2014年5月31日土曜日

ツェリン・シャキャ先生来日してたのか・・・


石濱先生のblogで知りました。

・石濱裕美子/白雪姫と七人の小坊主達 なまあたたかいフリチベ日記 > 2014/05/25(日) 国際チベット学会会長が来日
http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-713.html

ツェリン・ワンドゥー・シャキャ ཚེ་རིང་དབང་འདུས་ཤཱཀྱ tshe ring dbang 'dus shAkya(1959-)先生、といっても邦訳書はひとつもないので知っている人は少ないと思いますが。

でも、チベット現代史を詳細に語り論じた大著

・Tsering Shakya (1999) THE DRAGON IN THE LAND OF SNOWS ; A HISTORY OF MODERN TIBET SINCE 1947. pp.xxix+574+pls. Pimlico, London.
















だけで、充分歴史に名を残す存在です。

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これはダラムシャーラーで買ったんだったかなあ、シムラーだったかなあ。帰国後読み始めたんですが、当時通勤時間が往復4時間もあったので、じっくり読むことができました。1ヵ月くらいかかりましたが。

ドラゴンとは中国のことです。つまりチベット現代史を中国との関係で切って論じた歴史研究書。もっとも、中国との関係抜きでチベット現代史を語ることは不可能ですが。

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この本ではじめて知った事実がたくさんあり、大変勉強になりました。

激動の1950年代は当然詳述されていますが、この本では、これまで情報があまり出てこなかった1960年代以降の中国支配下チベットに詳しいのが特徴です(注1)。

文化大革命時代にチベットで何が起きていたのか、この本ではじめて知った事実が多い。文革後期のニェモ事件などは全く知らなかったので、驚くことばかりでした(注2)。

ムスタンのカムパ・ゲリラとUSAの関係についても、薄ぼんやりだった理解がより鮮明になりました。

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あと、自分の中ではどう位置づけていいのかよくわからなかったプンツォク・ワンギャルも、この本を読んでようやく(自分の中での)置き場所が定まった感があります(注3)。

とりわけ印象深かったのは、ンガプー・ンガワン・ジグメー ང་ཕོད་ངག་དབང་འཇིགས་མེད་ nga phod ngag dbang 'jigs med (1910-2009)の若き日々。

ンガプーといえば、映画『Seven Years in Tibet』をはじめ、チベット現代史では問答無用の悪役として扱われていますが、はじめから親中勢力だったわけではありません。

1940年代には、チベット政府内部で改革を訴え続けましたが全く無視されました。こうして当時のチベット政府に失望していったわけです。チャムド知事として対中国の最前線にあった際は、政府中枢から飛んでくる命令は現実的でない強硬策一辺倒ばかり。それで行き場をなくして親中の立場に追いやられた、という印象です。

ンガプーの評伝なども読んでみたい。中国産では自伝・評伝ともすでにあると思いますが、毎度おなじみのアレになっているのでしょうから、なかなか興味がわかない。中国外での研究として出てほしい。

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『DRAGON・・・』の少し前に出た本ですが、同時期に買ったのが、

・Warren W. Smith Jr. (1996) TIBETAN NATION ; A HISTORY OF TIBETAN NATIONALISM AND SINO-TIBETAN RELATIONS. pp.xxxi+732. Harper Collins Publishers India, New Delhi.
← Original : (1996) Westview Press, Boulder(Colorado).
















これもすばらしい。守備範囲は『DRAGON・・・』よりもやや広く、チベット史全般を扱った本ですが、中心はやはり現代史です。

さすがに一部しか読んでいません。4時間通勤の仕事が終わって読む時間が取れなくなったせいもありますが、そもそも私の興味の中心は現代史・現代政治ではないのが大きいのでしょう。『DRAGON・・・』で、ちょっとお腹いっぱいになった感はあります(注4)。

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このblogでは基本ナマモノを扱わないのですが、たまにはいいでしょう。これで「『DRAGON・・・』を読んでみるか」という人が日本で2~3人出るなら大成功。

もっと言えば、邦訳書が出るならサイコーですが、期待はしていません。

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(注1)

文革時代のチベットに関しては、今でこそ

・ツェリン・オーセル・著、ツェリン・ドルジェ・写真、藤野彰+劉燕子・訳 (2009) 『殺劫(シャーチエ) チベットの文化大革命』. pp.412. 集広舎, 福岡.

などが出て広く知られるようになりましたが、1990年代頃までは亡命チベット人などから断片的に情報が伝わる程度で、チベット現代史本でも記述は非常に少なかった。

(注2)

このニェモ事件については、

・M.C.ゴールドスタイン+ベン・ジャオ+タンゼン・ルンドゥプ・著、楊海英・監訳、山口周子・訳 (2012) 『チベットの文化大革命 神懸かり尼僧の「造反有利」』. pp.382. 風響社, 東京.

という本が出ましたが、まだ読んでいません。

もうね、最近はこういう高い本(¥3000)は買えないのですよ。近所の図書館にもないし。

その書評は阿部治平先生がやってます。

・リベラル21 > 阿部治平/八ヶ岳山麓から > (75) 2013.07.22 チベット人の文化大革命 二冊の本から
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-2442.html

ニェモ事件の概要を知るにもいい記事。

(注3)

プンツォク・ワンギャルについては、その後に出た

・阿部治平 (2006) 『もうひとつのチベット現代史 プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』. pp.536. 明石書店, 東京.

でさらに理解が深まったのは言うまでもありません。

(注4)

私の中ではときどき文革ブームが来て、集中的に文革本を読む時期があります。まあ読むたびに胸糞悪くなるのですが。

最近では、文革時代の南モンゴルを詳述した

・楊海英 (2009) 『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録(上)』. pp.27+276. 岩波書店, 東京.
・楊海英 (2009) 『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録(下)』. pp.7+261+28. 岩波書店, 東京.
・楊海英 (2011) 『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録(続)』. pp.14+323+12. 岩波書店, 東京.

がヒット作。この本では、ウランフに対する認識ががらりと変わりました。

2014年5月26日月曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(11) マナスル登山関連番組一覧-その1

マナスル(मनास्लु Manāslu)という山は、日本人にとって特別な山です。

第二次世界大戦後まもなくの苦しい時代、復興の象徴として再開された海外登山。その第一目標が、日本人初のヒマラヤ8000m級高峰、すなわちマナスルへの登山でした。

マナスルの世界初登頂という快挙が、プロレスの力道山、水泳の古畑広之進らの活躍と共に、日本人が世界へ向けての自信を取り戻す力になったのは間違いありません。

日本人が初めてチベット文化圏の映像に触れたのも、このマナスル登山隊が残した記録映像だったと思われます。

その後、1955年からの一連のカラコルム/ヒンドゥクシュ探検隊、1958年のドルポ探検隊と続き、彼らが残した文献・映像は、後にチベット・ヒマラヤ研究者・愛好家を生み出す原動力となっています。私もその末裔の一人といえるでしょう。

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日本のチベット・ヒマラヤ記録映像の原点といえるマナスル登山関係番組をまとめてみます。

全般的な参考:
・深田久弥ほか (1983) 『ヒマラヤの高峰2』. 白水社.
・薬師義美+雁部貞夫・編&藤田弘基・写真 (1996) 『ヒマラヤ名峰事典』. 平凡社.
・公益社団法人 日本山岳会 > 資料室 > 遠征記録 > マナスル Manasuruの歴史1950-1996
http://www.jac.or.jp/info/kiroku/1996/manasr-page.htm












マナスルの位置  (c) Google Map

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【 1953日本山岳会第一次マナスル登山隊関連 】

日本でTV放映が開始されたのは1953年(NHKが2月、日本テレビが8月)。放送時間も短く、コンテンツも少ない時代。マナスル登山映像もまとまった形ではまだTVには乗らず、劇場用映画として公開されたのみ(ニュースでは取り上げられたであろうが、その状況は把握できない)。

【映画】 『マナスル』 
1953秋公開 毎日新聞社
構成:木下正美、撮影:依田孝喜。
ネパール・マナスル山群の未踏峰マナスル(8156m)世界初登頂へ向けた1953年3~6月の日本山岳会第一次マナスル登山隊(隊長:三田幸夫)の記録映画。7750mまで到達したが登頂失敗。麓のチベット人集落サマ(Samagaon)の様子、チベット仏教なども紹介。チベット文化圏の映像が日本に紹介されたのは、これがはじめてと思われる。
参考:
・毎日新聞
・日本山岳会 (1954) 『マナスル 1952-3』. 毎日新聞社.

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【 1954日本山岳会第二次マナスル登山隊関連 】

1953年の第一次隊に続き、1954年3~6月第二次マナスル登山隊が派遣されたが、地元サマ住民の反対に遭いマナスル登山は断念。ガネッシュ・ヒマール(7406m)登山(登路不良により登攀断念)、ヒマルチュリ(7893m)登路偵察に切り替えた。
隊長:堀田弥一、隊員:竹節作太(報道斑、毎日新聞運動部長)、依田孝喜(報道斑、同写真部員)ほか。
三次にわたるマナスル登山隊では一貫して毎日新聞社が後援していたため、マナスル報道は毎日新聞系列の独壇場。しかし当時まだ毎日系列テレビ局はなく、テレビ報道は主に日本テレビが担当。
参考:
・日本山岳会 (1958) 『マナスル 1954-6』. 毎日新聞社.
・竹節作太 (1955) 『ヒマラヤの山と人』. 朋文堂.

世界めぐり マナスル  
1954初(15分) 日本テレビ
出演:竹節作太、依田孝喜。
出発前の抱負を語る番組と思われる。
参考:
・毎日新聞

登山マナスル  
1954春(15分) 日本テレビ
出演:三田幸夫(1953年の第一次マナスル登山隊長)。
第二次隊出発当日の壮行番組のようだ。
参考:
・毎日新聞

ヒマラヤ報告  
1954夏(30分?) 日本テレビ
出演:堀田弥一、竹節作太、依田孝喜。
第二次マナスル登山隊の報告。
参考:
・毎日新聞

マナスル登山隊  
1954夏(20分) NHKテレビ
出演:竹節作太。
同じく第二次マナスル登山隊の報告。
参考:
・毎日新聞

【映画】 『白き神々の座』  
1954秋公開 毎日新聞社
演出:高木俊朗、撮影:依田孝喜、語り:宇野重吉。
第二次マナスル登山隊の記録映画。
参考:
・毎日新聞
・日本映画データベース  http://www.jmdb.ne.jp/
・Gogh's Bar : MOUNTAIN MOVIE MANIA
http://www2u.biglobe.ne.jp/~gogh0808/MotMovieList.htm

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【 1956日本山岳会第三次マナスル登山隊関連 】

1956年3~5月に派遣された第三次マナスル登山隊が、5月9日、11日の両日ついにマナスル(8125m)の世界初登頂に成功。日本人初の8000m級高峰制覇でもあった。
隊長:槇有恒、隊員:今西寿雄、加藤喜一郎、大塚博美、依田孝喜(報道班)ほか。
参考:
・槇有恒 (1956) 『マナスル登頂記』. 毎日新聞社.
・依田孝喜 (1956) 『マナスル写真集』. 毎日新聞社.
・槇有恒 (1957) 『マナスル』. 毎日新聞社.
・竹節作太 (1957) 『ヒマラヤの旅』. ベースボールマガジン社.
・日本山岳会 (1958) 『マナスル 1954-6』. 毎日新聞社.

【ラジオ】 週末クラブ 座談 マナスル登頂に成功して  
1956夏(30分) ラジオ東京
出演:槇有恒、今西孝夫。
マナスル登山隊員12名による座談会。ネパールで収録。
参考:
・毎日新聞

座談 マナスルの頂上に立ちて  
1956夏(45分?) KRテレビ
出演:槇有恒、今西寿雄、加藤喜一郎。
帰国した登山隊員が苦労話、エピソードを語り合う。出演者たちは、同日引き続きラジオ東京の座談会にも出演。
参考:
・毎日新聞

【ラジオ】 特別座談会 マナスルから帰りて  
1956夏(30分) ラジオ東京
出演:槇有恒、今西寿雄、加藤喜一郎、大塚博美、依田孝喜。
帰国したマナスル登山隊員たちが語り合う座談会。テレビに引き続き出演。
参考:
・毎日新聞

【ラジオ】 劇 マナスルの凱歌(全2回) 
1956夏(30分×2) ラジオ東京
作:並河亮、演出:和田清、語り:高島陽、詩の朗読:高橋和枝、出演:石黒達也、勝田久、久米明ほか。
マナスル登山隊の苦闘を描くドキュメンタリードラマ。現地で録音された雪崩の音、夜鳥の声、シェルパの歌なども効果音として使われている。
参考:
・毎日新聞

マナスル登山隊  
1956秋 KRテレビ
おそらく映画『標高8125米 マナスルに立つ』公開に合わせた宣伝番組。
参考:
・毎日新聞

【映画】 『標高8125米 マナスルに立つ』  
1956秋公開 毎日映画社
演出:山本嘉次郎、撮影:依田孝喜、語り:森繁久弥。
第三次マナスル登山隊の登頂記録映画。ビデオ化されている。この映画は大ヒットし、その後の登山隊・探検隊はこぞって記録映画を残した。
参考:
・毎日新聞
・日本映画データベース
http://www.jmdb.ne.jp/
・Gogh's Bar : MOUNTAIN MOVIE MANIA
http://www2u.biglobe.ne.jp/~gogh0808/MotMovieList.htm

2014年5月22日木曜日

ヒマーチャル小出し劇場(13) ヒマーチャルのバス旅

HP州の旅はバスが中心となります。

Kalka-ShimlaやJogindernagar-PathankotのToy Trainなど、鉄道も興味深いのですが、HP州奥地への旅となると、交通手段はバスしかありません(注)。

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このバス旅がなかなかつらい。直線距離はたいしたことなくとも、道路がウネウネ曲がりくねっている上に高度差もあるので、やたらと時間がかかります。

おまけに便数が少ないので、ほとんどのバスはギューギュー詰め。半日立ちっぱなしもざら。その満員の中に羊を持ち込む客までいて、わけがわかりません。羊はおもらしするし。

いっそ屋根に乗る方が気持ちいいのですが、本来これは違法なので、車掌に降ろされることもしばしば。まあ、実際車内に入りようがない時は仕方ないので黙認されていますが。

屋根に乗っている時は、落ちないよう居眠り厳禁。とにかく揺れますから。あと、木の枝が顔面を直撃するので注意。












楽隊もバスで移動

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道路状況も悪い上に運転も荒っぽい。谷底へのバス転落事故のニュースも年に数回聞きます。

そんな状況ですから、旅行者はもとより地元の人々もバスに酔います。吐瀉物は窓から撒き散らし放題。だからバス後部の席では、窓を開っぱなしにしない方が吉。

バスから降りた直後は「あー、もう乗りたくない」とは思うものの、やっぱりやめられないのがヒマーチャル旅の魔力です。













ゲロでコーティングされたステキな車体

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(注)

車のチャーターなどは貧乏人には夢のまた夢、私にとってはチョイスの俎上にすら上がりません。調べる気もないので、金額とかは何も知らない。いつも、埃だらけの私の横を疾走して行くのを指くわえて眺めるだけ。

2014年5月18日日曜日

「パドマ/ペマ」「オムマニペメフーム」のチベット文字表記

前回の追記として書いたものですが、長くなったので独立させました。それに、ちゃんとタイトルつけた方が、検索でひっかかりやすいし。

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(追記)@2014/05/17

པདྨ་ padma(蓮)の綴りは、見慣れないと「何これ?」と思うかもしれません。

これはインド語のチベット文字転写なので、チベット語では見かけない縦積み(重層字 མཐུག་པོ་ mthug po/築字 བརྩེགས་ brtsegs と言います)が出てくるわけです。

以前ご紹介したགནྡྷོ་ལ་ gandho laはもっとすごいですが(笑)。これもインド語です。

padmaはインド語では「パドマ」と発音されますが、すっかりチベット語として馴染んでいて、チベット語では「ペマ」と発音されています。その流れでཔད་མ་ pad maと綴られることもあります。どちらかが誤り、ということはありません。

「パドマ/ペマ」はもともとチベット語だ、と思っていた方も多いかもしれませんね。

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チベット語を覚えて最初に書いてみたくなるのが、観世音菩薩の六字真言「オムマニペメフーム」でしょう。ところが、これがものすごく難しい。入門時に習うチベット文字にはない特殊記号、逆字、重層字だらけなのですから。

それもそのはずで、実は意外なことに「オムマニペメフーム」にはチベット起源の単語はひとつも含まれていません。全部インド語です。チベット文字での表記は、インド語の音を苦労して忠実に転写したものです。インド語転写用の文字、特殊記号を駆使しないと書けないのです。

手書きならば見よう見まねでなんとかなりますが、コンピュータでのチベット文字入力となると、初心者はお手上げです。

以前使っていたフォントu-chanでは、「オムマニペメフーム」は打てませんでした。現在使っているフォントTibetan Machine UniはTiseという入力ソフトを使って打つのですが、これなら対応しています。

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「パドマ/ペマ」と「オムマニペメフーム」のTiseでのキーストロークを記しておきましょう。

པདྨ་ pad+ma

ཨོཾམཎིཔདྨེཧཱུྃ oMmaNipad+me↵hUq
(↵はEnterキー。一旦ここで切らないと、文字がダブってしまいますから注意。)

なお、「オムマニペメフーム」はインド語ですから、終わるまで「་ (ཚེག tsheg)」は入りません(チベット語化している、ととらえれば、ツェグを入れても間違いではない)。


Rewalsarのマニ石

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(追記)@2014/05/18

上のマニ石では、「オム」が「ཨཱོཾ(オーム)」になっています。どちらでもよいのです。この場合は「o」を大文字「O」にして下さい。

ཨཱོཾམཎིཔདྨེཧཱུྃ OMmaNipad+me↵hUq

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(追記)@2014/05/20

「オムマニペメフーム」のことばかり考えていたせいで、「オムニバス」という文字を見ると、うっかり「おっ!」と思ってしまう日々。

他にも、「インドアテニス」の看板で「インド!」と思ったり、「ノートパソコン」が「蒙古パソコン」に聞こえたりと、病人状態の時がままあります。

2014年5月15日木曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(10) 1960年代、日本へのチベット人留学生

前回、在スイス・チベット人の番組を紹介しましたが、今度は日本です。

日本が受け入れているチベット人は約60人(2003年時点)とえらく少ないのは、前回も書いたとおり。今はもう少し増えて・・・いないだろうか。

日本が初めてチベット難民を受け入れたのは、1965年のことでした。国の方針ではなく、民間による受け入れです。人数はわずか5人。それも少年を留学させるという形でした。民間での取り組みですから、システム的にも人数的にもこれが精一杯だったのだと思います。

その5人の少年たちを取り上げた番組がこれです。

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あすは君たちのもの チベットから来た少年  
1966秋(30分) NHK総合
ゲスト:茅誠司ほか。
十代の活躍を紹介する少年少女向けシリーズの一編。
木村肥佐生・亜細亜大学教授(第二次世界大戦中にチベットに滞在していた)の発案で、丸木清美・埼玉医科大学長の資金援助を得て、インドのチベット難民少年を日本に留学させるプロジェクトが発足。
1965年12月に5人が来日、1966年4月埼玉県毛呂山町立毛呂山中学に入学した。5人の中でも特にダムデン君に焦点を合わせ、級友たちとの友情や町民たちとの心温まる交流を紹介する。またスタジオにチベット人少年5人を招き、励ましの言葉が贈られた。
なおこのダムデン君は、日本に帰化し「西大寺ダムデン」の名で現在埼玉県内で医師として活躍中。もうひとり「西蔵ツ(ェ)ワン」さんも埼玉県内で医師。そして5人の中で最大の有名人がペマ・ギャルポさん。
参考:
・毎日新聞
・ペマ・ギャルポ・談、相馬勝・聞き手 (2007) モンゴルの大地を駆ける(1)~(5). 産経新聞2007-05-06~11.

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来日して半年余りですからまだ言葉も不自由な頃だろうに、その上TVの取材ですから、少年たちはかなり戸惑っただろうと思います。

しかし、その体験は充分刺激的だったことでしょう。これによって、少年たちの日本に対する認識は深まったに違いありません。いろんな意味で。

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ペマ・ギャルポさん(注1)はよくマスメディアに登場されていますから、改めて動向を紹介するまでもないでしょう。ペマさんが所長を務める

・チベット文化研究会
http://www16.ocn.ne.jp/~tcc/

を紹介するだけにしておきます。

西大寺ダムデンさん(注2)は医師の傍ら、参議院議員選挙(比例代表)に出馬したこともあります。

西蔵ツワンさん(注3)も医師の傍ら、最近は自分の体験を発表される機会が増えています。

・iza イザ! > ニュース > ボイス > 専門家・記者ブログ > 古森義久/ステージ風発 > 旧ブログ > 「私は10歳でチベットを脱出し、35歳で日本人になった」――ある医師が語るチベット民族の悲劇 (2008/05/16)
http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/575936/
・西蔵ツワン (2008) 私は見た 中国の「洗脳・密告・公開処刑」--チベット亡命医師の手記. 文藝春秋, vol.86, no.7(2008/07), pp.164-173.
・フリー・チベット・ムービー『風の馬』公式サイト > コラム > 西蔵ツワン (2009/02)
http://www.uplink.co.jp/windhorse/column_01.php

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これは在日チベット人の会です。政治活動も含め様々な活動を行っています。

・在日チベット人コミュニティー(TCJ)
http://www.tibetancommunity.jp/

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(注1)
པདྨ་རྒྱལ་པོ་ padma rgyal po。

(注2)
おそらくདམ་ལྡན་ dam ldan。

(注3)
おそらくཚེ་དབང་ tshe dbang。

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(追記)@2014/05/17 + (追記)@2014/05/18 は独立させて、

2014年5月18日日曜日
「パドマ/ペマ」「オムマニペメフーム」のチベット文字表記

としました。

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(追記)@2017/01/07

西蔵ツワンさんの記事がありました。

・ニューズウィーク日本版 > 最新記事 > ワールド > 高口康太/埼玉の小さな町にダライ・ラマがやってきた理由(2016年12月28日(水)11時24分)

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/12/post-6636.php

2014年5月12日月曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(9) スイスのチベット人

在外チベット人といえば、ダラムシャーラーや南インド、ネパールあたりの居留地が有名ですが、チベット難民は世界各国で受け入れられています。

中でも受入数が多いのはスイス。2002年現在3000人。インド(10万人)、ネパール(2万人)、USA(5500人)に次ぐ数です(同じく2002年現在)。ちなみに日本には60人。少なすぎですよね。

参考:
・ダライ・ラマ法王日本代表事務所(チベットハウス・ジャパン) > チベットについて > 亡命チベット人について(as of 2014/03/21)
http://www.tibethouse.jp/exile/

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スイスでは1960年代前半と、早くからチベット難民の受け入れが始まっています。現在は、上記人数からさらに増え4000人を超えているようです。

参考:
・Wikipedia (English) > Tibetan Swiss (as of 1 January 2014)
http://en.wikipedia.org/wiki/Tibetan_Swiss

その受け入れの、初期の様子を伝える番組がありました。

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NHK特派員だより スイスのチベット避難民
1966初(20分) NHK総合
あまり知られていないが、スイスはチベット難民受入数ではインド、ネパール、北米に次ぐ(現在約3000人)。番組ではスイスのチベット難民の暮らしを紹介したものと思われる。
参考:
・毎日新聞

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情報が少なく、内容についてはタイトルから推察するしかありません。しかし、同時期の新聞記事で、これを補足できるようなものがあります。

・Tibet Sun > News > ST Gallen/Tibetans in Switzerland (before 2014/03/21)
http://www.tibetsun.com/news/1964/06/27/tibetans-in-switzerland
← 初出 : (1964) The Observer, 27 June 1964.

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この記事によると、ある居留地では大きな小屋(スイスで言うところのシャレー)に40人の老若男女が共同生活を送り、男は大工や工夫などで働きます。その収入を皆で分配して生活しているのですが、中国共産党から逃げて来て、そこで真の共産主義が成立しているのは皮肉な話です。

共同生活の中で、チベット式の衣類やチャンまで自作していたようですからたいしたものです。生活の中では、言葉の障害が最大の問題だったことは云うまでもありません。

スイスのチベット難民受け入れの特徴は、孤児を養子として迎えたケースが多いことでしょう。彼らは他の難民に比べてかなり恵まれた暮らしができたでしょうが、他のチベット人との接触も少なく、チベット人としてのアイデンティティもどんどん失っていったでしょうから、どっちが幸せなのか、一概には判断できませんね。

おそらくNHKの番組でも、このような話題が取り上げられたことでしょう。

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私が初めてチベットへ行ったのは、カトマンドゥから空路でした。そのとき隣りに座っていたのが、在スイス・チベット人。カトマンドゥでチベット人はよく見かけましたから、チベット人であることはすぐわかりました。「ああ、仕事かなんかでカトマンドゥに行って、チベットに戻る人なんだな」と思っていたわけです。

彼は私に「入国カードを書いてくれ」と言うのですよ。「中国籍チベット人なら中国語くらい書けるんじゃないの?」と思いましたが、渡されたパスポートはスイスのもの(今思えば、在スイス難民用パスポートだったよう)。当時は、スイスにチベット人がいることなど知りませんから、驚いてしまいました。

きっと里帰りだったのでしょう。アルファベットも漢字も書けないのですから、十分な教育を受けた方ではなかったと思います。それでもチベットへ里帰りできるだけの金が貯まったわけですから、スイスでのチベット人の生活はかなり恵まれている、と言えるでしょう。

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スイスのチベット人コミュニティについては、

・Tibetan Community in Switzerland & Liechtenstein
http://www.tibetswiss.ch/home.html

あたりをご覧下さい。

また、スイスにはチベット仏教僧院もできています。1985年にヨーロッパで初めてカーラチャクラ大灌頂が行われたTibet Institute Rikon(རི་ཀོན་ཆོས་འཁོར་དགོན་ ri kon chos 'khor dgon)、レマン湖畔のRabten Choeling Monastery(རབ་བརྟན་ཆོས་གླིང་དགོན་པ་ rab brtan chos gling dgon pa)。スイスに旅行される方は、行き先にこちらも含めてみてはいかがですか。

・Tibet Institute Rikon
http://www.tibet-institut.ch/index.html
・Rabten Buddhist Monasteries
http://www.rabten.eu/index_en.htm

2014年5月8日木曜日

ヒマーチャル小出し劇場(12) シムラーに住みたい

インドに数年住むなら、是非シムラー(Shimla शिमला)に住んでみたい。

シムラーはHP州都であり、キナウル~スピティやラーホール~ラダックへの入口ともなる町です。それでいてインドらしさも充分あると私は思うし、イギリスらしさもあります。シムラーは英領インド時代の夏都でした(冬都はカルカッタ)。

インド入国後まっすぐシムラーに来て、「ここはインドらしさに欠ける」とガッカリする人が多いようですが、来てすぐだとそうなるでしょう。でも、長くインドを旅していると、インドらしさはそろそろお腹いっぱいになってきます。毎日インドなんですから(あたりまえか)。このインドらしくないところが、逆にシムラーの魅力なのです。インド長期旅行のリフレッシュにはちょうどいい場所でしょう。

また、インド・ヒマラヤで長く粗食に耐えた人にとっては、シムラーに出た時の食の充実ぶりは本当にありがたい。

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ちょっとパチモン臭いけど、中華料理屋まであります。インドの少数民族Ethnic Chinese(華僑)の経営です。彼らは、共産中国成立以前に移住した中国人の子孫(注)。顔はもろ中国人なのに、家族内の会話はヒンディ語だし、女性はパンジャービー・ドレスを着ているし、違和感にめまいがしてきます。

亡命チベット人も多い。近郊にはニンマパのゴンパ、チョナンパのゴンパもあります。

それになんと言っても、本屋がたくさんあるのがよい。シムラーに来た時は、本を買いまくっては夜中まで読んで→梱包→SAL便で送るの繰り返し。

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上の写真は、尾根の上The Ridge。

日曜なので市民・観光客でいっぱい。新婚旅行のカップルが多いですね。その中にチベット仏教の行者が混じっていたりするのも、シムラーのおもしろいところです。

あっと、シムラーではサルに注意。ホテルでは、部屋の窓を開けっぱなしにしていると、すぐにサルに何かを持っていかれますから。

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(おまけ)

シムラー中心部の地図(雑にキャプチャー版)。ガイドブック用にこういうのを何十と作りましたが、全部無駄になっているわけです。











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(注)

華僑は中華料理店経営、というのは世界中同じですが、シムラーでは靴屋を営む人も多い。皮革産業は被差別カーストの職業とされているので、そのすきまに非ヒンドゥ教徒の華僑がすっぽりはまったわけです。

少数民族としてのEthnic Chineseは、チベット系のギャカル・カムパと似たようなポジションにあり、民族学の研究対象としてもなかなかおもしろそう。

2014年5月4日日曜日

ブロク・スカット('brog skad)の会話例

せっかくブロクパ(འབྲོག་པ་ 'brog pa)の話題になったので、ブロクパの言葉ブロク・スカット(འབྲོག་སྐད་ 'brog skad)について、少し触れてみましょう。

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ごちゃごちゃ前置きはやめて、まず会話例を見てもらいましょうか。

(T)-旅行者
(B)-ブロクパ

で示します。

(T)こんにちは。
Jule.
(B)こんにちは。
Jule.
(T)ここがダー村ですか?
Ane dah la ?
(B)はい、そうです。
Ya.
(T)ここには宿はありますか?
Aner hotel hang-a ?
(B)はい、2・3軒ありますよ。
Ya, du-tra hoteli hang.
私があなたをホテルへ案内してあげましょう。
Mai ti-ra hotel-di pun-pushyungs.
私と一緒にこっちへ来てください。
Mo-cisum perer ye.
(T)ありがとう。
Jule.
(B)これがホテルです。いい宿ですよ、安いし。
Homo hotel la. Noro unga sasta la.
(T)あなたはこれについてよく知っていますね。
Ti homo phyaci bede jitiyale.
(B)ホテルの主人は私の友だちなのです。
Hotel-u sadir myo yato hang.

その後、宿でご飯を食べたり、村人と話をしたり、ゴンパを参拝したりと続くのですが、今回はこれまで。

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単語はさておき、全体の雰囲気はチベット語よりもヒンディ語の方に近いですね。それも当然です。'brog skadはインド・ヨーロッパ語族ダルド語群シナー語の方言なのですから。ヒンディ語とはやや遠い親戚に当たります。

「私の」が「myo」だったりして、英語の「my」と似ています。印欧語族であることがしっかり実感できます。

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ここで、「'brog skad」の日本語訳がまだないので決めておきましょう。

「ブロク語」にします。

「ブロクパ語」でもいいんですが、「'brog pa'i skad」ではなく「'brog skad」であることを尊重して、「ブロク語」とします。

できれば彼らの自称を使いたいところですが、彼らの自称は「Sh(r)in」なので、これを利用すると「シナー語」になってしまい、ギルギットの「シナー語」と区別がつかなくなってしまいます。

「'brog skad」はシナー語の方言ですから、「シナー語ブロク方言」と言い換えることも可能です。しかし、「'brog skad」を単独で扱う場合が多いでしょうし、またギルギットのシナー語とはかなり差異が生じていることも考慮すると、「ブロク語」という独自の名称を与える意味合いは十分あるはずです。

なおこれは、「ブロク語」が言語学的に「シナー語」とは別言語として扱われるべき、と主張するものではありません。「ブロクパの言葉」程度の意味と受け取ってください。「チベット語」と「ラダック語」の関係と同じ扱いです。

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ブロク語勉強の元ネタは、お馴染みの

・Devidatta Sharma (1998) TRIBAL LANGUAGES OF LADAKH (PART 1). pp.xv+184. Mittal Publications, New Delhi.

Part 2のラダック語同様、なかなか難儀な本なのですが、ブロク語の文法書というのは世界中でこれしかないので仕方ありません。

ある程度、Sharmaの本の癖をつかんでしまえば使いではかなりあります。これで勉強して、現地で確認・補足すれば、ブロク語は一通り使えるようにはなろうか、という充実の内容ですよ。買って損はない本です。

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上に挙げた会話例だけではなく、一般に使えるような会話帳も完成しているのですが、実際に使えるかどうか、発音は正しいのか、など現地で確認する必要があります。

しかし、例によって行く機会も金もないので、発表できるのはいつになるかわかりません。まあ、需要があるわけないですし、「ないと困る」という人も誰もいないでしょうから、気長に。

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(追記)@2014/05/04

上の会話例は、Sharma(1998)で勉強した結果をもとに、私が創作したもの。そのまま転載したものではありません。

Sharma(1998)には、ブロク語の例文が多数掲載されているのは当然ですが、いずれも文法を説明するためのものでほとんどが短文です。ですから、その本をちょっと読んだくらいでは、すぐにブロク語が使えるようになるわけではありません。ある程度気合入れて、読んだり勉強したりしてください。