2009年9月29日火曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(24) 漢文史料に現れる「ブルシャ」その1

・桑山正進・編 (1998) 『慧超往五天竺國傳研究 改訂第二刷』. pp.xii+292+pls. 臨川書店, 京都.

は、8世紀前半の求法僧・慧超が著した地理書『往五天竺国伝』の研究書です。これには詳細な注釈がついており、8世紀のカラコルム~西部チベットについても情報の宝庫です。p.104-107は「注97 大勃律国」(執筆・森安孝夫)になっており、そこにボロル/ブルシャ/バルティの名を記録した諸文献の一覧表があります。

できあがりは一見なんのことはない表ですが、実はたいへんな労作で、これだけ広範に渡る文献に当たり、ひとつひとつ丹念に拾い出していく作業には相当な手間と時間がかかったはずです。敬意を表します。

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このうち、「ボロル」の音写とみられる波倫/鉢盧勒/波路/鉢露羅/勃律?/布露/卜羅爾/博洛爾、「バルティ」の音写とみられる巴児希などがギルギット~バルティスタン周辺の地名を示すことは明白です。

そして、「ブルシャ」を音写した(かもしれない)漢字として、次の三つがあげられています。

(1)『魏書』世宗本紀 - 「不流沙[中古音:piuat/piau liau sha]」
(2)『佛本行集経』巻11(隋訳) - 「波流沙[中古音:pua liau sha]」
(3)継業 『呉船録』(10世紀) - 「布路州[中古音:pu lu tciau]」

これが本当にボロル/ブルシャ(ギルギット/フンザ/バルティスタン)を示すものであるのか、確かめてみましょう。

これとは別に、私が独自に仏典から発見した

(2a)『佛説菩薩本行経』巻上(東晋訳) - 「不流沙[中古音:piuat/piau liau sha]」

も合わせて検討します。

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まず、(1)『魏書』世宗本紀 - 「不流沙[中古音:piuat/piau liau sha]」 から。

これは、北魏皇帝・世宗・宣武帝[位:499-515d]代の諸国遣使記事に現れます。それもごくごく局所的で、511年(永平四年)に二度に渡って現れるだけです。

511年(永平四年)の遣使記事を抜き出してみると、

・四年春正月・・・。甲子、阿悅陀、不數羅國並遣使朝獻。
・(春)三月癸卯、婆比幡彌、烏萇、比地、乾達諸國並遣使朝獻。
・(夏)六月乙亥、乾達、阿婆羅、達舍、越伽使密、不流沙諸國並遣使朝獻。
・秋七月辛酉、吐谷渾、契丹國並遣使朝獻。
・(秋)八月辛未、阿婆羅、達舍、越伽使密、不流沙等諸國並遣使朝獻。
・(秋八月)癸巳、勿吉國獻楛矢。
・(秋)九月・・・。嚈噠、朱居槃、波羅、莫伽陀、移婆僕羅、倶薩羅、舍彌、羅樂陀等諸國並遣使朝獻。
・冬十月丁丑、婆比幡彌、烏萇、比地、乾達等諸國並遣使朝獻。
・(冬)十有一月甲午、宕昌國遣使朝獻。
・(冬十有一月)戊申、難地、伏羅國並遣使朝獻。
・(冬)十有二月・・・。戊子、大羅汗、婆來伽國遣使朝獻。

六月と八月の二度、不流沙国が北魏朝廷に遣使したことになっています(注1)。

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この「不流沙」がボロル/ブルシャを示すのであれば、8世紀にチベット語文献に現れる「bru sha/'bru zha」に先立ち、最も古い用例になります。

が、一番の疑問は、北魏代の出来事を記した文献では、ボロル/ブルシャは「波倫」、「波路」、「鉢盧勒」と記されており、これらは一貫して「Bolor」の音写であるのに、この「不流沙」だけが例外で「bru sha/'bru zha」の音写になってしまうことです。

同じ『魏書』でも、西域伝では「波路」とされているのに、同じ国が本紀では原音も異なる「不流沙」という別名で記されているのであれば、これは奇妙です。また西域伝の記事では、波路国が北魏に遣使した旨の記述がありません(本紀の遣使記事の方にも波路国の名はありません)。

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ただし、『魏書』西域伝には大きな問題があります。『魏書』の一部は唐~五代の頃に散逸しており、西域伝も実は丸々欠損しているのです。

幸いなことに、『魏書』西域伝は、『周書』異域伝、『隋書』西域伝と共に、『北史』西域伝の編纂に利用されており、そこに『魏書』西域伝からの引用とみられる箇所が多数みられます。

そこで、宋代に『魏書』を再版する際に、『北史』西域伝より北魏代と思われる記事を抽出して『魏書』西域伝を復元しています。

詳しくは、

・内田吟風 (1970~72) 魏書西域伝原文考釈(上)(中)(下). 東洋史研究, (上)-vol.29, no.1[1970/06], pp.83-106, (中)-vol.30, no.2・3[1971/12], pp.82-101, (下)-vol.31, no.3[1972/12], pp.58-72.
・内藤みどり(1984) 『魏書』西域伝の構成について. 早稲田大学文学部東洋史研究室・編 (1984) 『中国正史の基礎的研究』所収. pp.147-180. 早稲田大学出版部, 東京.

あたりをご覧下さい。

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現・『魏書』西域伝・波路国の条は、『北史』西域伝・波路国の条とほとんど同文で、内田(1970~72)説では原・『魏書』西域伝・波路国の条の内容がそのまま保存されている、と考えられています。

しかし、『北史』編纂の際には原・『魏書』から抜粋して収録されているケースが多く、『北史』記事ではかなり情報落ちしている可能性も否定できません。

原・『魏書』西域伝に「波路の別名は不流沙」とか「波路/不流沙は永平四年に遣使」といった記事がもともとあって、『北史』編纂の際に情報落ちした、という可能性がないわけではありませんが、現状の文面からは、「波路」と「不流沙」の関係を知ることはできません。

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方向を変えて、本紀の文面から攻めてみましょう。

不流沙国と一緒に遣使している国は、乾達[中古音:kan/gien dat]、阿婆羅[中古音:a bua la]、達舍[中古音:dat cia]、越伽使密[中古音:yiwat ka shia miet]の四ヶ国です。

この中で、列伝にほぼ同じ国名が確認できるのは乾達=乾陁(Gandhara)国のみ(注2)。本紀に現れる遣使国で列伝が立っていない国はかなりあります。このことからも原・『魏書』西域伝→『北史』西域伝の段階でかなり情報落ちしているのでは?と思わせます。

不流沙を含んだこの五ヶ国は、同時に遣使しているのですから、互いに近隣であった可能性があります。

まず、乾達(ガンダーラ)の近くで探してみましょう。すると、他に比定できそうなのは、「達舎」=「Taxila」(注3)、「越伽使密」=「Kashmir」(注4)、でしょうか(別の比定については次回)。不流沙=ボロル/ブルシャだとすれば、これはカシミールのすぐ北に当たりますから、これらの国々と一緒に北魏に使節を送っても不自然ではありません。

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ところが、これらの国々の近くにはボロル/ブルシャとは別に、これと似た地名が存在しています。

まずは、いわずと知れた「プルシャプラ(現・Peshawar)」です。この地名の漢文表記をいくつか見てみると、

・法顕 (東晋416) 『法顕伝(仏国記)』 - 「弗樓沙[中古音:piuat lau sha]」
・魏収・撰 (北斉554) 『魏書』西域伝 - 「富樓沙[中古音:piau lau sha]」(5世紀のキダーラ・クシャン(大月氏)傍系・小月氏の都として)
・玄奘 (唐646) 『大唐西域記』 - 「布路沙布邏[中古音:pu lu sha pu la]」

これが「不流沙」と表記されていても不思議ではありません。

しかし、5世紀末~6世紀中頃、ガンダーラはエフタル・テギンに治められており、その中心地プルシャプラは当時ガンダーラ城(乾陀羅城)と呼ばれていました(『洛陽伽藍記』)。とすれば、乾達(ガンダーラ)国とプルシャプラが511年に同時に別国扱いで使節を送っているのは矛盾します。

「不流沙=プルシャプラ」という比定はかなり可能性が低そうです

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まぎらわしいのですが、プルシャプラの近くにはもう一つ似た地名があります。

・楊衒之 (東魏547) 『洛陽伽藍記』 - 「佛沙伏[中古音:biuat sha biuk/biau]」(「伏」は「町」を意味する接尾辞「-pura」)
・玄奘 (唐646) 『大唐西域記』 - 「跋虜沙[中古音:buat lu sha]」

これは、プルシャプラ(ペシャワール)からカーブル川を北に渡り東北東に65kmにある現Shahbaz Garhiに比定されています。「佛沙伏」、「跋虜沙」の原音はVaroucha、Palusha、Varusha(pura)などと推定されていますが、定説はありません。

これも「不流沙」と表記されても何ら不思議はありません。

この地は古くからプルシャプラと並ぶガンダーラの要地だったらしく、近郊には紀元前3世紀のアショーカ王碑文をはじめ仏教遺跡が多数発見されています。もしかすると両都市とも実は同じ名で、地名の移動があった、ということなのかもしれません。

しかし、エフタル・テギンの支配下のガンダーラにありながら、その領内の都市(国家?)が北魏に遣使などできるものでしょうか?佛沙伏/跋虜沙にローカルな王がいて、エフタル・テギンの属国として従っていたのであれば、エフタル・テギン(乾達王)と共に北魏に遣使を送った可能性はあります。

が、『洛陽伽藍記』では、当時佛沙伏に王がいた旨の記述がありません。エフタル・テギンがガンダーラを制圧する以前の同地の政体についても情報がありません。

一緒に遣使している「達舎国」が同じくエフタル・テギン支配下のガンダーラにある「タキシラ(Taxila)」であるならば、そういった可能性はさらに高まりますが、タキシラにもローカルな王がいたかどうか不明です。

このお話は次回に続きます。


ガンダーラ周辺の地図(6世紀前半)
出典:
・桑山正進 (1990) 『カーピシー・ガンダーラ史研究』. 京都大学人文科学研究所, 京都.
(一部を改変した)

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(注1)
『北史』では、511年(永平四年)は、

・是歳,西域、東夷、北狄二十九國並遣使朝貢。

と簡略化されている。

(注2)
当時ガンダーラはエフタル傍系のテギン(官職名)が支配していた。トハリスターンに本拠地を構えていたエフタル本国からはかなり離れているため、『魏書』では嚈噠/[ロ歇]噠(エフタル)とは別扱いにされている。

なお、このガンダーラの支配者エフタル・テギンが、仏典やインド/カシミール史に現れるフーナのミヒラクラに比定できるか?という話題はとても今はカバーしきれない。

実はエフタルに関する話題も、私の得意分野ではあるので、いつか機会があれば、やってみましょう。

(注3)
タキシラは、この他、

「竺刹尸羅」@『法顕伝(仏国記)』
「呾叉始羅」@『大唐西域記』/『慈恩寺三蔵伝』

と表記されている。

(注4)
カシミールは、唐代には「迦濕彌羅/箇失蜜」と表記されているが、南北朝時代には「罽賓」と記されていた。

この「罽賓」は実にやっかいな用語。漢代にはガンダーラ一帯をさした。南北朝時代には、罽賓はカシミールをさす場合とカーピシー~ガンダーラをさす場合があって混乱している。

『大唐西域記』が迦濕彌羅(カシミール)国について「旧に罽賓という。訛なり。」と注記し、混乱に収拾がはかられた。以後唐代には罽賓=カーピシー、迦濕彌羅/箇失蜜=カシミールとはっきり区別されるようになった。

『魏書』西域伝には、罽賓国の条がある。「罽賓国は善見城に都しする。波路(ボロル)の西南に在り。」とされ、方角的にはカーピシーだが、両国間の距離は三百里=約150kmしかなく、その点ではカシミールの方がふさわしい。記事にも農作物が豊富な様が描かれており、これは間違いなくカシミールを示す内容。

しかし、求法僧の旅行記などに現れる罽賓はガンダーラ一帯をさしているケースが多い。この件に関する詳細な論考は、

・桑山正進 (1983) 罽賓と佛鉢. (1983) 『展望 アジアの考古学 樋口隆康教授退官記念論集』所収 pp.598-607. 新潮社, 東京.
・桑山正進 (1985) バーミヤーン大佛成立にかかわるふたつの道. 東方学報京都, no.57[1985/03], pp.109-209.
・桑山正進 (1990) 『カーピシー・ガンダーラ史研究』. 京都大学人文科学研究所, 京都.

を参照のこと。

本紀には罽賓と越伽使密の双方が現れる。『魏書』本紀の遣使記事より抜き出してみると、

451(太平真君12→正平1)
・春正月・・・。是月、破洛那、罽賓、迷密諸國各遣使朝獻。
453(興安2)
・(冬)十有二月、・・・。庫莫奚、契丹、罽賓等十餘國各遣使朝貢。
502(景明3)
・是歳、疏勒、罽賓、婆羅捺、烏萇、阿喩陀、羅婆、不崙、陀拔羅、弗波女提、斯羅、噠舍、伏耆奚那太、羅槃、烏稽、悉萬斤、朱居槃、訶盤陀、撥斤、厭味、朱沴洛、南天竺、持沙那斯頭諸國並遣使朝貢。
508(正始5→永平1)
・秋七月辛卯、高車、契丹、汗畔、罽賓諸國並遣使朝獻。
511(永平4)
・(夏)六月乙亥、乾達、阿婆羅、達舍、越伽使密、不流沙諸國並遣使朝獻。
・(秋)八月辛未、阿婆羅、達舍、越伽使密、不流沙等諸國並遣使朝獻。
517(煕平2)
・(春正月)癸丑、地伏羅、罽賓國並遣使朝獻。
・秋七月乙丑、地伏羅、罽賓國並遣使朝獻。

罽賓と越伽使密は同年に遣使したことはないので、そこからは同じ国か別の国か判断できない。

『魏書』西域伝・罽賓条は、大半がカシミールを示す記事と思われるので、遣使を送っている罽賓もカシミールである可能性が高い。しかし、中にはカーピシーも混在しているのではないか?とも思わせる。特に、517年の地伏羅(ザーブル、アフガニスタン南部)と共に遣使している罽賓はその隣接国カーピシーの方かもしれない。

この時代は、カーピシーもカシミールも充分な史料がなく、北魏に遣使できるような国・政情であったかどうかわからない。この問題はもう少しつっこんで調べないと結論が出せない。また「不流沙」問題も、そこから解けるヒントが現れてくるかも知れないので、注目し続けたいところ。

2009年9月24日木曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(23) シャンシュン語、キナウル語で解釈してみる

「bru sha/'bru zha」や「sbal ti」の語尾の「sha/zha」や「ti」がチベット語やブルシャスキー語で意味・語源不明であるならば、7世紀まで西部チベットを支配していたとみられるシャンシュン王国のことば=シャンシュン語を持ち出すのはどうでしょうか。

シャンシュン語は近年、国立民族学博物館が進めている研究などで、徐々にその実体が明らかになってきています。チベット・ビルマ系の言語であるのは確実です。その中でもヒマラヤ諸語と呼ばれる言語群に含まれる可能性が高く、現存している言語の中ではキナウル語に最も近いとみられています。しかし、そのかつての分布や起源などについては依然謎の多い言語です。

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シャンシュン王国がどの程度の広がりを持っていたのか、支配体制がどうだったのか、不明な点ばかりなのですが、7世紀に吐蕃に併合されるまでは少なくとも現在のンガリー一帯を支配していた大勢力であったのは間違いありません。チベットとボロル(ブルシャ)の間にあって、知られている古代言語はこのシャンシュン語のみですから、試行的にこの言語を利用してみるのは悪い試みではないでしょう。

ただし、現在ボン教文献に散見されるシャンシュン語は、敦煌文献にわずかに発見されている古いシャンシュン語とはだいぶ異なります。前者は新シャンシュン語、後者は古シャンシュン語と呼び区別されています。

不確定要素はたくさんありますが、とりあえず試行的に新シャンシュン語で解釈できないか、トライしてみましょう。

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筆者が参照できるシャンシュン語辞書は、

・Dan Martin(ed.) (1997) Zhang-Zhung Dictionary.
http://www.comet.net/ligmincha/html/zzdict1.html
(現在は公開を終了しているようです)

のみです。

近年、別のシャンシュン語辞書が出版されたようですが、なかなか入手できずにいます(貧乏ですので)。

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まず「zha」を当たってみましょう。

いきなりですが、上述の辞書には「zha」という単語はありません。がっかり。では、一部に「zha」を含む単語で、ものになりそうなものを挙げてみます。

「シャンシュン語」=「チベット語」=「日本語」

「dmu zhag」=「mkha' lding」=「ガルーダ」
「zhang zhag」/「zhung zhag」=「bya khyung」=「ガルーダ」
「zhang ze」/「zham ze」=「rdzu 'phrul」=「魔術」
「zhim zhal」=「bde sdug」=「幸福と苦痛」
「zhum zhal」=「khrag 'dzin」=「皮」
「bri zhal」=「'ja' tshon」=「虹」

など。なかではガルーダ関連が気になるところですが、ガルシャ(ラーホール)、ブルシャと結びつくような伝説はなさそうです。他はあまりぱっとしませんね(注1)。

「sha」ではどうでしょうか。

「tri shan」=「shes rab」=「智慧」
「tha shan」=「la shan」=「分別すること」
「pa shang」=「dbang sdud」=「力や影響をつなぐ/統合する/引きつける」
「tse shan」=「rna」=「耳」
「sha/ka sha」=「ma chags」=「執着することなく/愛することなく」
「sha 'bal」=「sta re」=「ボン教神が持つ小斧」
「sha zur/shang zur」=「g-ya' brag」=「石がごろごろした山腹・崖」
「sha ya」=「bshags」=「告白」
「sha ya gyin」=「bshags pa yin」=「説明したように」
「sha ri」=「dpal ldan」=「聖なる(sri)」
「sha shin」=「rnam shes/shes pa」=「覚醒」
「shang ze」=「rgan po/rgan mo」=「老人」
「shing sha」=「rga shi」=「老化と死」

この中では「sha zur/shang zur」=「石がごろごろした山腹・崖」が地名と関係ありそうです。分解してみると「sha/shang」が「石(ごろごろ)」で、「zur」が「山腹・崖」になります。すると、ここでひとつおもしろい関係が浮かび上がります。

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ラーホールのチベット名「ガルシャ」には様々なスペルがあり、前半はdkar/gar/ga、後半はsha/shwa/zha/zhwaなどとつづられます。この中から「dkar sha」というつづりを選んでみましょう。これを、チベット語「白い」+シャンシュン語「石」のハイブリッド単語と考えてみます。すると、ラーホール/ガルシャ特産として有名な「白い(大理)石」そのものになります。

シャンシュン語で、名詞を修飾する形容詞が前からかかるのか、チベット語のように後ろからかかるのかはっきりしませんが、シャンシュン語と近縁とされるキナウル語/ラーホール諸語では「形容詞+名詞」の順です。

ラーホール/ガルシャ産の大理石で作った仏像は西部チベット各地で崇められています。有名なのは地元ティロキナートのパクパ・リンポチェ像、カン・ティセのチュク・リンポチェ像です。ラダック・ティンモスガンにあるチェンレスィ大理石像は、スピティ産といわれていますが、おそらく同じくラーホール/ガルシャ産ではないかと思っています。

「チベット語+シャンシュン語」のハイブリッド、という点にちょっと苦しい面がありますが、可能性はかなりありそうです。

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では、この理屈を「ブルシャ」語源探索に利用できるか試してみます。

「bru/'bru」は王朝名「Patola/Palola」に起源を持つと仮定しましたが、これとシャンシュン語「sha(石)」を組み合わせたら何か意味を持つでしょうか。

ここで前回の『大慈恩寺三蔵法師伝』、『大唐西域記』などの「金銀を産出」という記述が生きてくるわけです。ボロル/ブルシャで多産する(とされる)金や銀を指して、「パトラ王朝の石」と呼び、それが「ブルシャ」という地名になった、と考えることはできないでしょうか。

あるいは、前回の「boori(銀)」を持ち出し、ブルシャスキー語「boori(銀)」+シャンシュン語「sha(石)」のハイブリッドで「銀鉱石」を意味する、と考えてもよさそうです。あるいはこちらの方が有望でしょうか。

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西部チベット~カラコルムでの金銀の産出や流通状況(特に古代の)についてはわかっていないことばかりで不確定要素は多く、これも「大胆な仮説」の域を出ませんが、検討価値のあるものと信じます。

シャンシュン語「sha」にしても、上記のリストをみると同じスペルでも様々な意味がありそうです。さらに探索していけば他にも何か有望なものが抽出できるかもしれません。が、とりあえず今のところは検討は端緒についたばかりです。

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次に「ti」ですが、これはシャンシュン語では意味がたくさんあります。

(1)良いこと、秀逸、有益
(2)数字の一(tig)の短縮形。語頭に置かれ「ひとつの~」とも使われる。
(3)属格を表す接尾辞
(4)「~すべき」を表す接尾辞
(5)「ti」あるいは「ting」で、水
(6)北
(7)考える、憶える

この中では(3)、(5)あたりが有望でしょうか。

(3)と考えた場合、「sbal ti」は「パトラ王朝の」といった意味になり、もともとボロル国の中心地であったバルティスタンの名にはふさわしい。

(4)と考えた場合、「水」を「川」とか「谷」の意味に取り、「パトラ王朝の谷」とする。これもワンステップ変換・解釈が必要ですが、なかなかよさげ。

その理屈で「spyi ti(スピティ)」、「nyung ti(クッルー)」だとかに応用できるかどうかは、長くなりそうなのでいずれまた別稿で。

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おまけで、シャンシュン語と近縁の言語とされるキナウル語(hom skad)もみておきます。

出典は、

・Davadatta Sharma (1988) A DESCRIPTIVE GRAMMAR OF KINNAUR. pp.xvi+203. Mittal Publications, Delhi.

すると、「-shya」という接尾辞がみつかります。これは、「○○-shya」という使い方で「○○に属する」を意味します(注2)。

例:
denshang-shya=村+に属する→村人
teg-shya=大きい+に属する→大きい人/年上の人

これを「ブルシャ」に当てはめてみると、「パトラ王朝に属する」となり、こちらもなかなか魅力的です。

欠点としては、この接尾辞「-shya」と同じ用法が、今のところシャンシュン語では確認できないことです。キナウル語とシャンシュン語は近縁とはいえだいぶ違いますから無理もありませんが、シャンシュン語の方はなんといってもサンプル数が少なすぎます。「全くあり得ない」と結論を出すのも早すぎるでしょう。

この辺は、今後の研究で関連性が見いだせるかもしれません。

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とまあ、チベット語、ブルシャスキー語、シャンシュン語、キナウル語といろいろ語源探索してみましたが、「これは完璧」とまではなかなかいきません。

結局、確実な語源にまでたどり着くことはできませんでしたが、この「ブルシャ」という単語が伝わっている場所が、地元フンザ・ナガルとチベットだけというのは確実です。チベット語化しているといってもいいでしょう。

では、その「ブルシャ」に「スキー」がくっついて「ブルシャスキー」になるのはなぜなのか?「スキー」は何か?という問題に進みますが、その前に漢文史料に現れる「ブルシャ」も片づけておきます。

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(注1)
「bri zhal(虹)」は全体で「bru sha/'bru zha」とよく似ている。ブルシャは「bru shal」とつづられるケースもあるため、この場合は一層似てくる。しかし「虹」とブルシャ/ボロルを結びつける伝説も今のところ確認できない。

今は「bru/'bru」は「Patola/Palola」の訛った形?という仮説で進んでいるので、この探究には深入りしないことにする。

また、前半「bru/'bru」と似たシャンシュン語単語に、「'brug(下る)」、「bra min(シラミの卵)」、「bran(召使い/奴隷)」、「'bar(日の出/輝き)」、「ti bar(習慣)」、「du bur(捨てる)」、「bur ci(行動/活動)」、「khre bre(だまさない)」などもあるが、今はこれ以上検討しない。

(注2)
ただしこれは男性形。女性形では「-she」になる。

2009年9月22日火曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(22) 「bru/'bru/buru」=「boori(銀)」か?

不覚でした。

「ブルシャスキーって何語?」の巻(20) 「ブルシャ」をチベット語とブルシャスキー語で解釈してみる

で、

> この中では「boor sah」=「西に沈む太陽」の組み合わせが
> 意味ありげに見えます。

にばかり気を奪われて、もうひとつ語源として有望なブルシャスキー語単語があることに気がつきませんでした。

それは「boori(銀)」です。

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・玄奘 (唐646) 『大唐西域記』.
・慧立+彦悰 (唐688) 『大慈恩寺三蔵法師伝』.

には、鉢露羅(ボロル)国の情報として、「金銀を(多く)産出する」とあります(注1)。

「ブルシャ」の前半「bru/'bru/buru」が、銀を産出することに因んだ名(ブルシャスキー語)である可能性は考慮すべきでしょう。

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金については、『大唐西域記』はボロル(ブルシャ)の南に位置する達麗羅(ダレル/Darel)国でも「黄金を産出する」と報告しています。コーヒスターン(ダレル/チラスから南にかけての地域)には今もソニワル(Soniwal)と呼ばれる集団(注2)がおり、これはインダス川で砂金取りを生業としています。

また、ギリシア・ローマ史料に記録されている「黄金を掘り出す大蟻」もこのあたり~西部チベット(注3)にかけての情報だろうと、推測されています。

以上のように、ギルギット周辺の金についてはかなり情報があるのですが、一方肝心の銀についてはあまり情報がありません。銀は砂金のような形状としては取れませんから、必ずや近くに銀鉱山があったはずです。

しかし現在ギルギット周辺で銀の採掘が行われているという情報は聞かないし、かつて銀山があったという情報や廃鉱銀山の情報も今のところ知りません。

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玄奘の報告は7世紀前半のものです。銀鉱山は比較的短期間の稼働であったり、その後間もなく稼働を停止したのかもしれません。それから千四百年も経過しているのですから、その記憶が失われたとしても不思議ではありません。今後調査を進め、丹念に聞き込みを続ければ古い銀鉱の情報も現れてくるかもしれません。

現状では銀鉱山の存在を確認できませんが、玄奘の情報はかなり信頼されていますから、ボロル(ブルシャ)が「銀を多産する」という情報、そして「銀(ブルシャスキー語で「boori」)がブルシャの語源となった」という仮説は充分考慮に値すると考えます。それにはまだまだ情報を集めなければなりませんが。

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仮に「boori(銀)」が「ブルシャ」の語源になったのだとしても、それで説明できるのは前半の「ブル」のみで、後半の「シャ」はやはり謎のままです。

ここはやはり、チベット語、ブルシャスキー語以外の言語を使ってでもなんとか解明しておきたいところです。

というわけで、一回で元に戻れます。よかった。

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(注1)
訳文は、

・水谷真成・訳注(1971) 『中国古典文学大系 大唐西域記』. 平凡社. → 再版 : (1999) 『大唐西域記 1~3』. pp.380+396+493. 平凡社東洋文庫653・655・657, 東京.
・長沢和俊・訳(1998) 『玄奘三蔵 西域・インド紀行』. pp.329. 講談社学術文庫1334, 東京.

を参照した。

(注2)
ソニワルは、民族名というより砂金取りに従事する人々の集団名で、その名も「金族」の意味。インドのカーストと同じように、職能集団に与えられた名。

(注3)
西部チベットの金鉱・砂金については、女国/スヴァルナゴトラやグゲ王国がらみの話になり、長くなるのでいずれまた。

2009年9月16日水曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(21) 様々な地名表記とその語源

基本に立ち返って、「パトラ・シャーヒー朝(注1)の王朝名パトラ(Patola)/パロラ(Palola)から派生した名」という説をもう一度検討してみましょう。これによると、ボロル、ブルシャ、バルティはみなこの「パトラ」が語源と考えられています。

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PATOLAPALOLA

BOLORBALURBULUR=波倫/波路/鉢露羅/鉢盧勒/勃律?

BRU SHA/'BRU ZHA

SBAL TI=勃律?

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このうち、「Patola/Palola」と「Bolor/Balur」間の対応が最もよく、「Patola→Bolor」という説はやはり説得力があります。P←→B、L←→Rの交替が容易に行われることは理解しやすいでしょう。

では残りの「bru sha/'bru zha」、「sbal ti」はどうでしょうか?どちらも最初の子音(B/P)、2番目の子音(T/L/R)まではまあまあ対応していますが、3番目の子音が対応しません。

「bru sha/'bru zha」、「sbal ti」の前半はとりあえず王朝名「Patola」に起源を持つと仮に考えておいて、後半の「sha/zha」、「ti」は何か別の起源を持つ接尾辞ではあるまいか?と考えてみます。

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近隣で「sha/zha」や「ti」を語尾に持つ地名はないでしょうか?

まず「sha/zha」ですが、インドのヒマーチャル・プラデシュ州ラーホールがチベット語で「ガルシャ(gar zha/dkar sha)」といいます。またザンスカールにも大僧院のある村「カルシャ(dkar sha)」もあります。地域の規模としては前者の方が比較対象として有望でしょう(注2)。

また「ti」の方ですが、ヒマーチャル・プラデシュ州に「スピティ(spyi ti)」が、また同じく「ニュンティ(nyung ti、マナーリー~クッルーをさすチベット名)」があります。ラーホール北部の無人の地リンティ(ling ti)、ラダックのシャクティ(shag ti)、ラダック・ルプシュの「チュムルティ(chu mur ti=chu dmar)」という地名があります。やはり地域の規模としては前二者が比較対象として有望でしょう

「bru sha/'bru zha」や「sbal ti」という地名はこれらと共通した命名ではなかろうか、と推測されますが、残念なことにそのどれも語源が明らかではありません。

「zha/sha」も「ti」もなにか土地に関係した接尾辞のようではありますが、何語なのかわかりません。当然、その意味も語源も不明です。

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(注1)
パトラ・シャーヒー朝は、7世紀頃にボロルを支配していたと考えられている王朝。ギルギット近郊で発見された経典(いわゆる「ギルギット写本」)、碑文、仏像の銘文などにいくつか王名が残っているだけで、この王朝の実体は謎に包まれている。「Patola/Palola」の名はこれらの王名に伴って現れる名で、よって「パトラ・シャーヒー朝」と総称されている。

「Patola/Palola」の語源は今のところ不明。観世音菩薩の在所を意味する「Potalaka(補陀洛山)」を思い起こさせる名ではあるが、ギルギット周辺で観世音菩薩信仰が盛んであったことを示す証拠は特に見いだせない。観音像は皆無ではないが、弥勒菩薩像がやたら多いのに比べるとわずかなもの。

(注2)
「吐谷渾」を意味する「アシャ('a zha)」という地名・集団名もあるが、これは匈奴の奴隷を意味する単語「阿柴虜[中古音:a tshie/dze lu]」が語源といわれており、関係はなさそうだ。

2009年9月12日土曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(20) 「ブルシャ」をチベット語とブルシャスキー語で解釈してみる

伝説とは別に、まっとうにチベット語で解釈できるか見てみましょう。

前半は、「'bru/bru/'brum」は「穀物」「果実」の意味、「bru ba/'bru ba」ですと「掘る」になります。

後半は、「zha」なら「表面」「麻痺」「湿気」など、「zhwa」なら「冠」「帽子」、「zha ba」で「足の不自由な」、「sha」なら「肉」、「sha ba」なら「鹿」の意味があります。また「zha nye(zha ne)」の語頭であるならば「鉛」などが考えられます。

しかし、二つを組み合わせてもこれといった意味を持ちません。また、そのどれについても特にギルギット~フンザと結びつく伝説はなさそうです。おそらくこれは本来チベット語ではないでしょう。

先のブル氏起源説話に見えるように、「brul ba(下った/降臨した、非完了形は'brul ba)」と「gsha'(貴い)」をそれぞれ部分的に取って組み合わせた、などとしたら、候補となる単語は数限りなく、さらにその組み合わせとなると無限に近い数に達します。

そのどれかを組み合わせれば、いかにもそれらしいお話をこじつけることはできそうですが、あまり真相に近づけるような気もしません。

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今度はブルシャスキー語で見てみましょう。手元にあるブルシャスキー語の語彙集では、語彙数はあまり多くないのですが、できる範囲で頑張ってみましょう。

「bring(鳥)」、「biro(男、オス)」、「birdi(地面)」、「birgah(戦い)」、「brin(<鳥の>群れ)」、「birango(<音が>長い)」、「birunsh(桑)」、「bron(米)」、「boori(銀)」、「boor(西、日没)」、「burro(徴税人)」

「ishah(<時間の>月)」、「sah(太陽)」、「sheh(羊毛)」

出典は、

・John Biddulph (1880) TRIBES OF THE HINDOO KOOSH. pp.vi+164+clxix. Calcutta. → Reprint : (2001) Bhavana Books & Prints, New Delhi.
・萬宮健策 (1990) ブルーシャスキー語語彙調査についての報告. (東京外国語大学)言語・文化研究, no.8[1990/03], pp.23-30.
・Homayun Sidky (1995) HUNZA : AN ETHNOGRAPHIC OUTLINE. pp.209. Illustrated Book Publishers, Jaipur.

この中では「boor sah」=「西に沈む太陽」の組み合わせが意味ありげに見えます。

チベット語の「'bru zha/bru sha」では前半は「'bru/bru」と単音節になっていますが、ブルシャスキー語の「Burusho/Burushaski」では「bu ru」と二音節になっているあたりも、上の説に都合のいい状況です(注-2009/09/15追記)。

「(チベット側あるいはバルティスタン側から見て)日が沈む(西の国)=boor sah」が「bru sha/'bru zha」と訛った、とこじつけることもできそうですが、ブルシャスキー語語彙のごくごく一部をチェックしただけですから、「これが有望な説」などと吹聴する気はありません。もしそうだとしても、文献・伝説上での裏付けも必要でしょう。ここでは一つの思いつきとして、将来何かのヒントになれば幸いです。

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(注)@2009/09/15追記
外国語をチベット語に音写した場合、母音の位置が一部入れ替わる現象は他にも例がある。

有名なのは、Türk(テュルク/突厥)をチベット語で音写した単語「dru gu/gru gu」。

2009年9月8日火曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(19) ブル氏起源神話にみえる「ブルシャ」の語源

『テンチュン』や『レクシェー・ズー』で語られているブル氏起源神話でひとつ重要なのは、「ブルシャ(bru sha/'bru zha)」の語源が語られていることです。

> バラモンは「お体には様々な吉兆が現れております。
> 天より地に降臨なされた(brul ba)がゆえに
> 神の御子である貴種(gsha')ゆえに
> また、ブラフマーの印である頭蓋骨の隙間
> (Brahmarandhra)がございます。ゆえに
> 『ブルシャ・ナムセー・チドル(bru sha gnam gsas
> spyi rdol=ブルシャなる天神族で頭骨に隙間あり)』
> というお名前を差し上げたいと思います」と述べた。

ここでは「ブルシャ('bru zha/bru sha)」という名称をチベット語で説明しています。きちんと語られてはいませんが、ブル(シャ)氏という名称が先にあり、ブルシャという地名はブル(シャ)氏が住みついたことにちなむものだ、と言いたいようです(注)。

が、これはどう考えても後付けのこじつけでしょう。そもそも舞台がトハリスターンやカラコルムなのに、その名がチベット語で説明できる、というお話には無理があります。

ブル氏は、ブルシャからチベットにやって来たがゆえに「ブル」氏と名乗った、と考える方が合理的です。となると、「ブルシャ」という地名が先にあったとしてと考え、そちらから攻める方が実りは多そうです。

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(注)
ただし、ブル氏始祖ウーセル・ダンデン(ブルシャ・ナムセー・チドル)の年代は、実在したとすれば8世紀前半と想定でき、これはチベット側史料に「ブルシャ」という地名が現れ始める時期と奇妙に一致している。

2009年9月4日金曜日

ヒマーチャル・ニュース

まだ9月になったばかりだというのに、ヒマーチャル・プラデシュ州山岳部ではもう雪が降ってロータン・ラ(マナーリー~ラーホール間)は一時閉鎖されたようです。ずいぶん早いですね。

・My Himachal > Higher reaches of Himachal receive seasons first snow. Aug 31st, 2009
http://himachal.us/2009/08/31/higher-reaches-of-himachal-receive-seasons-first-snow/15382/news/ravinder

・My Himachal > Higher reaches of Himachal get more snow. Sep 3rd, 2009
http://himachal.us/2009/09/03/higher-reaches-of-himachal-get-more-snow/15460/news/ravinder

・SAMAYLIVE.com > Homepage » Regional > Manali-Leh highway reopened, 282 people rescued. Fri, 04 Sep 2009
http://www.samaylive.com/news/manalileh-highway-reopened-282-people-rescued/654352.html

もっともこれは、冬の雪ではなくて、夏のモンスーンの雨が上空の寒気で雪になってしまったもの。今年は向こうも寒いのですね(注-2009/09/05追記)。シムラーでさえ雪になったと言いますから、そうとう強い寒気です。

私は9月10月にあの辺をウロウロしていることが多かったので、これだけ降雪が早いと、9月頭にしてもうマナーリーから奥に入れなくなってしまうわけで、困りもの。

ラダックやスピティに入っている旅行者で、陸路でインド平野部に抜けようと考えている人は少し予定を早めにした方がいいかもしれませんね。

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おまけで、↓これはスピティの一妻多夫制のリポート。

・globalpost.com > Home > Asia > India > When two husbands are better than one. Polyandry in the Himalayas is a complex affair. Not surprisingly. By Joel Elliott — Special to GlobalPost. Published: September 2, 2009 07:02 ET. Updated: September 3, 2009 08:23 ET
http://www.globalpost.com/dispatch/india/090826/when-two-husbands-are-better-one

一般にはインド独立後禁止された、と伝えられている一妻多夫制ですが、ラーホール・スピティ県全体でまだ500家族ほどいるようです。

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(注)-2009/09/05追記

インド洋のモンスーンと日本の夏の気候との関係について、少し補足しておく。

南半球低緯度高空を東から西に吹いている貿易風は、インド洋の西でアフリカ大陸東部の高原地帯にぶつかる。そして時計回りにクリンと回って、インド洋西部からインド亜大陸に吹きつける。

この風は、夏場はインド洋から吸い上げたものすごい湿気を伴って吹きつけるため、モンスーンと呼ばれる雨期をインド亜大陸にもたらす。

さて、この風はさらに北東へ流れ日本にまで到達している。だからインド/ヒマラヤの気候と日本の気候は無関係ではない。あまり系統だてて調べたわけじゃないけれど、春~初夏にインドで死者が多数出るような熱波のニュースがあった年は、日本も猛暑だったような気がする。

最近注目されているのが、インド洋のエルニーニョ現象とも言える「ダイポール現象」。これは、理由はわからないがインド洋の東に冷水塊が現れ、その影響で反対側の西には暖水塊が現れる。そこでは蒸発量も当然多くなる。ここがちょうど風の通り道になっているから、例年より多い湿気がもたらされてインド亜大陸は大雨。日本に到達する頃には湿気を落とし、乾いた熱波としてやって来る。それで、日本は猛暑、といった具合。

細かい話は省略して、おおざっぱに説明するとこんなところだろうか。

もっと詳しく、そして正確な内容が知りたければ、こちら↓をどうぞ。

・地球環境フロンティア研究センター > 過去のニュース・イベント > プレス発表 > 2003/06/23 > 1994年の日本の猛暑の原因を解明 ━ インド洋ダイポール現象と東アジアの気候システムを結ぶ点と線 ━
http://www.jamstec.go.jp/frcgc/jp/press/IOD/
・(参考2)6、7、8月の平均的なモンスーンの流れのパターン
http://www.jamstec.go.jp/frcgc/jp/press/IOD/images/Ref2_J.gif

同サイトには、この他にもダイポール現象に関するリポート多数。

今年の冷夏・多雨もきっと、インド洋の水温分布が影響してるんだろうなあ。上述のヒマラヤ方面の寒波と日本の早い秋の訪れも、もちろん関係あるはず?と思う。全然調べていないけど。

参考:
・宮原三郎 (1997)世界の屋根ヒマラヤと地球をめぐる風. 酒井治孝・編著 (1997) 『ヒマラヤの自然誌 ヒマラヤから日本列島を遠望する』所収. pp.27-46. 東海大学出版会, 東京.

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(追記)@2009/09/05

(注)を追加。

2009年9月2日水曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(18) 外国のボン教輸入の異伝

西方ボン教輸入に関する伝説は、文献によりヴァリエーションがあります。例えば、

・ngag dbang blo bzang rgya mtsho(ダライ・ラマ五世) (1643) 『rgyal blon gtso bor brjod pa'i deb ther(ダライ・ラマ五世年代記/西蔵王臣記)』.
・sum pa mkhan po ye shes dpal 'byor (1748) 『chos 'byung dpag bsam ljon bzang(パクサム・ジョンサン)』.

では、ブルシャとシャンシュンのボン教を輸入したのはディグム・ツェンポの代で、ドゥン(sgrung=物語)、デウ(lde'u=謎掛け歌)、シェン氏のナム・ボン(gnam bon=天のボン)を導入したのがその子プデ・グンギェルの代、とされています。

参考:
・山口瑞鳳 (1988) 『チベット(下)』. pp.v+372+xxiv. 東京大学出版会, 東京.
・五世達頼喇嘛・著, 劉立千・訳注 (1992) 『西蔵王臣記』. pp.3+3+2+356. 西蔵人民出版社, 拉薩. → 再版 : (2000) 民族出版社, 北京.
・R.A.スタン (1993) 前掲.
・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.xi+642. Dharamsala.

前の伝説において、(1)の派手な職能を持つボンポは、スタンの解釈ではカチェのボンポに当たるはずですが、そのカチェ・ボンポはここには出てきません。スタンの解釈も怪しむべきかと思われます。ブルシャ、シャンシュンに比べると、カチェのボンポはそれほど重要な存在ではなかったのかも知れません。また、ディグム・ツェンポの葬祭との関係も語られてはいません。

また、

・sa skya bsod nams rgyal mtshan (1368) 『rgyal rabs rnams kyi 'byung tshul gsal ba'i me long chos 'byung(王統明示鏡)』.

では、プデ・グンギェルの前にはすでにドゥン(sgrung=物語)とデウ(lde'u=謎掛け歌)により政治が司られており、この代にタジク(stag gzigs)のオルモルンリン('ol mo lung ring)にシェンラブ・ミウォが生まれ、ユンドゥン・ボン(g-yung drung bon=永遠のボン)がシャンシュンから導入された、ことになっています。

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このあたりの伝説はなかなかに錯綜しています。いったいどれをあてにしたらいいのか、はたまたどれもあてにできないのか。じゃあ、ボン教側の伝説(これは長くなるのでいつかまた・・・)の方を全面的に信頼するか、というとそれも難しい・・・。

ボン教関連の話題は、すべてにおいてヴァリエーションが多すぎて、すっきりと整理されていません。よって、読んでいる方もわかりにくいと思いますが、それがボン教研究の現状です。

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「カチェのボン」はヒンドゥ教シヴァ派、もしくはその影響が強い宗教、「ブルシャのボン」はゾロアスター教やマニ教、もしくはその影響が強い宗教、あたりではないかとも推測されます。

これら「外国のボン(宗教)」が導入されて、ジクテン・ゴンポの唱えるところの「キャル・ボン('khyar bon=方向を転じたボン)」が始まり、これ以降ヒンドゥ教の卵生神話やゾロアスター教の光と闇の二元論などがボン教教義に導入されたのではないか、と考えられています。

チベットのボン教徒にとっては、ブルシャはボン教(実際はゾロアスター教、マニ教、ヒンドゥ教、分類不能の民間信仰などだったかもしれない)先進国の一つとして重要視された国だったようですが、その「ブルシャのボン教」の実体は結局のところ、ようとして知れません。