2009年2月8日日曜日

今度は「可黎可足って誰?」の巻 ~漢字による古代チベット語転写(2)~

西部チベットの方言の話に移る前に、せっかくなので、吐蕃時代のチベット語の漢字転写例をもう少し見てみましょう。ほとんどは人名ですが。

(1)邏些 [la sa/la sia]@『舊唐書』、『新唐書』など
=lha sa=ラサ
これはすんなり。

(2)拂盧 [phiuat lu]@『舊唐書』
=phru(ma)=宿営(テント)
現代音は「トゥ」ですが古代音では「プル」だったことがわかります。

(3)棄宗弄讃 [khi tsuong lung tsan]@『舊唐書』
=器宗弄讃 [khi tsuong lung tsan]@『冊府元亀』
=棄蘇農贊 [khi su nuong tsan]@『通典』
これは全部khri srong brtsan=ティ・ソンツェン=ソンツェン・ガンポのことです。

(4)禄東贊 [luk tung tsan]@『舊唐書』
=mgar stong rtsan(yul zung)=ガル・トンツェン(・ユルスン)
吐蕃初期の宰相(blon che=大論)です。氏族名mgarの転写が不完全。

(5)贊悉若 [tsan siet rya]@『舊唐書』など
=(mgar)brtsan snya(ldom bu)=(ガル・)ツェンニャ(・ドンブ)
ガル・トンツェンの長男です。「ツェンスニャ」のように発音されていたことがわかります。

(6)欽陵 [khiem liang]@『舊唐書』、『新唐書』など
=(mgar)khri 'bring(btsan brod)=(ガル・)ティンディン(・ツェンドゥー)
ガル・トンツェンの次男です。「'bring」は「ディン」というより、添足字の「r」が強調され「リン」となっていたようです。この傾向は他の単語でも確認できます。

(7)器弩悉弄 [khi nu siet lung]@『舊唐書』、『新唐書』など
=乞梨弩悉籠[khiat li nu siet lung]@『通典』
=khri 'dus srong=ティ・ドゥーソン
三代目の吐蕃王。ソンツェン・ガンポの曾孫。「キ(クリ)・ドゥースロン」のように呼ばれていたことがわかります。
『通典』は他の史料と違って、独特な漢字を当てているケースが多く、おそらく独自の情報源を利用して編纂されたのでしょう。記事にも変わった情報がかなりあるので要注目の史料です。

(8)麹莽布支 [khiuk mang pu tcie]@『舊唐書』、『冊府元亀』など
=khu mang po rje(lha zung)=ク・マンポジェ(・ラスン)
これはすんなり。khu氏はspu de gung rgyal(注1)時代から宰相を出していた名家だが、宰相在任中に処刑されることがやたら多く、吐蕃時代後期には衰えてしまった。

(9)棄隷[足宿]贊 [khi liei siuk tsan]@『舊唐書』、『新唐書』など
=khri lde gtsug brtsan=ティデ・ツクツェン
四代目の吐蕃王。「gtsug」あたりは中国語が最も苦手な発音でしょう。漢字選びもだいぶ苦労してますね。

(10)悉諾邏恭禄 [siet nak la kiwong luk]@『舊唐書』、『新唐書』など
=(dba's)stag sgra khong lod=(バー/エー・)タクタ・コンルー
対唐戦略で活躍した将軍であり宰相(blon che=大論)。「stag」の添前字「s-」が残り「スタク」のように読まれる傾向は、現在のラダック方言にも残されています。「sgra」はここでも「タ/ダ」ではなく、どうやら「ラ」と読まれていたよう。
氏族名「dba's」の発音は、現在の発音と同じく「エー」だったという説と、吐蕃時代は「バー」だったという説があるようです。

(11)乞黎蘇籠猟贊 [khiat liei su lung liep tsan]@『舊唐書』、『新唐書』など
=khri srong lde brtsan=ティソン・デツェン
五代目の吐蕃王。

(12)可黎可足 [kha liei kha tsiwok]@『新唐書』

さあこれが問題の「可黎可足」です。わかりにくいですね。それもそのはず、これは実は名前の前半分しか写していないのですから。

これはkhri gtsug(lde brtsan)=ティツク(・デツェン)=レルパチェン。吐蕃末期の名君の名前でした。ここでも「gtsug」の表記にえらく苦労してますね。

というわけで、ざっと大昔のチベット語発音を見たところで、次回は、その古くさい発音が現代にそのままタイムスリップしている「ラダック方言」あたりを見ていきましょうか。


(注1)spu de gung rgyalは吐蕃王家の遠祖で「中興の祖」と呼ばれる。父であるdri gum btsan po王が家臣に殺されて一時王家は滅亡したが、亡命先からヤルルン谷に帰り王家を復興した。

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