2016年2月28日日曜日

2016/1/30 シンポジウム「チベット文学と映画制作の現在」とセルニャ Vol.1~3

2016年1月30日(土)に、

シンポジウム「チベット文学と映画制作の現在」@東京外国語大学
http://tibetanliterature.blogspot.jp/2016/01/blog-post.html

に行ってきました。古い話やなあ、なあにかまうものか。

アムド出身のチベット人作家御三方を招聘してのシンポジウム。その御三方とは、

ジャバ先生 བཀྲ་བྷ། bkra bha/
ジャンブ先生 ལྗང་བུ། ljang bu/(チェナクツァン・ドルジェ・ツェリン ལྕེ་ནག་ཚང་རྡོ་རྗེ་ཚེ་རིང་། lce nag tshang rdo rje tshe ring/)
ラシャムジャ先生 ལྷ་བྱམས་རྒྱལ། lha byams rgyal/
(アムド方言読みです)

普段でも小説は読まないほど文学には疎いのですが、とてもおもしろいシンポジウムでした。

------------------------------------------

かつては、「チベット人が書いた小説」と言っても、日本で紹介されていたのは、

・ザシダワ བཀྲ་ཤིས་ཟླ་བ། bkra shis zla ba/, 色波(徐明亮), 牧田英二・訳(1991.8) 『風馬(ルンタ)の耀き 新しいチベット文学』(発見と冒険の中国文学8). 252pp. JICC出版局, 東京.

くらい。これは持ってる。でもこれは、「チベット人が中国語で書いた小説」でした。内容は、わけがわかんなくて結構面白かった。

なお「bkra shis」は、アムド方言では「ザシ」とか「ジャシ」と発音されます。

------------------------------------------

近年は、星泉先生をはじめとするチベット文学研究会の方々により、「チベット語で書かれた小説」が続々と邦訳されています。

・トンドゥプジャ དོན་གྲུབ་རྒྱལ། don grub rgyal/, チベット文学研究会・編訳 (2012.11) 『ここにも激しく躍動する生きた心臓がある チベット現代文学の曙(སད་ཀྱིས་བཅོམས་པའི་མེ་ཏོག sad kyis bcoms pa'i me tog 厳寒に枯れた花)』. 480pp. 勉誠出版, 東京.
http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100162
・ペマ・ツェテン པད་མ་ཚེ་བརྟན། pad ma tshe brtan/, チベット文学研究会・編, 星泉+大川謙作・訳 (2013.12) 『ティメー・クンデンを探して チベット文学の現在(འཚོལ། 'tshol/ 探索)』. 416pp. 勉誠出版, 東京.
http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100286
・ラシャムジャ, 星泉・訳 (2015.1) 『雪を待つ チベット文学の新世代(བོད་ཀྱི་གཅེས་ཕྲུག bod kyi gces phrug チベットの愛すべき子どもたち)』. 352pp. 勉誠出版, 東京.
http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100424
・タクブンジャ སྟག་འབུམ་རྒྱལ། stag 'bum rgyal/, 海老原志穂+大川謙作+星泉+三浦順子・訳 (2015.3) 『ハバ犬を育てる話(ཧཱ་པ་གསོས་པའི་ཟིན་བྲིས། hA pa gsos pa'i zin bris/)』(物語の島 アジア). 296pp. 東京外国語大学出版会, 東京.
http://www.tufs.ac.jp/blog/tufspub/backlist/

「文学に疎い人」の私は、この辺の事情を紹介するのに適任ではないのですが、まあ流れで・・・。

ところで、アムドの人には「ナントカ rgyal」という名前の人が多いなあ。これは「rgyal mtshan」の略なのか、なにか王家筋の出自を示すものなのか?

これもアムド読みで「rgyal」=「ジャ」となるようです。

------------------------------------------

シンポジウムでは、まず三浦順子先生が「チベット文学に出てくるシラミ」の話(笑)。くだらなくてよかったです。

海老原先生、大川先生とチベット文学との関わりの話。

------------------------------------------

ジャンブ先生は
「チベット現代文学の形成とその特徴について བོད་ཀྱི་རྩོམ་རིག་ལ་དེན་རབས་ཀྱི་རྣམ་པ་གྲུབ་ལུགས་དང་དེའི་དགེ་མཚན་སྐོར་གླེང་བ། bod kyi rtsom rig la den rabs kyi rnam pa grub lugs dang de'i dge mtshan skor gleng ba/」

ラシャムジャ先生は
「チベット現代文学の発展の段階 བོད་ཀྱི་དེང་རབས་རྩོམ་རིག་འཕེལ་རིམ་སྐོར་གྱི་བགྲོ་གླེང་། bod kyi deng rabs rtsom rig 'phel rim skor gyi bgro gleng/」

という発表。

どちらも最後に自作の朗読があって、なかなか感動しました。やっぱりチベット語は、文字も文章も音も本当に美しい。チベット語勉強してよかった。

最近はチベット語会話は全然していないので、ヒアリングはもうダメなんですがね(笑)。

------------------------------------------

そして、最後は山口守先生、小野田俊蔵先生を交えてのパネルディスカッション。

山口守先生は中国文学研究者なのですが、

・阿来, 山口守・訳 (2012.4) 『空山 風と火のチベット』(コレクション中国同時代小説1). 400pp. 勉誠出版, 東京.
http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100082

の翻訳者。ただしこれは「中国語で書かれたチベット小説」。

阿来をめぐる議論がすごく面白かった。

阿来はヂャロン རྒྱལ་རོང་། rgyal rong出身。ヂャロンワと漢族のハーフらしいです。チベット人作家の皆さんが、中国文学としてもチベット文学としても辺境に当たる阿来への距離感を測りかねている様子が、とても興味深かったです。

先ほどのジャバ先生やラシャムジャ先生の発表では、現代チベット文学では、意識的に仏教の影響から離れることで発展してきたようなのですが、これに対し仏教学者である小野田先生からは「仏教学者としては、仏教を取り入れた傾向にも行ってほしいと感じる」といった意見が出されました。

と、盛り上がってきたところで時間切れ。なかなかエキサイティングでしょ。

------------------------------------------

二日目の1月31日は、映画『冬虫夏草』の上映と、一日目には出番が少なかったジャンブ先生の講演「詩のチベット 時間旅行へようこそ」など。残念ながらこちらへは参加出来ませんでした。

ジャバ先生もラシャムジャ先生も、作家でもありますが学者さんでもあります。特にラシャムジャ先生は、本職は仏教学者(中国藏学研究中心 ཀྲུང་གོའི་བོད་རིག་པ་ཞིབ་འཇུག་ལྟེ་གནས་ krung go'i bod rig pa zhib 'jug lte gnasの研究員)です。

一方のジャンブ先生は、「豪胆な芸術家」と言った風貌。いかにも話が面白そうなので、ぜひ講演を聞きたかったのですが・・・。

あとで知ったのですが、ジャンブ先生はデード・モンゴル(青海モンゴル、ソッゴ སོག་པོ་ sog po)の方なのですね。となると、チベット人とはまた違った距離感でチベット語・文化・文学を捉えていると思われますが、その辺の話も一度聞いてみたい。

------------------------------------------

いかん、シンポジウムの報告だけでこんなに書いてしまったぞ。

シンポジウムの報告については、こちらもどうぞ。

・ダヤンハーン/ダヤンウルス チベット・モンゴル・ブータン関係のゆるい系情報サイト > トピックス > 「チベット文学と映画制作の現在」国際シンポ報告 2016-2-1
http://graffiti-cat.jp/dayanulus/1251/
・TibetanCinema/チベット文学と映画制作の現在 > 2016年2月3日水曜日 シンポジウムご来場御礼とSERNYAの配布について
http://tibetanliterature.blogspot.jp/2016/02/sernya.html

------------------------------------------

次は、シンポジウム当日にも配布された、チベット文学研究会が出している雑誌セルニャの紹介。

「セルニャ SERNYA གསེར་ཉ། gser nya/」

とは「金魚」の意味。チベット文学研究会が金魚坂の喫茶店で開かれていたことからの命名だそうです。

Vol.1 ペマ・ツェテン 映画特集. 128pp. 2013.12発行

Vol.2 特集 映画『英雄の谷』 翻訳 ツェラン・トンドゥプ「地獄落ち」ほか 特別寄稿 作家が覗いた日本 152pp. 2015.2発行

Vol.3 特集 牧畜民の暮らしと文化 日本上映記念特集 映画『タルロ』『河』 海外のチベット人たちの文学と音楽 174pp. 2016.1発行

の表紙と目次を一気に紹介。

------------------------------------------












映画特集では、

『静かなるマニ石(ལྷིང་འཇགས་ཀྱི་མ་ཎི་རྡོ་འབུམ། lhing 'jags kyi ma Ni rdo 'bum/)』
『ティメー・クンデンを探して(འཚོལ། 'tshol/)』
『オールド・ドッグ(ཁྱི་རྒན། khyi rgan/)』
『草原(རྩྭ་ཐང་། rtswa thang/)』
『五色の矢(གཡང་མདའ། g-yang mda'/ 幸運の矢)』

の5本を紹介。後半はチベット語の小説、詩の邦訳が紹介されています。

この雑誌では、マンガ家・イラストレーターの蔵西さんが参加してるのも特徴。やっぱり絵が描ける人がいると俄然魅力が増す。表紙イラストも蔵西さん。

------------------------------------------















まず、映画『英雄の谷(དཔའ་བོའི་ལུང་པ། dpa' bo'i lung pa/)』を紹介。

ラダック(ལ་དྭགས་ la dwags)はシャヨク(ཤ་གཡོག sha g-yog)谷のトゥルトゥク(དུར་ཏུག dur tug)についての映画『叶えられた願い(Prayers Answered)』の紹介もおもしろい。

後半のチベット文学の紹介はVol.1よりも増ページで一層の充実。

------------------------------------------















出たばかりのVol.3では、ちょっと趣向を変えて、特集はアムド・ドクパ(འབྲོག་པ་ 'brog pa)の生活用語調査の報告。これが役に立つ。その一部も紹介しましょう。

アムド特有の用語である可能性もあるので、創作などで他の地域にも適用してしまうと、恥をかくかもしれないので注意。まだまだ調査が不十分な分野なのだ。

西田愛先生の「占い文書の中の文学」もおもしろいし、在外チベット人の文学の紹介などもあり、制作者たちが次の展開を模索している様子も伺える。

Vol.3はページ数も最大となり、充実の一言です。

------------------------------------------

どうです。ほしくなったでしょう。ところがこれは非売品(と表示されているわけではないが、価格表示はない)。

これまでシンポジウム等の際に配布されていただけで、関係者以外はなかなか入手できなかったのですが、この度一般頒布することになったそうです。入手方法はこちらで↓

・TibetanCinema/チベット文学と映画制作の現在 > 2016年2月27日土曜日 『チベット文学と映画制作の現在 SERNYA』申込受付スタート!
http://tibetanliterature.blogspot.jp/2016/02/sernya_27.html

これによると、送料負担だけでVol.1~3のいずれもが手に入るそうです。太っ腹ですね。

部数はそんなに多くないはずなので、急ぐべし。

------------------------------------------

それにしてもこんなに長くなるとは思わなかった。

2016年2月20日土曜日

ロツァワ・リンチェン・サンポ

次回、スピティ・キー寺座主ロチェン・リンポチェを取り上げる関係上、今回は前置き(にしては長いが)として、その先世であるロツァワ・リンチェン・サンポについて書きます。

これも例のヒマーチャル・ガイドブック(未刊)より。もはやヒマーチャルだけではない上に、「小出し」劇場でもなくなっているので、同シリーズからは外しました。

------------------------------------------

ロツァワ・リンチェン・サンポ ལོ་ཙྪ་བ་རིན་ཆེན་བཟང་པོ། lo tstsha ba rin chen bzang po(958-1055)











スピティ・キー寺のリンチェン・サンポ像

ロツァワ ལོ་ཙྪ་བ་ lo tstsha ba/ལོ་ཙཱ་བ་ lo tsA baとは「訳経師/訳経僧」の意味。ロチェン ལོ་ཆེན་ lo chen(大訳経師/僧)とも呼ばれる。10世紀末~11世紀半ばにかけてグゲ གུ་གེ gu ge王国で数々のインド仏典をチベット語に翻訳し、仏教復興に大きな貢献をした。

------------------------------------------

リンチェン・サンポの本名はリンチェン・ワンチュク རིན་ཆེན་དབང་ཕྱུག rin chen dbang phyug。生地はグゲ西部(ロンチュン རོང་ཆུང་ rong chung)のキュワン・レーニー སྐྱུ་ཝང་རད་ནིས་ skyu wang rad nis。Sutlej川(ランチェン・ツァンポ གླང་ཆེན་གཙང་པོ་ glang chen gtsang po)南岸の小さな村で、サン བཟང་ bzangの隣り村。

リンチェン・サンポの生家は、先祖がKashmir ཁ་ཆེ་ kha cheから移住してきたユダ གཡུ་སྒྲ g-yu sgra氏に属する。ユダ氏はグゲ西部ロンチュン一帯に大きな力を持つシェン གཤེན་ gshen(ボン教司祭)の一族であった。後にロチュン ལོ་ཆུང་ lo chung(小訳経僧)として知られるようになるレクペー・シェーラブ ལེགས་པའི་ཤེས་རབ་ legs pa'i shes rabもまた、この氏族出身でリンチェン・サンポのいとこに当たる。

958年、父ワンチェンポ・ションヌ・ワンチュク བན་ཆེན་པོ་གཞོན་ནུ་དབང་ཕྱུག ban chen po gzhon nu dbang phyug、母クンザン・シェーラブ・テンマ ཀུན་བཟང་ཤེས་རབ་བསྟན་མ་ kun bzang shes rab bstan maの次男として生まれた。兄弟は、兄の他に弟が一人、妹が一人いた。長兄を除く三人はいずれも仏門に入っている。

リンチェン・ワンチュクが生まれる前、母の両肩と頭にクジャク、カッコー、オウムの三羽の鳥が止まり体の中に消えた。そして生まれた子供は鳥の顔、鳥の目をしていたという。アルチ ཨལ་ལྕི་ al lciやマンギュ མང་རྒྱུ mang rgyuなどに11世紀に描かれたリンチェン・サンポの肖像壁画が残っている。これを見ると確かに鳥に似た顔をしている。

鳥の顔をしたリンチェン・サンポの肖像画はこちら↓

・དཔལ་འབྲུག་པའི་འཁོར་ཚོགས་ཆེན། dpal 'brug pa'i 'khor tshogs chen/ THE ANNUAL DRUK PA COUNCIL > Support ADC > ARTICLES ON PAST ADCS > About Ladakh (POST 17 APRIL 2011)
http://www.drukpacouncil.org/support-adc/229-english-categories/articles-on-past-adcs/332-about-ladakh-en.html?showall=1&limitstart=

これは、ラダック、アルチ・チョスコル・ゴンパのロツァワ・ラカンの壁画。

------------------------------------------

リンチェン・ワンチュクは13歳(970年頃)で出家。レクパ・サンポ ལེགས་པ་བཟང་པོ་ legs pa bzang poの下で学び、リンチェン・サンポの法名を授かった。

リンチェン・サンポは975年17歳の時、仏教修行のため当時の仏教先進国カシミールへの留学を決意する。当時仏教復興を進めていたソンゲ སྲོང་ངེ་ srong nge王(後のララマ・イェシェ・ウー ལྷ་བླ་མ་ཡེ་ཤེས་འོད་ lha bla ma ye shes 'od)の命により派遣された21人の留学生の一人であったと言われているが、実際はリンチェン・サンポ個人の意志によるものとも伝えられている。

故郷を出発したリンチェン・サンポは、キナウル ཁུ་ནུ་ khu nu、Lahaul གར་ཞ་ gar zhaを経て、さらにおそらくはChamba、Kishtwarを経てKashmirに到着した。

------------------------------------------

ここで、

パンディタ・グナミトラ པཎྜི་ཏ་གུ་ཎ་མིཏྲ། paNDi ta gu Na mitra/
ダルマシャーンティ དྷརྨཤན་ཏི། dharmashan ti/
パンディタ・チェンポ・シュラッダーカラヴァルマン པཎྜི་ཏ་ཆེན་པོ་ཤྲདྡྷ་ཀ་ར་ཝརྨ།  paNDi ta chen po shraddha ka ra varma/(後にグゲにも招かれた)
ブッダシュリー བུ་དྡྷ་ཤྲི bu ddha shri/

など、多くの高僧に師事し学んだ。

ここで習得した『金剛頂経』、『秘密集会タントラ』、『サンヴァラ・タントラ』などの密教経典は、その後のチベット密教の大きな柱となった教義である。カギュパ祖師のナーローパ ན་རོ་པ་ na ro paにも師事し「大印の秘法 ཕྱག་རྒྱ་ཆེན་པོ། phyag rgya chen po/」を学んだとも伝えられるが、リンチェン・サンポの翻訳経典にはこれに関係したものがみられないため、疑問視する説もある。

さらに東インド(おそらくVikramashila विक्रमशिला僧院)にも出向き、ここでも多くの師について修行を続けた。

リンチェン・サンポのKashmir/東インドでの修行は13年間にも及んだ。この間リンチェン・サンポは学んだ経典を次々にチベット語に翻訳していった。

------------------------------------------

987年、リンチェン・サンポは故郷レーニーへ戻り、王家の歓迎を受けた。同時期にグゲより派遣された若者たちは、環境の変化に耐えられずみな病死してしまい、残ったのはリンチェン・サンポとレクペー・シェーラブのみだったという。

リンチェン・サンポはプラン སྤུ་ཧྲང་ spu hrangのシエル ཞེར་ zherに土地を与えられ、ここでインド仏典のチベット語翻訳作業を再開。これは彼の生涯をかけた大事業となった。

プランでは現地のボン教行者を調伏し同地では大きな尊敬を受けたという。

996年グゲ王国は領内各地に寺院の建立を開始する。イェシェ・ウーの主導により、

グゲにはトリン寺 མཐོ་ལྡིང་ཆོས་འཁོར། mtho lding chos 'khor/









マルユル མར་ཡུལ་ mar yul(ラダック ལ་དྭགས་ la dwags)にはニャルマ寺 ཉར་མ་ཆོས་འཁོར། nyar ma chos 'khor/










プランにはコジャ寺 ཁ་ཆར་ཆོས་འཁོར། kha char chos 'khor/









が建てられた。なお、コジャ寺の建立は、995年に即位したばかりのラ・デ ལྷ་ལྡེ་ lha lde王が主導したようだ。

スピティ སྤྱི་ཏི་ spyi tiのタボ寺 ཏ་བོ་ཆོས་འཁོར། ta bo chos 'khor/





も同年の創建と考えられている。伝承では、リンチェン・サンポはそれぞれの寺院を一夜で完成させたと伝えられている。

------------------------------------------

この寺院造営が一通り完了すると、リンチェン・サンポは二度目のカシミール留学に向かう(996-1001)。今回の目的は、前回カシミールに残した経典を持ち帰ることと、寺院装飾のためのカシミール仏師・絵師をグゲに招請することであった。またこの際には5人の若者をカシミールに連れていった。このうち後にグゲに帰還した3人、

マンウェル・ロツァワ・チャンチュブ・シェーラブ མང་ཝེར་ལོ་ཙྪ་བ་བྱང་ཆུབ་ཤེས་རབ། mang wer lo tstsha ba byang chub shes rab/
マ・ロツァワ・ゲウェー・ロドゥー རྨ་ལོ་ཙྪ་བ་དགེ་བའི་བློ་གྲོས། rma lo tstsha ba dge ba'i blo gros/
ザンロ・ロツァワ・リンチェン・ションヌ འཛང་ལོ་ལོ་ཙྪ་བ་རིན་ཆེན་གཞོན་ནུ། 'dzang lo lo tstsha ba rin chen gzhon nu/

らは、ロチュン「小訳経僧」としてリンチェン・サンポと共に経典翻訳に従事することとなる。

------------------------------------------

1001年、リンチェン・サンポは32人の仏師・絵師を連れだってグゲに帰国した。11世紀に建立・増改築された寺院にはカシミール様式の建築様式、仏像、壁画が残っているが、これらはリンチェン・サンポが連れてきた仏師・絵師によるものと考えられている。

グゲに戻るとリンチェン・サンポは、パンキュー(パンクン)・ロツァワ སྤང་ཁྱུད་(པང་ཀུང་)ལོ་ཙྪ་བ་ spang khyud (pang kung) lo tstsha ba、インド/カシミールから招いた多くの高僧と共に経典翻訳に励んだ。

リンチェン・サンポらが訳出・改訂した経典、そしてその註釈はチベット大蔵経にも多数収められている。その数はカンギュール བཀའ་འགྱུར་ bka' 'gyurには17篇、テンギュール བསྟན་འགྱུར་ bstan 'gyurには140篇に及ぶ。特に『初会金剛頂教』、『秘密集会タントラ』をチベットに紹介したことは、その後のチベット密教の方向性を決定することになる重要な業績。当時のグゲ系寺院に残されている壁画には、金剛界曼荼羅が多数残されており、当時の最先端流行教義であったことが伺える。

------------------------------------------

リンチェン・サンポの四大高弟として知られるのは、

ロチュン・レクペー・シェーラブ
マンナンのグルシン・ツォンドゥー・ギャルツェン མང་ནང་གི་གུར་ཤིང་བརྩོན་འགྲོས་རྒྱལ་མཚན། mang nang gi gur shing brtson 'grus rgyal mtshan/
ダパ・ションヌ・シェーラブ གྲྭ་པ་གཞོན་ནུ་ཤེས་རབ། grwa pa gzhon nu shes rab/
キーノル・ジニャーナ(イェシェ・ワンチュク) སྐྱི་ནོར་ཛྙཱན། (ཡེ་ཤེས་དབང་ཕྱུག) skyi nor dznyAna/ (ye shes dbang phyug)

四大高弟を、

カツェワ・リンチェン・シェーラブ ཁ་ཙེ་བ་རིན་ཆེན་ཤེས་རབ། kha tse ba rin chen shes rab/
キェンウェルワ・シェーラブ・ダムパ སྐྱེན་ཝེར་བ་ཤེས་རབ་དམ་པ། skyen wer ba shes rab dam pa/
キタンパ・イェシェ・ペル ཁྱི་ཐང་པ་ཡེ་ཤེས་དཔལ། khyi thang pa ye shes dpal/
ドルポパ・チャンチュブ・ニンポ དོལ་པོ་པ་བྱང་ཆུབ་སྙིང་པོ། dol po pa byang chub snying po/

とする説もある。この中に『リンチェン・サンポ伝』の著者ペル・イェシェ(イェシェ・ペル)の名がある。

------------------------------------------

この他、ロチェンおよびロチュンの弟子には、

プランパ・アントン・ダクリン སྤུ་ཧྲངས་པ་ཨན་སྟོན་གྲགས་རིན། spu hrangs pa an ston grags rin/
ギャ・イェツル རྒྱ་ཡེ་ཚུལ། rgya ye tshul/
グンパ・ゲシェ གུང་པ་དགེ་ཤེས། gung pa dge shes/
マルユルワ・コンチョク・ツェク མར་ཡུལ་བ་དཀོན་མཆོག་བརྩེགས། mar yul ba dkon mchog brtsegs/
ニャン・トゥー・ギャンロ・ベウマルのキャンパ・チュールー མྱང་སྟོད་རྒྱང་རོ་སྦེའུ་དམར་གྱི་རྐྱང་པ་ཆོས་ལོས། myang stod rgyang ro sbe'u dmar gyi rkyang pa chos los/
シャンのスムトン・イェバル ཤངས་ཀྱི་སུམ་སྟོན་ཡེ་འབར། shangs kyi sum ston ye 'bar/
ニャン・トゥーのチェシャル མྱང་སྟོད་ཀྱི་ལྕེ་ཞར། myang stod kyi lce zhar/
パンカ・ダルチュンの父ションヌ・ギャムツォ སྤང་ཁ་དར་ཆུང་གི་ཕ་གཞོན་ནུ་རྒྱ་མཚོ། spang kha dar chung gi pha gzhon nu rgya mtsho/
レートゥーのダクテンパ ལས་སྟོད་ཀྱི་བྲག་སྟེངས་པ། las stod kyi brag stengs pa/
クルチンルのマルトン・チューキ・ギャルツェン ཀུལ་འཆིང་རུའི་དམར་སྟོན་ཆོས་ཀྱི་རྒྱལ་མཚན། kul 'ching ru'i dmar ston chos kyi rgyal mtshan/
ドクパ・ロトン ལྡོག་པ་ཀློ་སྟོན། ldog pa klo ston/
ベル・シャキャ・ドルジェ བལ་ཤཱཀྱ་རྡོ་རྗེ། bal shAkya rdo rje/
タントン・コンカワ ཐང་སྟོན་ཀོང་ཁ་བ། thang ston kong kha ba/
ドク・ドンカワ ལྡོག་གྲོང་ཁ་བ། ldog grong kha ba/
ンゴク・ゲセルワ རྔོག་གེ་སེར་བ། rngog ge ser ba/
シャンのセーイェション ཤངས་ཀྱི་སད་ཡེ་གཞོན། shangs kyi sad ye gzhon/

など多数。

ザンスカル ཟངས་དཀར་ zangs dkarで盛んに布教を行い、1076年のトリン・チョスコル མཐོ་ལྡིང་ཆོས་འཁོར་ mtho lding chos 'khorにも参加したザンスカル・ロツァワ・パクパ・シェーラブ ཟངས་དཀར་ལོ་ཙཱ་བ་འཕགས་པ་ཤེས་རབ་ zangs dkar lo tsA ba 'phags pa shes rabはレクペー・シェーラブに学んだ僧で、リンチェン・サンポの孫弟子に当たる。

------------------------------------------

1024年イェシェ・ウーがトリンで亡くなった際に、枕経を読んだのはリンチェン・サンポであった(注)。この時にラ・デ王は退位し出家、その息子ウー・デ འོད་ལྡེ་ 'od ldeが王位を継いだ。イェシェ・ウーの供養のため、領内各地には21の寺院が建てられた。リンチェン・サンポはKashmir仏師・絵師を用い、これも滞りなく完了させた。西チベット一帯にはリンチェン・サンポが建てた寺院は108あると伝えられているが、その位置についてはまだ同定されていないものが多い。

リンチェン・サンポは、呪術的な力を有するラマとしても崇められている。寺院建立の際には、これを阻止しようとする土着の悪鬼を調伏したという伝説も各地に残されている。

------------------------------------------

リンチェン・サンポがインドよりもたらしたものは、経典や仏教美術だけではなかった。数々の尊格もインドから招来している。最も有名な尊格はパンデン・ラモ དཔལ་ལྡན་ལྷ་མོ་ dpal ldan lha moという護法女尊。当初この尊格はドルジェ・チェンモ རྡོ་རྗེ་ཆེན་མོ་ rdo rje chen moの名で知られており、リンチェン・サンポがインド・マガダ मगध  མ་ག་དྷ་ ma ga dhaから招来したもの。リンチェン・サンポの守護女尊、さらにはグゲ王国の守護女尊として西チベット各地で祠られている。

仏教布教を阻む土着の精霊を調伏するために、グルキ・ゴンポ གུར་གྱི་མགོན་པོ་ gur gyi mgon poという護法尊とその教義も招来している。この際に、この護法尊を祠る楽曲を同時に招来。これらは弟子マルギョ・ロツァワ・ロドゥー・ダクパ མལ་གྱོ་ལོ་ཙཱ་བ་བློ་གྲོས་གྲགས་པ་ mal gyo lo tsA ba blo gros grags paに託された。マル・ロツァワはこれをサキャパ ས་སྐྱ་པ་ sa skya pa開祖サチェン・クンガ・ニンポ ས་ཆེན་ཀུན་དགའ་སྙིང་པོ་ sa chen kun dga' snying poに授け、以来グルキ・ゴンポはサキャパの守護尊となった。一方グルキ・ゴンポの楽曲は次第に廃れていったが、15世紀に新サキャパの一派ンゴルパ ངོར་པ་ ngor paを開いたンゴルチェン・クンガ・サンポ ངོར་ཆེན་ཀུན་དགའ་བཟང་པོ་ ngor chen kun dga' bzang poがこの楽曲を復活させ、ンゴル寺 ངོར་ཨེ་ཝཾ་ཆོས་ལྡན་དགོན་པ་ ngor e waM chos ldan dgon paの十八楽曲として完成させた。

------------------------------------------

1042年、当時僧形のまま王位についていたチャンチュブ・ウー བྱང་ཆུབ་འོད་ byang chub 'odは、東インド・ヴィクラマシーラ僧院の院長であるパンデン・アティーシャ अतिश  དཔལ་ལྡན་ཨ་ཏི་ཤ dpal ldan a ti sha(ジョウォジェ ཇོ་བོ་རྗེ་ jo bo rje/दीपङ्कर श्रीज्ञान Dipamkara Shrijinyana、982-1054)のグゲへの招聘に成功する。当時リンチェン・サンポはすでに八十代であったが、アティーシャに弟子入りし教えを請うたという。さらにアティーシャより翻訳作業の援助を要請されたが、老齢を理由にこれを辞退したため、アティーシャは非常に落胆したという。

アティーシャはグゲ滞在中『菩提道灯論(チャンチュブ・ラムドン བྱང་ཆུབ་ལམ་སྒྲོན། byang chub lam sgron/)』を著し、後のチベット仏教に大きな影響を与えた。

1044年アティーシャはドムトンパ・ギャルウェー・チュンネーའབྲོམ་སྟོན་པ་རྒྱལ་བའི་འབྱུང་གནས་ 'brom ston pa rgyal ba'i 'byung gnasの招きに応じて中央チベットへ向かい、1054年ニェタン མཉེས་ཐང་ mnyes thangで入滅した。アティーシャの法系はドムトンパに引き継がれ、カダムパ བཀའ་གདམས་པ་ bka' gdams paという宗派となり発展した。カダムパは、14~15世紀ツォンカパ ཙོང་ཁ་པ་ tsong kha paが開いたゲルクパ དགེ་ལུགས་པ་ dge lugs paに吸収される形で消滅する。

------------------------------------------

11世紀の半ばともなると、すでにリンチェン・サンポに続く訳経僧も育ち、彼の晩年は翻訳作業からは引退し、瞑想修行を送る毎日であったという。

リンチェン・サンポはアティーシャの入滅を追うようにして1055年、98歳の長寿を全うして亡くなった。入滅の場所はカツェ ཁྭ་ཙེ་ khwa tseのゴカル寺 གོ་ཁར་ལྷ་ཁང་ go khar lha khangともプランのオムロ窟 འོམ་ལོ་བྲག་ཕུག 'om lo brag phugとも言われている。

リンチェン・サンポの死後、その弟子ペル・イェシェによって、リンチェン・サンポの伝記が綴られトリン寺に収められた。現在3つのヴァージョンがあることが知られている。

後にはリンチェン・サンポの転生者が選ばれるようになった。この転生者はロチェン・リンポチェ ལོ་ཆེན་རིན་པོ་ཆེ་ lo chen rin po cheと呼ばれ、代々スピティ・キー・ゴンパ སྤྱི་ཏི་དཀྱིལ་དགོན་པ་ spyi ti dkyil dgon paの座主を努めるようになる。現在のロチェン・リンポチェは19世である(リンチェン・サンポを6世と数える)。

===========================================

(注)

このblogで断片的に何度かしている話題です。

「グゲ王イェシェ・ウーが、インドから高僧を招くための黄金を集めに出征したが、カルロク གར་ལོག gar log(おそらくテュルク系民族カルルク)に捕縛され獄死した」というストーリーは誤伝で、実はイェシェ・ウーはトリンで大往生した、という話。

今回こそきっちり説明しようと思ったが、注でやるにはベラボーに長くなるので、やっぱり別に立てることにします。

===========================================

参考:

・གུ་གེའི་ཁྱི་ཐང་བ་དཔལ་ཡེ་ཤེས། gu ge'i khyi thang ba dpal ye shes/(ゲゲのキタンワ・ペル・イェシェ) (11C)བླ་མ་ལོ་ཙྪ་བ་ཆེན་པོའི་རྣམ་པར་ཐར་པ་དྲི་མ་མེད་པ་ཤེལ་གྱི་འཕྲེང་བ་ཞེས་བྱ་བ་བཞུགསོ། bla ma lo tstsha ba chen po'i rnam par thar pa dri ma med pa shel gyi 'phreng ba zhes bya ba bzhugso/(導師大訳経僧の無垢なる伝記、水晶の連珠) IN : G. Tucci (1988) RIN-CHEN-BZAŃ-PO. pp.103-121. Aditya Prakashan, New Delhi.
・གུ་གེ་ཁྱི་ཐང་པ་དཔལ་ཡེ་ཤེས། gu ge khyi thang pa dpal ye shes/(グゲ・キタンパ・ペル・イェシェ)(11C) བྱང་ཆུབ་སེམས་དཔའ་ལོ་ཙྪ་བ་རིན་ཆེན་བཟང་པོའི་འཁྲུངས་རབས་དཀའ་སྤྱད་སྒྲོན་མ། རྣམ་ཐར་ཤེལ་ཕྲེང་ལུ་གུ་རྒྱུད་ཅེས་བྱ་བ་གཞུགས་སོ། byang chub sems dpa' lo tstsha ba rin chen bzang po'i 'khrungs rabs dka' spyad sgron ma/ rnam thar shel phreng lu gu rgyud ces bya ba gzhugs so/(菩薩である訳経僧リンチェン・サンポの生涯と偉業の灯明、不断の水晶連珠なる伝記) IN : D. Snellgrove, T. Skorupski (1980) THE CULTURAL HERITAGE OF LADAKH 2. pp.101-111. Vilkas Publishing House, Ghaziabad (U.P.).
・བུ་སྟོན་རིན་ཆེན་གྲུབ། bu ston rin chen grub(プトゥン・リンチェンドゥプ) (1322) བདེ་བར་གཤེགས་པའི་བསྟན་པའི་གསལ་བྱེད་ཆོས་ཀྱི་འབྱུང་གནས་གསུང་རབ་རིན་པོ་ཆེའི་མཛོད།  bde bar gshegs pa'i bstan pa'i gsal byed chos kyi 'byung gnas gsung rab rin po che'i mdzod/(如来の教えを説く法の生ずる様(仏教史)、貴言の蔵)
→略称 : བུ་སྟོན་ཆོས་འབྱུང་། bu ston chos 'byung/(プトゥン仏教史)
・འགོས་ལོ་ཙཱ་བ་གཞོན་ནུ་དཔལ། 'gos lo tsA ba gzhon nu dpal/(グー・ロツァワ・ションヌ・ペル) (1476-78) བོད་ཀྱི་ཡུལ་དུ་ཆོས་དང་ཆོས་སྨྲ་བ་ཇི་ལྟར་བྱུང་བའི་རིམ་པ་དེབ་ཐེར་སྔོནཔོ། bod kyi yul du chos dang chos smra ba ji ltar byung ba'i rim pa deb ther sngon po/ (チベット国の仏教と導師らが如何にして現れたかの経緯であるところの青史)
→ 略称 : དེབ་ཐེར་སྔོནཔོ། deb ther sngon po/ (青史)
・གུ་གེ་མཁན་ཆེན་ངག་དབང་གྲགས་པ། gu ge mkhan chen ngag dbang grags pa/(グゲ・ケンチェン・ンガワン・ダクパ) (1497) མངའ་རིས་རྒྱལ་རབས། mnga' ris rgyal rabs/(ンガリー王統記) IN: R. Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.1-85. Dharamsala, India.
・འབྲུག་ཆེན་བཞི་པ་ཀུན་མཁྱེན་པདྨ་དཀར་པོ། 'brug chen bzhi pa kun mkhyen padma dkar po/(ドゥクチェン四世クンキェン・ペマ・カルポ) (1575-80) ཆོས་འབྱུང་བསྟན་པའི་པདྨ་རྒྱས་པའི་ཉིན་བྱེད། chos 'byung bstan pa'i padma rgyas pa'i nyin byed/(仏教の大輪蓮華の輝きであるところの仏教史)
→ 略称 : ཆོས་འབྱུང་པདྨ་དཀར་པོ། chos 'byung padma dkar po/(ペマ・カルポ仏教史)/འབྲུག་པའི་ཆོས་འབྱུང་། 'brug pa'i chos 'byung/(ドゥクパ仏教史) IN : G. Tucci (1988) RIN-CHEN-BZAŃ-PO. pp.84-88. Aditya Prakashan, New Delhi.
・རྒྱལ་དབང་ལྔ་པ་ཆེན་མོ་ངག་དབང་བློ་བཟང་རྒྱ་མཚོ། rgyal dbang lnga pa chen mo ngag dbang blo bzang rgya mtsho(偉大なるダライ・ラマ五世ロサン・ギャムツォ) (1643) གངས་ཅན་ཡུལ་གྱི་ས་ལ་སྤྱོད་པའི་མཐོ་རིས་ཀྱི་རྒྱལ་བློན་གཙོ་བོར་བརྗོད་པའི་དེབ་ཐེར་རྫོགས་ལྡན་གཞོན་ནུའི་དགའ་སྟོན་དཔྱད་ཀྱི་རྒྱལ་མོའི་གླུ་དབྱངས་ཞེས་བྱ་བ་བཞུགས་སོ། gangs can yul gyi sa la spyod pa'i mtho ris kyi rgyal blon gtso bor brjod pa'i deb ther rdzogs ldan gzhon nu'i dga' ston dpyid kyi rgyal mo'i glu dbyangs zhes bya ba bzhugs so/(有雪国の地に実現した高尚な世界の王・家臣・領主について述べる黄金時代の伝記、若者の喜宴での女王の美歌)
→ 略称 : རྒྱལ་བློན་གཙོ་བོར་བརྗོད་པའི་དེབ་ཐེར། rgyal blon gtso bor brjod pa'i deb ther/ (ダライ・ラマ五世年代記/西蔵王臣記)』.

・David Snellgrove, Tadeusz Skorupski (1980) Part III : Biography of Rin-chen bZang-po. IN : THE CULTURAL HERITAGE OF LADAKH 2. pp.83-116. Vilkas Publishing House, Ghaziabad (U.P.).
・川越英真 (1981.12) Rin chen bzań po伝研究. 印度學佛教學研究, vol.30, no.1, pp.477-472.
・川越英真 (1982.春/夏) Rin chen bzań poの生涯とその活動. 文化, vol.49, no.1・2, pp.79-50.
・川越英真 (1983.3) Rin chen bzań poの翻訳リスト. 印度學佛教學研究, vol.31, no.2, pp.844-841.
・Bu-ston, E. Obermiller (tr.) (1986) THE HISTORY OF BUDDHISM IN INDIA AND TIBET (CHOS-hBYUNG). 231pp. Sri Satguru Publications, Delhi.
← 原版 : (1932) Heidelberg.
← チベット語原版 : bu ston chos 'byung/
・Giuseppe Tucci, Nancy Kipp Smith+Thomas J. Pritzker (tr.), Lokesh Chandra (ed.) (1988) RIN-CHEN-BZAŃ-PO AND THE RENNAISSANCE OF BUDDHISM IN TIBET AROUND THE MILLENIUM (INDO-TIBETICA II). 121pp.+map. Aditya Prakashan, New Delhi.
←イタリア語原版:Giuseppe Tucci (1933) RIN C'EN BZAŃ PO E LA RINASCITA DEL BUDDHISMO NEL TIBET INTORNO AL MILLE(INDO-TIBETICA II). R. Accademia d'Italia, Roma.
・O.C.Handa (1994) TABO MONASTERY AND BUDDHISM IN THE TRANS-HIMALAYA : THOUSAND YEARS OF EXISTENCE OF THE TABO CHOS-KHOR. 167pp.+pls. Indus Publishing, New Delhi.
・འཇམ་དབྱངས་རྒྱལ་མཚན། 'jam dbyangs rgyal mtshan(Jamyang Gyaltsan) (1995.1) དགོན་རབས་ཀུན་གསལ་ཉི་སྣང་། dgon rabs kun gsal nyi snang/(THE HISTORIES OF LADAKH MONASTERIES/輝ける陽光なる寺廟誌) 890pp.+pls. All Ladakh Gonpa Society, Leh.
・George Roerich(tr.) (1996) THE BLUE ANNALS. xx+1275pp. Motilal Banarsidass, Delhi.
← 原版 : (1949) Asiatic Society of Bengal, Calcutta.
← チベット語原版 : deb ther sngon po/
・གངས་རི་བ་ཆོས་དབྱིངས་རྡོ་རྗེ། gangs ri ba chos dbyings rdo rje/(カンリワ・チューイン・ドルジェ)(1996.4) གངས་ཅན་བོད་ཀྱི་ནུབ་ངོས་མངའ་རིས་སྐོར་གསུམ་གྱི་སྔོན་བྱུང་ལོ་རྒྱུས་འཆི་མེད་རྔོ་སྒྲ། gangs can bod kyi nub ngos mnga' ris skor gsum gyi sngon byung lo rgyus 'chi med rngo sgra/(有雪のチベット西方ンガリー三域の前近代史、不滅の鼓音/雪域西部阿里廓爾松早期史). 10+285pp. 西藏人民出版社, 拉薩.
・མངའ་རིས་སྲིད་གྲོས་རིག་གནས་ལོ་རྒྱུས་བསྡུས་རུབ་ཨུ་ཡོན་ལྷན་ཁང་། mnga' ris srid gros rig gnas lo rgyus bsdus rub u yon lhan khang/(ンガリー政治文化歴史編纂委員会) (1996.7) བོད་ལྗོངས་སྟོད་མངའ་རིས་སྐོར་གསུམ་ཉེ་རབས་ཆབ་སྲིད་ཀྱི་ལོ་རྒྱུས་དང་དགོན་སྡེ་ཁག་ཞིག་གསོས་གྲུབ་པའི་གནས་ཚུལ། སྤྱི་ཚོགས་གསར་པའི་འཕེལ་ཤུགས་སོགས་རྒྱས་པར་བརྗོད་པའི་འབེལ་གཏམ་རིན་ཆེན་གཏེར་གྱི་ཕྲེང་བ་ཞེས་བྱ་བ་བཞུགས་སོ། bod ljongs stod mnga' ris skor gsum nye rabs chab srid kyi lo rgyus dang dgon sde khag zhig gsos grub pa'i gnas tshul/ spyi tshogs gsar pa'i 'phel shugs sogs rgyas par brjod pa'i 'bel gtam rin chen gter gyi phreng ba zhes bya ba bzhugs so/(チベット域上手ンガリー三域の近代政治史および諸僧院保存の現状、新社会達成などを広範に述べる貴説なる宝連珠/阿里歴史宝典) pls.+636pp. 西藏人民出版社, 拉薩.
・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG : ACCORDING TO MNGA'.RIS RGYAL.RABS BY GU.GE MKHAN.CHEN NGAG.DBANG GRAGS.PA. xi+642pp. Dharamsala, India.
・Deboarh E. Klimburg-Salter (1997) TABO : A LAMP FOR THE KINGDOM : EARLY INDO-TIBETAN BUDDHIST ART IN THE WESTERN HIMALAYA. 279pp. Skira Editore, Milan.
・Luciano Petech (1997) Western Tibet : Historical Introduction. IN : D.E. Klimburg-Salter. TABO : A LAMP FOR THE KINGDOM. pp.229-255. Skira Editore, Milan.
・Hira Paul Gangnegi (1998.spring) A Critical Note on the Biographies of Lo chen Rin chen bZang po. Tibet Journal, vol.XXIII, no.1, pp.38-48.
・五世達頼喇嘛・著, 劉立千・訳注 (2000) 『西蔵王臣記』. 3+3+2+356pp. 民族出版社, 北京.
← 原版 : (1992) 西蔵人民出版社, 拉薩
← チベット語原版 : rgyal blon gtso bor brjod pa'i deb ther/
・川越英真 (2002.3) Rin chen bzań po伝の伝承の諸相. 東北福祉大学研究紀要, vol.27, pp.193-218.
・Roberto Vitali (2003) A Chronology (bstan rtsis) of Events in the History of mnga' ris skor gsum (Tenth-Fifteenth Centuries). IN : Alex McKay (ed.) (2003) THE HISTORY OF TIBET : VOLUME II THE MEDIEVAL PERIOD : THE DEVELOPMENT OF BUDDHIST PARAMOUNCY. pp.53-89. Routledge Curzon, London.
・Karl Debreczeny (2015.2) Imperial Interest Made Manifest: sGa A gnyan dam pa's Mahākāla Protector Chapel of the Tre shod Mandala Plain. Revue d'Etudes Tibétaines, pp.129-166.
http://himalaya.socanth.cam.ac.uk/collections/journals/ret/pdf/ret_31_10.pdf

関連Website:(追記)

・Wikipedia (English) > Rinchen Zangpo (This page was last modified on 5 January 2016, at 04:33.)
https://en.wikipedia.org/wiki/Rinchen_Zangpo
・THE VERY VENERABLE 9TH KHENCHEN THRANGU RINPOCHE > Teaching & Prayers > Inspirational stories and histories > Lochen Rinchen Sangpo, the Great Translator (as of 2016/02/21)
http://www.rinpoche.com/stories/zangpo.htm 
・The Treasury of Lives > Familes & Vocations > Translators > Alexander Gardner / Rinchen Zangpo b.958 - d.1055 (Published July 2011)
http://www.treasuryoflives.org/biographies/view/Rinchen-Zangpo/10199

===========================================

(追記)@2016/2/21

関連Websiteを追加した。

2016年2月13日土曜日

卍(まんじ)はナチスのハーケンクロイツではない!

最近気になったニュース

・businessnewsline > 日本政府、卍の地図記号の変更案が浮上するも反対論が殺到 by Norman Rose(2016/01/19)
http://www.businessnewsline.com/news/201601191251490000.html

日本の地図における、お寺の記号卍がナチスのシンボル「Hakenkreuz(鉤十字)」に似ているため、外国人旅行者に不快感を与えないよう、それを三重塔に変える、というもの。

------------------------------------------

私は変えてもいいと思います。卍からお寺を想起できる要素はあまり多くないし、すぐにわかるのは日本人だけでしょう。

同じような例に、郵便局の地図記号「〒」があります。これは「テガミ」の「テ」を図案化したものですから、日本でしか通用しない。

外国(チベットとかラダックですが)の地図を作るときに、郵便局の位置を示すのに、この「〒」を使うのに抵抗感がありました。そこで、横置き封筒裏のマークを使いました。これです(機種依存文字かな?)。

ロンプラの真似ですね。

------------------------------------------

お寺の地図記号は変えてもいいと思いますが、「卍」=「ナチスのHakenkreuz」という説は、断固として否定しておく必要があります。

地図記号「卍」の変更に反対する人でさえ、Hakenkreuzをस्वस्तिक  swastikaと呼んで、ナチスが東洋の「卍」をシンボルとして採用したのだ、と思っている人が多い。トホホ。

Hakenkreuzと「swastika/まんじ」は全く関係がありません。似ているのは偶然です。

昔2chに書いた文章が出てきたから、以下に貼り付けておきます。参考文献は大量にあるのですが、今回は省略。いずれちゃんとリライトするときに挙げます。すいません。

------------------------------------------

┌┌┌┌┌ 以下、自筆2ch投稿文転用 ┐┐┐┐┐

「チベットの卍」っていうけどさあ、その「卍」はインド起源だし、卍自体は世界中にある(ネイティヴアメリカンにもある)。

ナチスのハーケンクロイツは北欧起源だよ。チベットは関係ない。

もともと北欧の雷神のシンボルでルーン文字にもある。北欧各地の貴族の紋章にもなっていたし、第一次世界大戦後にはラトヴィアやフィンランドの空軍がシンボルにしていた。

19世紀末~20世紀はじめにヨーロッパではやっていた「ゲルマン民族北欧起源論」というオカルト人種論と、「スワスティカはセム民族文化にだけ存在しない」という噂(実際は嘘で、メソポタミアの遺物とかたくさんある)の影響で、ゲルマン優越主義・反ユダヤ主義団体(後のナチス母体)が紋章に使っていた。

イェルク・ランツが1907年に結成した新聖堂騎士団が紋章に採用したのが一番早いケースだろう。

同じ頃グィド・リストが『ルーン文字の秘密』(1908)でスワスティカをゲルマン民族のシンボルと論じている。

ランツもリストもインドやチベットとは全然関係がない。

こいつらが1912年にゲルマン騎士団を結成し、さらにゼボッテンドルフが加わって1918年トゥーレ協会ができる。当然その紋章はスワスティカだった。

トゥーレ協会が発展して1920年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)になると、フリードリヒ・クローンの発案でスワスティカが正式に党の紋章になったのだ。

オカルト本によくあるナチスとチベットを結びつける話は大半が根拠がない(ソースがいっさい明示されていない)。

ハウスホッファーはチベットになど行ったことはないし(遺族が否定している)、彼が入会したという日本のチベット密教団体「緑龍会」なんてものは存在しないし、ハウスホッファーがチベットでグルジェフに会ったなんてことも当然ない。

グルジェフがチベットへ行ったりドルジエフに化けたりなんてのもホラ話。実際グルジェフの思想にチベットの影響なんか全然ない。

戦時中のベルリンにチベット人などいないし(当時のベルリン市外国人登録簿から明らか)、そのリーダーだったという緑色手袋のラマなんてのも嘘。第一、チベット仏教で緑色手袋が何か意味を持つなんて聞いたことない。

ベルリン陥落時のチベット人兵士の死体なんて、ポーウェルとベルジエの『魔術師の朝』(1960)にはじめて出てくる話で、こいつらがどこから拾ってきた話かいまだにわからない(間違いなく作り話)。

『魔術師の朝』の長い序文で、著者が「この本では、伝説(噂)、事実、憶測、実際の見聞をないまぜにしている」と書いてるんだから、その内容を鵜呑みにするなんて馬鹿だろ。

ところが日本版『神秘学大全』ではこの序文がばっさりカットw。だからまんまと騙された読者が多かった。

└└└└└ 以上、自筆2ch投稿文転用┘┘┘┘┘

------------------------------------------

以上のように、Hakenkreuzとswastikaは全く別物なんですが、名称としては私もHakenkreuzをswastikaと呼んだりしていますね。これが恐ろしいところ。

では、なぜナチスのHakenkreuzをswatikaと呼んでしまうのでしょうか?

これに答えを与えてくれたのが、

・中垣顕實(けんじつ) (2013.6) 『卍(まんじ)とハーケンクロイツ 卍に隠された十字架と聖徳の光』. pls.+232pp. 現代書館, 東京.
http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-5706-1.htm













書影は同サイトよりお借りしました(追記)。装幀:伊藤滋章。

同サイトの内容紹介も貼っておきます。

┌┌┌┌┌ 以下、同書内容紹介より ┐┐┐┐┐

卍(まんじ)のマークは古くから日本人の生活にとけ込んでいる「印」であり、広く世界に分布して仏教の印としてあがめられたマークである。だが、ドイツナチスのハーケンクロイツの印との類似で世界中で誤解されることになる。特にユダヤ人がホロコーストの関係からとても過敏に反応し、西洋社会では、敬遠され、敵視されるシンボルとなってしまっている。しかし卍は本来、吉祥の印であり、広く吉祥のシンボルとして使用したいという著者は、世界中の卍を調べ、本来の意味を分かりやすく説明している。

[著者紹介・編集担当者より]
古くから吉祥の印だった卍がナチスのために誤解され禁忌になって嫌われていく過程と、見えなくなった卍、またハーケンクロイツに隠れた十字架を引き出すことによって、その復権を果たそうとする著者の信念は一読に値する。卍研究書は市場には見つからない。

└└└└└ 以上、同書内容紹介より ┘┘┘┘┘

------------------------------------------

同書の論旨は上記内容案内で言い尽くされていますが、補足しておきたいのが、英語圏ではなぜHakenkreuzをswastikaと呼ぶのか?という理由。

東洋の卍がナチスと同一視され、貶められている理由がそこにあります。

各国語でHakenkreuzをどう呼んでいるのか、中垣(2003)から引くと、

ドイツ語: Hakenkreuz(鉤十字)
フランス語: croix gammée(Γ(ガンマ)状の十字)
イタリア語: croce uncinata(鉤十字)
スペイン語: cruz gamada(Γ(ガンマ)状の十字)
オランダ語: Hakenkruis(鉤十字)
スウェーデン語: Hakkros(鉤十字)

英語: swastika

英訳だけ異質なのがわかるでしょう。「hooked cross」という訳もありますが、もっぱらswastikaが使われています。

これはヒトラーの『Mein Kampf(我が闘争)』が英訳される時に、直訳である「hooked cross」ではなく、形は似ているが本来無関係である「swaskika」の名が流用されたことに起因しています。

------------------------------------------

なぜ「swastika」が持ち出されたのかというと、ナチスのHakenkreuzとキリスト教の十字架が関係づけられるのを嫌ったのではないか、というのが中垣氏の推測です。

おそらく正しいでしょう。

同書の副題に「隠された十字架」という言葉が入っているのはこのためです。

------------------------------------------

かくしてこの戦略はまんまと当たり、「ナチスと東洋のswastikaは関係ある」と思う人が大半となってしまいました。Google翻訳でもドイツ語Hakenkreuzを翻訳すると「卍」とか「swastika」としか出てこない有り様。

片や、ヨーロッパの人たちは、「ナチスのHakenkreuzは、ヨーロッパの文化やキリスト教の十字架とは無縁だよ」と安心していられるわけです。そして逆に「東洋のswastikaはけしからん。見るのは不快だ。排除せよ」と攻撃して来ます。

しかしこれは仕方ない。無知によるものですから。だから経緯を知らせて根気強く説明してあげる必要があります。

でも、日本や東洋でさえ「なぜナチスのHakenkreuzとswastikaが同一視されるのか」誰も説明できない現状ではなかなか難しい。そういうわけで上記中垣書は、画期的な研究報告なのです。

------------------------------------------

最初に述べたように、お寺の地図記号卍を変更することには特に反対はしませんが、「東洋の卍とナチスのHakenkreuzは無関係」であり、「ナチスを理由に卍が貶められる」ことには断固反対します。

このニュースがらみでも、上記中垣書に触れた人はほとんどいない。特にマスコミは、同書および中垣氏の研究を取り上げて、きっちりインタビューしてほしい。そして海外に向けてしっかり発信してほしいと思う。

それが日本人のみならず、世界中の仏教徒・ヒンドゥ教徒のためでもあります。

===========================================

(追記)@2016/02/14

書影を追加した。