2012年2月5日日曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(27) 漢文史料に現れる「ブルシャ」その4

最後に、(3)継業『呉船録』 (10世紀) - 「布路州[pu lu tciau]」を見てみます。

結論を先に言ってしまうと、これだけが唯一確実に「ブルシャ」を示す漢名、ということになります。

これは、

・范成大 (南宋1177) 『呉船録』

に収録されています。邦訳は、

・范成大・著, 小川環樹・訳 (2001) 『呉船録・攬轡録(らんぴろく)・驂鸞録(さんらんろく)』. pp.209. 平凡社東洋文庫696, 東京. ← 初訳 : (1947) 『養徳叢書外国篇 呉船録』. 養徳社, 奈良県丹波山町.

などで。

南宋の官吏で文人でもある范成大が、1177年(淳煕四年)に任地の成都から故郷・江蘇に帰るために長江流域を船で下った際の旅行記です。途中あちこちに寄り道しながらの旅なのですが、その最初の方で、四川省岷江流域、峨眉山の牛心寺に参詣します。そこで、北宋代初期にインドに派遣された僧・継業の行程記(原本は今は散逸か?)を閲覧しその内容を書き写し、本書に収めてあります。その部分は特に『継業西域行程』とも呼ばれています。

『継業西域行程』は、

・高楠順次郎ほか・編(1929) 『大正新脩大蔵経 第五十一巻 史伝部 三』. 大蔵出版, 東京.
・仏書刊行会・編(1990) 『大日本仏教全書 第113冊 遊方伝叢書 第一』. 名著刊行会, 東京.

などにも収録されています。これらに基づき継業の行程を略述すると、このようになります。

┌┌┌┌┌ 以下、『大正大蔵経51』、小川(2001)より抜粋 ┐┐┐┐┐

北宋初期の964年(乾徳二年)、太祖が僧三百人に、インドに赴き仏舎利と貝葉経典を将来するよう詔した。継業はこの一行(実際は何人なのか不明)に加わり、976年(開宝九年)に帰国した。

階州(四川省にほど近い甘粛省最南部)を出発。河西から西域南道の于闐(ホータン)を経て疏勒(カシュガル)へ。雪嶺(パミール)を越えて布路州(ブルシャ/ボロル)国に至る。大葱嶺雪山(ナンガ・パルバット山塊=ヒマラヤ最西端)を越えて伽濕彌羅(カシミール)国に至る。

その後、健陀羅(ガンダーラ)国、太(左)爛陀羅(ジャランダル)国、大曲女城(カナウジ)を経て、摩迦提(マガダ)国周辺にあるお馴染みの仏跡を巡歴。

帰路はここから北上。泥波羅(ネパール)国を経て摩偸果(摩逾里=マンユル/mang yul=キーロン~ゾンカ)に至る。雪嶺(ヒマラヤ)を越え三耶寺(bsam yas=サムイェ)に至る。これより(唐蕃)故道を経て階州に戻った。

太祖はすでに崩御し太宗が即位していた(976年)。継業は太宗に謁見し、インドより将来した仏舎利などを献上した。継業はその後、峨眉山に登り牛心寺を建立。そこで八十四歳の生涯を終えた(没年不詳)。

└└└└└ 以上、『大正大蔵経51』、小川(2001)より抜粋 ┘┘┘┘┘

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要するに「遅れて来た求法僧」の記録ですが、時代が遅いせいもあり、東西交渉史やチベット史の分野でもほとんど注目されていない史料です。

語るべき話題はたくさんありますが、ここでは「ブルシャ」関係の問題に絞ります。

雪嶺(パミール)を越えたところで到達した国「布路州」がブルシャ/ボロルであるのは、位置的にも音からも間違いありません。チベット語史料に「bru sha/'bru zha」が現れる8世紀よりはかなり遅れ、「ブルシャ」の初出にはなりませんが、「ブルシャ」の音を示す唯一の(確実な)漢名として貴重です。

では、この当時、現地で「ブルシャ(布路州)」という地名が自称として使われていた、と考えていいのでしょうか?どうもそうとも言えないようです。

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継業の帰路に注目する必要があります。継業が帰路に使ったのは珍しくチベット経由の道でした。中国とインドを結ぶ交通路としてチベット経由の道(唐蕃古道)が使われたのは7世紀中頃のわずか30年ほどです。その後、唐-吐蕃は対立関係に入り、両国の使者が互いに行き来する程度で、求法僧や唐の対インド使節が利用することはなくなりました。

9世紀半ばに吐蕃帝国が崩壊すると、その障害はなくなったはずですが、その頃になると唐の方も内政が乱れ西方進出どころではなくなります。それは五代~北宋も同じです。当時は契丹(遼)、西夏に対応するのが精一杯で、インドどころかチベットにすら目が届かない状態でした。

チベット側で北宋と接触があったのはアムド・ツォンカに勢力を持っていたいわゆる「青唐王国」などのみです。ですから、わずかな分量とはいえ、中央チベットを通過した継業の行程記は貴重な記録です。

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継業らがどの程度中央チベットに滞在したのかわかりませんが、そこでいろいろと情報収集をしたことでしょう。そこでボロル(ギルギット周辺)のチベット名が「ブルシャ」であることを知ったのかもしれません(そして、「ボロル」の方を忘れてしまったなんてことも・・・)。「ブルシャ」という地名がチベットの史料にしか現れないことを考えると、「布路州」もその影響を受けた結果ではないか、と怪しまれます。

こうなると、「布路州」をストレートに当時の現地での呼び名と判断するのは躊躇してしまいます。もう一つ、チベットと無関係に「ブルシャ」が使われている例があれば決まりなのですが・・・。

結局、「布路州」はチベット語「bru sha/'bru zha」の音写であるのは確実ですが、それが10世紀末における現地での自称であったのかどうかはわからない、ということになります。

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「ブルシャ」の漢語音写の例を四つ検討してみましたが、これらからは「ブルシャ」の語源や、その用例が8世紀以前に逆上るかどうか、また地元で自称として使われていたかどうか、ははっきりしませんでした。

これで「ブルシャ」の語源についてはできる限り検討し切りました。現段階ではあまりパッとした結論にはなっていませんが、これが将来解明のヒントになるかもしれません。それを期待して、次に「-スキー」の方の検討にようやく移ります。

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(追記)@2016/02/07

本件の続報があります。こちらもご覧ください。

2014年3月29日土曜日 「ブルシャ」の語源 Revisited

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