2009年2月28日土曜日

「ギィース・ルピア?」の巻 ~西部チベット語の発音(3)プリク語/バルティ語~

ラダック・レーからさらに西に進むと、発音はもっと複雑になります。


プリク~バルティスタン周辺の言語分布(Pushp+Warikoo 1996を改変)(注1)

ラダックの西半分はプリク(spu rig)と呼ばれ、仏教徒の国であるレー側と違い、イスラム教徒が多数派。言葉もプリク語(spu rig skad)といい、ラダック語とは少し違う言葉とされています。

プリクからさらに印パ停戦ライン(管理ライン)を越えた向こうはパキスタン側のバルティスタン(sbal ti stan/sbal ti yul)。もちろんイスラム教徒ばかりの地域。しかしここがチベット系民族が住む地域であることはあまり知られていません。

言葉はチベット語の方言であるバルティ語(sbal ti'i skad)が話されています。チベット語分布域の最西端。最東端のカム/アムドから離れること実に2500km。チベット語の分布域(チベット文化圏)は、中国語の分布域に勝るとも劣らない広大な地域なのです。

プリクとバルティスタンは、小王国が多数分立していた地域で、プリクがラダック王国に併合されたのは18世紀。バルティスタンはラダックに併合されることはありませんでした(この辺の歴史はいずれあらためて書くつもり)。

両地域は、印パ停戦ラインで分断されて60年。今でこそ全く行き来はできませんが、かつてはさかんに交易が行われ、文化的にも経済的にもほぼ一体化していました。さらにイスラム圏であることも共通しており(プリクのイスラム教はバルティスタンから伝わった)、その意味で仏教圏のラダックとは心理的にも距離がありました。

プリク語とバルティ語が、ラダック語と一線を画す状態のまま現在に至る理由を考えた場合、こういった歴史を忘れることはできません。

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プリク語とバルティ語は同じなのか?違うのか?私は現地でそれほど詳しく調べたことはないので、ほとんど違いがわからないのですが、仮に別だとしても、少なくともバルティ語とプリク語は極めて近く、両者は共にラダック語にはやや距離がある、とは言えましょう。

研究者によって、プリクパ(spu rig pa=プリク人)をバルティパ(sbal ti pa=バルティ人)とも呼び、民族的・言語的に同じ扱いをするケース、両者を分けているケースの双方があって統一されていないようですです(注2)。

ここでは、便宜上プリク語/バルティ語として一緒くたに扱うことにします(両者が同一とする説を積極的に支持するわけではありません)。

ずいぶん前置きが長くなりましたが、それではプリク語/バルティ語をみていきましょう。


イスラム教徒プリクパ@カルギル
だいぶチベット顔が薄れてきている。でも後ろの店はトゥクパ屋。

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バスに乗っているとき、チケットを売りに来た車掌。顔もだいぶコーカソイドっぽくなっていますが、肌の色はラダッキ~チベタンと同じく真っ黒。バス代を渡すと、お釣りの札を数え始めた車掌さん「チーグ、ギィース、スーム、ジー・・・・」。

なんと「gnyis(数字の2)」は添前字の「g-」が残り、基字の「nya」の方が消えかかって「ギィース」という珍妙な発音になっています(おそらく口の奥で「グニィース」と言っているのだと思う)。

ウー・ツァン方言の「ニィー」、ラダック語の「ニィース」、そしてプリク語の「ギィース」とみごとなグラデーションになっています(注3)。これには音に驚くとともに、いいようもない感動がありましたね。吐蕃時代のチベット人はよくまあはるか遠くまで来たもんだと・・・。

また「bzhi(数字の4)」は濁って「ジー」となります。資料によれば「ィブジー」と発音する人もいるようです。

「brgyad(数字の8)」はさすがに添前字+添頭字「br-」の全部が発音されるわけではなく、「ゥギャット」のような感じでした(ラダック語は「ギェッ」程度)。

それでもウー・ツァン方言からの隔たりは相当なもので、聞いただけではウー・ツァン方言での対応音がまるで思い浮かばないものもあります。しかし、その発音を聞いていると、あの難渋なチベット文字スペルが決してデタラメやお飾りではなく、発明当時の7世紀には本当に全部発声されていたであろうことを彷彿させてくれます。

発音は別として、単語自体はほとんどラダック語と共通で、言い回しもほぼ同じです(注4)。

ウー・ツァン方言とバルティ語の言い回し・発音を簡単に比較してみましょう(Abbas Kazmi 1996より)。

【日本語】 「今日は太陽が暖かい」
【ウー・ツァン方言】「de ring nyi ma dro po 'dug(タリン・ニマ・トポ・トゥー)」
【バルティ語】「de ring nyi ma dro mo yod(ディリン・ンギィマ・トロンモ・ヨッ)」 → 「-ng+nyi-」で前の末尾子音を引っ張って先ほどの「gnyis(ギィース)」と同じ効果が現れているのがおもしろい。

発音の違いはあれ、まぎれもなくチベット語であることがわかります。

ただしバルティスタンでは、イスラム教が入ってきた15世紀以降チベット文字はすたれて行き(注5)、今はペルシア文字で発音を表す方法しかありません。ここでのチベット文字(ワイリー転写)は推定です。

これは資料から引いた単語ですが(注6)、「'bras(米)」は、ウー・ツァン方言では「デー」、ラダック語では「ダス」。プリク語/バルティ語では「ブラス」と、ついにスペル通りの発音が現れます。これも東から西へ見事なグラデーションができていますね。

同様のケースに、

「brag(岩)」が、(ウー・ツァン方言)「タク」、(ラダック語)「ダク」、(プリク語/バルティ語)「ブラク」。「'brog pa(牧民)」が、(ウー・ツァン方言)「ドクパ」、(ラダック語)「ドロクパ」、(プリク語/バルティ語)「ブロクパ」。

などもあります。前回の「フォブラン」もなかなか感動ものでしたが、ダー・ハヌーのブロクパ(注7)が「ンガァ(私)・ブロクパ」と言うのを聞いたときも、思わず「おお~」と感動の声をあげてしまいました。

2月6日 「棄宗弄讃って誰?」の巻
>古代の氏族名「'bro(ド)」は『新唐書』吐蕃伝では「没盧」、復元中古音「muat(buat)lu=ブル(ブロ)」と推定されています。

を思い出して下さい。プリク語/バルティ語発音の古めかしさが、ラダック語以上であることがわかります。

他にもスペル通りの発音が多数あります。

「gnam(空)」が「クナム」、「grang mo(寒い)」が「グランモ」、「bye ma(砂)」が「ビェマ」、「bya mo(ニワトリ)」が「ビャンゴ」。まあ見事なものです。

「g-yon(左)」が「ギョン/ギェン」。「ya」の添前字の「g-」が発音されるのはたぶんプリク語/バルティ語だけでしょう。

「skar(星)」が「スカル(モ)」、「sman(薬)」が「スマン」、など語頭の「s-」が残りやすい傾向はラダック同様ですが、より徹底してきます。バルティスタンの中心地「skar rdo(「隕石」の意味)」は、当然「スカルド(ゥ)」になるわけです。

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チベット高原の西はずれにどうして古いチベット語が残っているのか?また、そのチベット人はいつ、どうしてここにやって来たのか?

そのお話はそのうちすることになると思いますが、その前に一度チベット方面に少し戻って、ラダックの南方ザンスカール~スピティなどの様子を見ておきましょう。

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(注1)
・P.N. Pushp+K. Warikoo(ed.) (1996) JAMMU, KASHMIR AND LADAKH : LINGUISTIC PREDICAMENT. pp.224. Har-Anand Publications, New Delhi.
のp.5の地図 "Jammu, Kashmir & Ladakh : Ethno-linguistic Areas"を改変。

なお、この本は下記のサイトで一冊丸ごと公開されてもいます。

・Koshur : An Introduction to Spoken Kashmir > Jammu, Kashmir and Ladakh : Linguistic Predicament
http://www.koshur.org/Linguistic/index.html

ラダック語/プリク語の境界は明瞭に引けるわけではなさそうだが、とりあえずレー地区(District)とカルギル地区の境界で線を引いた。ザンスカール語(方言)の分布域もはっきりわかっているわけではないが、カルギル地区内のザンスカール準郡(Sub-Tehsil)を中心に、その北はスル谷最上流部の仏教圏まで、とした。ジャンムー側~ヒマーチャル側へのはみ出しは、ヒマラヤを越えて移住したザンスカーリの分布域(詳しくは次回、か、例によってその次?で)。

バルティスタン北部はカラコルム山脈の山中で、定住住民はほとんどいないが、バルティ人の活動圏内という意味でバルティ語でベッタリ塗った。

バルティ語は、シャヨク川沿いにラダック側ヌブラ方面へ食い込んでいる、とも推測されるが、具体的な調査資料がない。ラダック語ヌブラ方言についてもあまり知識がないので、とりあえず印パ停戦ラインで線を引いた。

パキスタン側の言語分布については、

・Ahmad Hassan Dani (1991) HISTORY OF NORTHERN AREAS OF PAKISTAN. pp.xvi+532. National Institute of Historical and Cultural Research, Islamabad.
・F.M. Khan (2002) THE STORY OF GILGIT BALTISTAN AND CHITRAL. pp.xiv+256. Eejaz Literary Agents & Publishers, Gilgit.

を参照した。

シナー語の分布はチベット語圏(バルティ語/プリク語)に食い込んでおり、この部分ではバイリンガルの住民が多い。東側のシナー語の離れ小島は、いわゆるドクユル('brog yul)である(注7参照)。

ドクユルの分布域に関しては、

・Rohit Vohra (1989) AN ETHNOGRAPHY : THE BUDDHIST DARDS OF LADAKH. pp.189. Skydie Brown International, Luxembourg.

を参照した。

バルティスタン内にはシナー語分布域の飛び地があちこちにあり、もっと複雑な図式らしいが、今回はシナー語がメインではない上に詳しい資料も手元にないので、このような簡略化した図となった。

(注2)
研究対象が主にプリクのみにならざるを得ないインド人学者は、プリク語=バルティ語という立場をとるケースが多い。しかし最近発表されたSharma(2004)では両者を区別しているようだ(内容未見)。

(注3)
・Ang Phinjo Sherpa (1989?) SHERPA NEPALI ENGLISH CONVERSTION AND BASIC WORDS. pp.60. Phinjo Sherpa, Kathmandu.

によれば、シェルパ語(チベット語中央方言に属する、とされる)では、「gnyis(数字の2)」は「ngi」と発音されるという。こういった発音がどの程度の広がりをみせているのか?今のところ私ではとても把握できません。

(注4)
ただしバルティスタンはイスラム圏なだけに、宗教用語を中心にアラビア語→ペルシア語→ウルドゥ語の単語にかなり侵食されています。たとえば、挨拶は「サラーマリコン」「アリコンサラーム」や「フダ・ハフィーズ(さようなら)」、「シュクリヤ(ありがとう)」など。

(注5)
ラダックでも、庶民の間ではチベット文字(というか文字自体)は普及していなかったが、幸い仏教によりチベット文字の伝統は僧侶・上流階級・知識層の間で受け継がれてきた。現在は学校でもチベット文字が教えられ、町にもチベット文字が普及してきている。

プリクではイスラム教が優勢であるため、チベット文字はほとんどすたれている。町で見かけるのも、英語やペルシア文字表記ウルドゥ語がほとんど。

(注6)
今回のエントリーでは、私が現地で聞いた発音に加え、次の文献からも引いています。

・K. Rangan (1975) BALTI PHONETIC READER. pp.xi+115+ii. Central Institute of Indian Languages, Mysore.
・ASADA Yutaka (1981) A Report on the Balti Vocabulary. 大阪外国語大学学報, vol.15[1981], pp.69-90.
・Ghulam Hassan Lobsang (1995) SHORT SKETCH OF BALTI GRAMMAR. pp.VI+50. Universität Bern, Bern(Germany).
・Syed Muhammad Abbas Kazmi (1996) The Balti Language. IN P.N. Pushp+K. Warikoo(ed.) (1996) JAMMU, KASHMIR AND LADAKH : LINGUISTIC PREDICAMENT. pp.135-153. Har-Anand Publications, New Delhi.
・S.K. Pathak (1996) Genetic Affinity of Balti, Bodhi, Spiti & Lahuli Speeches. IN P.N. Pushp+K. Warikoo(ed.) (1996) JAMMU, KASHMIR AND LADAKH : LINGUISTIC PREDICAMENT. pp.154-164. Har-Anand Publications, New Delhi.
・Richard Keith Sprigg (2002) BALTI - ENGLISH ENGLISH - BALTI DICTIONARY. pp.xi+259. Routledge Curzon, London.

Rangan(1975)は、Ichhanさんのご厚意で読むことができました。ありがとうございました。

この他、今回利用できなかった主な文献に次のようなものがあります。

・K. Rangan (1934) BALTI GRAMMAR. The Royal Asiatic Society, London.
・K. Rangan (1979) PURKI GRAMMAR. pp.xvii+158. Central Institute of Indian Languages, Mysore.
・Deva Datta Sharma (2004) TRIBAL LANGUAGES OF LADAKH PART-III : A Descriptive Grammar of Purki & Balti. pp.xx+244. Mittal Publications, New Delhi. → いつ刊行されるのか楽しみにしていたのだが、その後記憶の彼方に去り、刊行済であることを知ったのは最近。よって未見。タイトルを見てわかるように、プリク語とバルティ語を区別して扱っているらしい。

その他、バルティ語研究の文献リストはこちらが詳しい。

・John Peterson : The Bibliography for seldom studied and endangered South Asian Languages! > Bibliography > Tibeto-Burman > Balti
http://www.southasiabibliography.de/Bibliography/Tibeto-Burman/Balti/balti.html

(注7)
一般には「'brog pa」と言えば「牧民」を指すが、ラダックではこの意味の他に、ラダック北西部インダス川沿いの印パ停戦ライン近くに住むコーカソイドで印欧語族ダルド系言語を話す民族をも指す。

ラダック語では「ドクパ/ドロクパ」と呼ばれるが、地元ではプリク語/バルティ語風に「ブロクパ」と発音されることも多い。その「ブロクパ」が住む地域を「'brog yul(ドクユル/ブロクユル)」という。彼らはギルギットから移住して来た、という伝説を持っている。

彼らの言葉ドクケー/ブロクスカット('brog skad)は、ギルギット~チラースに住むシン人(Shina)の言葉シナー語の方言である。彼らの移住伝説が史実であることはその言語からも証明されている。

2009年2月23日月曜日

あむかす 『ラダック語会話テキスト』

前回のエントリーでラダック語会話帳を二つ紹介しましたが、一つ紹介しなかったものがあります(注1)。それがこの

・土屋守・訳(1982) 『あむかす・旅のメモシリーズ no.572 ラダック人が作ったはじめてのラダック語会話テキスト』. pp.121. あむかす事務局, 東京.

紹介しなかったのは、現在入手はまず不可能、という理由からです。が、やはりパイオニアの仕事には敬意を表し紹介すべき、と思い直し、書いておくことにします。

「あむかす」という名は、「Aruku(歩く)+Miru(見る)+Kiku(聞く)+Amoeba(アメーバ)+Shudan(集団)=AMKAS」というのがその由来。主宰の伊藤幸司氏を中心に大学山岳部や探検部のOBが集まり、1975~89年にかけて89冊のガイドブックや紀行本を発行していました。

あむかすシリーズは手帳サイズの小冊子で、本文は手書き、装幀も色厚紙にタイトル・著者名がある程度で、手作り感あふれるシンプルなもの(山岳遠征隊報告書にも似た作りで、同組織の出自がうかがえる)。

「あむかす」という組織やその出版物についてより詳しくは、その伊藤氏のサイトにあるプロフィール

・糸の会・登山コーチングシステム > 伊藤幸司(いとう・こうじ)略歴
http://homepage2.nifty.com/ito-no-kai/302_notes/050211_ito%20koji/050211_koji.html

・アジア文庫 > 前川健一 アジア雑語林(208)2007年12月19日 1970年代のミニコミと建築家
http://www.asiabunko.com/zatugorin201_210.htm

をご覧になるといいでしょう。

あむかすシリーズや近畿日本ツーリスト広報誌「あるく・みる・きく」に発表された記事については、いつかまた書く機会もあるでしょうが、今は先に進みます。

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そのシリーズの一冊として1982年に刊行されたのが、この土屋守・訳 『ラダック語会話テキスト』。

no.501から始まるシリーズ89冊中no.572ですから、シリーズも後半。同シリーズは1984年頃から刊行頻度がぐっと落ちていきます。

名義には訳者の名前しかありませんが、内容はインドの言語学者Sanyukta Koshalが調査・作成したものがもとになっています。土屋氏がラダックでKoshal氏と会い懇意となり、当時刊行のめどが立っていなかったこの会話集の草稿を譲り受け、これに和訳を付して刊行したもののようです。

一方、Koshal氏の著作としてもその後無事に

・Sanyukta Koshal (1982) CONVERSATIONAL LADAKHI. Motilal Banarsidass, New Delhi. → Reprint?: (1983) Asian Humanities Pr.

として刊行されたもよう(未見)。

内容は、「バザールで」など、様々なシチュエーション別に想定会話例を数多く収録したもので、現在ある会話帳のようなマニュアル的な作りではありません。フレーズを棒読みして実際の会話に使う、といった利用はしにくく、内容を理解した上で自力でフレーズを作り出す必要があり、応用力が要求されます。

チベット文字表記-アルファベットによる「音写」-和訳、という構成になっており、本blog的には、アルファベットによる「音写」が貴重です。今はラダック旅行も容易でラダック口語に触れることもそれほど難しくありませんが、1982年当時はラダック口語文法・発音の資料としてはかなり貴重なものであったはずです。

日本では、この資料を活用してくれるラダック語研究者は現れませんでしたが、今に至るも会話例をこれほど豊富に記録した資料は他にないのですから、この本を骨までしゃぶる気になれば、今でも相当使いでがあるはずです。というか、この本はその価値に比して充分活用されていない、もったいない状態が20年以上続いている、という感じでしょうか。

Koshalの著作もなかなか入手困難なだけに、ラダック語に興味を持つ方は一度ご覧になる価値はあります。現在は、国会図書館などごくわずかな図書館に所蔵があるだけですので、こちらにたどり着くのもけっこう大変ですが。

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訳者の土屋守氏は、1970年代後半~80年前後に山岳部あるいはOBとして、チベット~ラダック遠征を繰り返しており、この『ラダック語会話テキスト』の他、『チベット語口語テキスト』も刊行されています(未見)。本書でも手書きのチベット文字が達者でなかなか美しい。

その後、編集者を経てロンドン留学時代にスコッチ・ウィスキーにはまり、現在はスコッチ文化研究所所長/スコッチ・ウィスキー評論家としてご活躍中。

土屋氏の詳しい経歴については、

・スコッチ文化研究所 > 土屋守プロフィール
http://www.scotchclub.org/profile.htm

をご覧下さい。その中で特に注目されるのは、

>厳冬期ザンスカール川遡行(1981)

で、これは厳冬期に凍結した川に沿ってザンスカール~レー間を歩くチャダル・トレックのことで、外国人としてはオリヴィエ・フェルミなどに先駆けて1981年に既に踏破していたとは知りませんでした。

その記録がどこかに発表されているのか、いないのか、わかりませんが、今後調べてみようと思います。

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(注1)
もう一つ、十年以上昔にレーで入手した10ページほどの会話帳小冊子(たしか、小僧さんの英語教育用にリキル寺かリゾン寺で作られたものだったような記憶がある)などもあるのですが、どこに行ったのか出てきません。これも現物が出てきたらタイトルなどを紹介しましょう。

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(追記@2009/03/15)
(注1)でお知らせした会話帳小冊子が出てきました。地図の束の中に埋もれていました。見つからないはずです。

・Punchok Tangais (before 1992) HOW TO SAY IT IN LADAKHI, ENGLISH, FRANCAIS, HINDI. pp.9. Punchok Tangais, Leh.

でした。ラダック語会話帳は6ページだけで、残り3ページは簡単な観光案内がついています。

小僧さんの教育用ではありませんでしたね。でも、リゾン寺にはじめて行ったときに確かそのような小冊子をもらったような気がするんだが・・・。これもどこかに埋もれているかもしれません。いずれまた。

2009年2月18日水曜日

「フォブランだ!」の巻 ~西部チベット語の発音(2)ラダック語~

では、その奇っ怪な発音が横行するラダックに入りましょう。おそらくウー・ツァン方言が達者な人は、かえって自分のチベット語が通じない、とショックを受けるかもしれませんね。

その前に、

まず「ラダック語」か「チベット語ラダック方言」か?という問題ですが、どっちでもいいと思います。チベット語の方言であることを強調する場合、あるいは、ラサからラダックをながめた場合は「ラダック方言」になるでしょうし、国境をまたいでいることを重視する場合、あるいは、インドからラダックをながめた場合は「ラダック語」になるでしょう。

単語・文法・発音の違いを重視して「ラダック語」とするのならば、カム方言やアムド方言も「カム語」、「アムド語」になるはずですがそうはなっていません。理由はたぶん単に「国境をまたいでいないから」。ウー・ツァン方言により近いはずなのに、ブータンの言葉が「ゾンカ語」になるのも変なはずです。

どっちにしろ、これは日本語だけの問題で、チベット語やヒンディ語/欧米語では、la dwags kyi/si skadやLadakhiなど、分類の問題に気を使わないで済む言い回しが一般的ですし。

というわけでこのblogでも文脈に応じて「ラダック方言」になったり「ラダック語」になったりします。

で、やっと先に進めます。

ラダック略地図(地名はこれを参照のこと)

ラダックの中心地レーから南東に約30km、岩山を埋め尽くす建築で人気のある「lce bde/lce 'bre」寺は、ウー・ツァン方言だと「チェデ」ですが、ラダック方言だと「チェムレ」となります。「チェブデ」は発音しにくいので、これが少しなまって「チェムレ」になっている、という感じでしょうか(注1)。

チェムレ寺(いつ見てもカッコイイ)

添前字の「s-」が残る傾向はラダック方言ではポピュラーです。

現王宮がある「stog」が「ストク」(ウー・ツァン方言では「トク」)、街道沿いに目立つ岩山ゴンパ「stag sna」が「スタクナ」(ウー・ツァン方言では「タクナ」)、人名「bstan 'dzin」が「スタンジン」(ウー・ツァン方言では「テンジン」)などなど、実例は山ほどあります。

2月8日今度は「可黎可足って誰?」の巻

> (10)悉諾邏恭禄 [siet nak la kiwong luk]@『舊唐書』、『新唐書』など
> =(dba's)stag sgra khong lod=(バー/エー・)タクタ・コンルー

を思い出して下さい。

stagが「スタク」と読まれていたことがわかります。ラダック語でもその吐蕃時代の読みそのままですね。

添前字「s-」が単語の第二音節にあっても同様のケースがあります(これは他の方言でもよくありますが)。「bde skyid(幸福/人名・地名にもなる)」はウー・ツァン方言では「デキー」。ンガリー方言でも同じです。ところがラダック方言では「デスキット」。地名の「sa spo la」が「サポラ」でなく「サスポラ(サスポル)」となるのも同様。

同じく2月8日のエントリー

> (5)贊悉若 [tsan siet rya]@『舊唐書』など
> =(mgar)brtsan snya(ldom bu)=(ガル・)ツェンニャ(・ドンブ)
> ガル・トンツェンの長男です。「ツェンスニャ」のように発音されていたことがわかります。

を思い出して下さい。これも吐蕃時代そのまま。

この辺がラダック語が「古代チベット語の発音を保存している」とか「西部"古"方言」と呼ばれる所以です。

語尾に子音が残る傾向も顕著。ラダックの奥座敷とも言える「zangs dkar」はラサ方言では「サンカル」ですが、ラダック方言では「zangs」は「ザ」と濁り、さらに語尾の「-s」も残って「ザンス」となります。ただ最近は「サンカル」と発音する人もけっこういました。

「gnyis(数字の2)」は、ウー・ツァン方言では「ニィー」ですが、ラダック語では「ニィース」と語尾に「s」が残る人が多いです。「'bras(米)」は、ウー・ツァン方言では「デー」ですが、ラダック語では「ダス」と、これも語尾の子音が現れてきます。

「gnyis」と「'bras」は、次回のプリク語・バルティ語ではキーになる単語なので、発音を覚えておいて下さい。

「rnam rgyal」は、まあラダック語でも「ナムギャル」ですが、よく聞いてみると語頭の「r-」が少し残り、「ゥナムギャル」のように発音する人もいましたね。

多田等観師のことば「チベット人は口のなかで全部発音するが、一部しか人には聴き取れないんだ」(注2)を実感できる現象です。

ラダックの陽気なおばちゃんたち

レーのバス停でバスを待っているとき、隣りにえらく汚いおじさんがいました。チベット風のチュパ(注3)を着ていたので、ラダックではあまり見かけない服装だなあ、と思い「どこから来たんですか?」と聞いたら「フォブランだ!」と答えが返ってきたので、これには驚きました。

「フォブラン」とは「pho brang」。「宮殿」の意味ですが、ここでは地名。場所はパンゴン・ツォ方面、遊牧民チャンパ(byang pa)の世界(注4)。驚いたのはその場所ではなく発音です。ウー・ツァン方言には「フォ」という音は存在せず、「pho brang」は「ポタン」と発音されます。ラダックにスペル通りの発音が残っている、とは聞いていましたがさすがにこの極端な例にはびっくりしましたね。

ただ、古い時代には「pho」が「フォ」と発音されていたという確実な証拠は、私は知らないのですが。

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主に発音の話をしましたが、単語や文法も違うケースがかなりあります(もちろん共通する要素の方が圧倒的に多いのですが)。

いくつか違っている例を挙げると、

【日本語】
1-「祖父」、2-「祖母」、3-「兄」、4-「弟」
【ウー・ツァン方言】
1-「spo bo(ポー)」、2-「rmo bo(モー)」、3-「co cog(チョチョー)」、4-「'og ma bu(ウォーマー・プ)」(あまり使われない)
【ラダック語】
1-「me me(メメ)」、2-「a bi(アビ)」、3-「a jo(アジョ)」、4-「no no(ノノ)」

【日本語】
1-「麦焦がし」、2-「踊り」、3-「違う」、4-「わずか」
【ウー・ツァン方言】
1-「rtsam pa(ツァムパ)」、2-「zhabs bro(シャーロ)」、3-「ma 'dra ba(メンダー)」、4-「tog tsam(トクツァム)」
【ラダック語】
1-「ngam phe(ンガムペ)」、2-「rtses(ツェス)」、3-「so so(ソソ)」、4-「tsa pig(ツァピク)」

【日本語】 「これは何ですか?」
【ウー・ツァン方言】「'di ga re red(ディ・カレ・レー?)」
【ラダック語】「'i bo ci yin nog(イボ・チ・インノク?)」

ラダック語の「ci(何)」はウー・ツァン方言にも存在していますが、この文脈では使われません。これが古語なのかどうか、私にはわかりかねます。逆にラダック語でも「ga re(何)」も使いますが、こちらはもしかして比較的新しい言い回しか?

(内容に自信がなくなったので、数行カットしました。調べが済むまでしばらくお待ち下さい。@2009/02/19)

【日本語】 「××を下さい」
【ウー・ツァン方言】「×× nang rogs gnang(××・ナンロー・ナン)」
【ラダック語】「×× sal le(××・サルレー)」

これはどちらも敬語表現になるのですが、比較的新しい時代に作られた言い回しでしょうから、双方独自の発展を遂げています。敬語とはいえ、ラダック語の方はぶっきらぼうな言い方に聞こえますね。

ラダックにも、王家や旧貴族など上流階級間で使われる、もっと丁寧な敬語表現がありそうな気もしますが、私は知りません。

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ここではラダック語の性格のごく一部しか紹介しませんでしたが、ラダック語は早くから近代的な手法で研究されてきたので、論文・研究書はかなりあります。ここでは比較的入手しやすいものを挙げておきます

・August Hermann Francke (1901) SKETCH OF LADAKHI GRAMMAR. → Reprint : (1979) Motilal Banarsidass, New Delhi.
・Sanyukta Koshal (1976) LADAKHI PHONETIC READER. Central Institute of Indian Languages. → New Edition : (1996)
・Sanyukta Koshal (1979) LADAKHI GRAMMAR. Motilal Banarsidass, New Delhi.
・Sanyukta Koshal (1982) CONVERSATIONAL LADAKHI. Motilal Banarsidass, New Delhi.
・Deva Datta Sharma (2003) TRIBAL LANGUAGES OF LADAKH PART II. Mittal Publications, New Delhi.

近年だとBettina Zeisler氏が精力的にラダック語のフィールド調査を行っており、論文も多数。

もっと取り付きやすい会話帳としては、

・Rebecca Norman (1994) GETTING STARTED IN LADAKHI. Melong Publications, Leh.
・NGOジュレー・ラダック (2008) 『ラダック語会話帳』. NGOジュレー・ラダック, 東京.

辞書は、

・Helena Norberg-Hodge (1991) LADAKHI - ENGLISH / ENGLISH - LADAKHI DICTIONARY. LEDeG, Leh.
・Abdul Hamid (1998) LADAKHI - ENGLISH - URDU DICTIONARY. Melong Publications, Leh.

などがあります。力作揃いです。

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次回は、ラダック(レー周辺)からさらに西に進み、より奇っ怪な発音が残るプリク(ラダック西部)~バルティスタン(現パキスタン支配下)をみていきましょう。


(注1)
アルファベット表記では「Chemrey」が一般的だが、発音は決して「チェムレイ」ではない。アルファベット音写だと「Chemre」で充分なはずだが、このスペルだと英語話者は「チェムァ」とか「チェマー」などと読んでしまいがちなので、語尾の「レ」をはっきり発音してもらうためにわざわざ余分な「y」を加えたものと思われる。

「khrig se/khrig rtse」=「ティクセ」が「Thiksey」と表記されるケースも同じ理由。

(注2)
・山口瑞鳳 (1987) 『東洋叢書3 チベット 上』. pp.xix+337. 東京大学出版会, 東京.

p.250より。

(注3)
phyu pa/chu pa(チュバ)は、チベットの民族衣装で、厚手のオーバーコート。毛がついたままの羊皮で裏打ちされているものも多い。袖がかなり長い。暑いときは片袖脱ぐのが粋。

チュバを着たドクパ('brog pa=牧民)@ンガリー・ガル・ツァンポ沿い

(注4)
チャンパ(byang pa、「北の人」の意味)は町のラダッキ(ラダック人)よりもモンゴロイドの血が濃く、チベット人そのものの顔をしている。このあたりから、パンゴン・ツォ沿いにルトクを経てチャンタン高原まで近縁の人々・文化が連続していると思われる。20世紀後半、中国支配下のチベットを嫌って越境し、そのまま住みついた人も多い。

2009年2月12日木曜日

余談 : ゲルツェ方言

ンガリー地方のチベット語でも特異な存在が、チャンタン高原上に位置するsger rtse(ゲルツェ/改則)の言葉。このゲルツェ方言は、なんとカム方言の一種と分類されています(注1)。カムの心臓部、四川省のdkar mdzes(カンゼ/甘孜)からは約1200kmのかなた。

私自身はゲルツェにはごく短時間滞在しただけなので、カム方言かどうか私にはわかりません。それに、この辺を通過するときはたいていカムパの商人/ドライバーと一緒のことが多いので、ゲルツェ方言を聞いてもたぶん変だとは思わなかったでしょう(笑)。

カムの西はずれとはどこなのか?はっきりしません。通常は「西蔵自治区・昌都(chab mdo/チャムド)地区の西はずれまで」という印象を持っていますが、その場合、川蔵公路北路沿いだとsteng chen(テンチェン/丁青)あたりまでになります。

しかし、言語学上はカム方言はそれを越えてsnyan rong(ニェンロン/聶榮)、nag chu(ナクチュ/那曲)あたりまでずっと続いていることになっています。

ゲルツェに戻りますが、西(1987)(注2)の図ですと、ナクチュからもずっと離れて、はるか西のゲルツェにカム方言がぽつんと孤立しているように見えます。しかし、

・中華取名網>新聞中心>方言>成分>蔵語分幾個方言区?
http://www.chinaname.cn/article/2008-9/37016.htm

によれば、チャンタン高原上、ゲルツェ~ナクチュ間にあるshan rtsa(シャンツァ/申扎)、dpal mgon (ペルゴン/バンゴン/班戈)あたりの言葉もカム方言だということです。最近の調査で判明したのでしょうか(根拠とする論文名は知りませんが)。

今後調査が進めば、チャンタン高原上ではぞろり全域でカム方言が話されている?ことがわかるのかもしれません。

ゲルツェの歴史というのはあまりわかっていませんが、

・Toni Huber (2005) Antelope Hunting in Northern Tibet : Cultural Adaptations to Wildlife Behaviour. IN A. Boesi & F. Cardi (eds.)(2005) WILDLIFE AND PLANTS IN TRADITIONAL AND MODERN TIBET : CONCEPTIONS, EXPLORATION, AND CONVERSATION. Memorie della Societa italiana di Scienze Naturali e del Museo Civico di Storia naturale di Milano.
also available @ http://www.cwru.edu/affil/tibet/booksAndPapers/Antilope.hunting.in.northern.Tibet.pdf

によれば、ゲルツェの人々は三百年以上前にカムから移住してきた、と語り継がれているそうです。この年代(17世紀頃?)ですと、ガンデン・ツェワンの西チベット~ラダック遠征(注3)、ホル・ギャルポ(注4)の蔵北支配、など、関係を調べるべき事項はかなりありますが、今のところ私にわかっているのはこの辺まで。

なにより、このまま続けるといつまでたってもラダック語の話に行かないので、この話はとりあえずこれでおしまい。

次回こそラダック語の話です。


(注1)
前述の

・瞿靄堂+譚克譲(1983) 『阿里蔵語』. pp.III+409. 中国社会科学出版社, 北京.

で明らかにされた。

(注2)
・西義郎 (1987) チベット語の方言. 長野泰彦+立川武蔵・編著(1987)『北村甫退官記念論文集 チベットの言語と文化』所収. p.170-203. 冬樹社, 東京.


地図 : チベット語方言分布図(西1987を改変)(2009/02/15追記)

試行作です。至って雑な図で、上図のみを基準に何かを論ずるのは避け、必ず原図を参照していただきたい。なお、空白部は「住民が不在」あるいは「チベット語話者が不在」というわけではなく、単に「未調査地域(1987年の段階で方言区分不明)」という意味です。またギャロン(嘉戎)語やグルン語など、チベット語と近縁の言語の分布域も表示していません。また西部チベットに関しては、筆者による見解を加えています。(2009/02/15追記)

(注3)
dga' ldan tshe dbang dpal bzang po(ガンデン・ツェワン・ペルサンポ)は、モンゴル西部からアムドに移住したオイラト・ホシュート部グーシ・ハーン家の一員(ダライ・バートル・ドルジ/別名ドルジ・ダライ・ホンタイジの子でグーシ・ハーンの孫にあたる)。出家しチベットで修行を積んでいたが、ダライ・ラマ五世の命を受けて還俗し、遠征軍司令官として対ラダック戦争(1679~83)を主導した。ラダックが併合していた旧グゲ領(現在のンガリー)を奪取し、さらにラダック深く攻め入った。ラダック軍はカシミールのムガル帝国軍の支援を受け、タシガン(現・中印国境)までチベット軍を押し返したところで講和が成立(旧グゲ領はチベット政府が併合)。

ンガリーには、sog(原義は「ソグド」のことだが、後にはモンゴルをさす)とかhor(古くは甘粛~青海の異民族をさしたが、後にモンゴル、ウイグル、イスラム教徒などをさすようになった)といったモンゴルに関係する地名が多数残っており、これはこのガンデン・ツェワンの遠征軍~その後のチベット政府駐屯軍に関係した地名とみられる。

文献 :
・Luciano Petech (1977) THE KINGDOM OF LADAKH C.950-1842 A.D. pp.XII+191. Isttuito Italiano per il Medio ed Estremo Oriente(IsMEO), Roma.
・武振華・主編(1995) 『西蔵地名』. pp.32+592. 中国蔵学出版社, 北京.
・手塚利彰 (1999) グシハン一族と属領の統属関係. 立命館東洋史学, no.22, pp.41-76.

(注4)
hor rgyal po(ホル・ギャルポ/霍爾王)は、14世紀以降nag chu(ナクチュ/那曲)地方(蔵北地方)一帯を広く支配した王家で、その支配下諸族はhor tsho so dgu(ホル三十九部)と呼ばれた。17世紀以降はグーシ・ハーン王家~チベット政府に従属。

この王家は、元朝皇帝トク・テムル(文宗)[位:1329-32]の弟gu ron o lon thi'i ji(グロン・オロン・タイジ)がこの地方に居を構えたことに始まる、とされるが、元朝の系譜にこの人物らしき名前は発見できない。胡散臭い系譜。

元代、甘粛~青海北部に册封されたチンギス・ハーンの一族はたくさんおり、その中には元朝北帰(1368年)後も明の勢力圏内に留まった者も少なくない。グロン・オロン・タイジもあるいはそのような集団の一員で、何らかの理由でチベットに移住したのかもしれない。などと妄想してみたりするが、実際どうなのか皆目わからない。

文献 :
・格勒ほか・編著(1993) 『蔵北牧民 西蔵那曲地区社会歴史調査』. pls.+pp.4+467. 中国蔵学出版社, 北京.
・手塚(1999) 上述.

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(追記@2009/02/15)
(注2)に「チベット方言分布図」を追加した。

「ソルヂャ・トン(お茶飲めや)」の巻 ~西部チベット語の発音(1)ンガリー方言~

大上段に振りかぶったタイトルになりましたが、ここではその実例をチョボチョボ挙げるだけですので、あまり参考にはならないはずです。

前回紹介したように、チベット語の単体字のスペルは、基字に様々な添字が上下左右にくっつき非常に複雑な構造を持っています。現代チベット語ではその添字の多くが発音されず、また実際の発音もスペルから大きく乖離したものとなっています。

しかし、チベット文字が開発された吐蕃時代には、(すべてではないが)現在よりもスペル通りに近い発音がなされていただろう、と推測されています。というのは前回までのお話。

その古代チベット語に近い発音が今も残っているのが西部チベットです(注1)。その中でも一番東にあたるンガリー(西蔵自治区阿里地区)のチベット語ンガリー方言では、発音・単語・文法ともウー・ツァン方言とそれほど大きく異なりませんが、国境を越えてラダック、そしてプリク、バルティスタンと、西へ行くほどどんどんよりスペルに近い(一聴して奇っ怪な)発音が現れます。

まず現在の西蔵自治区の最西端ンガリー(注2)を見てみましょう。

チベット語ンガリー方言は、チベット語では「stod skad(トゥーケー/「上手(西の)ことば」の意味)」とか、中国語では「阿里蔵語/阿里方言」などと呼ばれます。

ンガリー方言は、言語学上はチベット語中央(ウー・ツァン)方言に分類され、意外なことにウー・ツァン方言とはそれほど違っていません(注3)。

実際接してみても、単語、文法はウー・ツァンと大きく違っているような感じは受けませんでしたね。ラサ方言をベースに作られた会話帳(注4)を使っても違和感は特になし。

ただ末尾子音が消滅したり、ある末尾子音の前で母音がウムラウト化する傾向はウー・ツァン方言ほど明瞭でなく、またスペルに近い発音もかなり残っています(単語あるいは話者によりますが)。

例 : sol ja=お茶(「茶」のていねいな言い方)
ラサ方言→スーチャ
ンガリー方言→ソルヂャ

「ル」はごく弱く、「ゥ」みたいな感じで微妙な差ですが。「ja」は少し濁り「ヂャ」でしたね。

例:sgor mo=お金
ラサ方言→コモ
ンガリー方言→ゴルモ

これも「ル」はごく弱く発音されます。

例:dmar po=赤い/dkar po=白い
ラサ方言→マーボ/カーボ
ンガリー方言→マルポ/カルポ

この辺はわりときっちり「r」を発音していたような気がします。

私はだいたいウー・ツァン方言よりもンガリー方言を聞いたりしゃべったりしてチベット語会話をおぼえた口ですので、チベット語のカタカナ表記の際もそれに倣い(ほぼ無意識に)こういった子音をはっきり表記する傾向があります。それは必ずしも標準的な表記(主にウー・ツァン方言に基づく表記)とは一致しない場合も多いので、その辺ご了承下さい。

グゲ遺跡がある「rtsa hrang」はウー・ツァン方言では「ツァラン」になりますが、現地では「ツァフラン」程度だったような気がします。実際はこの名前よりも「gu ge」=「グゲ(遺跡)」と呼ばれるケースが多いので、この地名はあまり聞く機会がありません。

「rtsa brang」というスペルもあります。これだと「ツァブラン」になり、これを17世紀のポルトガルの宣教師たちは「Tshaparang」と記録しています(注5)。ウー・ツァン方言で読むと「ツァダン」ですが、そういう呼び方は聞いたことありませんね。

中国語の漢字表記でも「扎布譲[za bu rang]」。実際にはあまり聞く音ではないのですが、古来有名な地名なので古風な呼び方がそのまま固定してしまったのかもしれません。「bla brang=高僧の住居(アムドの地名にもある)」をラダンと読まずにラブランという古風な読みで固定しているのと同じように。

一方、ンガリーの南の町「spu hrang」も同じような読みをするはずなのに、こちらは「プラン」ですね。「スプフラン」という発音はさすがに聞きません。

とまあ私が指摘できるのはほんの僅かな例ですが、あと声調がラサほどきつくないこともあって、全体に「なまってる」「どんくさい」印象はあります。まあそれでも、ウー・ツァン方言と極端に違うと感じるほどではないでしょう。

ところが、これが国境を越えてラダックに入るとかなり違いが大きくなってきます。発音だけではなく単語もかなり異なってきます。

日本語方言に当てはめてみると、ラサ方言を標準語とすると、ンガリー方言は北関東弁くらいの違いでしょうか。一方ラダック語になると標準語と津軽弁くらいの差はあるでしょう。

というわけで、次回はラダック語の発音。

これはおまけです。「ンガリーのダウンタウン」(2009/02/15追記)



(注1)
本blogでは、「チベット=現在の中国国内でチベット人(チベット語話者)が住む地域=いわゆる大チベット」の意味で主に使います。つまりウー・ツァン、ンガリ、カム、アムドを含む地域です。

中華人民共和国の行政区分「西蔵自治区」のみをさす場合は「西蔵自治区」あるいは「西蔵」と表すことにします。

「チベット文化圏」という場合は、これに加え「中国国外のネパール・ブータン・インドでチベット系民族(チベット系言語話者)が住む地域」を含みます。しかし、時には「文化圏」を省略する場合もあります。今「西部チベット」と書いたその「チベット」は厳密には「チベット文化圏」の意味になります。


地図 : チベット文化圏の広がり/中国の行政区分/ンガリーの位置(2009/02/15追記)

(注2)
ンガリー=mnga' ris。現・西蔵自治区の最西部。中国の行政区分では阿里地区に当たる。

ンガリーの原義は「mnga'(支配/統治)」+「ris(境界を定める)」で「領土」の意味。643or44年に吐蕃が、西部チベット一帯を支配していたシャンシュン王国を滅ぼした後、吐蕃の植民地・新領土として、この名で呼ばれるようになった。

10世紀に西チベットに落ち延びた吐蕃王家の末裔skyid lde nyi ma mgon(キデ・ニマゴン)が征服した領土は、三子が分割して相続した。この領域をmnga' ris skor gsum=ンガリー・コルスム=「西チベット三領域」と呼ぶ。これはラダック、ザンスカール、スピティ、キナウル東部などを含んだもの。

しかし現在インド領内に入っているラダック、スピティ、キナウルなどはそれぞれの地域名で呼ばれることが多く、単にンガリーと云えば、そういった特徴的なローカル名のない現・西蔵自治区内の西チベットだけをさす場合が多い。

中国語の「阿里地区」と同じとみなしてもいいが、阿里地区北部~東部のゲルツェ(sger rtse/改則)県やmtsho chen(ツォチェン/措勤)県あたりは、もともとンガリーに入っていたのかどうか怪しい。


地図 : ンガリー・コルスムの範囲(2009/02/15追記)

(注3)
チベット語方言の分類には諸説あるが、ここでは

・西義郎 (1987a) チベット語の方言. 長野泰彦+立川武蔵・編著(1987)『北村甫退官記念論文集 チベットの言語と文化』所収. p.170-203. 冬樹社, 東京.

に従う。

ンガリー方言がウー・ツァン方言と同じグループに分類できることを明らかにしたのは、

・瞿靄堂+譚克譲(1983) 『阿里蔵語』. pp.III+409. 中国社会科学出版社, 北京.

西(1987a)の分類もこの調査結果を利用している。なおそのより詳しい内容については、

・西義郎 (1987b) 現代チベット語方言の分類. 国立民族学博物館研究報告, vol.11, no.4[1987/3], pp.837-901+pl.1.

を参照のこと。

(注4)
チベット語会話帳には、

・星泉+浅井万友美(2005) 『旅の指さし会話帳 65 チベット(チベット語)』. pp.128. 情報センター出版局, 東京.
・Sandup Tsering (2002) TIBETAN PHRASE BOOK (3RD EDITION). pp.256. Lonely Planet Publications, Hawthorn(Australia).

など、今は優秀なものがたくさんあるのでお好きなのをどうぞ。

私は昔、『地球の歩き方チベット』の初期版で、坪野和子さんが作った手書きの会話帳にだいぶお世話になりました。

(注5)
・山口瑞鳳(1987)『東洋叢書3 チベット 上』. pp.xix+337. 東京大学出版会, 東京.

p.250掲載のスペル。

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(追記@2009/02/12)
チベット文字「nga」の発音は「鼻濁音の<ガ>」だが、日本語にはこの鼻濁音を表記する方法がありません。

このblogでは「ンガ」と表記しますが、「ン」+「ガ」とはっきり分離しているわけではなく、「これが●●です」とか「年賀」の「が」のような発音。

「nga」と「ga」を区別せず「ガ」と表記する人、「カ゚」と表記する人もいますが、「ンガ」も含めどれも最適とは言い難い上に統一もされていません。ですから「mnga' ris」も、「ンガリー」だったり「ガリー」だったり「カ゚リー」だったりするわけです。

日本語研究の誰か偉い人に鼻濁音を表すよい表記を発明してもらうまで、このバラバラな状況が続くのでしょう。

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(追記2@2009/02/15)
文章だけではわかりにくいと思われる(注1)、(注2)に地図を追加した。また文末のおまけに、ンガリーの人々の写真も追加。

2009年2月8日日曜日

今度は「可黎可足って誰?」の巻 ~漢字による古代チベット語転写(2)~

西部チベットの方言の話に移る前に、せっかくなので、吐蕃時代のチベット語の漢字転写例をもう少し見てみましょう。ほとんどは人名ですが。

(1)邏些 [la sa/la sia]@『舊唐書』、『新唐書』など
=lha sa=ラサ
これはすんなり。

(2)拂盧 [phiuat lu]@『舊唐書』
=phru(ma)=宿営(テント)
現代音は「トゥ」ですが古代音では「プル」だったことがわかります。

(3)棄宗弄讃 [khi tsuong lung tsan]@『舊唐書』
=器宗弄讃 [khi tsuong lung tsan]@『冊府元亀』
=棄蘇農贊 [khi su nuong tsan]@『通典』
これは全部khri srong brtsan=ティ・ソンツェン=ソンツェン・ガンポのことです。

(4)禄東贊 [luk tung tsan]@『舊唐書』
=mgar stong rtsan(yul zung)=ガル・トンツェン(・ユルスン)
吐蕃初期の宰相(blon che=大論)です。氏族名mgarの転写が不完全。

(5)贊悉若 [tsan siet rya]@『舊唐書』など
=(mgar)brtsan snya(ldom bu)=(ガル・)ツェンニャ(・ドンブ)
ガル・トンツェンの長男です。「ツェンスニャ」のように発音されていたことがわかります。

(6)欽陵 [khiem liang]@『舊唐書』、『新唐書』など
=(mgar)khri 'bring(btsan brod)=(ガル・)ティンディン(・ツェンドゥー)
ガル・トンツェンの次男です。「'bring」は「ディン」というより、添足字の「r」が強調され「リン」となっていたようです。この傾向は他の単語でも確認できます。

(7)器弩悉弄 [khi nu siet lung]@『舊唐書』、『新唐書』など
=乞梨弩悉籠[khiat li nu siet lung]@『通典』
=khri 'dus srong=ティ・ドゥーソン
三代目の吐蕃王。ソンツェン・ガンポの曾孫。「キ(クリ)・ドゥースロン」のように呼ばれていたことがわかります。
『通典』は他の史料と違って、独特な漢字を当てているケースが多く、おそらく独自の情報源を利用して編纂されたのでしょう。記事にも変わった情報がかなりあるので要注目の史料です。

(8)麹莽布支 [khiuk mang pu tcie]@『舊唐書』、『冊府元亀』など
=khu mang po rje(lha zung)=ク・マンポジェ(・ラスン)
これはすんなり。khu氏はspu de gung rgyal(注1)時代から宰相を出していた名家だが、宰相在任中に処刑されることがやたら多く、吐蕃時代後期には衰えてしまった。

(9)棄隷[足宿]贊 [khi liei siuk tsan]@『舊唐書』、『新唐書』など
=khri lde gtsug brtsan=ティデ・ツクツェン
四代目の吐蕃王。「gtsug」あたりは中国語が最も苦手な発音でしょう。漢字選びもだいぶ苦労してますね。

(10)悉諾邏恭禄 [siet nak la kiwong luk]@『舊唐書』、『新唐書』など
=(dba's)stag sgra khong lod=(バー/エー・)タクタ・コンルー
対唐戦略で活躍した将軍であり宰相(blon che=大論)。「stag」の添前字「s-」が残り「スタク」のように読まれる傾向は、現在のラダック方言にも残されています。「sgra」はここでも「タ/ダ」ではなく、どうやら「ラ」と読まれていたよう。
氏族名「dba's」の発音は、現在の発音と同じく「エー」だったという説と、吐蕃時代は「バー」だったという説があるようです。

(11)乞黎蘇籠猟贊 [khiat liei su lung liep tsan]@『舊唐書』、『新唐書』など
=khri srong lde brtsan=ティソン・デツェン
五代目の吐蕃王。

(12)可黎可足 [kha liei kha tsiwok]@『新唐書』

さあこれが問題の「可黎可足」です。わかりにくいですね。それもそのはず、これは実は名前の前半分しか写していないのですから。

これはkhri gtsug(lde brtsan)=ティツク(・デツェン)=レルパチェン。吐蕃末期の名君の名前でした。ここでも「gtsug」の表記にえらく苦労してますね。

というわけで、ざっと大昔のチベット語発音を見たところで、次回は、その古くさい発音が現代にそのままタイムスリップしている「ラダック方言」あたりを見ていきましょうか。


(注1)spu de gung rgyalは吐蕃王家の遠祖で「中興の祖」と呼ばれる。父であるdri gum btsan po王が家臣に殺されて一時王家は滅亡したが、亡命先からヤルルン谷に帰り王家を復興した。

2009年2月6日金曜日

「棄宗弄讃って誰?」の巻 ~漢字による古代チベット語転写~

前回「漢字によるチベット語発音の転写は精度が低い」と書きました。その意見に変わりないのですが、利点・功績にも触れないといけませんね。

中国はチベットとの付き合いが古く(6世紀末に始まる)、古代チベットに関しては、外国としては最も古い、そして詳しい情報を大量に残してくれています。

唐代の史料(あるいは唐代の史料を利用した後世の編纂もの)である『舊唐書』、『新唐書』、『冊府元亀』、『資治通鑑』などには、吐蕃時代のチベット語の単語(主に固有名詞)を漢字で転写したものが大量に残されています。

その漢字による転写の記録により、古代チベット語では、現代チベット語では発音されない添字(注1)なども発声し、よりスペルに近い発音をしていたことがわかります。

例えば、吐蕃王「khri srong lde brtsan(ティソン・デツェン)」は、『舊唐書』吐蕃伝では「乞黎蘇籠猟贊」と綴られていますが、これは中国語の中古音では「khiat liei su lung liep tsan=キリェスルン・リェッツァン」となります(注2)。

現代音では「ティ」と発音される「khri」が「キリェ」、現代音では「ソン/ション」と発音される「srong」が「スルン(あるいはスロン)」、あるいはそれらに近い音で発音されていたことがわかります。

例をもう一つ。
古代の氏族名「'bro(ド)」は『新唐書』吐蕃伝では「没盧」、復元中古音「muat(buat)lu=ブル(ブロ)」と推定されています(注3)。

前にも書きましたし、上の例を見ても感じることと思いますが、漢字によるチベット語発音転写はけっして精度が高くありません。それでも古代チベット語の発音を記録してくれているのは、中国史書だけなので、その価値は想像以上です。

実は古代チベット語のように、スペルに近い発音が今も続いている場所があります。それが西部チベット(ンガリ~ラダック~バルティスタン)です。

次回はそんな話で行きましょう。

なお、タイトルの「棄宗弄讃って誰?」ですが、これは復元中古音だと「khi tsuong lung tsan(キ・ツォンルンツァン)」。吐蕃「帝国」初代の王khri srong brtsan=ティ・ソンツェン=ソンツェン・ガンポのことでした。

注釈

(注1)
チベット文字では発音の中心となる基字の上下左右に添前字、添頭字、添足字、添後字、再添後字などがつくものがある。

例:brgyad(ギェー)=数字の8 dbyibs(イプ)=外形


(注2)
長い歴史を持つ漢字はその発音は時代と共に移り変わっている。ところが漢字しか文字を持たない中国では、(漢字とは別の)表音文字で発音を表現する方法を持っていなかった。

そこで、なんとか漢字だけで発音を表現する方法はないかと工夫し、生み出されたのが「反切」という手法。

一つ例を挙げると、

「籠(lung)」は(音字)「盧(lu)」と(韻字)「紅(khung)」の切

と表現するもので、つまり音字「盧(lu)」からは子音(音母)の「l-」を取り、韻字「紅(khung)」からは母音(韻母)の「-ung」を取り、この二つを組み合わせて「lung」という発音を導く。

このように「反切」により発音を表現し、その音韻により漢字を分類した最初の書物が、
・陳彭年ほか(北宋1011) 『広韻』

この「反切」で示される音韻で唐・宋代の漢字発音を復元したものが「復元中古音」。

日本では
・藤堂明保・編(1978) 『学研漢和大字典』 学習研究社, 東京
の復元中古音が有名だが、ここでは
・李珍華+周長楫・編撰(1993) 『漢字古今音表』 中華書局, 北京
のものを用いる。ただし、同書では発音はIPA(国際音声学会 =International Phonetic Association)発音記号で表示されており、Web上での表示に支障があるため、これに近い音価の文字で表した。

(注3)
「'bro」に関しては、研究者によって、現代音「ド(ロ)」で表記する者、(推定)中古音「ブロ」で表記する者、とまちまちだが、それは方針の違いによるもので、どちらかが誤り、ということではない。

これは、現代でも人名や地名などを、現地発音(方言)で表記するか?場所がどこであっても一律ラサ方言(あるいはどこか特定の方言)の発音で表記するか? はたまた、その問題からは逃げてチベット文字(あるいはそのアルファベット転写)だけで表記するか?というテーマとも関係する。→長くなるので後で改めてやりましょう。

2009年2月1日日曜日

本blogでのチベット語・チベット文字の表記

このblogにはチベット語が頻出しますが、その際にチベット文字を他の文字に置き換える「転写(transcription)」という方法で表示します。

最近ではWeb上でチベット文字を表示する手法もだいぶ発達してきたようですが、とっても古いスペックの環境で作っているこのblogでは当面無理です。まあ現在できる範囲でのんびり行きます。

で、その転写ですが、現在業界の主流になっている「Wylie(ワイリー)方式」を使います。

Wylie方式については、

Wikipedia : Wylie transliteration
ウィキペディア: ワイリー方式

などをご覧下さい。

例として本blogのタイトルですと、チベット文字では

ですが、これがワイリー転写方式で「stod phyogs」となるわけです。

ついでに発音の話をしておきますと、日本語や漢字ではチベット文字のスペルを転写する方法がないので、もっぱら発音を写すしかありません。

「stod phyogs」は日本語カタカナでは「トゥー・チョク」、中国語漢字では(人によってまちまちで統一されていませんが)「兌巧」などと転写されます。「兌巧」なんてピンインにすると「dui qiao」ですから、カタカナよりも転写の精度はかなり低いですね。

上の例を見てもわかるように、チベット語ではスペルと発音の乖離が激しくなっています。その上に地方の方言による発音ヴァリエーションもあるので大変です。

この話題を始めるときりがないので今回はこの辺で。

今回の結論は要するに「このblogではチベット文字の表記にワイリー方式を使う」ということでした。

こうなると次回は発音とか方言の話をすることに・・・なりそう?
面倒だなあ・・・

キナウルの歴史(試運転3)

引き続き、試運転用の投稿です。某地域ガイドブック用ボツ原稿より。試運転ですから、わかりにくい用語なども一切補足はしません。今後改訂あるいは削除の可能性大。参考・引用に不適。

↓以下、試運転用投稿・・・

キナウルの歴史

◆民族のるつぼ

インド神話上の精霊「キンナラ(緊那羅)」はキナウル人が尊格化されたものという説がある。

この地域最初の住民はオーストロアジア系ムンダ民族。ムンダ系の血は指定カーストの人々に色濃く残っている。

次に現れるのがキラータ系民族(モンゴロイド)。キナウル語はラーホール諸語などと共にヒマラヤ諸語に分類され、ヒマラヤ南麓のモンゴロイドが話す言語(ネワール語など)と同類。

続いて現れるのはコーカソイド・カース人(Khasa)。インド・アーリア人とは別ルートで中央アジアからインド北西部に入った(紀元前2千~千年紀)人々。下キナウルの人々はカース人の末裔とみられている(言語はキナウル語)。

◆古代(~9世紀)

当初の村落国家の分立状態から、次第に広範囲を支配する豪族「Thakur」が各地に現れる。あちこちに残る高層角塔の砦跡は村落間、タクール間の抗争を物語る遺物。

タクールの中から一歩抜きん出たのがブシェール王。王国の成立は415年といわれる。ガルワールから来訪したバドリーナート(ヴィシュヌ)神が、バスパー谷を手始めに中~下キナウルのタクールを制圧。シムラー丘陵東部のバーナスル王(神)も討伐し広い範囲を統一した。そしてヴァラーナシから招いたプラドゥーマンという人物を王位につけ、自身は神としてカームルーに祠られた。これがブシェール建国神話。当初はカームルーを都としたが、10世紀にサラハン遷都。

古代の西チベットには「シャンシュン」という王国があった。サトレジ川上流のキュンルンに都を置き栄えていたが、644年に吐蕃王国に滅ぼされた。西チベットにもチベット人が移住し始め、人々も徐々にチベット化していく。

◆中世(10~14世紀)

吐蕃王国は842年に滅び、チベットは群雄割拠の時代に入る。920年代、吐蕃王家の末裔キデ・ニマゴンが西チベット一帯を征服しグゲ王国を建てた。この際、上キナウルとスピティはグゲ領となったようだ。

グゲ王国は10世紀末~11世紀末に仏教復興を推進し、多くの寺院を建てた。その指導者は王位を辞して出家したイェシェ・ウー(947-1024)と訳経僧(ロツァワ)リンチェン・サンポ(958-1055)。上キナウルを含む西チベット一帯には当時建立された古い寺院が多数残っており、「108のリンチェン・サンポの寺」として知られる。
隆盛を誇ったグゲ王国だが、12世紀に入ると内紛や異民族の侵略で次第に衰えていく。当時のキナウルの状況もよくわかっていない。

◆近世・近代(15~18世紀)

15世紀に入るとグゲ王国が復興し、上キナウル~スピティには再びグゲ王の権威が及ぶ。そして新興ゲルクパの寺院が盛んに建てられた。

16世紀後半ラダック王国が領内を統一し、急速に勢力を伸ばす。1630年にはグゲ王国を滅ぼしその領土を併合。スピティと上キナウルもラダック領となった。

ブシェール王国は17世紀初、Chattar Singh王が周辺地域を征服し、強力な王権を行使する。

1679年、ラサの新興ダライ・ラマ政権とラダック王国の間に戦争が勃発する(チベット・ラダック戦争)。チベット軍は旧グゲ領を奪取し、ラダック領内に侵攻した。

この際にブシェール王Kehri Singhはチベット軍を支援し上キナウルを占領。1683年の戦争終結後正式に併合。これでキナウル全域がブシェール領となった。ブシェール王国は西チベットとの羊毛貿易権も獲得し、かつてない繁栄の時代を迎えた。

ブシェール王国は18世紀半ばラーンプルへ遷都するが、「Wazir(Bisht)」と呼ばれる大臣たちの専横が著しく、王権は衰えていく。1811~15年、ラーンプル~サラハンはネパール・グルカ軍に占領され、王家は古都カームルーに避難。イギリス軍の援助を得てようやくグルカ軍を撃退したものの、その代償としてイギリスの保護国となってしまう。

◆現代(20世紀~)

19~20世紀になるとブシェール王国は近代化に後れをとりその重要性を失っていった。

第二次世界大戦後、インド独立を受け1948年4月ブシェール王国は他のヒマーチャル諸国と共にインド連邦へ参加。キナウルを含む旧ブシェ-ル領はHP準州マハスー県の一部となった。1960年にはキナウル県が分離。旧ブシェール領西部はシムラー県の一部となり現在に至る。

1962年には中印国境紛争が勃発。これにより国境は閉鎖。チベットとの交易に依存していたキナウル経済は大きな打撃を受けた。キナウルは軍事拠点化され入域禁止となる。外国人旅行者に開放されたのは1993年であった。

1990年代後半にはシプキ・ラ、スムドで対中国貿易が限定的に再開されたが、ごく小規模なものでキナウル経済への影響はまだまだ小さい。

写真1:コーカソイド(カース系)の血が濃い下キナウルの人々
写真2:10~11世紀の仏像@ロパ
写真3:ブシェール王国の古都カームルー

ボン教生かじり(試運転2)


以下の投稿は試運転用のものです。内容は某地域のガイドブック用に作成したものですが、企画自体がボツになりましたので、今後そこからネタが出てくることも多いかもしれません。内容も今後改訂する可能性大です。ですからこれを参考にしたり引用するのは、やめた方が無難です。

↓以下、試運転用投稿・・・

ボン教 Bon(Bon-cho)

ボン教とは、仏教伝来前から存在したチベット古来の宗教。発祥の地はシャンシュン王国(古代西チベット)。アニミズム的な民間信仰・呪術を基礎とし、5世紀以降ヒンドゥー教などの影響を受け教義が整備され吐蕃王国の国教として栄えた。しかし8世紀の仏教伝来を機として衰え始める。9世紀以降仏教古密教の教義と修行体系を取り入れ、15世紀までには仏教と似た教団を形成する。中央チベットのメンリ寺、ユンドゥンリン寺が総本山であったが、ボン教徒はアムド~カムに多かった。

現在のボン教は、僧院で出家僧が修行をし、仏像と似た神像を持つなど、一見仏教と区別がつかない。しかし青い僧衣、仏教の「卍(方向はこの逆/時計回り)」「右遶(時計回り)」「オムマニペメフム」に対し、ボン教では「卍(方向はこの通り/反時計回り)」「左遶(反時計回り)」「オムマティムエサレドゥ」など、微妙な違いがある。

開祖として崇められるのはトンパ・シェンラブ・ミウォ。その伝記にはケサル王伝説や釈迦仏伝の影響が色濃くみられる。

現在のボン教は顕教・密教を備え持ち、儀式、呪術、哲学、論理学、暦学、医学が体系化された総合宗教。ニンマパと共通したゾクチェンという修道法を持ち、埋蔵経典(テルマ)の存在も特異。

現代チベットでは中国政府によりボン教は仏教と共に激しい迫害を受け、1950~60年代にはほとんどの僧院が破壊された。ボン教の高僧たちはインドへ亡命。1969年にドランジにメンリ寺が再建され、ようやくボン教教団の復興が始まった。現在はメンリ寺を中心とし、カトマンドゥのトゥリテン寺などで活発に研究・僧育成が行われている。

写真はドランジ・メンリ寺に祠られているトンパ・シェンラブ像。

blogを開始します(試運転1)

あーあーあー、おいこれマイク入ってんの?
あれ?
あ、もう始まってるの?え?

というわけでblogを開始します。

このblogはタイトル通り、チベット、それも西の方のお話が多くなると思われます。さらに西の方のお話もあるでしょうし、タイトルにこだわらず東へ行ったり北へ行ったり、インドへ行ったり、チベットとは関係ない話をしたり・・・

とにかく興味の赴くままいろんな所へ参りましょう。

ではよろしくお願いします。

以下試運転用の投稿が続きますが、これは今後削除する可能性大です。