2014年4月29日火曜日

「ブロクパ」とはどういう意味か?(5)

さて、その「'brog」の意味ですが、ここでもやはり「辺境/僻地」という意味が当てはまるでしょう。では、それは誰がどこから見ての「辺境/僻地」なのでしょうか?

「'brog」はチベット語ですから、当然視点の主体はチベット人になります。中央チベットにいるペルコルツェン王が「'brog」と呼んでいるのですから、中央チベットから見ての「辺境・僻地」となります。

吐蕃時代の7~9世紀にかけて、チベット人は徐々に西方に進出して行きました。そして言語・文化的に土着の人々をチベット化。10世紀初当時、西方のチベット化がどこまで進行していたか定かではありませんが、かつての吐蕃領であり、現在チベット語圏となっているバルティスタン(古代の大勃律)までは「辺境・僻地」ではなく、「こちら側」とみなされていた雰囲気が濃厚です。

ボロル(ブルシャ)は、吐蕃時代には占領地となりチベットの影響が及んでいましたが、吐蕃帝国崩壊後はチベット圏から脱し、言語・文化がチベット化することもありませんでした。

そのさらに外側にいたダルド系民族(シン人)は、吐蕃時代にチベット勢力とまとまった形で接触した形跡はありません。10世紀当時は、チベット側にとってあまり馴染みのない集団だったと思われます。

というわけで、「チベット圏の外側、すなわち辺境/僻地に住む異民族」としてシン人を「'brog mi」と呼んだ、と推察します(注)。

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そしてようやくブロク・ユルのブロクパに戻りますが、ギルギットからラダックに移住してきたシン人の一派は、その故地にいたころの他称を引き継いで、チベット系民族(ラダッキ/プリクパ/バルティ)から「'brog pa」と呼ばれたとみていいでしょう。

「'brog mi」と「'brog pa」はどう違うのでしょうか?

これはなかなか難しい問題ですが、「~mi」の方は、対象は概念的、集合名詞的な用法で、話者にとってあまり身近ではない集団に対して使われることが多いような気はします。

<例>
དམག་མི་ dmag mi (兵士)
རྒྱ་མི་ rgya mi (中国人)

一方、「~pa」の方は、対象は具体的、単複どちらにも使われ、話者がじかに接する者に対して使われることが多いような気はします。

ギルギットという遠方にいて、チベット系民族にとってあまり身近ではない頃には「'brog mi」と呼ばれ、ラダック移住後はじかに接するようになり「'brog pa」と若干呼び名が変更されたのではないか、と推測します。

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話が長くなっているのでまとめておくと、ラダックの「'brog pa」は、ラダックにやって来てからはじめて「'brog pa」と呼ばれるようになったのではなく、故地ギルギットにいる時から「'brog mi」と呼ばれ、移住後もその呼び名を引き継いでいる、という仮説を提唱しているわけです。

しかし今のところ、ギルギットのシン人に対して「'brog mi」という他称が用いられている例を、私は上述の『ニャンレル仏教史』しか知りません。上記仮説を堅固なものにするためには、もう少し実例を集める必要があります。

吐蕃時代にはシン人はまだボロル(ブルシャ)には進出していない様子で、『敦煌文献』にはその名は見当たりません。

ポスト吐蕃時代となると、中央チベットと西方の非チベット系諸国との交流は激減し、情報量もぐっと減ってきます。西部チベットの史書である『ンガリー王統記mnga' ris rgyal rabs/』や『ラダック王統記la dwags rgyal rabs/』には西方諸国との接触は多数現われますが、この「'brog mi」という単語は見つかりませんでした。

バルティスタン関係史料を綿密に当たれば、「'brog mi」についてもう少しわかりそうな気もするので、探索継続。

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『ニャンレル仏教史』での、もう一箇所の登場例も見ておきましょう。

┌┌┌┌┌ 以下、Vitali(1996)より ┐┐┐┐┐

彼(ララマ・イェシェ・ウー)の帰依所であるセルポ(チェン)(སེར་པོ་(ཅན་) ser po (can))とサガンのドクミ(ས་སྒང་གི་འབྲོག་མི་ sa sgang gi 'brog mi)が諍いを起こし、彼らによってセルポチェンが殺害された際、ララマが「私の帰依所を殺害したのであるから賠償せよ」とおっしゃったのに対し、「鞍覆ほどもある金塊を献じられるであろう」と夢に見たとおり、ドンツェワン(དོང་རྩེ་ཝང་ dong rtse wang)金鉱(གསེར་ས་ gser sa)という土地が献じられ、それぞれの坑道から金が十荷も取れた。

└└└└└ 以上、Vitali(1996)より ┘┘┘┘┘

残念ながら、ドンツェワン金鉱の位置は不明です。バルティスタンのハプルー(ཁ་པ་ལུ་ kha pa lu)の北、フーシェ谷(Hushe Valley)にあるセルポ・ゴ(གསེར་པོ་མགོ gser po mgo)という地名は、その候補の一つではありますが、どちらもまだ情報不足。

また、セルポ(チェン)という人物についても、これ以上は情報を持っていません。ドクミの住む場所については、結局ここでは手がかりはありません。

しかし、ダルド民族と金鉱の関係は、古くからギリシア/ローマ系史料による報告が多数あり、ドクミ=ダルド民族(シン人)という比定には有利な内容ではあります。

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余談ですが、「'brog mi」でピンときて、気になっていた方も多いのではないでしょうか。

འབྲོག་མི་ལོ་ཙཱ་བ་དཔལ་གྱི་ཡེ་ཤེས་ 'brog mi lo tsA ba dpal gyi ye shes (ドクミ・ロツァワ・ペルギ・イェシェ) [992-1072]

のことです。

サキャパ祖師の一人で、サキャパ開祖コン・コンチョク・ギャルポ(འཁོན་དཀོན་མཆོག་རྒྱལ་པོ་ 'khon dkon mchog rgyal po [1034-1102])の師。訳経師としても名高い。

この「'brog mi」は氏族名。ヤムドクガン(ཡར་འབྲོག་སྒང་ yar 'brog sgang)という場所(おそらくヤムドク・ユムツォ周辺)の氏族です。

ドクミ氏が、古代にギルギット方面から移住してきたという情報は確認できなかったので、おそらくギルギットとは無関係でしょう。yar 'brogという地名が先にあり、それにちなんだ氏族名と思われます。

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(注)

「'brog mi」と似た言葉に「མཐའ་མི་ mtha' mi」という言葉もあります。これは「(国)境の人」という意味ですが、「'brog mi」よりもやや具体的に対象が見えている印象があります。

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(追記)

すでに結論めいたことを言っているわけですが、その他にもう一つの可能性もあります。

それはブロク・ユルのブロクパが「ギルギットのBagrotから来た」と云われていることです。この「Bagrot」が訛って、チベット語の「'brog」に転じた可能性はないでしょうか?

そもそもBagrotという地名がいつから現れるのか?あたりからして、わからないことだらけなのですが、もう少し調べてみたいテーマではあります。

2014年4月26日土曜日

「ブロクパ」とはどういう意味か?(4)

以前、ヌプチェン・サンギェ・イェシェ(གནུབས་ཆེན་སངས་རྒྱས་ཡེ་ཤེས་ gnubs chen sangs rgyas ye shes)の年代を推測するのに使った史料で、

・ཉང་རལ་ཉི་མ་འོད་ཟེར་ nyang ral nyi ma 'od zer (12C後半?) 『ཆོས་འབྱུང་མེ་ཏོག་སྙིང་པོ་སྦྲང་རྩིའི་བཅུད། chos 'byung me tog snying po sbrang rtsi'i bcud/ (花蘂の蜜汁なる仏教史)』
→ 通称 : 『ཉང་རལ་ཆོས་འབྱུང་། nyang ral chos 'byung/ (ニャンレル仏教史)』

という文献があります。

現物は所有していないので、その内容は部分的に毎度おなじみの

・Vitali (1996) 前掲.

から孫引きしています。

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そこに、ས་སྒང་འབྲོག་མི་ sa sgang 'brog miという集団が現れます。

一箇所はンガリー・コルスム諸王朝の祖キデ・ニマゴン(སྐྱིདལྡེ་ཉི་མ་མགོན་ skyid lde nyi ma mgon)が西遷しようとするときに、その父ペルコルツェン(དཔལ་འཁོར་བཙན་ dpal 'khor btsan)王がアドヴァイスをするという場面です(注1)。時代は10世紀初。

┌┌┌┌┌ 以下、Vitali(1996)より ┐┐┐┐┐

ティ・キデ・ニマゴンが御馬の口を上手へ向け、上手領土(མངའ་རིས་སྟོད་ mnga' ris stod)へとお移りになる際に、御父上の御口から発せられた「谷が開けたところに住んでいるような者たちであるロ・モン(ལྷོ་མོན་ lho mon)、ブルシャ(བྲུ་ཤ་ bru sha)、バルティ(སྦལ་ཏི་ sbal ti)、サガンのドクミ(ས་སྒང་གི་འབྲོག་མི་ sa sgang gi 'brog mi)など、人とも人にあらざる者ともつかぬ連中がおって危険が多いから、守護神(ཡི་དམ་ yi dam)・護法神(སྲུང་མ་ srung ma)への顕密の儀式の数々を怠ることのなきように」という戒めを堅守しておられるので、ンガリー王(བཙད་པོ་ btsad po)方々の存在そのものが社稷・領土繁栄を保つ大いなる源なのである。

└└└└└ 以上、Vitali(1996)より ┘┘┘┘┘

逐語訳に近い体裁をとっているので、日本語の文章としてはややギクシャク、ダラダラしていますが、チベット文語とはこういう文章なのです。

キデ・ニマゴンの行き先である西チベットのさらに先に住み、敵対する可能性のある集団として、ロ・モン、ブルシャ、バルティ、そしてサガンのドクミの名が挙げられています。

ロ・モンとは、「南のモン」すなわち「ヒマラヤ南縁の異民族」。モンはチベット側から見て、ヒマラヤとインド平原部の間に住む集団の多くに与えられる名称(注2)で、かなり漠然とした表現です。ここでは、西部ヒマラヤ南縁の、大勢力とまでは言えない集団やあまり接触がない集団を、十把一絡げにして挙げたものと考えてよいでしょう。

次のブルシャ、バルティはより具体的です。ブルシャは現在のギルギット~フンザの人々、バルティはいうまでもなくバルティスタンの人々を指します。

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そして問題のサガン・ドクミ。まず「サガン ས་སྒང་ sa sgang」とは何でしょうか?

Vitali(1996)では、一般名詞という解釈をとります。訳語は「雨の降る土地」となっていますが、その根拠はよくわかりません。一般名詞ならば「土盛り/小山」あたりがふさわしい気がします。

都市部から離れた山岳部という意味なのでしょうか?あるいは、土葬の風習(つまり土饅頭)を表したものかもしれません。

しかしこの文脈からすると、地名である可能性の方が高いと思われます。となると、その場所はブルシャ、バルティの近隣に違いありません。

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俄然注目されるのは、ギルギットの古名あるいは雅名とされる「Sargan/Sarjan/Sargin」です。「Sargin-Gilit」と併称されることが多いようです。「sa sgang」は、この名称のチベット語による音写ではないでしょうか。

この場合、ブルシャがすでに挙げられているのにもかかわらず、さらにギルギットが現れるのは違和感を覚えます。しかし、10世紀当時には国名・地域名としては「ボロル/ブルシャ」がまだ現役でした。ギルギットの方は地域名ではなく、まだ国内の都市名にすぎなかったことでしょう。

ギルギットは、一貫してボロル国(分裂後の小勃律)の都であったとみられています。古代にはヤスィン(Yasin)が中心地であった、という説もありますが、磨崖仏や経典が発見された仏塔群などがあるギルギット周辺の方がやはり都にふさわしい、と感じます。

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そして、「sa sgang」に続く「'brog mi」。これはブロク・ユルの「'brog pa」につながる名称でしょう。となれば、ダルド系民族(シン人)を指している可能性大です。

ボロル/ブルシャの原住民は、おそらくブルシャスキー語(もしくはその原語=仮称:ブルシャ語)話者であったろう、と私は推測しています。一方シナー語を話すシン人は、南方から徐々にボロルに進出して行き、上位階級を占めるようになったとみられています。

ブルシャとサガン・ドクミ(ギルギットのシン人)が別扱いされているのは、ボロル国主流(王家と原住民)をブルシャと呼び、新興勢力シン人を「サガンのドクミ」と呼び区別したのではないでしょうか。

ギルギットはボロル/ブルシャの王都ながら、10世紀には新興シン人が多数派を占める、という現在につながる状況ができつつあったのかもしれません。

以下、次回。

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(注1)

一般には、キデ・ニマゴンの西遷はペルコルツェン暗殺後のこととされています。ですから、上記エピソードが史実であるのかは、疑問の残るところです。しかし、西遷前からキデ・ニマゴンが西部チベット方面に興味を持っていたとすれば、実際にこのような会話が交わされた可能性はあるでしょう。

(注2)

「མོན་ mon モン」の語源は、中国語の「蛮(中古音:man)」と同一ではないか、という説があります。「蛮」の方も「南蛮」という具合に、南の異民族に与えられる名称であることが共通しています。

となると、「mon」は中国語からの借用語、と思い込みがちですが、「mon」も「蛮」も共にシナ・チベット語族の祖語(古代羌語はその候補の一つ)から分岐した、という可能性も考慮すべきでしょう。

参考:
・T.S. Murty (1969) A Re-appraisal of the Mon-Legend in Himalayan Tradition. Central Asiatic Journal, vol.13, no.2, pp.291-301.
・Françoise Pommaret (1999) The Mon-pa Revisited : In Search of Mon. IN : Toni Huber (ed.) (1999) SACRED SPACES AND POWERFUL PLACES IN TIBETAN CULTURE : A COLLECTION OF ESSAYS. pp.52-73. LTWA, Dharamsala.

シナ・チベット語族の祖語については、

・橋本萬太郎 (1981) シナ・チベット諸語. 北村甫・編 (1981) 『講座 言語 第6巻 世界の言語』所収. pp.149-170. 大修館書店, 東京.

あたりをまずご覧下さい。

2014年4月23日水曜日

「ブロクパ」とはどういう意味か?(3)

「ダー・ドク མདའ་འབྲོག mda' 'brog(注1)」とは、どういう意味なのでしょうか?

まず、その場所から。

ダー村(注2)の横っちょを流れているダー・ルンパ(མདའ་ལུང་པ་ mda' lung pa)を上流に遡ると、夏の放牧地があります。そこには夏の間は長期間暮らせるように小屋も建てられているようです。これがダー・ドクです。

伝説では、ギルギットから移住して来て最初に住んだ場所がここだったと云います。しかし、まもなく谷を下って村を作り、以来現在までダー村が居住の中心となっています。

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その'brogの意味ですが、これは「離れ/僻地」という意味です。つまりmda' 'brogは「ダー村の離れ」、そしてそれが転じて、実質的には「ダー村の夏の放牧地」を指す、と言えます。

これは、現在のダー村が先に存在しないと意味をなさない地名です。もともとダー・ドクのことをダーと呼び、現在のダー村が成立した後に、最初のダーをダー・ドクと言い換えたのかもしれませんが。

いずれにしても、「ダーより先にダー・ドクという地名があって、それがブロクパの語源」というのは成立しようがありません。

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ここでチベット語の「'brog」、「'brog pa」を見ておきましょう。

チベット語の'brog pa(ドクパ)に対する訳語としては、たいてい「遊牧民」が当てられます。しかし、実は「'brog」に「遊牧」という意味はありません。

遊牧民は、「'brog(僻地)」に住んでいるから「'brog pa(僻地(に住む)人)」なのです。

'brog paは、「རོང་པ་ rong pa(谷に住む人)」/「ཡུལ་པ་ yul pa(村に住む人)」、すなわち「農民」、の対義語として用いられます。農民と遊牧民を対比し、差別化しているわけです。農耕地帯=村落部を中心と位置づけ、そこに属さない辺境・荒野を'brogと、その辺境・荒野で遊牧を営む人々を'brog paと呼んだわけです。

もっと極端な場合、'brog paはབོད་པ་ bod pa (チベット人)と対比した使い方をされるときがあります。これは、'brog paをなかば異民族扱いしている、といえるでしょう。それだけ農民と遊牧民の文化には大きな違いがあるのです。

参考:
・山口瑞鳳 (1987) 『東洋叢書3 チベット 上』. pp.xix+337. 東京大学出版会, 東京.
・R.A.スタン, 山口瑞鳳+定方晟・訳 (1993) 『チベットの文化 決定版』. pp.xviii+389+53. 岩波書店, 東京.
← フランス語原版 : Rolf Alfred Stein (1987) LA CIVILISATION TIBÉTAINE : ÉDITION DÉFINITIVE. pp.ix+252+pls. l'Asiathèque, Paris.

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もうひとつ'brog paの用例を見ましょう。こんどはブータンの'brog paです。ラダック同様「ブロクパ」と呼ばれているようです(注3)。

これは、ブータン東部タシガン県(བཀྲ་ཤིས་སྒང་རྫོང་ཁག bkra shis sgang rdzong khag)の最東端(すなわちブータンの最東端)に住む少数民族です(注4)。

ヤク毛で作った黒いベレー帽ジャム(zhamu)、チベット・コンポのものと似た貫頭衣のユニークな姿を見たことがあるかもしれません。

さて、このブロクパはヤクを使った交易・牧畜を生業とする人々で、遊牧民とまではいかないようです。こちらも語源は「辺境・僻地に住む人々」の意味と思われます。

近隣に住む農民の方も、ブロクパと衣類などの習俗や言語はほぼ同じですが、名称が変わって「དྭགས་པ་ dwags pa(ダクパ)」となります。これは「開けた土地の人」の意味でしょうか?あるいは、中央チベット南東部の地名ダクポ(དྭགས་པོ་ dwags po)と関係あるのかもしれません(注5)。

このブロクパの「'brog」は、ブータン中央から見ての「辺境/僻地」ではなく、農民ダクパと対比しての「辺境/僻地」のような感じですね。

参考:
・野村亨 (2000) ブータン王国における言語状況 : その歴史と現状. ヒマラヤ学誌, no.7, pp.93-114.
・平山修一 (2005) 『現代ブータンを知るための60章』. pp.355. 明石書店, 東京.

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こうして見ると、ラダック・ブロクパの「'brog」も「辺境/僻地」の意味であると推測できるわけですが、では、それは誰がどこから見ての「辺境/僻地」で、それは具体的にどこに当たるのでしょうか?

という話は、次回に。

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(注1)

mda' 'brogは、'brog skadでは「nir dah(ダー宮/ダー城)」と呼ばれています。これはダー村のはずれにあるダー・カル(མདའ་མཁར་ mda' mkhar)とは別。

(注2)

デュロ、メロ、ガロ三兄弟がこの地にやって来て、畑を作ろうとしたが水がなかった。そこでガロが谷の対岸高台(Changlota)から矢(མདའ་ mda')を放つと、岩に刺さりそこから水が噴き出した。そして、そこから村まで水路が引かれた、というもの。ダーの名はこの伝説にちなむ、とされています。

また、その矢が刺さって水が噴き出した場所はダーファンサ(མདའ་འཕན་ས་ mda' 'phan sa = 矢が射られた場所)と呼ばれ、ダー村の聖地の一つになっています。

ダーファンサでは、確かに崖の穴から水が出ているように見えます。しかし、実はなんのことはない、水路が岩のトンネルを通過しているだけです。水路はダー・ルンパ上流から引かれて、この地点でなぜかトンネルになっているだけでした。ダーファンサの伝説も、どうも後づけの作り話としか思えません。

(注3)

ゾンカ語(རྫོང་ཁ་ rdzong kha)では、'brog pa→'byog pa→byogpと変化して「ビョプ」と発音されているそうです。

(注4)

ハイビジョンスペシャル 天空の民"ブロックパ" ブータン・秘境に生きる
2002年初 (120分) NHK-BS1

というTV番組がありましたが未見です。TVをつけた瞬間この番組を発見し、「あっ!」と声を上げたたものの、もうラストシーンでした。もちろん録画もしていません。返す返すも惜しいことをした。垂涎の番組のひとつ。

(注5)

ブロクパとダクパは、民族衣装がほぼ同じこともあり、ガイドブックや旅行記では、2集団を区別せずブロクパと呼んだり、ダクパと呼んだりしており、呼び名は混乱している。

2014年4月20日日曜日

「ブロクパ」とはどういう意味か?(2)

'brog paといえば、チベット語では一般に「遊牧民」という訳語が与えられています。

ブロク・ユルのブロクパも「遊牧を生業とすることから'brog paと呼ばれる」という説を見かけます。本当でしょうか?

ダー村(མདའ་ mda')に行ったことがある方ならばわかるでしょうが、彼らの生業は半農半牧といったところで、遊牧を行ってはいません。彼らは定住生活を送っていますし、牧畜にしたところで、せいぜい夏場に近隣山岳部の決まった場所へ移牧に行く程度で、冬場には村に下りてきます。

それに、この程度の移牧はラダッキ/プリクパ/バルティの間でもごく一般的です。それらと区別する理由は特に見当たりません。

ちなみに、ラダック東部で本格的に遊牧を行っている人々は、「བྱང་པ་ byang pa (チャンパ)=北の人/チャンタン高原の人」と呼ばれます。

「遊牧民だから'brog pa」という理由は根拠薄弱です。

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他にも「ブロク・ユルとラダックを結ぶ交易に従事しており、移動生活を送るから'brog paと呼ばれる」という説もあります。

しかしチベット語では、こういったいわゆる交易商人に対して'brog paという名称が与えられる例はありません。呼び名はཚོང་པ་ tshong paとなるはずです。これも根拠薄弱。

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また、「彼らはかつてダー村上手のダー・ドク(མདའ་འབྲོག mda' 'brog)に住んでいたため'brog paと呼ばれる」という説もありますが、これも仮に成立するとしても、ダー村民に対してだけでしょう(注1)。

'brog paという集団は、ダー村だけに住んでいるのではありません。ブロク・ユル全域、ドラス(Dras)、さらにはバルティスタン側にもおり、チベット語での他称はみなブロクパです。

これらのブロクパが、すべてダー・ドクから四方に広がった、というわけではありません。彼らは色々なルート、時期にギルギット方面からやって来たはずです(注2)。

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しかし、この「ダー・ドク」という地名、「'brog pa」の語源でこそありませんが、実は語源解明のいいヒントになるのです。

以下、次回。

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(注1)

お隣の村ハヌー(ཧ་ནུ་ ha nu)の人々も、ダー村と同じくデュロ、メロ、ガロの三兄弟を祖とする同族です。ハヌーに伝わる伝説では、この三兄弟の子孫が、ダー、ハヌー、ガノクス(ག་ནོག་ས་ ga nog sa)に分かれて住み始めた、とされています。ダー・ドクに相当する聖地(つまり最初に住み始めた場所)はハヌーにもあり、それはHanu Lungpaの上流ハンダンスミン(ཧན་དྲང་སྨིན་ han drang smin)にあたります。

なお、三カ所の村には、ハヌーではなくガルクン(གར་ཀུ་ནུ་ gar ku nu)が入る場合もあります。

(注2)

ラダック西部プリク(སྤུ་རིག spu rig)地方は18世紀にラダックに併合される前は、多くの小王国が分立する状態が続いていました。それらの王国はチベット系とダルド系に大別できます。

ダルド系王家の祖は、みなブルシャ/ギルギットから移住してきた、という伝説を持っています。その名は、チクタン(ཅིག་ཏན་ cig tan)ではツァンケン・マリク(ལྩང་མཁན་མ་ལིག ltsang mkhan ma lig)、ソッド(སོད་ sod)ではタタ・カーン(ཁྲ་ཁྲ་ཁཱན་ khra khra khAn)、シムシャ・カルブ(ཤིམ་ཤ་མཁར་བུ་ shim sha mkhar bu)ではシャシャ・ムン(སྲ་སྲ་མུན་ sra sra mun)と様々ですが、伝説の内容は似通っており同一人物かもしれません。

年代は不明ですが、10世紀以前のよう。ブロク・ユルのブロクパの移住譚と内容は一致しないので、同一民族ではあるが別勢力とみてよいでしょう。ダルド民族のラダック移住が、一本道ではないことがわかります。

これらのダルド民族は、現在ブロクパと呼ばれる集団を除き、外来のチベット系民族と同化してしまい(特に言語)、プリクパ(སྤུ་རིག་པ་ spu rig pa)という集団を形成しました。

また、ブロク・ユルでは、ブロクパが移住してくると、そこにはすでにミナロ(Minaro)という先住民がいました。これは、先住のダルド系民族であろう、と推測されています。ミナロはブロクパに吸収されたようです。

バルティスタン側に住むブロクパは、当然みなモスレム。移住のフェイズは10世紀頃と17世紀の2回あったようです。やはり他称はブロクパ。

このように、ラダック/バルティスタンの基層にあるダルド系民族の諸相には興味深いものがありますが、史料が少なくはっきりしない部分が多い。

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(追記)@2014/04/20

ブロクパには、他にもいろいろな他称があります。その一つがマクノパ(Machnopa)。

これはチベット語のམག་པ་ mag pa(婿)と関係ある言葉とみられます。「no」がよくわからないのですが、ནོ་ནོ་ no no(兄/有力者)かもしれません。

これは、もしかするとギルギットから移住して来たブロクパが、先住のミナロに婿入りすることで、そう呼ばれることになったのでは?などと想像しているのですが、資料が少なくてこれ以上はなんとも言えません。


2014年4月17日木曜日

「ブロクパ」とはどういう意味か?(1)

語源シリーズ第5弾。語源シリーズは、これでひとまず終わりです。

ブロクパとは何でしょうか?

འབྲོག་པ་ 'brog pa (ブロク・パ/ドロク・パ/ドク・パ)

とは、ラダック西部インダス河下流域に住む人々のことです。彼らの住む地域は「འབྲོག་ཡུལ་ 'brog yul (ブロク・ユル)」と呼ばれています。

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ブロク・ユルまで足を伸ばさなくとも、彼らの姿は目にすることができます。レーの道端で野菜や果物を売っている露天商の中に、頭上に花を飾ったひときわ目立つ女性たちにすぐに気づくでしょう。彼女らがブロクモ('brog mo='brog paの女性形)です。

ラダッキはモンゴロイドとコーカソイドの混血といった風貌をしていますが、ブロクパはほぼ完全なコーカソイドです。「コーカソイド=白人」という等式は彼らには当てはまりません。ラダッキと同じくらい日焼けして肌の色が濃くなっていますから。

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チベット系言語を話すラダッキ、プリクパ、バルティに囲まれながらも、彼らが話す言語はインド・ヨーロッパ語族ダルド語群に属する「འབྲོག་སྐད 'brog skad (ブロク・スカット)」です。これはギルギットの言葉シナー語(Shina)の一方言。

その言語が示すとおり、彼らは1000年ほど前にギルギット地方Bagrotあたりからやって来たと伝えられています。

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「アレクサンドロス大王軍兵士の末裔か?」などと云われることもありましたが、これは根も葉もない俗説。実際にそういった伝説を有するカラーシュやフンザ(注1)とは違い、ブロク・ユルにアレクサンドロスがらみの伝説は皆無です。

俗説のもとは、おそらく近年にラダックを訪れた欧米人旅行者あたりがたてた噂でしょう。欧米人はアレクサンドロス大王の東方遠征に過大な幻想を持っています。それで、パミール~カラコルム~ヒマラヤ西部で、周囲とは異質な文化を持つ人々を見つけると、特に根拠もなく「すわアレクサンドロス大王軍兵士の子孫か?」と言い始めるわけです(注2)。

ギルギットのシン人は、ブロクパとは親戚なのですが、彼らに対して「アレクサンドロス大王軍兵士の末裔か?」という噂が立つことはありません。どうやら、イスラム教徒になってしまうとその資格はなくなるようです(笑)。イスラム教の中でも異質なイスマイリ派のフンザはOKのようですが。

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さて、ブロクパ/ドロクパ/ドクパと呼ばれる(注3)彼らですが、これはチベット系民族からの他称です。これがチベット語であることでも、他称であるのは明らかですね。

自称は「Sh(r)in」。ギルギットのシン人(Shin)と全く同じです。

では、彼らはなぜ'brog paと呼ばれるのでしょうか?そして'brogって何?という問題に取り掛かりましょうか。

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本テーマにおける主要参考文献をまず挙げておきます。

・John Biddulph (1880) TRIBES OF THE HINDOO KOOSH. pp.vi+164+clxix. Calcutta. → Reprint : (2001) Bhavana Books & Prints, New Delhi.
・August Hermann Francke (1907) A HISTORY OF WESTERN TIBET. pp.191+pls. S.W.Partridge & Co., London. → Reprint : (1995) Asian Educational Services, New Delhi.
・August Hermann Francke (1926) ANTIQUITIES OF INDIAN TIBET : PART (VOLUME) II : THE CHRONICLES OF LADAKH AND MINOR CHRONICLES. pp.viii+310. Archaeological Survey of India, Calcutta. → Reprint : (1992) Asian Educational Services, New Delhi.
・Rohit Vohra (1983) History of the Dards and the Concept of Minaro Traditions among the Buddhist Dards in Ladakh. IN : D. Kantowsky+R. Sander(ed.)(1983) RECENT RESEARCH ON LADAKH. pp.51-80. Weltforum Verlag, Munchen.
・Rohit Vohra (1985) Ethno-Historicity of the Dards in Ladakh-Baltistan : Observations and Analysis. IN : H. Uebach+J. L. Panglung (ed.) (1985) TIBETAN STUDIES : PROC. OF 4TH SEMINAR OF IATS., MUNICH, 1985. pp.529-546. Munchen.
・Rohit Vohra (1989) THE RELIGION OF THE DARDS IN LADAKH. pp.ii+165. Skydie Brown International, Luxemburg..
・Ahmad Hassan Dani (1991) HISTORY OF NORTHERN AREAS OF PAKISTAN. pp.xvi+532. National Institute of Historical and Cultural Research, Islamabad.
・Abbas Kazmi (1993) The Ethnic Groups of Baltistan. IN : C. Ramble+M. Brauen(ed.) (1993) ANTHROPOLOGY OF TIBET AND THE HIMALAYA. pp.158-163. Ethnological Museum of Univ. of Zurich, Zurich.
・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.xi+642. Dharamsala.
・日本放送協会 (1997) 「素晴らしき地球の旅 ヒマラヤ花と祈りの民」. NHK-BS2. [TV番組]
・Devidatta Sharma (1998) TRIBAL LANGUAGES OF LADAKH : PART ONE. pp.xv+184. Mittal Publications, New Delhi.
・Sonam Phuntsog (1999) Hanu Village : A Symbol of Resistance. IN : M. van Beek+K.B. Bertelsen+P. Pedersen(ed.) (1999) LADAKH : RECENT RESEARCH ON LADAKH 8. pp.379-382. Aarhus Univ. Press, Aarhus (Denmark).
・Stephan Kloos (2012) Legends from Dha-Hanu : Oral Histories of the Buddhist Dards in Ladakh. Ladakh Studies, no.28 [2012/06], pp.17-26.
http://www.stephankloos.org/wp-content/uploads/2012/01/Legends-from-Dha-Hanu-Stephan-Kloos-LS28.pdf

中でも、Rohit Vohraによる研究が群を抜いているのですが、どの文献も入手しにくいのが残念。

こういった参考文献の羅列は、うっとうしい、不要、と思うかもしれませんが、これは基本であり、先達への礼儀ですから省略できません。そうですね、育ててくれた親に感謝するのと同じ、と思ってください。

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以下、次回。

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(注1)

といっても、フンザ、カラーシュのアレクサンドロス伝説は20世紀になってからの報告しかありません。私はそれほど古い伝説ではない、と考えています。たとえ原話は古いにしても、西欧人による脚色・解釈がだいぶ入っているでしょう。第一、アレクサンドロス軍がそんな奥地まで進軍した、という記録はないのですから。インダス川流域は、もっと下手までしか来ていません。

アレクサンドロス伝説の本場は、やはり西トゥルキスタン~アフガニスタン北部。そちらはアレクサンドロス軍が確かに足を踏み入れています。カラコルム方面はそれらに隣接する地域ですから、そちらから伝わったものとみていいでしょう。

アレクサンドロス伝説がカラーシュやフンザにしかないと思っていると、本気にしてしまいそうですが、伝説の広がりやその想定伝播経路を把握しておけば、足をすくわれることはありません。

もっとも、「アレクサンドロス大王軍兵士の子孫」にしておいた方が旅行業界としては商売しやすいわけで、特に欧米人に対するアピール度は相当なものです。ですから、無理があるとわかっていても知らん振りして、俗説だけを垂れ流す人は後を絶たないでしょうね(すでにネタばれしているオカルトものを、いまだに「謎」として垂れ流すマスコミと同じ図式です)。

カラーシュあたりは、「ギリシア人の子孫」と言っていると、ギリシアはじめヨーロッパから人や援助がジャブジャブやって来るので、言っているうちに自分たちも本気になってしまっているようです。こういうのを「文化汚染」といいます。

私は、この伝説は、西からの「アレクサンドロス伝説」と東からのチベット系の伝説が混交したもの、と考えていますが、まだまとまった形にするほど探求が進んでいないので、いずれまた。

(注2)

ヒマーチャル・プラデシュ州クッルー県パールバティ溪谷のマラーナー(मलाना Malana)にも、「アレクサンドロス大王軍兵士の末裔か?」という噂がありますが、こちらは一層根拠皆無。

アレクサンドロスがらみの話など、かけらもありません。単に「周囲(ここではインド・アーリア系)とは異質な文化を持っている」というだけ。噂発生の時期もごくごく最近、20世紀末のことでしょう。

彼らの話す言語はカナシ語(Kanashi)といって、チベット・ビルマ語系ヒマラヤ語群に属します。近隣のキナウル語やラーホール諸語と同じグループの言語です。文化・宗教もよく似ており、両者とは宗教上での交流もあります。出自不明の謎の民族などではありません。

ただし今は、周囲をインド・アーリア系民族に囲まれてしまったので、一見孤立しているように見えるだけ。

マラーナーやカナシ語の話は、いずれ改めて。

(注3)

これらは、呼び手の言語によって'brog paの発音が変わっているわけです。

バルティ語/プリク語 → ブロクパ
ラダック語 → ドロクパ
チベット語 → ドクパ

おおむねこんな感じ。

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(追記)@2014/04/17

私の文献リストを見て、奇異に感じる人がいると思います。

それはリストの順番が、著者名の「あいうえお順」「ABC順」ではなく、年代順になっている場合が多い点。

その理由は、まず第一に、文献数が少ない場合、著者名順はほとんど威力を発揮しないからです。著者名順が威力を発揮するのは、文献数が数十のオーダーになったときでしょう。文献数が十や二十程度ならば、私は著者名順をとる必要はない、と思っています。

それに私は「著者名(年代)」で文献名を示すようにしています。年代順文献リスト上での場所は、年代で見つけることができますから、特に不便はないでしょう。

ではなぜ年代順に並べるのか、と言うと、これは私の好みなのですが、年代順に並べると研究史がある程度見えてくるのです。改まって研究史を書くのはなかなかおっくうですが、年代順文献リストを作る程度で研究史が把握できるのならば、それほど苦にはなりません。むしろ楽しいくらい。

何の調べ物でも一緒ですが、既存研究資料を集める際に、まずこのような年代順文献リストを少しずつ作っていくことをお勧めします。文献数が増えるに従って、徐々に研究史が見えてくるので、わくわくしますよ。まあ、私ごときがわざわざ言わなくとも、実行しておられる方は多いとは思いますが。

もちろん、正式な発表の際には、著者名順に直せばいいわけです。それはたいした手間ではありませんよね。私には、きちんとした形での発表の場はどこにもありませんから、ここでは自分好みの年代順文献リストで充分なわけです。

皆さん(て誰?)にも「文献リスト読み」の楽しさがわかってもらえたらうれしいのですが。

2014年4月14日月曜日

ヒマーチャル小出し劇場(11) 『シュナの旅』と似た風景 ラーホール

・宮崎駿 (1983) 『シュナの旅』. 徳間書店アニメージュ文庫, 東京.

という作品があります。元ネタはチベット民話「犬になった王子」(注)ですが、宮崎ファンタジーとして消化されており、チベット色はそれほど強くありません。














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そのp.4~5「旅立ち」の風景を見たとき、「あ、これラーホール(लाहौल Lāhaul/གར་ཞ་ gar zha)だ」と思ったものでした。よく似ているんですよ。














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残念ながら「ピッタリ!」という写真はないんですが、比較的いい線行ってるのはこれ。バーガー谷(भागा नाला Bhāgā Nālā)上流部の写真です。














『シュナの旅』の絵ほど極端に切り立ってはいませんが、現場では両岸壁の圧迫感は物凄く、ほんとあんな風に感じます。

ここよりも、下流部のほうが似ていますね。チャンドラー谷(चन्द्रा नाला Chandrā Nālā)、特にゴンドラー(गोंदला Gondlā/གནྡྷོ་ལ་ gandho la)あたりはもっと似ています。

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でも、宮崎氏が『シュナの旅』を描く際にラーホールをモデルにした、などと考えているわけではありません。偶然でしょう。

ただ、偶然にしてもずいぶんそっくりな風景だなあ、と思っただけ。たぶん今でも、宮崎氏はラーホールのことは知らないと思いますね。

実はシュナの住む谷は、「氷河がえぐった」という設定です。ラーホールの谷もかつては氷河で満たされ、氷河で侵食されたU字谷です。今は、そこからさらに侵食されて、川底付近はV字谷になっていますが。似ているのは当然なのですね。

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まるで隠れ里のような、このティノ(ཏི་ནོ་ ti no)あたりもなかなかいい感じです。

ジブリ・ファンなら好きな場所だと思います。ぜひ一度行ってみてください。

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(注)

その原作は、

・賈芝+孫剣冰・編、君島久子・訳、赤羽末吉・絵 (1964) 『白いりゅう黒いりゅう 中国のたのしいお話』. pp.156. 岩波書店, 東京. → 再発: (1993/2003) 岩波書店, 東京.
・君島久子・訳、後藤仁・絵 (2013) 『犬になった王子 チベットの民話』. pp.48. 岩波書店, 東京.

で触れてみてください。

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(追記)@2014/04/21

今思ったんだけど、『シュナの旅』は大判でも出した方がいいんではなかろうか。文庫サイズの絵ではもったいないよ。需要は十分あると思うけど。あと外国語版もあるといいのにね。

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(追記2)@2014/04/21

あと、これは予告みたいなものになるんですが、今、「犬になった王子」の分析、という作業をやっています。これは楽しい作業だなあ。遠からず出てきますよ。

2014年4月11日金曜日

「イエティ」のチベット語スペル(補足)

このテーマは、前に上げた2本で一応完結したのですが、気になる話が若干残っているので、補足しておきます。

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(1)Teh lma (ティルマ)

これはチベット語なのか確証がもてなかったので、前回分では入れませんでした。でも、アルファベットのスペルを発見し、これもチベット語だとわかったので解明してみます。

これは雪男の別称、特に「小型の雪男」として、ネット上でよく見かける名です。

参考:
・Unknown Explorers > Cryptozoology > Teh-lma (as of 2014/04/05)
http://www.unknownexplorers.com/tehlma.php
・Occultpedia : The Occult and Unexplained Encyclopedia > Browse A-Z > T > The-lma (as of 2014/04/05)
http://www.occultopedia.com/t/teh-lma.htm
・Tabitca/Cryptozoo-oscity > Wednesday, 27 January 2010 The mini -me of Yetis, the Teh-Ima.
http://cryptozoo-oscity.blogspot.jp/2010/01/mini-me-of-yetis-teh-ima.html

これらのサイトでは、例外なく「小型の雪男」として扱われています。つまり「チュティ(chung dred?)」と同義とみていいでしょう。

これは、

དྲེད་མ་ dred ma (テンマ) → ヒグマのメス

と推測されます。これもまたクマですね。

ヒグマのメスはオスよりも体が小さいので、chung dredとも呼ばれるのではないか、と考えます。あるいは子供のクマなのかもしれませんが、その辺は遠方からは見分けるのは難しいでしょう。

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(2)Abominable Snowman

これは、どういうチベット語/シェルパ語の訳語なのでしょうか。

根深(2012)には、イザード(1957)からの引用として、

┌┌┌┌┌ 以下、イザード(1957)→根深(2012)より ┐┐┐┐┐

H・W・ティルマンによると、このフレーズを創り出したのはダージリンのH・ニューマンであり、彼はチベット語「metch Kang-mi」――Kang-miは雪男、metchはfilthy<不潔な>またはdisgusting<むかむかするような>という意味――をabominable snowmanと訳したのだ。

└└└└└ 以上、イザード(1957)→根深(2012)より ┘┘┘┘┘

とあります。孫引きの孫引きもいいとこですが、まあご容赦ください。

根深(2012)では、チベット学者David Snellgroveの見解として、チベット語には「不潔な/むかむかするような」といった意味で「metch/metoh」といった発音の単語はない、と記されています。

私もその意見には賛成ですが、強いて言えば、

མི་སྡུག mi sdug (ミ・ドゥク) → 醜い/不快な

が、意味・発音とも近いかもしれません。

しかし、これは形容詞ですから、通常は「gangs mi」に後接するはずですがそうなってはいません。成語としてもあまりこなれていない感じです。

「metch/metoh」のチベット語スペルは、「mi sdug」ではなく、根深(2012)にもある通り、「mi dred(人の大きさのクマ)」ではないかと思います。

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dredという語幹は、「dred mo」という形で名詞「ヒグマ」を表しますが、「དྲེད་པོ་ dred po」という形で形容詞「荒々しい/野蛮な」にもなります。おそらくこちらが根源的で、その派生語としてヒグマに対して「dred mo(荒々しいもの)」という名称が与えられたのでしょう。

「mi dred(人の大きさのクマ)」は、「mdzo dred(ゾの大きさのクマ)」と対になって発生した言葉とみられます。ですが、「mi dred」単独で登場した場合、「dred」を形容詞ととらえ「荒々しい人/野蛮な人」という解釈も可能になります。

これは実に「mi rgod」と全く同じ意味です。この「rgod/dred (po)」が「abominable」という英訳となったのでしょう。

まとめておくと、

「mi dred → abominable man(誤訳)」 + 「gangs mi → snowman」 = abominable snowman

となったものと推測できます。

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これで雪男の名称とされるチベット語はすべて片付いた、と思っていますが、「他にもまだあるよー」ということでしたら、ぜひ教えてください。

2014年4月9日水曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(8) 雪男関連TV番組一覧-その3

1970年代になると、雪男探索自体には何の進展もないが、雪男はオカルトものの一環として息を吹き返す。この時代には、ヒマラヤのイエティよりも北米のサスカッチ/ビッグ・フットの人気が高かった。その理由は例の「パターソン・フィルム」にあるのだが、それも現在では捏造であることが明らかになっている。

すばらしい世界旅行 雪男探検隊 ヒマラヤ  
1971秋(30分) 日本テレビ
日本テレビ運動部ディレクター谷口正彦が、職を辞して5名からなる探検隊を率い、1971年1~6月ネパール・クーンブ山群、アンナプルナ山群で雪男探索を行った記録。ニワトリを囮に使った餌付け作戦、童謡のテープを流すおびき出し作戦など、テレビマンらしくユニークだが効果的とは思えないアイディア満載。例によってパンボチェ寺所蔵の雪男の頭皮?も登場。
参考:
・毎日新聞
・谷口正彦 (1971) 『雪男をさがす イエティを訪ねて』. 文藝春秋.→ 改題再発 : (1974) 『まぼろしの雪男』. 角川文庫.

火曜スペシャル 現代の謎 空飛ぶ円盤・雪男・ネス湖の怪獣  
1972夏(86分) 日本テレビ
3つのオカルト・トピックスを扱ったスペシャル番組(意外にも、最初から「木曜スペシャル」ではなかったのだなあ)。これがヒットし、オカルト特番は1970年代日本テレビのお家芸となる。雪男関連では、主に前年の谷口隊の映像(ネパール・クーンブ山群&アンナプルナ山群)を利用したものとみられる。
参考:
・毎日新聞
・谷口正彦 (1971) 『雪男をさがす イエティを訪ねて』. 文藝春秋.→ 改題再発 : (1974) 『まぼろしの雪男』. 角川文庫.

金曜スペシャル 三浦雄一郎 エベレスト氷河大滑降  
1975初(55分) 東京12チャンネル
三浦一家のスキー遠征に密着。氷河での滑降に加え、キャラバンの様子やお馴染みのパンボチェ寺の雪男頭皮なども紹介。
参考:
・毎日新聞
・読売新聞

ビックリッ子大集合! 怪奇ミイラ大特集  
1975秋(60分) 東京12チャンネル
河童のミイラ、鬼のミイラという胡散臭いものに混じって、お馴染みネパール・クーンブ山群パンボチェ寺の雪男頭皮(胡散臭さではこちらも負けていないが)が紹介されたようだ。
参考:
・毎日新聞

土曜スペシャル ミステリアス・モンスター!幻の猿人?ビッグフット徹底追跡
1980初(85分) 日本テレビ
世界各地で報告されている雪男を特集。特に北米のビッグフットに注目。ヒマラヤのイエティについても触れる。
参考:
・朝日新聞

ジュニア文化 ヒマラヤの雪男
1980夏(30分) NHK教育
出演:朝日稔(動物学者)ほか。
詳細不明。
参考:
・朝日新聞

ズームイン!!朝! ネパール・シリーズ(全20回) (18) ヒマラヤの雪男
1981初(10分程度か?) 日本テレビ
朝の情報番組の一コーナーとして4週にわたり放映された。カトマンドゥ盆地を中心にクーンブ山群へのトレッキングなども紹介している。そこで雪男について1回使っている。
参考:
・朝日新聞

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1980年代、雪男ブームはすっかり去っている。そんな中、フィリピン・ルバング島で小野田寛郎・元少尉を発見した鈴木紀夫は、地道にネパールで雪男探索を続けていた。しかし目立った成果はなく、TV番組が作られることもなかった。鈴木は1986年末、ダウラギリ山群コーナボン・コーラでの雪男探索中に、雪崩に巻き込まれて死去。

【 1988小野田寛郎の鈴木紀夫追悼ヒマラヤ登山関連 】

鈴木氏死去の報を受けた小野田氏(当時はブラジル在住)が、報道各社の協力を得て、1988年1月ダウラギリ山群コーナボン・コーラの事故現場までの追悼登山を行った。
参考:
・小野田寛郎 (1988) 『わが回想のルバング島 情報将校の遅すぎた帰還』. 朝日新聞社, 東京.
・越後屋浩二 (1992) 『冒険家の魂 小野田元少尉発見者鈴木紀夫の生涯』. 光風社出版.

ニュース・シャトル ヒマラヤへ涙の登山 ほか
1988初 テレビ朝日
ニュース番組の一コーナー。小野田氏による追悼登山の速報。
参考:
・朝日新聞

ヒマラヤに"別れの歌"が・・・ ルバング島より帰還した元陸軍少尉小野田寛郎と若き冒険家の熱い友情
1988春(54分) テレビ朝日
語り:佐藤慶
トレッキング経験もない小野田氏が、いきなりダウラギリ山群奥地まで足を運んだとは驚きだが、長年のサバイバル生活はやはり伊達ではない。それにしても、生前には全く無視されてきた鈴木の雪男探索活動が、没後になってようやく取り上げられるとは皮肉である。
参考:
・朝日新聞

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アニメ モンタナ・ジョーンズ (6) 雪男はチベットがお好き  
1994春  NHK総合
詳細不明。
参考:
・NHKアーカイブス
http://www.nhk.or.jp/archives/

日曜スペシャル 緊急スクープ!伝説の雪男を80日間大追跡!!  
1995初(85分) フジテレビ
制作:ユーコム
1994年夏、冒険家 故・鈴木紀夫氏の息子・大陸君を交えて、ダウラギリIV峰南麓コーナボン・コーラで雪男を捜索。シェルター、足跡、怪しげな二足歩行動物の姿を認める。(注)

ヒマラヤ最後のロマン 雪男の謎に挑む! 2003イエティ捜索隊の全記録
2003末(85分) テレビ朝日 
制作:TSP
1994年夏にダウラギリIV峰南麓コーナボン・コーラで雪男調査を行ったグループが、2003年夏9年ぶりに調査を行った。

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1990年代~2000年代は調査未了につき、不十分なリストになっています。

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こうして見ると、日本の雪男探索は1980年代末以降、鈴木紀夫の後追いが目立ちます。それは近年の角幡(2011)にまで引き継がれているのですが、「雪男探索は有望なコーナボン・コーラに収斂していった」というわけではなく、「雪男情報もネタ切れ」ということなのでしょう。

雪男に関する議論は、1950年代には異常な盛り上がりを見せました。それ以降ヒマラヤに入る人は格段に増えているのに、雪男情報は逆に激減しているありさま。それだけでも、雪男の存在を疑わせるのに充分なものでしょう。

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(注)

他サイトにこれと同一の文章がありますが、それはもともと私が提供した文章そのままです(そういったものは、そこには大量にありますが、明示は一切ありません)。よってここでもそのまま掲載します。

2014年4月7日月曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(7) 雪男関連TV番組一覧-その2

1960年代になると雪男探索は一段落(というより成果なし)。それに反して、創作ものでは雪男は大人気。雪男情報の普及は、おそらく出版物(少年マンガ誌や通俗週刊誌など)が担っていたと思われる。進展はないので50年代情報の焼き直しばかりだっただろうが。このあたりの経緯は、研究するとおもしろいものになるだろう。

【映画】 『ヒマラヤ無宿 心臓破りの野郎ども』  
1961夏(87分) ニュー東映
監督:小沢茂弘、原作・脚本:松浦健郎、出演:片岡千恵蔵、進藤英太郎、水谷良重、佐久間良子ほか。
『アマゾン無宿』(1961)に続く「片岡千恵蔵・無宿シリーズ」第2弾だが、設定・ストーリーに関連はない。
人類学者・土門(片岡)がヒマラヤから雪男を捕獲して帰国。この雪男をめぐり新聞記者や悪党たちと騒動があって、最終的にはヒマラヤの資源をめぐる悪事を暴く、というストーリー。オチは「雪男の正体は××だった(あえて伏せる)」というトホホなもの。
雪男ブームの影響が映画にも現れた。ヒマラヤ登山記録映画の人気も下火となり、ヒマラヤものはフィクションに取り入れられるようになる。しかしヒマラヤ現地ロケはまだまだ先のこと。
参考:
・日本映画データベース
http://www.jmdb.ne.jp/
・B級映画館
http://www.geocities.jp/bqaga/index.html

映画 ヒマラヤの雪男  
1962初 TBSテレビ
原題:Man Beast (1956, USA)
監督:Jerry Warren、脚本:B.Arthur Cassidy、撮影:Victor Fisher、出演:Rock Madison、Asa Maynor、George Skaffほか。
オリジナルは67分。DVD化されている。
ヒマラヤへ雪男探検に向かったまま音信不通となった兄ジムの捜索に出たコニー。登山家キャメロンの協力を得てエリクソン博士の探検隊に合流。怪しげなシェルパ・ヴァルガも加わり捜索を開始する。そこで雪男に遭遇し・・・。
典型的なB級冒険映画。雪男映画のオチはどうしていつもこうトホホな出来なのだろうか?雪山のシーンは他フィルムの流用、ヒマラヤ現地ロケなどは行っていない。
参考:
・毎日新聞
・allcinema ONLINE
http://www.allcinema.net/
・The Internet Movie Database
http://www.imdb.com/
・素敵なあなた SFシネ・クラシックス
http://homepage3.nifty.com/housei/SFcineclassics.htm

マンガ 早射ちマック ヒマラヤの雪男  
1964夏(30分) NETテレビ
原題:Quick Draw McGraw (1959~, USA)
制作:CBS-TV, USA
声:滝口順平ほか。
10分×3話のうちの1話。アメリカ製長寿西部劇アニメ。主人公マックは馬のガンマン。西部劇なのになぜ「ヒマラヤの雪男」が現れるのかは謎。
参考:
・毎日新聞

映画 0011ナポレオン・ソロ (62) ヒマラヤの雪男  
1967初(60分) 日本テレビ
原題:The Man from U.N.C.L.E. (1964~68, USA)
(72) The Abominable Snowman Affair (1966/12/09)
制作:NBC-TV, USA
出演:ロバート・ヴォーン、デヴィッド・マッカラムほか。
国際警察機構U.N.C.L.E.の捜査官ナポレオン・ソロとイリヤ・クリヤキンの活躍を描くスパイ・ドラマ・シリーズ。
このエピソードでは、ソロとイリヤはヒマラヤの国チュパト(モデルはチベット)で高位ラマの後継者争いに巻き込まれる。なお、雪男がどう関与するのかは不明。
参考:
・毎日新聞
・ウィキペディア 0011ナポレオン・ソロ
http://ja.wikipedia.org/wiki/0011%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AD
・スパイドラマ倶楽部・本館 0011ナポレオン・ソロ
http://spydrama.hp.infoseek.co.jp/page068.html
・TV.com
http://www.tv.com/

まんが タイガーマスク (37) 獣人ヒマラヤの雪男  
1970夏(30分) よみうりテレビ(日本テレビ系)
おなじみのプロレスアニメ。
全アジア王座決定戦に出場したタイガーマスクは、インド代表スノー・シンと対戦。試合の最中にスノー・シンの体じゅうに白い毛が伸び始め、まさに雪男の姿に変貌。彼はヒマラヤの雪山でミスター・クエスチョンに拾われ育てられたのだが、正体は明らかではない。最後はタイガーマスクに敗れる。
参考:
・毎日新聞

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それにしても、1960年代は創作ものばかりですなあ。

2014年4月5日土曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(6) 雪男関連TV番組一覧-その1

雪男の存在を否定してばかり、というのも申し訳ないので、雪男研究に少しは役に立とうか、と思います。

というわけで、雪男関連TV番組の一覧です(一部、ラジオや映画もあり)。1990年代以降はまだ充分調べていないので、遺漏は多いかと思います。

創作ものも混じっていますが、「雪男」という文化が一般にどの程度浸透していたか、を示す指標にはなるでしょう。

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【ラジオ】 劇 ヒマラヤ・オリンピック(全11回)  
1954春(30分×11) ラジオ東京
作:並河亮、出演:高橋和枝、石黒達也ほか。
エヴェレストへの挑戦を中心とするヒマラヤ登山史をラジオドラマ化。雪男や山の怪談も。1953年のエヴェレスト初登頂に刺激され日本でもヒマラヤ登山熱が高まっていた時期。
参考:
・毎日新聞

【映画】 『獣人雪男』 
1955夏公開 (95分) 東宝
監督:本多猪四郎、原作:香山滋、脚本:村田武雄、出演:宝田明、河内桃子ほか。
東宝お家芸の特撮映画第4弾。ヒマラヤの雪男ブームの影響で生まれた映画だが、この映画の舞台は日本アルプス。表現に問題があり、テレビ放映、商品化は一度もされていない幻の作品。
参考:
・allcinema ONLINE
http://www.allcinema.net/
・ウィキペディア 獣人雪男
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%A3%E4%BA%BA%E9%9B%AA%E7%94%B7

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【 1959/60雪男学術調査隊関連 】

ヒマラヤ登山隊の間で話題となっていた謎の生物・雪男の存在を研究すべく、1959年、小川鼎三(東京大学医学部教授)を中心として東京大学医学部解剖学教室内に日本雪男研究グループが結成された。そして同年末~翌年春にかけてさっそくネパール・クーンブ地方へ学術調査隊が派遣されることとなり、テレビにも雪男関連番組が現れるようになった。
参考:
・林寿郎 (1961) 『雪男 ヒマラヤ動物記』. 毎日新聞社.
・徳岡孝夫 (1964) 『ヒマラヤ 日本人の記録』. 毎日新聞社.

アジアの動物  
1959春(30分) NHK教育
出演:林寿郎(上野動物園)、埴原和郎(人類学者)ほか。
林氏が雪男の話題を取り上げるために企画した番組だが、雪男単独では際物すぎるため、様々な動物の中に雪男を紛れ込ませて紹介。日本雪男研究グループ結成のきっかけとなった。
参考:
・毎日新聞

私は知りたい 雪男は実在するか  
1959夏(30分) KRテレビ
出演:山崎英雄(マナスル登山隊隊長)、埴原和郎、林寿郎、深田久弥(ジュガール・ヒマール偵察隊)ほか。
謎の生物・雪男の存否・正体について、識者が語り合う。深田氏は同日この番組の後、ラジオ東京で「秘境ヒマラヤを語る」という番組にも出演。
参考:
・朝日新聞

そして、1959年11月~1960年2月、ネパール・クーンブ地方へ雪男学術調査隊が派遣された。
後援:毎日新聞社、文部省、日本山岳会。隊長:小川鼎三(東京大医学部教授)、隊員:林寿郎(上野動物園)、山崎英雄(動物学者)、大塚博美(登山家/日本教育テレビ)、依田孝喜(毎日新聞社写真部)、尾崎陽一郎(毎日放送)。
現地で雪男(といわれる)の頭皮・骨などを調査、足跡らしきものなどを発見したが、存在の確証は得られなかった。
参考:
・林寿郎 (1961) 『雪男 ヒマラヤ動物記』. 毎日新聞社.
・徳岡孝夫 (1964) 『ヒマラヤ 日本人の記録』. 毎日新聞社.

ヒマラヤの雪男とは?  
1959末(20分) 日本テレビ
詳細不明。
参考:
・朝日新聞

雪のヒマラヤから帰って  
1959末(30分) 日本教育テレビ
雪男学術調査隊によるネパール・クーンブ地方調査に同行したカメラマンによる速報と推測される。翌年1~3月に毎週帯番組として詳報を放映。
参考:
・朝日新聞

雪男特報  
1960初(60分) 日本教育テレビ
語り手:大平透、ゲスト:竹節作太、加藤喜一郎。
カトマンドゥ~ナムチェ・バザールにベースキャンプ設営まで。
参考:
・毎日新聞

雪男の謎 (全10回) 
1960初~春(30分×10) 日本教育テレビ
語り:大平透、出演:竹節作太、加藤喜一郎ほか。
(1)イエティの国ネパール
カトマンドゥでの準備~ビラトナガールへ飛ぶ。
(2)キャラバンは進む
(3)捜査基地ナムチェ近し
(4)ベースキャンプ建設
(5)イエティのすみかエベレスト
(6)足跡発見
(7)情報と資料
(8)雪男の頭皮
(9)座談会 雪男探検から帰って
帰国した隊員6名全員による座談会。探検の成果・経過などを報告。
(10)謎は謎のまま
参考:
・毎日新聞

【ラジオ】お便りありがとう 林寿郎  
1960春(10分) 文化放送
出演:林寿郎。
雪男調査隊の話をする。
参考:
・毎日新聞

ネパールを訪ねて(全2回) 
1960春(15分×2) KRテレビ
出演:林寿郎(多摩動物園長に栄転)。
参考:
・毎日新聞

木曜ワイド・アワー エベレストをめぐって 雪男学術調査隊記録  
1960夏(60分) 日本教育テレビ
総集編的な内容のようだ。
参考:
・毎日新聞

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世界みたまま ヒマラヤのふもと  
1960春(25分) NHK総合
出演:阿部盛明。
1959年秋、ネパールのロルワーリン山群ガウリ・シャンカール(7145m)初登頂をめざした福岡大学山岳会隊(日本人は3名のみという小規模隊での挑戦であったが登頂断念)の阿部隊員に登山の様子やヒマラヤについて聞いたものとみられる。
同登山隊は、チベット側に越境し中共軍に拘束されたり、遭難騒ぎになったり、となにかと問題の多い隊であった。また番組では「雪男の毛」と称するものも放映。これは保管されていた僧院から無断で持ち出したものであったため、さらに物議を醸した。
参考:
・毎日新聞
・週刊新潮編集部 (1960) 雪男の毛、失敬事件 暴露された日本登山隊の行状. 週刊新潮1960-04-18.
・深田久弥ほか (1983) 『ヒマラヤの高峰1』. 白水社.

びっくりスコープ 世界の屋根ヒマラヤ  
1960夏(25分) NHK総合
出演:槇有恒(第三次マナスル登山隊長)、林寿郎(雪男学術調査隊)、高島春雄、中沢公正。
参考:
・毎日新聞

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(追記)@2014/04/06

映画『獣人雪男』は、最近ポツポツと上映会が開かれているようですね。久々に調べたらわかりました。でも商品化は期待できないでしょうね。次回述べますが、雪男映画のオチってそんなのばっかなんですよ、なんでか。

それから、雪男学術調査隊には文部省から資金が出ています。雪男研究に国が金を出していたんですから、当時は雪男はまだ際物扱いではなかったんですね。

2014年4月3日木曜日

「イエティ」のチベット語スペル(2)

こうして見ると、「雪男」の名称は「mi rgod」と「gangs mi」を除いて、どれも「クマ」と区別がついていないようです。根深氏による「雪男=チベットヒグマ」説は説得力のあるところです。

現地人(たとえばシェルパ)が「イエティが出た」と言っても、「雪男が出た」と言っているのか、単に「ヒグマが出た」と言っているのか、それだけでは区別できないことになります。

こういった視点で、イエティ目撃・遭遇談(特に現地の方の話)を読み直して下さい。「イエティ」を「クマ」と置き換えてもなんら違和感ないものが、かなりあることに気づくでしょう。

外国人は、「イエティ」=「雪男」という先入観でこれらの話を聞きますが、「イエティ」=「ヒグマ」が出たという内容なのに、聞き手側が誤解しているだけのものが相当あると思われます。

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角幡(2011)が紹介している、

・レーフ・イザード、村木潤次郎・訳 (1957) 『雪男探検記』. pp.350.ベースボール・マガジン社, 東京.
→ 再発:(1963)べースボール・マガジン社(秘境探検双書), 東京./(1974/95)恒文社, 東京.
← 英語原版: Ralph Izzard (1955) THE ABOMINABLE SNOWMAN ADVENTURE. pp.302+pls. Hodder and Staughton, London.

によれば、シェルパの間では、「イエティ」を、大=「ズーティ」、小=「ミィティ」に区分しているそうです。「ズーティ」の方はヒグマに間違いないが、「ミィティ」の方が「雪男」か?と推測しています。前述の大中小区分とは異なりますが、それほど厳密に定まっているわけではないのでしょう。

これも「ズーティ」の意味がわかれば、「な~んだ」になります。つまり、

མཛོ་དྲེད་ mdzo dred (ゾテー) → ゾ(の大きさの)クマ

です。「mdzo」はヤクと牛の掛け合わせ。大きさもその中間ですが、人よりはかなり大きい。

「g-ya' dred(ヒグマ)」を、「mdzo dred(ゾの大きさのクマ)」と「mi dred(人の大きさのクマ)」に区分しているわけで、さらに「chung dred(小さいクマ)」という区分がなされることもあるよう。単に大きさよる小区分と思われます。たいした話ではありませんね。

「mi dred」が「人熊/人ともクマともつかないもの/人のようなクマ」ならば、雪男っぽくありますが、「人の大きさのクマ」の意味である可能性が高いのですから、これは単に「クマ」でしょう。

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根深(2012)は、正面から「雪男」の存在を否定するもので、ネパール各地で綿密な現地調査も行った上での結論ですから、説得力はかなりのものです。

角幡(2011)の方は、何か煮え切らない印象が強い。そもそも雪男に興味はなかった、と正直に書いておられるのですから、当然ともいえますが。心情的には否定方面に傾いているが、全面的に否定するほどつっこんだ調査はできていない、というところでしょうか。

根深(2012)のエッセンスともいえる

・根深誠 (2004) イエティの正体とはなにか?. 山と溪谷, 2004/02, pp.194-199.

も参考文献として挙げていますが、こんな重要文献なのにその主旨である「イエティ=ヒグマ」説については全く触れていません(追記参照)。「雪男実在説」にはあまりに不利な内容なので、なかったことにしよう、という感じ。

また、まともに否定してしまうと、この本に描かれている調査行自体が価値を大幅に減らしてしまうので、はっきりしない結論で終わらせています。隊の仲間への気配りもあるのでしょう。

良く言えば「ペンペン草も生えなくなるような結論にはしたくない、後世に『夢』を残したかった」というところかもしれません。

でも、『雪男は向こうからやって来た』という題名は、羊頭狗肉と批判されても仕方ないでしょう。その程度の批判は覚悟の上とは思いますが。

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角幡(2011)で最も重要視されている資料は、

(1)エリック・シプトンが報告した足跡
(2)スラヴォミール・ラウィッツの目撃談

の2つですが、もうそれだけで「雪男伝説」の底が見えてしまった感があります。これらは、雪男伝説史上の「二大怪しげ話」なのですから。

この2資料を除くとあとは、はっきりしない目撃談、不明瞭な足跡、すでに正体がわかっている頭皮、おとぎ噺と大差ない接触譚などしか残らず、「雪男伝説」は急に色あせたものになります。

ですから、この2説を大きく取り上げることによって、逆説的に「雪男の話に信頼度の高いものはほとんどない」という事実を知らしめたことになります。

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シプトンについての怪しげな噂(グレー・ゾーンといったところ)については、根深(2012)に詳述されていますから、そちらをご覧になれば充分でしょう。

ラウィッツの雪男目撃談を含む『脱出記』は、世界的に「ニセ冒険記」すなわちホラ話ということで評価が定まっていますが、不思議なことに日本ではいまだにノンフィクションとして扱われることが多いんですな。

日本語ではきちんと検証されていないからなんですけど、ラウィッツについては、いつかしっかり検証したいところです。やたらと手間と時間がかかるわりには、やってる方は楽しい気持ちにならないので、なかなか気乗りしないんだなあ。

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(追記)@2014/04/03

青字部分を以下のように訂正した。

訂正前: その内容については
訂正後: その主旨である「イエティ=ヒグマ」説については

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(追記)@2014/04/04

「イエティ」との遭遇談で、「イエティ」を「ヒグマ」と置き換えても違和感ない例を少し挙げてみましょう。

<ヒグマ>は私が挿入してみたものです。

┌┌┌┌┌ 以下、根深(2012)p.73より ┐┐┐┐┐

冬の朝、勤行を終えて息抜きに外へ出ると、ゴンパの前の広場を挟んで向かい側にある、雪の積もった「ハモガン」という小高い丘の斜面をイエティ<ヒグマ>が下りてきたのだ。数百メートルは離れているので、黒点にしか見なかったのではないだろうか。

どうしてイエティ<ヒグマ>だとわかったのか、という私の質問に、テンジン・ローティはこう答えた。

「みんながそう叫んで大騒ぎになったから」

イエティ<ヒグマ>の被毛は赤褐色だったという。

僧侶たちがあわてて大小さまざまな、儀式でつかう笛を持ち出してきて吹き鳴らすと、イエティ<ヒグマ>は斜面を横切って「ナグディンゴ」という谷の方へ逃げ去った。それから何カ月か後、雪が解けてからハモガンの麓でヤクの死骸が発見されたとき、それはイエティ<ヒグマ>の仕業だということになった。

└└└└└ 以上、根深(2012)p.73より ┘┘┘┘┘

これはヒグマが出てきたんで、人々は恐れて、大きな音を出して撃退した、というだけのお話でしょう。

訊く側が「イエティ=雪男」というつもりで訊いても、シェルパ側の認識は主に「イエティ=ヒグマ」というものでしょうから、会話がすれ違いになるわけです。

┌┌┌┌┌ 以下、根深(2012)p.230より ┐┐┐┐┐

「メテ<ヒグマ>は、その後どうしているかな?」

「いることはいるんだがな、ちかごろ出ていないよ」

└└└└└ 以上、根深(2012)p.230より ┘┘┘┘┘

これも、「ヒグマが出てるか?」と訊かれているつもりで、ヒグマについて答えている、という会話とみて矛盾は全くありません。

一番の喜劇は、1959~60年の日本雪男学術探検隊にイエティの毛皮を売りに来た老人の話でしょう。

隊員側はこれをヒグマの毛皮と断定して購入を断り、老人は雪男の毛皮のニセ物をつかまされたんだな、と考えたわけですが、これも日本側の「イエティ=雪男」という認識と、シェルパ側の「イエティ=ヒグマ」という認識がすれ違っているわけです。

老人は「イエティ=ヒグマ」の毛皮を探している外国人がいる、と聞きつけて、「イエティ=ヒグマ」の毛皮を持っていったのでしょう。すると、これはニセ物、「イエティ=ヒグマ」の毛皮ではない、と言われたわけですから、わけがわからなかったはずです。

双方ともそれがヒグマの毛皮という見解は一致しているのに、「イエティ」の解釈が違うことで、こういう滑稽な喜劇が出現してしまったわけです。

こういった例は他にも数多くあるはずですから、検証していく必要があると思われます。

2014年4月2日水曜日

「イエティ」のチベット語スペル(1)

語源シリーズ第4弾。珍しく西部チベットの話ではありません。

ヒマラヤの雪男について、日本では近年重要な著作が2つ発表されています。

・角幡唯介 (2011) 『雪男は向こうからやって来た』. pp.338. 集英社, 東京.
・根深誠 (2012) 『イエティ ヒマラヤ最後の謎"雪男"の真実』. pp.325. 山と溪谷社, 東京.

意味合いは違うものの、どちらも雪男伝説に終止符を打つ役割を果たす本ではないか、と思われます。

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そこで挙げられている「雪男」の現地語名は、

・ブータン/シッキム → 「ミゲ」/「メギュ」
・チベット・ドクパ → 「テモ」
・チベット一般 → 「メテ」
・ネパール・ライ/リンブー → 「ソクプ」
・ネパール語 → 「バンマンチェ」
・ネパール・シェルパ → 「イェティ」/「メティ・カンミ(metch kangmi)」/「チュティ」

などと表現されていますが、残念ながら発音のカタカナ転写のみで、チベット文字(あるいはそのアルファベット転写)での表記がありません。

そこで、ここではチベット語での解釈を紹介してみましょう。

なお、チベット文字表記を伴う欧文サイトはかなり目にしますが、意味が誤っているものも多く、それも合わせて訂正しておきましょう。

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(1)ミゲ/メギュ

མི་རྒོད་ mi rgod (ミグー) → 野人

「mi」は「人」、「rgod」は「荒くれの」「騒がしい」「野蛮な」などの意味です。これが最も「雪男」のイメージに近い。

なお、チベット語では、修飾語である形容詞は、被修飾語である名詞に後接します(例外も少なくありませんが・・・)。

しかし「イエティ」に比べて、あまり聞かないマイナーな名称です。また「雪男」よりも「人間」寄り、あるいは伝説上の「妖怪」のような印象です。

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(2)テモ

དྲེད་མོ་ dred mo (テンモ) → ヒグマ

チベット本土だけではなく、ラダックなどでも同じく「ヒグマ」です。これが「雪男」のチベット語名とされていることで、「ヒグマ」と「雪男」の区別がはっきりしていないことがわかります。それも、聞き手側の解釈の問題で意味合いに齟齬が生じているだけのような気がしますが・・・。

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(3)メテ

མི་དྲེད་ mi dred (ミテー) → 人熊

これはテンモよりは「雪男」っぽいですが、やはり半分はクマです。それも単語の構造としては「人(の大きさの)熊」と思われます。詳しくは後ほど。

根深(2012)で紹介されている「メ=人、テ=サルの仲間」という説は、「dred(テー)=クマ」と「spre('u)(テ(ウ))=サル」は発音が似ていることからの混同と思われます。

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ライ・リンブーの「ソクプ」、ネパール語の「バンマンチェ」はチベット語ではないので飛ばして、

(4)メティ・カンミ

མི་དྲེད་གངས་མི་ mi dred gangs mi (ミテー・カンミ) → 人熊+氷雪/雪山の人

「メティ」は(3)と同じです。「カンミ」の方は「雪男」そのままですね。この二語が連続しているところが解せないのですが、おそらく「メティあるいはカンミと呼ばれる」という意味と推測します。

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(5)イエティ

さてお待ち兼ねの「イエティ」です。すでにあちこちの欧文サイトではチベット語スペルが明らかにされていますが、日本語サイトでは見かけないので、ここで挙げておきましょう。

གཡའ་དྲེད་ g-ya' dred (ヤテー) → ヒグマ

「g-ya'」は「赤サビ」です。これが転じて「赤い(もの)/茶色い(もの)」という意味にもなります。単語の構造からも日本語の「ヒグマ(緋熊)」そのものです。

「dred」は「dred mo」の省略形。「dred」だけでも十分ですが、「g-ya'」を付け加えることで、色を強調したものと思われます。

欧文サイトでは、よく「rock bear」という訳語が挙げられていますが、「赤サビ(色の)熊」の方がふさわしい、と思われます。「g-ya'」には「スレート/石板」という意味もありますが、これは岩盤でなく、その辺にゴロゴロころがっている(やや大きめで板状の)岩石のことですから、クマとはあまりくっつけにくい。

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(6)チュティ

今ひとつよくわかりませんが、

ཆུང་དྲེད་ chung dred (チュンテー) → 小クマ

でしょう。雪男を大きさで区分して、大=メテ、中=イエティ、小=チュティ、とされることから推測しました。

普通、チベット語では形容詞は名詞に後接するのですが、成語化されているときは前接も珍しくありません。

以下、次回。

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(追記)@2014/04/02

「イエティ」をなぜチベット語で解釈するのか、というお話をしておく必要がありますね。

「イエティ」とは、主にネパールのソル・クーンブ(ཤར་ཁུམས་བུ་ shar khums bu)地方での呼び名です。住民シェルパ(ཤར་པ་ shar pa)はチベット系民族で、その言葉シェルパ語(ཤར་པའི་སྐད་ shar pa'i skad)は当然チベット語の一方言になります。

ラダック語同様、ウー・ツァン方言とは発音/文法がやや違いますが、基本的にチベット語として解釈できます。

ここでは、主にウー・ツァン方言での発音を示しています。現地で採取された発音と違いが出ている理由は、そこにあります。

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(追記)@2014/04/04

「shar pa(シャルパ)」がなぜ「シェルパ」になるのでしょうか。例によって英語風の発音が悪さをしている模様です。

英語の「share」はなんと読みますか?「シェア」ですね。

英語話者は「shar pa」という字面を見て「シェアパ」と発音し、それが「Sherpa」という綴りに化けたのでしょう。で、日本に入ってきた時に「シェルパ」になった、とまあこんなところでしょうか。