2017年10月25日水曜日

いまだに「ラマ教」/道教タントラ

・菅野博史・編集協力 (2010.9) 『中国文化としての仏教』(新アジア仏教史08 中国III 宋元明清). 413pp. 佼成出版社, 東京.


装幀 : 間村俊一

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この巻は、もはや中国仏教が完成の域に達し、現在に至る「ほぼ停滞」の時代を記述しています。

その反対に元・明・清と、漢土に勢力を拡大してきたのがチベット仏教。なんかこの本では、渋々取り上げてる感がありあり。

さすがに「ヒンドゥ教と混交した、もはや仏教とは言えない淫祠邪教」といった論調は見なくなったが、「ラマ教」という時代錯誤の表現は、この本にもバンバン出てくる。まあこれが中国仏教研究者の本音なんでしょうね。

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・陳継東 (2010.9) 第3章 仏教民間信仰の諸相. 『中国文化としての仏教』(新アジア仏教史08 中国III 宋元明清)所収. pp.149-183. 佼成出版社, 東京.

がおもしろい。宗派発展史・教義研究中心の中国仏教史ではこぼれ落ちた諸相がいろいろわかる。このへんはさすが中国人研究者の仕事だ。

漢土の四大霊山である

文殊菩薩の聖地・五台山
普賢菩薩の聖地・峨眉山
地蔵菩薩の聖地・九華山
観音菩薩の聖地・普陀山

の由来と沿革を知ることができたのはよかった。普陀山の由来が日本人僧というのは、はじめて知ったなあ。

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また、仏教から半ば逸脱して「民間宗教」化した白蓮教とか羅教(無為教)といったところの記述が興味深い。

羅教開祖・羅祖が、悟りに至るまでの右往左往する様は、下手な小説よりもおもしろい。人気も出るわな。

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ところで、この本とは別なんだが、

・岡田英弘 (2003.7) 『やはり奇妙な中国の常識』(ワック文庫). 234pp. ワック出版, 東京.
← 初出 : 岡田英弘 (1997.10) 『中国意外史』(Shinshokan History Book Series). 253pp. 新書館, 東京.


装幀 : 加藤俊二(プラス・アルファ)

におもしろい話があった。道教のタントラ密教だ。

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秘密結社III, 同書pp.59-75.
性, 同書pp.139-152.

あたりで紹介されている性密儀は、どうもタントラ密教とよく似ている。また真言立川流とも似ている。

ところがその源流は、というと2世紀の五斗米道・張陵まで逆上るというのだ。インドのタントラ密教(ヒンドゥ教・仏教を問わず)の始まりである7~8世紀よりずっと早い。

まあ文献として内容が残っているのは、道教版大蔵経である『道蔵』所収「上清黄書過度儀」らしいので、その内容が正確にはいつ頃のものなのかはっきりしないのだが・・・。

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その儀軌が本当に2世紀由来のものであるのならば、インド・タントラ密教の発祥についても、中国道教の影響を考える必要があるのかもしれない。

いろいろ面白いことを考えさせてくれる2冊でした。

2017年10月11日水曜日

ナーランダー寺に、金剛三昧以外に日本人僧がいたか?

金剛三昧についてネット上で調べていると、「ナーランダー寺に日本人僧がいた」という情報が出てくる。

例えば、これ

・YAHOO! JAPAN > 知恵袋 > 教養と学問、サイエンス > 歴史 >日本史 > 古代インドに行った最初の日本人仏教僧は誰ですか?(2015/1/29 12:51:59)https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14141274494

wikipediaの日印関係を見ると、(中略) 同じ段落には、
「現在は破壊されてしまったインドのナーランダにある古い学院の記録には、日本から来た学者と弟子のことが書かれている。」
ともあります。
ナーランダは12世紀に破壊されたそうなので、日本人は破壊される前、すなわち12世紀以前に訪れていたと思われます。でも、名前が出ていません。

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というわけで、ウィキペディアに行ってみると、

・ウィキペディア > 日印関係(最終更新 2017年10月5日 (木) 19:56)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%8D%B0%E9%96%A2%E4%BF%82

現在は破壊されてしまったインドのナーランダにある古い学院の記録には、日本から来た学者と弟子のことが書かれている。[4]

脚注 
4. Garten, Jeffrey (2006年12月9日). “Really Old School”. New York Times 2008年11月8日閲覧。

とある。うーん、そんな話聞いたことないねえ。

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もう一つ、

・Wikipedia (English) > Nalanda(This page was last edited on 10 October 2017, at 16:18)
https://en.wikipedia.org/wiki/Nalanda

The Mahavihara
The subjects taught at Nalanda covered every field of learning, and it attracted pupils and scholars from Korea, Japan, China, Tibet, Indonesia, Persia and Turkey.[57]

Notes 
57. Garten, Jeffrey E. (9 December 2006). "Really Old School"

どうやら、この話の大元がわかってきた。そこで、この元記事に行ってみよう。

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・The New York Times > ALL > Opinion > OP-ED Contributors > Jeffrey Garten/Really Old School(DEC. 9, 2006)
http://www.nytimes.com/2006/12/09/opinion/09garten.html

Nalanda was also the most global university of its time, attracting pupils and scholars from Korea, Japan, China, Tibet, Indonesia, Persia and Turkey.

伝言ゲームで伝わるうちに、微妙にニュアンスが変わっているが、「日本からの仏弟子・学僧を惹きつけた」と書いてある。これだと、「日本人僧がNalanda寺にいた」と読めてしまいますね。

しかし、日本版ウィキにある「古い学院の記録には、日本から来た学者と弟子のことが書かれている」なんてどこにも書いてないぞ。

これが伝言ゲームの恐ろしさ。伝言を繰り返すうちに、途中で誰かが自分で創作して、尾ひれをつけてしまうのだ。おそらく無意識に。

また、上記の論拠・出典は提示がないので、いったいどこから来た説なのか不明。

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著者のJeffrey Gartenについて調べてみた。

・JAFFREY E. GARTEN > ABOUT(as of 2017/10/11)
http://jeffreygarten.com/about/
・Wikipedia (English) > Jeffrey Garten(This page was last edited on 3 September 2017, at 07:36)
https://en.wikipedia.org/wiki/Jeffrey_Garten

「NY Timesに寄稿」と書いてあるので、この人に間違いないだろう。

1946年生まれ。経済学者。米国務省、White House、Lehman Brothers、Elliot Group社長、Columbia University教授、商務次官などを歴任。現在はYale School of Managementの名誉学長(元学長)。

はい、歴史畑・仏教畑の人では全然ありませんね。上の記述もあまり信頼できるとは思わないほうがいいでしょう。

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この文章をそのまま検索してみると、ほぼ同じ文章がたくさん見つかりますが、見渡したところ、どれも新しい。

Gartenの文を引いているものも多く、どうも上記Garten記事がだいぶ影響を与えているらしい。

Garten記事の論拠は不明だが、彼はこの分野の専門家ではないので、おそらく歴史・仏教畑の著者による元ネタがあると思われる。が、今はその元ネタはわからない。

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しかし、前回述べたように『酉陽雑俎』に、金剛三昧がNalanda寺を訪れた、という記事があるので、まんざら根拠がないわけではない。

私の推測では、その情報が不完全な形で伝わり、『酉陽雑俎』や「金剛三昧」という固有名詞が抜け落ちた形で、「Nalanda寺に日本人がいた」という情報だけが伝わっている、と考えます。

だから、その情報と金剛三昧の情報が別ルートで伝わると、「金剛三昧の他にも、Nalanda寺に日本人が別にいた」と思えてしまうわけです。

今のところ、金剛三昧以外に「Nalanda寺に日本人がいた」という話は、私は知らないのですが、もし文献にそのような記述があるのであれば、是非教えて下さい。

2017年10月7日土曜日

平安時代初期/唐代、インドに行ったはじめての日本人?金剛三昧

前回紹介した本と直接の関係はないのだが、ちょうど同時代9世紀に、どうやらインドに行って来た日本人、それも「密教僧」がいたらしい、というお話をしておきましょう。

その名は「金剛三昧(こんごうざんまい)」

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金剛三昧の存在を記録する文献は、ただ一つ。

・段成式 (唐ca.860) 『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』(前集20巻+続集10巻).

段成式(ca.803-63)は、青州(山東省)出身の官僚・文人(父は節度使~宰相・段文昌)。

『酉陽雑俎』は、古今東西の様々な事物について記録した、いわば百科事典(ちょろっと書いておいた忘備録みたいな文も多い)。中には怪しげな志怪譚も多く、明らかな作り話も見られる。

邦訳は、

・段成式・著, 今村与志雄・訳注 (1980.7~81.12) 『酉陽雑俎 1~5』(東洋文庫). 平凡社, 東京.

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金剛三昧が現れるのは次の文。

前集 巻三 貝編 仏教経典録異
國初、僧玄奘往五印取經、西域敬之。成式見倭國僧金剛三昧、言嘗至中天、寺中多畫玄奘蔴屩及匙筋、以綵雲乗之、蓋西域所無者。毎至齋日、輙膜拜焉。又言那蘭陀寺僧食堂中、熱際有巨蠅數萬。至僧上堂時、悉自飛集於庭樹。

建国の初め、僧の玄奘は、五印(五天竺)に赴き、経典を取ってきた。西域では、玄奘を尊敬している。わたしは、倭国の僧、金剛三昧に会ったことがある。金剛三昧はこう語った。「かつて中天(中天竺)へ行きました。寺院では、玄奘の麻の屩(くつ)、及び匙筯(ひちょ/箸)を多く画いており、綵雲に乗っています。多分、西域にないものだからでしょう。いつも斎戒の日はかならず合掌して礼拝します」。また、こう話した。「ナーランダー寺の僧の食堂(じきどう)は、炎熱のとき、大きな蝿が数万いる。僧が食堂に入ってくるときになると、ことごとくひとりでに飛んで、庭の樹に集まる」。
今村・訳 同書(東洋文庫版)1巻, pp.226-227

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段成式は天竺に行った日本人僧に会った、というのだ。金剛三昧というからには密教僧であろう。

梵名に翻訳すると वज्र समाधि Vajrasamadhi(おそらくこちらが元)。余計なお世話だが、チベット名に翻訳してあげると རྡོ་རྗེ་ཏིང་ངེ་འཛིན་ rdo rje ting nge 'dzin。

法名に「三昧」と入るのは珍しいかもしれないが、チベットでも同時代、9世紀初にニャン・ティンゲジン མྱང་ཏིང་ངེ་འཛིན་ myang ting nge 'dzinという僧がいるので、おかしくはない。

法名が「なにかハッタリくさい(すなわち嘘くさい)」と考える人もいるようだが、これがインドで授けられた法名だとすると、むしろ俄然リアリティが出てくる。

中国で授けられた法名ならば、密教学僧であっても当時は二文字が普通だ。Vajrasamadhiというインド名を、まんま漢訳しただけの「金剛三昧」という法名は、確かにインドへ行って修行した証拠と言えるかもしれない。

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段成式が金剛三昧に会ったのは、いつなのだろうか。

『酉陽雑俎』の成立は、段成式の晩年860年頃と推測されているがはっきりしない。おそらく亡くなるまで連綿と書き継いでいたのだろう。

だから、上記の文が書かれた年代、あるいは金剛三昧に会った年代も、いつなのかわからない。今のところは820~60年頃と広く取っておこう。

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『酉陽雑俎』では、金剛三昧はもう1箇所に登場します。そちらには年代が入っているので、金剛三昧の足跡のヒントとなります。

続集 巻二 支諾皐中
倭國僧金剛三昧、蜀僧廣升、峨眉縣、與邑人約遊峨眉、同雇一夫、負笈荷糗藥。山南頂徑狹、俄轉而待、負笈忽入石罅。僧廣升先覽、即牽之、力不勝。視石罅甚細、若隨笈而開也。衆因組衣斷蔓、厲其腰肋出之。笈才出、罅亦隨合。衆詰之、曰、我常薪於此、有道士住此隙内、毎假我舂藥、適亦招我、我不覺入。時元和十三年。

倭国の僧、金剛三昧と、蜀の僧、広昇とが、峨眉県で、県人をさそって峨眉に出かけた。一緒に人夫を一人、やとい、笈(きゅう)を背負わせ、乾糧(ほしいい)を持たせた。薬山の南の頂上は、山道が狭く、急に方向がかわって待っていると、笈を背負った人夫が、不意に、岩の隙間に入った。僧広昇が、さきにみて、すぐさま、ひっぱったが、その力にあまった。岩の隙間をみると、非常に細く、笈のとおりに開いているようであった。人々は、そこで衣をつなぎ、蔓をきり、その腰肋を強化して、人夫を出した。笈が出るや、隙間もそれとともにあわさった。人々は、人夫を責めた。人夫はいった。「わしは、いつも、ここで薪をとっています。道士がその隙間のなかに住んでいて、つねに、わしの手をかりて薬をついています。いまし方、わしを招いたから、わしは、思わず、入ってしまった」そのときは、元和十三年(八一八)であった。
今村・訳 同書(東洋文庫版)4巻, p.87

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元和十三年とは818年である。その年、段成式は16歳くらい。これは、段成式が金剛三昧に会ってその話を聞いた年、ということではないだろう。

金剛三昧が元和十三年に峨眉山に行き、後に段成式に会った時に、それを昔話として語った、ということだと思う。

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段成式が金剛三昧に会った時期は、相変わらずわからないわけだが、818年に金剛三昧がすでに唐にいて、四川の峨眉山あたりをうろうろしていたことはわかった。

峨眉山は普賢菩薩の聖地である。普賢菩薩は唐・代宗[位:762-79]の結縁仏であったこともあり、普賢菩薩及びこれに関係が深い文殊菩薩の信仰がかなり流行したよう。不空三蔵の五台山での文殊信仰布教もその一環らしい。

不空は774年にすでに遷化しているので、金剛三昧は不空の弟子・恵果の系統に当たる義明、義操、義真、あるいは般若あたりに師事したのであろうか。あるいは完全にインドでの修行が中心だった可能性もある。

「金剛」の名が示すように、おそらくは「金剛頂経」系の密教を学んだ僧であったのだろう。

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818年に唐にいたということは、それ以前の遣唐使で入唐したことになる。可能性としてあるのは、

777年 第16回遣唐使
779年 第17回遣唐使
804年 第18回遣唐使(最澄、空海、霊仙)
805年 第18'回遣唐使(空海帰国)

あたり。その後遣唐使は間がかなり空き、

838年 第19回遣唐使(円仁)

まで30年以上ない。

参考:
・ウィキペディア > 遣唐使(最終更新 2017年9月23日 (土) 20:42)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF

遣渤海使や遣新羅使で大陸に渡り、そこから唐に移ったという可能性もあるかも知れない。ただ、そういう例は記録にないので、可能性に留まる。

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804年に入唐したとすると、818年の峨眉山行は入唐15年目となる。この間に天竺往来は厳しいかもしれない(特に陸路の場合)。その場合は、818年の峨眉山行の後に天竺往来した、と考えたほうがよさそう。

779年に入唐したとすれば、818年の峨眉山行は入唐40年目。その間天竺往来は十分可能な時間だ。入唐時は少なくとも、年齢は二十代以上だったと思われるので、818年には60歳以上という高齢だったことになる。777年入唐の場合もほぼ同じ。

段成式が金剛三昧と会ったのは、818年以降。『酉陽雑俎』では、金剛三昧が高齢だったような記述がないので、804年入唐の可能性のほうが高いか?

まあ、いつ会ったのか?にもよるし、単に書かなかっただけなのかもしれないので、推察の一つとして取ってほしい。

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804年入唐の場合は、最澄、空海、霊仙あたりに付き添って入唐した無名の人物である可能性もある。

・百度百科 > 霊仙三蔵(as of 2017/10/06)
https://baike.baidu.com/item/%E7%81%B5%E4%BB%99%E4%B8%89%E8%97%8F

などは、はっきり「金剛三昧も804年遣唐使の一員」と書いているが、そんな証拠はどこにもない。それは単なる推察である。

最澄、空海はすぐに帰ってしまったので、それよりも、長らく唐に滞在した霊仙(759-ca.827)の関係者と見た方がいいかもしれない。

法相宗の僧・霊仙は、804年45歳で入唐し、長安で学んだ。810年、醴泉寺(れいせんじ)にて、西域僧・般若三蔵と共に『大乗本生心地観経』の漢訳に従事した。811年には「三蔵法師」の称号を授けられる。怨敵調伏の秘法「大元帥法」を習得する。しかし、これらの秘法流出を恐れられ、出国を禁じられた。820年に五台山に移る。825年には、遣渤海使経由で日本とやり取りをし、仏舎利や経典を日本に届けている。828年以前に遷化したようだ。

参考:
・ウィキペディア > 霊仙(最終更新 2017年9月4日 (月) 23:44)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E4%BB%99

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霊仙は、入唐後、般若三蔵と近しい関係だったようで、当然密教を学んだと思われる。密教呪法「大元帥法」も学んでいるし。

なお、この「大元帥法」は、838年入唐、839年帰国の日本人僧・常暁によって日本に持ち帰られ、以後、真言密教の大秘法として伝えられている。

般若三蔵には空海も師事したが、それより近しくまた長く接していた霊仙も「金剛頂経」を学んだ可能性は高いだろう。

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そして、ようやく金剛三昧に戻るが、彼が霊仙に付き添って唐に留まった人物だとすると、その後密教修行を極めるために、インドへ向かった、というストーリーは成り立ちそうだ。

そのタイミングは、820年霊仙が五台山へ移った後かもしれない。ただしこれが成立しやすいのは、陸路でインドへ向かった場合。だが、当時、西域経営が衰え、唐の威光が全く通用しなくなっている西域ルートは、求法僧には使われなくなっている。

どっちかというと、海路でインドへ向かった可能性が高いのではないかと思う。証拠は何もないので、単なる推察だが。

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もしかすると、日本~唐では出家しておらず、霊仙の付き人として付き添っているうちに、発心したのかもしれない。そして一念発起してインド行き。そこではじめて出家し、Vajrasamadhi(金剛三昧)という法名を授けられたのかもしれない。

日本~唐時代にすでに出家しており、漢風法名(たいてい二文字)を持っていたのであれば、そちらを後生大事に名乗るはずだ。

だから、この金剛三昧が日本人であるかは別として、インドに行ったのは本当ではないかという気がしている。

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なお、金剛三昧についてはこの2つの記事しかないので、彼のステイタス、どの寺に所属していたのかなどは不明。なんか遊行僧みたいでもある。

また、その後亡くなるまで唐に滞在したのか(たぶんそう)、日本に帰国できたのかも全く不明だ。日本名もわかっていない(たぶん日本時代も記録がない)。

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しかしなあ、前にも書いたように『酉陽雑俎』には怪しげな話も多い。「金剛三昧」の話も、まるっきりホラ話という可能性も捨てきれないのだ。

(1) 段成式が作ったホラ話(金剛三昧という人物など存在しない)。
(2) 金剛三昧が作ったホラ話(実は日本人ではない/実はインドへなど行っていない)
(3) 段成式は金剛三昧に会っていない(けど、誰かが会って聞いた話をふくらませている/あるいはその誰かが話をふくらませている)

などなど、いろんな可能性が考えられる。

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考えて見れば、金剛三昧のNalanda寺話も、「玄奘の靴や箸が描かれていた」だの「蝿がいっぱいいた」だの、しょうもない話題ばっかりだ。なんか噂話や伝聞でも仕入れられそうな話。

まあ、段成式とはちょろっと立ち話しただけだとすると、聞ける話はその程度なのかもしれないが。

峨眉山での話も、特に金剛三昧は活躍していないし、何と言っても話が胡散臭すぎる。

一刀両断「話にならない、無視」で済ませるのも一つの方法だが、わからないけど、色々詮索したり、妄想を広げるのは楽しいものだ。

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このエントリーも、金剛三昧詮索には、あまり役に立っていないかもしれないが、少なくとも「金剛三昧」という法名が「ハッタリくさい/インチキくさい」ものではないことを、後押しする役割は果たしているのではないか?

こうやってチンケな考えであっても、調べ、考察し、表明していると、同じ所をグルグル回っているようでも、少しずつ螺旋状に上って行くのだ。

結局は、新資料が出てこない限り画期的な進展はないだろうが、その時に少しでも役に立つのであればうれしい。

2017年10月6日金曜日

唐代中国密教

えー、ネタがないので、引き続き「新アジア仏教史」ネタです。お次は、

・菅野博史・編集協力 (2010.6) 『興隆・発展する仏教』(新アジア仏教史07 中国 II 隋唐). 507pp.+map. 佼成出版社, 東京.


装幀 : 間村純一, 撮影 : 丸山勇

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この巻の前半では、如来蔵思想、唯識思想、地論宗、摂論宗、天台宗、華厳宗、浄土教、三階教あたりの解説が続き、かなり込み入った仏教理論に立ち入る。なかなか消化できずに苦労したが、それだけ日本での同分野の研究が成熟している、ということなのだろう。

続いては禅宗。これも宗派の流れがだいぶイメージできるようになった。

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そして自分にとって一番面白かったのが、

・岩崎日出男 (2010.6) 第6章 密教の伝播と浸透.『興隆・発展する仏教』(新アジア仏教史07 中国 II 隋唐)所収. pp.337-391. 佼成出版社, 東京.

これまで名前はよく聞くが、漠然としか理解していなかった

善無畏三蔵(शुभकरसिंह Śubhakarasimha/637-735/東インド烏荼国王家出身/Nalanda寺で修行/716入唐/『大日経』を伝える/長寿でも有名)

金剛智三蔵(वज्रबोधि Vajrabodhi/671-741/中インド王家出身/Nalanda寺で修行/719入唐/『金剛頂経』、灌頂儀礼、密教絵画を伝える)

一行禅師(683-729/河南出身/金剛智、善無畏に師事/『大日経疏』を著す)

不空三蔵(अमोघवज्र Amoghavajra/705-774/西域出身/金剛智に師事し『金剛頂経』を学ぶ/744~46海路渡印し経典収集/五台山・文殊信仰を推進)

恵果和尚(けいかかしょう/746-805/長安近郊出身/不空に師事し『金剛頂経』を学ぶ/善無畏の弟子に師事し『大日経』を学ぶ/『金剛頂経』『大日経』を両部として一元化/805空海に教えを授ける)

般若三蔵(प्रज्ञ Prajna/733-810?/Kapisi(迦畢試)国出身/Kashmir(迦濕彌羅)、Nalanda寺で修行/781海路入唐/『大乗理趣六波羅蜜多経』漢訳)

について、だいぶ理解が進んだ。

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中国密教と道教の(特に呪術においての)共通性と交渉についての考察もあった。昨年、「悪霊祓い」でだいぶ調べたこともあり、興味深く読んだ。

いや、この件はまだまだまとまっていないのだが、「インド呪術→密教呪術→道教呪術→日本の祈祷僧・陰陽師」という流れがありそうなことがだんだんわかってきた。まだ点でしか繋がっていないので、もっと理解が進んだら書きます。

その流れの分岐として、ボン教やチベット仏教の呪術が位置づけられそうでもある。道教呪術←→ボン教・チベット仏教呪術については、まだ十分整理できていないので、もう少し要調査。