2014年3月31日月曜日

ヒマーチャル小出し劇場(10) スングラーの双胴寺院塔

これは、その存在と場所を建築家・神谷武夫さんに教えていただいたものです。











奇っ怪さに笑ってしまいますね。わざわざ二つ塔を建て、なぜ上部を連結させなくてはならないのでしょうか?

これは、どうも最初一基だけだったのが、だんだん傾いてきたため、もう一基建てて上部を連結させ、古い塔を支えているのではないか、と言われています。

場所は下キナウルのスングラー(Sungra सुंगरा)本村。

スングラーといえば、本村から離れたSungra ThanagにあるMeheshwara Mandir(地元ではThanag Mandirと言ったほうが通じる)がごく一部の人には有名ですが、本村にあるこの寺もMaheshwara Mandirです。ややこしい(注)。

この双胴塔は、寺院本体ではなくバンダール(宝物庫)。本体より立派です。寺院本体は境内の隅っこ。一方バンダールは、境内中央に堂々とそびえ立っていました。変ですよねえ。

ヒマーチャルの木造寺院建築に関しては、神谷さんと日本の宮大工を連れ立って是非TV番組を作ってほしい。日本の宮大工がどう感じるか、どう分析するか、ものすごく興味がある。

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(注)
地元では、Maheshwaraが訛ってMaishurと呼ばれることが多い。

2014年3月29日土曜日

「ブルシャ」の語源 Revisited

はい、語源シリーズ第3弾。今回は、以前さんざん検討したはずの

འབྲུ་ཞ་/བྲུ་ཤ་ 'bru zha/bru sha (ブルシャ)

の語源についての補足情報。

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ブルシャ話について詳しくは、

2009年6月17日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(1) ブルシャスキー語

から

2012年3月1日木曜日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(36) おわりに

までを参照してください。

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そこでは、ギルギット~フンザを示す地域のチベット名

འབྲུ་ཞ་/བྲུ་ཤ་ 'bru zha/bru sha (古音:ブルシャ/現代音:ドゥシャ)

の語源を、

・ブルシャスキー語の「boor sah(西に沈む太陽)」→「'bru zha」
・王朝名「Patola」→国名/地域名「Bolor」→「'bru」
・ブルシャスキー語の「boori(銀)」→「'bru」
・シャンシュン語の「sha(石)」→「zha」
・キナウル語の「shya(に属する)」→「zha」

あたりが関係しているのではないか?と推測しましたが、結局はっきりした結論までは至りませんでした。

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しかし、当時は重要項目にうっかり気づかずにいました。それは、

2009年8月22日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(16) ブル氏起源神話の検証

にあります。その部分を再録してみましょう

┌┌┌┌┌ 以下、再録 ┐┐┐┐┐

10世紀頃のボロル/ブルシャはどういう状況だったのか?というと、実はこの時代は史料に乏しく、具体的にはほとんどわからない状態です。

唯一、

・著者不詳 (982) HUDŪD AL-'ĀLAM(世界地理誌-東から西まで). (ペルシア語)

のわずかな記述があるのみです。

・Vladimir Minorsky (1937)HUDŪD AL-'ĀLAM(THE REGIONS OF THE WORLD). pp.xx+524. Luzac, London. →上記史料の英訳。一部、桑山(1998)収録
・桑山正進・編(1998) 『慧超往五天竺國傳研究 改訂第二刷』. pp.xii+292+pls. 臨川書店, 京都. →Minorsky(1937)を一部収録

からその記述を見てみます。

┌┌┌┌┌ 以下、桑山(1998)収録のMinorsky(1937)の英訳に基づき和訳 ┐┐┐┐┐

ボロルは広い国である。その王は太陽の息子と称する。王は日が昇るまで起床しない。息子は父より先に起床してはいけないからだという。王の称号はBulūrīn Shāhである。この国には塩は産出しないのでカシミールより輸入している。

└└└└└ 以上、桑山(1998)収録のMinorsky(1937)の英訳に基づき和訳 ┘┘┘┘┘

まだ、イスラム化していない状況がわかる程度で、王家がテュルク系とみられるトラカン朝なのか、その前のシャー・レイス朝なのかも不明です。

└└└└└ 以上、再録 ┘┘┘┘┘

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問題の箇所は、

> 王の称号はBulūrīn Shāhである。

この部分になります。

つまり、

・王朝名「Patola」→国名/地域名「Bolor/Bulur」→「'bru」
・ペルシア語の「shah(王)」→「zha」

という考えです。

これまでの説と違って、「Bolor Shah(Bulūrīn Shāh)」という名称は実際に文献に現れる名ですから、複数の言語から単語を引っ張り出してくっつけたりして、こねくり回す必要がない点が有利です。

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そう考えると、

2012年2月5日日曜日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(27) 漢文史料に現れる「ブルシャ」その4

であげた、ブルシャの漢字表記「布路州」も、チベット語「'bru zha」経由でなく、現地での自称「Bolor Shah」を直接写したものである可能性も出てきます。

『HUDŪD AL-'ĀLAM』と継業のインド行は、ほぼ同じ年代、すなわち10世紀後半にあたります。

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しかし、いいことばかりとも言えません。

「Bolor Shah」というのは王の称号です。これがチベット語では地域名に転じた、とするには一ひねりする必要があります。

チベット語文献には「bru zha rje(ブルシャ王)」という言葉も存在しているので、これでは「shah」と「rje」で「王」の意味が重複してしまいます。

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また、現在はフンザ人の自称民族名は「Burusho」というのですが、ペルシア語の「shah」の母音が変化して「-sho」となる可能性はあるのでしょうか?

これは、「Bolor Shah」という言葉が、一度現地では完全に忘れ去られた、と考えれば解決するのかもしれません。つまり、チベット語にのみ「'bru zha」として生き残り、その後現地に逆流してきた、という仮説。「'bru zha」の「zha」が「shah」が転じたものである、ということがわからなくなっていたので、語尾変化も気にする必要がない、ということです。

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このように、「'bru zha」の語源としての「Bolor Shah」も、現状では可能性のひとつに過ぎないのであって、確定とは到底言えません。

しかし、これもまた一歩前進であって、これで議論が活性化するなら結構なことです。

2014年3月27日木曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(5) カチェのカチェ

チベット人は全員が仏教徒というわけではありません。わずかですが非仏教徒もいます。というと、すぐに思い浮かぶのはボン教徒ですが、今回はそれよりもさらに少数派イスラム教徒のお話です。

チベット語では、イスラム教徒のことをカチェ(ཁ་ཆེ་ kha che)と呼びます。これは本来カシミール/カシミール人を意味しますが、これが転じてイスラム教徒全般を指す言葉となりました(注1)。チベット人イスラム教徒も同じくカチェと呼ばれます(というか、順序は逆ですね。詳しくは後ほど)。

チベット在住のカチェは、現在3000人とも6000人とも言われています。ラサにはカチェ・ラカン(モスク)もありますね。チベットには、非チベット人イスラム教徒の回族やサラール族(撒拉族)も多いので、一見してチベット人イスラム教徒を見分けることは難しいでしょう。

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1959年以降、多くのチベット人が中国共産党の支配を逃れて国境を越えましたが、その中にはわずかながらカチェたちもいました。中国共産党による民族・宗教弾圧は、仏教・イスラム教の区別はありません。生活のすべてを支配される束縛からの解放、信仰の自由を求める気持ちは仏教徒と同じです。

仏教徒と違ったのは、彼らが落ち着いた先はダラムシャーラーや南インドではなく、カシミール(州都スリナガル郊外)だったこと。

イスラム教徒であるがゆえに、彼らに対してはJ&K州より援助の申し入れがあり、彼ら自身もまたモスレム社会に入ることを好んだようです。

そもそもカチェたちは、ラサにやって来てそのまま住みついたカシミール商人の子孫と云われています。数百年の時を経て、カチェ(カシミールに出自を持つチベット人イスラム教徒)がカチェ(カシミール)に戻ったことになります。

先祖の故地に帰ってきた、というわけで、カチェ側もカシミール側も双方納得の決定で、すんなりと事が進んだのでしょう。

といっても厚遇されたわけではなく、当初は広場の片隅にテントを張って暮らすという厳しい生活だったようです。

スリナガルに定着し始めた当時のカチェの様子を伝える番組がこれ。

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胎動するアジア(2) インド(2)
1962秋 (30分) NHK総合
東南アジア~南アジア諸国の現状を伝える海外取材シリーズ中の1編(インド編の第2回)。印パ国境紛争・領有権問題で揺れるカシミール・スリナガルを取材。
スリナガル郊外に収容されているチベット難民(128家族700人)も紹介。取材班は気づいていないようだが、彼らはみなチベット人イスラム教徒(カチェ)である。カチェの貴重な映像でもある。
参考:
・毎日新聞
・森本勉ほか (1963) 『胎動するアジア』. 日本放送出版協会, 東京.
・NHKアーカイブス
http://www.nhk.or.jp/archives/

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もちろん番組自体を見たことはありませんが、上記書によりその内容を知ることができます。

上記書には、彼らがチベット人イスラム教徒であることは記されていません。取材班は全く気づいていないようです。当時は、チベット文化に関する情報は少ない時代でしたから、仕方ないでしょう。

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現在スリナガルのカチェは、約250家族(千数百人といったところか?)まで増えているようです。

私も、スリナガルでは何人かチベット人を見かけました(純粋なモンゴロイド顔なので、ラダッキとは区別がつきます)。道端に立って物売りをしていましたが、当時は彼らがモスレムとは知りませんでした。

その後、ラダックやダラムシャーラーで一・二度、カチェと話す機会がありました。仏教徒でないせいか、日本人にはあまり興味なさそうでしたね。スリナガルにたくさんカチェが住んでいることをはじめて知ったのも、その時です。

ダライ・ラマ法王について、「宗教こそ違え、チベットの指導者として尊敬している」という話をしていたのが印象的です。これはカチェがよくする話らしく、文献やネット上のあちこちで聞きます。

実は彼らは、難民ステイタスではなくインド国籍を得ているようです。ならば、カシミールのモスレム社会にすっかり同化してもおかしくない(注2)のですが、こういった発言から、やはりチベット人としてのアイデンティティをしっかり保持していることがうかがえます。

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カチェはインド国民なので、ダラムシャーラーのチベット中央政府の管轄外ですが、両者の交流は近年活発化しているよう。2012年7月には、ダライ・ラマ法王がスリナガルのカチェたちのもとを訪れました。

こういった、法王のマイノリティへの配慮はさすがです。仏教全宗派のみならず、ボンポやカチェからも絶大な支持を得ているのも当然でしょう。

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カチェの歴史や現状、ダライ・ラマ法王のスリナガル訪問について、より詳しく知りたい方は、以下へどうぞ。

・Islamic Research Foundation International, Inc. > Article 2473 Atul Sethi/Muslims of Tibet (4 May 2008)
http://www.irfi.org/articles2/articles_2451_2500/Muslims%20of%20Tibet.HTM
・Kashmir Life > Bilal Handoo/Indo-Tibetans of Kashmir (Sunday, July 22nd, 2012)
http://www.kashmirlife.net/indo-tibetans-of-kashmir/
・田上みさお/ヒマラヤに魅せられたひと > スリナガルのアマ・アイーシャ(2011-10-17)
http://gankyi.blog27.fc2.com/blog-entry-60.html

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(注1)
カシミールがイスラム化したのは14世紀以降のこと。そのきっかけとなったのは、王がイスラム教徒となり布教を推進したことです。

カシミール最初のモスレム王は、14世紀初めのリンチャナ(Rinchana)という人物。

「はて?チベットっぽい名前だが?」と思うかもしれませんが、その通り。彼はもともとチベット系の人物で、ラダック方面からやって来た異邦人でした。

当時のカシミールは、中央アジア~アフガニスタンを制圧したモンゴル軍によってたびたび侵略を受け、国/王家(ダムラ朝)とも混乱状態にありました。その中で頭角を現わし、有力者となったのがリンチャナです。ついには弱体化していたダムラ朝の王を廃し王位につきました。

おそらくもともとは仏教徒、つまりヒンドゥ教秩序の中ではカースト外に位置づけられていたのでしょう。リンチャナは王にふさわしい高位カーストを得ようとしますが、バラモン勢力から授与を拒否されます。それで、その代わりにイスラム教に入信してしまいました。イスラム名サダル・ウッディーン(Sadr-ud-Din)。

リンチャナの在位は1320~23年のわずか3年間。その死後はダムラ朝が復活したり、リンチャナ妃だったコタ・ラニ(Kota Rani)が国を支配したりとなかなか安定しません。

リンチャナと並ぶ有力者だったシャーミール(Shahmir)が王位につき、シャーミール・スルタン朝(1339~1561)を開くと、ようやく王権は安定。この時代からカシミールのイスラム化が本格化します。

ちょっと、カシミール史やリンチャナに足を踏み入れてしまいましたが、これらの話題はいずれもう少し詳しくやりましょう。特にリンチャナについては面白い話題がいっぱい。

参考:
・Luciano Petech (1977) KINGDOM OF LADAKH C.950 – 1842 A.D. pp.XII+191. IsMEO, Roma.
・M. L. Kapur (1983) KINGDOM OF KASHMIR. pp.viii+402. Kashmir History Publications, Jammu.
・Jogesh Chunder Dutt (tr.) (2000) THE RAJATARANGINI OF JONARAJA. pp.xv+436. Gyan Publishing House, New Delhi. ← 初出 : (1887~98) J.C.Dutt(自費出版), Calcutta.

(注2)
似たようなポジションにある集団として、「ギャカル・カムパ(རྒྱ་གར་ཁམས་པ་ rgya gar khams pa)」がいます。彼らは、インド独立/中国によるチベット侵略以前にインドにやって来て、そのまま住み着いたチベット人商人の子孫です。もちろんインド国籍。

そのチベット人商人は全部がカムパ(東チベット人)とは限らないのですが、インド/ラダックでは、チベット人をみな「カムパ(ཁམས་པ་ khams pa)」と呼ぶ傾向があります。チベット人の中で、カムパがいかに目立つ存在であるかがわかりますね。それで、在インド・チベット人は、みな「カムパ」という名の集団になってしまったわけです。

ギャカル・カムパは見た目はチベット人ですが、見ていると行動様式はあまりチベット人ぽくない。ほとんどインド人と変わらんなあ、という印象です。今会えるギャカル・カムパたちは、生まれた時からインド国民なんだから当然でしょうね。

チベット語を話せない人も増えています。以前泊めてもらったギャカル・カムパの家では、「チベット語の勉強をしたいから、チベット語会話帳をくれないか?」と乞われたので、喜んで差し上げましたよ。

ただし仏教徒であることは守っている人が多いようで、ギャカル・カムパの集落には、しっかりチョルテンが立っていました。

キナウルで、中国側との国境貿易に従事していた男もギャカル・カムパでしたね。この辺の話もおもしろいんですが、きりがないので今回はこれまで。

2014年3月25日火曜日

氷の回廊 「チャダル」 の語源

語源シリーズ第2弾です。

今回は、氷の回廊「チャダル」。

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「チャダル」とは、ラダック~ザンスカール間を結ぶ徒歩交通の一手段、あるいはその交通路自体を指します。

冬季、ザンスカールへ入る自動車道は積雪・凍結のために閉鎖され、ザンスカールは陸の孤島と化します。

ザンスカール川は、ザンスカールからラダックへ向かって北流し、ニンム(སྙེ་མོ་ snye mo)でインダス河に合流しています。1~2月の厳冬期、このザンスカール川が凍結し、氷上徒歩による通行が可能となります。この交通方法、交通路が「チャダル」です。

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日本では、

・オリヴィエ・フェルミ、檜垣嗣子・訳 (1995) 『凍れる河』. pp.143. 新潮社, 東京.
・庄司康治 (1998) 『氷の回廊 ヒマラヤの星降る村の物語』. pp.223. 文英堂, 東京.

テレビ番組
・「NHKスペシャル 厳冬の奥ヒマラヤ 氷の回廊」. NHK総合. 1997/05/11.

などで有名となりました(注1)。

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この「チャダル」という言葉ですが、なぜか意味は不明、とされています。

出典:
・James Crowden (1994) Butter Trading Down the Zangskar Gorge : The Winter Journey. IN : John Crook + Henry Osmaston (ed.) (1994) HIMALAYAN BUDDHIST VILLAGES : ENVIRONMENT, RESOURCES, SOCIETY AND RELIGIOUS LIFE IN ZANGSKAR, LADAKH. pp.285-292. Univ. of Bristol, Bristol (UK).
・友田一公 (2004) 氷上の交通路「チャダル」 ヒマラヤ北西部・ザンスカールにおける凍結河川上の交通の現状と将来. 立命館地理学, no.16[2004], pp.41-54.

Crowden(1994)では、「chadur」と表記。

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同論文では、編者Crookによる注記として、「語源ははっきりしない」としながらも、

cha → ザンスカーリがはく雪靴cha-rogのことか?
dar → 凍った川

という組み合わせか?という地元民のコメントを紹介しています。

その他にも、

ཁྱགས་ khyags (キャク) → 氷結面
བདའ་ bda' (ダー) → 運ぶ/(家畜を)御する

という組み合わせの可能性、また「cha」の語源としては、

འཆག 'chag (チャク) → 歩く
ཆ་ cha (チャ) → 行く

の可能性を指摘しています。

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これで十分答えは出ていると感じるのですが、今回は簡潔に結論へ行きましょう。

「chadar」は、

ཆ་བྱེས་ cha byes (チャ・チェス) → 行く
དར་ dar (ダル) → 氷

の組み合わせでしょう。

つまり「行く(のに使う)氷(の道)」という意味です。日本でよく使われる「氷の回廊」という用語も、訳語として全く問題ないと思われます。

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チベット語では、「行く」という動詞で最もポピュラーなのは、

འགྲོ་བ་ 'gro ba (ド・ワ)

です(注2)。

一方、ラダック語/ザンスカール語では、「'gro byes」も使われますがごくマイナーで、

ཆ་བྱེས་ cha byes (チャ・チェス)

の方が一般的です。

ཆ་བ་ cha ba (チャ・ワ)

は、チベット語辞書にも項目がちゃんとありますし、その意味も同じです。ただし「古語」という扱いになっています。

ここでも、「ラダック語にはチベット古語・古発音が保存されている」がしっかり当てはまるわけです。

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「'chag pa」もチベット語の意味では悪くはないのですが、ラダック語辞書では「'chag byes」には「壊れる」という意味しか見つからないので、可能性は低いかもしれません。

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「dar」の方は、チベット語、ザンスカール語とも意味は同じで「氷」です(注3)。こちらは間違いないでしょう。

ところが、この「dar」という単語、ラダック語の辞書では「氷」という意味はないのです。

ザンスカール語よりもラダック語の方がよく知られていますから、「cha dar」をラダック語で解明しようとする人が多いでしょう。すると、ここで行き詰まる可能性が大きいわけです。この辺が、「語源不明」とされてきた理由のひとつと思われます。

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なお、チベット語の「氷」には、「水面が凍った氷」である「དར་ dar」と、「氷雪/氷河の氷」を意味する「གངས་ gangs」がはっきりと区別されているので、使うときには注意が必要です(注4)。

また、「ཁྱགས་(པ་) khyags (pa)」という単語もありますが、これは氷一般で、どちらにも使われるようです。私は、凍った状態とか塊の氷(ツララみたいな)を指すようなイメージを持っています。

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ただ、「cha dar」は単語の構造としては、今ひとつすっきりしない言葉です。でも、間に入るべき助詞などが省略された略語と考えれば、それほどおかしくないかもしれません。

ཆ་(བྱེས་སི་ཕྱིའ་)དར་ cha (byes si phyi'a) dar (チャ・(チェッスィ・フィア・)ダル)→ 「行く(ための)氷」

みたいに。

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「凍った川の道」を意味するチベット語には、

དར་ལམ་ dar lam(タル・ラム)

という言葉もあります。こちらは実にわかりやすい。

このわかりやすい言葉を採用せず、「cha dar」としているのも納得いかないところですが、その辺は現代人それも外国人があれこれ悩んでも仕方のないことなのでしょう。

あっとそうか、

ཆ་(བྱེས་སི་ཕྱིའ་)དར་(ལམ་) cha (byes si phyi'a) dar (lam) (チャ・(チェッシ・フィア・)ダル(ラム))→ 「行く(ための)氷(の道)」

という具合に、「lam」も省略されていると考えてもいいわけだな。

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しかしまあ、これで「cha dar」については、「語源不明」からは一歩先へ踏み出したわけです。あとは興味を持つ方々が、さらにつっこんだ調査をすればいいだけ。

これで「cha dar」の語源については、私の役割は終わり、と。

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(注1)
あまり知られていないのですが、1981年に土屋守氏がチャダルを踏破しています。チャダルを踏破した日本人は、おそらく彼が初めてでしょう。

参考:
・スコッチ文化研究所 > スコ文研とは > 代表・土屋守について > 土屋守の原風景 > 土屋守/ Vol.1 氷の道・チャダル 踏破行 > Vol.1 氷の道・チャダル 踏破行 インド・カシミール州ラダック、ザンスカール(2009?)
http://scotchclub.org/index.php/swrc/6153
← 初出 : (1983) クロスロード, 1983-08.

(注2)
動詞「行く」のチベット語は、敬語表現を含めると、私が知るだけでも「thad pa」、「phebs pa」、「gcar ba」、「'degs pa」、「skyod pa」、「gshegs pa」、「'dengs pa」、「dong pa」、「mchi ba」、「bgrod pa」、「rgyu ba」などなど大量にあります。

チベット語表現の豊かさを思い知らされますね。

(注3)
チベット語「dar」には他の意味もあります。

旗/絹/カター/たすき/栄える/広まる/成長する/若者

などです。「氷」も含めて、「平面的な広がりを持つ(もの)」という共通点があります。

「若者」だけはちょっと異質に感じるかもしれませんが、「栄える」→「成長する」→「若者」という派生語と思われます。

(注4)
「gangs」の方は、「氷雪」が転じた「雪山」の意味もあります。厳密には、「gangs ri」の「ri」が省略された形ということです。

この用法は、聖山「gangs rin po che (カン・リンポチェ=カイラース山)」などで有名ですね。

2014年3月24日月曜日

チベット語・ラダック語勉強ノート

以前お知らせしたとおり、私の勉強ノートをちょっとお見せしましょう。

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私は、正式にチベット語を習ったことはありません。最初はチベットやラダックに行って、会話帳を参照しながらブロークンなチベット語やラダック語をしゃべっていただけです。

チベット語の文献も読もうとしましたが、とても歯が立たない(笑)。それで自分の馬鹿さ加減にほとほと嫌気がさし、一念発起してチベット語の勉強に本腰を入れたわけです。

そうですね、1年くらいかかったでしょうか。

勉強に使った主なアイテムは、

<チベット口語>
・星実千代 (1991) 『エクスプレス チベット語』. 白水社, 東京.
・ロサン・トンデン、石濱裕美子+ケルサン・タウワ・訳 (1992) 『現代チベット語会話Ⅰ』. 世界聖典刊行協会, 東京.
・ロサン・トンデン、ケルサン・タウワ・訳 (1995) 『現代チベット語会話Ⅱ』. 世界聖典刊行協会, 東京.
・Sandup Tsering+Melvyn C. Goldstein (1996) LONELY PLANET TIBETAN PHRASE BOOK (2ND ED.). Lonely Planet, Howerton (Australia).
・星泉+浅井万友美 (2005) 『旅の指差し会話帳 65 チベット』. 情報センター出版局, 東京.
・北村甫+長野泰彦 (1990) 『現代チベット語分類辞典』. 汲古書院, 東京.
・星泉 (2003) 『現代チベット語動詞辞典(ラサ方言)』. 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所, 府中.

<チベット文語>
・山口瑞鳳 (2002) 『概説 チベット語文語文典』. 春秋社, 東京.
・稲葉正就 (1986) 『増補版 チベット語古典文法学』. 法藏館, 京都.
・矢崎正見 (1999) 『増補改訂新版 初心者のための独習チベット語文法』. 出帆新社, 東京.

<チベット語辞書>(注1)
・Sarat Chandra Das (1995) A TIBETAN – ENGLISH DICTIONARY. Book Faith India, Delhi. ← Original : (1902) Bengal Secretariat Book Depot., Calcutta.
・Melvyn C. Goldstein+Ngawang Thondup Narkyid (1986) ENGLISH – TIBETAN DICTIONARY OF MODERN TIBETAN. LTWA, Dharamsala. ← Original : (1984) Univ. of California, Berkley
・ ケルサン・タウワ (2003) 『チベット語辞典 蔵日・日蔵』. カワチェン, 東京.
・Rangjung Yeshe (2003) TIBETAN – ENGLISH DICTIONARY OF BUDDHIST CULTURE VER.3 ON CD-ROM. Rangjung Yeshe Publications, Kathmandu. (注2)

<ラダック語>
・Rebecca Norman (1994) GETTING STARTED IN LADAKHI. Melong Publications, Leh.
・Devidatta Sharma (2003) TRIBAL LANGUAGES OF LADAKH (Part Two). Mittal Publications, New Delhi.
・Thupstan Paldan+Sanyukta Koshal、土屋守・訳 (1982) 『ラダック人がつくったはじめてのラダック語会話テキスト』. あむかす, 東京.
・ジュレー・ラダック (2008) 『ラダック語会話帳』. ジュレー・ラダック, 東京.
・Abdul Hamid (1998) LADAKHI - ENGLISH - URDU DICTIONARY.  Melong Publications, Leh.

<ザンスカール語>
・Devidatta Sharma (2003) Salient Feature of Zangskari. IN : Sharma (2003) TRIBAL LANGUAGES OF LADAKH (Part Two). Mittal Publications, New Delhi.
・HOSHI Michiyo+Tondup Tsering (1978) ZANGSKAR VOCABULARY : A TIBETAN DIALECT SPOKEN IN KASHMIR. 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所, 東京.

あたりになります。

プリク語、バルティ語、ラーホール・トゥー語、スピティ語、ニャム語(上キナウルのチベット語)などは、全部現地で会話帳を作って、単語・発音の勉強までやっていますが、文法の勉強はまだ途中です。

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ここでお見せするのは、Sharma(2003)を勉強した時のノート。











同書にはラダック語の発音が記されているだけですが、それをすべてチベット文字に還元してあります。綴りはNorman(1994)に従いました。

私はチベット語から入ったものですから、ラダック語をチベット文字に直し、それをチベット語(口語/文語)と対比することでラダック語文法を理解しました。

いきなりラダック語、というのもありでしょう。チベット語→ラダック語という順序は、「私はそうした」というだけの話です。自分に合った方法をとればいいと思います。

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ラダック語文法は、チベット語文法としてほぼ理解できますが、ラダック語独自の単語や文法も少なからずあります。

チベット語口語とは一致しないが文語と似ている、というケースもあります。チベット語文語・口語にもない文法・単語も出てきます。それがいったいどこから来たものやら、また単語の綴りはこれでいいのやら、わからないことだらけです(注3)。

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現地でいろいろ話したり調べたりすれば、もっといろいろなことができるのですが、現状では行く機会も金もないので、こうやって駄文を書いたりして欲求を発散するのみです。

チベット語文献では、『ンガリー王統記 吐蕃編』、『雪山ティセのボン教聖地目録』、タシ・ツェリン先生のケサル論文などは翻訳が済んでいるんですが、どういう風に日の目を見させようか思案中。

また、十年位前にTさんにコピーしていただいた『gung thang gdung rabs』も、目次を訳しただけなので、本文もちゃんとやらなきゃなあ(系図は作ったが・・・)、などと考え中。あと2冊出ている『ンガリー史』とか『ラダック僧院大全』も訳文として、なにか形にしたい。

まあ、死ぬまでにはいくつかは物になるかも、と楽観的に考えておわり。

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(注1)
『蔵漢大辞典』やGoldsteinの『蔵英辞典』もほしいのですが、まだ手が出ません。たまに大きな図書館に行った時に使うくらいです。

Dasの辞書はインド版。紙が厚いので辞書自体も分厚いです。日本版を見たら、厚みが半分くらいになっていて驚きました(笑)。あと、Dasの辞書はボン教用語が豊富で好みです。

Jaschkeの辞書はどうも肌に合わないので、今のところ使っていません。その内容は、DasやRangjung Yesheに反映されているらしいので、それでいいか、と。

(注2)
これは基本的に蔵英辞典なのですが、全文検索もできるので、ある程度英蔵辞典としても利用可能です。同辞典はオンラインで無料で利用できますが、全文検索はできません。CD-ROM版を買うと、こういう利点もある、というお話。

私はこれにDan Martin先生のシャンシュン語辞書(旧版)ファイルも入れて、シャンシュン語電子辞書としても使っています。便利ですよ。

(注3)
解明のヒントは、カム語やアムド語あたりにありそうな気もしますが、まだ勉強していません。すいません。

2014年3月21日金曜日

ラダックの万能挨拶 「ジュレー」 の語源(4)

世の中には、「辞書を読んで楽しむ」という人たちがいます。三省堂の『新明解国語辞典』愛好家がその代表例といえるでしょうか。

それほどではないにしろ、私もよく

・Abdul Hamid (1998) LADAKHI - ENGLISH - URDU DICTIONARY. pp.xxxix+406. Melong Publications, Leh.

をパラパラながめて楽しむことがあります。「ju le」探索の意味も含めて、「何か目ぼしい単語はないものか」と辞書をめくっていた時のことです。

ページは「ཞ་ zha」に差し掛かりました。そこで出会ったのが次の項目。

┌┌┌┌┌ 以下、Abdul Hamid(1998)より ┐┐┐┐┐

ཞུ་/ཞུ་ལེ་ (Kargil) zhu, zhu-le/(rest of Ladakhi) ju, ju-le (the common greeting) hello; good-bye, thank you, thanks

└└└└└ 以上、Abdul Hamid(1998)より ┘┘┘┘┘

はい、解決ですね。では、さようなら。

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というのも不親切なので、少し補足しておきましょう。

この「ཞུ་ zhu」は、チベット語では「ཞུ་བ་ zhu ba」、ラダック語では「ཞུ་བྱེས་ zhu byes」のことです。

まず発音から。ウー・ツァン方言では「シュー」ですが、ラダック語では古風に、あるいは綴りに近く「ジュー」と発音されています。

そして、その意味はというと、チベット語/ラダック語とも、動詞「言う」の謙譲語「申す/申し上げる」です。

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それがどうして万能挨拶になるのでしょうか?

これは「zhu le」の前が省略されているのです。

つまり、

・「おはよう。」 → 「(朝の挨拶を)申し上げます。」 → 「zhu le/」
・「こんにちは。」 → 「(昼の挨拶を)申し上げます。」 → 「zhu le/」
・「こんばんは。」 → 「(夜の挨拶を)申し上げます。」 → 「zhu le/」
・「さようなら。」 → 「(お別れの挨拶を)申し上げます。」 → 「zhu le/」
・「おやすみなさい。」 → 「(就寝の挨拶を)申し上げます。」 → 「zhu le/」
・「ありがとう。」 → 「(お礼を)申し上げます。」 → 「zhu le/」

ということですね。

昔はもしかすると、省略なしに使われていたのかもしれませんが、なにしろ挨拶としては長ったらしくなるので、主題を省略した形で使われるようになったのでしょう。

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「ju le」は、「ju」だけで使われたり、「ju、ju」と重ねて使われたりします。

これも上のように考えると、丁寧表現「le」を省略し「zhu」だけでも、挨拶として十分通用することが理解できます。ちょっとくだけた感じの表現にはなりますが。

・「zhu le/」 → 「(挨拶を)申し上げます。」
・「zhu/」 → 「(挨拶を)申し上げる。」

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しかしまたわかってみれば、じつにあっけない。

それほど難問ではないような気もしますが、「コロンブスの卵」ということなのでしょう。書籍、論文はもとより、ネット上でもこの件を解明しているサイトは、今のところ見つかりません(2014/03時点)。

手前味噌ながら、これはなかなかの発見だとは思いますが、これまでの経験からすると、まともに評価されることはないでしょう。例によって、出典を明記せず、あたかも自分の発見のように使う人が続出するのでしょうかね。

まあそうなるのでしょう。ラダックがらみでは、特にそういうケースばかりですから。

と、暗い気持ちになったところでさようなら。

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(追記)@2014/03/26

「もしかして、ジュレーの語源はすでに解明されていないだろうか?見落としがあるんじゃないだろうか?」と不安になって、何度目になるのか、検索してみたところ・・・

「ladakh ju-le」で検索すると、本サイトがなんと9番目に出てきます。驚いた。「ラダック ジュレー」で検索しても、ずーっと下の方なのに(笑)。どういうこと?

2014年3月20日木曜日

ラダックの万能挨拶 「ジュレー」 の語源(3)

さて、次は前半部「འཇུ་ 'ju」について。

はじめは当然、この綴りで「あーでもないこーでもない」と検討していましたが、うまくいかないわけです。

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似た綴りの単語をまずラダック語辞書から引いてみると、次のようになります。

L01- ཇུ་ལུམ་ ju lum(ジュルム) → 大きな丸い石
L02- མཇུག་མ་ mjug ma(ジュクマ) → 最後/最後尾/末
L03- འཇུ་བྱོ་བྱེས་ 'ju byo byes(ジュー・チョ・チェス) → 挨拶をする
L04- འཇུག་བྱེས་ 'jug byes(ジュク・チェス) → 入る
L05- འཇུན་བྱེས་ 'jun byes(ジュン・チェス) → 飼いならす/支配する
L06- རྗོད་བྱེས་ rjod byes(ジョッ・チェス) → 言う/述べる

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L03を見て「なんだ、あるじゃないか」と思われるかもしれませんが、それは早計というものです。

これはおそらく、「ju le」が先にあり、「ju leと言う」ことが転じて「挨拶する」という動詞になったと考えられます。

L06もいい線行っていますが、同じ「言う」であっても、これは「主張を含んだ内容を述べる」といったニュアンスで、「挨拶を発する」と言う内容とはずれを感じます。

この単語はウー・ツァン方言では「ジュー」と発音され、その点でも「ju le」と関係づけるには都合がいいのですが、肝心のラダックでは「ジョッ」と発音されるのですから、挨拶のときだけウー・ツァン方言発音となるのも考えにくいことです。

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次にチベット語辞書から引いてみましょう。

T01- ཇུས་ jus(ジュー) → 計画/戦略/政策
T02- ཇུས་བདེ་ jus bde(ジュー・デ) → 良策/誠実な
T03- ཇུས་ལེགས་ jus legs(ジュー・レー) → 勝利者/上品な/適正な
T04- འཇུ་བ་ 'ju(ジュ・ワ) → つかむ/捕らえる/消化する
T05- འཇུ་རེས་ 'ju res(ジュ・レー) → 鬼ごっこ(?)
T06- འཇུག་པ་ 'jug pa(ジュク・パ) → 入れる/ついて行く/~させる
T07- འཇུངས་པ་ 'jungs pa(ジュン・パ) → 欲深者
T08- འཇུམ་པ་ 'jum pa(ジュム・パ) → 震える
T09- འཇུར་བ་ 'jur ba(ジュル・ワ) → 飼いならす

といったところですが、こちらもパッとしません。

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T03はウー・ツァン方言における発音こそ「ju le」に近いのですが、ラダック語では「ジュス・レク」になってしまいます。意味もあまりピンと来ない。

このあたりで、「འཇུ་ ju」という綴り自体が本来のものではない、と確信したわけですが、次のステップへのヒントとなったのが動詞活用形の綴り。

T06- འཇུག་པ་ 'jug pa(ジュク・パ) → 入れる/ついて行く/~させる

の活用形は次のようになります。「入れる」の時と「ついて行く」では活用形の綴りが違うのですが、ここでは「入れる」の文語での活用形を示します。

現在形 འཇུག་པ་ 'jug pa (ジュク・パ)
過去形 བཅུག་པ་ bcug pa (チュク・パ)
未来形 གཞུག་པ་ gzhug pa (シュク・パ)
命令形 ཆུག chug (チュク!)

活用形によって基字が微妙に変わっています。

この辺がチベット語動詞の勉強では悩ましいところなのですが、きちんと発音しわけられているかどうか、よく知りません。この変化は文字で時制を明示するためにあるもので、発音はあまり気にしなくていいのかもしれません(注)。

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それはともかく、「ju」「cu」「zhu」「chu」はどれもよく似た音で、漫然としていると聞き違いしやすい音であることに気づきます。

ならば、「ju」も、この似た音で候補を探す、という作戦で進めればどうでしょうか?

これに気づいてからほどなく、「ju」探索は一気に解決に向かいました。

以下次回。

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(注)
実際、口語では「入れる」の活用形は次のようになるそうです。

現在形 བཅུག་པ་ bcug pa(チュク・パ)
過去形 བཅུག་པ་ bcug pa(チュク・パ)
命令形 ཅུག cug(チュク!)

活用形によって基字に変化はありませんね。

出典:
・星泉 (2003) 『現代チベット語動詞辞典(ラサ方言)』. pp.xxiii+495. 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所, 府中.

2014年3月19日水曜日

ラダックの万能挨拶 「ジュレー」 の語源(2)

「ju-le」を「ju」と「le」に分けて調べてみます。

まずは、わかりやすい「le」から。

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「le」は、丁寧表現を表す接尾辞です。使い方は主に2種類。

(1)名前・続柄・肩書きなどの後ろにつけて、「~さん」を表す。そのままで呼びかけともなる。

<例>
བསྟན་འཛིན་ལེ་ bstan 'dzin le (スタンジン・レー) → 「スタンジンさん」/「スタンジンさんや!」
སྒྲོལ་མ་ལེ་ sgrol ma le (ドルマ・レー) → 「ドルマさん」/「ドルマさんや!」
ཨ་གུ་ལེ་ a gu le (アグ・レー) → 「おじさん(親族のおじ/年上の男)」/「おじさんや!」
བླ་མ་ལེ་ bla ma le (ラマ・レー) → 「お坊さん」/「お坊さん!」(注1)

(2)文章の末尾に付加して、丁寧表現であることを表す。

<例>
ངའི་མིང་ང་དོན་གྲུབ་ཡིན་ལེ། nga'i ming nga don grub yin le/(ンゲー・ミンガ・トンドゥプ・イン・レー) → 「私の名前はトンドゥプです。」(注2)
ཐུག་པ་འདུག་ག་ལེ། thug pa 'dug ga le/(トゥッパ・ドゥッガ・レー?) → 「トゥクパはありますか?」(注3)
ཀུ་ཤུ་གཉིས་སལ་ལེ། ku shu gnyis sal le/(クシュ・ニース・サル・レー) → 「リンゴを2つ下さい。」(注4)

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チベット語をご存知の方ならすぐにわかったでしょう。これはチベット語の「ལགས་ lags」とよく似た用法です。「lags」 の発音は、ウー・ツァン方言では「ラー」になります。

(1)と同じ用法は有名ですね。

<例>
བསོད་ནམས་ལགས་ bsod nams lags (ソナム・ラー) → 「ソナムさん」/「ソナムさんや!」

(2)と同じ用法は、チベット語では古文でしか見たことがありません。現代口語にも残っているかもしれませんが、えらく馬鹿丁寧な表現になってしまう気がします。

<例>
~ལའགྱུར་ལགས་སོ། ~ la 'gyur lags so/ (~ラ・ギュル・ラッソー) → 「~となるのでございますよ。」

これよりも、一人称判断動詞「ཡིན་ yin」の丁寧形として用いられる場合のほうが多いでしょう。これはラダック語の「le」とはやや異なる用法です。

<例>
དགེ་སློང་དེ་སུ་ལགས། dge slong de su lags/ (ゲロン・デ・スー・ラー?) → 「そのお坊様はどなたでいらっしゃいますか?」

訊き手は相手に対して、「どなただと(あなたは)認識しているのですか?」と、相手の意見を訊いているので、動詞は一人称となっている。

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また、チベット語「lags」には「はい」という返事の意味もあります。これもラダック語「le」にはない用法です。

<例>
ལགས་སོ། lags so/(ラッソー!)

という威勢のいい返事はよく聞くところです。もともとは「承知いたしました。」といったニュアンスと思われますが、一般人にも広まる過程で、かなり下卑た返答になっている気がします。「あいよー!」みたいな意味で。

ラダック語の辞書を見ると、「lags」という単語は見当たりません。そのかわりにほぼ同じ意味を持つ「le」があるのですから、チベット語の「lags」がラダック語の「le」となったのは間違いないでしょう。

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しかし母音が「ア」から「エ」に変化しているのはなぜでしょうか?そのあたりの理由・経緯はわかりません。

また、ラダック語はチベット語の古い発音をよく残していると言われます。「lags」の古音は不明ですが、吐蕃時代には綴り通り「ラク(ス)」と発音されていた可能性は高いでしょう。

ならば、ラダック語の方に語尾の子音が残ってもよさそうなものですが、そうなってはいません。これも今ひとつ腑に落ちない点です。(注5)

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チベット語の「lags」の発音が、「ラク(ス)」から「ラー」に変化した後にこの単語がラダックに入ってきた、と考えてはどうでしょうか?これならば「le」に語尾子音がない理由は説明できます。

「~ le」という言い回しは、ラダック語では意外と新しいものなのかもしれません。

しかし、肝心のウー・ツァン方言でさえ、口語の発音変化史はあまりわかっていません。「lags」が「ラク(ス)」→「ラー」となったその時期がわからないことには、上記仮説も確かめようがありません。

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母音交代、語尾子音の問題はまだ解明が必要ですが、チベット語「lags」→ラダック語「le」という大筋は解明できたので、いまのところはこれで十分です。

次は問題の前半部「ju」を調べてみましょう。

以下次回。

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(注1)
チベット本土では、「ラマ」といえば、一般の僧より高位の僧、特に導師に対して用いられる。インド語の「guru」に対応する。

しかしラダックでは、一般僧をも「ラマ」と呼ぶのが普通。それだけ僧を大事にしている、と言ってもいいし、あるいは、「ラマ」のインフレとも言えるかも。

(注2)
ウー・ツァン方言では、「ངའི་མིང་ལ་~ nga'i ming la ~ (ンゲー・ミンラ・~)」となるが、ラダック語では助詞などの子音は、直前の名詞の末尾子音を引きずって変化することがある。

<例>
(ラ)ラダック語 ←→ (チ口)チベット口語(ウー・ツァン方言)/(チ文)チベット文語

(ラ)ཉེ་རང་ངིས་ nye rang ngis (あなたが) ←→ (チ口文)ཉིད་རང་གིས་ nyid rang gis
(ラ)ལ་དྭགས་སི་ la dwags si (ラダックの) ←→ (チ口文)ལ་དྭགས་ཀྱི་ la dwags kyi
(ラ)ཁྱོད་ལ་ khyod la (お前に) ←→ (チ口)ཁྱོད་ལ་ khyod la/(チ文)ཁྱོད་དུ་ khyod du
(ラ)མི་འ་ mi 'a (人に) ←→ (チ口)མི་ལ་ mi la/(チ文)མིར་ mir

やれやれ、ラダック語、チベット語口語/文語と、そのややこしさが少しわかっていたただけたでしょうか。

(注3)
チベット語ウーツァン方言では、「འདུག་གས། 'dug gas/(ドゥゲー?)」になる。

(注4)
「སལ་བྱེས་ sal byes (サル・チェス)」=「与える」は、もともとチベット文語の「སྩལ་བ་ stsal ba (ツァル・ワ)」=「与える」が語源と思われるが、発音はラダック独自のものに変化。それと共にチベット文字表記も発音に従ったものになっている。

この他、ラダック語の会話・文法については、何度も出てきている

・Rebecca Norman (1994) GETTING STARTED IN LADAKHI. pp.(12)+118. Melong Publications, Leh. (あるいはその改訂版)
・ジュレー・ラダック (2013) 『ラダック語指差し会話帳』. ジュレー・ラダック, 東京.

あたりでその概要に触れてみて下さい。

後者のチベット文字表記は私が担当しています。そういえば、まだ完成品を見ていなかったな。

(注5)
「ལ་དྭགས་ la dwags」は、チベット語ウー・ツァン方言では「ラダー」になるが、ラダック語ではちゃんと語尾子音が残り「ラダク(ス)」となっている。「lags」もそうなっていいはずなんだが・・・???

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(追記)@2014/03/19

なお、ラダック語の勉強をする場合、

・Devidatta Sharma (2003) TRIBAL LANGUAGES OF LADAKH (Part Two). pp.175. Mittal Publications, New Delhi.

最初にこれに当たるのは避けた方がよいでしょう。いや、私には大変ためになった本なのですがね。

まず、表記が発音onlyで、チベット文字あるいはそのアルファベット転写での表記(要するに発音しない文字を含めた綴り)はありません。ですから、まずチベット語を勉強してから当たらないと、なにがなんだかわからないはず。

その発音表記もかなりいいかげんです。同じ単語が1ページおきに出てくるのに、全部表記が違うとか・・・。また、誤字脱字、明らかな意味の取り違えなども盛大に出てきます。インドらしい大らかさだなあ、と妙に感心してしまいました。

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・めどべっち/マイナーな語学の話とか > 2012年11月4日日曜日 Tribal Languages of Ladakh part 2 ラダック語 
http://medomedospot.blogspot.jp/2012/11/tribal-languages-of-ladakh-part-2.html

こちらは、実際にこの本でラダック語習得を試みた方の体験談。頭を抱えている姿が目に浮かぶようで、悪いけど大笑いしてしまいました。私も勉強しながら「何だこれ?」の連続でしたから。

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D.D.Sharmaの研究について弁護しておくと、ブロクパの言葉('brog skad)やら、プリク語、スピティ語、ラーホール諸語、キナウル語、カナシ語などなど、とってもマイナーなインド・ヒマラヤの言語に関するまとまった文法書というのは、Sharmaの本しかありません。その意味では大変貴重な仕事なのです。私は、まだ全部こなしていませんけど。

私がどういう風にSharmaの本を使ったか、についてはいずれノートの画像でもお見せしましょう。基本的に、出てきたすべての単語・文章をチベット文字化してあります(ラダック語独特の綴りを習得しておく必要もあります)。それで、チベット語(口語・文語)と対比しつつ、ようやく文法の内容も理解できるようになる、という具合です。

ですから、まずある程度チベット語を勉強してからでないと、なかなか使いこなせない難物かと思われます。でも、使いではかなりありますよ。

2014年3月18日火曜日

ラダックの万能挨拶 「ジュレー」 の語源(1)

ラダックといえば「ジュレー!」ですね。

「おはよう」、「こんにちは」、「こんばんは」、「さようなら」、「おやすみなさい」、「ありがとう」と、ラダックではあらゆる場面で用いられる万能挨拶です。ラダックのみならず、お隣りラーホール、スピティでも、ラダックほどではありませんがよく耳にします。

しかし、そのもともとの意味は何か? なぜ万能挨拶として用いられるのか? については謎となっています。どうしてでしょうね?

チベット語・ラダック語に関する本・論文を調べても答えは出てこないし、では現地では? と訊いてみても、ラダッキですら「さあ?」と言うばかりです。困ったもんだ。

しかし、これだけポピュラーな言い回しがいつまでも「意味不明」というのは落ち着きが悪い。

というわけで、「ジュレー」語源探索の始まり。

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あっと、先に言っておきますが、今回はちゃんと結論までたどり着きますからご安心を。

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まずチベット文字でのつづりを調べてみましょう。

出典は、毎度おなじみの

・Rebecca Norman (1994) GETTING STARTED IN LADAKHI. pp.(12)+118. Melong Publications, Leh.
・Abdul Hamid (1998) LADAKHI - ENGLISH - URDU DICTIONARY. pp.xxxix+406. Melong Publications, Leh.

です。

そこでの表記は

འཇུ་/འཇུ་ལེ་ ju/ju-le

となっています。

また、

・Sanyukta Koshal、土屋守・訳(1982) 『あむかす・旅のメモシリーズ no.572 ラダック人が作ったはじめてのラダック語会話テキスト』. pp.121. あむかす事務局, 東京.

では、

ཇུ་ལེ་ ju-le

となっていますが、大差ありません。

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しかし、本当にこの綴りが正しいのでしょうか?

ラダック語(チベット語ラダック方言)というのは口語であって、文字で書きとめられるようになったのは、かなり新しい時代のことです。19世紀に欧米人が入域し、言語研究者が書きとめるようになりましたが、体系的にチベット文字で記録されるようになったのは20世紀後半でしょう。

ラダック語とチベット語は、発音が大幅に違うとはいえ、ラダック語語彙の大半はチベット語そのままですから、ラダック語の文章をチベット文字で表記することはさほど難しくありません。

しかし、この「ju-le」のように、もともとの意味がわからなくなっている単語・文章では、発音されている音をそのままチベット文字で表記するしかありません。

「ju-le」も、本来は別のチベット文字表記である可能性は大でしょう。

以下次回。

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(追記)@2014/03/18

ついに大物に手をつけてしまいました。これは今まで誰も解明していない案件ですから、面白い内容になっているはずです。

この後、小ネタをはさみつつ「語源シリーズ」が5つ続きます。

(1)「ジュレー」の語源
(2)「チャダル」の語源
(3)「ブルシャ」の語源 Revisited
(4)「イエティ」の語源
(5)「ブロクパ」の語源

もう全部書き終わっているので、どんどん出していきましょう。ネタが切れたらまた休めばいいし。

不思議なことに、このblogへは外国からのアクセスが約3分の1を占めています。英文でも提供できればいいのですが、なかなか力がなくてそこまで手が回りません。ごめんなさい>外国の人。

2014年3月16日日曜日

ヒマーチャル小出し劇場(9) キナウルの犬

キナウルでは、チベット文化圏の他の地域のように犬が邪険にされてはいません。人なつこい犬も多いので、犬好きには楽しい場所です。キナウル語では、犬は「クイー(kui)」。














この犬とは、トクト(Tokto)からリッパー(Lippa लिप्पा)までの10kmあまりを一緒に歩いてきました。餌をねだるわけでもなく、私が休むと一緒に休むという不思議な犬。

いつも来ているのでしょう。リッパーに着くなり、友達らしい犬とじゃれ始めました。

そんな自由な姿を見ていると、日本の犬の暮らしは実に哀れに感じますねえ。

2014年3月8日土曜日

『河口慧海日記』の塗り潰し■■■■■■には何が書かれていたか?(おまけ) gshang rnga ri周辺の衛星写真

Google Mapで、件のགཤང་རྔ་རི་ gshang rnga riのあたりを出してみました。










東側の凍った湖がཏུང་ལུང་མཚོ་ tung lung mtsho、西側の小川がབྲག་གཙང་པོ་ brag gtsang po源頭部です。見にくいですが、左下のスケールは上が1km、下が2000 feet。

一帯は、湖沼あるいは河川堆積物(比較的新しくて柔らかい地層)が分布し、後に網状あるいは蛇行河川によってそれらが浸食されてできた凹凸地形であることがわかります。

これは冬の画像です。慧海師が訪れた時期と同じ真夏ならば、もう少し緑があるのではないかと思います。それでもパラパラでしょうが。











今度はGoogle Earthを使って、gshang rnga riから西を見てみました。凹凸ははっきりしませんね。高低差があまりない凹凸地形であることはわかります。高低差は数m~十数mくらいかな?

右手奥の谷がbrag gtsang po下手と思われます。慧海師は、この谷間を目指して歩いて行ったのでしょう。

しかし、日本に居ながらにして、百年以上前に慧海師が見ていたのと同じ風景を見られるとはねえ・・・。

2014年3月7日金曜日

『河口慧海日記』の塗り潰し■■■■■■には何が書かれていたか?(5) 慧海師はなぜ塗り潰したのか?

『日記』では、gshang rnga riに着いて、「これポンブ宗教(ポン教)の名跡なりと云ふ。」という記述の直後が三行にわたり塗り潰されています。何があったのでしょうか。

まず考えられるのは、ここには前述のような聖地の由来が簡単に書かれていたのではないか?ということ。しかしわずか三行です。それほど詳しい内容だったとは思えませんが。

ボン教、ニンマパ嫌いの慧海師のことです。トンパ・シェンラブにまつわる由来を一応記しておいたものの、後に嫌悪感をいだいて消した、という可能性はあるでしょう。

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慧海師は、ここがボン教の聖地であることをどうやって知ったのでしょうか?

gshang rnga riを訪れた時点では、まだ慧海師の同行者はいないはずです。訪問時にはその聖地の由来は知らなかったかもしれません。

『旅行記』の方には、「後にその来歴を聞いてみますと」とあります。慧海師は、gshang rnga riを発った翌日にカムからの巡礼者と合流し、その後行動を共にすることになります。彼らから聖地の由来を聞き、日記に書きとめたのでしょうか。

彼らは仏教徒ですから、ボン教聖地についてそれほど詳しいとは思えませんが、巡礼者同士のネットワークでは仏教・ボン教を問わず様々な情報が行き交っていたことでしょう。彼らがボン教聖地について知っていても、それほど不自然ではないかもしれません。

しかし、もしかするとその情報は大雑把なもので、後に不正確な情報と判明したため消した、という可能性もありそうです。その場合には、『旅行記』の方に詳しい由来が書かれていないのが謎になります。ボン教がらみの話題を詳しく伝えることを憚ったのでしょうか。

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注目すべきは、慧海師がこの場所で一泊していること。『日記』では、8月1日にここに到達し、その後翌2日冒頭部までが塗り潰し。その後ここを発って、例のキャン遭遇~荷物紛失事件となります。

ボンポ巡礼者と共に宿泊したのでしょうか?あるいは、一泊したのはボン教聖地であることとは無関係で、単にちょうど宿泊のタイミングとなっただけなのかもしれません。

何か事件に遭った可能性も考えられますが、わずか三行ですから、それほど込み入った内容でもなさそうです。

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『日記』秘蔵、『旅行記』改変の主要因となった「関係者への迷惑を考慮」が、ここでも適用できるでしょうか?

どうもその可能性は低そうです。この場所では重要人物に会った気配はなく、また何か便宜を図ってもらう必要もなさそうです。

『旅行記』では、ギャア・ニマでクマオン・ミラムの商人にダス博士や日本への手紙を委ねたことまで公表しているのですから、その手の事情があっても『日記』、『旅行記』から記述を抹消する必要はないはずです。

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結局、それほどはっきりした結論には至りません(注)が、「ボン教側の聖地由来を簡単に書きとめたが、後に不正確な情報と判明、あるいは嫌悪感をいだいて、塗り潰した」という可能性を一押しにしておきます。

今後、この塗り潰し部については様々な議論が交わされるでしょう。今回提示した聖地由来は今まで日本では紹介されたことがないので、今後の議論には有益な情報になる、と信じます。

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カン・ティセ~ツォ・マパンの諸聖地については、仏教徒が伝える由来ばかりが取り上げられています。ボン教側の聖地由来についてはほとんど注目されることもなく、ボン教徒はカン・ティセにおいてさえ半ば日陰者扱いされてきました。

『gangs t se'i dkar chag』の中には、豊かなボン教文化が息づいています。その巡礼案内書が伝えるボン教聖地の数々をどんどん紹介したい、とは思うのですが、位置や現状を確認できていない場所が多く、なかなか思うにまかせません。

まず、またカン・ティセに行っていろいろ調べなおさなきゃいけないのですが、私には現地に行く機会も金もないので、死ぬまでにその願いがかなうかどうかもわかりません。

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聞くところによると、カン・ティセのコルラ道にもすでに自動車道が建設され、いずれドルマ・ラをも越えて車で一周できるようになる、という話も聞いています。

今後ますます俗化が著しくなっていくのは確実でしょう。下手するとシャブジェやランジュンなどの聖跡も、宗教や民俗文化に無知な人々によって破壊されてしまうかもしれません。

今のうちに、カン・ティセ一帯の聖地についてまとまった報告を残しておくことは重要でしょう。主要な聖地だけを雑に取り上げて、商売ネタとして消費するだけの状況からは脱却する時期です。

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(注)
このblogでは、「はっきりした結論に至らない」ことが多いのですが、それでかまわない、と思っています。

これは学術論文ではないし、たとえ間違っていても世間に迷惑がかかるような内容にはしていません。反論があればそれは結構なことです。私の経歴に傷がつくこともありませんし(肩書きは何もないので)。

それよりも、議論の発火点となる主張・見解を最初に提示することの方が重要でしょう。たとえそれが不完全なものであっても。

2014年3月6日木曜日

『河口慧海日記』の塗り潰し■■■■■■には何が書かれていたか?(4) 『雪山ティセのボン教聖地目録』での記述-その2

さて、ランチェン・カンバブ(サトレジ川源流)源流であるタク・ツァンポにやって来たシェンラブ・ミウォは、そこで土着魔神の妨害に遭遇します。この魔神は野生ヤク(འབྲོང་ 'brong)の姿をしてシェンラブに立ちはだかりました。しかし、シェンラブの神通力の前に敢えなく敗れ去り、バラバラに解体されてしまいます(注1)。

その時、ツォ・マパン南方の山メモナニ(注2)に住まう慈悲の女神ナムチ・グンギャル(གནམ་ཕྱི་གུང་རྒྱལ་ gnam phyi gung rgyal)が、慈悲の涙を野生ヤクの遺骸に落とします。この涙により野生ヤクは復活し、ボン教の護法神として祀られるようになりました。そして、涙は泉(チュミク・トゥンワ・ランドル)として定着し、あふれ出る水がランチェン・カンバブとして流れ出した、ということになっています。

この泉は、そういう由来でボン教の聖泉なわけですが、仏教徒も崇める聖地となっているのは慧海師の記述からも伺えます。仏教側ではどういう由来があるのかはわかりません。ないのかもしれません。

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その東・上手側がお待ち兼ねのགཤང་རྔ་རི་ gshang rnga ri(タンバリン山)です。『gangs ti se'i dkar chag』では、このあたりを「聖岩の園(ཀྲག་གི་ཚལ་ krag gi tshal)」と描写しており、慧海師の記述と一致します。

ここを訪れたシェンラブはシャンシュン東部ツィナ地方(ཙི་ནའི་ཡུལ་ tsi na'i yul)のボン教徒に大歓迎されます。そして加持を行いこの地を浄化。その結果ここはボン教の聖地となりました。

この場所には、

(1)རི་ཙིཏྟའི་དབྱིབས་ཅན་ ri tsitta'i dbyibs can(心臓の形をした山)
(2)གསང་ཕུག་ནོར་བུའི་དབྱིབས་ཅན་ gsang phug nor bu'i dbyibs can(宝物の形をした秘窟)
(3)དབལ་གྱི་རི་བོ་ཟུར་གསུམ་ dbal gyi ri bo zur gsum(ウェル神の三角山)

があります。これらの総称がgshang rnga riのようです。より細かく言うと、(1)がその中心であり、この山にシェンラブが足形(ཞབས་རྗེས་ zhabs rjes)をつけ、石には太鼓の姿が現れ、草原にはタンバリンの自生物も現れた、とされています。

この加持を終えると、シェンラブは続いてタムチョク・カンバブ(ヤルツァンポ源流)、センゲ・カンバブ(インダス河源流)、マプチャ・カンバブ(カルナリ河源流)を加持して回りました。四大河源流の加持を終えると、オルモルンリンに帰って行った、とされます。

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これでようやく『日記』の塗り潰し部に戻れるわけですが、以下次回。

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(注1)
よく似た説話はカン・ティセ山麓にもあり、こちらではケサル王が野生ヤクの魔神を調伏し遺骸をあちこちにばら撒いた、とされます(Chan 1994)。これは、『gangs ti se'i dkar chag』のエピソードを元ネタに、場所と主人公を入れ替えた伝承と思われます。

あるいは、両エピソードとも現在未詳の元ネタに基づく創作なのかもしれません。そのあたりは今後の研究待ち。

カン・ティセ付近には、ケサル王にまつわる聖地が他にもいくつかありますが、諸聖地説話の中では異質な感は否めず、唐突な存在。おそらく伝説の発生年代はかなり新しいものではないか、と推測されます。

(注2)
メモナニには数多くの表記があり、どれが正しいかはよくわかりません。しかし、その語源はどうやらこのナムチ・グンギャルにあり、སྨན་མོ་གནམ་ཕྱི་(གུང་རྒྱལ་) sman mo gnam phyi (gung rgyal)がなまってメモナニになったようです。

སྨན་(མོ་) sman (mo)は「薬」ではなく「女」の意味です。ここでは特に「民間信仰の女神あるいは女魔神」をさしています。後には「薬」の意味と誤解されて、「メモナニ山麓は薬草の宝庫」などという俗説も生み出しました。

ナムナニという表記もあります。

・武振華・主編(1996)『西藏地名』. pp.592. 中国藏学出版社, 北京.

には、「那木那尼/གནས་མོ་སྣ་གཉིས་ gnas mo sna gnyis(主婦双鼻(峰))」という説明がありますが、どうもよくわからない名です(特に前半)。私はメモナニがなまった名称ではないか、と推測していますが、この辺も今後の研究待ち。

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(追記)@2014/03/07

メモナニの名称で今のところ確認できているものを挙げておく。

・སྨན་མོ་ནག་སྙིལ་ sman mo nag snyil メンモ・ナクニル (広い裾野の黒女神(山))
・སྨན་མོ་ནག་ཉེར་ sman mo nag nyer メンモ・ナクニェル (着飾った黒女神(山))
・སྨན་མོ་གནམ་ཕྱི་གུང་རྒྱལ་ sman mo gnam phyi gung rgyal メンモ・ナムチ・グンギャル (女神天王(山))
・སྨན་(གྱི་)རི་ sman (gyi) ri メン(ギ)リ (女神の山)
・སྨན་ནག་སྐོར་ sman nag skor メン・ナク・コル (黒女神の領域(山))
・གནས་མོ་སྣ་གཉིས་ gnas mo sna gnyis ネーモ・ナニー (女主人の双鼻(峰))
・སྟག་རི་ཁྲ་བོ་ stag ri khra bo タクリ・タウォ (縞の虎山)
・ཚེ་རིང་མཆེད་ལྔའི་ཕོ་བྲང་ tshe ring mched lnga'i pho brang ツェリン・チェーンゲー・ポタン (長寿五姉妹の宮殿)
・गुरला मान्धाता Gurlā Māndhātā グルラー・マーンダーター (ヴェーダ時代の大王マーンダーター(が修行した山))

2014年3月5日水曜日

『河口慧海日記』の塗り潰し■■■■■■には何が書かれていたか?(3) 『雪山ティセのボン教聖地目録』での記述-その1

カン・ティセ~ツォ・マパン地域は、チベット仏教、ボン教、ヒンドゥ教、ジャイナ教共通の聖地であるだけに、各宗教の巡礼案内書、聖地紹介書には頻繁に姿を現します。

とはいえ、その記述は神話的なものが多く、現実の地理を正確に反映したものとは言いがたいようです。玄奘『大唐西域記』に示されている、『阿毘達摩倶舎論』に基づく須弥山世界観が代表例でしょうか。

各宗教におけるティセ山の位置づけを概観した論文に、

・Andrea Loseries–Leick (1998) On the Sacredness of Mount Kailasa in the Indian and Tibetan Sources. IN : Alex McKay(ed.) (1998) PILGRIMAGE IN TIBET. pp.143-164. Routledge Curzon Press, UK.

があります。

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十九世紀、きわめて重要なティセ山巡礼案内書がチベットに登場します。三つあり、二つは仏教カギュパに基づくもの(注1)、一つはボン教に基づくものです。

ここで主に紹介するのは、ボン教に基づく巡礼案内書

・དཀར་རུ་གྲུབ་དབང་བསྟན་འཛིན་རིན་ཆེན་རྒྱལ་མཚན་བདེ་ཆེན་སྙིང་པོ་ dkar ru grub dbang bstan 'dzin rin chen rgyal mtshan bde chen snying po (1847) 『འཛམ་གླིང་གངས་ཏི་སེའི་དཀར་ཆག་ཚངས་དབྱངས་ཡིད་འཕྲོག་དགོས་འདོད་ཅེས་བྱ་བ་བཞུགས། 'dzam gling gangs ti se'i dkar chag tshangs dbyangs yid 'phrog dgos 'dod ces bya ba bzhugs/ (贍部洲の雪山ティセの(ボン教聖地)目録の妙なる聖言を拝聴せんと欲すること、というものがおわす)』. IN : Namkhai Norbu+Ramon Prats(ed.) (1989) GANGS TI SE'I DKAR CHAG : A BON-PO STORY OF THE SACRED MOUNTAIN TI-SE AND THE BLUE LAKE MA-PANG : SERIE ORIENTALE ROMA LXI. pp.xxiv+131. IsMEO, Roma.

略称 『གངས་ཏི་སེའི་དཀར་ཆག gangs ti se'i dkar chag(雪山ティセのボン教聖地目録)』

です。

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内容全般については省略。でないと、いつ終わるかわからなくなる。いずれまた。今回は、この石巌山=gshang rnga riに関する話題に絞りましょう。

この場所が現れるのは、ボン教開祖シェンラブ・ミウォ(གཤེན་རབ་མི་བོ་ gshen rab mi bo)がティセ山を訪れ、その一帯を加持して回った下りです。

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コンポ(ཀོང་པོ་ kong po)の悪鬼キャッパ・ラクリン(ཁྱབ་པ་ལག་རིང་ khyab pa lag ring)がシェンラブの七頭の馬を盗み、四大河の源頭、すなわちティセ山周辺に逃げ込みました(注2)。

シェンラブは、オルモルンリン(འོལ་མོ་ལུང་རིང་ 'ol mo lung ring)よりカン・ティセ山頂に降臨(注3)。キャッパ・ラクリンと共謀している土着の神魔たちと戦闘になります。山頂からティセ内院へ下り、次いでティセ一周。各地点で土着の神魔たちを調伏し、その地を加持して回りました。

ティセ山の加持が済むと、今度は四大河の源流を加持しに回ります。その最初がランチェン・カンバブ(གླང་ཆེན་ཁ་འབབ་ glang chen kha 'bab/サトレジ河源流)でした。

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サトレジ河源流は、ティルタプリ(པྲེ་ཏ་པུ་རི་ pre ta pu ri)付近で二つの河が合流しています。一つはヒマラヤ山脈に源頭を持ち北流するHalchor Tsangpo/索崗絨曲。もう一つが東から流れて来るティルタプリ・ツァンポ(པྲེ་ཏ་པུ་རི་གཙང་པོ་ pre ta pu ri gtsang po)。河川長・水量とも前者の方が数字が大きく、地理学上はこちらがサトレジ河源流になります。しかし宗教上、あるいは伝承上はティルタプリ・ツァンポがサトレジ河源流とされます。なんといっても、後者はツォ・マパンにつながるからです。

このティルタプリ・ツァンポの源頭部は、ランガク・ツォ(ལ་ངག་མཚོ་ la ngag mtsho)のやや西方の湿地帯と見られています。直接ランガク・ツォから流出している様子はないようです。しかし、この湿地帯はランガク・ツォから染み出た水とされており、従ってサトレジ河はランガク・ツォにつながる、と信じられています。

ランガク・ツォとツォ・マパンはガンガ・チュー(གང་གཱ་ཆུ་ gang gA chu)という水路でつながっています。ここは通常は水が流れていませんが、降水量の多い時期には流れが復活し、両湖はつながります(注4)。地表は涸れていても、地下水脈ではつながっているのは間違いありません。多少無理はあるものの、サトレジ河源流がツォ・マパンまで延びてきたわけです。

ツォ・マパンへは多くの河川が流入していますが、中でも重要なのが南東岸に流入しているタク・ツァンポ(བྲག་གཙང་པོ་ brag gtsang po)です。サトレジ河の源流はさらにこの河まで延びます。

その最上流部に二つの泉が湧き出ており、その一つがチュミク・ガンガー(ཆུ་མིག་གང་གཱ chu mig gang gA)、すなわちガンジス河源流(と信じられている)です。

「パンジャーブ平原でインダス河に合流するサトレジ河の源流が、なんでガンジス河源流になるんだ?」と疑問に思うかもしれませんが、この説明を始めると長くなるので今回は省略。

この近くにもう一つの泉があります。それがチュミク・トゥンワ・ランドル(ཆུ་མིག་འཐུང་བ་རང་གྲོལ་ chu mig 'thung ba rang grol/飲めばたちまち解脱できる泉)です。『gangs ti se'i dkar chag』ではこちらの方が重要視されます。

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ふう。面倒くさいサトレジ河源流の話が済んだところで、ようやくシェンラブの話に戻ります。と思ったら、以下次回。

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(注1)
一方、仏教カギュパによる巡礼案内書で著名なものは二つあり、一つはディグンパ、もう一つはドゥクパによるもの。

(1)ディグンパによる巡礼案内書

・དཀོན་མཆོག་བསྟན་འཛིན་ཆོས་ཀྱི་བློ་གྲོས་འཕྲིན་ལས་རྣམ་རྒྱལ་ dkon mchog bstan 'dzin chos kyi blo gros 'phrin las rnam rgyal (1896) 『གངས་རི་ཆེན་པོ་ཏི་སེ་དང་མཚོ་ཆེན་མ་དྲོས་པ་བཅས་ཀྱི་སྔོན་བྱུང་གི་ལོ་རྒྱུས་མདོར་བསྡུས་སུ་བརྗོད་པའི་རབ་བྱེད་ཤེལ་དཀར་མེ་ལོང་། gangs ri chen po ti se dang mtsho chen ma dros pa bcas kyi sngon byung gi lo rgyus mdor bsdus su brjod pa'i rab byed shel dkar me long/ (大雪山ティセと無熱悩大湖共々の由来の概要を述べた説明であるところの白水晶鏡)』. IN : Elena de Rossi Filibeck (1988) TWO TIBETAN GUIDE BOOKS TO TI SE AND LA PHYI : SERIES MONUMENTA TIBETICA HISTORICA, BD.4. pp.199. VGH Wissenschaftsverlag, Bonn.

略称 『གངས་ཏི་སེ་གནས་བཤད། gangs ti se gnas bshad/(雪山ティセの巡礼案内書)』。

英訳のみ収録したものは、

・Toni Huber+Tsepak Rigzin (2000) A Tibetan Guide for Pilgrimage to Ti-se (Mount Kailas) and mTsho Ma-pham (Lake Manasarovar). IN : Toni Huber(ed.) (2000) SACRED SPACES AND POWERFUL PLACES IN TIBETAN CULTURE : A COLLECTION OF ESSAYS. pp.125-153. LTWA, Dharamsala.

(2)ドゥクパによる巡礼案内書

・གངས་རི་བ་དོན་རྒྱུད་བསྟན་འཛིན་ gangs ri ba don rgyud bstan 'dzin (1798 or 1858) 『གནས་ཆེན་ཏི་སེ་དང་མཚོ་མ་ཕམ་བཅས་ཀྱི་གནས་ཡིག་བསྐལ་ལྡན་ཐར་ལམ་འདེན་པའི་ལྕགས་ཀྱུ gnas chen ti se dang mtsho ma pham bcas kyi gnas yig bskal ldan thar lam 'dren pa'i lcags kyu(大聖地ティセとツォ・マパム共々の巡礼案内書、吉祥の解脱の道へと導く鉤)』. 河口慧海・将来/東洋文庫・蔵. (未見)

(3)現代の巡礼案内書(おまけ)

・Victor Chan (1994) TIBET HANDBOOK : A PILGRIMAGE GUIDE. pp.1104. Moon Publications, USA.

「なんだ旅行ガイドブックじゃないか」と小馬鹿にするかもしれませんが、実はこれが大変な重要作。カン・ティセ、ツォ・マパンについては、上記のカギュパ伝・ボン教伝の巡礼案内書にも収録されていない聖地とその由来が多数紹介されています。特に民間信仰的な聖地に詳しいのが特徴です。

残念なのは、各聖地名のチベット文字表記がないこと。とはいえ、長年調べていれば徐々にわかってくるもので、私は一通り変換を済ませてあります。

さて、それらの地点・伝承をChan氏が一人で調べるのは無理で、当然情報源があります。ネタ元は、1980年代に同地で管理人兼ガイドとして活動していたカンリワ・チューイン・ドルジェ(གངས་རི་བ་ཆོས་དབྱིངས་རྡོ་རྗེ་ gangs ri ba chos dbyings rdo rje)さん。邦文のカン・ティセ訪問記にもよく登場していますし、直接現地で会った方も多いことでしょう(私は会ったことがない)。彼は惜しくも交通事故で亡くなられたそうです。

そのチューイン・ドルジェさん自身もチベット文で巡礼案内書を残しているようです。

・གངས་རི་བ་ཆོས་དབྱིངས་རྡོ་རྗེ་ gangs ri ba chos dbyings rdo rje (1990)「གངས་མཚོ་གནས་གསུམ་གྱི་ལོ་རྒྱུས་སྐལ་ལྡན་ཤིང་རྟ། gangs mtsho gnas gsum gyi lo rgyus skal ldan shing rta/ (雪山・聖湖三聖地の由来、吉祥の馬車)」. Bod ljongs nang bstan, vol.1990, no.1, pp,11-80. (未見)

カン・ティセ周辺の生き字引である彼の知識が、文字としてこの世に残ったのは幸運だったといえるでしょう。

(注2)
シェンラブ・ミウォの伝記では、キャッパ・ラクリンはシェンラブの七頭の馬を盗んだ後、自分の本拠地コンポに逃げ込み、そこでシェンラブを迎え撃ちます。しかし、『gangs ti se'i dkar chag』では、その戦場がカン・ティセ山一帯とされ、定説とは矛盾する異伝になります。

伝記では、コンポでの戦闘が行われる前に、キャッパ・ラクリンはオルモルンリンからコンポへ向かうシェンラブに対し、途上様々な妨害工作をします。シェンラブはこれを次々に突破してチベット、そしてコンポに到達します。『gangs ti se'i dkar chag』に記された、ティセ山一帯での戦闘は、この過程の一部を敷衍して創作されたものと考えられます。

『gangs ti se'i dkar chag』では、カン・ティセ一帯での加持を終えたシェンラブはそのままオルモルンリンへ帰還しており、さらにチベット~コンポへ進んだ、という記述はありません。キャッパ・ラクリン自身がどうなったか、七頭の馬の行方、チベット本土へのボン教布教など、みなうやむやになっており、神話としての完成度はあまり高いとはいえません。

(注3)
シェンラブがティセ山に降臨したこの記述をもって、「オルモルンリンとは、ティセ山周辺すなわちシャンシュンのことである」とする説があるが、根拠としては薄弱。第一、この時はオルモルンリンからやって来て、そしてまたオルモルンリンに帰還した、とはっきり記されているのですから。

「オルモルンリンは実在の場所」という説は論外としても、「オルモルンリンのモデル=ティセ山周辺/シャンシュン」という説についても私には異論があるのですが、須弥山世界観などとも関わってくる話でかなり長くなりますから、いつかまた。

(注4)
かつては両湖の湖面はもっと高い位置にあったと見られ、その形跡は現在の湖岸にも見ることができます。その時代にはガンガー・チューを通じて両湖が連結していたことは確実。

2014年3月4日火曜日

ヒマーチャル小出し劇場(8) のんびり寺院群チョウラースィー

HP州北西チャンバー県の奥地バールモール(Bharmaur/भरमौर)はチャンバー王国の古都です。ここまで来る外国人はまだ少ないでしょう。

その中心は、84の寺院・シヴァリンガが立ち並ぶ寺院群チョウラースィー(Chaurasi/चौरासी)。

巡礼地・観光地であると共に、地元民が日常的に集うなごみの場でもあります。ヒンドゥ教の聖地では、我々異教徒には近寄りがたい空気を感じるものですが、ここはそのような緊張感は希薄です。すぐそばには小学校もあり、境内で授業が行われているのも微笑ましい。















中でも人気者は、真鍮製の巨大なナンディー像(700年頃)。











他にも女神像、ガネシュ像、ナーラ・スィンハ像(いずれも700年頃の名作)など見所満載の場所です。また行きたいなあ。

2014年3月3日月曜日

『河口慧海日記』の塗り潰し■■■■■■には何が書かれていたか?(2) 『旅行記』での記述

さて、ヤルツァンポ源頭部に到達した河口慧海師は、そこで「石巌山」という聖地に出会います。『日記』にはこれ以上の記述はなく、わずかにボン教の聖地であることが述べられているだけです。

『旅行記』の方には、もう少し詳しい記述があります。『旅行記(1)』p.176~177より、そのあたりを引用してみましょう。

┌┌┌┌┌ 以下、河口(1978)(1)より ┐┐┐┐┐

【p.176】

(前略)

で一つの大いなる池(*1)の端に着きましてそこで昼食を済ましその池の端で向うの方をずっと眺めて見ますと砂原です。砂の山があっちこっちに見えて居る。これは以前のチェマ・ユンズン川の前にあった砂原より大きい。(段落後略)

第三十回

【p.177】

ポン教 さてその砂原を二里半ばかり行きますとまた草原に着きました。その草原を少し参りますと誠に奇態な石ばかり集って居る原野に山がチョンポリと立って居る(*2)。後にその山の来歴を聞いてみますとそれはポンという教えの神さんが住んで居る山であったそうです。(中略)つまりチベット古代の教えの神々の住んで居る社というようなものは別にない。大抵は石山あるいは雪峰もしくは池、湖というような所になって居る。その山の所を過ぎて少し向うへ参りますと野馬が二疋向うからやって来たです。(以下略)

└└└└└ 以上、河口(1978)(1)より ┘┘┘┘┘

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(*1)
この池は、前述のཏུང་ལུང་མཚོ་ tung lung mtsho。

(*2)
この山が『日記』の石巌山。チベット語名གཤང་རྔ་རི་ gshang rnga riのことらしい。

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ヤルツァンポ/ツォ・マパン流域分水嶺付近は平坦で、砂原・草原が続いていることがわかります。そしてその中にポツンと立つ小山が石巌山=gshang rnga riです。そこはボン教の聖地と言われるものの、寺や社などはなく奇岩の林立する荒れ野原が広がるばかりでした。

ボン教の聖地ということですが、詳しい記述はないのでいったいどういう由来を持つ聖地なのか、ここではさっぱりわかりません。しかし、例の塗り潰しがどうもボン教に関係した内容であろう、とする奥山直司氏の推測はおそらく正しいでしょう。

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慧海師の記述からは、これ以上のことはわかりそうにありません。そこで別の資料から、この聖地を調べてみましょう。

以下、次回。

2014年3月2日日曜日

『河口慧海日記』の塗り潰し■■■■■■には何が書かれていたか?(1) 『日記』での記述

今回のネタは、『河口慧海日記 ヒマラヤ・チベットの旅』です。

おお、長い旅を終えて、ようやくタイトル写真の故郷に帰ってきた感があるな。

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さて、河口慧海の1897年~1903年のチベット(およびその前後)旅行記といえば、定番は、

・河口慧海・著 (1978) 『チベット旅行記1~5』. 講談社学術文庫263~267, 東京. ← 初出: (1904) 『西蔵旅行記(上・下)』. 博文館.

以下、『旅行記』と略します。

この『旅行記』については、内容があまりにも詳細であるため、かねてより「原版として日記があったのではないか?」と囁かれていました。その日記が、慧海師の姪である宮田恵美氏によってついに発見されたのは2004年のことです。なんと帰国後百周年余り(注1)。そして3年の歳月を経て発表された原文+解説書が、

・河口慧海・著、奥山直司・編 (2007) 『河口慧海日記 ヒマラヤ・チベットの旅』. pp.314. 講談社学術文庫1819, 東京.

です。以下、『日記』と略します。

本来は、まずハードカバーの研究書として発表されるのでしょうが、講談社学術文庫が『旅行記』を収録している関係上、同文庫から刊行されたものと思われます(注2)。そういうわけで、我々読者は第一報を安価な文庫本で読めるという幸運を得たわけです。

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内容全般について触れることはできませんが、この日記の刊行により、慧海師の旅に関する数々の疑問が氷解した大発見であるのは間違いありません。

私も『旅行記』をベースに慧海師のンガリー旅程表を作っていたのですが、日付のわからない区間が多く、いろいろこねくり回してはああでもない、こうでもないと首をひねっていました。それが一気に氷解です。

触れるべき話題はありすぎるのですが、今回はタイトルのテーマ一本に絞ります。それでもかなり長くなりそうな予感がありますけど(毎度のこと)。

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『日記』では、1900年7~8月、慧海師がカン・ティセ(གངས་ཏི་སེ་ gangs ti se)~ツォ・マパン(མཚོ་མ་པང་ mtsho ma pang)地域(注3)に入る直前、ヤルツァンポ(ཡར་ལུང་གཙང་པོ་ yar lung gtsang po)源頭部チェマ・ユンドゥン・ギ・チュー(བྱེ་མ་གཡུང་དྲུང་གི་ཆུ་ bye ma g-yung drung gi chu)から峠を越えてツォ・マパン流域タク・ツァンポ(བྲག་གཙང་པོ་ brag gtsang po)に下るあたりに大幅な塗り潰しがあります。

日付では8月1日(水)~2日(木)、『日記』ではp.76に当たります。そのあたりを一部引用してみましょう。私自身による注を(*n)と記すことにします。

┌┌┌┌┌ 以下、河口(2007)より ┐┐┐┐┐

【p.72】

(月)(*1) 七月二十八日、六月二日(*2)。喫茶后九時発足して、十時半、大雪峯より流れ来れる大河に遇ふ。この水処々に大いなる池をなし東北に流れ去る。名をチェマ・ユンヅンギチュ(*3)と云ふ。(同日後略)

(途中略)

【p.73】

(途中略)

(月) 七月三十日、六月四日。雪にて麦粉をねりて食ひ、午前十時出立して、西北に向かひて下ること一里半、トンドン河(*4)の前に着きて河水にて喫食す。(同日後略)

(途中略)

【p.73-76】注

【p.76】

一九〇〇年八月

(水) 八月一日、六月六日。午前五時半発足して西北の山中に進む。行程四里半にして一つの大池(*5)の岸に達す。喫食し了(おえ)て、同方向の白砂の山中に進行すること二里半にして、一つの石巌山(*6)の下に着く。これボンプ宗教(ポン教)の名跡なりと云ふ。□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

(木) □□□□□□□□□□□□□□□□□□(*7)西北に向かふ。行くこと二里余にして二つのキャン野馬あり。羊大いに恐れて逃げ奔るために荷物を落とし去る。(中略)それより行くこと二里にして一つの大河(*8)の傍らに着く。(同日後略)

(金) 八月三日、六月八日。朝六時商人と共に出立して大河に添ふて西北に下る。こ

【p.77】

の大河は比馬羅耶(ヒマラヤ)山中より発して北少しく東に流れて(*9)阿耨達池(あのくたっち)(*10)に入る。行くこと一里にして小泉あり。はなはだ清澄。これを恒河源泉(チュミクガンガ)(*11)と云ふ。それより数丁西北の山中、白大巌ある下にまた大泉あり。蔵語にChu mig mthong dga' rang 'byung(チュミクトンガランジュン)(*12)と云ふ。それより行くこと二里半にして大河を西岸に渡る。幅一丁半、深さ腰に至る。雪山チーセ(*13)を見る。(同日後略)

└└└└└ 以上、河口(2007)より ┘┘┘┘┘

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(*1)
「(月)」は、本来「○内に月(曜日)」と表記されているが、ここでは(曜日)という形で表記した。なお、1900年7月28日は実際は土曜日。

1900年の曜日を調べるに当たっては、以下のサイトを利用させていただきました。

・N.K./あの日は何曜日?10000年カレンダー > 1900(明治33)年
http://www5a.biglobe.ne.jp/~accent/kazeno/calendar/1900.htm

(*2)
日付が二つあるのは、前者が太陽暦、後者が太陰暦(旧暦)。

(*3)
チェマユンヅンギチュ=チェマ・ユンドゥン・ギ・チュー(བྱེ་མ་གཡུང་དྲུང་གི་ཆུ་ bye ma g-yung drung gi chu)。

(*4)
トンドン河=Ansi Dong Dong。この河のチベット語名はངང་སེར་ཆུ་ ngang ser chuという。「Ansi=ngang ser(黄色雁)」に相当すると思われる。「Dong Dong」は、「དྲུང་དྲུང་ drung drung(太鼓の音/ドンドン~ゴロゴロ鳴る音)」か?すなわち「Ansi Dong Dong=ངང་སེར་དྲུང་དྲུང་ ngang ser drung drung」かと思われる。

(*5)
この池はPranavananda(1949, 1950)ではTumulung Tso。チベット語名ཏུང་ལུང་མཚོ་ tung lung mtsho。意味がよくわからない地名なので、本来は、རྟུང་ལུང་མཚོ་ rtung lung mtsho(短い沢の湖)あるいはའཐུང་ལུང་མཚོ་ 'thung lung mtsho(飲める沢の湖)であろうか?

参考:
・Swami Pranavananda (1949) KAILAS – MANASAROVAR. pp.xxiv+242+plates+maps. S.P.League, Calcutta. → Reprint : (1983) Swami Pranavananda(自費出版).
・Swami Pranavananda (1950) EXPLORATION IN TIBET : REVISED AND ENLARGED EDITION. pp.xxxii+302+plates+maps. Univ.of Calcutta, Calcutta. ← 原版: (1939) pp.161. Univ. of Calcutta, Calcutta.

(*6)
「石巌山」は慧海師による命名(仮名)。ボン教の聖地གཤང་རྔ་རི་ gshang rnga ri(タンバリン山)に相当すると思われる。次回以降に詳説。この場所はヤルツァンポ流域とサトレジ河流域の分水嶺。

(*7)
ここが問題の塗り潰し部。『日記』 p.86の注(1)によれば、塗り潰しは原本では三行に渡るという。

(*8)
この大河はབྲག་གཙང་པོ་ brag gtsang po。ツォ・マパン南東部に流入する。

(*9)
もちろん「北少しく"西"に流れて」の誤り。

(*10)
「阿耨達池」はツォ・マパンのこと。サンスクリット語名Anavataptaの音訳漢語名。意訳漢語名は「無熱悩池」。意訳チベット語名はམཚོ་མ་དྲོས་པ་ mtsho ma dros pa(温まらない湖)。

(*11)
ཆུ་མིག་གང་གཱ chu mig gang gA。この場所がなぜガンガー(ガンジス河)の源流とされるのかは、かなり複雑な事情なのでいずれ改めて。

(*12)
ཆུ་མིག་མཐོང་དགའ་རང་འབྱུང་ chu mig mthong dga' rang 'byungは、『旅行記』では「見歓自然生泉」と意訳してある。これは慧海師の聞き違いか?チベット語文献(次回以降に詳説)では、いずれもཆུ་མིག་འཐུང་བ་རང་གྲོལ་ chu mig 'thung ba rang grol(飲めばたちまち解脱できる泉)という名称。

(*13)
雪山チーセ=གངས་ཏི་སེ་ gangs ti se。

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解説は次回以降。

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(注1)
『西蔵旅行記』発表当時、慧海師が日付や事実関係を一部変更したり、この日記の存在を隠したりしているのは、ネパール~チベットで世話になった関係者に迷惑が及ぶことを恐れてのこと、と推測されています。

私は、宮田氏をはじめとする遺族の方々は、この日記の存在をかねてから知っておられたのだが、あえて公表しなかった可能性もある、と推測しています。たとえそうであっても、それは上記の慧海師の意思を尊重した上での行為でしょう。理解できます。

こういった資料は、当座は公表されずとも消滅しなければよいのです。大丈夫、公表されなくても誰も死にません。しかし、公表された場合には、百年前なら誰かが罰せられたり死刑となる可能性すらあったのです。関係者存命の可能性が完全になくなった百年後の発表というのは、まさに絶好のタイミングと言っていいでしょう。

本当に大切に保管、そして公表してくれた遺族の方々に深く感謝いたします。

(注2)
講談社学術文庫版 『チベット旅行記1~5』は1978年の刊行。今も現役の超ロングセラー。おそらく同文庫の稼ぎ頭なのでしょう。『日記』の刊行は、河口慧海師への恩返しというわけか。昨今の殺伐とした出版界では珍しいちょっとイイ話。

(注3)
カン・ティセ、ツォ・マパンは主にボン教徒による名称。今回はこれらの名称を使います。

チベット仏教徒による名称はカン・リンポチェ(གངས་རིན་པོ་ཆེ་ gangs rin po che)、マパム・ユムツォ(མ་ཕམ་གཡུ་མཚོ་ ma pham g-yu mtsho)。ヒンドゥ教徒・ジャイナ教徒による名称はカイラース/ケーラーシュ山(कैलास Kailas/Kailash)、マナサロワール湖(मानस सरोवर Manasarovar)。