2014年3月2日日曜日

『河口慧海日記』の塗り潰し■■■■■■には何が書かれていたか?(1) 『日記』での記述

今回のネタは、『河口慧海日記 ヒマラヤ・チベットの旅』です。

おお、長い旅を終えて、ようやくタイトル写真の故郷に帰ってきた感があるな。

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さて、河口慧海の1897年~1903年のチベット(およびその前後)旅行記といえば、定番は、

・河口慧海・著 (1978) 『チベット旅行記1~5』. 講談社学術文庫263~267, 東京. ← 初出: (1904) 『西蔵旅行記(上・下)』. 博文館.

以下、『旅行記』と略します。

この『旅行記』については、内容があまりにも詳細であるため、かねてより「原版として日記があったのではないか?」と囁かれていました。その日記が、慧海師の姪である宮田恵美氏によってついに発見されたのは2004年のことです。なんと帰国後百周年余り(注1)。そして3年の歳月を経て発表された原文+解説書が、

・河口慧海・著、奥山直司・編 (2007) 『河口慧海日記 ヒマラヤ・チベットの旅』. pp.314. 講談社学術文庫1819, 東京.

です。以下、『日記』と略します。

本来は、まずハードカバーの研究書として発表されるのでしょうが、講談社学術文庫が『旅行記』を収録している関係上、同文庫から刊行されたものと思われます(注2)。そういうわけで、我々読者は第一報を安価な文庫本で読めるという幸運を得たわけです。

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内容全般について触れることはできませんが、この日記の刊行により、慧海師の旅に関する数々の疑問が氷解した大発見であるのは間違いありません。

私も『旅行記』をベースに慧海師のンガリー旅程表を作っていたのですが、日付のわからない区間が多く、いろいろこねくり回してはああでもない、こうでもないと首をひねっていました。それが一気に氷解です。

触れるべき話題はありすぎるのですが、今回はタイトルのテーマ一本に絞ります。それでもかなり長くなりそうな予感がありますけど(毎度のこと)。

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『日記』では、1900年7~8月、慧海師がカン・ティセ(གངས་ཏི་སེ་ gangs ti se)~ツォ・マパン(མཚོ་མ་པང་ mtsho ma pang)地域(注3)に入る直前、ヤルツァンポ(ཡར་ལུང་གཙང་པོ་ yar lung gtsang po)源頭部チェマ・ユンドゥン・ギ・チュー(བྱེ་མ་གཡུང་དྲུང་གི་ཆུ་ bye ma g-yung drung gi chu)から峠を越えてツォ・マパン流域タク・ツァンポ(བྲག་གཙང་པོ་ brag gtsang po)に下るあたりに大幅な塗り潰しがあります。

日付では8月1日(水)~2日(木)、『日記』ではp.76に当たります。そのあたりを一部引用してみましょう。私自身による注を(*n)と記すことにします。

┌┌┌┌┌ 以下、河口(2007)より ┐┐┐┐┐

【p.72】

(月)(*1) 七月二十八日、六月二日(*2)。喫茶后九時発足して、十時半、大雪峯より流れ来れる大河に遇ふ。この水処々に大いなる池をなし東北に流れ去る。名をチェマ・ユンヅンギチュ(*3)と云ふ。(同日後略)

(途中略)

【p.73】

(途中略)

(月) 七月三十日、六月四日。雪にて麦粉をねりて食ひ、午前十時出立して、西北に向かひて下ること一里半、トンドン河(*4)の前に着きて河水にて喫食す。(同日後略)

(途中略)

【p.73-76】注

【p.76】

一九〇〇年八月

(水) 八月一日、六月六日。午前五時半発足して西北の山中に進む。行程四里半にして一つの大池(*5)の岸に達す。喫食し了(おえ)て、同方向の白砂の山中に進行すること二里半にして、一つの石巌山(*6)の下に着く。これボンプ宗教(ポン教)の名跡なりと云ふ。□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

(木) □□□□□□□□□□□□□□□□□□(*7)西北に向かふ。行くこと二里余にして二つのキャン野馬あり。羊大いに恐れて逃げ奔るために荷物を落とし去る。(中略)それより行くこと二里にして一つの大河(*8)の傍らに着く。(同日後略)

(金) 八月三日、六月八日。朝六時商人と共に出立して大河に添ふて西北に下る。こ

【p.77】

の大河は比馬羅耶(ヒマラヤ)山中より発して北少しく東に流れて(*9)阿耨達池(あのくたっち)(*10)に入る。行くこと一里にして小泉あり。はなはだ清澄。これを恒河源泉(チュミクガンガ)(*11)と云ふ。それより数丁西北の山中、白大巌ある下にまた大泉あり。蔵語にChu mig mthong dga' rang 'byung(チュミクトンガランジュン)(*12)と云ふ。それより行くこと二里半にして大河を西岸に渡る。幅一丁半、深さ腰に至る。雪山チーセ(*13)を見る。(同日後略)

└└└└└ 以上、河口(2007)より ┘┘┘┘┘

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(*1)
「(月)」は、本来「○内に月(曜日)」と表記されているが、ここでは(曜日)という形で表記した。なお、1900年7月28日は実際は土曜日。

1900年の曜日を調べるに当たっては、以下のサイトを利用させていただきました。

・N.K./あの日は何曜日?10000年カレンダー > 1900(明治33)年
http://www5a.biglobe.ne.jp/~accent/kazeno/calendar/1900.htm

(*2)
日付が二つあるのは、前者が太陽暦、後者が太陰暦(旧暦)。

(*3)
チェマユンヅンギチュ=チェマ・ユンドゥン・ギ・チュー(བྱེ་མ་གཡུང་དྲུང་གི་ཆུ་ bye ma g-yung drung gi chu)。

(*4)
トンドン河=Ansi Dong Dong。この河のチベット語名はངང་སེར་ཆུ་ ngang ser chuという。「Ansi=ngang ser(黄色雁)」に相当すると思われる。「Dong Dong」は、「དྲུང་དྲུང་ drung drung(太鼓の音/ドンドン~ゴロゴロ鳴る音)」か?すなわち「Ansi Dong Dong=ངང་སེར་དྲུང་དྲུང་ ngang ser drung drung」かと思われる。

(*5)
この池はPranavananda(1949, 1950)ではTumulung Tso。チベット語名ཏུང་ལུང་མཚོ་ tung lung mtsho。意味がよくわからない地名なので、本来は、རྟུང་ལུང་མཚོ་ rtung lung mtsho(短い沢の湖)あるいはའཐུང་ལུང་མཚོ་ 'thung lung mtsho(飲める沢の湖)であろうか?

参考:
・Swami Pranavananda (1949) KAILAS – MANASAROVAR. pp.xxiv+242+plates+maps. S.P.League, Calcutta. → Reprint : (1983) Swami Pranavananda(自費出版).
・Swami Pranavananda (1950) EXPLORATION IN TIBET : REVISED AND ENLARGED EDITION. pp.xxxii+302+plates+maps. Univ.of Calcutta, Calcutta. ← 原版: (1939) pp.161. Univ. of Calcutta, Calcutta.

(*6)
「石巌山」は慧海師による命名(仮名)。ボン教の聖地གཤང་རྔ་རི་ gshang rnga ri(タンバリン山)に相当すると思われる。次回以降に詳説。この場所はヤルツァンポ流域とサトレジ河流域の分水嶺。

(*7)
ここが問題の塗り潰し部。『日記』 p.86の注(1)によれば、塗り潰しは原本では三行に渡るという。

(*8)
この大河はབྲག་གཙང་པོ་ brag gtsang po。ツォ・マパン南東部に流入する。

(*9)
もちろん「北少しく"西"に流れて」の誤り。

(*10)
「阿耨達池」はツォ・マパンのこと。サンスクリット語名Anavataptaの音訳漢語名。意訳漢語名は「無熱悩池」。意訳チベット語名はམཚོ་མ་དྲོས་པ་ mtsho ma dros pa(温まらない湖)。

(*11)
ཆུ་མིག་གང་གཱ chu mig gang gA。この場所がなぜガンガー(ガンジス河)の源流とされるのかは、かなり複雑な事情なのでいずれ改めて。

(*12)
ཆུ་མིག་མཐོང་དགའ་རང་འབྱུང་ chu mig mthong dga' rang 'byungは、『旅行記』では「見歓自然生泉」と意訳してある。これは慧海師の聞き違いか?チベット語文献(次回以降に詳説)では、いずれもཆུ་མིག་འཐུང་བ་རང་གྲོལ་ chu mig 'thung ba rang grol(飲めばたちまち解脱できる泉)という名称。

(*13)
雪山チーセ=གངས་ཏི་སེ་ gangs ti se。

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解説は次回以降。

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(注1)
『西蔵旅行記』発表当時、慧海師が日付や事実関係を一部変更したり、この日記の存在を隠したりしているのは、ネパール~チベットで世話になった関係者に迷惑が及ぶことを恐れてのこと、と推測されています。

私は、宮田氏をはじめとする遺族の方々は、この日記の存在をかねてから知っておられたのだが、あえて公表しなかった可能性もある、と推測しています。たとえそうであっても、それは上記の慧海師の意思を尊重した上での行為でしょう。理解できます。

こういった資料は、当座は公表されずとも消滅しなければよいのです。大丈夫、公表されなくても誰も死にません。しかし、公表された場合には、百年前なら誰かが罰せられたり死刑となる可能性すらあったのです。関係者存命の可能性が完全になくなった百年後の発表というのは、まさに絶好のタイミングと言っていいでしょう。

本当に大切に保管、そして公表してくれた遺族の方々に深く感謝いたします。

(注2)
講談社学術文庫版 『チベット旅行記1~5』は1978年の刊行。今も現役の超ロングセラー。おそらく同文庫の稼ぎ頭なのでしょう。『日記』の刊行は、河口慧海師への恩返しというわけか。昨今の殺伐とした出版界では珍しいちょっとイイ話。

(注3)
カン・ティセ、ツォ・マパンは主にボン教徒による名称。今回はこれらの名称を使います。

チベット仏教徒による名称はカン・リンポチェ(གངས་རིན་པོ་ཆེ་ gangs rin po che)、マパム・ユムツォ(མ་ཕམ་གཡུ་མཚོ་ ma pham g-yu mtsho)。ヒンドゥ教徒・ジャイナ教徒による名称はカイラース/ケーラーシュ山(कैलास Kailas/Kailash)、マナサロワール湖(मानस सरोवर Manasarovar)。

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