2009年2月6日金曜日

「棄宗弄讃って誰?」の巻 ~漢字による古代チベット語転写~

前回「漢字によるチベット語発音の転写は精度が低い」と書きました。その意見に変わりないのですが、利点・功績にも触れないといけませんね。

中国はチベットとの付き合いが古く(6世紀末に始まる)、古代チベットに関しては、外国としては最も古い、そして詳しい情報を大量に残してくれています。

唐代の史料(あるいは唐代の史料を利用した後世の編纂もの)である『舊唐書』、『新唐書』、『冊府元亀』、『資治通鑑』などには、吐蕃時代のチベット語の単語(主に固有名詞)を漢字で転写したものが大量に残されています。

その漢字による転写の記録により、古代チベット語では、現代チベット語では発音されない添字(注1)なども発声し、よりスペルに近い発音をしていたことがわかります。

例えば、吐蕃王「khri srong lde brtsan(ティソン・デツェン)」は、『舊唐書』吐蕃伝では「乞黎蘇籠猟贊」と綴られていますが、これは中国語の中古音では「khiat liei su lung liep tsan=キリェスルン・リェッツァン」となります(注2)。

現代音では「ティ」と発音される「khri」が「キリェ」、現代音では「ソン/ション」と発音される「srong」が「スルン(あるいはスロン)」、あるいはそれらに近い音で発音されていたことがわかります。

例をもう一つ。
古代の氏族名「'bro(ド)」は『新唐書』吐蕃伝では「没盧」、復元中古音「muat(buat)lu=ブル(ブロ)」と推定されています(注3)。

前にも書きましたし、上の例を見ても感じることと思いますが、漢字によるチベット語発音転写はけっして精度が高くありません。それでも古代チベット語の発音を記録してくれているのは、中国史書だけなので、その価値は想像以上です。

実は古代チベット語のように、スペルに近い発音が今も続いている場所があります。それが西部チベット(ンガリ~ラダック~バルティスタン)です。

次回はそんな話で行きましょう。

なお、タイトルの「棄宗弄讃って誰?」ですが、これは復元中古音だと「khi tsuong lung tsan(キ・ツォンルンツァン)」。吐蕃「帝国」初代の王khri srong brtsan=ティ・ソンツェン=ソンツェン・ガンポのことでした。

注釈

(注1)
チベット文字では発音の中心となる基字の上下左右に添前字、添頭字、添足字、添後字、再添後字などがつくものがある。

例:brgyad(ギェー)=数字の8 dbyibs(イプ)=外形


(注2)
長い歴史を持つ漢字はその発音は時代と共に移り変わっている。ところが漢字しか文字を持たない中国では、(漢字とは別の)表音文字で発音を表現する方法を持っていなかった。

そこで、なんとか漢字だけで発音を表現する方法はないかと工夫し、生み出されたのが「反切」という手法。

一つ例を挙げると、

「籠(lung)」は(音字)「盧(lu)」と(韻字)「紅(khung)」の切

と表現するもので、つまり音字「盧(lu)」からは子音(音母)の「l-」を取り、韻字「紅(khung)」からは母音(韻母)の「-ung」を取り、この二つを組み合わせて「lung」という発音を導く。

このように「反切」により発音を表現し、その音韻により漢字を分類した最初の書物が、
・陳彭年ほか(北宋1011) 『広韻』

この「反切」で示される音韻で唐・宋代の漢字発音を復元したものが「復元中古音」。

日本では
・藤堂明保・編(1978) 『学研漢和大字典』 学習研究社, 東京
の復元中古音が有名だが、ここでは
・李珍華+周長楫・編撰(1993) 『漢字古今音表』 中華書局, 北京
のものを用いる。ただし、同書では発音はIPA(国際音声学会 =International Phonetic Association)発音記号で表示されており、Web上での表示に支障があるため、これに近い音価の文字で表した。

(注3)
「'bro」に関しては、研究者によって、現代音「ド(ロ)」で表記する者、(推定)中古音「ブロ」で表記する者、とまちまちだが、それは方針の違いによるもので、どちらかが誤り、ということではない。

これは、現代でも人名や地名などを、現地発音(方言)で表記するか?場所がどこであっても一律ラサ方言(あるいはどこか特定の方言)の発音で表記するか? はたまた、その問題からは逃げてチベット文字(あるいはそのアルファベット転写)だけで表記するか?というテーマとも関係する。→長くなるので後で改めてやりましょう。

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