西方ボン教輸入に関する伝説は、文献によりヴァリエーションがあります。例えば、
・ngag dbang blo bzang rgya mtsho(ダライ・ラマ五世) (1643) 『rgyal blon gtso bor brjod pa'i deb ther(ダライ・ラマ五世年代記/西蔵王臣記)』.
・sum pa mkhan po ye shes dpal 'byor (1748) 『chos 'byung dpag bsam ljon bzang(パクサム・ジョンサン)』.
では、ブルシャとシャンシュンのボン教を輸入したのはディグム・ツェンポの代で、ドゥン(sgrung=物語)、デウ(lde'u=謎掛け歌)、シェン氏のナム・ボン(gnam bon=天のボン)を導入したのがその子プデ・グンギェルの代、とされています。
参考:
・山口瑞鳳 (1988) 『チベット(下)』. pp.v+372+xxiv. 東京大学出版会, 東京.
・五世達頼喇嘛・著, 劉立千・訳注 (1992) 『西蔵王臣記』. pp.3+3+2+356. 西蔵人民出版社, 拉薩. → 再版 : (2000) 民族出版社, 北京.
・R.A.スタン (1993) 前掲.
・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.xi+642. Dharamsala.
前の伝説において、(1)の派手な職能を持つボンポは、スタンの解釈ではカチェのボンポに当たるはずですが、そのカチェ・ボンポはここには出てきません。スタンの解釈も怪しむべきかと思われます。ブルシャ、シャンシュンに比べると、カチェのボンポはそれほど重要な存在ではなかったのかも知れません。また、ディグム・ツェンポの葬祭との関係も語られてはいません。
また、
・sa skya bsod nams rgyal mtshan (1368) 『rgyal rabs rnams kyi 'byung tshul gsal ba'i me long chos 'byung(王統明示鏡)』.
では、プデ・グンギェルの前にはすでにドゥン(sgrung=物語)とデウ(lde'u=謎掛け歌)により政治が司られており、この代にタジク(stag gzigs)のオルモルンリン('ol mo lung ring)にシェンラブ・ミウォが生まれ、ユンドゥン・ボン(g-yung drung bon=永遠のボン)がシャンシュンから導入された、ことになっています。
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このあたりの伝説はなかなかに錯綜しています。いったいどれをあてにしたらいいのか、はたまたどれもあてにできないのか。じゃあ、ボン教側の伝説(これは長くなるのでいつかまた・・・)の方を全面的に信頼するか、というとそれも難しい・・・。
ボン教関連の話題は、すべてにおいてヴァリエーションが多すぎて、すっきりと整理されていません。よって、読んでいる方もわかりにくいと思いますが、それがボン教研究の現状です。
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「カチェのボン」はヒンドゥ教シヴァ派、もしくはその影響が強い宗教、「ブルシャのボン」はゾロアスター教やマニ教、もしくはその影響が強い宗教、あたりではないかとも推測されます。
これら「外国のボン(宗教)」が導入されて、ジクテン・ゴンポの唱えるところの「キャル・ボン('khyar bon=方向を転じたボン)」が始まり、これ以降ヒンドゥ教の卵生神話やゾロアスター教の光と闇の二元論などがボン教教義に導入されたのではないか、と考えられています。
チベットのボン教徒にとっては、ブルシャはボン教(実際はゾロアスター教、マニ教、ヒンドゥ教、分類不能の民間信仰などだったかもしれない)先進国の一つとして重要視された国だったようですが、その「ブルシャのボン教」の実体は結局のところ、ようとして知れません。
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