2012年3月31日土曜日

再録:シャーマンの祭り@ラダック・シェイ・シュゥブラ(4) 補足写真3


差し出されるチャン、チャン、チャン


チャンを一気飲みして神託を


ラバに付き添い儀式の進行を司るのはオンポ(占星術師)


シェイタンのチョルテン群で


トゥバ・ゴンパでラバを待ち構える村人たち


見よ、この軽業。そうとう酔っているはずなのに


まわりは拍手喝采、そしてラバはお堂へ入って行きトランスから脱した

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今回発表した内容も、例によって利権を押さえる人々の餌食になってタダ乗りされるだけか、と考えると暗い気持ちになるばかりですが、そうならないことを信じましょう。

2012年3月27日火曜日

再録:シャーマンの祭り@ラダック・シェイ・シュゥブラ(3) 補足写真2


取り巻きに囲まれながら馬に乗り直すラバ


シェイ・ゴンパから池に向かうラバ


池でルへの供養をするラバ

なお、本文では一般読者にわかりやすくするため「ル(klu)」を「龍神」と表現していますが、本当は正しくありません。チベット文化圏では、「蛇神/水神/Naga=ル(klu)」、「龍=ドゥク('brug)」と、はっきり区別されています。


みんな楽しそう


道々、村人へ神託を下していく


道沿いは鈴なりの人で、もう車も通れない状態


だんだん疲れてきた(?)ラバ


ティビ(帽子)からのぞくお下げがかわいい


お祭りでも井戸端会議は忘れない


見よ、ラバの晴れ姿!カッコイイ

2012年3月23日金曜日

再録:シャーマンの祭り@ラダック・シェイ・シュゥブラ(2) 補足写真1

雑誌に発表したもの以外に写真を補足しておきます。


道端でラバの到来を今か今かと待ち受けるシェイの人々


ラダッキおばちゃん(今はラダック帽ティビは祭りのときの盛装としてしか見かけなくなった)


楽士モンに先導され、ドルジェ・チェンモ・ラカンからラバと取り巻きが降りてくる


先導の行列は延々続く


お待ちかねラバの登場


ティビにカタを巻いた盛装の女性たち


馬に乗りシェイ・カル/ゴンパに向かうラバ(目はすでにうつろ)


ラバの行く先々で演奏を続ける楽士モンたち


もう追っかけと化している女性たち


シェイ・ゴンパでの供養を終えて出て来るラバ

2012年3月18日日曜日

再録:シャーマンの祭り@ラダック・シェイ・シュゥブラ(1) 再録エッセイ本文

これは、旅行人 no.115(2001年6月)「特集ラダック」に掲載したエッセイの再録です。

おそらくシェイ(Shey/shel)のシュゥブラ(Srubla/srub lha/収穫祭)を紹介したのは、これが世界初ではないかと思います。発表媒体が超マイナー誌であったため、世間的にはほとんど知られていませんが、その記事を読んでシェイのシュゥブラを目指した旅行者はかなりいるようです。

このエッセイから引用したような文章も結構見かけますが、参考文献として挙げる者は誰もいないよう(相変わらずタダ乗りされまくりなんですな。ラダック関連では不快になることばかり)。

では再録をお楽しみください。後のエントリーで補足を入れます。

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シャーマンの祭り

毎年九月一日から十五日まではジャンムー・カシミール州観光局の主催で、ラダック・フェスティバルが大々的に開かれている。この期間中は、レーをはじめラダック各地の村で連日ポロ、弓くらべ、踊り、歌合戦などが催されている。これはもともと各村々でてんでに開かれていた収穫祭(シュゥブラ)を観光局が日程を調整し統合したものらしい。観客を意識したショー的な要素が年々強くなってきている気がするのは私だけか。

しかし各地にはこれに組み込まれていない祭りも多く、そこではまだまだ素朴な昔のままの姿を止めている。私が訪れたことのあるレー近郊スピトクのシュゥブラは、日頃農作業に家事にと忙しい主婦たちが、無礼講とばかりにチャンを飲み、実に楽しげに歌と踊りに興じていた。そこには観客はなく、真に自分たちを労うためにだけ楽しむ人々の姿があった。


祭りに参加するために着飾って集まった人々

ラダックの古都シェイのシュゥブラもやはりそういった古来の祭りの姿が残る貴重な場所だ。ラダック・フェスティバルには組み込まれておらず、私が出会ったのも偶然だった。こういった祭りは太陰暦に基づいて日付が決められているので毎年日付が変わり、いったいいつ開かれるかを事前に知るのは難しい。二〇〇〇年は九月七日だった。

シェイのシュゥブラではラバと呼ばれる神降ろしが大活躍する。ラバはラダック各地におり、儀式によりトランス状態となり神(ラー)を憑依させ、占いや神託を行ういわゆる「シャーマン」である。ラーは仏教とは関係ない土着の神々であることが多いが、シェイのラーは女尊(この場合は「ラモ」)で、ドルジェ・チェンモという仏教にも組み込まれている尊格(十一世紀の高僧リンチェン・サンポがチベットに導入したらしい)。よく見かけるパンデン・ラモという守護女尊と同体異名の尊格といわれ、事実シェイのお堂ではこの二尊が並んで祠られている。

さて、私が朝バスに乗ってシェイの前を通りかかると、道端に着飾った人々が鈴なり。これは見逃すわけにはいかない。すぐさま飛び降り、おばちゃんを捕まえて話を聞く。で、前述の事情が判明したわけだが、もう今日はここでラバの追っかけ(笑)をやることに決定。

ラバはまず朝早くからドルジェ・チェンモを祠った小堂に入り、村の世話役やオンポ(占星術師)と共に祈祷・儀式を行いこのラモを憑依させる。男性に女尊が憑依するというのはなかなかおもしろい。

大勢の村人と共に冠をかぶり着飾ったラバがお堂から出てくる。意外にしっかりした足取りだが、目はすでにアッチの世界に飛んでいる。睨まれるとちょっと怖い。かといって髪を振り乱したり飛び上がるなどの動作があるわけではなくおとなしいもんである。


馬に乗ったラバ(シャーマン)が村中を練り歩く

馬に乗ったラバはまずシェイ・ゴンパへ向かい、シャカ大仏の供養。お堂の前では楽隊が太鼓を叩いているは、ラバに捧げるカタ(白い絹のスカーフ)を持った村人が鈴なりに並んでいるはで、もう大騒ぎ。この群衆がラバと共に村のあっちこっちと大移動するのだから大変だ。道路はしばしば通行止め状態になる。

次にラバが向かったのは道の横に広がる池。ここでは池に住む龍神(ル)の供養。池にチャン(チンコー麦で作ったどぶろく)を注ぎ村の加護を祈る。一見仏教一色のように見えるチベット文化圏だが、民衆の間にはこういった土着の神々もいまだに息づいているのだ。

ラバは岩山の裏のチョルテン群へと進む。道々、神託を求めてチャンの瓶を差し出す人々に囲まれラバはもみくちゃになる。乗った馬が途中で具合が悪くなるほどの込みあいよう。ラバはその中から随時一人を選び、チャンを受け取り一口二口飲んでは神託を与えていく。のども渇くのだろう、ときどき瓶の半分も一気飲みすることもある。たまにチャンではなくウィスキーを差し出す村人もおり、そんなときはちょっとむせたりするのはご愛敬(笑)。しかし少しずつとはいえ、飲んでいる酒の量は半端じゃあない。大丈夫なのか、特に膀胱の方は?


チャン(どぶろく)をラッパ飲み

岩山の裏では台に乗っかり、来年の作況や出来事に関する神託をひとしきり大演説。皆ラバを囲み聞き入っている。おばちゃんたちの顔はにこやかだったから、きっといい神託が下されたのだろう。一九九九年から二〇〇〇年はラダックには悪い事件が続いたので、今年こそはいい年になってほしいものだ。

演説が終わるとチャンをラッパ飲みしつつ村人への神託が延々一時間も続く。なんともタフな仕事だ。見ているだけのこっちが疲れてしまう。

これが終わると、小学校、シェイタンのチョルテン群を巡り最終目的地トゥバ・ゴンパへ。この寺にもシェイ・ゴンパのものと瓜二つのシャカ大仏が祠られていることはあまり知られていない(こちらの方が古い)。ここでも神託を求める村人に囲まれ、寺へ入るまでには小一時間もかかった。寺ではシャカ大仏、ツェパメ(阿弥陀如来)の供養をこなし、最後のお堂へ。ここにもドルジェ・チェンモを祠ったお堂があり、ここでラモに帰ってもらうのだ。

二階にあるお堂の前はベランダになっていて、なんとラバはその狭い手すりに飛び乗り踊りながら歩き始めた。あれだけ酒を飲んでいるはずなのにこの軽業には群衆からも「おおっ」と歓声が上がる。このベランダからの演説を最後の晴れ姿として、ラバはお堂へと引っ込んで行った。


手すりに飛び乗って踊り歩くラバ

三十分後に疲労困憊といった表情で現れたのは、ただの三十男。先刻まで異様な光を放っていた目もすっかりどんよりとした凡人の目に戻っていた。

お寺の前に集まった群衆はいっこうに帰ろうとしない。それもそのはず、ここではこれから飲めや歌えの宴会が夜遅くまで続くのだ。傍らには露店も出始め、祭りはこれから佳境に入るともいえるのだが、ラバの追っかけですっかり疲れてしまった筆者はそこまではつき合いきれない。早々にシェイを後にした。

ラダックにはこのような素朴かつ奥の深い祭りが、まだあちこちで開かれているはずだ。あなたもガイドブックには載っていない祭りを自分の手で見つけてみてほしい。おもしろい祭りを見つけたら私にもぜひ教えて下さい(笑)。

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(追記)@2012/03/23
シェイ、シュゥブラのアルファベット表記を追加。

2012年3月16日金曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(3) ダライ・ラマ法王TV出演史(2000年まで)-その2

1989年のノーベル平和賞受賞の余波で、どんどんTVに登場するようになる。

ヒラリーのヒマラヤ紀行(全6回) (3)神々のふるさと
1990年秋(45分) NHK教育

制作:ZDF,Germany(1987)
カイラス山やガンジス川などとともに、ダライ・ラマ法王へのインタビューがはさまる。
参考:
・朝日新聞
・I LOVE TIBET
http://www.tibet.to

フリーゾーン2000 ダライラマに聞く戦争と平和
1991年初(45分) CS衛星チャンネル

詳細不明。
参考:
・朝日新聞

土曜フォーラム いま、平和のために何をなすべきか-MRA国際シンポジウムから
1992年初 NHK教育

出演:ハイメ・シン、イナムラ・カーン、ラジモハン・ガンディー、ダライ・ラマ14世、石原俊、曾野綾子、樺山紘一。
詳細不明。会場はインド?。
参考:  
・NHKアーカイブス
http://www.nhk.or.jp/archives/

驚異の超心理世界(全3回)
1993年初 NHK教育

制作:BBC, UK.
ダライ・ラマ法王がちょっとだけ登場するらしい。詳細不明。
参考:
・I LOVE TIBET
http://www.tibet.to

NHKスペシャル チベット死者の書(全2回) (1)仏典に秘めた輪廻転生
1993年秋(75分) NHK総合

語り:緒形拳、道傳愛子。
チベット仏教ニンマパ/カギュパに伝わる枕経『バルド・トゥドル(bar do thos grol)』に基づくドキュメンタリー(1)とドラマ(2)。ビデオ/DVD化。ロケ地はラダック。
ダライ・ラマ法王のインタビューを含む。「自分に死が訪れたときにこれまでの修行の成果が出ることが楽しみですらある」(一部意訳した)という興味深いコメントが残されている。
なお近年発売されたDVD版では法王のさらなるロング・インタビューが収録されているらしい(貧乏で買えないので、詳細は知らない)。
参考:
・NHKアーカイブス
http://www.nhk.or.jp/archives/
・河邑厚徳+林由香里(1993)『チベット死者の書 仏典に秘められた死と転生』. 日本放送出版協会, 東京. → 再発:(1995)NHKライブラリー.

世界ふしぎ発見 シャンバラ伝説を訪ねて チベット仏教の旅
1993年秋(50分) TBSテレビ

制作:テレビマンユニオン
ジェームズ・ヒルトン『失われた地平線』をネタに、ラダックとダラムシャーラーでシャンバラを探す。女性の神降ろしラモ、ティクセ寺の小坊主、ダライ・ラマ法王と会見。

日曜スペシャル オン・ザ・ブリッジ 「ガンと闘う映画監督の記録」
1994年夏 NHK-BS 1
ダライ・ラマ法王の講演を含む。
参考:
・NHKアーカイブス
http://www.nhk.or.jp/archives/

浪漫紀行・地球の贈り物 愛と慈悲 ダライ・ラマのカラチャクラ
1994年夏(30分) TBSテレビ
制作:テレビマンユニオン
1994年7月、インド・ヒマーチャル・プラデシュ州ラーホール・ジスパでのカーラチャクラ大灌頂(ダライ・ラマ法王が主宰)。それに加えてチベット現代史の映像が挿入されている。

世界ふしぎ発見 チベット仏教の旅 輪廻転生の謎を解け
1995年春(50分) TBSテレビ

制作:テレビマンユニオン
1995年1月、南インド・ムンゴットで行われたカーラチャクラ大灌頂(ダライ・ラマ法王が主宰)の映像。
参考:
・TBS世界ふしぎ発見
http://www.tbs.co.jp/f-hakken/
・I LOVE TIBET
http://www.tibet.to

素晴らしき地球の旅 ヒマラヤ花と祈りの民
1997年初(90分) NHK-BS2

制作:ヴァネックス
ラダック西部ダー村に住むドクパ(ダルド系民族)の生活を追う。前半はNHKがあつらえたバスで、1996年夏スピティのタボ寺で開かれたカーラチャクラ大灌頂へ。ダライ・ラマ法王にも拝謁。なお「花の民」という呼び名はテレビ局がつけたもので、地元でそう呼ばれているわけではない。
参考:
・遠藤盛章(2001)『世界の最危険地帯をゆく 国際ビデオジャーナリスト』. 双葉社, 東京..

進め!電波少年インターナショナル
1997年 日本テレビ

つぶやきシローが、用もないのにアポなしでダラムシャーラーのダライ・ラマ法王に会いに行かされる、という失礼な企画(結局会えず)。地元ではかなり不評で、このせいで一時日本人の評判も悪くなった。
参考:
・インダス・ヘリテイジ株式会社
http://www.indusheritage.com

ニュース23 ダライ・ラマ法王インタビュー
1998年春 TBSテレビ

来日中であったダライ・ラマ法王にインタビュー。
参考:
・I LOVE TIBET
http://www.tibet.to

ターニングポイント ダライ・ラマ
2000年初 テレビ朝日

出演:持田香織ほか。
著名人の経歴を概観し、その転機となった事件を取り上げる番組。
今回はダライ・ラマ法王の1959年(24歳)。ラサ蜂起とインド亡命の映像。ダラムシャーラーでのインタビューも。テレビ朝日には珍しく親中ものではない。

ETV2000 ダライ・ラマ 日本人への問いかけ(全2回)
2000年春(45分×2) NHK教育

2000年4月の来日中に、山折哲雄と藤原新也によるインタビュー・対談。講演会の映像もある。
(1)なぜ人を殺してはいけないか
(2)いま宗教は何ができるか

2001年以降は省略。他サイトでお調べください。

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(調査中)

進め!電波少年
1990年代後半? 日本テレビ

松村邦弘が来日中(?)のダライ・ラマ法王にアポなし取材を敢行。予想外に握手に成功。というのだが、日付・事実関係とも、なかなか確認できない。
参考:
・illumina(イルミナ)/ひかりのこどもたち
http://ameblo.jp/hikarino-kodomotachi/

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この他、チベット関連番組にちょっとだけ姿を見せているものなども相当数ありそうですが、なかなかフォローしきれません。

手持ちの録画資料(チベットものだけではないが千番組以上ある)の内容は現在確認できないので(貧乏でTVがないから)、いつかまたアップデイトしましょう。

2012年3月13日火曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(2) ダライ・ラマ法王TV出演史(2000年まで)-その1

ダライ・ラマ法王は1959年にインドへ亡命。1960年、KRテレビによるインタビューで日本のTV初登場。以来7年間、日本のTVには現れなかったが、満を持して1967年に初来日。

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【 1967年 ダライ・ラマ法王初来日 】

1967年、ダライ・ラマ法王は、初の海外渡航にして初来日を果たした。これは仏教伝道協会(浄土真宗系)の招聘によるもの。法王は9月25日~10月10日日本滞在。東京、京都、奈良の寺院を訪問し宗教人と面会。講演会などは開催されず。
なおこの来日は、読売新聞主催「チベット秘宝展」の開催に合わせたもの。この展覧会は亡命政府の文化機関チベット・ハウスが協力していたため、読売新聞は中共政府より抗議を受け、特派員入国拒否というペナルティを食らった。
参考:
・読売新聞社・編(1967)『チベットの秘宝展』. 読売新聞社, 東京.
・週刊新潮編集部(1967)ダライ・ラマの来日 -そのあわただしい招待の周辺-. 週刊新潮, 1967-09-30号.
・ちべ者
http://55tibet.way-nifty.com/tibemono/

ニッポンであいましょう ダライ・ラマ チベットの活仏
1967年秋(40分) 日本テレビ

出演:ダライ・ラマ法王、聞き手:中村元、司会:芥川比呂志。
海外著名人を招き話を聞く月一シリーズの第1回。来日中のダライ・ラマ法王をスタジオに招き、生い立ち、人生観、チベット人の心、日本の印象、科学と宗教などについて語ってもらう。これもまたぜひ発掘してほしい番組。
参考:
・毎日新聞

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その後だいぶ間が開き、次に日本のTVに登場するのは1983年。1978年、11年ぶりの来日ではTV出演は確認できず。

NHK特集 シルクロード第2部 (4)玄奘三蔵天竺の旅
1983年夏(50分) NHK総合

インドで仏蹟と玄奘三蔵の足跡を追う。サールナートでのダライ・ラマ法王による法要に遭遇し、取材に成功する。
参考:
・朝日新聞
・陳舜臣ほか(1983)『シルクロード ローマへの道 第7巻 パミールを越えて パキスタン・インド』. 日本放送出版協会, 東京.

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【 1984年 ダライ・ラマ法王来日 】

1984年5月1~17日、空海入定1150年法要参加のためにダライ・ラマ法王が来日。成田山新勝寺による招聘。法要参加のみで講演などは行われなかった。
参考:
・ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 
http://www.tibethouse.jp/home.html
・木村肥佐生(1984)第十四世ダライ・ラマ来日に際して チベット問題を考える. 世界週報, vol.65, no.19(1984/05/15).

ニュースセンター9時 ダライ・ラマ氏インタビュー
1984年春(10分程度?) NHK総合

インタビューアーは当時当番組のキャスターだった木村太郎か?。政治的な話題も含め近況を聞く。
参考:
・朝日新聞

今週の顔 チベット仏教の心を伝える ダライ・ラマ14世
1984年春(30分) NHK総合

出演:ダライ・ラマ法王、相馬雪香、中沢新一。
こちらは宗教的な話題が中心と思われる。
参考:
・朝日新聞
・ダライラマ+中沢新一(1984)ダライ・ラマ14世 東洋思想と西洋科学を語る. 中央公論, vol.99, no.7(1984/07).
・NHKアーカイブス
http://www.nhk.or.jp/archives/

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このあたりからTV登場の機会が増えてくる。

ニュースセンター9時 ダライ・ラマ法王インタビュー
1986年末(10分程度?) NHK総合

ダラムシャーラーでのインタビューらしい。詳細不明。新聞テレビ欄には表示なし。
参考:
・I LOVE TIBET
http://www.tibet.to

ネイチァリング特別企画 悠久の大地・インド
1987年末(80分) テレビ朝日

出演:小林薫。
カルカッタからガンゴトリーまでガンジス川をたどり、タール沙漠を経て最後はラダックへ。法王もちょっとだけ登場したよう。
参考:
・朝日新聞
・(財)放送番組センター放送ライブラリー
http://www.bpcj.or.jp/
・I LOVE TIBET
http://www.tibet.to

ニュースステーション チベットの生き仏 ダライ・ラマ14世と1万人大法要
1988年秋(10分程度?) テレビ朝日

ザンスカール・パドゥムで行われたカーラチャクラ大灌頂。ダライ・ラマ法王が主宰。
参考:
・朝日新聞

ニュースステーション 秋の特別大紀行 ラダック(全2回)
1988年秋(20分程度?×全2回) テレビ朝日

(1)もう一つのシルクロード ヒマラヤの山々に囲まれた秘境ラダック高地
(2)大自然の中に原色の世界が ヒマラヤの秘境ラダック高地
ザンスカール・パドゥムで行われたカーラチャクラ大灌頂の様子を含み、ダライ・ラマ法王も登場している。
参考:
・朝日新聞

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【 1989年 ダライ・ラマ14世ノーベル平和賞受賞 】

1989年11月、これまでの非暴力平和主義による活動が認められ、ノーベル平和賞を受賞。ダライ・ラマ法王の知名度は、世界的に一気に上昇。TV出演も相次ぐようになる。

ニュースステーション ノーベル平和賞発表
1989年末(10分程度?) テレビ朝日

法王の受賞の第一報。他局でも報道されたはずだが、放映状況は確認できなかった。
参考:
・朝日新聞

ワールドTVスペシャル ダライ・ラマ 亡命の30年
1989年末(45分) NHK総合

原題:Tibet : A Lost Nation
制作:BBC,UK(1989)
ダライ・ラマ法王のノーベル平和賞受賞記念番組。法王の経歴・インタビュー。ダラムシャーラーの亡命政府、ネーチュンの神託、亡命チベット人のインタビューなど。
参考:
・朝日新聞
・NHKアーカイブス
http://www.nhk.or.jp/archives/
・Michael Organ : TIBET ON FILM
http://www.michaelorgan.org.au/tibetfilm.htm
・I LOVE TIBET
http://www.tibet.to

報道特集 波乱の人生 亡命30年でノーベル平和賞 ダライ・ラマをインド奥地に訪ねる
1989年末(30分程度?) TBSテレビ

ダライ・ラマ法王の経歴と、ダラムシャーラーでの暮らしなどを現地取材。
参考:
・朝日新聞
・I LOVE TIBET
http://www.tibet.to

2012年3月10日土曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(1) 1959年ラサ三月蜂起~ダライ・ラマ法王亡命関連番組

用意していたネタは他にあったのですが、3.10ということで、繰り上げて先にこちらをどうぞ。

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2012年2月5日日曜日 今後のアップ予定でお知らせしたように、第二次世界大戦後(から2000年頃まで)のチベット・ヒマラヤに関するテレビ番組を総ざらえする企画を始めます。

調査方法は、新聞縮刷版のテレビ番組表を1953年から毎日順にコツコツ当たり、本・雑誌・ウェブ上で追加調査をする、という実に地味な作業です。典拠をしっかり挙げることに特に注意を払っています。

その第1回目は、1959年のラサ三月蜂起~ダライ・ラマ法王亡命に関する番組です。

1953年に始まったTV放送は当時まだ黎明期。チベヒマ番組はまだ数少ないものの、今では驚くような内容のものも散見されます。

では始めましょう。

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【 1959~60年 ラサ三月蜂起~ダライ・ラマ法王亡命 】

1950年、チベットは中国共産党により「解放」という名の下に侵略・占領された。カム・アムドでは拙速な共産化、農政の失敗によりチベット人の不満が爆発し、各地で蜂起が頻発。難民も大量発生した。ウー・ツァンでは共産化は猶予されていたにもかかわらず、共産化政策はじわじわと進行。1959年3月、ついにラサでも民衆の蜂起が始まった。ダライ・ラマ法王は、チベット民衆と人民解放軍の衝突を回避するべく、ラサから脱出(にもかかわらず、多くのチベット人が虐殺された)。4月にはヒマラヤを越えてインドに入り、チベット亡命政府の樹立を宣言。当初はマスーリー(ムスーリー)に滞在したが、1960年にダラムシャーラー(マクロード・ガンジ)に移動し、本格的な亡命生活に入る。
参考:
・ダライ・ラマ・著, 木村肥佐生・訳(1989)『チベットわが祖国 -ダライ・ラマ自叙伝-』. 中公文庫, 東京.
・ダライ・ラマ・著, 山際素男・訳(1992)『ダライ・ラマ自伝』. 文藝春秋, 東京.

【ラジオ】録音構成 ラマ教の国 ダライ・ラマ
1959年春(25分) ニッポン放送

ラサ三月蜂起~ダライ・ラマ法王のインド亡命で注目が集まっているチベットを紹介。チベットの歴史・仏教・風俗など。法王自身が登場している可能性はないだろう。
参考:
・朝日新聞

TVルポ チベット国境
1959年夏(40分) 日本テレビ

産経新聞記者・野田衛がシッキムで取材。ラサ三月蜂起~ダライ・ラマ法王亡命の波紋を、国境を隔てて探る。注目の報道番組。さすがにチベット本土に入ることは不可能だった。現地の映像・スライド、多田等観のインタビュー(うわー見たい)、当時来日中だったカムパ貴族ロサン・ゲリの主張も放映。
参考:
・読売新聞

世界みたまま シッキム王国に招かれて
1959年夏(25分) NHK総合

同じく野田衛・記者の取材報告。
参考:
・朝日新聞

陛下と共に シッキム王国
1959年夏(30分) 日本教育テレビ(現・テレビ朝日)

出演:ペマ・チョキ、鷹司和子(昭和天皇第三皇女)ほか。
ペマ・チョキは、当時のシッキム王タシ・ナムギャルの長女で、チベット政府高官ゴンポ・ツェリン・ヤプシー・プンカンの妻。シッキムは当時まだ独立国。来日の目的は表敬訪問というのが表向きだが、実はダライ・ラマ法王の日本居住の可能性を探っていたようだ。
参考:
・朝日新聞

報道特集 失われたチベット ダライ・ラマ会見記
1960年春(30分) KRテレビ(現・TBS)

KRテレビ+ラジオ東京報道班がダライ・ラマ法王の初TV/ラジオ取材に成功。当時の避難先マスーリー(ムスーリー)でのインタビュー。日常生活、人生観、これからの道などを語る。チベット難民の生活も紹介。
亡命1年後にして早くもTVに登場。若き日の法王の映像は貴重なので、TBSはこの映像をぜひ発掘してほしい。次にダライ・ラマ法王が日本のTVに登場するのは1967年になる。
参考:
・読売新聞

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というわけで、次回は「ダライ・ラマ法王TV出演史(2000年まで)」です。

2012年3月5日月曜日

ハルハ・ジェツン・ダムパ・リンポチェ遷化(2012年3月1日)

このニュースは野村正次郎さんのTwitter
http://twitter.com/#!/shojironomura

で知ったものです。

リンポチェの遷化に際し、深く哀悼の意を表します。

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まずはこの方がどういう人物か、例のヒマーチャル・ガイドブックのボツ原稿を使って簡単に紹介してみましょう(注)。とはいえ、私は個人的にはリンポチェとは面識もありませんし、特に関係があるわけではありません。

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ハルハ・ジェツン・ダムパ・リンポチェ9世(khal kha rje btsun dam pa rin po che)
チョナンパ(jo nang pa)の高僧ターラナータ(rje btsun tA ra na thA kun dga' snying po、1575-1635)は、チベット仏教のモンゴル布教の嚆矢となった一人。

ターラナータ没後、モンゴル王族ザナバザル(Zanabazar)がその転生者として認定され、ジェブツン・ダムパ・フトクト(1世、1635-1723)と呼ばれた。ジェブツン・ダムパ1世はゲルクパに改宗し、外モンゴル最高位のラマとなる。3世以降は代々チベット人から転生者が選ばれ、現ウランバートルのガンダン寺を本拠地とした。

1911~19年、清朝滅亡を機に外モンゴルは一時独立。8世(1870-1924)は皇帝ボグド・ハーンとして推戴された。1921年、社会主義政権が誕生した際にも再び元首として迎えられたが、1924年逝去。以後モンゴルでは仏教は弾圧され、8世の転生者が選ばれることはなかった。

一方1935年頃、チベットでは密かにジャンペル・ナムドル・チューキ・ギェンツェン('jam dpal rnam grol chos kyi rgyal mtshan、1932-2012)をジェ(ブ)ツン・ダムパ9世として認定。9世はカーラチャクラ・タントラの成就者として知られた。1959年にインド亡命。

1990年社会主義体制が崩壊したモンゴルでは仏教が復活。ダライ・ラマ法王は、これを機に9世の存在を公表。9世は1999年モンゴルを訪問しガンダン寺で歓迎を受けた。しかしモンゴル国内では正式に認知されておらず、当分はチョナン寺での活動が主となるだろう。

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チョナン・ゴンパ(jo nang dgon pa)
正式名称は、チョナン・タクテン・プンツォク・チューリン(jo nang rtag brtan phun tshogs chos gling)。インドでは唯一のチョナンパ僧院。Shimla近郊Sanjouliにある。町から山手に入るとチベット人居留地とゴンパ。

チベット・ツァン地方の元チョナンパ総本山(現ゲルクパ)プンツォクリン・ゴンパ(phun tshogs gling dgon pa)の再建版(本土の寺も復興している)。

当初ゲルクパの寺であったが、1997年ダライ・ラマ法王がチョナンパの伝統復興を提唱。ジェツン・ダムパ・リンポチェを座主とし、インドでは唯一のチョナンパ僧院となった。50名の僧が在籍。拝観料はお布施で。

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以上は2000年ごろ書いたもので、その後の変化については最近全く追跡していませんでした。それでこの訃報を知ったという状況。

訃報を伝えるサイトを紹介しておきます。

・Central Tibetan Administration > News > Obituary: His Eminence the Ninth Khalkha Jetsun Dhampa
http://tibet.net/2012/03/01/obituary-his-eminence-the-ninth-khalkha-jetsun-dhampa/

・Tibet Sun > News Archive > Jetsun Dhampa Rinpoche passes away in Ulan Bator
http://www.tibetsun.com/archive/2012/03/01/jetsun-dhampa-rinpoche-passes-away-in-ulan-bator/

・Phayul.com > news > H.E. the Ninth Khalkha Jetsun Dhampa passes away
http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=30990&article=H.E.+the+Ninth+Khalkha+Jetsun+Dhampa+passes+away&t=1&c=1

・Voice of America News > Exile Tibetan Administration Mourns Demise of Khalkha Jetsun Dhampa
http://www.voanews.com/tibetan-english/news/Exile-Tibetan-Administration-Mourns-Demise-of-Khalkha-Jetsun-Dhampa-141038783.html

・Times of India > Dalai holds prayers for head of Jonang tradition
http://timesofindia.indiatimes.com/india/Dalai-holds-prayers-for-head-of-Jonang-tradition/articleshow/12130344.cms

最後にリンポチェの公式サイト。遷化後は更新されていないようです(2012年3月4日現在)。

・H. E. the Ninth Jetsun Dhampa
http://www.jetsundhampa.com

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私がこの方に興味を持ったのは、チベット-モンゴル関係史からであるのは言うまでもありませんが、近年はヒマーチャル・プラデシュ州Shimlaで活動されていたからでもあります。例のガイドブック関連ですね。

Sanjouliのチョナン寺にも行ったことがあります。当時はまだゲルクパの寺でSangye Choling(sangs rgyas chos gling)という名でした。居留地としてはあまり活気はなく、寺も閑散としていました。それがチョナンパ僧院となってからは活況を呈している、とは聞いていましたが、リンポチェのモンゴル移住、そして遷化後はどうなるのでしょうか。

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リンポチェは、モンゴル側の知らない間(社会主義時代)に認定された方であるため、モンゴルでは支持と不支持は半々くらいだ、と聞いています。モンゴル訪問時に色々と問題が発生したり、その前にはトゥヴァやカルムイクをも訪問したりと、何かと話題の多い方でもありました。

モンゴル国籍を取得し移住もしていた、という事実も知りませんでした。ご本人としては、チョナンパ復興よりもモンゴルの方に魅力を感じていたのでしょうか。それにしても、まさに波乱の晩年と言っていいでしょう。

数年後には転生者が選ばれるはずですが、何かと問題の多い転生者選びですけど穏便に進めばいいな、と期待します。また、今回のリンポチェの遷化が、チベット-モンゴル関係について振り返って考える機会になれば、とも思います。

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最後に再び、深く哀悼の意を表します。

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(注)
これは最終稿の二歩手前くらいの状態。それを若干修正したものを載せています。原版はこの十倍くらいの分量なのですが、参考文献リストが完全なものになっていないので、今回は短縮版で。そういうわけで、文献リストも省略させていただきます。

「短縮版なら文献リストは要らないのか?」という疑問をお持ちかもしれませんが、自分の文章としてこなしてある、ということで、今回はご容赦ください。

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(追記)@2012/03/06
その後見つけた訃報記事を2つ。1つはモンゴル発、もう1つは中国発。

・Infomongolia > His Holiness the IX Bogd Jebtsundamba has passed away
http://www.infomongolia.com/ct/ci/3399/

・The China Hotline > 9th Bogd Khan Passes Away
http://thechinahotline.wordpress.com/2012/03/04/9th-bogd-khan-passes-away/


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(追記2)@2012/03/07
チョナン・ゴンパの公式サイト

・Jonang Takten Phuntsok Choeling Monastery Shimla
http://www.jonangmonasteryshimla.com/

2012年3月4日日曜日

ヒマーチャル小出し劇場(4) 名峰リウォ・プルギャル

キナウル・ナコ村の背後にそびえる美しい双耳峰が、リウォ・プルギャル(ri bo spu rgyal)北峰・南峰。ヒマーチャル・プラデシュ州の最高峰です。

地図上では、北峰はリオ・プルギャル(Leo Purgyal/li'o spu rgyal)、南峰はリウォ・プルギャル(Reo/Riwo Purgyal/ri bo spu rgyal)と紛らわしい名前となっていますが、もともとri bo spu rgyalというひとつの山名だったのが、誤記によって二つに分かれてしまったものです。

インド・中国の国境未確定区域ですが、現状はインドの実効支配下にあり、実際に紛争が起きたことはありません。

この山は、土着神プルギャル神の在所として上キナウル一帯で崇められてきました。チベット史好きとしては、吐蕃王家の氏族名spu rgyalと同名であることに気を引かれますが、両者はいったいどういう関係にあるのか、今のところわかりません。

2012年3月3日土曜日

ヒマーチャル小出し劇場(3) タシ・ポン(絵師タシ・ツェリン)

2001年当時、キナウルでは僧院壁画のリニューアル・ブーム。どれもが極めてハイレベルで、目を見張るものがありました。人気の題材はシト(zhi khro/寂静・忿怒)百尊曼荼羅。

そのことごとくを描いたのが、今回紹介するタシ・ポン(Tashi Pon/bkra shis dpon)=絵師タシ・ツェリン(bkra shis tshe ring)。生まれは上キナウル(Hangrang/hrang trang)のチャンゴ(Chango/byang sgo)。出会った際は、新築チョルテンの装飾作業中でした。



彼が描いたシト百尊は、色彩、尊様の細やかさ、配置の巧みさ、装飾の豪華さ、どれをとっても近年のチベット仏教絵画ではピカ一の作品。そのあまりの見事さに目は釘付けで、一歩も動けなくなりました。

タシ、ごめんよ。君のことを日本に紹介できぬまま、あれから十年経ってしまったよ。いつか日本に来て、技を披露してもらおうと思っていたのだが・・・。

誰かタシを日本に呼んで、シト百尊を描かせたいという方はいないものか。腕はこの通り保障します。



2012年3月1日木曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(36) おわりに

「『ブルシャスキー』の語源は何か?」というテーマひとつで、あちこち寄り道しながらボロル/ブルシャとチベットの関係を長々と述べました。最初は3回くらいの予定で始めたのですが、あれよあれよという間に増殖し、ここまで来てしまいました。両者の関係は意外に深いことを理解していただけたなら、うれしいのですが。

もちろんこれは、チベット側から眺めたギルギット/フンザ像であり、ギルギット/フンザの歴史・文化を網羅するものではありません。カラコルムの中のギルギット/フンザ、イスラム側から眺めたギルギット/フンザはまた違った姿を見せるはずです。

本シリーズ中には、なじみのない固有名詞がバンバン出てきて取っつきにくいと感じたかも知れません。しかし、これらの固有名詞は今後も当blogで頻出するはずです。それぞれの固有名詞を全部いちいち立ち止まって詳しく解説していると、注釈が膨大な量になり永遠に終わらないので、この後のエントリーでおいおい解説していくことになるでしょう。

それにしても、私はフンザには今まで一度しか行ったことがなく、それもたった2泊3日の滞在でしかないのに、ここまで長々と付き合うことになるとは思いませんでした(文献上でですけど)。

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ギルギット、フンザ、バルティスタンなどカラコルム諸国の歴史についてはよい邦文書がありません。ギルギットで発見された仏典写本、唐の西域経営史の一幕としての「高仙芝の小勃律遠征」がわずかに取り上げられる程度で、その後の歴史について、日本の歴史研究者で興味を持つ人はほぼ皆無です。

唯一、登山家の故・広島三朗(みつお)さんが、自著や訳書で丁寧に歴史に関する注釈を入れてくれていますが、それでも断片的なもので全体像をつかむのは難しい状況です。

・広島三朗 (1979) 『ヒンズークシュ真っただ中 シルクロード南3000キロの旅』. pp.227. 講談社, 東京.
・R.C.F.ショーンバーグ・著, 広島三朗・訳 (1985) 『オクサスとインダスの間に 中央アジア探検紀行』. pp.299. 論創社, 東京. ← 英語原版 : Reginald C. F. Schomberg (1935) BETWEEN THE OXUS AND THE INDUS. Martin Hopkinson, London.

なお、広島さんは「地球の歩き方」シリーズの中でも名著の誉れ高い「パキスタン」編の著者でもありました。広島さん亡き後の現ヴァージョンは、ページ数も中身もすっかり薄くなってしまいましたが。

この地域の歴史研究書としては、

・Ahmad Hassan Dani (1991) HISTORY OF NORTHERN AREAS OF PAKISTAN. pp.xvi+532. National Institute of Historical and Cultural Research, Islamabad. (改訂版も出ているようだ)

が最良の書ですが、日本では同地域の研究者が手薄なせいもあり、この本の知名度もきわめて低い状態です。誰か翻訳してくれないものでしょうか。

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それ以前に、カラコルム地域とは関係が深く、それらの歴史研究の基礎ともなっている「カシミール史」が日本では軽視されているのも困りものです。「カシミール略史」なども今後のエントリーでやってみたいところですが、まあできる範囲内で・・・。

といったところで、ようやくこのシリーズに幕を降ろしましょう。