2012年2月26日日曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(35) アフガニスタンのケサル王

ギルギット~フンザから西へちょっと足をのばすと、もうアフガニスタンです。アフガニスタンには、8世紀に「フロム・ケサロ(From Kesaro)」という名の王が実在していました。チベットのケサルも「phrom ge sar(トム・ケサル)」と呼ばれることがあります(注1)。両者はどういう関係にあるのでしょうか。

この王は7~9世紀にカーブル周辺を支配したカーブル・テュルク・シャー(注2)の一人。カーブル・テュルク・シャーはその傍系のザーブル王国(注3)と共に、長らくイスラム軍の東進を阻んできました。この王は、漢文史料には「拂菻罽裟」の名で現れます。

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この名は「ローマのカエサル」の意味です。カエサルといえばローマ共和国末期に活躍した独裁官ですが、共和国から帝国となるとその名はローマ皇帝の別称として機能するようになり、後には皇帝を補佐する「副帝」の名称となりました。これはローマ帝国が東西分裂後も東ローマ帝国(ビザンティン帝国)に受け継がれ、正帝アウグストゥスと副帝カエサルの称号が使われてきました。

カーブル・テュルク・シャーは、東ローマ帝国とは直接の接触はないものの、共にイスラム帝国と対立していた関係上、東ローマ帝国に対して親近感を持っていたと思われます。

テュルク・シャーのフロム・ケサルの在位は738-45年。即位の20年前、717~18年には東ローマの都コンスタンティノープルはイスラム帝国軍に包囲されました。しかし東ローマ軍はかろうじてイスラム軍撃退に成功する、という事件が起きています。フロム・ケサロの名は、この勝利を記念して名づけられたものではないか?と推測するのが下記論文です。

・J.Harmatta+B.A.Litvinsky (1996) Tokharistan and Gandhara under Western Türk Rule(650-750). IN : B.A. Litvinsky etal.(ed.) (1996) HISTORY OF CIVILIZATIONS OF CENTRAL ASIA VOLUME III. p.367-401. UNESCO Publishing, Paris.

その推測が当たっているかどうかはわかりませんが、「ローマのカエサル」という名の威光が、8世紀のアフガニスタンまで届いていたのは間違いないでしょう。

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では、アフガニスタンからさらに東に進み、カラコルム、西部チベット、そして東部チベットに「(ローマの)カエサル」を名乗る人物が現れるのはどういう経緯なのでしょうか?人物といっても、それは伝説の人物だったり、ある家系におけるはっきりしない先祖だったりと、その実像は霞がかかったような姿をしています。またそれらケサル同士の関係も全くわかっていません。

しかし、この「ローマのカエサル」という名の威光が、アフガニスタンからさらにカラコルム~西部チベット、そして(その経緯はわからないが)チベット本土~東チベットにまで及び、「ケサル王物語」主人公の名として採用された、と考えることは可能でしょう。

これはRolf A. Steinが唱えた説ですが、一般には、これを「ローマのカエサルの英雄譚がケサル王ストーリーのモデルになった」という説だと誤解する人が多く、珍説として冷遇されているのは残念です。

あくまでスタンの説は、「ローマのカエサル」という「名/称号」が「ケサル王物語」主人公の名として採用されている(可能性がある)、と唱えているだけであって、そのストーリーにカエサルの英雄譚・人物像が直接反映されている、という説ではないことに留意する必要があります。

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ローマからアフガニスタンを経てチベットまで各地に点々と残る「(フロム・)ケサル」の名前。今はその地点を抑えることくらいしかできませんが、「フンザのケサル王物語」もケサル王物語成立の謎を解明する上で重要な証拠のはずです。

西のアレクサンドロス大王伝説と東のケサル伝説の境界がだいたいカラコルムあたりに来ることも意味ありげに見えます。フンザにはその両伝説が存在するのですから、両伝説の研究にとっても重要な場所ではないでしょうか。

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(注1)
リン・ケサル(gling ge sar)とトム・ケサル(phrom ge sar)は、実は同一人物とは限りません。

リン・ケサルは「ケサル王物語」の主人公、あるいは11世紀頃実在した(ということになっている)カム・リンツァン王国の王。トム・ケサルは、ボン教文献に登場する異国の王(主にテュルクの彼方にいる王)。『王統明示鏡』では文成公主の求婚者の一人としても登場します。この二名称についても、今のところ、きちんと整理されていません。

要するに、創作・実在・伝説上の人物を含めると「ケサル」と呼ばれる人物はいろいろな時代、あちこちにたくさんいるのです。これらをみな、一人の人物、あるいは一つの特定の勢力として無理に説明しようとすると、混乱するばかりで議論が収束していかないのです。

(注2)
カーブル・テュルク・シャーはテュルク系であるのは間違いないが、テュルクのどういう系統であるのか記録がない。

・稲葉穣 (2003) アフガニスタンにおけるハラジュの王國. 東方学報京都, no.76(2003), p.382-313.

では、中央アジアから南下してきたテュルクの一派ハラジュ(Khalaj)ではないか?、という説が提示されている。

また、カーブル・テュルク・シャーの祖とされるバルハ・テギン(Barha Tegin)は「チベットのテュルク」とされるが、この人物が想定されている7世紀初にはチベット(吐蕃)はまだ西方に進出しておらず、どうとらえるべきかわからない。

ハラジュは、後に大半がパシュトゥーンに同化してしまい、アフガニスタンではその名は消滅。ハラジュの一派はパシュトゥーンと共にインドに進出。15世紀には、短命ではあったがハルジー朝(デリー・スルタン王国の一つ)を樹立する。

またアフガニスタンから西へ向かったハラジュもいた。イラン西部にはハラジュ(Khalaj/Xalaj)を自称する民族が今も約四万人おり、テュルク系言語(ハラジュ語)を保持している。

(注3)
ザーブル王国は、本家筋のカーブル・テュルク・シャーと同時代にガズニ周辺を支配していた(680~872)。王号はRTBYL=ラトビルといい、テュルク系の官職名iltabarが訛ったものか?という説がある。

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(追記1)
アフガニスタンのカーブル・テュルク・シャーについては、一般に知名度は低いのですが、複数の研究者の尽力によりかなり解明が進んでいます。ここではその内容を紹介することはできないので、主な論文を示しておきます。

日本における第一人者は、もちろん桑山正進先生。桑山論文は大量にあるので、今回はごくごく主要なものに限りました。

・P.D.Pandey(1973)THE SHĀHIS OF AFGHANISTAN AND PUNJAB. Delhi.
・桑山正進(1981)迦畢試国編年史料稿(上). 仏教藝術, no.137(1981/7), pp.86-114.
・桑山正進(1982)迦畢試国編年史料稿(下). 仏教藝術, no.140 (1982/1), pp.80-117.
・Helmut Humbach(1983)Phrom Gesar and the Bactrian Rome. IN : Peter Snoy (ed.)(1983) ETHNOLOGUE UND GESCHICHTE : FESTCHRIFT FUR KARL JETTMAR. pp.303-308. Steiner, Wiesbaden.
・Abdur Rehman(1988)THE LAST TWO DYNASTIES OF ŚAHIS : ANALYSIS OF THEIR HISTORY, ARCHAEOLOGY, COINAGE AND PALAEOGRAPHY pp.xvii+373+xi+figs.22+pls.XIX. Renaissance Publishing House, New Delhi.
・桑山正進(1990)『カーピシー・ガンダーラ史研究』. 京都大学人文科学研究所, 京都.
・稲葉穣(1991)七-八世紀ザーブリスターンの三人の王. 西南アジア研究, no.35(1991), pp.39-60.
・桑山正進(1993)6-8世紀Kāpiśī-Kābul-Zābul貨幣と發行者. 東方学報京都, no.65(1993), pp.430-381, pls.I-VIII.
・J.Harmatta and B.A.Litvinsky(1996)16 Tokharistan and Gandhara under Western Türk Rule (650-750). IN: B.A. Litvinsky etal. (ed.) HISTORY OF CIVILIZATIONS OF CENTRAL ASIA VOLUME III. pp.367-401. UNESCO Publishing, Paris.
・稲葉穣(2003)アフガニスタンにおけるハラジュの王國. 東方学報京都, no.76(2003), pp.382-313.
・ヴィレム・フォーヘルサング, 前田耕作+山内和也・監訳(2005)第11章 イスラームの到来 ザーブリスターン/東アフガニスタンのトルコ系王朝とインド系王朝. 『世界歴史叢書 アフガニスタンの歴史と文化』収録. pp.278-282. 明石書店. ←英語原版 : Willem Vogelsang(2002)THE AFGHANS. Blackwell.

桑山先生には、カーピシー・キンガル朝やカーブル・テュルク・シャー~ヒンドゥ・シャーについて、一般向けの教養書をぜひ書いてほしいのですが、なかなか難しいのでしょうね。桑山先生が無理なら、お弟子さん筋に当たる稲葉先生に期待したいところ。

今のところは、フォーヘルサング本でその概要をつかむのが、一番手近な方法でしょう。

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(追記2)
なおこの話題は、いずれアップされるであろう「ケサル王物語に史実性はあるか?」に続きます。あんまり期待しないで待っていてください。

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