2009年10月3日土曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(26) 漢文史料に現れる「ブルシャ」その3

次に、(2)『佛本行集経』巻11(隋訳) - 「波流沙[中古音:pua liau sha]」 を見てみましょう。

『佛本行集経』は、釈尊(ゴータマ・シッダールタ)の伝記、いわゆる仏伝の一種です。編纂年代は不明、漢訳は闍那崛多(隋581~91)によります。本文は、

・高楠順次郎ほか・編(1924) 『大正新脩大蔵経 第三巻 本縁部 上』. 大蔵出版社, 東京.

などで。

その巻十一は「集学技芸品」という章で、釈尊が少年時代に学問を修める様子を記述しています。釈尊が学んだ書物の一覧があり、その中に

波流沙書(隋言悪言)」

という書物名があります。

これはサンスクリット語「Parusha-lipi(粗い+文字・言葉)」の前半音写+後半意訳とみられています。漢訳文を合わせて察するに、「粗い(言葉)=悪口雑言」をリストアップし、上流階級では使ってはならない言葉が何かを学ぶ書物ではないか、と推測されます。「波流沙」の出現箇所はこれだけです。

意味でも時代設定でも、地名「ブルシャ(ボロル)」には結びつきそうにありません。これは「ブルシャ(ボロル)」とは無関係とみなしてよさそうです。

参考:
・鎌田茂雄ほか・編(1998) 『大蔵経全解説大事典』. pp.10+1071. 雄山閣出版社, 東京.
・鈴木学術財団・編(1986) 『漢訳対照 梵和大辞典 新装版』. 講談社, 東京.

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次に、(2a)『佛説菩薩本行経』巻上(東晋訳) - 「不流沙[中古音:piuat/piau liau sha]」を見ましょう。

『佛説菩薩本行経』は、釈尊の前世を語る、いわゆるジャータカ(本生譚集)の一種です。編纂年代は不明、漢訳者不明(東晋代)。本文は、

・高楠順次郎ほか・編(1924) 『大正新脩大蔵経 第三巻 本縁部 上』. 大蔵出版社, 東京.

などで。

十一の本生譚が収録されており、その中の一話に「不流沙城」という地名が現れます。

┌┌┌┌┌ 以下、『大正大蔵経3』より抜粋の上和訳 ┐┐┐┐┐

閻浮提(Jambu-dvida、インドを中心とする世界)の中に不流沙という城(国)があった。王の名は婆檀寧、王妃の名は跋摩竭提。国には飢饉に加え疫病がはびこり、王も病に倒れてしまう。王妃は王の快癒を祈願するために祠堂に赴いた。

その帰り、ある家の前を通りかかると泣き叫ぶ婦人の声が聞こえた。この婦人は夫に逃げられた上に、赤ん坊を産んだばかりだった。なのに食べるものは一切なく、この産んだばかりの我が子を殺して食べるしかないという悲惨な状況。事情を聞いた跋摩竭提は、哀れに思い自らの乳房を二つ切り取りこの婦人に食肉として与えた。

この有様を天界から見ていた帝釈天(インドラ神)をはじめとする神々は、跋摩竭提の行いに感銘を受け、その面前に降臨する。跋摩竭提の慈悲の志を知り、彼女に将来の成仏を約束し、また彼女の望み通り男子に変じさせた。そして飢饉、疫病は去り、国は幸福を取り戻した。

その後、王が死去すると家臣はこぞって跋摩竭提を王に推挙し、国は栄え続けた。この跋摩竭提こそが釈尊の前世であった。

└└└└└ 以上、『大正大蔵経3』より抜粋の上和訳 ┘┘┘┘┘

というもの。

この不流沙城(国)が、カラコルム山中の国ブルシャ(ボロル)であることを窺わせる記述は全くありません。これは本生譚ですから、時代もブルシャ(ボロル)が歴史上に現れる遙か昔、どころか釈尊よりも昔の出来事、という設定で、無理に史実に比定する必要もないと思われます。

城(国)の名「不流沙」にはモデル(借用もと)はありそうです。この本生譚がいつ、どこで、誰によって作られたのかわかりませんから、そのモデルについても比定はなかなか難しいのですが、前述のプルシャプラ(ペシャワール)は著名な地名ですから、その候補の一つと考えていいでしょう。

いずれにしても、この「不流沙」もブルシャ(ボロル)とはまず関係ないとみてよさそうです。

参考:
・鎌田茂雄ほか・編(1998) 『大蔵経全解説大事典』. pp.10+1071. 雄山閣出版社, 東京.

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なお、経典の内容検索には、

・【網路藏経閣】佛學世界
http://www.suttaworld.org/
・中華電子仏典協会 Chinese Buddhist Electronic Text Association (CBETA)
http://cbeta.org/

のデータベースを利用した。

2009年10月1日木曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(25) 漢文史料に現れる「ブルシャ」その2

「不流沙」と共に遣使している国々の中で、「乾達」=「ガンダーラ」という比定はほぼ確実なのですが、阿婆羅、達舍、越伽使密については、前回の比定とは別の比定も可能です。『魏書』西域伝の中から似た国名を探してみます。

「阿婆羅」=西域伝の「阿弗太汗(現・ヒヴァか?)」?
「達舍」=西域伝の「諾色波羅(Nakhshab)」?
「越伽使密」=西域伝の「呼似密(Khwarism=ホレズム)」?(注1)あるいは「伽色尼(Kashaniya/Kesh=現・シャフリサブス)」?(注2)

西域伝諸国の読み・位置は、内田(1970~72)に従った(注3)。

ここで挙げた西域伝の国名は、不思議なことに本紀遣使記事には現れません(注4)。西域伝に条が立っているのですから、遣使がなかったとも思えません。本紀遣使記事と西域伝では別の漢字で表記された可能性があります。本紀と西域伝ではソースが異なるのでしょうか?。

遣使記事に直接名前が挙がっていなくとも、「・・・等諸国」の中に含まれているのかもしれません。しかし、わざわざ西域伝に条を立てるような国々をあらかた省略してしまうとも思えません。別名表記された可能性は高いでしょう(注5)。

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これらはいずれもソグディアナに位置する国です。この比定が正しいのなら、「不流沙」の位置もガンダーラではなくそちらの方に求めたくなります。

すると、完全には一致しませんが、

「不流沙」=西域伝の「弗敵沙(Badakhshan=バダフシャン)」?(注6)

という可能性が浮かび上がってきます。この場合は、「敵」が本紀遣使記事では「流」と誤記された、と仮定しなければなりません。ここが弱点です。

また、本紀遣使記事を当たると、449年(太平真君10年)に浮圖沙国が遣使しており、これは弗敵沙国と同じ国かもしれません。そうなると、この国が「不流沙」というさらなる別名で記録されている、というのも腑に落ちない話です。これもこの説の弱点。

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もう一つ候補があります。

アム・ダリヤ南岸のフルム(Khulm、現Tashkurgan近郊)は、北魏代にはその名は確認できませんが、唐代になると

「忽懍」@『大唐西域記』
「富樓州」@『新唐書』

の名で現れます。これが北魏代に「不流沙」の名で記録された可能性はあるかもしれません。欠点はいうまでもなく、まず「沙」の音が説明できないこと。そして、やはり北魏代に国として存在していたかどうか確認できないこと、です。


中世ソグディアナ地図
出典:
・香山陽坪 (1987) 第II部 中央アジアの歴史 第三章 西トルキスタン 第二節 中世国家. 江上波夫・編 (1987) 『世界各国史16 中央アジア史』所収. p.467-484. 山川出版社, 東京.
(一部を加筆・改変した)

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なんとも収拾がつかなくなっていますが整理すると、この「不流沙国」を

(a)ボロル/ブルシャ(ギルギット周辺)
(b)プルシャプラ(現ペシャワール)
(c)現シャーバス・ガリー
(d)バダフシャン
(e)フルム(現タシュクルガン近郊)

のどれに比定するかについては、どれも一長一短あり決定できません。少なくとも、他の候補を退けて「不流沙=ボロル/ブルシャ」と断定できるほど証拠はそろっていない、とは言えるでしょう。

個人的には(c)の可能性が高いと思っていますが、もう少し証拠を集める必要があります。

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(注1)
ホレズムは、この他

「貨利習彌伽」@『大唐西域記』/『慈恩寺三蔵伝』/『新唐書』
「火辞彌」@『新唐書』
「火尋」@『新唐書』
「過利」@『新唐書』

などの表記がある。

(注2)
ケシュは、この他

「羯霜那」@『大唐西域記』/『慈恩寺三蔵伝』
「乞史」@『新唐書』

などの表記がある。隋・唐代に一般に「史国」と呼ばれたのはこの国。

(注3)
西域伝の諸国については、北魏の旧都・代(平城=現・山西省・大同)よりの里程が付されている。「阿弗太汗」、「諾色波羅」、「呼似密」は代より二万数千里と記され、これは「波斯(ササン朝ペルシア)」と同程度の距離になる。

これらの国々は、方角を記す際の起点が「忸密(ブハラ)」になっている。この「忸密」は代より二万二千八百二十(22,820)里とされるが、ブハラから200km(約四百里)しか離れていない「悉萬斤(サマルカンド)」が一万二千七百二十(12,720)里とされているのに比べると異常な数字である。よって「忸密」の里程は一万二千八百二十(12,820)里が正しく、二万なにがしという数字は誤記であろう、と推測されている(内田1970~72)。

従って「忸密」を起点として記述されている上記三国の里程も実際は一万数千里が正しい、とみてよい。これらの国々をペルシアの彼方に求めるよりも、内田説に従いソグディアナに求める方が妥当と考える。

(注4)
『魏書』本紀の遣使記事はこれまで充分活用されておらず、西域伝に条が立っている諸国に比定する試みもあまり見かけない。ちょっともったいない。また両者の比定が可能であるのならば、本紀と西域伝ではなぜに国名表記が異なっているのか?など、解明すべき謎は多い。

(注5)
前回の「鉢露羅」-「不流沙」との違いは、これが「Bolor」-「bru sha」といった具合に原音からして異なる(と推測される)のに対し、この三国では原音は同じで漢字表記だけが別になっている(と推測される)こと。

(注6)
バダフシャンはこの他、

「波多叉拏」@『続高僧伝』
「鉢鐸創那」@『大唐西域記』/『慈恩寺三蔵伝』
「抜特山」@『新唐書』
「蒱特山」@『往五天竺国伝』

などの表記がある。

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なお、『魏書』、『北史』の内容検索には、

・華東師範大学研究生院
http://www.yjsy.ecnu.edu.cn/

の二十五史データベースを利用した。