あんまりチベットものから遠ざかると、忘れてしまいそうなので、リハビリしておきましょうか。
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『チベット死者の書』こと『バルド・トゥードル』のチベット語・文字スペルについて。
これは、チベット語では『བར་དོ་ཐོས་གྲོལ། bar do thos grol/』。
「bar do」は、漢語では「中有(ちゅうう)」あるいは「中陰(ちゅういん)」。死から転生あるいは解脱するまでの間の四十九日のことです。
「生有(しょうう、生まれる瞬間)」→「本有(ほんぬ、生きている間)」→「死有(しう、死ぬ瞬間)」→「中有(ちゅうう)」→元へ戻る
と回ります。これを「四有(しう)」と言います。「輪廻転生」でもいいでしょう。
しかし「死有」以外、スラスラ出てくるGoogle IMEはやっぱりすごい(スマホ版はダメだけど)。
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「bar」は形容詞で、「間の」という意味。「do」は「二つ一組」の意味。つまり「bar do」は「死有と生有の二つの間」という意味になります(注1)。「bar ma do」と記されることもあります。
「thos」は「thos pa」。他動詞「聴く」です。音や言葉が勝手に耳に入ってくる(聞こえる)「nyan pa」と違い、「積極的に聞く」というニュアンス。
「grol」は自動詞「grol ba」。もともとは「解放される」「自由になる」という意味ですが、転じて仏教用語として「救済される」「解脱する」という意味で使われることが多いです。
「སྒྲོལ་མ་ sgrol ma(多羅菩薩)」の「sgrol ba」は、「grol ba」が他動詞化したもので、「救う」「救済する」になります。
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「thos grol」と続けると、「聴聞することにより解脱する」という意味になります(注2)。省略を排してより正確に記すと「thos pa dang grol」。
生前充分に修行を積んだ人であれば、息を引き取ってすぐ解脱できるのですが、凡夫はそうはいきません。そこで、中有の間四十九日間、お経を読み聞かせ、解脱へと導くのが『bar do thos grol/』の役割です。
今生での解脱への最後のチャンス、というわけです。
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日本仏教には「戒名」というものがあります。これは、俗人を死後受戒させ、出家したものとして「法名」を贈るものです。日本独自の仏教風習らしいです。
日本仏教では、死後最初に読まれるのが「枕経」です。これは「受戒」=「仏門への入門」のためのお経ということなのでしょう。
通夜・葬儀の間、さらに初七日法要、四十九日法要と数多くのお経が読まれます。その過程で故人は解脱へ導かれ、仏の待つ極楽浄土へ送られる、というシステムです。中有の期間が終わる四十九日目に解脱できるのか、輪廻に回るのかが判定されます。
日本仏教では「成仏」という概念があります。仏教徒の故人は、その葬儀の過程で、四十九日の後、例外なく解脱したとみなされます。故人をみな「仏」と呼ぶのはそういうことですね。
「枕経」と呼ばれるのは、死後最初に読まれるお経だけで、葬儀中の一連のお経は「枕経」とは呼ばれないようです。
そういうわけで、中有の間中、受戒から解脱までを一手に引き受けるお経『bar do thos grol/』を「枕経」と呼ぶのは、ふさわしくないかもしれません。
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チベット仏教では、生前充分な修行をしていない凡夫は、中有の間にお経を聴いたくらいではそう簡単に解脱はできない、とされるようです。『bar do thos grol/』を聞かされても、ほとんどの故人は解脱に至らないのです。
ならば、ということで、『bar do thos grol/』の後半では、解脱へと導くのはあきらめてしまいます。どうせ転生してしまうのならば、より良い転生へと故人を導こうとするのです。
「六道(りくどう)」という仏教用語があります。チベット語では「འགྲོ་བ་རིགས་དྲུག 'gro ba rigs drug」。天道(仏の世界)、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つです。
『bar do thos grol/』では、転生するにしても人間道よりも劣る四道へ転生してしまうのを防ぐ内容のお経を読みます。
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こうして四十九日後には、故人はどこかで人間として受胎しただろう、とみなされます。実際はどこに転生したのかはわからないので、期待にすぎないのですが。ここで『bar do thos grol/』の役割は終わりです。
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『bar do thos grol/』は14世紀のニンマパ僧 གཏེར་སྟོན་ཀརྨ་གླིང་པ་ gter ston karma gling pa テルトン・カルマ・リンパ[1326-86]によって、དྭགས་པོ་ dwgas poのསྒམ་པོ་གདར་གྱི་རི་ sgam po gdar gyi riで発見した、とされます。
カルマ・リンパが発見したとされる埋蔵経典は膨大な数にのぼり、それらは『ཀར་གླིང་ཞི་ཁྲོ། kar gling zhi khro/(カルマ・リンパの寂静尊・忿怒尊)』としてまとめられています。
その中の経典群『ཟབ་ཆོས་ཞི་ཁྲོ་དགོངས་པ་རང་གྲོལ། zab chos zhi khro dgongs pa rang grol/(深遠なる教え、寂静尊・忿怒尊の瞑想により自ずから解脱する)』中の一部が『bar do thos grol/』になります。
正式名称は、
・གཏེར་སྟོན་ཀརྨ་གླིང་པ་ gter ston karma gling pa (14C中頃?) 『ཆོས་ཉིད་བར་དོའི་ཐོས་གྲོལ་ཆེན་མོ། chos nyid bar do'i thos grol chen mo/(法性たる中有における聴聞による大解脱)』または『སྲིད་པའི་བར་དོ་ངོ་སྤྲོད་གསོལ་འདེབས་ཐོས་གྲོལ་ཆེན་མོ། srid pa'i bar do ngo sprod gsol 'debs thos grol chen mo/((有の狭間なる)中有への入口の祈り、聴聞による大解脱)』。
著者は8世紀のインドの密教行者पद्मसम्भवPadmasambhava(པདྨ་འབྱུང་གནས་ padma 'byung gnas/གུ་རུ་རིན་པོ་ཆེ་ gu ru rin po che)と明妃 ཡེ་ཤེས་མཚོ་རྒྱལ་ ye shes mtsho rgyalとされますが、定かではありません。
ニンマパに伝わる経典ですが、カギュパでも利用されています。
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『ゲルクパ版 死者の書』というものもあります。しかしこれはニンマパ版とは異なり、修行者が生前に学習するものとなっています。枕経的なものではありません。
・ཨ་ཀྱ་ཡོངས་འཛིན་བློ་བཟང་དོན་གྲུབ་དབྱངས་ཅན་དགའ་བའི་བློ་གྲོས་ a kya yongs 'dzin blo bzang don grub dbyangs can dga' ba'i blo gros [1740-1827] (18C末?) 『གཞིའི་གསུམ་གྱི་རྣམ་གཞག་རབ་གསལ་སྒྲོན་མེ། gzhi'i sku gsum gyi rnam gzhag rab gsal sgron me/(基本の三身の構造をよく明らかにする燈明)』.
ただし、『bar do thos grol/』の方も、本来は修行者が生前に学習する目的で作られた経典だったようですが、いつの間にか枕経的な使い方をされるようになったらしいです。
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参考:
・川崎信定・訳 (1989) 『原典訳 チベットの死者の書』. pp.214+pls. 筑摩書房, 東京.
→ 再発 : (1993) pp.243+pls. 筑摩書房(ちくま学芸文庫), 東京.
・日本放送協会 (1993) NHKスペシャル チベット死者の書(1) 仏典に秘めた輪廻転生/(2) ドキュメンタリードラマ 死と再生の49日. [映像]
→ ビデオ化 : (1994) NHKソフトウェア, 東京/同朋舎出版, 東京.
→ DVD化 : (2009) NHKエンタープライズ, 東京/ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント, 東京(ジブリ学術ライブラリー).
・河邑厚徳+林由香里 (1993) 『チベット死者の書 仏典に秘められた死と転生 NHKスペシャル』. pp.270. 日本放送出版協会, 東京.
→ 再発 : (1995) pp.365. 日本放送出版協会(NHKライブラリー), 東京.
・中沢新一 (1993) 『三万年の死の教え チベット『死者の書』の世界』. pp.199. 角川書店, 東京.
→ 再発 : (1996) pp.186. 角川書店(角川文庫), 東京.
・ヤンチェン・ガロ・撰述, ラマ・ロサン・ガンワン・講義, 平岡宏一・訳 (1994) 『ゲルク派版 チベット死者の書』. pp.236. 学習研究社, 東京.
→ 再発 : (2001) 学習研究社(学研M文庫), 東京.
・Bryan Jaré Cuevas (2000) THE HIDDEN TREASURES OF SGAM-PO-GDAR MOUNTAIN : A HISTORY OF THE ZHI-KHRO REVELATION OF KARMA-GLING-PA AND THE MAKING OF TIBETAN BOOK OF DEAD. pp.viii+540. University of Virginia (博士論文), Charlottesville(VA).
http://vajrayana.faithweb.com/The%20hidden%20treasures%20of%20Sgam-po-gdar%20Mountain%20A%20history%20of%20t.PDF
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(追記)2014/08/20
(注1)を加えた。よって(注)は(注2)になった。
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(注1)
「do(二つで一組)」は、「死有」と「生有」ではなく、二つの「本有」、の方がふさわしそうですね。
(注2)
「thos grol」は「聴いて解脱する」ですが、「見て解脱する」もあります。こちらは「མཐོང་གྲོལ་ mthong grol トンドル」と言います。
年に一度(あるいは数年に一度)ご開帳される仏像や大タンカは、めったに拝観する機会のないもので、拝観できれば霊験あらたかとされています。
まあ実質的には、これを見ただけで一発で解脱できる、などとお手軽に考えている人は、チベット人でもほとんどいないと思いますが。こういった経験を重ねることで功徳を積み上げる、という意識が強いと思われます。
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