さて、その「'brog」の意味ですが、ここでもやはり「辺境/僻地」という意味が当てはまるでしょう。では、それは誰がどこから見ての「辺境/僻地」なのでしょうか?
「'brog」はチベット語ですから、当然視点の主体はチベット人になります。中央チベットにいるペルコルツェン王が「'brog」と呼んでいるのですから、中央チベットから見ての「辺境・僻地」となります。
吐蕃時代の7~9世紀にかけて、チベット人は徐々に西方に進出して行きました。そして言語・文化的に土着の人々をチベット化。10世紀初当時、西方のチベット化がどこまで進行していたか定かではありませんが、かつての吐蕃領であり、現在チベット語圏となっているバルティスタン(古代の大勃律)までは「辺境・僻地」ではなく、「こちら側」とみなされていた雰囲気が濃厚です。
ボロル(ブルシャ)は、吐蕃時代には占領地となりチベットの影響が及んでいましたが、吐蕃帝国崩壊後はチベット圏から脱し、言語・文化がチベット化することもありませんでした。
そのさらに外側にいたダルド系民族(シン人)は、吐蕃時代にチベット勢力とまとまった形で接触した形跡はありません。10世紀当時は、チベット側にとってあまり馴染みのない集団だったと思われます。
というわけで、「チベット圏の外側、すなわち辺境/僻地に住む異民族」としてシン人を「'brog mi」と呼んだ、と推察します(注)。
------------------------------------------
そしてようやくブロク・ユルのブロクパに戻りますが、ギルギットからラダックに移住してきたシン人の一派は、その故地にいたころの他称を引き継いで、チベット系民族(ラダッキ/プリクパ/バルティ)から「'brog pa」と呼ばれたとみていいでしょう。
「'brog mi」と「'brog pa」はどう違うのでしょうか?
これはなかなか難しい問題ですが、「~mi」の方は、対象は概念的、集合名詞的な用法で、話者にとってあまり身近ではない集団に対して使われることが多いような気はします。
<例>
དམག་མི་ dmag mi (兵士)
རྒྱ་མི་ rgya mi (中国人)
一方、「~pa」の方は、対象は具体的、単複どちらにも使われ、話者がじかに接する者に対して使われることが多いような気はします。
ギルギットという遠方にいて、チベット系民族にとってあまり身近ではない頃には「'brog mi」と呼ばれ、ラダック移住後はじかに接するようになり「'brog pa」と若干呼び名が変更されたのではないか、と推測します。
------------------------------------------
話が長くなっているのでまとめておくと、ラダックの「'brog pa」は、ラダックにやって来てからはじめて「'brog pa」と呼ばれるようになったのではなく、故地ギルギットにいる時から「'brog mi」と呼ばれ、移住後もその呼び名を引き継いでいる、という仮説を提唱しているわけです。
しかし今のところ、ギルギットのシン人に対して「'brog mi」という他称が用いられている例を、私は上述の『ニャンレル仏教史』しか知りません。上記仮説を堅固なものにするためには、もう少し実例を集める必要があります。
吐蕃時代にはシン人はまだボロル(ブルシャ)には進出していない様子で、『敦煌文献』にはその名は見当たりません。
ポスト吐蕃時代となると、中央チベットと西方の非チベット系諸国との交流は激減し、情報量もぐっと減ってきます。西部チベットの史書である『ンガリー王統記mnga' ris rgyal rabs/』や『ラダック王統記la dwags rgyal rabs/』には西方諸国との接触は多数現われますが、この「'brog mi」という単語は見つかりませんでした。
バルティスタン関係史料を綿密に当たれば、「'brog mi」についてもう少しわかりそうな気もするので、探索継続。
------------------------------------------
『ニャンレル仏教史』での、もう一箇所の登場例も見ておきましょう。
┌┌┌┌┌ 以下、Vitali(1996)より ┐┐┐┐┐
彼(ララマ・イェシェ・ウー)の帰依所であるセルポ(チェン)(སེར་པོ་(ཅན་) ser po (can))とサガンのドクミ(ས་སྒང་གི་འབྲོག་མི་ sa sgang gi 'brog mi)が諍いを起こし、彼らによってセルポチェンが殺害された際、ララマが「私の帰依所を殺害したのであるから賠償せよ」とおっしゃったのに対し、「鞍覆ほどもある金塊を献じられるであろう」と夢に見たとおり、ドンツェワン(དོང་རྩེ་ཝང་ dong rtse wang)金鉱(གསེར་ས་ gser sa)という土地が献じられ、それぞれの坑道から金が十荷も取れた。
└└└└└ 以上、Vitali(1996)より ┘┘┘┘┘
残念ながら、ドンツェワン金鉱の位置は不明です。バルティスタンのハプルー(ཁ་པ་ལུ་ kha pa lu)の北、フーシェ谷(Hushe Valley)にあるセルポ・ゴ(གསེར་པོ་མགོ gser po mgo)という地名は、その候補の一つではありますが、どちらもまだ情報不足。
また、セルポ(チェン)という人物についても、これ以上は情報を持っていません。ドクミの住む場所については、結局ここでは手がかりはありません。
しかし、ダルド民族と金鉱の関係は、古くからギリシア/ローマ系史料による報告が多数あり、ドクミ=ダルド民族(シン人)という比定には有利な内容ではあります。
------------------------------------------
余談ですが、「'brog mi」でピンときて、気になっていた方も多いのではないでしょうか。
འབྲོག་མི་ལོ་ཙཱ་བ་དཔལ་གྱི་ཡེ་ཤེས་ 'brog mi lo tsA ba dpal gyi ye shes (ドクミ・ロツァワ・ペルギ・イェシェ) [992-1072]
のことです。
サキャパ祖師の一人で、サキャパ開祖コン・コンチョク・ギャルポ(འཁོན་དཀོན་མཆོག་རྒྱལ་པོ་ 'khon dkon mchog rgyal po [1034-1102])の師。訳経師としても名高い。
この「'brog mi」は氏族名。ヤムドクガン(ཡར་འབྲོག་སྒང་ yar 'brog sgang)という場所(おそらくヤムドク・ユムツォ周辺)の氏族です。
ドクミ氏が、古代にギルギット方面から移住してきたという情報は確認できなかったので、おそらくギルギットとは無関係でしょう。yar 'brogという地名が先にあり、それにちなんだ氏族名と思われます。
===========================================
(注)
「'brog mi」と似た言葉に「མཐའ་མི་ mtha' mi」という言葉もあります。これは「(国)境の人」という意味ですが、「'brog mi」よりもやや具体的に対象が見えている印象があります。
===========================================
(追記)
すでに結論めいたことを言っているわけですが、その他にもう一つの可能性もあります。
それはブロク・ユルのブロクパが「ギルギットのBagrotから来た」と云われていることです。この「Bagrot」が訛って、チベット語の「'brog」に転じた可能性はないでしょうか?
そもそもBagrotという地名がいつから現れるのか?あたりからして、わからないことだらけなのですが、もう少し調べてみたいテーマではあります。
0 件のコメント:
コメントを投稿