フンザの象徴としてそびえ立つバルティット故城は一見してチベット風の建築であることがわかります。
バルティット故城@フンザ
しかし、これはそれほど古い建築物ではありません。17世紀前半、フンザ王アヤショ二世(Ayasho II)は、スカルドゥ王アブダル・カーン(Abdal Khan)の王女シャー・ハトゥン(Shah Khatun)を王妃に迎えました。これを契機としてバルティスタンから工人を呼び寄せ、バルティット城と下手のアルティット城を建てたものです。
そういった経緯で、チベット建築の流れをくむ建築物がフンザにも見られるわけです。その名「Baltit」が、「バルティ」にちなむことも言うまでもありません。
フンザとバルティスタンの関係が一番親密になったのは、この頃でしょうか。「ブルシャ」、「ブルシャスキー」というチベット語(バルティ語)がフンザに入り、自称として使われるようになったという仮説に組み入れるならば、その契機をこの時代に置いてみるのもひとつの案でしょう。
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フンザなどに見られるフラット・ルーフの民家建築はチベットと共通ですが、これは一方的にチベットからの影響であるとはいえません。民家建築はその地の気候・風土・建築材料のあるなしに規定されますから、言えることは、カラコルムとチベットの気候・風土は似ており、フラット・ルーフの民家がそれに最も適した建築である、ということだけ。
また、これはフンザだけではなくバルティスタンにも見られるのですが、この一帯には尖塔を持った形状のマスジド(モスク)があり、これを「チベタン・モスク」と呼ぶ人もいます。
尖塔マスジド@バルティスタン
しかしこれはチベット建築ではなく、カシミールに起源を持つ建築様式です(スリナガルのシャー・ハムダン・マスジドなどが代表例)。
シャー・ハムダン・マスジド@スリナガル
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フンザにはビタン(Bitan)と呼ばれる「神降ろし」がいます。いわゆるシャーマニズムですが、チベット文化圏のラバ(lha ba)と非常によく似ています。しかしこれも単純にチベットからの影響と考えることはできません。チベット文化やイスラム文化が形成される以前から、ヒマラヤ一帯にあった文化が、新興の宗教(仏教やイスラム教)に消されずに生き残っている、と考えるべきでしょう。
トランス状態のBitan
Homayun Sidky(1995)HUNZA : AN ETHNOGRAPHIC OUTLINE. Illustrated Book Publishers, Jaipur. の表紙より
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