2009年2月18日水曜日

「フォブランだ!」の巻 ~西部チベット語の発音(2)ラダック語~

では、その奇っ怪な発音が横行するラダックに入りましょう。おそらくウー・ツァン方言が達者な人は、かえって自分のチベット語が通じない、とショックを受けるかもしれませんね。

その前に、

まず「ラダック語」か「チベット語ラダック方言」か?という問題ですが、どっちでもいいと思います。チベット語の方言であることを強調する場合、あるいは、ラサからラダックをながめた場合は「ラダック方言」になるでしょうし、国境をまたいでいることを重視する場合、あるいは、インドからラダックをながめた場合は「ラダック語」になるでしょう。

単語・文法・発音の違いを重視して「ラダック語」とするのならば、カム方言やアムド方言も「カム語」、「アムド語」になるはずですがそうはなっていません。理由はたぶん単に「国境をまたいでいないから」。ウー・ツァン方言により近いはずなのに、ブータンの言葉が「ゾンカ語」になるのも変なはずです。

どっちにしろ、これは日本語だけの問題で、チベット語やヒンディ語/欧米語では、la dwags kyi/si skadやLadakhiなど、分類の問題に気を使わないで済む言い回しが一般的ですし。

というわけでこのblogでも文脈に応じて「ラダック方言」になったり「ラダック語」になったりします。

で、やっと先に進めます。

ラダック略地図(地名はこれを参照のこと)

ラダックの中心地レーから南東に約30km、岩山を埋め尽くす建築で人気のある「lce bde/lce 'bre」寺は、ウー・ツァン方言だと「チェデ」ですが、ラダック方言だと「チェムレ」となります。「チェブデ」は発音しにくいので、これが少しなまって「チェムレ」になっている、という感じでしょうか(注1)。

チェムレ寺(いつ見てもカッコイイ)

添前字の「s-」が残る傾向はラダック方言ではポピュラーです。

現王宮がある「stog」が「ストク」(ウー・ツァン方言では「トク」)、街道沿いに目立つ岩山ゴンパ「stag sna」が「スタクナ」(ウー・ツァン方言では「タクナ」)、人名「bstan 'dzin」が「スタンジン」(ウー・ツァン方言では「テンジン」)などなど、実例は山ほどあります。

2月8日今度は「可黎可足って誰?」の巻

> (10)悉諾邏恭禄 [siet nak la kiwong luk]@『舊唐書』、『新唐書』など
> =(dba's)stag sgra khong lod=(バー/エー・)タクタ・コンルー

を思い出して下さい。

stagが「スタク」と読まれていたことがわかります。ラダック語でもその吐蕃時代の読みそのままですね。

添前字「s-」が単語の第二音節にあっても同様のケースがあります(これは他の方言でもよくありますが)。「bde skyid(幸福/人名・地名にもなる)」はウー・ツァン方言では「デキー」。ンガリー方言でも同じです。ところがラダック方言では「デスキット」。地名の「sa spo la」が「サポラ」でなく「サスポラ(サスポル)」となるのも同様。

同じく2月8日のエントリー

> (5)贊悉若 [tsan siet rya]@『舊唐書』など
> =(mgar)brtsan snya(ldom bu)=(ガル・)ツェンニャ(・ドンブ)
> ガル・トンツェンの長男です。「ツェンスニャ」のように発音されていたことがわかります。

を思い出して下さい。これも吐蕃時代そのまま。

この辺がラダック語が「古代チベット語の発音を保存している」とか「西部"古"方言」と呼ばれる所以です。

語尾に子音が残る傾向も顕著。ラダックの奥座敷とも言える「zangs dkar」はラサ方言では「サンカル」ですが、ラダック方言では「zangs」は「ザ」と濁り、さらに語尾の「-s」も残って「ザンス」となります。ただ最近は「サンカル」と発音する人もけっこういました。

「gnyis(数字の2)」は、ウー・ツァン方言では「ニィー」ですが、ラダック語では「ニィース」と語尾に「s」が残る人が多いです。「'bras(米)」は、ウー・ツァン方言では「デー」ですが、ラダック語では「ダス」と、これも語尾の子音が現れてきます。

「gnyis」と「'bras」は、次回のプリク語・バルティ語ではキーになる単語なので、発音を覚えておいて下さい。

「rnam rgyal」は、まあラダック語でも「ナムギャル」ですが、よく聞いてみると語頭の「r-」が少し残り、「ゥナムギャル」のように発音する人もいましたね。

多田等観師のことば「チベット人は口のなかで全部発音するが、一部しか人には聴き取れないんだ」(注2)を実感できる現象です。

ラダックの陽気なおばちゃんたち

レーのバス停でバスを待っているとき、隣りにえらく汚いおじさんがいました。チベット風のチュパ(注3)を着ていたので、ラダックではあまり見かけない服装だなあ、と思い「どこから来たんですか?」と聞いたら「フォブランだ!」と答えが返ってきたので、これには驚きました。

「フォブラン」とは「pho brang」。「宮殿」の意味ですが、ここでは地名。場所はパンゴン・ツォ方面、遊牧民チャンパ(byang pa)の世界(注4)。驚いたのはその場所ではなく発音です。ウー・ツァン方言には「フォ」という音は存在せず、「pho brang」は「ポタン」と発音されます。ラダックにスペル通りの発音が残っている、とは聞いていましたがさすがにこの極端な例にはびっくりしましたね。

ただ、古い時代には「pho」が「フォ」と発音されていたという確実な証拠は、私は知らないのですが。

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主に発音の話をしましたが、単語や文法も違うケースがかなりあります(もちろん共通する要素の方が圧倒的に多いのですが)。

いくつか違っている例を挙げると、

【日本語】
1-「祖父」、2-「祖母」、3-「兄」、4-「弟」
【ウー・ツァン方言】
1-「spo bo(ポー)」、2-「rmo bo(モー)」、3-「co cog(チョチョー)」、4-「'og ma bu(ウォーマー・プ)」(あまり使われない)
【ラダック語】
1-「me me(メメ)」、2-「a bi(アビ)」、3-「a jo(アジョ)」、4-「no no(ノノ)」

【日本語】
1-「麦焦がし」、2-「踊り」、3-「違う」、4-「わずか」
【ウー・ツァン方言】
1-「rtsam pa(ツァムパ)」、2-「zhabs bro(シャーロ)」、3-「ma 'dra ba(メンダー)」、4-「tog tsam(トクツァム)」
【ラダック語】
1-「ngam phe(ンガムペ)」、2-「rtses(ツェス)」、3-「so so(ソソ)」、4-「tsa pig(ツァピク)」

【日本語】 「これは何ですか?」
【ウー・ツァン方言】「'di ga re red(ディ・カレ・レー?)」
【ラダック語】「'i bo ci yin nog(イボ・チ・インノク?)」

ラダック語の「ci(何)」はウー・ツァン方言にも存在していますが、この文脈では使われません。これが古語なのかどうか、私にはわかりかねます。逆にラダック語でも「ga re(何)」も使いますが、こちらはもしかして比較的新しい言い回しか?

(内容に自信がなくなったので、数行カットしました。調べが済むまでしばらくお待ち下さい。@2009/02/19)

【日本語】 「××を下さい」
【ウー・ツァン方言】「×× nang rogs gnang(××・ナンロー・ナン)」
【ラダック語】「×× sal le(××・サルレー)」

これはどちらも敬語表現になるのですが、比較的新しい時代に作られた言い回しでしょうから、双方独自の発展を遂げています。敬語とはいえ、ラダック語の方はぶっきらぼうな言い方に聞こえますね。

ラダックにも、王家や旧貴族など上流階級間で使われる、もっと丁寧な敬語表現がありそうな気もしますが、私は知りません。

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ここではラダック語の性格のごく一部しか紹介しませんでしたが、ラダック語は早くから近代的な手法で研究されてきたので、論文・研究書はかなりあります。ここでは比較的入手しやすいものを挙げておきます

・August Hermann Francke (1901) SKETCH OF LADAKHI GRAMMAR. → Reprint : (1979) Motilal Banarsidass, New Delhi.
・Sanyukta Koshal (1976) LADAKHI PHONETIC READER. Central Institute of Indian Languages. → New Edition : (1996)
・Sanyukta Koshal (1979) LADAKHI GRAMMAR. Motilal Banarsidass, New Delhi.
・Sanyukta Koshal (1982) CONVERSATIONAL LADAKHI. Motilal Banarsidass, New Delhi.
・Deva Datta Sharma (2003) TRIBAL LANGUAGES OF LADAKH PART II. Mittal Publications, New Delhi.

近年だとBettina Zeisler氏が精力的にラダック語のフィールド調査を行っており、論文も多数。

もっと取り付きやすい会話帳としては、

・Rebecca Norman (1994) GETTING STARTED IN LADAKHI. Melong Publications, Leh.
・NGOジュレー・ラダック (2008) 『ラダック語会話帳』. NGOジュレー・ラダック, 東京.

辞書は、

・Helena Norberg-Hodge (1991) LADAKHI - ENGLISH / ENGLISH - LADAKHI DICTIONARY. LEDeG, Leh.
・Abdul Hamid (1998) LADAKHI - ENGLISH - URDU DICTIONARY. Melong Publications, Leh.

などがあります。力作揃いです。

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次回は、ラダック(レー周辺)からさらに西に進み、より奇っ怪な発音が残るプリク(ラダック西部)~バルティスタン(現パキスタン支配下)をみていきましょう。


(注1)
アルファベット表記では「Chemrey」が一般的だが、発音は決して「チェムレイ」ではない。アルファベット音写だと「Chemre」で充分なはずだが、このスペルだと英語話者は「チェムァ」とか「チェマー」などと読んでしまいがちなので、語尾の「レ」をはっきり発音してもらうためにわざわざ余分な「y」を加えたものと思われる。

「khrig se/khrig rtse」=「ティクセ」が「Thiksey」と表記されるケースも同じ理由。

(注2)
・山口瑞鳳 (1987) 『東洋叢書3 チベット 上』. pp.xix+337. 東京大学出版会, 東京.

p.250より。

(注3)
phyu pa/chu pa(チュバ)は、チベットの民族衣装で、厚手のオーバーコート。毛がついたままの羊皮で裏打ちされているものも多い。袖がかなり長い。暑いときは片袖脱ぐのが粋。

チュバを着たドクパ('brog pa=牧民)@ンガリー・ガル・ツァンポ沿い

(注4)
チャンパ(byang pa、「北の人」の意味)は町のラダッキ(ラダック人)よりもモンゴロイドの血が濃く、チベット人そのものの顔をしている。このあたりから、パンゴン・ツォ沿いにルトクを経てチャンタン高原まで近縁の人々・文化が連続していると思われる。20世紀後半、中国支配下のチベットを嫌って越境し、そのまま住みついた人も多い。

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