜日

柱建て祭りとKumari(11) Nagaの棲む湖TaudahaとNag Daha

Kathmandu盆地南部に位置する、Kirtipur(कीर्तिपुर)近郊のTaudaha(टौदह)湖、Dhapakhel(धापाखेल)近郊のNag Daha(नाग दह)湖は、文殊菩薩が大湖であったKathmandu盆地を干上がらせた後、Nagaの移住先として作った湖、とされています。

daha(दह)とは、ネワール語で「湖・沼」の意味。Taudahaは「大きな湖」、Nag Dahaは「蛇神の湖」になります。

どちらも湖畔にはNagaを祀った寺院があります。Taudahaには、Nagaraja Karkotakaが祀られており、Nag DahaにはNaginiが祀られています。

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さらにKathmanduの南東32kmにあるPanauti(पनौती)にはNagaraja Vasuki(वासुकि)が祀られています。ここには湖こそありませんが、Punyamata川(पुन्यमाता नदी)がRoshi川(रोशी खोला)に合流する地点に当たり、その合流部にVasuki Nag Mandirが建てられています。

TaudahaとPanautiはKathmandu盆地最大のNaga寺院で、この二つを参拝することがNaga信者(といってもNagaだけを信仰している人はいませんが)最大の功徳になるとされています。

















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TaudahaのNagarajaは、毎年5~6月に開かれるPanauti Jatraに参加するためにNagaraja Vasukiのもとを訪れる、とされます。Nag DahaはTaudahaからPanautiへの途上にあります。Taudaha Nagarajaは、行き帰りにここで宿泊し、Naginiと夜を過ごします。

これがKathmandu盆地に雨をもたらし、モンスーンの開始を告げるとされています。Naga夫婦と雨との関係の深さを教えてくれます。

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仏教徒・ヒンドゥ教徒を問わず、Taudaha、Nag Dahaへの参拝者は雨や豊作、そして病気予防・治療を祈ります。Nagaは水、雨を司る神ですから、雨乞いは参拝目的の中心になります。

しかし、TaudahaでもNag DahaでもNagaに雨乞いや豊作を祈る大きな祭りはないようです。これら寺院での最大の祭りは、Naga Panchamiになります。Naga Panchamiという祭りの主旨は、今では雨乞いではなくなっています。

Naga本来の性格は薄れてきてはいますが、Kathmandu盆地古来のNaga信仰の姿が残っている場所が、ここTaudahaとNag Dahaといえるでしょう。特にNagaが夫婦であることが最重要ポイントです。

参考:

・Shapalya Amatya (2006) WATER & CULTURE. 95pp. Jalsrot Vikas Sanstha, Nepal.
http://www.jvs-nwp.org.np/sites/default/files/Number%20%2033.pdf
・Kathmandu Metro > Culture > Siddhi B. Ranjitkar / Panauti Jatra(Issue 25, June 22, 2008)
http://104.237.150.195/culture/panauti-jatra
・ECS Nepal > Features > Amar B Shrestha / Kathmandu Valley and Its Historical Ponds (Jul.05.2010)
http://ecs.com.np/features/kathmandu-valley-and-its-historical-ponds
・ECS Nepal > Features > Ravi Shankar / NAGDAHA : A Visit to the Snake Lake (Jul.05.2010)
http://ecs.com.np/features/kathmandu-valley-and-its-historical-ponds
・ROYAL MOUNTAIN TRAVEL – NEPAL > blog > Kathmandu Valley and its Nagas (Posted on May 16, 2013)
http://royalmt.com.np/blog/kathmandu-valley-and-its-nagas/
・Wikipedia (English) > Nagdaha (This page was last modified on 4 August 2014, at 23:24.)
https://en.wikipedia.org/wiki/Nagdaha
・Deepak Rauniyar / Nepal temples > TEMPLES IN KATHMANDU >Taudaha nag raja (as of 2015/07/12)
http://www.trynepal.com/nepaltemples.com/?p=221

2015年7月15日水曜日

柱建て祭りとKumari(10) Kathmandu盆地のNaga神話

Kathmandu盆地は太古の昔には湖であった、という伝説が残っています。地質学的に見てもそれは間違いありません。

2015年4月26日日曜日Kathmandu盆地の地質と断層

を参照のこと。

が、それは数万年前の話で、その事実を人類が伝説として語り継いだとも思えません。おそらく盆地地形とその堆積物から推測したものでしょう。その名残である湖や沼などもそちこちに残っていますしね。

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Kathmandu盆地の場合は、湖の神話はすっかり仏教化されています。

Swayambhunath Stupa(स्वयम्भूनाथ स्तुप)あるいはSwayambhu Mahacaitya(स्वयम्भू महाचैत्य)の縁起文である

・Unknown(15-16C)『Swayambhu Purana स्वयम्भू पूराण』.

が伝える神話を見てみましょう。

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太古の昔、Kathmandu盆地はKalihradという湖であり、その湖を支配していたのは蛇神Nagaでした。複数のNagarajaがおり、Karkotaka(कर्कोटक)、Takshaka(तक्षक)、Kulika(कुलिक)が棲んでいたといいます。文殊菩薩(Manjushri मञ्जुश्री)がこの地を訪れ、その湖から光が放射されているのを見て、南の山を切り開いて排水。そして現れた光の丘が今のSwayambhunath(स्वयम्भूनाथ )です。

盆地が干上がるとNagaたちは住めないので、文殊菩薩が南に湖を作りそちらに移住した、ということになっています。

Swayambhunathの縁起はまだまだ続くのですが、ここではNagaの話題に集中するためここまで。

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現在のKathmandu盆地では、Naga信仰は大きな勢力ではありません。せいぜい病気予防・治癒を願う祭りNaga Panchamiで注目されるくらいですが、これはNagaの持つ属性の中でもごく一部に注目した祭りです。

Naga本来の属性は水・雨・豊穣を司ることです。これらをNagaに願う信仰は、そちらの湖周辺に残っており、古来の姿をとどめています。

次回はその姿を見ます。これがBisket Jatra、Rato Matyendra Jatra、Indra Jatra解明への大きなヒントになります。

参考:

・斎藤昭俊 (1984) 第四 インドの動物崇拝 四 蛇の崇拝. 『インドの民俗宗教』所収. pp.97-137. 吉川弘文館, 東京.
・Richard Josephson (after 1985) SWOYAMBHU HISTORICAL PICTORIAL. xv+63pp. Satya Ho, Kathmandu.
・Netra B Thapa (1990) A SHORT HISTORY OF NEPAL(The Fifth Edition). xi+187pp.Ratna Pustak Bhandar, Kathmandu.
・佐伯和彦 (2003) 『ネパール全史』(世界歴史叢書). 767pp. 明石書店, 東京.

2015年7月11日土曜日

柱建て祭りとKumari(9) Naga信仰と聖樹信仰

インドにおけるNagaと樹木信仰との関係については、早くも19世紀にJames Fergussonが以下の大著で述べています。

・James Fergusson (1868) TREE AND SERPENT WORSHIP: OR ILLUSTRATIONS OF MYTHOLOGY AND ART IN INDIA IN THE FIRST AND FOURTH CENTURIES AFTER CHRIST FROM THE SCULPTURES OF THE BUDDHIST TOPES AT SANCHI AND AMRAVATI. xii+247pp.+pls. India Museum, London.
https://archive.org/details/jstor-3025152

ところが、これは大変に冗長な本で、大著のわりには民間信仰については論考が浅く、Nagaと樹木信仰の関係も理解しづらい。この本はやはり、SanchiやAmarvatiのStupaを扱ったインド建築・美術(特に彫刻)の本なのです。

とはいえ、これは19世紀半ばの本なのですから、まあそんなに期待してはいかんのですけど。こんな希少本がネット上でただで読めるだけでも感謝しなくてはいけませんね。

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Nagaについては、むしろ民族学・宗教学の専門家William Crookeの論考の方が役に立ちます。

・William Crooke (1894) AN INTRODUCTION TO THE POPULAR RELIGION AND FOLKLORE OF NORTHERN INDIA. ii+420pp. Allahabad.
https://archive.org/details/anintroductiont01croogoog
・William Crooke (1908) Serpent - Worship (Indian). IN : James Hastings (ed.) ENCYCLOPÆDIA OF RELIGION AND ETHICS VOLUME XI SACRIFICE – SUDRA. pp.411-419. Charles Scribner's Sons, New York.
https://archive.org/details/encyclopaediaofr02hast

この本で、インドでは樹木の下にNega像あるいはその祠が祀られていることを報告しています。ちょうどこんな感じ。

・Khandoma / india mike > images > Tree opposite Kondarma temple, Hampi (on Dec 23, 2007)
http://www.indiamike.com/india-images/pictures/tree-opposite-kondarma-temple-hampi
・Wikimedia Commons > Dineshkannambadi / File:Vijayanagar snakestone.jpg (21:40, 8 November 2011)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vijayanagar_snakestone.jpg
・BSV Prasad / BSV Prasad's Blog > Girivalam (Posted on 30/11/2013)
https://bsvprasad.wordpress.com/2013/11/30/girivalam/
・Quora > Why do Hindus worship the snake and what does sarpa dosha mean? > Dharma Somashekar / In vedic school (hinduism) Sarpa (snake) is used to express the flow/wave of Energy (Written 20 Mar, 2014)
http://www.quora.com/Why-do-Hindus-worship-the-snake-and-what-does-sarpa-dosha-mean
・Jayaram V / Hinduwebsite.com > Hinduism > Symbolism > The Symbolism of Snakes and Serpents in Hinduism (as of 2015/06/14)
http://www.hinduwebsite.com/buzz/symbolism-of-snakes-in-hinduism.asp

これらはほとんどが南インドの例です。Naga信仰は、今では南インドに色濃く残っていることがうかがえます。

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北インドではどうなっているのかというと、Nagaだけを祀った樹下祠堂は私は見かけたことはないのですが、根元が赤く塗られたり、旗や華鬘が飾られた樹木はいたるところで目にします。聖樹信仰はインド全土で今も健在です。

北インドでは、Shiva像やそのシンボルTrishul(त्रिशूल)、Ganesh、サイ・ババなどの聖者の絵が一緒に祀られている場合が多く、聖樹信仰は今では様々な信仰と結びついていることがわかります。

Naga像はその一端にひっそりと祀られています。北インドではNagaと聖樹の結びつきは南インドほど強くはないようです。

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FergussonやCrookeの論考を読んでも、Naga信仰と聖樹信仰の関係はあまりよくわかりません。実際、この関係はその後もあまり注目されていません。しかしこちらの著作、

・jayasree / Non-random-Thoughts > From Indus Proto-Siva to Celtic Cernunnos (SATURDAY, SEPTEMBER 29, 2012)
http://jayasreesaranathan.blogspot.jp/2012_09_01_archive.html

の中程によくまとまっていますのでご覧ください。

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Nagaは水を司る神です。よく成長した樹木の地下は水が豊富な場所です。この関係でNagaと聖樹信仰が結びついたものと思われます。

しかしこの関係は、現在では他の神々の信仰に押され、インド本土(特に北インド)では顕著ではなくなってきている感があります。水が豊富なインドでは仕方ない気もします。

しかし、後述しますが、一転水に乏しいチベット文化圏ではこの聖樹とNagaの結びつきは依然強いままです。

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聖樹信仰と結びついた神格はNagaだけとは限りません。

ピッパル(pipal पीपल、インドボダイジュ)の木はBrahmaあるいは釈尊と、バニヤン(vata वट、ベンガルボダイジュ)とトゥルスィー(tulsi तुलसी、シソの仲間)はVishnuと、ニーム(nimba निम्ब、インドセンダン)は様々な女神たちと結びついています。

古代インドでは、樹木信仰はバラモン教パンテオンに属さない土着の精霊であるYaksha(यक्ष、夜叉)やYakshi/Yakshini(यक्षी/यक्षिणी、夜叉女)と結びついていました。

今ではヒンドゥ教パンテオンの外に置かれるこれらYakshaは、元来土地神であり、祖霊神でもありました。Yakshaが豊穣をもたらす神として、聖樹と結びつくのは必然でした。

Sanchi StupaやAmravati Stupaの彫刻には、これらYakshaやYakshiniの彫刻が聖樹と共に多数見られます。Sanchi Stupaの第一塔東門の「樹下ヤクシー像」は最も有名な図像でしょう。

・神谷武夫 / 建築家 神谷武夫とインドの建築 > ユネスコ世界遺産 > サーンチー 古代の仏教遺跡 >第 1ストゥーパの東トラナにおける 「樹下ヤクシー像」 (as of 2015/06/14)
http://www.kamit.jp/02_unesco/01_sanchi/xsanchi_6.htm

今でも、聖樹とともに祀られている石像の中には、なんだか正体がわからない神格もたくさん並んでいますが、それらはおそらく土着のYakshaやYakshiなのでしょう。

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Nagaは、こういった土着のYaksha/Yakshiと同じような地位に置かれ、水と司る神として、そしてひいては豊穣を司る神として、聖樹信仰と結びついています。ただし、その関係は現在ではあまりはっきりとした形では現れてはいません(特に北インドでは)。

そういうわけで、Naga信仰と聖樹信仰の関係を述べている論考もあまり多くありません。私の認識も、文献を読んで得たものではなく、現地でたびたび聞いて培われたものです。その現地は、実はインド本土ではなくチベット文化圏なのですが。これも後述。

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北インド周辺でもNaga信仰の痕跡が色濃い場所があります。Nepal Kathmandu盆地とKashmir盆地です。どちらもかつては湖だった場所です。

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その他の参考:

・斎藤昭俊 (1984) 第三 インドの樹木崇拝. 『インドの民俗宗教』所収. pp.57-84. 吉川弘文館, 東京.
・宮治昭 (1999) 聖樹信仰と仏教美術. 『仏教美術のイコノロジー インドから日本まで』所収. pp.78-109. 吉川弘文館, 東京.
←原版:宮治昭 (1994) インドの聖樹信仰と仏教美術(I). 田島敏堂・編 『開発における文化(2)』(名古屋大学大学院国際開発研究科平成五年度共同研究報告書/開発叢書5)所収. 名古屋大学大学院国際開発研究科, 名古屋.

2015年7月4日土曜日

柱建て祭りとKumari(8) 東南アジア・中国・チベットのNagaと龍

Naga信仰の伝統は、インドのみならず、東南アジアから中国南部にまで広がっています。

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東南アジアでも、Nagaはそのままの名で呼ばれています。インドから東南アジアへ流入した仏教・ヒンドゥ教の影響が強いことが特徴です。乳海攪拌、釈尊を庇護するNagarajaの図像は、東南アジアでも人気があります。

東南アジア土着のNaga信仰もあると思われますが、今回は調べきれませんでした。

降水量が多く、水の豊富な東南アジアでも、Nagaはやはり水を司る神として崇められています。図像的には、中国から伝わった龍が少し混入してきているのも特徴です。

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古代中国では、伏羲、女媧という蛇身の神が信仰されていました。どうもこの神々は、元来中国南部(特に苗族)の神らしいのですが、今では中国神話のパンテオンの中に組み込まれています。

五帝(黄帝・顓頊・帝嚳・帝堯・帝舜)の前に置かれる三皇には、神農に加え、伏羲と女媧が入ります(注1)。

『史記』三皇本紀などによると、伏羲は八卦・書契・婚礼を定めた文化英雄です。女媧は楽器を作り、共工が破壊した天を補修したり、人類を創造したことになっています。

しかしその原型は、Nagaと同じく水の神だったと考えられます。伏羲と女媧は、南方の神話では洪水神話と共に登場し、兄妹であり夫婦でもある人類の祖です。

伏羲と女媧は古くから中国の画像石に描かれてきました。その姿は尾を絡み合わせた「蛇の交尾の姿」です。これはインドのNagaも同じであり、両者の源流が同じものであることを示しています。

・Sampradapa Sun > Features > January 2007 Sasanka S. Panda / Nagas in Early West Orissan Temples, Part 2.
http://www.harekrsna.com/sun/features/01-07/features525.htm
・老醫之家 Old Doc Wu's Home > 台灣癌症防止網 > 樊聖 / 一條蛇 両條蛇?(as of 2015/07/03)
http://www.tmn.idv.tw/tcfund/magazine/SNAKE.HTM

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南アジア~東南アジア~南中国にまで広がりを見せるNaga信仰は、アジアの文化・宗教の最古層を形成していると思われますが、その伝播過程や時期についてはあまり研究は進んでいません。

個人的には、オーストロアジア系民族(注2)の歴史が鍵を握っている、と考えてはいるのですが、東南アジアの歴史・民族については弱いので、今のところ思っているだけ。

参考:

・司馬貞 (唐代) 三皇本紀.
→ 邦訳 : 司馬遷, 野口定男ほか・訳 (1958) 『史記 上』(中国古典文学全集4)所収. pp.3-5. 平凡社, 東京.
・村松一弥 (1965) 中国創世神話の性格 女媧にことよせて. 文学, vol.33, no.6 [1965/06], pp.570-579.
・白川静 (1975) 『中国の神話』. 308pp. 中央公論社, 東京.
→ 再発 : (1980) (中公文庫し20-1) 310pp. 中央公論社, 東京.
・聞一多, 中島みどり・訳注 (1989) 伏羲考. 『中国神話』(東洋文庫497)所収. pp.11-139. 平凡社, 東京.
← 中国語原版:(1948) 『聞一多全集 第四冊 神話与詩』所収. 開明書店, 上海.
・袁珂, 鈴木博・訳 (1999) 『中国神話・伝説大事典』. xii+785pp. 大修館書店, 東京.
← 中国語原版:(1985) 『中国神話傳説詞典』. 上海辞書出版社, 上海.
・ABE Thoru / 幻想山狂仙洞 > 幻想之中国 > 三皇五帝関連人物リスト (as of 2015/07/03)
http://homepage3.nifty.com/kyousen/china/3k5t/

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中国では、北方に起源を持つ龍と南方に起源を持つNaga(蛇神)が混交し、「龍神」という神格になっています。そもそも雷・雲との関係が深く、空に住まう龍と、地上・地下の水に住まうNagaは全く別でしたが、いつのころか蛇形の両者がごっちゃになり、龍神が地上の水にも住まうとされるようになりました。

日本に入って来た龍神はこの混交後の姿です。

中国では、神性を龍神に剥ぎ取られたNaga(蛇神)は、水に住まい人に悪さをする魔物として民間に生きながらえます。「白蛇伝」がその代表例と言えるでしょう。

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龍とNagaが混交して龍神になってしまった中国に対し、「龍の本場=中国」と「Nagaの本場=インド」の中間に位置するチベットでは、両者ははっきり区別されています。

チベットではNaga=ཀླུ་ klu(ル)、龍=འབྲུག 'brug(ドゥク)です。ルは地下~水底、ドゥクは空中(雷雲)と住処もはっきり区別されます。

参考:

・Giuseppe Tucci (1949) Appendix Two : On the Genealogies of Tibetan Nobility. IN : TIBETAN PAINTED SCROLLS II. pp.711-738. Libreria dello Stato, Roma.
→ 再発 : (1980) 臨川書店, 京都.

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カギュパ(བཀའ་བརྒྱུད་པ་ bka' brgyud pa)の一派であるドゥクパ(འབྲུག་པ་ 'brug pa)は、開祖ツァンパ・ギャレー・イェシェ・ドルジェ(གཙང་པ་རྒྱ་རས་ཡེ་ཤེས་རྡོ་རྗེ་ gtsang pa rgya ras ye shes rdo rje)[1161-1211]が、ウー(དབུས་ dbus)地方で僧院を建てる場所を探していたところ、九頭の龍が現れ空に消えていったことを吉兆として、宗派名として採用したものです。実際は雷に遭遇し、激しい稲妻を見たのだと思われます。

開祖ツァンパ・ギャレーの転生者がドゥクチェン・リンポチェ(འབྲུག་ཆེན་རིན་པོ་ཆེ་ 'brug chen rin po che)です。ツァンパ・ギャレーを1世とし、現在は12世ジグメー・ペマ・ワンチェン(འཇིག་མེད་པདྨ་དབང་ཆེན་ 'jig med padma dbang chen)[1963-]。

ドゥクチェン4世ペマ・カルポ(པདྨ་དཀར་པོ་ padma dkar po)[1527-92]は『ཀུན་མཁྱེན་པདྨ་དཀར་པོའི་གསུན་འབུམ། kun mkhyen padma dkar po'i gsun 'bum/(ペマ・カルポ全集)』や『ཆོས་འབྱུང་བསྟན་པའི་པདྨ་རྒྱས་པའི་ཉིན་བྱེད། chos 'byung bstan pa'i pad+ma rgyas pa'i nyin byed/(仏教弘通史であるところの蓮華を咲かせる太陽/ペマ・カルポ仏教史)』の著者としても有名な大学僧でしたが、その死後、名跡争いが発生します。

ドゥクチェン5世として認定されていたはずのンガワン・ナムギャル(ངག་དབང་རྣམ་རྒྱལ་ ngag dbang rnam rgyal)はこの名跡争いに敗れ、現在のブータンに落ち延び新しい国を作ります。

ドゥクパ別派が建てた国だから、ブータンの自称は「ドゥク・ユル འབྲུག་ཡུལ་ 'brug yul(龍雷の国)」なのです。

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チベットの龍=ドゥクの話に脱線しまいましたが、蛇神=ルの話は後ほどもう少し詳しく。

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(注1)

三皇にどの神が入るかについては諸説紛々。

伏羲・女媧・神農
天皇・地皇・人皇
燧人・伏羲・神農

など。

「三皇」という数だけが先行し、その内容は希薄だったことがわかります。なお、『史記』の「三皇本紀」は、唐代に司馬貞が付け加えたもの。司馬遷は「三皇」を歴史とは考えていませんでした。

(注2)

オーストロアジア系民族に属するのは、インドのムンダ系民族(サンタル人や)、東南アジアのモン・クメール系民族やベト・ムオン系民族。

「ベトナム語は中国語の方言」と思っている人もいるかもしれませんが、実はオーストロアジア語族に属し、中国語とは全く異なる言語です。

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追記@2015/07/07

参考文献に、聞(1989)、袁(1999)を追加した。

2015年6月21日日曜日

柱建て祭りとKumari(7) インドのNaga信仰

Naga/Nag(नाग)とはインドにおける蛇形の神のことです。女性形はNagi(नागी)あるいはNagini(नागिणी)。ここでは主にNaga、Naginiを使います。

蛇の中でも特にコブラを指し、その姿(多頭であることも多い)で表されることが多いようです。しかしコブラ形ではない普通の蛇の姿も一般的です。特に、コブラが存在しないチベット~ヒマラヤ方面では当然そうなります(注1)。

擬人化されて上半身が人間、下半身が蛇の姿で表現されることが多い。特に仏教では、そのような姿で描かれることがほとんどです。

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Naga信仰は古くからインド亜大陸に存在する信仰形態で、インダス文明の印章にも、すでにNagaらしき姿が見えます。

参考:

・Santanam Swaminathan / Tamil and Vedas : A blog exploring themes in Tamil and vedic literature > Serpent Queen : Indus Valley to Sabarimalai (JUNE 17, 2012)
http://tamilandvedas.com/2012/06/17/serpent-queenindus-valley-to-sabarimalai/

バラモン教が支配していたヴェーダ時代には、聖典Veda(वेद)にNagaの姿は現れません(注2)。

Naga信者は、ヴェーダに従わない化外の民とみなされていました。おそらくその担い手は非アーリア人であるDravida(द्राविड)人やヒマラヤ南縁のモンゴロイドたちと考えられます。

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『Mahabharata(महाभारत)』の頃から、Nagaは徐々にヒンドゥ教の神話体系に組み込まれ始め、半神半魔として扱われます。

地下で世界を支え、ひいては眠るVishnuを支えるAnanta(अनन्त)/Sheshanaga(शेषनाग)、撹拌棒マンダラ山(मण्डल)に巻き付いて乳海撹拌(समुद्रमथन Samudramanthana)を助けたVasuki(वासुकि)などは、Nagaraja(नागराज、Nagaの王)と呼ばれ、ヒンドゥ教神話で重要な役割を果たします。

参考:

・Pradeep S Bhat / Ink Your Thoughts > The Supreme God - Lord Vishnu (Sunday, December 25, 2011)
http://pradeepsbhat1987.blogspot.jp/2011/12/supreme-god-lord-vishnu.html
・Sampradapa Sun > Features > AUGUST 2013 : Samudra Manthan - The Churning of the Milk Ocean / Samudra Manthan - The Churning of the Milk Ocean, Part Two (2013/08)
http://www.harekrsna.com/sun/features/11-08/features1193.htm
http://www.harekrsna.com/sun/features/08-13/features2907.htm

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また、Vasukiの妹で、病気治療を司るManasa(मानस)はNaga Panchamiの祭りの主役であり、こちらもすっかりヒンドゥ教体系に組み込まれています。

参考:

・Swami Satyananda Saraswati / Experience the Bliss of the Divine Mother > It's Nag Panchami — offer your pranams to Manasa Devi ! (Photo of the week – Aug 17 – Aug 23 2007)
http://www.shreemaa.org/its-nag-panchami-offer-your-pranams-to-manasa-devi/
・IndiaNetzone > Art & Culture > Religious Iconography In India > Iconography Of Manasa (Last Updated on : 03/02/2010)
http://www.indianetzone.com/43/iconography_manasa.htm

ずっと先のお話の種明かしをしてしまうことになりますが、実は、このManasaの図像、ネパールのKumariの姿に大きな影響を与えています。

ManasaとKumariはよく似ていますよね。赤を基調とした衣装、額にある縦型の目、蛇のネックレスなど。

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Shivaが首にコブラを巻いている姿も有名な図像。

参考:

・4to40 > Culture > Hindu Culture > Who is Shiva ? : What does Shiva look like ? (Last Updated On: Thursday, January 29, 2009)
http://www.4to40.com/culture/index.asp?p=Who_is_Shiva

Nagaは、現在のヒンドゥ教の主流Shiva派、Vishnu派双方に取り込まれていることになります。

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しかし、古来より民間で信仰されているNagaは、そういった華々しいエピソードを持たない素朴な蛇神です。

このNagaは、水・地下を司る神であり、その住処は地下あるいは水底にあるとされます。

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他にもNagaの役割は多数あり、Nagaの起源が多元的であることがうかがえます。ここでは上述の「水を司る」という役割に注目し、その他の役割については以下に列記するに留めます。

(01) 不老不死の象徴(脱皮を繰り返し、永遠に生きると信じられていた)
(02) 水・雨を司り、川・泉・湖に住む
(03) 祖霊の化身として、地下に住む
(04) 氏族の始祖・トーテムとして崇められる(नगवंश Nagavansh)
(05) 宝蔵神として、地下に住む
(06) 家の守護神
(07) 病気を司り、病原・治療の両面を支配する(特にハンセン氏病)、Naga Panchami(नागपञ्चमी)はNagaに病気の予防・治癒を祈願する祭り
(08) 王族を庇護する
(09) 釈尊、そして仏法の庇護者(おそらくバラモン教に従わない、Naga信仰の周辺民族を教化したことを象徴している)

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Nagaは水を司っていることから、天候、特に雨と関連づけられるようにもなりました。

天候、特に降水量の多寡は農作物の作況を左右するもっとも重要な要素です。このため、Nagaはさらに豊穣を司る神ともみなされるようになります。

Nagaがネズミなどからの食害を防いでくれる、あるいは家畜を守る、と信じられ、豊穣と関係づけられている地方もあります。

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北インドSankashya(साङ्काश्य、僧伽施)国の仏教僧院(注3)での、豊穣神Nagaの功徳、その供養の様子は、5世紀の求法僧・法顕が『法顕伝』で伝えています(長沢訳1971, 斎藤1984)。

Sankashyaでは、耳の白いNagaが豊穣神として、ヒンドゥ教徒・仏教徒を問わず崇められていました。Nagaを祀った寺院には、仏教僧が供養を行っています。夏安居の後にはNagaは小蛇の姿をとって現れ、僧たちはこの小蛇にヨーグルトを施します。

このあたりの描写は、Nagaが地元の住民たちに愛されている様子が伺え、なかなかにほのぼのしますね。

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20世紀におけるインド各地のNaga信仰の諸相は、Crooke(1894, 1908)(追記参照)や斎藤(1984)に詳しく記述されています。斎藤はCrookeをかなり参考にいるようです。

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参考:

・法顕 (東晋416) 『法顕伝(仏国記)』
→邦訳 : 法顕・著, 長澤和俊・訳 (1971) 法顕伝. 『法顕伝・宋雲行紀』(東洋文庫147)所収. pp.1-150. 平凡社, 東京.
・William Crooke (1894) AN INTRODUCTION TO THE POPULAR RELIGION AND FOLKLORE OF NORTHERN INDIA. ii+420pp. Allahabad.(追記参照)
https://archive.org/details/anintroductiont01croogoog
・William Crooke (1908) Serpent-Worship (Indian). IN : James Hastings (ed.) ENCYCLOPÆDIA OF RELIGION AND ETHICS VOLUME XI SACRIFICE – SUDRA. pp.411-419. Charles Scribner's Sons, New York.
https://archive.org/details/encyclopaediaofr02hast
・佐和隆研・編 (1975) 『密教辞典』. VI+730+176pp. 法藏館, 京都.
・斎藤昭俊 (1984) 第四 インドの動物崇拝 四 蛇の崇拝. 『インドの民俗宗教』所収. pp.97-137. 吉川弘文館, 東京.
・菅沼晃・編 (1985) 『インド神話伝説辞典』. pls.+23+454pp. 東京堂出版, 東京.
・中村元・編著 (1988) 『図説 仏教語大辞典』. 760pp. 東京書籍, 東京.
・上村勝彦 (2002) ナーガ. 辛島昇ほか・監修 『新訂増補 南アジアを知る事典』所収. pp.505-506. 平凡社, 東京.
← 初出 : 辛島昇ほか・監修 (1992) 『南アジアを知る事典』. 平凡社, 東京.
・那谷敏郎・文, 大村次郷・写真 (2000) 『龍と蛇<ナーガ> 権威の象徴と豊かな水の神』(アジアをゆく). 117pp. 集英社, 東京.
・中村元ほか・編 (2002) 『岩波仏教辞典 第二版』. 141+1246pp. 岩波書店, 東京.
・Gabriel H. Jones (2010) Snakes, Sacrifice and Sacrality in South Asian Religion. Ottawa Journal of Religion, vol.2 [fall 2010], pp.89-117.
http://artsites.uottawa.ca/ojr/doc/OJR-Issue-2-2010.pdf
→ Revised with additional figures : academia.edu > Gabriel E. Jones > Publications : Snakes, Sacrifice and Sacrality in South Asian Religion. 33pp.(as of 2015/06/20)
https://www.academia.edu/214002/Snakes_Sacrifice_and_Sacrality_in_South_Asian_Religion

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(注1)

まあ、チベット高原には、実は蛇はほとんどいないんですが(笑)。その代わりにトカゲ(རྩངས་པ་ rtsangs pa)がその関係者とされています。さすがにトカゲ自体をNaga/kluと呼ぶことはなく、「kluの使い」とされています。

(注2)

『Rigveda(ऋग्वेद)』には、Indraの宿敵としてVritra(वृत्र)という怪物が登場します。

このVritraをNagaの一種とみなす説がありますが、Vritraは天災(旱魃、洪水、嵐)を象徴するもので、Nagaよりも中国の龍や西洋のdragonに近い存在です。

その異名Ahi(अहि)は、現在は「蛇」と訳されますが、本来「雲」を意味します。やはり中国の龍に近い性格を持っていることがわかります。

また、Vritraの同族Arbuda(अर्बुद)は、できもの・はれものを意味し、こちらも厄災を象徴したものです。これの漢訳音写が「頞部陀」。「あばた」の語源です。

(注3)

Sankashyaは、釈尊がTrayastrimsha Loka(त्रायस्त्रिंश लोक 忉利天/三十三天)に上り母親Maya(माया 摩耶夫人)に説法を行った後に、Indra(帝釈天)、Brahma(梵天)と共に地上に降り立った場所とされています(従三十三天降下/三道宝階降下)。

Maurya朝のAshoka王がここを訪れ石柱・僧院を建てました。その僧院の盛時の様子は、南北朝代の法顕(『法顕伝』)、唐代の玄奘(『大唐西域記』、『大慈恩寺三蔵法師伝』)が詳しく伝えています。法顕は「僧伽施」と、玄奘は「劫比他(कापित्थिका  Kapitthika)」と記録。

現在の地名はUttar Pradesh州Sankisa(संकिसा)。仏跡は廃墟と化し、Stupa跡や柱頭などが残るのみですが、地元の仏教徒により小さな寺院やStupaが建てられています。

2015年1月末にダライ・ラマ法王が55年ぶりに訪問され、法要・法話会を開かれたニュースを聞いて、この場所を再認識された方も多いのではないでしょうか。

参考:

・HIS HOLINESS THE14TH DALAI LAMA OF TIBET > News > More News : News Archive > 2015 January > Arrival in Sankisa 30th January 2015 / > 2015 February > Reading the Dhammapada in Sankisa 1st February 2015 / > 2015 February > Concluding the Dhammapada Teaching in Sankisa 1st February 2015 (as of 2015/06/21)
http://www.dalailama.com/news/post/1229-arrival-in-sankisa
http://www.dalailama.com/news/post/1230-reading-the-dhammapada-in-sankisa
http://www.dalailama.com/news/post/1231-concluding-the-dhammapada-teaching-in-sankisa
・ダライ・ラマ14世法王猊下 > フォトギャラリー > アルバム一覧を見る > インド、サンキサ仏塔ご訪問 2015年1月30日/インド、サンキサ法話会 2015年1月31日/インド、サンキサご訪問 最終日 2015年2月1日(as of 2015/6/21)
http://www.dalailamajapanese.com/gallery/album/0/491
http://www.dalailamajapanese.com/gallery/album/0/492
http://www.dalailamajapanese.com/gallery/album/0/493

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(追記)@2015/06/25

文献にCrooke(1894)を追加した。

2015年5月31日日曜日

柱建て祭りとKumari(6) lyesing dha:の意味

Bisket Jatraの柱yosinの別名lyesing dha:を調べてみましょう。

まず、わかりやすい「sing」から。これは前回の「sima(木)」と同じとみてよいでしょう。

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その前にくっつく「lye」ですが、Bhuju(2010)では、「lye」そのものはありません。似たような単語を探してみましょう。

似たような単語はたくさんあるのですが、

(1a) choose  VI  ल्यये  lyaye
(1b) elect  VT  ल्यये  lyaye

(2) harvest  VT  लये  laye

これら2群を挙げれば充分でしょう。

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(1)だとすると、「lyesing」=「選ばれた木」という意味になります。

もし正しければ、祭儀のために森から木を選び、伐採して柱に仕立てたことを表現した用語になるかと思います。

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それよりも(2)案の方が断然魅力的です。(2)だとすると、「lyesing」=「収穫の木」という意味になります。

「木から収穫物が得られる」という意味ではなく、「収穫をもたらしてくれる木」という意味でしょう。

(2)の可能性の方が高いと思いますが、正確なところは地元の人に訊かないとわかりません。

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「dha:」ですが、これは

god N  द्यः  dyah

で問題なし。インド・アーリア語のdevaがなまってネワール語化したものです。似たような単語に「deo」というのもあります。

この単語はBunga Dyahなど、ネワール語の神の名でよく出てきます。

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まとめると「lyesing dha:」=「収穫の木の神」となります((2)の意味だったとして)。

「yosin」、「lyesing dha:」を合わせて考えると、Bisket Jatraの柱は「収穫を願い、これを叶えてくれる樹神」ということになるでしょう。

Bisket Jatraの現在の祭儀や伝わっている縁起からでは全くわからない、聖樹信仰の姿が浮かび上がってきました。

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これは、前述のBisket Jatraの縁起とはだいぶ違う印象です。「悪役蛇退治を記念する祭り」と「樹神への豊穣祈願の祭り」とでは、祭りの主旨は全く違うように見えます。

しかしこの間に、ある存在を咬ませると解釈は容易になります。現在のBisket Jatraでは巧妙に隠蔽されている、その存在とは「Naga」。

2015年5月27日水曜日

柱建て祭りとKumari(5) yosinの意味

・Sabin Bhuju / NewaWiki Dhuku : English - Nepal Bhasa Dictionary ver 1.0.01 (release date 2010-11-05) 332+pp.
http://np.com.np/nbd

を使って、Bisket Jatraの柱yosin、lyesing dha:の意味を調べてみましょう。

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まずはyosinから。

sinは簡単です。

tree  N  सिमा  simā

に間違いありません。

これはチベット語「ཤིང་ shing木」と同源の単語ですね。さすがチベット・ビルマ語系の親戚同士。

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次にyoですが、

interest  N  यो  yo

という単語が見つかります。「yosin」で「興味の木」。でも、これではなんだかわかりませんね。

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関連していそうな単語を他にも探しましょう。

Newar語では、単語の語末子音が消滅し長母音化する傾向にあります。例えば、

नेपाल भाषा Nepal Bhasa → नेवाः भाय्  Newa: Bhay

といった具合です。

yoも語尾子音が消滅、あるいは省略されたものと考えてみましょう。

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ability  N  याये  yaye
ability  N  योग्यता yogyata
able  A  योग्य yogya
adapt  VT  योग्ययाये yogya yaye
adequate  A  योग्य yogya
advisable  A  योग्य yogya
appropriate A  योग्य yogya
apt  A  योग्य yogya
aptitude  N  योग्यता yogyata
attainment  N  योग्यता yogyata
becoming  A  योग्य yogya
behove  VT  योग्य जुये yogya juye
beneath  Prep  योग्य मजुगु yogya majugu

「できる」「適合させる」「適切な」「なる」「望ましい」「達成」「の下」といった意味が出てきます。

何やら姿が見えてきました。

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もう一つ

・寺西芳輝 (2004) 『話せるネワール語会話(ネパールの民族語)』. 157pp. 国際語学社, 東京.

も引いておきましょう。

「好き」とあります。

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もうわかりましたね。「yosin」は「願いを叶えてくれる樹」=「如意樹(कल्पवृक्ष Kalpavriksha)」なのです(注)。

スペルは योसिम あるいは योसिं になるでしょうかね。

次回はもう一つの方「lyesing dha:」を調べてみましょう。

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(注)

Kalpavrikshaは、Kalpataru(कल्पतरु)、Kalpadruma(कल्पद्रुम)、Kalpapadapa(कल्प पादप)とも呼ばれます。漢名は、音訳の「劫波樹」と意訳の「如意樹」。

乳海攪拌の際に大海に生じた香樹Parijata(पारिजात)を、Indraが天界の庭Nandanavana(नन्दनवन)に移しました。この樹を崇拝するものは、あらゆる願いが叶うとされます。願いの内容は財産、幸運といった現世利益。

また、Shivaの妻Parvati(पार्वती)が娘の誕生をKalpavrikshaに願い、娘Ashokasundari(अशोकसुंदरी)を得た、ともされます(『Padma Purana पद्म पुराण』)。

この如意樹は、具体的にはBanyan(वट Vata)樹をモデルにしているようです。

参考:

・斎藤昭俊 (1984) 第三 インドの樹木崇拝. 『インドの民俗宗教』所収. pp.57-84. 吉川弘文館, 東京.
・菅沼晃・編 (1985) 『インド神話伝説辞典』. pls.+23+454pp. 東京堂出版, 東京.
・宮治昭 (1999) 聖樹信仰と仏教美術. 『仏教美術のイコノロジー インドから日本まで』所収. pp.78-109. 吉川弘文館, 東京.
←原版:宮治昭 (1994) インドの聖樹信仰と仏教美術(I). 田島敏堂・編 『開発における文化(2)』(名古屋大学大学院国際開発研究科平成五年度共同研究報告書/開発叢書5)所収. 名古屋大学大学院国際開発研究科, 名古屋.
・Wikipedia (English) > Kalpavriksha (This page was last modified on 13 April 2015, at 05:40)
http://en.wikipedia.org/wiki/Kalpavriksha

2015年5月23日土曜日

Devanagari文字入力方法とスペル調べ

仏教学やインド学を専門としていらっしゃる方々には、何の役にもたたない内容ですが、私のような一介の町民向けの内容ということで。

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ヒンディ語、サンスクリット語などを表記するDevanagari文字を打ち始めたのは2000年頃でした。

当時はパソコンでDevanagari文字を入力する環境は貧弱なものでした(私の環境は今もですけどね)。

DevanagariおよびDevanagari Newというフォントをダウンロードして打ち始めたのですが、このフォントのコードの割り振りは独自のものでした。

そこで、このフォント用にキーを割り振る必要があります。それがこれ。










一般的な地名や寺院名を打つくらいでしたら、これで充分でした。Himachal Pradeshのガイドブック(毎度おなじみのボツのやつね)はこれで全部Devanagariを打ちましたが、特に困ることはなかったと思います。

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その後しばらくはDevanagariを打つ機会はなかったのですが、そのうちにUnicodeにもDevanagariが配されていることを知り、Unicode表から拾ってチョロチョロ打ったりしていました。

よく使うフォントであるMS Pゴシック、Arial、Times New Romanなどは、みなDevanagari Unicodeに対応していますから、日本語や英語を入力していてDevanagariを挟むときでも、いちいちフォントを変える必要もなく、なかなか使い勝手が良い。

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でも、コード表から拾っているだけですと、結合文字などは打てませんし、限界があります。

Unicode Devanagari用キーボード配列などもありますが、ソフトも入れなくちゃならないしちょっと鬱陶しい。

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そこで、もっとお手軽に、そう、Web上で変換してくれるようなサイトはないもんか?と探していたら、ありました。

・Ashesh / Ashesh's Blog > WEB APP & SERVICES : Nepali Unicode(before 2014/02)
http://www.ashesh.com.np/nepali-unicode.php

上欄(Type Romanized Nepali)にアルファベットで打つと、下欄(Nepali Unicode)でネパール語Devanagariに変換してくれます。やあ、これは便利。

このサイトが優れているのは、オンライン時だけではなく、オフラインでも機能するところ。ウェブページを保存したものでも機能します。

だと思って、さっきまた保存しようとしたら、今はウェブページの保存はできなくなっていました。ダウンロードしてインストールした上で動かすようになっています。

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しかし問題もあって、これはネパール語に特有の問題なんですが、ネパール語では長母音と短母音があまり区別されません。

このサイトでも、短母音と長母音の区別がうまくいかないケースがままあります。

「短母音イ」は「i」とタイプしますが、長母音「イー」は「ee」とタイプします。これだけならなんとか対応できますが・・・。

よく使う単語、例えば「Nepali」などは、「nepali」と打つと「नेपाली」という具合に、短母音形式で打っても、「pa」も「li」も長母音で表されます。いや、正しいんですけど、「入力=短母音 → 出力=長母音」の加減がわからない。

こういった例外が少なからずあって、思うように出力されずイライラする時がかなりあります。ネパール語話者にはこれが便利なのでしょうが、かなり癖がありますね。

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他にないもんかと探すと、こういうのもあります。

・Easy Nepali Typing : Type in Nepali : Type in English, Get in Nepali(2012)
http://www.easynepalityping.com/

English To Nepali Typingで入力すると、「nepali」はまた「नेपाली」と出てしまいます。正しいんですけどね。

でも、Nepali Unicode Typingで入力すると、「nepali」は「नेपलि」と出ます。こちらでは短母音は小文字で、長母音は大文字で入力するのです。すると、「nepAlI」は見事「नेपाली」と出力されます。

下に出るTyping Suggestionsもなかなかいい感じです。

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姉妹サイトで、

・Easy Hindi Typing : Type in Hindi : Type in English, Get in Hindi(2012)
http://www.easyhindityping.com/

というのもあります。最近は、もっぱらこれを使っています。

両者がどの程度違うのか、きちんと調べたことはないのですが、ネパール語の癖を嫌う人はこちらを使ったほうがいいかもしれません。

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調べ物をしていて、人名・地名がアルファベット表記でしか得られない時、Devanagari表記も知りたいものです。

で、当然検索をかけて、両方の表記があるサイトを探したりするのですが、両方載せているサイトはなかなかないのです。

そういう時は、ここを使っています。

・gla, ran & nar / spokensanskrit.de Dictionary VERSION 4.2(2005- 2015)
http://spokensanskrit.de/

これは、Devanagari文字、アルファベット転写、英語、いずれを入力してもSanskrit語の単語がDevanagari文字表記で出てくるという優れ物です。けっこういい加減に入力しても、いくつか候補を挙げてくれるので便利なことこの上ない。本当にありがたい。

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ただし「シヴァ」などは「ziva」と入力しないと「शिव」と出てくれませんから、少し癖はありますが。

それから、このサイトの一番の問題点は、よく落ちていること(笑)。

便利なサイトですから、アクセス数はかなり多いと思われます。肝心なときに使えないことが多いので、この点は困ったもんです。そういうわけで、皆さんは必要以上にアクセスしないでね。

いや、しかし便利になったもんです。

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さあ、これらの道具を使って、yosin、lyesing dha:の意味を調べてみましょう。柱建て祭りとKumariの話に戻ります。

2015年5月20日水曜日

ネワール語辞書

Newar人はKathmandu盆地の原住民です。形質的にはモンゴロイド。中国の四川・雲南省からインド亜大陸のヒマラヤ南縁にかけて広く住むモンゴロイドたちの一員(注1)。私たち日本人とも似ています。

彼らが話す言語がネワール語(नेवारीNewari)=Nepal Bhasa(नेपाल भाषा)=Newah Bhay(नेवाः भाय्)です。

ネワール語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属します。インド・アーリア語であるネパール語(Nepali)とは全く別の言語。

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ネワール語について、より詳しくは、

・石井溥 (1992) ネワール語. 亀井孝+河野六郎+千野栄一・編著 『言語学大辞典 第3巻 世界言語編 (下-1)』所収. pp.37-45. 三省堂, 東京.
・カマル・P・マッラ (2001) 古典ネワール語辞典の刊行に寄せて. トヨタ財団レポート, no.95[2001/05], pp.1-3.(注2)
https://www.toyotafound.or.jp/profile/foundation_publications/zaidanreport/data/tr_no95.pdf
・Wikipedia(English) > Newar language(This page was last modified on 22 April 2015, at 18:24)
http://en.wikipedia.org/wiki/Newar_language

あたりをご覧ください。

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ネワール語を表記する文字は、主にDevanagari文字が使われています。他にもRanjana文字など様々な文字が使われてきましたが、どれもDevanagari文字と同じくインド系の文字です。

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以前、

2009年8月9日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(12) Pavel Pouchaによるブルシャ語タイトルの解釈

で、ブルシャ語、シャンシュン語を検討する中で、ネワール語をちょっと取り上げました。

私が持っているネワール語に関する資料は、そこで挙げた

・Tej R. Kansakar (1989) ESSENTIAL NEWARI PHRASEBOOK. 54pp. Himalayan Book Centre, Kathmandu.

だけです。簡単な語彙集はついていますが、かなり物足りない。会話の入門編としてはこれで充分なのですけどね。Devanagari文字表記もないし。

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・寺西芳輝 (2004) 『話せるネワール語会話(ネパールの民族語)』. 157pp. 国際語学社, 東京.

こちらは語彙集が充実しており(ページの半分が語彙集)、Devanagari文字表記もあります。

なかなか使いでがあるのですが、一方では文法の解説が少なく、応用しづらい、という難点があります。

しかしまあ日本語でネワール語についての本が出た、というのは画期的なことでした。

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ここら辺を使ってネワール語を調べようとしても、なかなか満足行く結果は得られません。どうしても、そこそこ詳しいネワール語辞書が必要です。

ネワール語辞書といえば、

・Hans Jørgensen (1936) A DICTIONARY OF THE CLASSICAL NEWĀRĪ. 178pp. Levin & Munksgaard, Kobenhavn(Copenhagen).
→ Reprinted : (1989) Asian Educational Services, New Delhi.
・西村勤 (1980) JAPANESE, NEPALI, DICTIONARY (FOR CONVERSATION) : 2000 WORDS (DUI HAJAAR BALI) : JAPANESE, - ENGLISH, - NEPALI, -NEWARI. 83pp. Tsutomu Nishimura, Japan?.
・Thakur Lal Manandhar, Anne Vergati (ed.) (1986) NEWARI - ENGLISH DICTIONARY : MODERN LANGUAGE OF KATHMANDU VALLEY. xlix+284pp. Agam Kala Prakashan, Delhi.
・Kamal P. Malla etal. (ed.) (2000) A DICTIONARY OF CLASSICAL NEWARI : COMPILED FROM MANUSCRIPT SOURCES. xxxviii+530pp. Nepal Bhasa Dictionary Committee, Kathmandu.
・Kamal Tuladhar (2003) ENGLISH – NEPAL BHASA DICTIONARY. 444pp. J.R.Tuladhar, Kathmandu.

あたりになるようですが、どれも外語大図書館にでも行かないとお目にかかれないようなものばかりで、敷居が高い。

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ネット上でそこそこ詳しい辞書は拾えないもんかなあ、と探していたところ、Android向けの電子辞書で、

・Google Play > np / Nepal Bhasa Dictionary ver 1.1(update 2013/03/23)
https://play.google.com/store/apps/details?id=np.com.np.nbd

というのがありました。英-ネワ辞書です。つまり英語→ネワール語。

Devanagari文字表記もあります。ただし私が使っているスマホとは相性が悪いようで、Devanagari文字は一部正しく表示されません。アルファベット転写もあるので、まあなんとか使えるのですが。

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しかしこの辞書、スマホのみでパソコンでは使えません。

スマホで検索しては、パソコンでネワール語をDevanagari文字やアルファベット転写で打って、という作業を繰り返していたのですが、かなり面倒です。

前述のようにDevanagari文字表記はちゃんと出ないし、アルファベット転写を見ながら補正しつつ入力する必要もあるし、大変です。

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なんとかパソコン上で使えないものかと探索していたところ、この電子辞書のデータベース版がPDFで存在することがわかりました。

・Sabin Bhuju / NewaWiki Dhuku : English - Nepal Bhasa Dictionary ver 1.0.01 (release date 2010-11-05) 332pp.
http://np.com.np/nbd

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語彙数は約6500。私程度の利用者であれば、かなり使いではあります。

英語  品詞  Devanagari文字  Newar語のアルファベット転写

の順に表記されています。Adobe Acrobatの検索機能を使えば、ネワ-英、英-ネワ、双方向の電子辞書として使えます。

ただし、Devanagari文字はUnicodeではないようで、私は今のところDevanagariでは検索できないでいます。今後の課題。

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しかし、これでだいぶネワール語の単語を調べるのは楽になりました。yosin、lyesing dha:の調査も、これで進展しました。

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で、yosin、lyesing dha:の意味に行くのですが、もう1回寄り道して、Devanagari文字表記の調べ方と入力方法についてレポートしておきます。

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(注1)

ヒマラヤ南縁のモンゴロイドで、チベット・ビルマ系言語話者を総称する用語としてKirata(किरात)という言葉があります。

なかなか便利な言葉なのですが、あまり普及してないですね。

「Kiranti(किराँती)諸語」という用語もありますが、これはネパール東部のRai(राई)語やLimbu語(लिम्बू)などをまとめたもので、前述のKirataよりもかなり狭い範囲を示します。語源は同じですが。

(注2)

余談ですが、同じ号に載っている

・星泉 (2001) 星家とチベット語 家族と学問. トヨタ財団レポート, no.95[2001/05], pp.6-8.
https://www.toyotafound.or.jp/profile/foundation_publications/zaidanreport/data/tr_no95.pdf

も大変面白い読み物です。いつか「星泉全集」が出版される際には、是非収録していただきたい。

2015年5月16日土曜日

柱建て祭りとKumari(4) Bisket Jatraの縁起

Bisket Jatraで建てられ、そして倒される柱Yosinとは何でしょうか?

Yosinは約25mの柱です。祭りの直前に近隣の森から切りだされた松の柱(寺田1994)。

Vikram暦の大晦日に建てられ、その翌日である元日には倒されてしまいます。その間わずか一日。

この柱は、建てられることよりも「倒されること」に重点が置かれているようです。

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Bisket Jatraの柱には二本の幟(のぼり)がぶら下がります。これは二匹の蛇を表すものとされ、その縁起は二種類伝わっています(寺田1994)。

(1)神話時代(注)。王女が結婚する相手は皆早死。他国の王子がその王女に取りついた二匹の蛇を退治し、めでたく王女と結婚し王となる。これを記念する祭りがBisket Jatra。

(2)Liccavi朝Shivadeva(शिवदेव)王[位:590-603]の師であるShekhar Acarya(शेखर आचार्य)とその妻が蛇の姿となってしまう。人間の姿に戻れない二人は悲観して自殺。これを弔う祭りがBisket Jatra。

というものです。

どちらも古い時代に起源が置かれており、Bisket Jatraの歴史が古いことを物語っています。

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(1)も(2)も、蛇は悪さをする悪役に仕立てられているようですが、これは本来の姿なのでしょうか。

ここで重要となってくるのが、柱の名称yosinとその別称lyesing dha:です。

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これはどちらもネパール語ではなく、ネワール語のようです。ではネワール語の辞書が必要となるのですが、普通持っていませんよね(笑)。

ちょっと寄り道して、ネワール語の辞書の話をしましょう。

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(注)

これをBhadgaon(Bhaktapur)Malla朝の王Jagajjyotirmalla(जगज्ज्योतिर्मल्ल) [位:1613-37]の時代とする説もあります。しかしこの王が始めたのは、BhairavとBhadrakaliのrath巡行儀式だけのようです(佐伯2003)。

なお、この王の時代にRaj Kumari(Royal Kumari)制度が始まったとする説もありますが、一般にはKantipur(Kathmandu)Malla朝最後の王Jayaprakashmalla(जयप्रकाशमल्ल)[位:1750-69]がRaj Kumari制度を確立した、とする説が多いようです。

Jagajjyotirmalla王の父王Trailokyamalla(त्रैलोक्यमल्ल)[位:ca.1573-1613]とする説、Lalitpur(Patan)Malla朝の王Siddhinarasinhamalla(सिद्धिनारसिंहमल्ल)[位:1618-61]- Shrinivasmalla(श्रीनिवासमल्ल)[位:1661-84]親子の時代にRaj Kumari制度が始まった、とする説もあり錯綜しています。

Raj Kumari制度、すなわちMalla王家/Shaha王家および女神Taleju(तलेजु)との関係が強調されたKumari制度の開始については、いずれ詳しくやります。

2015年5月12日火曜日

柱建て祭りとKumari(3) Bisket Jatra

植島先生の研究で物足りない点を挙げるとすれば、それはBisket Jatraへの言及が少ないところでしょうか。

Indra JatraやMatsyendra Jatraの解明には、Bisket Jatraが鍵を握っている、と私は考えています。

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Bisket Jatra(बिस्केट जात्रा)とは、Kathnmanduの東12kmにあるBhaktapur(भक्तपुर)で4月に行われる、これも柱建ての祭りです。

今年も盛大に開催されました。大地震前でしたから、無事に終了しています。

・eKantipur.com > Bisket Jatra kicks off in Bhaktapur (Posted on: 2015-04-11 09:19)
http://www.ekantipur.com/2015/04/11/capital/bisket-jatra-kicks-off-in-bhaktapur/403932.html
・eKantipur.com > Bisket Jatra concludes (Posted on: 2015-04-19 08:57)
http://www.ekantipur.com/the-kathmandu-post/2015/04/18/news/bisket-jatra-concludes/275539.html

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Bisket Jatraには様々な要素が詰め込まれていますが、その基本は新年祭およびその年の豊穣を祈願する祭りです。

Bisket Jatraが始まるのは、ヴィクラム暦(विक्रम सम्वत् Vikram Sambat)の年末、すなわちCaitra月(चैत्र)の月末、太陽暦では4月上旬。Bhairav(भैरव)とBhadrakali(भद्रकाली)のrath(रथ 山車)が街中を巡行し始めます。

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大晦日(Caitra月末日)には、町の南、Hanumante(हनुमन्ते)川に面した広場Yosin Khel(注1)に、YosinあるいはLingoと呼ばれる柱が建てられます。

Lingoは明らかにShivalinga(शिवलिङ्ग)の意味ですが、これは単に柱の形状をShivalingaに見立てただけで、この祭りではShivaの出番は一切ありません(注2)。

Yosinの意味、Devanagari文字での綴りはわかりませんでした。後ほど私が推定した意味・スペルを紹介します。

また、Wikipedia(2015)では、「Lyesing Dha:」という別名も記録されています。実はこれが重要!この名称についても後ほど。

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その翌日がVikram暦の新年元日(すなわちBaishakh月 बैशाखの元日)になります。

前日に建てられたYosinは、この日にはもう倒されてしまいます。これが新年を祝う儀式になるのです。Yosin Khelは人で埋めつくされ、熱狂のうちに柱が倒されます。

そして、BhairavとBhadrakaliのrathがぶつかり合うという、タントラ的な儀式を最後に祭りは終了します。むしろこちらが最大の盛り上がりを示すようです。

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BhairavとBhadrakaliのrath巡行・ぶつかり合いは17世紀に付加された儀式とみられており、Bisket Jatraの主旨ではないと感じます。

Kathmandu盆地の祭りは、このように祭りの原型の上に後世様々な要素が付加されており、きちんと整理して見ていかないと祭りの本質が見えてきません。

古い歴史を有するKathmandu盆地の文化ならではの難しさであり、おもしろさでもありますね。

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ではこのBisket Jatraは、いったいどういう由来を持つ祭りなのでしょうか?というのが次回のお話。

ちなみにこのBisket Jatraでは、Kumariは全く登場しません。実はかえってそれがKumari信仰を解明するキーとなるのです。

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参考:

・寺田鎮子 (1999) ネパールの柱祭り. 自然と文化, no.61(アジアの柱建て祭り)[1999/09], pp.16-17,24-31.
・佐伯和彦 (2003) 『ネパール全史』(世界歴史叢書). 767pp. 明石書店, 東京.
・sazen / newari culture > THE BISKET JATRA (Posted by sazen at 2012-05-08 4:41AM)
http://newariculturenepal.blogspot.jp/2012_05_01_archive.html
・HotelTravel.com > Nepal > Kathmandu > Articles on Kathmandu > Samia El-Balawi / Bisket Jatra: Festival of Legends(as of 2015/05/02)
http://www.hoteltravel.com/nepal/kathmandu/bisket-jatra-festival-of-legends.htm
・Wikipedia(English) > Bhaktapur(This page was last modified on 3 May 2015, at 02:03)
http://en.wikipedia.org/wiki/Bhaktapur

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(注1)

Yosin Khelは、寺田(1994)では「ヤーシン・キャー」と表記されています。この広場にはBhadrakali Mandir(भद्रकाली मन्दिर)とBhimsen Mandir(भीमसेन मन्दिर)があります。

(注2)

BhairavはShivaの忿怒形ですが、柱Yosinとは直接の関係はないのです。

2015年5月9日土曜日

「インドのイム」展 装飾写本の謎

どうも腑に落ちない点があったので、前回の3経典について考えてみました。

なかなか「柱建て祭りとKumari」に進まないですが、まあ先は長いので、焦らず行きましょう。

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まずおさらいしておくと、展覧会場の表示や図録では、

(1)『八千頌般若波羅蜜多経』 パーラ朝 11世紀
(2)『五護陀羅尼経』 東インド 14世紀
(3)『仏説大乗荘厳宝王経』 東インド 14世紀頃。

とあります。

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私が感じた疑問は、特に(2)(3)の年代。

14世紀といえば、インドではすでに仏教は滅びているはずです。当時、東インドのどこで、このような経典写本が作られていたのでしょうか?

で、これは東インドではなくネパールではないか?というのが私が感じた疑問でした。

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(1)(2)(3)の文字を見てみます。これはどうもRanjana文字(रञ्जना लिपि Ranjana lipi)やPrachalit文字(प्रचलित लिपि Prachalit lipi)のように見えます。いずれもネパールの文字です。

Ranjana文字は、11世紀頃からネパールに現れる文字で、非常に装飾性の強い文字です。この文字はチベットにも伝わり、経典のタイトル、マニ石、マニ車などでよく目にします。

チベット語ではランツァ(ལན་ཚ་ lan tsha)文字と呼びます。RがLに交代しているのが珍しいですね。

Prachalit文字は「"狭義の"Newar文字」とも呼ばれ、Ranjana文字ほど装飾性は強くありませんが、やはり肉太の線で書かれることが多く、見た目が美しい文字です。日本の勘亭流っぽかったりします。

この辺になると、「文字の区分」というよりは「書体の区分」になってきますね。

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このRanjana文字、Prachalit文字が使われたのは、主にネパールです。インド方面にはどの程度普及したのでしょうか?私には知識がありません。私は、ネパールかチベットがらみでしか見たことがない。

すると、(1)(2)(3)は、いずれもネパールのものである可能性が高いと見ます。

特に14世紀と推定されている(2)(3)が東インドのものだとすると、すでに仏教が滅びているはずの東インドのどこか?というのは大きな問題です。

でも、現在まで仏教が絶えることのなかったネパールのものだとすれば、この問題は解決するわけです。

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田中+吉崎(1998)には、ネパールでは『八千頌般若波羅蜜多経』や『パンチャラクシャー(五護陀羅尼経)』がさかんに写経された、とあり、また、現在残っている装飾写本も、インドのものに比べネパールのものが圧倒的に数が多いことも示されています。

やはり、(1)(2)(3)いずれも出処はネパールでしょう。

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とすると、11世紀とされている(1)の年代はもう少し下がるかもしれません。

このスタイルの壁画がチベットに現れるのは13~15世紀です。それとあまりにも似すぎています。そんなに年代が離れているとは思えません。

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(2)の年代も、14世紀より少し下がるかもしれません。この絵柄と似た新グゲ様式が西チベット~ラダックで流行するのは、15~17世紀。そちらに合わせた方がいいかもしれません。

とはいえ、装飾写本の方は、拡大するとかなり雑な絵ですから、精緻な新グゲ様式絵画と対比できるのか?という気もしますけどね。

まあ、これは雑な仮説の一つ、という程度で。

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(3)が東インドのものだとすると、中国絵画の影響を感じさせる風景描写が、なぜに14世紀の東インドに出てくるのか、不思議な話になります。

インド絵画では、いわゆる細密画(miniature)に風景描写が見られます。これも中国絵画の影響とみられていますが、その経路は、

元朝(中国)の中国絵画
→フレグ・ウルス(イル汗国)(ペルシア)のミニアチュール
→サファヴィー朝(ペルシア)のミニアチュール
→ムガル帝国(インド)のミニアチュール
→インド各地のミニアチュール

というもので、インドに到達するのは17世紀以降。

(3)で見られる技法は、少なくともこちらのルート経由で伝わったものではないはずです。

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しかし、これも(3)がネパールのものと考えれば、それほど不思議ではなくなります。

13世紀後半、チベット人帝師パスパ(འགྲོ་མགོན་ཆོས་རྒྱལ་འཕགས་པ་བློ་གྲོས་རྒྱལ་མཚན་ 'gro mgon chos rgyal 'phags pa blo gros rgyal mtshan 八合斯巴/八思巴)経由で、元朝フビライ・ハーンに大都(今の北京)に招かれたネパール人仏師・阿尼哥(अरनिको Arniko 1244-1306)の存在は有名です。

当時、ネパール-チベット-中国の間での人の動きはかなりあったようです。

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そんな中で、中国絵画の風景描写を取り入れた、チベット絵画の新派(メンリ派(སྨན་རིས་ sman ris)、キェンリ派(མཁྱེན་རིས་ mkhyen ris)、カルマ・ガディ派(ཀརྨ་སྒར་བྲིས་ karma sgar bris)など)が東チベット=カムに現れてくるのは15~16世紀のことです。

それに先駆けて、14世紀の東インドに、似たようなスタイルが突如現れる、というのはちょっと無理があるような気がします。

でも(3)がネパールのものならば、そんな無理は減るわけです。チベット-ネパール間の政治・宗教・商業での交流は、当時も途絶えることがなかったようですし。

東チベットでの新しい絵画の動きがネパールまで伝わったと考えるのは、さほど無理はないでしょう。

しかし、(3)も年代は、チベットでの流れに合わせて15~16世紀と少し下げた方がいいのかもしれません。もっとも、経典の奥書に年代が示されているのであれば、その限りではありませんが。

ここまでの参考:

・田中公明+吉崎一美 (1998) 『ネパール仏教』. vii+264+14pp. 春秋社, 東京.
・石井溥 (2001) ネワール文字. 河野六郎+千野栄一+西田龍雄・編著 『言語学大辞典 別巻 世界文字辞典』所収. pp.712-718. 三省堂, 東京.
・Shelley & Donald Rubin Foundation / Himalayan Art Resources > Introduction (to Himalayan Art) > Introduction : Art History Essays & Articles > David Jackson (2003) Painting Styles in the Rubin Collection : Identification and Clarification.
http://www.himalayanart.org/exhibits/david/davidj.html
・Michael Everson (2009) Roadmapping the scripts of Nepal.
http://std.dkuug.dk/jtc1/sc2/WG2/docs/n3692.pdf
・Anshuman Pandey (2011) Preliminary Proposal to Encode the Prachalit Nepal Script in ISO/IEC 10646.
http://std.dkuug.dk/JTC1/SC2/WG2/docs/n4038.pdf
・Anshuman / Anshuman Pandey : Historian – Technologist – Linguist > Saturday, May 7, 2011 The 'Prachalit Nepal' Script
http://anshumanpandey.blogspot.jp/2011/05/prachalit-nepal-script.html
・SIL International / SCRIPTSOURCE : Writing systems, computers and people > Scripts > Scripts currently in use : Stephanie Holloway+Raymondmj / Newar (Prachalit Nepal) Indic (Created 2010-06-01 10:00:38 by stephanie_Holloway, Modified 2014-03-20 07:34:40 by raymondmj)
http://scriptsource.org/cms/scripts/page.php?item_id=script_detail&key=Qabc
・Wikipedia (English) > Prachalit Nepal alphabet (This page was last modified on 11 March 2015, at 23:56)
http://en.wikipedia.org/wiki/Prachalit_Nepal_alphabet
・東京国立博物館+日本経済新聞社+BSジャパン・編 (2015) 『特別展 コルカタ・インド博物館所蔵 インドの仏 仏教美術の源流』. 208pp. 日本経済新聞社, 東京.
・Wikipedia (English) > Ranjana alphabet (This page was last modified on 1 May 2015, at 15:50)
http://en.wikipedia.org/wiki/Ranjana_alphabet

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2015年5月6日水曜日 イムに行ってきましたよ

のコメント欄でRatnaruniさんが指摘されておられるように、挿画が経文の上から描かれているものがあるようですが、この例だけではよくわかりませんねえ。

べったり上描きされているのかもしれないし、単に描き方が雑で絵が一部経文にかかってしまっただけなのかもしれない。

文章を追ってみれば、どちらなのかわかると思いますが、私にはそこまでの能力はありません。今後の課題ということで・・・。

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それから、『五護陀羅尼経(パンチャラクシャー)』の五女尊をどっかで見た記憶がある、と書きましたが、わかりました。

思った通り、ギャンツェ・クンブム(རྒྱལ་རྩེ་སྐུ་འབུམ་ rgyal rtse sku 'bum)、別名パンコル・チョルテン(དཔལ་འཁོར་མཆོད་རྟེན་ dpal 'khor mchod rten)でした。

第2層の階段部屋(སྒོ་ཁང་ sgo khang)に、この五護陀羅尼女尊(पञ्चरक्षा panca raksha བསྲུང་མ་ལྔ་ bsrung ma lnga)の壁画が描かれていました。残念ながら写真は撮っていませんでしたね。

この部屋の平面図を掲載しておきましょう。













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実はギャンツェ・クンブムでも、全部の堂伽でこういった平面図を作ってあるのですが、例によってこれも陽の目を見ていないわけです。

こっちの参考:

・Franco Ricca & Erberto Lo Bue (1993) THE GREAT STUPA OF GYANTSE : A COMPLETE TIBETAN PANTHEON OF THE FIFTEENTH CENTURY. 319pp. Serindia Publications, London.

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(追記)@2015/09/10

2016年9月6日火曜日 「インドのイム」展 装飾写本の謎(続報)

こちらに続報を書きました。田中公明先生の論考に基づくお話です。

2015年5月6日水曜日

イムに行ってきましたよ

先日、イムに行ってきました。え?イムって何かって?あの話題のイムですよ、イム。

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すごい人出!と思ったら、大半は鳥獣戯画のお客さん。イムの方はほどほどの入りで、まあまあじっくり見ることができました。

いつものように2ラウンド回って来ました。今回は解説して回る流れにはならなかったな。

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今回の展覧会の特徴としては、パーラ朝(8~12世紀)のものが多かったこと。なので、非常にわかりやすかった。

なぜわかりやすいかというと、パーラ朝時代になると、諸尊格の図像フォーマットがほぼ定まってしまい、チベット仏教での姿とほとんど違いがなくなるからです。チベットで見慣れたお姿ばかり。

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仏像展示では、日本では馴染みのない尊格がドッと出てくる後半の展示(図録で言うと、6密教の世界)が一番面白かった。あ、俺だけか。

摩利支天(मरीची Marici འོད་ཟེར་ཅན་མ་ 'od zer can ma)、仏頂尊勝母(उष्णीषविजया Ushnishavijaya རྣམ་རྒྱལ་མ་ rnam rgyal ma)あたりは、全体のバランスも細部の意匠も完璧で感動。「よくわからない」という顔で通り過ぎる方が多かったようですが。

小さいブロンズ像でしたが、般若波羅蜜多仏母(प्रज्ञापारमिता Prajinaparamita ཡུམ་ཆེན་མོ་ yum chen mo)も素晴らしかった。

金剛法菩薩(वज्रधर्म Vajradharma རྡོ་རྗེ་ཆོས་ rdo rje chos)、金剛薩埵(वज्रसत्त्व Vajrasattva རྡོ་རྗེ་སེམས་དཔའ་ rdo rje sems dpa')、上楽王仏(संवर Samvara བདེ་མཆོག bde mchog)の他にも、もっと密教仏が見たかったが、それだと一般の方々はついて行けなくなるでしょうから、まあ仕方ない。

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一番の衝撃は経典の挿絵ミニアチュールでした。三種の挿絵入り経典が展示されていましたが、どれも凄かった。

現物の絵はごくごく小さいものなのですが、それを拡大して展示してくれてるのが、大変ありがたかった。チベットで壁画を見ている感覚。楽しい。

皆チベットにも伝わっている絵画スタイルですので、一見してチベットのものか?と見紛うくらい。自分にはしっくり馴染むパートでした。

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(1)『八千頌般若波羅蜜多経(अष्टसहस्रिक प्रज्ञापारमिता सूत्र Ashtasahasrika Prajnaparamita Sutra ཤེས་རབ་ཀྱི་ཕ་རོལ་ཏུ་ཕྱིན་བརྒྱད་སྟོང་པའི་མདོ། shes rab kyi pha rol tu phyin brgyad stong pa'i mdo/)』

パーラ朝11世紀。

11世紀といえば、チベットではグゲ王国の全盛期。当時の壁画はラダック・アルチ・チョスコル・ドゥカン/スムツェクに代表されるように、背景が青の時代です。

ところが同時代には、パーラ朝では次のスタイルが始まっていたんですね。このスタイルは、ネパール経由でチベットに伝わり、13~15世紀に大流行します。背景が赤の時代です。

今回の挿絵は、特にラダックのピャン・グル・ラカンのものとそっくりです。同じ絵師が描いたんじゃないかと思うくらい。

展示や図録では、ほとんどの尊格が「男尊」、「女尊」としか記されていませんが、これは漢名がなく長ったらしいインド名しかないから省略したのか、本当にわからなかったのか、定かでない。

そのうち比定してみようか。色が重要なようなので、Lokesh Chandra本だけじゃ心もとないから、久々にMartin Brauen本を引っ張り出してみようかな。

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(2)『五護陀羅尼経(पञ्चरक्षा Pancaraksha གཅན་རིམ་པ། gcan rim pa/)』

東インド14世紀。

このころは、もうインドでは仏教は滅びていた、という認識ですが、一体東インドのどの辺で作られたものなんでしょうか?ちょっと謎。もしかするとネパールあたりじゃないかという気がする。

先ほどの11世紀の絵からは、またスタイルが変わってきています。トリン/ツァパランなどで見られる新グゲ様式と似た感じです。みんな細身。チベットでは、主にグゲやラダックで15~17世紀に大流行します。

この五女尊はあまり馴染みがないが、チベットのどっかでまとまって見たような気もする。どこだっけなあ。

いい機会なので、それぞれのチベット名も記しておきましょう。

1-大随求明妃(महाप्रतिसर Mahapratisara སོ་སོར་འབྲང་མ་ so sor 'brang ma)
2-大千摧砕明妃(महासहश्राप्रमर्दिनी Mahasahashrapramardini སྟོང་ཆེན་མོ་རབ་ཏུ་འཇོམས་མ་ stong chen mo rab tu 'joms ma)
3-大孔雀明妃(महामयूरी Mahmayuri རྨ་་བྱ་ཆེན་མོ་ rma bya chen mo)
4-大寒林明妃(महाशीतवती Mahashitavati བསིལ་བའི་ཚལ་ཆེན་མོ་ bsil ba'i tshal chen mo)
5-密呪随持明妃(महारक्षा Maharaksha གསང་སྔགས་ཆེན་མོ་ gsang sngags chen mo)

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(3)『仏説大乗荘厳宝王経(करण्डव्यूह सूत्र Karandavyuha Sutra འཕགས་པ་ཟ་མ་ཏོག་བཀོད་པ་ཞེས་བྱ་བ་ཐེག་པ་ཆེན་པོའི་མདོ། 'phags pa za ma tog bkod pa zhes bya ba theg pa chen po'i mdo/)』

東インド14世紀頃。

これも東インドのどこなのか謎。

これまたおもしろい絵です。雲や山などの風景が入ってきて、チベット絵画の新派に近いスタイル。

こういったスタイルは、中国絵画からの影響でカムで始まった、と思い込んでいたのですが、14世紀頃のインドにすでにあったのですね。少し考え直さないといけないかもしれません。

David Jackson本も持っていますが、全然読んでないから、ちゃんと読まなきゃなあ。

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特別展「コルカタ・インド博物館所蔵 インドの仏 仏教美術の源流」
東京国立博物館 表慶館  
JR「上野」駅公園口・「鶯谷」駅南口より徒歩10分
2015年3月17日(火) ~ 2015年5月17日(日)
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1701

は、5月17日(日)までやっていますから、仏教美術に興味のある方は是非行ってみてください。

参考:

・頼富本宏+下泉全暁(1994)『密教仏像図典 インドと日本のほとけたち』. pls+308pp. 人文書院, 京都.
・東京国立博物館+日本経済新聞社+BSジャパン・編 (2015) 『特別展 コルカタ・インド博物館所蔵 インドの仏 仏教美術の源流』. 208pp. 日本経済新聞社, 東京.

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余談ですが、頼富本宏先生は3月30日に亡くなられました。お会いしたことはありませんが、いろんな本を通じて、たくさん教えていただきました。ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

2015年5月4日月曜日

柱建て祭りとKumari(2) 『処女神 少女が神になるとき』の中身

では、柱建て祭りとKumariの話を再開します。

Kumariにまつわる伝説・儀式はかなり複雑で、解明するのは一筋縄では行きません。調べれば調べるほど、どんどん話が深く広くなっていくので、ゴールがなかなか見えてこないのです。

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・植島啓司 (2014) 『処女神 少女が神になるとき』. 集英社, 東京.

植島先生のこの本でも、明確な結論にはまだ達していない、と感じます。そのため、本書中での解明への筋道も今ひとつわかりにくい。

それで、植島先生は、調査過程を時系列順に並べ、読者が調査を追体験できるようにしています。感情移入しやすくなっており、読み物としてたいへん有効。この辺の持って行き方は、一般書も多数書かれている植島先生ならではの技術の高さですね。

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植島先生は、まず、Kathmanduの柱建て祭り・雨乞い祭りであるIndra Jatraと、これに付随しているように見えるKumari Jatraを分離する作業からとりかかります。

Indra Jatra自体は本来Kumariとはあまり関係なく、後にKumari Jatraと合体したのではないか、という疑問は以前から提示されていたことです。ここでも、その方向性でIndra Jatraの解明を進めます。

それはうまくいったようなのですが、すると、じゃあなんでIndraとKumariがくっついているのか、かえって謎が深まったような感もあります。

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次に植島先生は、Kumari信仰の原点を求めて、Kathmnanduの南Patan~Bungamatiに焦点を合わせます。

PatanにもBungamatiにも、いわゆるLocal Kumariがいます。

こちらでは雨乞い・豊穣の神Rato Matsyendranath(赤マチェンドラ)と結びつき、Matsyendran Jatraという祭りの要所要所でKumariが重要な役割を果たします。

Matsyendranathはヒンドゥ教での神格で、ネワール仏教ではKarunamaya(大悲観音)とされます。

Matsyendra Jatraもやはり柱建てを中心とした雨乞いの祭りで、Indra Jatraとよく似ています。植島先生は、柱建て祭りとKumariの関係は、Patan~BungamatiのMatsyendra Jatraに原型があるとみて調査を進めます。

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そこでの結論は、Karunamaya/Matsendranathをインドから招来する際の妃としてKumariが引っぱりだされたのではないか、というものです。あるいは、Kumari自体もKarunamayaと共にKathmandu盆地にもたらされたのではないか?という推測も提示されています。

調査をしているうちに、Indra Jatraの解明やMatsyendra Jatraの解明にテーマが移ってしまい、Kumariについては、今ひとつすっきりしない結論、という印象です。

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それも仕方ないのです。

Kathmandu盆地でのKumari信仰の始まりは11世紀以前であることは確実ですが、その古い時代には、充分な史料が残っていません。いきおい研究の方向性は、Indra JatraやMatsendra JatraとKumariの関係性の解明に向かってしまうのです。

その意味では、植島先生の研究には充分な成果があった、と言えるでしょう。

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しかし、未解明の問題も残っています。

ヒンドゥ教世界に属するKumari信仰で、なぜ仏教徒からKumariが選ばれるのか?また、その出身はなぜShakya氏族でなくてはならないのか?など、わからないことだらけです。

Indra JatraとKumari Jatraの結びつきも、王権儀礼として結びついた、という解釈ですが、Matsyendra JatraとKumariの結びつきとは別なのでしょうか?

この辺も、私には今ひとつすっきりしませんでした。

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これから私の見解を述べてみるわけですが、そちらでもIndra JatraやMatsyendra Jatraの解明が中心になります。

Kumariはなかなか登場しませんが、Kumariが登場する頃には、けっこうおもしろい展開になっていますからお楽しみに。

最重要キーワードは「Naga」です。

2015年5月3日日曜日

ネパール大地震 募金先

ネパール大地震の救援はまだまだ終息していませんが、ネパールの文化を伝えることもひとつの支援と考え、次回から柱建て祭りとKumariの話題を再開します。

今年は、現地では祭りどころではなさそうですが。

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改めて今回の地震の犠牲になった方のご冥福を祈るとともに、被災者の方々にお見舞い申し上げます。私も微力ながら、今後しばらくネパールの応援を続けます。

ここで信頼できるネパール地震被害義援金募集先をひとつ。

公益社団法人 日本ネパール協会 【ネパール地震被害義援金の募集】 投稿日: 2015年5月2日 作成者: jns
http://nichine.or.jp/JNS/?p=7837

2015年4月29日水曜日

ネパール大地震 USGS Shake Map Updated

USGSの震度分布図が改訂されています。

M7.8  34km ESE of Lamjung, Nepal  15.0 km deep
最大メルカリ震度IX
2015-04-25 06:11:26 (UTC)-ロンドン
2015-04-25 11:56:26 (NPT)-ネパール
2015-04-25 15:11:26 (JST)-日本
http://earthquake.usgs.gov/earthquakes/eventpage/us20002926#general_map


















Kathmandu周辺の太赤コンター(8.5?)が消えて、一見震度は小さくなっているように見えるかもしれませんが、その下の細いオレンジコンター(VIII)の範囲が南側にかなり広がっています。特に南部のSiwalik山地内で最大震度となっているのが注目されます。

それにしても強い揺れの範囲が東西に長い。プレート境界が広い範囲で動いていることが実感できます。

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日本にいて我々ができることは限られています。物を届けようとするのは効率が悪いです。今は募金するのが一番でしょう。

どこに募金したらいいかわからない、とか、手間がかかる、と思う方は、近所のネパール料理屋へ行くだけでもいいです。

少し遠回りになるかもしれませんが、思いもお金もきっとネパールに届きます。

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自分のblogやTwitterに、地震前のネパールの美しい姿をアップするのもいいでしょう。ネパールの復興を人々に訴える力になるはずです。

2015年4月26日日曜日

ネパール大地震 本震と余震

ネットを見ていると、USGSの推定震度分布図を示す方がいますが、一部、本震と余震の混同が見られるようです。

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こちらが本震
M7.8 - 34km ESE of Lamjung, Nepal
最大メルカリ震度IX
2015-04-25 06:11:26 (UTC)-ロンドン
2015-04-25 11:56:26 (NPT)-ネパール
2015-04-25 15:11:26 (JST)-日本
http://earthquake.usgs.gov/earthquakes/eventpage/us20002926#general_map
















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こちらが余震
最大メルカリ震度VII
M6.6 - 49km E of Lamjung, Nepal
2015-04-25 06:45:21 (UTC)-ロンドン
2015-04-25 12:30:21 (NPT)-ネパール
2015-04-25 15:45:21 (JST)-日本
http://earthquake.usgs.gov/earthquakes/eventpage/us2000292y#general_map
















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本震はKathmanduで最大震度を記録していますが、余震は震央のLamjungで最大震度です。

震度はやや小さいとはいえ、余震の方もかなりの地震です。情報が全く伝わってこないLamjungほか、地方の被害も心配されます。

Kathmandu盆地の地質と断層

Kathmandu盆地はかつて湖でした。その時代は二期に分かれ、約5百万年前~約30万年前の古期Kathmandu湖(地層はLukundol層)、約3万年前から約1万年前の新期Kathmandu湖(地層はGokarna層、Thimi層、Patan層など)。いずれも歴史時代以前の話。

今ではその湖は堆積物で埋められ、盆地となっています。これらの地層はその上には何も乗っかっていませんから、圧密を受けておらずガサガサのまま、いわゆる軟弱地盤です。

それらの堆積物の厚さは最大約700m。思ったよりも厚いですね。














吉田&ウプレティ(2006)図9

参考:

・Chandra K. Sharma (1990) GEOLOGY OF NEPAL HIMALAYA AND ADJACENT COUNTRIES. vii+479pp.+pls. Sangeeta Sharma, Kathmandu.
・木崎甲子郎 (1994) 『ヒマラヤはどこから来たのか 貝と岩が語る造山運動』(中公新書1190). ix+173pp. 中央公論社, 東京.
・K.S. Valdiya (1998) DYNAMIC HIMALAYA. xv+178pp. Universities Press (India), Hyderabad.
・吉田勝 & B.N.ウプレティ (2006) 中部ヒマラヤ巨大地震とカトマ ンズの危機. 地学教育と科学運動, no.53[2006/12], pp.41-51.
http://ci.nii.ac.jp/els/110007160227.pdf?id=ART0009112755&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1430002214&cp=

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新期Kathmandu湖の変遷をヴィジュアル的に見せてくれるエッセイがこちら。Kathmandu盆地が湖であったことが実感できますよ。

・NEPALI Times > BLOGS : KUNDA DIXIT > eastwest with Kunda Dixit > older entries > The lake that was once Kathmandu, Monday, November 12th, 2012
http://nepalitimes.com/blogs/kundadixit/2012/11/12/the-lake-that-was-once-kathmandu/

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さらにその地下はどうなっているのかというと、インド亜大陸がチベット高原の下に潜り込もうと、南から北に向かってギューギューに押しているわけです。

横から押されると、地層は長い時間をかけてグンニャリと曲がってしまいます。これを褶曲(fold)といいます。

変形が褶曲ではまかないきれなくなると、地層はブツッと切れてしまいます。これが断層(fault)です

その結果、チベット高原側の上盤がインド亜大陸側の下盤に乗り上げ、数多くの逆断層(reverse fault)が生じています。逆断層のうち低角のものを、特に衝上断層(thrust)といいます。

ヒマラヤ山脈は、褶曲とこの衝上断層で地層が折り重なることによって、地層が横方向に圧縮されて高くなったものです。

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このヒマラヤの衝上断層は北側のものが一番古く、そちら側での地層の圧縮が限界に達すると、南側に新たな衝上断層が出来ます(ジャンプする、といいます)。ヒマラヤの歴史はこの繰り返しです。

ヒマラヤの主な衝上断層は、北から順に(すなわち出来た年代が古い順に)

ITS(Indus-Tsangpo Suture、インダス-ツァンポ縫合帯)
MCT(Main Central Thrust、主中央衝上断層)
MBT(Main Boundary Thrust、主境界衝上断層)
MFT(Main Frontal Thrust、主前縁衝上断層)あるいはHFT(Himalayan Frontal Thrust、ヒマラヤ前縁衝上断層)

と並びます。いずれも東西2000km近く連続する大断層帯です。

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吉田&ウプレティ(2006)図3

今回の地震の震源地Lamjungのあたりの地表は、ちょうどMCTが通ってる場所です。しかし震源は15km程ですから、この地表に出ている断層が動いたわけではありません。

MCTが地表に出ている地点から10~20km地下に進むと、MCTよりも前面(つまり南側)に位置するMFTの地下延長部に当たります。おそらく今回の地震は、このMFTが動いたものでしょう。

ヒマラヤの衝上断層の中では、前面(つまり南側)の活動が活発です。そのおかげでMFTとMCTの間にあるSiwalik山地は現在最も激しく隆起を続けています。

局地的な断層で起きた地震(阪神淡路大震災と似た地震)ではなく、プレート境界面断層で起きた地震(東日本大震災と似た地震)ですから、そのエネルギー(つまりマグニチュード)はかなり大きくなります。

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前掲の吉田&ウプレティ(2006)では、当時すでにKathmandu西方の地震空白域を危険視しており、ネパールの地震への備えを訴えていました。そのおかげもあって、近年ようやくネパールの地震の備えも始まりかけていた、その矢先の地震でした。

今回の地震に関する考察については、この論文が非常に参考になります。報道関係の方もぜひこちらに目を通していただきたいと思います。ウェブ上PDFで公開もされていますので、一般の方々もぜひ。

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最後に、ネパールでの犠牲者数がどんどん増えています。あらためて犠牲となった方々のご冥福をお祈りするとともに、いまだ救出を待っておられる方々の無事を願っております。