2012年5月4日金曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(4) 1959年のシッキム留学

1950~60年代のチベット・ヒマラヤ番組を調べていて意外だったのは、ブータンおよびシッキムに関する番組が思いのほか多いこと。ブータン番組は別の機会に譲るとして、今回紹介するのはシッキムについての番組。


シッキム(Sikkim/འབྲས་མོ་ལྗོངས་/'bras mo ljongs)は1975年にインドに併合されてしまいましたが、それまでは王国として独立していました(インドの保護国ではあった)。インド/チベットにはさまれたヒマラヤの小国として、ネパール、ブータンと似たポジションでした。

そのシッキムに1959年、半年間留学した日本人がいたのです。それも女性。その方をフィーチャーした番組がこれです。

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シッキムから帰って
1959年秋(20分) 日本テレビ
出演:和田若菜(早稲田大学生、25歳)。
和田さんは1958年、アルバイト先のホテルで来日中のシッキム王国ペンデン・トンドゥプ・ナムギャル(དཔལ་ལྡན་དོན་གྲུབ་རྣམ་རྒྱལ་/dpal ldan don grub rnam rgyal)皇太子(後に国王)と知り合った。翌1959年シッキムに招待され、2月から半年ほど国営チベット学院の留学生として滞在。主に教育制度について見て回った。番組では、滞在中の体験やシッキムの教育について語ったものと思われる。
参考:
・朝日新聞.
・和田若菜(1959)女子学生・ひとり中印国境を行く シッキムの教育事情見聞記. 朝日新聞1959/11/18夕刊.

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1959年といえば、ラサ蜂起~ダライ・ラマ法王亡命という大きな事件があった年です。2012年3月10日土曜日 チベット・ヒマラヤTV考古学(1) 1959年ラサ三月蜂起~ダライ・ラマ法王亡命関連番組 で紹介した産経新聞記者の報道も、チベット本土には入れないので、シッキムでその余波を観測する、というものでした。チベットの政治・文化を知る上で、当時のシッキムは今では考えられないほど重要なポジションにあったのです。

和田さんの留学はその事件とは関係はないものの、当時の騒然とした空気を近くで感じることのできた貴重な日本人の一人です。新聞寄稿記事にはこの事件に関する記述はわずかですが、紙面の制限上書けなかったことや意識的に避けた内容もあったと推測します。それよりもやはり、和田さんの興味の中心が教育制度にあったことは間違いないでしょうが。

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和田さんをシッキムに招いたペンデン・トンドゥプ皇太子とは、のちの国王。そう、米国人女性Hope Cookeを王妃に迎え、また独立シッキム最後の王となった方です。

1958年、皇太子の来日目的は日本産業の視察、とのこと。当時、ホテルの電話交換手としてアルバイトをしていた和田さんが皇太子の買物を手助けし、「シッキムに一度行ってみたい」と軽く漏らしたところ、意外にも1959年1月に招待状が送られてきて留学の運びになったようです。

当時はUS$1=360円、外貨持出額にも制限があったはずです。その中で未知のシッキムに半年間女性一人で向かうとは、その行動力と決断力には驚くばかりです。招待状を受け取って翌月には出発という早業にも驚きです。

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ガントク(Gangtok/སྒང་ཏོག/sgang tog)郊外のチベット学院(チベット学研究院/Namgyal Institute of Tibetology/རྣམ་རྒྱལ་བོད་ཀྱི་ཤེས་རིག་དཔེ་མཛོད་ཁང་/rnam rgyal bod kyi shes rig dpe mdzod khang)留学生ということですが、和田さんはシッキム語(チベット語シッキム方言/འབྲས་ལྗོངས་སྐད་/'bras ljongs skad)やレプチャ語が話せるわけではないので、チベット学やシッキム民俗を研究したのではありません。チベット学院自体も創設されたばかりで、みるべき資料はほとんどなかったといいます(現在は充実)。

和田さんは、ガントク周辺を中心として、小中高、そして大学の教育事情を見て回りました。寄稿記事の内容も、大半はその教育制度についてでした。

教育問題というのは生モノです。教育事情も今では大きく変化していますし、何よりも国がなくなりインドに併合されているのですから、教育の方向性も根本から変化してしまったでしょう。その記事の内容も今では古びてしまいました。しかし当時の政情や、現在は失われた習俗など、今でも価値の高い情報も未発表のままたくさん保持しておられるのではないか、と推測します。

和田さんに関する資料は、前述の新聞記事しか見つかりません。1959年のシッキムですから、記事一本だけではもったいない。もっといろいろなことを知りたい読者は、たくさんいるはずです。今からでも遅くありませんから、機会があればぜひ何らかの形で発表していただきたいものです。

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和田さんは、1959年に25歳ということは現在78歳。もしお話を聞くとすればなるべく早い方がいいでしょう。いや、水木サンのように90歳以上まで長生きしていただければ、チャンスはまだいくらでもありますが。

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(追記)
1950年代にシッキムを訪れた日本人としては、中根千枝先生の方が有名です。1953~56年(細かくは知らない)のことでした。

和田さんのシッキム留学があまり注目されなかったのは、もしかすると中根先生のインパクトが強すぎたのかもしれません。

中根先生のシッキム訪問・研究については、

・中根千枝 (1958) Sikkimにおける複合社会(Lepcha,Bhutia, Nepalee)の研究. 季刊民族学研究, vol.22, no.1+2[1958/03], pp.15-64.
・中根千枝 (1959) 『未開の顔・文明の顔』. 中央公論社, 東京. → 再発: (1962)普及版. 中央公論社, 東京./(1970)中央公論社, 東京./(1972)角川文庫, 東京./(1990)中公文庫, 東京.

を参照して下さい。

2012年5月1日火曜日

ヒマーチャル小出し劇場(7) プーッ!

プーッ!













でも場所はプー(Puh/སྤུ་/spu)ではありません。

よし、これで小出し劇場に戻ったぞ。

2012年4月28日土曜日

ヒマーチャル小出し劇場(6) インドのリンツァン

以前、ラダック/フンザなどのケサルについて書きました。そのときにはカム・リンツァンのケサル王については触れませんでしたが、そちらはいずれ詳しく書くつもりです。

リンツァンおよびその周辺から亡命した人たちが作った居留地がインドにあります。それがデーラー・ドゥーン郊外にあるこのカム・リンツァン居留地。

ここはヒマーチャル・プラデシュ(HP)州ではなく、東隣りのウッタラーンチャル州になるのですが、同州の西はずれに位置しHP州にごく近いので、この項目で触れてもいいでしょう(ヒマーチャル・ガイドブック没原稿にも入れていました)。

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ケサル王の故郷から来た人々だけに、小学校も「Ling Gesar School」という名。

人口は250人ほどとごくごく小さい村なのですが、僧院がなんと3つもあります。実にチベットらしい光景。

まず、サキャパ支派ンゴルパの総本山ンゴル・ゴンパ(のインド版/ンゴル・マゴン)。続いてカルマ・カギュパのリンツァン・カルマパ・ゴンパ。そしてボン教僧院ザ・モンギャル・ゴンパ。

ンゴル・マゴン













村の真ん中には巨大なナムギャル・チョルテンがそびえています。はためく大量のタルチョの下、老人たちがグルグルとコルラ。故郷への望郷の思いをひしひしと感じました。
ナムギャル・チョルテン
















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小出し劇場のはずなのに、なんだかじわじわと文章量が増えてるな。

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(追記)@2012/05/03
リンツァン居留地の方によるblogがありました。

・Kunzang Dorjee Barling / Tibetan Kham Lingtsang Society
http://lingtsang.blogspot.jp/ 

2012年4月24日火曜日

全くもって失礼なチベット珍本 『動乱の曠野』 の巻(2)

さて、『動乱の曠野』の「第4話 最後の秘教」のあらすじを紹介すると・・・

と、その前に、チベット・ファン、ダライ・ラマ法王ファンは怒らないでね。それから著者もすでに亡くなって久しいので、関係者に怒りをぶつけたりもしないでね。

では行きましょう。

と思いましたが、ネタばれを嫌う方もいることでしょう。あらすじはコメント欄に入れておきます。では、あらすじを読みたい方はそちらでどうぞ。

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(しばらくお待ちください)

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えー、あらすじをお読みになりましたか?そういうお話です。

なんとも電波少年なみに失礼な話ですが、当時はチベットなど遠い遠い世界。ダライ・ラマ法王についても、実在の人物という認識はあるものの「遠い国の偉い人」程度で、おとぎ話の登場人物と大差ない扱いだったのでしょう。

実在の同時代人について、これだけ事実と異なるストーリーを与えておきながら、「ドキュメンタリー」と称して許されていたのですから、おおらかな時代だったんですねえ。

風俗小説家としては濡れ場を入れるのは義務みたいなものですから当然のように出てきます。しかし、その描写は至ってソフトなもので、それほど不快感を感じることはありません。

まさかそのダライ・ラマ法王が、1989年にはノーベル平和賞を受賞し世界的に有名な人物になるとは、著者は想像だにしていなかったでしょう。そのニュースを聞いて清水氏(胡桃沢氏)は頭をかかえたかもしれません。

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この本が出版されたのは1956年10月。1959年三月蜂起~亡命の2年半前です。奇妙なことに、ラサ脱出~亡命という展開や、その脱出ルートまで2年半後の事実とよく似ています。一瞬「予言?」とまで思ってしまいますが、まあ偶然ということなのでしょう。

ダライ・ラマ法王は、1950年には一時チュンビ谷のトモ(གྲོ་མོ་/gro mo/亜東)に避難しています。新聞報道などでその事実を知り、参考にしているのは間違いないでしょう。しかしこの時はインドに入ってはおらず、もちろん亡命もしていません。事実と異なり亡命させ、さらに日本/USAに流浪させたのはどうしてなのでしょう?また、脱出ルートもチュンビではなく、わざわざアッサム経由にした理由も謎です。なにか元ネタがあるような気がしますが、今のところわかりません。

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で、この『動乱の曠野』、そのまま絶版と思いきや、胡桃沢耕史・名義の「小説」として、

・(1985)グリーンアロー出版
・(1988)徳間文庫
・(1992)廣済堂文庫

から三度も再発されています。1989年の法王のノーベル平和賞受賞後にも、平気で再発されているのには呆れますね(笑)。

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この小説について、ダライ・ラマ法王が小耳に挟んだらどうなるでしょうか。おおらかな法王のことです。きっと「はっはっはっ、それはまた愉快なお話ですね」と、一笑に付すに違いありません。さほど大騒ぎするような代物ではなく、「捏造業界では小物」と言っていいでしょう。なにせすぐウソとわかってしまう。

『動乱の曠野』は、1950年代日本人のチベット観を知る上でも面白い資料と思われますが、これまで全く見逃されてきたのはどうしてでしょう?胡桃沢氏が封印していたわけでもなさそうだし。

ツッコミどころは多々あるものの、ネーチュンが出てきたり、客人にカタをかけたり(色は「赤」なのが笑えるが)と、チベット文化も意外に詳しく調べてあります。当時出版された文献を当たっていけば、参考書も特定できそうな気もしますが、そこまでする余裕は今はありません。

とりあえず、「こんな珍品がありましたよ」という報告に今は止めておきますか。

2012年4月20日金曜日

全くもって失礼なチベット珍本 『動乱の曠野』 の巻(1)

先日、2回にわたって「ダライ・ラマ法王TV出演史」をお送りしましたが、その関連本、といっていいのか・・・、とにかく妙な本を紹介しましょう。

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・清水正二郎(1956)『動乱の曠野 世界ドキュメンタリー文庫5』. pp.242. 学風書院, 東京.



┌┌┌┌┌ 以下、清水(1956)カバー裏より ┐┐┐┐┐

始めて[ママ]、明か[ママ]にされた、特務機関の秘録。

ロシヤの美姫を盗み出す男、極北の荒野に四十年の流刑生活を送る日本人、亡命のチベット国王、達頼喇嘛と火の出るような恋に燃える女 アフガニスタン革命を指導する快男児!

すべて今迄知られなかった、ナマナマしい事実をこの書は伝える。

└└└└└ 以上、清水(1956)カバー裏より ┘┘┘┘┘

えー、なんというか、「快男児」なんていう用語が出てくるあたり、もう胡散臭さ満点ですが、安い古本だったのですぐさま購入。中身を読んでやっぱりガッカリ。

そう、これは「ドキュメンタリー」と称する「小説」だったのです(注1)。

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著者の清水正二郎の正体は、後の直木賞作家・胡桃沢耕史。当時は風俗・冒険小説家として頭角を現したばかりで、この本が単独第2作目となります(注2)。

かなり売れた本らしく、その後清水氏はエロと冒険ものを融合させたテイストの小説を連発することになります。

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内容は全4話。

・第一話 ・・・北極海・コーカサス・・・コーカサスの晩鐘(明治三十九年-大正六年)
・第二話 ・・・シベリヤ・蒙古・・・風来坊と軍事探偵(大正六年-大正八年)
・第三話 ・・・アフガニスタン・・・男児涙あり(昭和二年-昭和四年)
・第四話 ・・・チベット・・・最後の秘教(昭和二十八年-昭和三十一年)

どれもツッコミどころ満載なのですが、きりがないので、今回触れるのはチベット、そしてダライ・ラマ法王を扱った第四話だけにします。

といったところで、以下次回。

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(注1)
世界ドキュメンタリー文庫は全16巻。

編集委員に観音寺潮五郎ほかを迎え堂々の刊行。本書発売時には既刊3冊。第4巻とこの第5巻が同時発売のよう。もっとも全巻発売されたのかどうか知らない(あまり調べる気にもならない)。

『動乱の曠野』に挟まっていた、シリーズ月報みたいなもの

・どきゅめんたりいくらぶ事務所(1956) どきゅめんたりいくらぶ No.2[1956/10]. 学風書院, 東京.

から、そのラインナップを紹介しておきましょう

第1巻 戸伏太兵 『湖底の聖地』
第2巻 野村愛正 『カムチャッカの鬼』
第3巻 志摩辰夫 『炎の河』
第4巻 山田克郎 『北洋国際船』
第5巻 清水正二郎 『動乱の曠野』
第6巻 南部隆二 『恐怖の生態』
第7巻 戸伏太兵 『鱶を買収しろ』
第8巻 木村荘十 『爆音(決戦ラバウル)』
第9巻 中沢巠夫 『海賊保険師』
第10巻 関川周 『エスキモー夫婦』
第11巻 野村愛正 『髑髏の開拓地』
第12巻 志摩達夫 『虹の彼方の世界』
第13巻 観音寺潮五郎 『倭寇』
第14巻 中沢巠夫 『氷上の脱走』
第15巻 戸伏太兵 『魔獣の道』
第16巻 関川周 『人食ジャングル』

私には観音寺潮五郎と清水正二郎の名前しかわかりません。1950年代の通俗小説界では著名な方々なのでしょうか?あるいは変名の方も多いのか?

第1巻 『湖底の聖地』の内容紹介は、

「スマトラ土民反乱軍の残裔が守る湖底の大宝殿。ごろつき船の船長三木真治の豪快きわまる冒険実記。」

と、この調子。事実でないのはすぐわかりますね。でも、昭和31年当時は事実として受け止められていたんでしょうか?

この手の「事実と称するフィクション」、「ストーリーの大まかな流れは事実に沿っているが、内容の大半は作り話」といった著作物は「実録もの」と呼ばれることが多いのですが、「実録」という名に反して、事実を求める目的では資料として使いものになりません。小説と同じ扱いで、エンターテインメントとして楽しむだけにしておくのが無難。

「実録もの」の問題や、ドキュメンタリーとして評判の高い著作物だが、実は単なる小説だったり大幅にフィクションが混在しているものなどについては、いずれ改めてやりましょう。主にチベットもので。

偽チベット訪問記(ラウィッツだのイリオンだの)、偽チベット人(ロブサン・ランパとか)などにもいずれ言及したいところ。

(注2)
ちなみに、私が入手した本は某氏への謹呈本で、著者の直筆サインが入っています。

2012年4月7日土曜日

ヒマーチャル小出し劇場(5) スピティの親子



さあ、この子たちはなんでしょう?祭りでツァンパをかぶったわけではありません。ただ一日中外で遊んで、土ぼこりで真っ白になっただけでした。いまどきの日本では、ここまで汚れる子供はなかなか見ないので感動しましたよ。

二人のお父さんがまたユニーク。



怪しげですねえ(笑)。いにしえのヒッピーやベテラン登山家ではありません。宿の主人ですが、本業(?)はニンマパの行者です。スピティでニンマパといえばピン谷になりますが、そのピン谷名物ブシェンでもあります。

子供たちと遊び、オヤジさんとはニンマパの話などもして、楽しい宿でした。村に旅行者は一人もいないし。

2012年4月3日火曜日

ロブサン・サンガイ氏って誰? の巻

今般、チベット亡命政府首相(bka' blon khri pa/カロン・ティパ)であるLobsang Sangayさんが来日されました。

ところが、この方の名前の表記が錯綜しています。困ったもんです。

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欧文での表記は「Lobsang Sangay」に統一されています。

これも実はとても問題のある表記なのですが、本人がそう表記しているのですから、こちらではどうしようもありません。これについては後述。

もっと問題なのは、その日本語表記がバラバラであること。「ロブサン」はOKですが、下の名前がいろいろ。三種類の表記が出回っています。

(1) ロブサン・センゲ
(2) ロブサン・サンゲ
(3) ロブサン・サンガイ

ひどいものになると、同じ記事の中に複数の表記が混在している場合すらあります。

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えー面倒なので、すぐさま正解を示すと(1)が正解です。

そのチベット文字表記+Wylie式転写は、

བློ་བཟང་སེང་གེ
blo bzang seng ge
(ロブサン/ロサン・センゲ)

その根拠はこちらで。

・Kalon Tripa for Tibet - Tibetan Version
http://www.kalontripafortibet.org/Tibetan/

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古いスペックのマシーンをお使いの方(私だ)は、browser上ではこのページのチベット文字が表示されないと思いますが、そういう場合は次のような作業をしてください。

(1) Web上のどこかでチベット文字フォント Jomolhariを見つけてダウンロードし、インストールします。これはフリー・フォントですから安心してください。
(2) Wordなどにこのページをコピーする。
(3) まだ□□□□□□としか表示されませんが、そこでフォントをJomolhariに変えてやります。これでOK。

(追記)@2012/04/06
JomolhariよりTibetan Machine Uniの方が良好なようです。


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「ロブサン・サンゲ(blo bzang sangs rgyas)」という表記もかなり多く見受けられます。その理由は、Wikipedia(一部の言語/ちゃんとしているのもあり)などにそう表記されているから、と考えられます。しかしこれはチベット文字表記からして誤り。要注意。

「ロブサン・サンガイ」、これはアルファベット表記をローマ字読みしただけのもので論外ですね。カッコワルイ。

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そして、アルファベット表記の「Lobsang Sangay」。これがまた問題です。「blo bzang seng ge」を、なぜこのような表記にする必要があるのでしょうか?

これはロブサン・センゲさんが長くUSAで生活していたことと関係していそうです。

英会話では、第一音節の母音に「e」が入る場合、それは「エ」ではなく、「イー」と発音されるケースが多いようです。また語末の「e」もやはり「エ」ではなく「イー」と発音されるのでしょう。

ロブサン・センゲさんも当初「Lobsang Senge」と表記していたのではないか、と推測します。しかし欧米では誰も「センゲ」と発音してくれず、「シンギー」と呼ばれたのではないでしょうか。それで欧米人が比較的原音に近い発音をしてくれる「Sangay(セインゲィ?)」という表記をひねり出したのではないか?と推測します。

これは、そもそも英語の文字表記と発音の乖離に問題があるのですが、皮肉なことにチベット語における文字と発音の乖離は英語の比ではありません。「困ったもんだ」の二乗。

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なお、名前に氏族名・姓氏の要素が入らないチベット人名に「氏」をつけるのは不適当ではないか?という問題については、本blogの2009年3月13日金曜日「ザンスカール・ゴ・スム」の巻 ~西部チベット語の発音(5)ザンスカール語の位置づけ~ の(注4)をご覧ください。

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当blogではあまりナマモノを扱わない方針なのですが、誰もやらないようなので(当方は乾物担当です)。ナマモノ担当の方々よろしくお願いしますよ。

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(追記)@2012/04/04
「Senge」の英語風発音は「シンギー」の他に「シンジ」というのもあるかもしれない。「orange(オゥレィンジ)」みたいに。こうなると、わけがわかりませんね。もっともチベット語の中国語表記では、この程度は日常茶飯事ですが。


(追記)@2012/04/09
ロブサン・センゲのチベット文字表記(Tibetan Machine Uni)を追加した。見えない人はごめんなさい。

2012年3月31日土曜日

再録:シャーマンの祭り@ラダック・シェイ・シュゥブラ(4) 補足写真3


差し出されるチャン、チャン、チャン


チャンを一気飲みして神託を


ラバに付き添い儀式の進行を司るのはオンポ(占星術師)


シェイタンのチョルテン群で


トゥバ・ゴンパでラバを待ち構える村人たち


見よ、この軽業。そうとう酔っているはずなのに


まわりは拍手喝采、そしてラバはお堂へ入って行きトランスから脱した

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今回発表した内容も、例によって利権を押さえる人々の餌食になってタダ乗りされるだけか、と考えると暗い気持ちになるばかりですが、そうならないことを信じましょう。

2012年3月27日火曜日

再録:シャーマンの祭り@ラダック・シェイ・シュゥブラ(3) 補足写真2


取り巻きに囲まれながら馬に乗り直すラバ


シェイ・ゴンパから池に向かうラバ


池でルへの供養をするラバ

なお、本文では一般読者にわかりやすくするため「ル(klu)」を「龍神」と表現していますが、本当は正しくありません。チベット文化圏では、「蛇神/水神/Naga=ル(klu)」、「龍=ドゥク('brug)」と、はっきり区別されています。


みんな楽しそう


道々、村人へ神託を下していく


道沿いは鈴なりの人で、もう車も通れない状態


だんだん疲れてきた(?)ラバ


ティビ(帽子)からのぞくお下げがかわいい


お祭りでも井戸端会議は忘れない


見よ、ラバの晴れ姿!カッコイイ

2012年3月23日金曜日

再録:シャーマンの祭り@ラダック・シェイ・シュゥブラ(2) 補足写真1

雑誌に発表したもの以外に写真を補足しておきます。


道端でラバの到来を今か今かと待ち受けるシェイの人々


ラダッキおばちゃん(今はラダック帽ティビは祭りのときの盛装としてしか見かけなくなった)


楽士モンに先導され、ドルジェ・チェンモ・ラカンからラバと取り巻きが降りてくる


先導の行列は延々続く


お待ちかねラバの登場


ティビにカタを巻いた盛装の女性たち


馬に乗りシェイ・カル/ゴンパに向かうラバ(目はすでにうつろ)


ラバの行く先々で演奏を続ける楽士モンたち


もう追っかけと化している女性たち


シェイ・ゴンパでの供養を終えて出て来るラバ

2012年3月18日日曜日

再録:シャーマンの祭り@ラダック・シェイ・シュゥブラ(1) 再録エッセイ本文

これは、旅行人 no.115(2001年6月)「特集ラダック」に掲載したエッセイの再録です。

おそらくシェイ(Shey/shel)のシュゥブラ(Srubla/srub lha/収穫祭)を紹介したのは、これが世界初ではないかと思います。発表媒体が超マイナー誌であったため、世間的にはほとんど知られていませんが、その記事を読んでシェイのシュゥブラを目指した旅行者はかなりいるようです。

このエッセイから引用したような文章も結構見かけますが、参考文献として挙げる者は誰もいないよう(相変わらずタダ乗りされまくりなんですな。ラダック関連では不快になることばかり)。

では再録をお楽しみください。後のエントリーで補足を入れます。

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シャーマンの祭り

毎年九月一日から十五日まではジャンムー・カシミール州観光局の主催で、ラダック・フェスティバルが大々的に開かれている。この期間中は、レーをはじめラダック各地の村で連日ポロ、弓くらべ、踊り、歌合戦などが催されている。これはもともと各村々でてんでに開かれていた収穫祭(シュゥブラ)を観光局が日程を調整し統合したものらしい。観客を意識したショー的な要素が年々強くなってきている気がするのは私だけか。

しかし各地にはこれに組み込まれていない祭りも多く、そこではまだまだ素朴な昔のままの姿を止めている。私が訪れたことのあるレー近郊スピトクのシュゥブラは、日頃農作業に家事にと忙しい主婦たちが、無礼講とばかりにチャンを飲み、実に楽しげに歌と踊りに興じていた。そこには観客はなく、真に自分たちを労うためにだけ楽しむ人々の姿があった。


祭りに参加するために着飾って集まった人々

ラダックの古都シェイのシュゥブラもやはりそういった古来の祭りの姿が残る貴重な場所だ。ラダック・フェスティバルには組み込まれておらず、私が出会ったのも偶然だった。こういった祭りは太陰暦に基づいて日付が決められているので毎年日付が変わり、いったいいつ開かれるかを事前に知るのは難しい。二〇〇〇年は九月七日だった。

シェイのシュゥブラではラバと呼ばれる神降ろしが大活躍する。ラバはラダック各地におり、儀式によりトランス状態となり神(ラー)を憑依させ、占いや神託を行ういわゆる「シャーマン」である。ラーは仏教とは関係ない土着の神々であることが多いが、シェイのラーは女尊(この場合は「ラモ」)で、ドルジェ・チェンモという仏教にも組み込まれている尊格(十一世紀の高僧リンチェン・サンポがチベットに導入したらしい)。よく見かけるパンデン・ラモという守護女尊と同体異名の尊格といわれ、事実シェイのお堂ではこの二尊が並んで祠られている。

さて、私が朝バスに乗ってシェイの前を通りかかると、道端に着飾った人々が鈴なり。これは見逃すわけにはいかない。すぐさま飛び降り、おばちゃんを捕まえて話を聞く。で、前述の事情が判明したわけだが、もう今日はここでラバの追っかけ(笑)をやることに決定。

ラバはまず朝早くからドルジェ・チェンモを祠った小堂に入り、村の世話役やオンポ(占星術師)と共に祈祷・儀式を行いこのラモを憑依させる。男性に女尊が憑依するというのはなかなかおもしろい。

大勢の村人と共に冠をかぶり着飾ったラバがお堂から出てくる。意外にしっかりした足取りだが、目はすでにアッチの世界に飛んでいる。睨まれるとちょっと怖い。かといって髪を振り乱したり飛び上がるなどの動作があるわけではなくおとなしいもんである。


馬に乗ったラバ(シャーマン)が村中を練り歩く

馬に乗ったラバはまずシェイ・ゴンパへ向かい、シャカ大仏の供養。お堂の前では楽隊が太鼓を叩いているは、ラバに捧げるカタ(白い絹のスカーフ)を持った村人が鈴なりに並んでいるはで、もう大騒ぎ。この群衆がラバと共に村のあっちこっちと大移動するのだから大変だ。道路はしばしば通行止め状態になる。

次にラバが向かったのは道の横に広がる池。ここでは池に住む龍神(ル)の供養。池にチャン(チンコー麦で作ったどぶろく)を注ぎ村の加護を祈る。一見仏教一色のように見えるチベット文化圏だが、民衆の間にはこういった土着の神々もいまだに息づいているのだ。

ラバは岩山の裏のチョルテン群へと進む。道々、神託を求めてチャンの瓶を差し出す人々に囲まれラバはもみくちゃになる。乗った馬が途中で具合が悪くなるほどの込みあいよう。ラバはその中から随時一人を選び、チャンを受け取り一口二口飲んでは神託を与えていく。のども渇くのだろう、ときどき瓶の半分も一気飲みすることもある。たまにチャンではなくウィスキーを差し出す村人もおり、そんなときはちょっとむせたりするのはご愛敬(笑)。しかし少しずつとはいえ、飲んでいる酒の量は半端じゃあない。大丈夫なのか、特に膀胱の方は?


チャン(どぶろく)をラッパ飲み

岩山の裏では台に乗っかり、来年の作況や出来事に関する神託をひとしきり大演説。皆ラバを囲み聞き入っている。おばちゃんたちの顔はにこやかだったから、きっといい神託が下されたのだろう。一九九九年から二〇〇〇年はラダックには悪い事件が続いたので、今年こそはいい年になってほしいものだ。

演説が終わるとチャンをラッパ飲みしつつ村人への神託が延々一時間も続く。なんともタフな仕事だ。見ているだけのこっちが疲れてしまう。

これが終わると、小学校、シェイタンのチョルテン群を巡り最終目的地トゥバ・ゴンパへ。この寺にもシェイ・ゴンパのものと瓜二つのシャカ大仏が祠られていることはあまり知られていない(こちらの方が古い)。ここでも神託を求める村人に囲まれ、寺へ入るまでには小一時間もかかった。寺ではシャカ大仏、ツェパメ(阿弥陀如来)の供養をこなし、最後のお堂へ。ここにもドルジェ・チェンモを祠ったお堂があり、ここでラモに帰ってもらうのだ。

二階にあるお堂の前はベランダになっていて、なんとラバはその狭い手すりに飛び乗り踊りながら歩き始めた。あれだけ酒を飲んでいるはずなのにこの軽業には群衆からも「おおっ」と歓声が上がる。このベランダからの演説を最後の晴れ姿として、ラバはお堂へと引っ込んで行った。


手すりに飛び乗って踊り歩くラバ

三十分後に疲労困憊といった表情で現れたのは、ただの三十男。先刻まで異様な光を放っていた目もすっかりどんよりとした凡人の目に戻っていた。

お寺の前に集まった群衆はいっこうに帰ろうとしない。それもそのはず、ここではこれから飲めや歌えの宴会が夜遅くまで続くのだ。傍らには露店も出始め、祭りはこれから佳境に入るともいえるのだが、ラバの追っかけですっかり疲れてしまった筆者はそこまではつき合いきれない。早々にシェイを後にした。

ラダックにはこのような素朴かつ奥の深い祭りが、まだあちこちで開かれているはずだ。あなたもガイドブックには載っていない祭りを自分の手で見つけてみてほしい。おもしろい祭りを見つけたら私にもぜひ教えて下さい(笑)。

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(追記)@2012/03/23
シェイ、シュゥブラのアルファベット表記を追加。

2012年3月16日金曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(3) ダライ・ラマ法王TV出演史(2000年まで)-その2

1989年のノーベル平和賞受賞の余波で、どんどんTVに登場するようになる。

ヒラリーのヒマラヤ紀行(全6回) (3)神々のふるさと
1990年秋(45分) NHK教育

制作:ZDF,Germany(1987)
カイラス山やガンジス川などとともに、ダライ・ラマ法王へのインタビューがはさまる。
参考:
・朝日新聞
・I LOVE TIBET
http://www.tibet.to

フリーゾーン2000 ダライラマに聞く戦争と平和
1991年初(45分) CS衛星チャンネル

詳細不明。
参考:
・朝日新聞

土曜フォーラム いま、平和のために何をなすべきか-MRA国際シンポジウムから
1992年初 NHK教育

出演:ハイメ・シン、イナムラ・カーン、ラジモハン・ガンディー、ダライ・ラマ14世、石原俊、曾野綾子、樺山紘一。
詳細不明。会場はインド?。
参考:  
・NHKアーカイブス
http://www.nhk.or.jp/archives/

驚異の超心理世界(全3回)
1993年初 NHK教育

制作:BBC, UK.
ダライ・ラマ法王がちょっとだけ登場するらしい。詳細不明。
参考:
・I LOVE TIBET
http://www.tibet.to

NHKスペシャル チベット死者の書(全2回) (1)仏典に秘めた輪廻転生
1993年秋(75分) NHK総合

語り:緒形拳、道傳愛子。
チベット仏教ニンマパ/カギュパに伝わる枕経『バルド・トゥドル(bar do thos grol)』に基づくドキュメンタリー(1)とドラマ(2)。ビデオ/DVD化。ロケ地はラダック。
ダライ・ラマ法王のインタビューを含む。「自分に死が訪れたときにこれまでの修行の成果が出ることが楽しみですらある」(一部意訳した)という興味深いコメントが残されている。
なお近年発売されたDVD版では法王のさらなるロング・インタビューが収録されているらしい(貧乏で買えないので、詳細は知らない)。
参考:
・NHKアーカイブス
http://www.nhk.or.jp/archives/
・河邑厚徳+林由香里(1993)『チベット死者の書 仏典に秘められた死と転生』. 日本放送出版協会, 東京. → 再発:(1995)NHKライブラリー.

世界ふしぎ発見 シャンバラ伝説を訪ねて チベット仏教の旅
1993年秋(50分) TBSテレビ

制作:テレビマンユニオン
ジェームズ・ヒルトン『失われた地平線』をネタに、ラダックとダラムシャーラーでシャンバラを探す。女性の神降ろしラモ、ティクセ寺の小坊主、ダライ・ラマ法王と会見。

日曜スペシャル オン・ザ・ブリッジ 「ガンと闘う映画監督の記録」
1994年夏 NHK-BS 1
ダライ・ラマ法王の講演を含む。
参考:
・NHKアーカイブス
http://www.nhk.or.jp/archives/

浪漫紀行・地球の贈り物 愛と慈悲 ダライ・ラマのカラチャクラ
1994年夏(30分) TBSテレビ
制作:テレビマンユニオン
1994年7月、インド・ヒマーチャル・プラデシュ州ラーホール・ジスパでのカーラチャクラ大灌頂(ダライ・ラマ法王が主宰)。それに加えてチベット現代史の映像が挿入されている。

世界ふしぎ発見 チベット仏教の旅 輪廻転生の謎を解け
1995年春(50分) TBSテレビ

制作:テレビマンユニオン
1995年1月、南インド・ムンゴットで行われたカーラチャクラ大灌頂(ダライ・ラマ法王が主宰)の映像。
参考:
・TBS世界ふしぎ発見
http://www.tbs.co.jp/f-hakken/
・I LOVE TIBET
http://www.tibet.to

素晴らしき地球の旅 ヒマラヤ花と祈りの民
1997年初(90分) NHK-BS2

制作:ヴァネックス
ラダック西部ダー村に住むドクパ(ダルド系民族)の生活を追う。前半はNHKがあつらえたバスで、1996年夏スピティのタボ寺で開かれたカーラチャクラ大灌頂へ。ダライ・ラマ法王にも拝謁。なお「花の民」という呼び名はテレビ局がつけたもので、地元でそう呼ばれているわけではない。
参考:
・遠藤盛章(2001)『世界の最危険地帯をゆく 国際ビデオジャーナリスト』. 双葉社, 東京..

進め!電波少年インターナショナル
1997年 日本テレビ

つぶやきシローが、用もないのにアポなしでダラムシャーラーのダライ・ラマ法王に会いに行かされる、という失礼な企画(結局会えず)。地元ではかなり不評で、このせいで一時日本人の評判も悪くなった。
参考:
・インダス・ヘリテイジ株式会社
http://www.indusheritage.com

ニュース23 ダライ・ラマ法王インタビュー
1998年春 TBSテレビ

来日中であったダライ・ラマ法王にインタビュー。
参考:
・I LOVE TIBET
http://www.tibet.to

ターニングポイント ダライ・ラマ
2000年初 テレビ朝日

出演:持田香織ほか。
著名人の経歴を概観し、その転機となった事件を取り上げる番組。
今回はダライ・ラマ法王の1959年(24歳)。ラサ蜂起とインド亡命の映像。ダラムシャーラーでのインタビューも。テレビ朝日には珍しく親中ものではない。

ETV2000 ダライ・ラマ 日本人への問いかけ(全2回)
2000年春(45分×2) NHK教育

2000年4月の来日中に、山折哲雄と藤原新也によるインタビュー・対談。講演会の映像もある。
(1)なぜ人を殺してはいけないか
(2)いま宗教は何ができるか

2001年以降は省略。他サイトでお調べください。

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(調査中)

進め!電波少年
1990年代後半? 日本テレビ

松村邦弘が来日中(?)のダライ・ラマ法王にアポなし取材を敢行。予想外に握手に成功。というのだが、日付・事実関係とも、なかなか確認できない。
参考:
・illumina(イルミナ)/ひかりのこどもたち
http://ameblo.jp/hikarino-kodomotachi/

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この他、チベット関連番組にちょっとだけ姿を見せているものなども相当数ありそうですが、なかなかフォローしきれません。

手持ちの録画資料(チベットものだけではないが千番組以上ある)の内容は現在確認できないので(貧乏でTVがないから)、いつかまたアップデイトしましょう。

2012年3月13日火曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(2) ダライ・ラマ法王TV出演史(2000年まで)-その1

ダライ・ラマ法王は1959年にインドへ亡命。1960年、KRテレビによるインタビューで日本のTV初登場。以来7年間、日本のTVには現れなかったが、満を持して1967年に初来日。

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【 1967年 ダライ・ラマ法王初来日 】

1967年、ダライ・ラマ法王は、初の海外渡航にして初来日を果たした。これは仏教伝道協会(浄土真宗系)の招聘によるもの。法王は9月25日~10月10日日本滞在。東京、京都、奈良の寺院を訪問し宗教人と面会。講演会などは開催されず。
なおこの来日は、読売新聞主催「チベット秘宝展」の開催に合わせたもの。この展覧会は亡命政府の文化機関チベット・ハウスが協力していたため、読売新聞は中共政府より抗議を受け、特派員入国拒否というペナルティを食らった。
参考:
・読売新聞社・編(1967)『チベットの秘宝展』. 読売新聞社, 東京.
・週刊新潮編集部(1967)ダライ・ラマの来日 -そのあわただしい招待の周辺-. 週刊新潮, 1967-09-30号.
・ちべ者
http://55tibet.way-nifty.com/tibemono/

ニッポンであいましょう ダライ・ラマ チベットの活仏
1967年秋(40分) 日本テレビ

出演:ダライ・ラマ法王、聞き手:中村元、司会:芥川比呂志。
海外著名人を招き話を聞く月一シリーズの第1回。来日中のダライ・ラマ法王をスタジオに招き、生い立ち、人生観、チベット人の心、日本の印象、科学と宗教などについて語ってもらう。これもまたぜひ発掘してほしい番組。
参考:
・毎日新聞

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その後だいぶ間が開き、次に日本のTVに登場するのは1983年。1978年、11年ぶりの来日ではTV出演は確認できず。

NHK特集 シルクロード第2部 (4)玄奘三蔵天竺の旅
1983年夏(50分) NHK総合

インドで仏蹟と玄奘三蔵の足跡を追う。サールナートでのダライ・ラマ法王による法要に遭遇し、取材に成功する。
参考:
・朝日新聞
・陳舜臣ほか(1983)『シルクロード ローマへの道 第7巻 パミールを越えて パキスタン・インド』. 日本放送出版協会, 東京.

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【 1984年 ダライ・ラマ法王来日 】

1984年5月1~17日、空海入定1150年法要参加のためにダライ・ラマ法王が来日。成田山新勝寺による招聘。法要参加のみで講演などは行われなかった。
参考:
・ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 
http://www.tibethouse.jp/home.html
・木村肥佐生(1984)第十四世ダライ・ラマ来日に際して チベット問題を考える. 世界週報, vol.65, no.19(1984/05/15).

ニュースセンター9時 ダライ・ラマ氏インタビュー
1984年春(10分程度?) NHK総合

インタビューアーは当時当番組のキャスターだった木村太郎か?。政治的な話題も含め近況を聞く。
参考:
・朝日新聞

今週の顔 チベット仏教の心を伝える ダライ・ラマ14世
1984年春(30分) NHK総合

出演:ダライ・ラマ法王、相馬雪香、中沢新一。
こちらは宗教的な話題が中心と思われる。
参考:
・朝日新聞
・ダライラマ+中沢新一(1984)ダライ・ラマ14世 東洋思想と西洋科学を語る. 中央公論, vol.99, no.7(1984/07).
・NHKアーカイブス
http://www.nhk.or.jp/archives/

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このあたりからTV登場の機会が増えてくる。

ニュースセンター9時 ダライ・ラマ法王インタビュー
1986年末(10分程度?) NHK総合

ダラムシャーラーでのインタビューらしい。詳細不明。新聞テレビ欄には表示なし。
参考:
・I LOVE TIBET
http://www.tibet.to

ネイチァリング特別企画 悠久の大地・インド
1987年末(80分) テレビ朝日

出演:小林薫。
カルカッタからガンゴトリーまでガンジス川をたどり、タール沙漠を経て最後はラダックへ。法王もちょっとだけ登場したよう。
参考:
・朝日新聞
・(財)放送番組センター放送ライブラリー
http://www.bpcj.or.jp/
・I LOVE TIBET
http://www.tibet.to

ニュースステーション チベットの生き仏 ダライ・ラマ14世と1万人大法要
1988年秋(10分程度?) テレビ朝日

ザンスカール・パドゥムで行われたカーラチャクラ大灌頂。ダライ・ラマ法王が主宰。
参考:
・朝日新聞

ニュースステーション 秋の特別大紀行 ラダック(全2回)
1988年秋(20分程度?×全2回) テレビ朝日

(1)もう一つのシルクロード ヒマラヤの山々に囲まれた秘境ラダック高地
(2)大自然の中に原色の世界が ヒマラヤの秘境ラダック高地
ザンスカール・パドゥムで行われたカーラチャクラ大灌頂の様子を含み、ダライ・ラマ法王も登場している。
参考:
・朝日新聞

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【 1989年 ダライ・ラマ14世ノーベル平和賞受賞 】

1989年11月、これまでの非暴力平和主義による活動が認められ、ノーベル平和賞を受賞。ダライ・ラマ法王の知名度は、世界的に一気に上昇。TV出演も相次ぐようになる。

ニュースステーション ノーベル平和賞発表
1989年末(10分程度?) テレビ朝日

法王の受賞の第一報。他局でも報道されたはずだが、放映状況は確認できなかった。
参考:
・朝日新聞

ワールドTVスペシャル ダライ・ラマ 亡命の30年
1989年末(45分) NHK総合

原題:Tibet : A Lost Nation
制作:BBC,UK(1989)
ダライ・ラマ法王のノーベル平和賞受賞記念番組。法王の経歴・インタビュー。ダラムシャーラーの亡命政府、ネーチュンの神託、亡命チベット人のインタビューなど。
参考:
・朝日新聞
・NHKアーカイブス
http://www.nhk.or.jp/archives/
・Michael Organ : TIBET ON FILM
http://www.michaelorgan.org.au/tibetfilm.htm
・I LOVE TIBET
http://www.tibet.to

報道特集 波乱の人生 亡命30年でノーベル平和賞 ダライ・ラマをインド奥地に訪ねる
1989年末(30分程度?) TBSテレビ

ダライ・ラマ法王の経歴と、ダラムシャーラーでの暮らしなどを現地取材。
参考:
・朝日新聞
・I LOVE TIBET
http://www.tibet.to

2012年3月10日土曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(1) 1959年ラサ三月蜂起~ダライ・ラマ法王亡命関連番組

用意していたネタは他にあったのですが、3.10ということで、繰り上げて先にこちらをどうぞ。

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2012年2月5日日曜日 今後のアップ予定でお知らせしたように、第二次世界大戦後(から2000年頃まで)のチベット・ヒマラヤに関するテレビ番組を総ざらえする企画を始めます。

調査方法は、新聞縮刷版のテレビ番組表を1953年から毎日順にコツコツ当たり、本・雑誌・ウェブ上で追加調査をする、という実に地味な作業です。典拠をしっかり挙げることに特に注意を払っています。

その第1回目は、1959年のラサ三月蜂起~ダライ・ラマ法王亡命に関する番組です。

1953年に始まったTV放送は当時まだ黎明期。チベヒマ番組はまだ数少ないものの、今では驚くような内容のものも散見されます。

では始めましょう。

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【 1959~60年 ラサ三月蜂起~ダライ・ラマ法王亡命 】

1950年、チベットは中国共産党により「解放」という名の下に侵略・占領された。カム・アムドでは拙速な共産化、農政の失敗によりチベット人の不満が爆発し、各地で蜂起が頻発。難民も大量発生した。ウー・ツァンでは共産化は猶予されていたにもかかわらず、共産化政策はじわじわと進行。1959年3月、ついにラサでも民衆の蜂起が始まった。ダライ・ラマ法王は、チベット民衆と人民解放軍の衝突を回避するべく、ラサから脱出(にもかかわらず、多くのチベット人が虐殺された)。4月にはヒマラヤを越えてインドに入り、チベット亡命政府の樹立を宣言。当初はマスーリー(ムスーリー)に滞在したが、1960年にダラムシャーラー(マクロード・ガンジ)に移動し、本格的な亡命生活に入る。
参考:
・ダライ・ラマ・著, 木村肥佐生・訳(1989)『チベットわが祖国 -ダライ・ラマ自叙伝-』. 中公文庫, 東京.
・ダライ・ラマ・著, 山際素男・訳(1992)『ダライ・ラマ自伝』. 文藝春秋, 東京.

【ラジオ】録音構成 ラマ教の国 ダライ・ラマ
1959年春(25分) ニッポン放送

ラサ三月蜂起~ダライ・ラマ法王のインド亡命で注目が集まっているチベットを紹介。チベットの歴史・仏教・風俗など。法王自身が登場している可能性はないだろう。
参考:
・朝日新聞

TVルポ チベット国境
1959年夏(40分) 日本テレビ

産経新聞記者・野田衛がシッキムで取材。ラサ三月蜂起~ダライ・ラマ法王亡命の波紋を、国境を隔てて探る。注目の報道番組。さすがにチベット本土に入ることは不可能だった。現地の映像・スライド、多田等観のインタビュー(うわー見たい)、当時来日中だったカムパ貴族ロサン・ゲリの主張も放映。
参考:
・読売新聞

世界みたまま シッキム王国に招かれて
1959年夏(25分) NHK総合

同じく野田衛・記者の取材報告。
参考:
・朝日新聞

陛下と共に シッキム王国
1959年夏(30分) 日本教育テレビ(現・テレビ朝日)

出演:ペマ・チョキ、鷹司和子(昭和天皇第三皇女)ほか。
ペマ・チョキは、当時のシッキム王タシ・ナムギャルの長女で、チベット政府高官ゴンポ・ツェリン・ヤプシー・プンカンの妻。シッキムは当時まだ独立国。来日の目的は表敬訪問というのが表向きだが、実はダライ・ラマ法王の日本居住の可能性を探っていたようだ。
参考:
・朝日新聞

報道特集 失われたチベット ダライ・ラマ会見記
1960年春(30分) KRテレビ(現・TBS)

KRテレビ+ラジオ東京報道班がダライ・ラマ法王の初TV/ラジオ取材に成功。当時の避難先マスーリー(ムスーリー)でのインタビュー。日常生活、人生観、これからの道などを語る。チベット難民の生活も紹介。
亡命1年後にして早くもTVに登場。若き日の法王の映像は貴重なので、TBSはこの映像をぜひ発掘してほしい。次にダライ・ラマ法王が日本のTVに登場するのは1967年になる。
参考:
・読売新聞

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というわけで、次回は「ダライ・ラマ法王TV出演史(2000年まで)」です。

2012年3月5日月曜日

ハルハ・ジェツン・ダムパ・リンポチェ遷化(2012年3月1日)

このニュースは野村正次郎さんのTwitter
http://twitter.com/#!/shojironomura

で知ったものです。

リンポチェの遷化に際し、深く哀悼の意を表します。

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まずはこの方がどういう人物か、例のヒマーチャル・ガイドブックのボツ原稿を使って簡単に紹介してみましょう(注)。とはいえ、私は個人的にはリンポチェとは面識もありませんし、特に関係があるわけではありません。

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ハルハ・ジェツン・ダムパ・リンポチェ9世(khal kha rje btsun dam pa rin po che)
チョナンパ(jo nang pa)の高僧ターラナータ(rje btsun tA ra na thA kun dga' snying po、1575-1635)は、チベット仏教のモンゴル布教の嚆矢となった一人。

ターラナータ没後、モンゴル王族ザナバザル(Zanabazar)がその転生者として認定され、ジェブツン・ダムパ・フトクト(1世、1635-1723)と呼ばれた。ジェブツン・ダムパ1世はゲルクパに改宗し、外モンゴル最高位のラマとなる。3世以降は代々チベット人から転生者が選ばれ、現ウランバートルのガンダン寺を本拠地とした。

1911~19年、清朝滅亡を機に外モンゴルは一時独立。8世(1870-1924)は皇帝ボグド・ハーンとして推戴された。1921年、社会主義政権が誕生した際にも再び元首として迎えられたが、1924年逝去。以後モンゴルでは仏教は弾圧され、8世の転生者が選ばれることはなかった。

一方1935年頃、チベットでは密かにジャンペル・ナムドル・チューキ・ギェンツェン('jam dpal rnam grol chos kyi rgyal mtshan、1932-2012)をジェ(ブ)ツン・ダムパ9世として認定。9世はカーラチャクラ・タントラの成就者として知られた。1959年にインド亡命。

1990年社会主義体制が崩壊したモンゴルでは仏教が復活。ダライ・ラマ法王は、これを機に9世の存在を公表。9世は1999年モンゴルを訪問しガンダン寺で歓迎を受けた。しかしモンゴル国内では正式に認知されておらず、当分はチョナン寺での活動が主となるだろう。

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チョナン・ゴンパ(jo nang dgon pa)
正式名称は、チョナン・タクテン・プンツォク・チューリン(jo nang rtag brtan phun tshogs chos gling)。インドでは唯一のチョナンパ僧院。Shimla近郊Sanjouliにある。町から山手に入るとチベット人居留地とゴンパ。

チベット・ツァン地方の元チョナンパ総本山(現ゲルクパ)プンツォクリン・ゴンパ(phun tshogs gling dgon pa)の再建版(本土の寺も復興している)。

当初ゲルクパの寺であったが、1997年ダライ・ラマ法王がチョナンパの伝統復興を提唱。ジェツン・ダムパ・リンポチェを座主とし、インドでは唯一のチョナンパ僧院となった。50名の僧が在籍。拝観料はお布施で。

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以上は2000年ごろ書いたもので、その後の変化については最近全く追跡していませんでした。それでこの訃報を知ったという状況。

訃報を伝えるサイトを紹介しておきます。

・Central Tibetan Administration > News > Obituary: His Eminence the Ninth Khalkha Jetsun Dhampa
http://tibet.net/2012/03/01/obituary-his-eminence-the-ninth-khalkha-jetsun-dhampa/

・Tibet Sun > News Archive > Jetsun Dhampa Rinpoche passes away in Ulan Bator
http://www.tibetsun.com/archive/2012/03/01/jetsun-dhampa-rinpoche-passes-away-in-ulan-bator/

・Phayul.com > news > H.E. the Ninth Khalkha Jetsun Dhampa passes away
http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=30990&article=H.E.+the+Ninth+Khalkha+Jetsun+Dhampa+passes+away&t=1&c=1

・Voice of America News > Exile Tibetan Administration Mourns Demise of Khalkha Jetsun Dhampa
http://www.voanews.com/tibetan-english/news/Exile-Tibetan-Administration-Mourns-Demise-of-Khalkha-Jetsun-Dhampa-141038783.html

・Times of India > Dalai holds prayers for head of Jonang tradition
http://timesofindia.indiatimes.com/india/Dalai-holds-prayers-for-head-of-Jonang-tradition/articleshow/12130344.cms

最後にリンポチェの公式サイト。遷化後は更新されていないようです(2012年3月4日現在)。

・H. E. the Ninth Jetsun Dhampa
http://www.jetsundhampa.com

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私がこの方に興味を持ったのは、チベット-モンゴル関係史からであるのは言うまでもありませんが、近年はヒマーチャル・プラデシュ州Shimlaで活動されていたからでもあります。例のガイドブック関連ですね。

Sanjouliのチョナン寺にも行ったことがあります。当時はまだゲルクパの寺でSangye Choling(sangs rgyas chos gling)という名でした。居留地としてはあまり活気はなく、寺も閑散としていました。それがチョナンパ僧院となってからは活況を呈している、とは聞いていましたが、リンポチェのモンゴル移住、そして遷化後はどうなるのでしょうか。

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リンポチェは、モンゴル側の知らない間(社会主義時代)に認定された方であるため、モンゴルでは支持と不支持は半々くらいだ、と聞いています。モンゴル訪問時に色々と問題が発生したり、その前にはトゥヴァやカルムイクをも訪問したりと、何かと話題の多い方でもありました。

モンゴル国籍を取得し移住もしていた、という事実も知りませんでした。ご本人としては、チョナンパ復興よりもモンゴルの方に魅力を感じていたのでしょうか。それにしても、まさに波乱の晩年と言っていいでしょう。

数年後には転生者が選ばれるはずですが、何かと問題の多い転生者選びですけど穏便に進めばいいな、と期待します。また、今回のリンポチェの遷化が、チベット-モンゴル関係について振り返って考える機会になれば、とも思います。

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最後に再び、深く哀悼の意を表します。

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(注)
これは最終稿の二歩手前くらいの状態。それを若干修正したものを載せています。原版はこの十倍くらいの分量なのですが、参考文献リストが完全なものになっていないので、今回は短縮版で。そういうわけで、文献リストも省略させていただきます。

「短縮版なら文献リストは要らないのか?」という疑問をお持ちかもしれませんが、自分の文章としてこなしてある、ということで、今回はご容赦ください。

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(追記)@2012/03/06
その後見つけた訃報記事を2つ。1つはモンゴル発、もう1つは中国発。

・Infomongolia > His Holiness the IX Bogd Jebtsundamba has passed away
http://www.infomongolia.com/ct/ci/3399/

・The China Hotline > 9th Bogd Khan Passes Away
http://thechinahotline.wordpress.com/2012/03/04/9th-bogd-khan-passes-away/


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(追記2)@2012/03/07
チョナン・ゴンパの公式サイト

・Jonang Takten Phuntsok Choeling Monastery Shimla
http://www.jonangmonasteryshimla.com/

2012年3月4日日曜日

ヒマーチャル小出し劇場(4) 名峰リウォ・プルギャル

キナウル・ナコ村の背後にそびえる美しい双耳峰が、リウォ・プルギャル(ri bo spu rgyal)北峰・南峰。ヒマーチャル・プラデシュ州の最高峰です。

地図上では、北峰はリオ・プルギャル(Leo Purgyal/li'o spu rgyal)、南峰はリウォ・プルギャル(Reo/Riwo Purgyal/ri bo spu rgyal)と紛らわしい名前となっていますが、もともとri bo spu rgyalというひとつの山名だったのが、誤記によって二つに分かれてしまったものです。

インド・中国の国境未確定区域ですが、現状はインドの実効支配下にあり、実際に紛争が起きたことはありません。

この山は、土着神プルギャル神の在所として上キナウル一帯で崇められてきました。チベット史好きとしては、吐蕃王家の氏族名spu rgyalと同名であることに気を引かれますが、両者はいったいどういう関係にあるのか、今のところわかりません。

2012年3月3日土曜日

ヒマーチャル小出し劇場(3) タシ・ポン(絵師タシ・ツェリン)

2001年当時、キナウルでは僧院壁画のリニューアル・ブーム。どれもが極めてハイレベルで、目を見張るものがありました。人気の題材はシト(zhi khro/寂静・忿怒)百尊曼荼羅。

そのことごとくを描いたのが、今回紹介するタシ・ポン(Tashi Pon/bkra shis dpon)=絵師タシ・ツェリン(bkra shis tshe ring)。生まれは上キナウル(Hangrang/hrang trang)のチャンゴ(Chango/byang sgo)。出会った際は、新築チョルテンの装飾作業中でした。



彼が描いたシト百尊は、色彩、尊様の細やかさ、配置の巧みさ、装飾の豪華さ、どれをとっても近年のチベット仏教絵画ではピカ一の作品。そのあまりの見事さに目は釘付けで、一歩も動けなくなりました。

タシ、ごめんよ。君のことを日本に紹介できぬまま、あれから十年経ってしまったよ。いつか日本に来て、技を披露してもらおうと思っていたのだが・・・。

誰かタシを日本に呼んで、シト百尊を描かせたいという方はいないものか。腕はこの通り保障します。




2012年3月1日木曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(36) おわりに

「『ブルシャスキー』の語源は何か?」というテーマひとつで、あちこち寄り道しながらボロル/ブルシャとチベットの関係を長々と述べました。最初は3回くらいの予定で始めたのですが、あれよあれよという間に増殖し、ここまで来てしまいました。両者の関係は意外に深いことを理解していただけたなら、うれしいのですが。

もちろんこれは、チベット側から眺めたギルギット/フンザ像であり、ギルギット/フンザの歴史・文化を網羅するものではありません。カラコルムの中のギルギット/フンザ、イスラム側から眺めたギルギット/フンザはまた違った姿を見せるはずです。

本シリーズ中には、なじみのない固有名詞がバンバン出てきて取っつきにくいと感じたかも知れません。しかし、これらの固有名詞は今後も当blogで頻出するはずです。それぞれの固有名詞を全部いちいち立ち止まって詳しく解説していると、注釈が膨大な量になり永遠に終わらないので、この後のエントリーでおいおい解説していくことになるでしょう。

それにしても、私はフンザには今まで一度しか行ったことがなく、それもたった2泊3日の滞在でしかないのに、ここまで長々と付き合うことになるとは思いませんでした(文献上でですけど)。

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ギルギット、フンザ、バルティスタンなどカラコルム諸国の歴史についてはよい邦文書がありません。ギルギットで発見された仏典写本、唐の西域経営史の一幕としての「高仙芝の小勃律遠征」がわずかに取り上げられる程度で、その後の歴史について、日本の歴史研究者で興味を持つ人はほぼ皆無です。

唯一、登山家の故・広島三朗(みつお)さんが、自著や訳書で丁寧に歴史に関する注釈を入れてくれていますが、それでも断片的なもので全体像をつかむのは難しい状況です。

・広島三朗 (1979) 『ヒンズークシュ真っただ中 シルクロード南3000キロの旅』. pp.227. 講談社, 東京.
・R.C.F.ショーンバーグ・著, 広島三朗・訳 (1985) 『オクサスとインダスの間に 中央アジア探検紀行』. pp.299. 論創社, 東京. ← 英語原版 : Reginald C. F. Schomberg (1935) BETWEEN THE OXUS AND THE INDUS. Martin Hopkinson, London.

なお、広島さんは「地球の歩き方」シリーズの中でも名著の誉れ高い「パキスタン」編の著者でもありました。広島さん亡き後の現ヴァージョンは、ページ数も中身もすっかり薄くなってしまいましたが。

この地域の歴史研究書としては、

・Ahmad Hassan Dani (1991) HISTORY OF NORTHERN AREAS OF PAKISTAN. pp.xvi+532. National Institute of Historical and Cultural Research, Islamabad. (改訂版も出ているようだ)

が最良の書ですが、日本では同地域の研究者が手薄なせいもあり、この本の知名度もきわめて低い状態です。誰か翻訳してくれないものでしょうか。

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それ以前に、カラコルム地域とは関係が深く、それらの歴史研究の基礎ともなっている「カシミール史」が日本では軽視されているのも困りものです。「カシミール略史」なども今後のエントリーでやってみたいところですが、まあできる範囲内で・・・。

といったところで、ようやくこのシリーズに幕を降ろしましょう。

2012年2月26日日曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(35) アフガニスタンのケサル王

ギルギット~フンザから西へちょっと足をのばすと、もうアフガニスタンです。アフガニスタンには、8世紀に「フロム・ケサロ(From Kesaro)」という名の王が実在していました。チベットのケサルも「phrom ge sar(トム・ケサル)」と呼ばれることがあります(注1)。両者はどういう関係にあるのでしょうか。

この王は7~9世紀にカーブル周辺を支配したカーブル・テュルク・シャー(注2)の一人。カーブル・テュルク・シャーはその傍系のザーブル王国(注3)と共に、長らくイスラム軍の東進を阻んできました。この王は、漢文史料には「拂菻罽裟」の名で現れます。

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この名は「ローマのカエサル」の意味です。カエサルといえばローマ共和国末期に活躍した独裁官ですが、共和国から帝国となるとその名はローマ皇帝の別称として機能するようになり、後には皇帝を補佐する「副帝」の名称となりました。これはローマ帝国が東西分裂後も東ローマ帝国(ビザンティン帝国)に受け継がれ、正帝アウグストゥスと副帝カエサルの称号が使われてきました。

カーブル・テュルク・シャーは、東ローマ帝国とは直接の接触はないものの、共にイスラム帝国と対立していた関係上、東ローマ帝国に対して親近感を持っていたと思われます。

テュルク・シャーのフロム・ケサルの在位は738-45年。即位の20年前、717~18年には東ローマの都コンスタンティノープルはイスラム帝国軍に包囲されました。しかし東ローマ軍はかろうじてイスラム軍撃退に成功する、という事件が起きています。フロム・ケサロの名は、この勝利を記念して名づけられたものではないか?と推測するのが下記論文です。

・J.Harmatta+B.A.Litvinsky (1996) Tokharistan and Gandhara under Western Türk Rule(650-750). IN : B.A. Litvinsky etal.(ed.) (1996) HISTORY OF CIVILIZATIONS OF CENTRAL ASIA VOLUME III. p.367-401. UNESCO Publishing, Paris.

その推測が当たっているかどうかはわかりませんが、「ローマのカエサル」という名の威光が、8世紀のアフガニスタンまで届いていたのは間違いないでしょう。

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では、アフガニスタンからさらに東に進み、カラコルム、西部チベット、そして東部チベットに「(ローマの)カエサル」を名乗る人物が現れるのはどういう経緯なのでしょうか?人物といっても、それは伝説の人物だったり、ある家系におけるはっきりしない先祖だったりと、その実像は霞がかかったような姿をしています。またそれらケサル同士の関係も全くわかっていません。

しかし、この「ローマのカエサル」という名の威光が、アフガニスタンからさらにカラコルム~西部チベット、そして(その経緯はわからないが)チベット本土~東チベットにまで及び、「ケサル王物語」主人公の名として採用された、と考えることは可能でしょう。

これはRolf A. Steinが唱えた説ですが、一般には、これを「ローマのカエサルの英雄譚がケサル王ストーリーのモデルになった」という説だと誤解する人が多く、珍説として冷遇されているのは残念です。

あくまでスタンの説は、「ローマのカエサル」という「名/称号」が「ケサル王物語」主人公の名として採用されている(可能性がある)、と唱えているだけであって、そのストーリーにカエサルの英雄譚・人物像が直接反映されている、という説ではないことに留意する必要があります。

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ローマからアフガニスタンを経てチベットまで各地に点々と残る「(フロム・)ケサル」の名前。今はその地点を抑えることくらいしかできませんが、「フンザのケサル王物語」もケサル王物語成立の謎を解明する上で重要な証拠のはずです。

西のアレクサンドロス大王伝説と東のケサル伝説の境界がだいたいカラコルムあたりに来ることも意味ありげに見えます。フンザにはその両伝説が存在するのですから、両伝説の研究にとっても重要な場所ではないでしょうか。

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(注1)
リン・ケサル(gling ge sar)とトム・ケサル(phrom ge sar)は、実は同一人物とは限りません。

リン・ケサルは「ケサル王物語」の主人公、あるいは11世紀頃実在した(ということになっている)カム・リンツァン王国の王。トム・ケサルは、ボン教文献に登場する異国の王(主にテュルクの彼方にいる王)。『王統明示鏡』では文成公主の求婚者の一人としても登場します。この二名称についても、今のところ、きちんと整理されていません。

要するに、創作・実在・伝説上の人物を含めると「ケサル」と呼ばれる人物はいろいろな時代、あちこちにたくさんいるのです。これらをみな、一人の人物、あるいは一つの特定の勢力として無理に説明しようとすると、混乱するばかりで議論が収束していかないのです。

(注2)
カーブル・テュルク・シャーはテュルク系であるのは間違いないが、テュルクのどういう系統であるのか記録がない。

・稲葉穣 (2003) アフガニスタンにおけるハラジュの王國. 東方学報京都, no.76(2003), p.382-313.

では、中央アジアから南下してきたテュルクの一派ハラジュ(Khalaj)ではないか?、という説が提示されている。

また、カーブル・テュルク・シャーの祖とされるバルハ・テギン(Barha Tegin)は「チベットのテュルク」とされるが、この人物が想定されている7世紀初にはチベット(吐蕃)はまだ西方に進出しておらず、どうとらえるべきかわからない。

ハラジュは、後に大半がパシュトゥーンに同化してしまい、アフガニスタンではその名は消滅。ハラジュの一派はパシュトゥーンと共にインドに進出。15世紀には、短命ではあったがハルジー朝(デリー・スルタン王国の一つ)を樹立する。

またアフガニスタンから西へ向かったハラジュもいた。イラン西部にはハラジュ(Khalaj/Xalaj)を自称する民族が今も約四万人おり、テュルク系言語(ハラジュ語)を保持している。

(注3)
ザーブル王国は、本家筋のカーブル・テュルク・シャーと同時代にガズニ周辺を支配していた(680~872)。王号はRTBYL=ラトビルといい、テュルク系の官職名iltabarが訛ったものか?という説がある。

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(追記1)
アフガニスタンのカーブル・テュルク・シャーについては、一般に知名度は低いのですが、複数の研究者の尽力によりかなり解明が進んでいます。ここではその内容を紹介することはできないので、主な論文を示しておきます。

日本における第一人者は、もちろん桑山正進先生。桑山論文は大量にあるので、今回はごくごく主要なものに限りました。

・P.D.Pandey(1973)THE SHĀHIS OF AFGHANISTAN AND PUNJAB. Delhi.
・桑山正進(1981)迦畢試国編年史料稿(上). 仏教藝術, no.137(1981/7), pp.86-114.
・桑山正進(1982)迦畢試国編年史料稿(下). 仏教藝術, no.140 (1982/1), pp.80-117.
・Helmut Humbach(1983)Phrom Gesar and the Bactrian Rome. IN : Peter Snoy (ed.)(1983) ETHNOLOGUE UND GESCHICHTE : FESTCHRIFT FUR KARL JETTMAR. pp.303-308. Steiner, Wiesbaden.
・Abdur Rehman(1988)THE LAST TWO DYNASTIES OF ŚAHIS : ANALYSIS OF THEIR HISTORY, ARCHAEOLOGY, COINAGE AND PALAEOGRAPHY pp.xvii+373+xi+figs.22+pls.XIX. Renaissance Publishing House, New Delhi.
・桑山正進(1990)『カーピシー・ガンダーラ史研究』. 京都大学人文科学研究所, 京都.
・稲葉穣(1991)七-八世紀ザーブリスターンの三人の王. 西南アジア研究, no.35(1991), pp.39-60.
・桑山正進(1993)6-8世紀Kāpiśī-Kābul-Zābul貨幣と發行者. 東方学報京都, no.65(1993), pp.430-381, pls.I-VIII.
・J.Harmatta and B.A.Litvinsky(1996)16 Tokharistan and Gandhara under Western Türk Rule (650-750). IN: B.A. Litvinsky etal. (ed.) HISTORY OF CIVILIZATIONS OF CENTRAL ASIA VOLUME III. pp.367-401. UNESCO Publishing, Paris.
・稲葉穣(2003)アフガニスタンにおけるハラジュの王國. 東方学報京都, no.76(2003), pp.382-313.
・ヴィレム・フォーヘルサング, 前田耕作+山内和也・監訳(2005)第11章 イスラームの到来 ザーブリスターン/東アフガニスタンのトルコ系王朝とインド系王朝. 『世界歴史叢書 アフガニスタンの歴史と文化』収録. pp.278-282. 明石書店. ←英語原版 : Willem Vogelsang(2002)THE AFGHANS. Blackwell.

桑山先生には、カーピシー・キンガル朝やカーブル・テュルク・シャー~ヒンドゥ・シャーについて、一般向けの教養書をぜひ書いてほしいのですが、なかなか難しいのでしょうね。桑山先生が無理なら、お弟子さん筋に当たる稲葉先生に期待したいところ。

今のところは、フォーヘルサング本でその概要をつかむのが、一番手近な方法でしょう。

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(追記2)
なおこの話題は、いずれアップされるであろう「ケサル王物語に史実性はあるか?」に続きます。あんまり期待しないで待っていてください。

2012年2月25日土曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(34) 歴史上のケサル@ラダック/ギルギット

創作文学とみられる「ケサル王物語」とは別に、西部チベット方面には実在の人物扱い(史実かどうかわからない)のケサルが存在しています。

代表的なのは、『ラダック王統記』に語られている10世紀初めラダック東部を支配していた「ケサル王の子孫」を称するギャア王国。この王国は、中央チベットから落ち延びた吐蕃王家の末裔キデ・ニマゴン(skyid lde nyi ma mgon)と同盟し領土を保持した、あるいは激しく戦い敗れた、と伝えられています。

ラダック東部にいた「ケサル王」とはいったい何者なのでしょうか?どこから来たのでしょうか?そして、物語のカムのケサル王とどういう関係があるのでしょうか?

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11世紀後半、ラダック側からグゲ王国に侵攻した「ギャアのケサル(rgya gye sar)」という勢力についての記録もあります(『ンガリー王統記』)。これは前述のラダック東部「ケサル王の子孫」=ギャア王国の後裔とみなすことができるでしょう(ニマゴン時代の150年後に当たる)。

さらに、これは11世紀後半に西部ヒマラヤ一帯を席巻したラダック王ラチェン・ウトパラ(lha chen 'ut pa la)と年代がほぼ一致するため、同一勢力ではないか?と考える説もあります。この説に従えば、ラチェン・ウトパラ王は吐蕃王家の末裔とは別系統であり、「ギャアのケサル王」の子孫ということになります。

ラダック王の系譜は当然ながらチベット語の名前が続きますが、この「ウトパラ」という名は、チベット語ではなくサンスクリット語の「Utpala=睡蓮」そのまま。同王が非チベット系である、という説にとっては有利な証拠になります。

ただし、そもそもこの議論の基礎となっている『ラダック王統記』の16世紀以前の系譜がどれだけ正確であるのか?という疑問があり、このため、この問題もあまりつっこんだ議論まで到達しないのが現状。

このギャアの王は、チベット人到来前の先住民ダルドと推測されてはいますが、その出自ははっきりしません。また、クッルー史(『Kullu Vamsavali』)に現れるギャア・ムル・オル王国(7世紀)がその祖先に当たる、という説もあります。

ギャア王国の歴史については、女国、シャンシュン、中国史料に現れるラダック周辺の地名(秣邏娑(婆)/三波訶/娑播慈)などとのからみで、深く広く考察しなければならないのですが、その検討はいまだ未了。が、西部チベットの古代史を探る上で、今後ますます重要なテーマとなるはずです。

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ギルギット史にもケサル(キセル)が現れます。トラカン朝の一つ前の王朝はシャー・レイス(Shah Rais)朝と呼ばれています(注2)。その最後の王は、有名なシュリー・バダト(Shri Badat)(注3)。王朝の祖がキセル(Kiser)といいます。このキセルは、ラダック王の王子で、ギルギットにやって来て新王朝を開いた人物とされています。

このキセルとラダック(ギャア王国)のケサルは関係があるのでしょうか?それとも「ケサル王物語」が伝わったことにより、歴史の方が創作文学の影響を受けたのでしょうか?シャー・レイス朝が始まった年代も、「ケサル王物語」の成立年代や西部チベット~カラコルムに伝わった年代、何もかも謎のままです。

このあたりの調査研究はまだほとんど進んでおらず、謎が多い分野です。その分若手研究者にとっては、狙い目の分野でもあるんですけどね・・・。

私見としてはある程度まとまった考えがあるんですが、フンザに続いてギルギット史に長々と深入りするつもりは今はないので、いずれまた改めて・・・。

参考:
・August Hermann Francke (1926) ANTIQUITIES OF INDIAN TIBET : PART(VOLUME) II : THE CHRONICLES OF LADAKH AND MINOR CHRONICLES. pp.viii+310. Calcutta. → Reprint : (1992) Asian Educational Services, New Delhi.
・Luciano Petech (1977) THE KINGDOM OF LADAKH C.950-1842A.D. pp.XII+191. IsMEO, Roma.
・Ahmad Hassan Dani (1991) HISTORY OF NORTHERN AREAS OF PAKISTAN. pp.xvi+532. National Institute of Historical and Cultural Research, Islamabad. (改訂版も出ているようだ)
・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.xi+642. Dharamsala, India.

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(注1)
ギャア王国は10世紀以降もラダック王国からは独立した勢力として存続し続けたが、16世紀後半にラダック王国に従ったようだ。しかしその後も自治を保ち、「stod rgyal po(上手(ラダック)の王)」と呼ばれて尊崇され続けた。18世紀前半にはラダック王国宰相ソナム・ルンドゥプを輩出するなど、ラダック政府中枢を担うこともあった。

(注2)
シャー・レイス朝と、碑文などに王名が残るパトラ・シャーヒー朝、漢文史料に名を残す勃律王家などとの関係はわかっていません。同一、あるいは連続するものである可能性もありますが、今のところきちんと整理されていません。この交通整理はそのうちちゃんとやります、ってば・・・。

(注3)
シュリー・バダト王には、敬虔な仏教徒王、とする伝説と、残虐な人喰い王、という対照的な伝説がある。後者は典型的な「末代悪王」エピソードであり、史実そのままとは考えられない。またそのエピソードは、パミール~ヌブラ方面に流布しているロバ脚の人喰い悪魔(ヌブラでの名はジョ・ボンカン/jo bong rkang)伝説とよく似ており、カラコルム一帯に流布していた「人喰い悪魔」伝説を、末代悪王説話として取り入れたのだろう。

なおこの説話は、ミダス王伝説(「王様の耳はロバの耳」や「触るとなんでも金になる」の人)、アレクサンドロス大王(ズルカルナイン)伝説、シェンラブ・ミウォ伝説、シャンシュン王の王冠、ドゥンパの帽子などとも関係があり、壮大なスケールの話になるのですが、今はそっちに行くことはできません。いずれまた(こればっかり、とツッコミが入るはず)。

参考:
・Rohit Vohra (1995) Early History of Ladakh : Mythic Lore & Fabulation : A Preliminary Note on the Conjectural History of the 1st Millennium A.D. IN : Henry A. Osmaston & Phillip Denwood (ed.) (1995) RECENT RESEARCH ON LADAKH 4 & 5 : PROCEEDINGS OF THE FOURTH AND FIFTH INTERNATIONAL COLLOQUIA ON LADAKH. pp.215-233. Motilal Banarsidass, Delhi.

2012年2月24日金曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(33) フンザに残る「ケサル王物語」

フンザが明らかにチベットから影響を受けた文化として、「ケサル王物語」(注1)があります。

「ケサル王物語」がアムド・カム~ウー・ツァン、さらにラダックに分布していることはよく知られています。特にラダックの「ケサル王物語」は西洋では最も早く知られたヴァージョンで、20世紀前半には唯一の入手可能資料でもありました。

ラダックからさらに西に進み、バルティスタンにも「ケサル王物語」があります。ここは今はイスラム圏とはいえ、まだチベット語圏内ですから理解できます。しかし、フンザにまで「ケサル王物語」があるとなるとちょっと不思議です。

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フンザ版「ケサル王物語」のストーリーは、出生、嫁取り作戦と王への成り上がり、北の悪魔退治、対ホル戦争までの基本的なストーリーが揃っており、主な人名・地名もKiser(ge sar)、Brumo('brug mo)、Ling(gling)、Hor(hor)と、チベット版とほぼ同じです。

「ケサル王物語」はチベット文化圏を越えてモンゴルやカラコルムにまで広がりをみせているのですが、対ホル戦争まではほぼ同じストーリーが保持されており、驚くべき均質性を示しています(注2)。

対ホル戦争までのストーリーが完成した段階で各地に流布したのは間違いないでしょう。ただし発生地点や伝わった年代・経路はいまだ確定されていません。

対ホル戦争までのストーリーで、一番違いを見せるのが冒頭・出生の部分。チベット本土のヴァージョンではグル・リンポチェなどが現れ仏教的な潤色がなされているのに対し、ラダック、バルティスタン、フンザでは仏教的な潤色が一切ないのが特徴。おそらくこちらの方が原型に近いのでしょう。

フンザの「ケサル王物語」も、吐蕃時代から続く、というよりバルティスタンとの交流で伝えられたもの、と考えるべきでしょう。「ケサル王物語」の成立時期は11世紀頃という説が有力ですし、フンザへの伝播を、吐蕃時代にまでさかのぼらせるのは難しそう。チベット本土ではその後、後続ストーリーが多数創作されましたが、西部チベット方面に伝わったのは対ホル戦争までのコア・ストーリーだけでした。

「ケサル王物語」の成立時期、成立地点、発展過程、伝播経路の研究の上でもフンザの「ケサル王物語」は重要な位置にあるのですが、Lorimerが報告して以来、あまり注目されたことはないのは残念。

参考:
< ラダックのケサル王物語 >
・August Hermann Francke (1941) A LOWER LADAKHI VERSION OF THE KESAR SAGA. pp.xxxii+493. Royal Asiatic Society of Bengal, Calcutta. → Reprint : (2000) Asian Educational Services, New Delhi.
・Tsering Mutup (1983) Kesar Ling Norbu Dadul. IN : Detlef Kantowsky+Reinhard Sander(ed.) (1983) RECENT RESEARCH ON LADAKH : HISTORY, CULTURE, SOCIOLOGY, ECOLOGY. pp.9-28. Welforum Verlag, Munchen.

< バルティスタンのケサル王物語 >
・岡田千歳 (2001~03) 叙事詩「ケサル物語」の挿入歌について パキスタン北部バルティスタンの調査報告(1)~(3). 桃山学院大学教育研究所研究紀要, no.10~12.

< フンザのケサル王物語 >
・David Lockhart Robertson Lorimer (1935) THE BURUSHASKI LANGUAGE II : TEXT AND TRANSLATION. Instituttet for Sammenlignende Kulturforskning/Aschehoug, Oslo. (ブルシャスキー語で語られた昔話集) → Reprint : (1981) FOLK TALES OF HUNZA. pp.196. National Institute of Folk Heritage, Islamabad. (上記書の英訳部分のみを抜粋したもの)

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(注1)
「ケサル王物語(ge sar gyi sgrung)」は、チベット文化圏全域およびモンゴルに流布している長大な叙事詩。リン国(gling)に生まれたケサル(ge sar)がその国の王に成り上がり、ホル国(hor yul)などの諸国と戦う、というストーリー。本来は口伝で伝えられた物語で、ドゥンパ(sgrung pa=物語師)が代々語り伝えてきた。近年、チベット語、中文訳書、欧文訳書などの形で文字資料として残されるようになった。

チベットの「ケサル王物語」の邦訳書は、

・君島久子 (1987) 『ケサル大王物語 幻のチベット英雄伝』. pp.222. 筑摩書房, 東京. (中文訳本からの重訳であり、子供向けの抄訳)

しかなく、お寒い現状。各地の「ケサル王物語」邦訳稿は他にいくつかあるが、断片的なもの。

モンゴルの「ゲセル王物語」(モンゴルでは「Geser」となる)の邦訳書は、

・若松寛・訳(1993) 『ゲセル・ハーン物語』. pp.429. 平凡社東洋文庫566, 東京.

がある。

ケサルに関する論考でアプローチしやすく、また優れたものとしては、

・金子英一 (1987) ケサル叙事詩. 長野泰彦+立川武蔵・編 (1987) 『チベットの言語と文化』所収. pp.408-427. 冬樹社, 東京.

がある。

(注2)
チベット本土の「ケサル王物語」では、対ホル戦争の後に、対ジャン('jang/南詔)戦争、対モン(mon/南の異民族)戦争、対タジク(stag gzigs/ペルシア)戦争などなど、同工異曲の戦記が延々と続き、最後はケサルが天に戻る話で完結する長大なものになっている。

しかし、ラダック、バルティスタン、フンザに流布しているヴァージョンは、いずれも対ホル戦争の勝利で終わるシンプルなストーリー。おそらくこれが「ケサル王物語」のコア・ストーリーであり、西部チベットに伝わるヴァージョンは「ケサル王物語」の原型を伝えるものと考えてよさそう。

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(追記)@2012/02/25
各地の「ケサル王物語」の比較を試みた先駆的な研究として、次のような論文があります。

・角道(かくどう)正佳(1997)土族のゲセル. 大阪外国語大学論集, no.18(1997), pp.225-250.

著者は土族についての研究者らしいのですが、土族をはじめアムド、裕固族、デード・モンゴル(青海モンゴル)、モンゴル、オイラト、そしてフンザに伝わる「ケサル王物語」を用いて、各モチーフの比較検討を行っています。

「ケサル王物語」の発祥の時期・場所、伝播、変容を探索するには、まずこのような基礎的な研究が不可欠です。が、地域が広範にわたる上に、言語もチベット語をはじめモンゴル語、ブルシャスキー語など多岐に渡るため、なかなか研究も思うに任せないようです。

角道氏は、必ずしも「ケサル/ゲセル」を専門とする方ではないので、当分野に関してはその後発展がきかれないのが残念です。が、今後このような各地の「ケサル」の比較研究が盛んになることが望まれますし、実際進むのではないかとワクワクしています。

2012年2月20日月曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(32) フンザの麺料理・ダウロ/ダウドの謎-その2

ダウロにはもう一つ重要な特徴があります。それは、麺料理であるよりもスープとしての性格が強いこと。前述のように、場所によっては麺がみっちり入ったものもあり、かなりヴァリエーションはあるのですが、おおむねスープ・メインと考えていいでしょう。

これは麺を主体とするラグマン(スユック・アシュ)、トゥクパとは一致しない特性です。似た料理が近隣にないでしょうか。

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・石毛直道 (1991) 『文化麺類学ことはじめ』. pp.298. フーディアム・コミュニケーション, 東京. → 改題の上再版 : (2006) 『麺の文化史』. pp.395. 講談社学術文庫1774, 東京. (注)

には、キルギスタンの麺料理ウグラー(ugra、ウズベク語)/ウゴロー(ugoro、タジク語)/ケシマ(kesima、キルギス語)というものが取り上げられています。


ウグラー@キルギスタン・オシュ
石毛(1991)より

これはスープ(写真ではどういったタイプのスープかわからないが、マトンをダシに塩で味付けしたものか?トマトは入っていないよう)に、幅2~3mmと細くてなおかつ短い切り麺を入れたもの。麺はスープで直接煮込むようです。

ダウロも似た調理法をとるらしく、乾麺状態のスパゲッティやマカロニをいきなりスープで煮込んでいるようです。よって麺の芯が茹で上がる前に周囲が溶け出し、スープにはとろみが出てきます。だから、意外にできあがりまで時間がかかっていましたね。

スープ・メインという性格といい、短い麺といい、麺を直接スープで煮るという調理法といい、ウグラーとダウロはよく似ています。

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石毛(1991)には、さらに気になる報告があります。

> ウズベク族もウグラーを食べるが、タジク族が一番よく食べる。
> キルギス族はあまり食べない。

フンザのすぐ北にはタジク系のワヒー人が住んでおり、フンザ本体とは密接な関係にあります。また、そのワヒー人の故郷ワハーン谷ともフンザは交流を続けてきました。

このタジク/ワヒー人経由で、ウグラーがタジク→ワヒー→フンザへと持ち込まれ、ダウロとなった可能性が考えられます。

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なお、ウグラーは東トゥルキスタン(ウイグル)にもあります。

・しみずゆりこ/新疆瓦版-ウルムチまでは何マイル? > 異邦人(マレビト)の目から見たウイグル > ウイグルの暮らしと文化 > ウイグルの食文化 > II. ウイグル料理~小麦料理編~
http://home.m01.itscom.net/shimizu/yultuz/uighur/culture/food/index.htm
・愛の架け橋 > 2007-07-25 ウイグル人料理(7) ウグレ
http://blog.okinawabbtv.com/kakehasi/index.php?catid=7060
・knol : A unit of knowledge > Uyghur Noodles (Ugra)
http://knol.google.com/k/yushanjiang-simayi/uyghur-noodles-ugra/2ystybnyf5mc5/19n

を見ると、スープ・メインというのは同じですが、麺は細いとは言えず、また長く、量も多そうに見えます。西トゥルキスタンのウグラーとはちょっと違っていますね。ダウロに似ているのは西トゥルキスタンのウグラーの方でしょうか。

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石毛(1991)によれば、イランにはアウシュ(スープ)、アフガニスタンにもアウシュ(麺入りスープ)という料理があって、西トゥルキスタンのウグラーと関係がある、とみられています。

ウイグルのスユック・アシュの「アシュ」もこれと同源の単語でしょう。ウイグル語では「麺」を意味するらしいのですが、ではこれがペルシアまで伝わり、そちらでは肝心の麺が抜けてスープだけになったのか?わからないことだらけです。

内陸アジアでの麺料理伝播は大半が「東→西」という流れなのですが、もしかするとアウシュ/ウグラーだけには、局所的にタジク→フンザという「西→東」という流れがあるのかもしれません。

この件に関しては、自分はもとより専門家による検討もいまだ充分ではなく、満足いく結論に到達はできません。しかし、ダウロとウグラーには関係があり、そしてタジク~ワヒーがこれを媒介したのではないか?という仮説を立てることはできそうです。

今のところ手元にタジク~ワヒーの食文化に関する資料がなく、彼らがどういうウグラーを食べているのかはっきりしません。特に最も重要な上フンザのワヒーについて全くわかっていないので、もっと調べる必要があります。

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ダウロの成立にはこれで、トゥルキスタンのウグラーとラグマン(スユック・アシュ)、チベットのトゥクパ(特にテントゥク)、と3つの源流が想定できそうです。しかし、調べていくうちにどちらかというとトゥルキスタンからの流れの方が太そうな気もしてきました。

ダウロの麺やスープにヴァリエーションがみられるのは、各々の影響力の大小に起因するものなのかもしれません。

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最後に「ダウロ」という名称についてですが、これがまた皆目わかりません。手元のブルシャスキー語語彙集には、めぼしい単語はありませんでした。

トゥルキスタンの麺料理の中にも、似た名前は今のところ見つかりません。

石毛(1991)には、ブータンのあんかけうどん「タルメン」という料理が現れます。これは中国のあんかけ麺「打滷麺(ダァルゥミェン)」直系の麺料理と考えられています。

ダウロとは名前がちょっと似ています。ダウロでは麺が溶けだしてスープにとろみがついているあたりも、このタルメンと共通点があります(タルメンの方はおそらく片栗粉でしょうけど)。しかし、私はチベット本土でタルメンを見たことがなく、さらにラダックの方でも見たことがありません。ブータンにもどういう経路で中国から伝わったのか明らかではありません。

中国の打滷麺が、少なくともその名称が、チベット→西部チベットを経てフンザにまで伝わった、とするにはまだまだ証拠が足りません。

今のところは、ダウロの語源も謎とする他ありません。

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思ったより大作になってしまいましたが、麺料理ひとつとっても、フンザにはトゥルキスタンやチベット双方の影響が想定できるわけです。それもかなり複雑な経路が想定できます。

フンザの文化は、近隣の多様な世界と反応しながら成長してきたもので、フンザを「外界から隔絶した隠れ里」とする考え(というより商売上のキャッチフレーズ)にはとても賛成できません。

しかし、ダウロの食文化調査・研究は今のところ見当たりません。フンザに関する研究は、この分野に限った話ではないのですが、未着手の問題だらけです。

ここで延々書き続けていることでもわかるように、フンザについては興味深い話題ばかりです。が、問題は山積み。とても私がそれを次々処理できるものでもありません。いずれ各分野で、新進気鋭の研究者が現れて解決してくれることを期待しましょう。

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(注)
原版はカラー写真が豊富。料理の実体を詳しく知るために、文庫版『麺の文化史』でなく、原版『文化麺類学ことはじめ』の方を入手する意義は大きい。

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(追記1)
以上は2年以上前にすでに書き上げていたものですが、最近見つけたサイトに次のようなものがあります。

・和人+あづさ/旅して~世界206ヶ国&旅と暮らし>2人の世界旅>その土地の食>パキスタン>ダウロまたはダウド…パキスタン
http://tabisite.com/hm/shoku/v75/11071508.html

こちらではすでに、フンザのダウロとアフガニスタンのオシュ/イランのアシュが同類の料理であることが指摘されています。

この記事がいつ発表されたのかはわかりませんが、著者がフンザを訪問されているのは2011年7月らしいので、記事のアップはそれ以降と思われます。

とはいえ、オシュ(アフガニスタン)/アシュ(イラン)は、麺料理という性格上、東方(直近の発信源は西トゥルキスタン)から伝播したものとみられますし、ダウロ(フンザ)とじかにつながるものではないと私は考えます。

上記3種の麺料理はすべて西トゥルキスタンのウグラーが発信源でしょう。特にそれをフンザへ伝える役割を果たしたのがタジク系ワヒー人か?というのが、私独自の説、ということになります。

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(追記2)
ダウロに関しては、昔、国立民族学博物館友の会の会誌「月刊みんぱく」内の質問コーナーで、石毛直道先生に直々に答えていただきました。あれからずいぶん経ちましたが、ようやくその恩返しができたような気がします。

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(追記3)@2012/02/23

・坂本一敏(2008)『誰も知らない中国拉麺之路(ラーメンロード) 日本ラーメンの源流を探る』. pp.238. 小学館101新書009, 東京.

という本があります。多様であり、かつ大量に存在する中国麺の世界を食べ歩き、中国→日本への麺類伝播を探索した大変な労作。

薄味新書乱発の大海に埋もれてしまい、ほとんど無名なのは残念。もっと読まれてしかるべきな本。

本書の最後は、中国領西はずれとしてのフンジェラブ峠。ちょっと足を伸ばせば、著者もフンザのダウロに遭遇し、新たな世界が広がるはずであった。残念。でも、それでは「中国麺の世界」を逸脱してしまうから、それでよかったのかも・・・。

2012年2月19日日曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(31) フンザの麺料理・ダウロ/ダウドの謎-その1

今回は余談みたいなもんですが、フンザの麺料理「ダウロ/ダウド(dauro/daudo/dawdo)」について。

フンザには麺料理があります。麺料理といっても中国の各種麺類、日本のそば/うどん/ラーメン、チベットのトゥクパとは違い、どちらかというとスープに比重がかかったものです。量も少なく、丼ではなく小ぶりの茶碗で出てきます。

こういった麺料理がフンザ・オリジナルで出現したとは思えません。パキスタン平野部にこういった麺料理は存在しないので、そちらから来たとも考えられません。

当然、隣接地域に存在している麺料理、チベットのトゥクパ、トゥルキスタンのラグマンとの関係が注目されます。これらに加え、同じトゥルキスタンの料理ではありますが、至って無名なウグラー/ウゴロー/ケシマというヌードル・スープが鍵を握っているのではないか、とにらんでいます。

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フンザでダウロを食べたのはだいぶ昔なのですが、当時は食文化にはあまり興味はなかった上に、フィルムをケチっていたので(注)、残念ながらダウロの写真は撮っていません。ダウロの写真は各種旅行記サイトでご覧ください。

・パキスタン風 pakfu.exblog.jp > 10月17日 フンザの伝統料理
http://pakfu.exblog.jp/6704480/
・satomi / 旅 tabiato 跡 - blog > 10. パキスタン > 2006年05月01日 ああ、癒しのダウロ@ギルギット
http://blog.livedoor.jp/albmire/archives/cat_50008319.html
・Masakis Sawai / 南船北馬 WORLD TRAVEL SITE > 旅の間に食べた料理の写真と感想です。> 南アジア > パキスタン
http://sawai.ms/gyu/gyuasia2.html
・坂口克 / 5月3日(水) フンザお散歩
http://www.sakaguti.org/honmon%20page/pakistan/hunza/hunza.htm
・xiaokobamiki / 私の旅はこんな旅 > ギルギットからヤシンへ (パキスタン) > 10/21'06 ギルギットからヤシンへ
http://kobamiki.exblog.jp/6421816/
・Haruko Y. Izawa / お宝発見!体験型異次元空間 > 突撃!食の探検隊 > Food in 南アジア > Pakistan パキスタン > 《北部フンザの食事》ダウロ
http://sekitori.web.infoseek.co.jp/Food/w_PK_fd8_dauro.html

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ダウロ発祥の地はフンザで間違いないのですが、ギルギット、ラワルピンディ、ラホールなどでも見かけるようです。おそらくフンザ人が移住して住んでいるのでしょう。

上にあげたサイトの写真を見ると、一口にダウロといってもかなりヴァリエーションがあります。麺とスープに分けてその内容を検討してみましょう。

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まず、スープですが、私が食べたフンザの3ヶ所では例外なくトマト・ソースでした。見た目は真っ赤で油が浮き、辛そうに見えますが、唐辛子は入っていません(と思う)。胡椒がきいていた記憶はあります。肉のダシはほとんどきいてないのでごくあっさりした味です。

ダウロだけで一食をまかなおうとすると、量も少ない上にあっさり味なので、かなり物足りなく感じます。これはやはりメイン・ディッシュではなく、スープとしての役割が大きいのでしょう。

パキスタン平野部から北上していくと、マトン+バターのこってりカレーに胃が疲れてきます。そしてフンザに着くと、日本人にはダウロのあっさり味が懐かしく感じられるようです。

考えてみると、各種ウェブサイトでもダウロを取り上げているのは、なぜか日本人ばかりです。欧米のサイトでは、ダウロに注目している人は皆無に近い有様。やはりダウロに、東洋の食事(特に中国料理)に近いものを感じているのですね。また、麺好き民族=日本人の面目躍如といったところでしょうか。

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さて、このトマト・ベースのスープですが、これはトゥルキスタンの麺料理ラグマンのスープと同じです。当然起源をそちらに求めることができるでしょう。

フンザは古くからトゥルキスタンと関係が深く、共産中国成立前にはパミール北側に放牧地を持ちカシュガル/ヤルカンドとの交易も盛んでした。

ただし、ラグマンは現中国・東トゥルキスタンと旧ソ連・西トゥルキスタンでは内容が違っています。東トゥルキスタン(タリム盆地)ではラグマンといえば、麺に具をかけるだけの汁なし麺で、中国語では「拌麺(バンミェン)」という食べ方が主となります。一方、西トゥルキスタン(旧ソ連中央アジア)では、トマト・スープの汁麺です。この汁麺は、東トゥルキスタンの方ではスユック・アシュという名前になります。ダウロと関係しているのは拌麺ではなく、このスユック・アシュの方でしょう。

参考:
・しみずゆりこ/新疆瓦版-ウルムチまでは何マイル? > 異邦人(マレビト)の目から見たウイグル > ウイグルの暮らしと文化 > ウイグルの食文化 > II. ウイグル料理~小麦料理編~
http://home.m01.itscom.net/shimizu/yultuz/uighur/culture/food/index.htm

しかし、上記の諸サイトを見るとダウロのスープは必ずしもトマト・ベースとは限らないようです。ものによってはマトンのダシがよくきいているものもあり、ターメリックで黄色くなったマサラ味ありと様々。

ダウロといえばトマト・スープと思っていた私には、かなり意外でした。マトンのダシに塩で味つけしただけのスープは、ラグマン(スユック・アシュ)よりもチベットのトゥクパの汁に近くなってきます。

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麺の方を見てみましょう。フンザで食べた3食のうち、2食は短いスパゲッティやマカロニが入っている、というより浮かんでいる、といったもの。麺がメインではないように感じました。

スパゲッティやマカロニというのは比喩ではなく、本当に市販のスパゲティやマカロニが入っているのです。ちょっと興ざめしますね。この麺へのこだわりのなさがまた、スープ・メインであることを強く感じさせます。

スパゲッティはわざわざ短く折った上で入れてあるので、麺をすするという食べ方はできません。当然箸は使いません。フォークに類する道具も使いません。スプーンですくって食べるだけです。食べにくいったらありゃしない。

しかし諸サイトで見ると、意外に麺がたっぷり入ったものもあり、「メインはスープか?麺か?」という問題は、もう少し検討の余地がありそうです。

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フンザでダウロを食べた当時はあまり気にしていなかったので記憶が定かではないのですが、3食のうち1食だけ、麺はスパゲッティやマカロニではなく幅広麺を短く切ったものでした(・・・だった記憶がある)。

記憶もおぼろげになり、あれは他の場所と混同してるのかなあ?と不安になったりしましたが、

・Lahore Pakistan > 日記帳(パキスタンラホール生活史) > 2003年12月 > 12月7日
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/2612/geodiary0312.html

に、

> むせるフンザ麺:
> ダウロと呼ばれる、パキスタンの桃源郷フンザで
> 食べれるうどん。トマトベースでペッパーの雨。
> 平たい麺とスープで、3人でむせながら食道にながす。

という記述を発見し、やはり幅広麺の記憶は間違いないと確信しました。

これはチベットのテントゥク('then thug)を思い出させます。テントゥクも幅広麺を短く切ったものです。麺を汁と一緒に煮込むので麺の表面が溶けだし、汁は「あんかけ」風のどろっとしたものになります。

東トゥルキスタンのラグマン(スユック・アシュ)にも幅広麺をちぎったものがあり、「ウズップ・タシュラップ」あるいは「麺片/メンペル」と呼ばれます。テントゥク自体、トゥルキスタンに近いアムドに起源を持つ、という話を聞いたことがあり、おそらく両者は同源なのでしょう。

こうなると、ダウロの幅広麺については、どちらの影響かわからなくなります。

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チベット~フンザ間の「麺事情」を概観しておきましょう。

チベット本土では、トゥクパといえども、麺は市販の乾麺うどんになっています。それは食堂でも家庭でも同じようです。小麦粉を生地にして麺を作るやり方はかなり手間がかかるので、ほとんど見たことがありません。

ラダックでは、食堂では市販の乾麺を使っています。これは黄色く縮れた麺(おそらく鹹水が入っている)でラーメンと似ています。これを朝一で大量に茹で、茹で上がったら一食ずつにわけてテーブルの上に並べふきんをかけておきます。で、注文が来たらチャッチャッと湯通ししマトン・スープに入れます。日本の「立ち食いそば屋」スタイルですね。

ラダック、特にレーの外食におけるチベット料理の担い手は、実はラダッキではなく亡命チベット人やネパールのシェルパなのです。ですから、レーの食堂のメニューだけをもってラダック料理を判断することはできないのですが、外食産業(というほどの規模ではないが)でのトゥクパの現状はこんなところです。

ラダックの家庭では、今も小麦粉生地から麺を作るやり方が行われていますが、手間がかかるのでこちらもインスタント・ラーメンなどに取って代わられつつあります。



これはヒマーチャル・プラデシュ州パーンギー、チベット系の家庭で見せてもらった麺作りの様子です。小麦粉生地から手でよって麺を細く練り出しています。延べ棒やら包丁やら押し出し機などは使わない、最も基本的な麺作りですね。油なども塗っていないので非常に手間のかかる仕事です。客として歓待されている証拠ですから、いたく感銘を受けました。

なお、幅広麺の料理テントゥクはラダックにも存在していますが、これも亡命チベット人が持ち込んだ可能性が高そうです。それ以前、ラダックにテントゥクが存在していたかどうかは、今のところわかりません。

さて、バルティスタンでは、トゥクパは一般にはもう見かけませんが、スカルドゥに「Tibetan Restaurant」と称する店が2軒あり、そこにチャウメン(焼きそば)がありました。しかし、麺は市販のスパゲッティです。調理方法や味も中華風で、聞いたところカシュガルだかで修業したと言っていました。印パ国境が閉ざされて半世紀ですから、食文化の面でも、チベット側との断絶はどんどん広がっているようです。

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こういった周囲の状況も踏まえた上で、このフンザのダウロの起源を考えてみましょう。

はっきりした結論は出ないのですが、トマト・ベースのスープにはトゥルキスタンのラグマン(スユック・アシュ)からの影響を、幅広麺にはチベットのテントゥク/ラグマン(スユック・アシュ)双方からの影響を感じさせます。トゥルキスタン、チベット(というよりバルティスタン/ラダック)双方との交流の結果生まれた料理と言えるかもしれません。

麺については、ごく一部を除き今はほとんど市販のスパゲッティ/マカロニになっているため、麺の性格から起源を探索することは難しくなっています。手打ち麺であれば、もうちょっと起源探索のヒントになるんですが。

スープに関してはトマト・ベースでないものもかなりありますから、それらはむしろチベット・トゥクパの影響が強いのかもしれません。

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新大陸原産の野菜であるトマトは、いつトゥルキスタンに入ってきたのでしょうか?トマトは中国料理ではまず使われない素材です。そのルートは中国からではないでしょう。では西から?ラグマンの麺は東から来て、トマト・ベースのスープはそのずっと後に西から来たのでしょうか?

これはラグマンの起源にかかわる問題になってしまいます。実はラグマン自体もあまり詳しく研究が進んでいるわけではないので、ここであまり突っ込んだ検討はできません。

トマト自体、ヨーロッパ(特にスペインやイタリアなどの南ヨーロッパ)で食用として利用されるようになったのは17世紀です。トゥルキスタンにトマトが入ってきたのは、もちろんそれよりずっと後でしょう。

こうして考えると、トマト・スープがフンザに入ってきたのも、かなり最近の出来事ではないか?とも考えられます。ひょっとすると、すでにダウロがあったところにトマト・スープが加わった可能性だってありそうです。トマト・ベースでないスープのダウロがあちこちに見られることからも、それが窺えます。

トマト・スープを基準にダウロの起源を考えるのはどうも危険ですね。

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そうなると、ダウロはチベット・トゥクパとの関係の方が深そうな気もしてきます。

ところが、実はチベットのトゥクパもあまり研究が進んでいないテーマです。中国の麺料理の影響であるのは間違いありませんが、ではいつチベットに広まったのか、麺の作り方などの分布・発展史なども皆目分かりません。

チベット史文献というのは、これはもう徹頭徹尾仏教がらみのことばかりが書かれていて、こういった庶民の習俗などは完全無視です。一般人の日常生活が記録に残るようになるのは、欧米人が入り込むようになってから、大半は19世紀以降です。トゥクパもいつごろから中央チベットで普及し、それがいつ西部チベットに伝わったのか全く謎です。もちろん、さらにフンザまでトゥクパが伝わった記録などあるはずがありません。

ダウロとトゥクパの関係を強く感じさせるものも幅広麺(テントゥク)くらいしかありません。そのテントゥクも西部チベットにいつ入ってきたのか、フンザまで伝わる機会はあったのか、などわからないことだらけです。

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(注)
パキスタンからカシュガルへ抜け、すぐさま新蔵公路でンガリーへ向かったので、そのンガリーでフィルム切れになるのが心配だったのです。

2012年2月17日金曜日

ヒマーチャル小出し劇場(2) 山上の貴婦人パラーシャル・リシ・マンディル

人里離れた山頂にひっそりとそびえているパラーシャル・リシ・マンディルは、ヒマーチャル最大の穴場。

「山上の貴婦人」というキャッチフレーズは私がつけたものですが、その外観に対するイメージです。祀られているのはリシ(聖仙)。女神を祀っているわけではないので注意。



2012年2月16日木曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(30) バルティット故城/神降ろしビタン

フンザの象徴としてそびえ立つバルティット故城は一見してチベット風の建築であることがわかります。


バルティット故城@フンザ

しかし、これはそれほど古い建築物ではありません。17世紀前半、フンザ王アヤショ二世(Ayasho II)は、スカルドゥ王アブダル・カーン(Abdal Khan)の王女シャー・ハトゥン(Shah Khatun)を王妃に迎えました。これを契機としてバルティスタンから工人を呼び寄せ、バルティット城と下手のアルティット城を建てたものです。

そういった経緯で、チベット建築の流れをくむ建築物がフンザにも見られるわけです。その名「Baltit」が、「バルティ」にちなむことも言うまでもありません。

フンザとバルティスタンの関係が一番親密になったのは、この頃でしょうか。「ブルシャ」、「ブルシャスキー」というチベット語(バルティ語)がフンザに入り、自称として使われるようになったという仮説に組み入れるならば、その契機をこの時代に置いてみるのもひとつの案でしょう。

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フンザなどに見られるフラット・ルーフの民家建築はチベットと共通ですが、これは一方的にチベットからの影響であるとはいえません。民家建築はその地の気候・風土・建築材料のあるなしに規定されますから、言えることは、カラコルムとチベットの気候・風土は似ており、フラット・ルーフの民家がそれに最も適した建築である、ということだけ。

また、これはフンザだけではなくバルティスタンにも見られるのですが、この一帯には尖塔を持った形状のマスジド(モスク)があり、これを「チベタン・モスク」と呼ぶ人もいます。


尖塔マスジド@バルティスタン

しかしこれはチベット建築ではなく、カシミールに起源を持つ建築様式です(スリナガルのシャー・ハムダン・マスジドなどが代表例)。


シャー・ハムダン・マスジド@スリナガル

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フンザにはビタン(Bitan)と呼ばれる「神降ろし」がいます。いわゆるシャーマニズムですが、チベット文化圏のラバ(lha ba)と非常によく似ています。しかしこれも単純にチベットからの影響と考えることはできません。チベット文化やイスラム文化が形成される以前から、ヒマラヤ一帯にあった文化が、新興の宗教(仏教やイスラム教)に消されずに生き残っている、と考えるべきでしょう。


トランス状態のBitan
Homayun Sidky(1995)HUNZA : AN ETHNOGRAPHIC OUTLINE. Illustrated Book Publishers, Jaipur. の表紙より

2012年2月14日火曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(29) フンザ~ギルギットに残るチベット語

フンザ~ギルギットにはチベットの影響が今もいくつか残っています。

まず、ことば。ギルギットのシナー語、フンザのブルシャスキー語にはチベット語/バルティ語の単語がいくつか借用されています。

ブルシャスキー語
祖母 : api/epi ← a phyi(チベット語古語/ラダック語/バルティ語)
塩 : payu ← pa yu(バルティ語/プリク語)
米 : bron/bras ← bras(チベット語)
そば(穀物): bro ← bra bo/bra'o(チベット語)
ポプラ(木): byarpha ← dbyar pa(チベット語)
ハンカチ : lagphis ← lag phyis(チベット語)
幕営地 : brangsa ← 'brang sa(チベット語)

シナー語
たまねぎ : tsong ← cong(チベット語)
そば(穀物): bro ← bra bo/bra'o(チベット語)
靴下 : kangtse ← rkang tse(バルティ語)
ソーダ(鉱物): phul ← bul(チベット語)
約束 : chadkha ← chad ka(チベット語)

出典:
・John Biddulph (1880) TRIBES OF THE HINDOO KOOSH. pp.vi+164+clxix. Calcutta. → Reprint : (2001) Bhavana Books & Prints, New Delhi.
・Homayun Sidky (1995) HUNZA : AN ETHNOGRAPHIC OUTLINE. pp.209. Illustrated Book Publishers, Jaipur.
・Syed Muhammad Abbas Kazmi (1996) The Balti Language. IN : P.N. Pushp+K. Warikoo(ed.) (1996) JAMMU, KASHMIR AND LADAKH : LINGUISTIC PREDICAMENT. pp.135-153. Har-Anand Publications, New Delhi.

これらが吐蕃時代から続くものなのか、バルティスタンとの交流(注)の結果比較的近年にもたらされた影響なのか、わかりませんが、単語のいくつかにチベット方面からの影響があることは間違いありません。

「ブルシャ」という地名・民族名、「ブルシャスキー」という言語名もそういった過程でチベット/ラダック/バルティスタンから比較的近年にもたらされた、という可能性もありますが、他称であったものが自称として採用されたのであれば、それには何か重要な契機があったはずです。それがわかりません。

また、自称「Burusho」、「Burushaski」が、吐蕃と関係が深かった8世紀頃から続くものであったならば、何らかの記録が残っていそうなものですが、それは一切ありません(あるのはチベット側からの他称としてのみ)。よって、どちらかというと「比較的近年にチベット/バルティスタンからもたらされたのでは?」という考えに傾きつつあるのですが、証拠がなさすぎます。

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(注)
フンザ・ナガルとバルティスタンの間にはカラコルム支脈の高山が横たわり一見通行不可能であるかのように思えるが、ナガルからヒスパー氷河~ヒスパー峠~ビアホー氷河を経てアスコールへ抜けるルートは、氷河が延々続く厳しい道ながら古くから重要な交易路であった(トレッキング・ルートとして、また「スノーレイク」のある場所としても有名)。

ナガルの人々にはモンゴロイドの形質が見られ、フンザの人々とは外見が異なる。これはこのルートでバルティスタンとの交流が続いた結果と考えられている。

バルティスタン・シガル(Shigar/shi dgar)の王家は、ギルギットのトラカン朝の傍系で、フンザ・ナガルの代官を務めていたチャタム(Cha ThamあるいはShah Hatam)が、いとこであるギルギット王ハイダル・カーンと争い、そして敗れてシガルに亡命したことに始まる、とされる(14世紀か?)。この際の亡命ルートも、敵の領地ギルギット~インダス川経由の道は取れないので、当然ヒスパー氷河経由だったはずだ。

2012年2月12日日曜日

ヒマーチャル小出し劇場(1) シェインシャルの五重塔寺院

出版企画丸ごと没にされたヒマーチャル・ガイドブックから、小出しで絶景を紹介するこのシリーズ。

その第1回はシェインシャルの五重塔寺院マヌ・リシ・マンディル。旅行情報や寺に関する情報は省略。雰囲気だけお楽しみください。