2009年6月27日土曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(3) ポスト吐蕃時代のチベット・ボロル(ブルシャ)関係

一方、チベット側ではこの地方をどう呼ぶようになったのでしょうか?

ボロル/ブルシャ/勃律が721年頃東西(大小)に分裂した後、大勃律の方はいつのころからかバルティ・ユル(sbal ti'i yul)と呼ばれるようになりましたが(注1)、小勃律の方にブルシャ/ドゥシャ(bru sha/'bru zha)という名称が残りました(注2)。

9世紀に吐蕃帝国が解体し、チベット中央にとってボロル/ブルシャは対外戦略上重要な場所ではなくなりました。それでも16世紀にイスラム化するまでは(注3)依然仏教など(注4)も存続していたようで、ある程度の往来はあったようです。

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一方、隣接する西部チベット=ンガリー・コルスム諸国とは密接な関係があり、グゲ/ラダックとブルシャ(ギルギット)/バルティスタン諸国はたびたび戦争をしたり婚姻関係を結ぶなど、深い関係を続けていました。

代表的な例は、グゲ王ウー・デ[位:1024-37d]です。『mnga' ris rgyal rabs(ンガリー王統紀)』(Vitali 1996収録)によれば、ウー・デ('od lde)は、マルユル(mar yul=ラダック)に行き、さらにブルシャ(bru sha)へ遠征しましたが、そこで捕虜となってしまいます。サンギェ・メンラ(薬師如来)のご加護でこれを脱することが出来ましたが、シュルカル(shul dkar、おそらく現shi gar)で毒殺されてしまいました。

『zangs dkar chags tshul lo rgyus(ザンスカール史)』(Francke 1926収録)には、ラチェン・シャキャ・トゥバという王が現れ、このウー・デときわめてよく似たエピソードを残しています(同一人物とする説も有力)。

ザンスカールが混乱状態に陥った際、スピティのグゲ方面(spyi ti'i gu ge'i phyogs)よりラチェン・シャキャ・トゥバ(lha chen sha' kya thub pa)を招き王としました。王はブルシャル('bru shal)に行きその王女を王妃に迎えましたが(注5)、翌年その帰還途上ヤブグーパ(yab sgod pa)に王妃を奪われシャキャ・トゥバは亡くなりました。おそらく戦死か暗殺されたのでしょう。

ヤブグーはテュルク語の官職名「ヤブグ(yabghu)」と同じでしょう。バルティスタンのハプルー(kha pa lu)王家は「Yabgu」の称号を有しており、テュルク系の出自を持つと考えられています(系図では、テュルク系の出自は隠蔽されていますが、テュルク語の王名も現れ、その出自は隠しようがありません)。上述のシャキャ・トゥバからブルシャル王妃('bru shal rgyal mo)を奪ったヤブグーパはこのハプルー王であった可能性は高いと思われます。

なお、ウー・デもしくはシャキャ・トゥバのこのエピソードは、主人公をイェシェ・ウーに替えた上で、かの有名な「イェシェ・ウーのガルログ(gar log、カルルク)遠征」エピソードに変形されて、チベット各史書に残されている、と考えられています。

「ウー・デ=シャキャ・トゥバ」説の妥当性はさておき、グゲやザンスカールなど、西部チベット諸国がブルシャやバルティスタンと関係が続いていたことはこれでよくわかります。

ラダック王家が16世紀以降にバルティスタン諸国と戦争をしたり婚姻関係を結ぶなど、深く関係していたことを示す記事も『ラダック王統紀』に多数現れています。しかし、このころになると、ラダックとブルシャの間にはイスラム化したバルティスタン諸国が立ちはだかり、ブルシャ(ギルギット)の方もイスラム化したため、ラダック~ブルシャ(ギルギット)間の直接交流はほとんど聞かなくなります。

険しい山を背景にしたハプルー王宮(Khapulu Khar)

参考:
・August Hermann Francke (1926) ANTIQUITIES OF INDIAN TIBET : PART(VOLUME) II : THE CHRONICLES OF LADAKH AND MINOR CHRONICLES. pp.viii+310. Calcutta. → Reprint : (1992) Asian Educational Services, New Delhi.
・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.xi+642. Dharamsala, India.

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(注1)
「バルティ(sbal ti)」という地名の語源はわかっていない。

・Klaudios Ptolemaios(クラウディオス・プトレマイオス) (2C前半) SYNTAXIS GEOGRAPHIKE(地理学集成). → 邦訳 : 織田武雄・監修, 中務哲郎・訳 (1986) 『プトレマイオス地理学』. pp.xvi+263+pls. 東海大学出版会, 東京.

には、「Paropanisades(Paropamisadae、ヒンドゥクシュ山脈周辺)北部にBoltae(またはByltai)という人々が住んでいる」とあり、これがバルティ(スタン)の初出、とする説がある。しかし名前以外に情報はなく、位置も現在のバルティスタンよりやや西、と疑問点もあり確実とは言えない。が、仮にBoltae(Byltai)=Baltiで、その名の存在が紀元2世紀まで逆上るとするなら、「Bolor」と「Balti」が同源の名称である可能性は高まり、魅力的な説ではある。

一方、バルティの語源をチベット語に求めているのが山口瑞鳳氏。

・山口瑞鳳 (1987) 第II部 中央アジアの歴史 第四章 チベット.江上波夫・編 (1987) 『世界各国史 16 中央アジア史』所収. p.525-621. 山川出版社,東京.

では、747年の高仙芝による小勃律遠征を述べた後に、「当時、スムパ族のベルとランの部族兵団は勃律からタシュクルガン方面にかけて駐留し、吐蕃西方経営の拠点確保に当たっていたと思われるが、高仙芝に圧倒されて、しばらくはなすところも知らなかった。彼らが女国の故地近辺で働いた狼藉はスムパの掠奪として仏典に記録され、ベルデ(ベルの集団。今日のバルティスタン)の名をこの地に残した。」と述べている。

スムパ=sum pa、ベル氏='bal、ラン氏=lang/rlangs、ベルデ='bal sde(かと思われる)

つまり「'bal sde」→「sbal ti」となった、という説。

スムパのベル・キェサン・ドンツァブ('bal skyes bzang ldong tsab)がカラコルム方面軍を指揮し、ブルシャ(小勃律)を制圧したことは、『敦煌文献・年表(編年記)』の737年(牛年)の条に記されている。これにより、ブルシャは747年の高仙芝遠征までは完全に吐蕃の傘下に入る。

ベル・キェサン・ドンツァブは、この功が認められたか、同朋のラン・ニェシク(lang myes gzigs)と共に吐蕃政府中央でめきめきと頭角を現し、両人は750年頃にはド(ブロ)・チュンサン・オルマン('bro cung bzang 'or mang)と並ぶロンチェ(blon che、宰相)にまで上り詰めた(ただし、『敦煌文献・宰相記』ではラン・ニェシクはロンチェではない)。

737年以降も引き続きスムパ軍がカラコルム方面に駐留したかどうかは『敦煌文献』には記録がないが、その可能性は高いだろう。

ベルとランは、754年にティデ・ツクツェン(khri lde gtsug rtsan)王を暗殺しクーデターを起こすが、ンゲンラム・タクラ・ルコン(ngan lam stag sgra klu khong)らの働きによりこの乱は翌年鎮圧された(『ショル石柱碑』に基づく)。

このクーデターの原因については語られていないが、747~53年にかけて、カラコルム方面の小勃律、朅師(チトラル)、大勃律で相次いで唐軍に敗れた事件は関係ありそうだ。同方面の責任者(と推測される)ベルとランに対する風当たりは強まったことだろう。それで「どうせ粛清されるなら・・・」と、クーデターという破れかぶれの手に出たのかもしれない。状況証拠を総合して推測すると、こういうお話がうまくできあがるが、推測の域を出ない状態で、もう二・三歩証拠がほしいところ。

また、山口が述べる「仏典」とは、『チベット大蔵経カンギュール』所収の『dri ma med pa'i 'od kyis zhus pa(Vimalaprabhā-pariprcchā/無垢光所問/ヴィマラプラバー請問)』のこと。

そのチベット語原文は、

・The Tibetan Buddhist Resource Center > Digital Library > Canons > bka' 'gyur (stog pho brang) bris ma - view outline > mdo sde ( ka - ji ) > volume 81, mdo sde (a) > dri med 'od kyis zhus pa
http://tibetantexts.org/kb/tbrc-detail-outline.xq;jsessionid=429CA253DBBC75CFE45F5F14769628D9?address=10.30.3&wylie=n&RID=O01CT0007#O01CT000701JW27155

から閲覧できる。これは『(ラダック)ストク宮版』。また大谷大学蔵『北京版』ではNo.835、東北大学蔵『デルゲ版』ではNo.168。

・F.W.Thomas (1931) TIBETAN LITERARY TEXTS AND DOCUMENTS CONCERNING CHINESE TURKESTAN : PART-II : DOCUMENTS. Royal Asiatic Society, London.

にはその英訳・解説がある(上記チベット文とはページ数は一致しないので注意)。

これはインド仏典ではなく、ホータンで創作された経典と推測されている。内容は、釈迦如来、諸菩薩、諸神、信者が集い、ホータン(li yul)での仏教繁栄とチベット(gdong dmar=赤面)/スムパ(sum pa)軍による侵攻を予言する、というもの。

主人公のディマメーペー・ウー(dri ma med pa'i 'od/Vimalaprabhā/無垢光)は、マガダ国王(rgyal po ma skyes dgra/Ajātaśatru)の王女で、未来ではスカルドゥ(skar rdo)国王ワンチュク・ゴチャ(dbang phyug go cha/Iśvara-varman)の王女ラブゲー(rab nges)として転生する、と予言される。ラブゲーは金族の国(gser gyi rigs kyi yulあるいはgser gyi yul/Suvarnagotra)の王に嫁ぐ。スカルドゥ国と金族の国もホータンと共にチベット/スムパ軍の侵攻に巻き込まれるが、ラブゲーの仏教信仰の功徳により撃退に成功する、という筋書きになっている。

釈迦如来ら一同の予言により未来の出来事が語られるという複雑な構成で、時間が大きく小さく行きつ戻りつするため、内容は大変把握しづらい。

これは経典であり、史実を正確に伝えているとみなすことはできないが、チベット軍と共に(あるいはその一部として)スムパ軍がカラコルム~ホータン方面に展開していた事実を反映している、とみることはできよう。

史書では情報の少ない唐代のホータン史や大勃律(スカルドゥ)史への補足、そしていまだミステリアスな存在であるスヴァルナゴトラ(女国)の探究にこの経典を利用できないか?といろいろ試みられてはいるが、よい結果が出ているとは言い難い。

この経典が想定している「チベット/スムパ軍のホータン/スカルドゥ(大勃律)/スヴァルナゴトラ(女国)侵攻の年代」をいつに置くかについても様々な議論がある。チベット軍のホータン侵攻は唐代に何度もあり、665年、670年頃、676~77年、687年、791~92年頃(ホータンの完全制圧、850年頃まで吐蕃領)のどこに置くべきか結論が出ない。あるいは、これら数度にわたる侵攻の「印象」を総合してストーリーが作られているのかも知れないし、なかなか扱いが難しい文献である。

山口説が唱えるスムパ軍の動向は、この経典を参考に大胆に推測したもののようだが、そこでははっきり論拠が示されていないので、参考にする際には注意が必要。「'bal sdeがsbal tiの語源となった」とする説に賛同する声もどうも見あたらないようだ。

(注2)
『la dwags rgyal rabs(ラダック王統紀)』には、ティソン・デツェン(khri srong lde brtsan)[位:754-97d]時代の記事に「sbal ti」と「'bru shal」が並んで現れる。

『ラダック王統紀』は、19世紀まで代々書き継がれてきた史書であるため、古い時代の記事にもある程度手が加わっている可能性も考慮しなければならないが、大・小勃律が分裂したのは721年頃で、その頃から両者を区別するため、大勃律の方をバルティと呼ぶようになった、という可能性は保留しておいてもいいだろう。

(注3)
ボロルがイスラム化した年代については諸説ある。

Al Azraqī(9世紀半ば)『AKHBĀR MAKKA(メッカ史)』には、814~15年、アッバース朝軍がカーブル・テュルク・シャーを破り、さらにカシミール、そしてワハーン~ボロル(Balūr)などのチベット(吐蕃)領で勝利を収めた、という記録が残っており、これが真実であればボロルがイスラム教と接触した最初となろう。

口伝では、トラカン朝四代目の王ソウ・マリク1世(Sau Malik I、8世紀とする説があるがおそらく12世紀頃だろう)がイスラム教に入信したことでイスラム化が始まったとされるが、あまり信憑性がない。

作者不詳(982)『HUDŪD AL-'ĀLAM』では、「ボロル王は太陽(Aftab)の息子を称す」と記され、イスラム教の存在をうかがわせるような記事がない。

14世紀初、バダフシャンからモンゴル帝国軍の一派(おそらくチャガタイ家系?)とみられるタジ・モガル(Taj Moghal)という人物が、チトラル~ギルギット一帯を征服し、王家をイスラム教イスマイリ派に入信させた、という口伝もある。これは、14世紀初、カシミールがやはりモンゴル軍の侵攻を受け、その後王家がイスラム化したのと機を同じくしており興味深い。しかし、それでもボロルにはイスラム教はまだ定着しなかったようだ。

なお、現在フンザ~プンヤール~ヤスィンで盛んなイスマイリ派はこれとは直接関係がなく、18世紀、一時バダフシャンに亡命し後に即位したフンザ王サリム三世(Salim III)が導入したもの。

1528年、ボロルに侵攻したミルザ・ハイダルはこの国を「Kafiristan(異教徒の国)」と記している。16世紀前半になってもボロルにはまだイスラム教は浸透していなかった、とみられる。

イスラム化したのはボロルよりもバルティスタンの方が早かった。15世紀半ば、バルティスタン東部に移り住んだスーフィー、ハズラト・サイード・モハンマド・ヌールバクシ(Hazrat Sayed Mohammad Nurbaksh、?-1464)がシガル~ハプルーでの布教に成功。この地域はいまもスンニ派スーフィズムが盛ん。

1532年、バルティスタンに侵攻したミルザ・ハイダルはバフラム・ジュー(Bahram Ju/Choh)という名の首長(スカルドゥ王)に会っている(Ju/Chohはチベット語の「jo bo=領主/支配者」であろう)。ここも「Kafir(異教徒)」と記されている。同時代にはシーア派のミール・シャムスウッディン・イラキ(Mir Shamsuddin Iraqi、?-1525)がすでにスカルドゥで布教していたはずだが、イスラム化はあまり進んでいなかったようだ。バフラム・ジョの子マクポン・ボカ(Maqpon Bokha)がイスラム教シーア派に入信し、16世紀半ばにはスカルドゥもイスラム化が進む。

同じく16世紀半ば、イスファハーンからシーア派のサイイド・ブリヤ・ワリー(Sayyid Burya Wali)がこの地域にやって来て、ナガル、ギルギット、チトラルでイスラム教シーア派布教に成功する。

これでほぼカラコルム地域のイスラム化が完成。イスラム化の波は16世紀後半、さらにラダック側のプリク(スカルドゥから入ってきたのでシーア派が優勢)へ広がっていく。カラコルム地域の仏教は滅び、現在ではその痕跡はほとんど残っていない有様。

18世紀にフンザ~ヤスィンがイスマイリ化、19世紀頃からやはりイスマイリ派信者のワヒー人がカラコルム北部に入ってきて、現在の宗教分布が完成する。

参考:
・Mirza Muhammad Haidar Dughlat (1895) 前掲.
・Christpher I. Beckwith (1986) THE TIBETAN EMPIRE IN CENTRAL ASIA. pp.xxii+281. Princeton Univ. Press, New Jersey, USA.
・A.H. Dani (1991) 前掲.

(注4)
ボロルでは仏教の他、ゾロアスター教、ヒンドゥ教、分類不能の民間信仰、シャーマニズムなどが信仰されていたと推測されるが、仏教と、現在も続くシャーマニズム以外についてはほとんど物証が残っていない。

仏教についても、8世紀頃までは石仏・磨崖仏、発掘経典、中国人求法僧の旅行記などである程度知られているが、それ以降イスラム化するまでの仏教についてはニンマパの経典などから断片的な情報を拾うしかないのが現状。密教の本場ウディヤーナ(スワート)がすぐ南に控え、密教の影響が強く及んでいたであろうとは推測される。

(注5)
ウー・デ王あるいはシャキャ・トゥバ王のこのエピソードは、ボロル史/バルティスタン史では記録に残っていないので、そのどこに位置づけていいのかわからない。11世紀前半ボロルはトラカン朝の前、仏教国シャー・レイス朝(末期か?)であったと思われる(トラカン朝7世紀創建説もあるが信憑性はない)が、この王朝についてはほとんど情報がない。

2009年6月21日日曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(2) ボロル(ギルギット~フンザ)簡史

ギルギット/フンザ/ヤスィンからバルティスタンにかけての広い地域は、7~8世紀には、インドや西方世界からは「ボロル(Bolor)」と、中国からは「勃律(中古音[buat liuet])」と呼ばれていました(注1)。その語源は同地を支配していた王朝の名称「Patola/Palola」とみられています(注2)が、それの意味するところは謎です。

一方、同地域はチベットからは「ブルシャ(bru sha/'bru zha)」と呼ばれていました。「ブルシャ」という名と「ボロル」、そして「バルティ」がどういう関係にあるのか、これもわかっていません。一説ではこの三つはすべて王朝名「Patola」が語源ではないか、ともいわれていますが、微妙に音が異なる理由が説明できず、結論は出ていません。

なお、「bru sha/'bru zha」は現代ウー・ツァン方言では「ドゥシャ」になりますが、ここでは吐蕃時代の話が中心となるので、昔の発音通り(あるいはバルティ語風に)「ブルシャ」を主に使うことにします。

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ギルギット~フンザの歴史を概観しておきます。

古代のギルギット/フンザ/ヤスィン/バルティスタンを支配していたのはボロル(Bolor/勃律)という国です。

中国の史書、地理書、求法僧の旅行記では、前漢代からパミール(葱嶺)を越えた南側山岳部の地名が「懸度/県度(インダス川沿い)」、「難兜国(現バルティスタンか?)」、「阿鈎羌(難兜国の後裔か?)」、「陁歴(現Darel)」などの名で現れます。6世紀に入ると「波倫」、「波路」、「鉢盧勒」の名が現れ始めます。これらが「Bolor」の音写であるのは確実です。

この国は唐代になると、唐に使者を派遣するようになり、「勃律」の名で呼ばれます。7世紀後半、唐の西方進出が盛んな時代です。

一方、吐蕃も643~44年のシャンシュン制圧を皮切りに、7世紀後半チベット高原を横断しての西方進出を開始します。ボロル/ブルシャ(勃律)が先に直接接触したのは唐軍でなく吐蕃軍の方でした。

ボロル/ブルシャは吐蕃に協力し、吐蕃軍のタリム盆地進出のルートを提供したと思われます(注3)。その経緯は史料でははっきりしませんが、『冊府元亀』や『資治通鑑』によれば、早くも662年には吐蕃軍がカシュガル(疏勒)の南に姿を現していますから、643~44年のシャンシュン制圧後20年ほどでボロル方面までを勢力下に収めたものと思われます(注4)。ボロル(勃律)はその一方で唐へ使節派遣も続け、両面外交を展開していました。

当時のボロル/ブルシャ(勃律)の中心はバルティスタンの方でした。721年頃同国は大勃律・小勃律に分裂します。本拠地バルティスタンに残った勢力(王家主流派か?)は唐からは大勃律と呼ばれ、引き続き親吐蕃政策を続けますが、王子・没謹忙(注5)はギルギット方面に逃亡してギルギット~フンザ~ヤスィンを取り、唐からは小勃律と呼ばれます。没謹忙はこの直前まで長安に滞在し玄宗にかわいがられていましたから(『新唐書』西域伝)、当然親唐政権になりました。

タリム盆地西部へ盛んに軍事展開を行っていた吐蕃にとっては、これは目の上のたんこぶです。そこで、吐蕃は737年に小勃律(bru zha yul)を討ち、740年には王女ティマルー(注6)を嫁がせます。これで再び小勃律は吐蕃勢力圏内に戻ったわけです。

今度は唐が黙っていません。有名な高仙芝の小勃律遠征があったのはその7年後、747年のことでした。

その後、安史の乱(755~63年)による混乱で、唐の西方経営は大きく後退し(注7)、漢文史料からボロル/勃律の消息を追うことはできなくなります。

大勃律の方はやがてバルティスタン(Baltistan)/バルティ・ユル(sbal ti'i yul)と呼ばれますが、小勃律の方にはボロル/ブルシャの名が残りました。著者不詳(982)『HUDŪD AL-'ĀLAM(世界地理誌-東から西まで)』、13世紀のマルコ・ポーロ、16世紀のミルザ・ハイダル・ドゥグラト(注8)もこの地をボロルの名で呼んでいます。

11世紀頃、ボロル/ブルシャ/小勃律の方は王朝交代があり(注9)、テュルク系とみられるトラカン(Trakhan)朝が始まります(注10)。14~15世紀になると、ギルギットを中心としたトラカン朝の分家として、チトラル~ヤスィンのレイシア(Rasia)朝(注11)、フンザのアヤシ(Ayash)朝、ナガルのマグロト(Maglot)朝が分離し、旧ボロルの統一は失われていきます。

このあたりからボロルという総称は次第に使われなくなり、それぞれの小王国がギルギット、ヤスィン、フンザ、ナガルといったローカル名で呼ばれるようになります。


カラコルムを背景にしたギルギットの町

参考:
・森安孝夫 (1983)吐蕃の中央アジア進出. 金沢大学文学部論集史学科篇, no.4[1983/11], pp.1-85+figs..
・Ahmad Hassan Dani (1991) HISTORY OF NORTHERN AREAS OF PAKISTAN. pp.xvi+532. National Institute of Historical and Cultural Research, Islamabad. (改訂版も出ているようだ)

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(注1)
「勃律」は、おそらく「Bolor」の音写であろうと推測されているが、語尾の「-t」が一致せず、よって「Balti」を写したものではないか?という考えもある。

参考:
・桑山正進・編 (1998) 『慧超往五天竺國傳研究改訂第二刷』. pp.xii+292+pls. 臨川書店, 京都.

(注2)
碑文・銘文によってスペル(あるいは釈字)にばらつきがあり、「Palola」、「Palala」、「Patola」などと読まれている。

(注3)
西部チベット側からカラコルム山脈を北に越えてタリム盆地西部に出る主なルートは、東から順に

(1)カラコルム峠ルート
ラダックのレーからカルドン・ラ(峠)を越えて、あるいはルトクからパンゴン・ツォを経て西へ進み(この場合は越える峠がないので行軍にはより好都合)、ヌブラ・シャヨク川流域に出る。サセル・ラを越えてシャヨク川上流部に進み、カラコルム峠を越える。そこからもう一つ峠を越えてカラカラシュ川流域に入り、これを下るとホータン(和田、唐代は于闐)。
(2)ミンタカ峠ルート
ルトク~シャヨク川経由、あるいはラダック~プリク経由でバルティスタンに進み、インダス川沿いにギルギットへ。そしてフンザ川沿いに北上しミンタカ峠を越えサリコル谷(カラジール谷/ミンタカ谷)へ抜ける。カラジール川(タシュクルガン川)流域からスバシ峠を越えてゲス川流域を下るとカシュガル。
(3)ダルコット峠ルート
ギルギットまでは(2)と同じ。ギルギットからはギルギット川(ギズル川)を西・上流へ進みヤスィンへ。ヤスィン川沿いを北上しダルコット峠を越えてヤルフーン川最上流部へ出て、すぐにボロゴール峠を越えてワハーン谷へ。ワハーン谷を東へ進みワフジール峠を越えるとサリコル谷(カラジール谷/ミンタカ谷)。あとは(2)と同じ。

西チベットからタリム盆地への経路

この中では、無人・不毛の区間が長く、峠越えの数が多い(1)カラコルム峠ルートが最も厳しい。昔は荷駄獣・食用家畜を大量に引き連れての行軍だったと推測されるので、行軍には不利。しかしカシュガルに出ないで直接ホータンに向かう軍は、このルートをとったかもしれない。

なお現在カシュガル~アリを結んでいる新蔵公路は1950年代に開発された軍用道路。それ以前このルートがどのような状況にあったかは不明。しかし、標高5000mを越える無人・不毛の区間が長すぎて、昔交易路・軍用路として頻繁に使われていたとは思えない。

(2)ミンタカ峠ルートは、カシュガルまで大きな峠越えが二度で済み、峠の前後を除き町・村も多く、また標高もさほど上がらないので途中草地も多い。タリム盆地西部への行軍には最も適したルート。

今は一つ東のフンジェラブ峠にカラコルム・ハイウェイが通され、ミンタカ峠は現在すたれている。

(3)ダルコット峠ルートの条件はミンタカ峠とほぼ同様だが、タリム盆地へはやや遠回りになり、むしろトハリスタン~ソグディアナへの行軍に用いられることが多かっただろう。なお、逆ルートは高仙芝が747年の小勃律遠征の際に利用したルートでもある。

これを考えると、吐蕃軍のタリム盆地西部進出には(2)ミンタカ峠ルートが主に使われていたものと推測される。そうなれば、ボロルが戦略上重要な場所であったことは間違いない。唐と吐蕃が争奪戦を繰り広げた理由もよく理解できる。

参考:
・酒井敏明 (1962) パミールをめぐる交通路. 史林, vol.45, no.5[1962/09], pp.63-88.

(注4)
『敦煌出土チベット語文献(敦煌文献)』の「年表(編年記)」と「歴代ツェンポ伝記(年代記)」には、643~44年頃(欠損が多く年代ははっきりしない)吐蕃がシャンシュン(zhang zhung)王国リク・ミリャ(lig mi rhya)王朝を倒した事件が記されているが、その直後さらに西方に勢力を広げていった経緯は記されていない。

なお、リク・ミリャ王朝滅亡後のシャンシュン王国は、キュンポ(khyung po)氏とみられるラサンジェ(ra sang rje)王朝が支配し30年間ほど吐蕃の属国として存続しているので、643~44年でシャンシュン王国が滅亡したわけではない。詳しくはいずれまた。

敦煌出土チベット語文献については、チベット史研究者以外にはあまりなじみがないので、いずれ解説する予定。

慧超『往五天竺国伝』など求法僧の旅行記・地理志などについても解説が必要でしょう。要するに、まず文献紹介が必要なのはわかっているんですが・・・。

(追記)@2009/07/08
『la dwags rgyal rabs(ラダック王統紀)』にはクンソン・ドゥジェ(gung srong 'du rje)=ティ・ドゥーソン(khri 'dus srong)[位:676-704d]代の出来事として、「この王の時に、東は王の河(rgyal po'i chu=黄河?)、南はベルポ(bal po=ネパール)のシンクン(shing khun=不明)、北はホル(hor)のタタク・タルチェン(kra krag dar chen=カラカシュすなわちホータン?)、西はロウォ・チュンリン(blo bo chun rings=ムスタン)、バルティ(sbal ti)への道上にあるナンゴン(nang gong=スカルドゥの古名)、下手のシカル(shi skar=シガル)までを占領し統一した。」とある。

これは、吐蕃軍がカシュガル付近に現れた662年よりもやや後の時代になるものの、7世紀後半には吐蕃軍がバルティスタンまで支配下に治めていた事実が窺える。当時はボロル(ブルシャ/勃律)として大小分裂前であり、この国はギルギットを含んでいたはずだから、ギルギット方面も当然抑えていたに違いない。

なお、『mnga' ris rgyal rabs(ンガリー王統紀)』にも同様の記事があり、おそらく同じ情報源を利用していると思われる。

参考:
・August Hermann Francke (1926) ANTIQUITIES OF INDIAN TIBET : PART(VOLUME) II : THE CHRONICLES OF LADAKH AND MINOR CHRONICLES. pp.viii+310. Calcutta. → Reprint : (1992) Asian Educational Services, New Delhi.
・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.xi+642. Dharamsala, India.

(注5)
碑文や銘文に残されている王名によれば、7世紀頃(確かな年代は不明)のボロル王はサンスクリット語の名前を名乗っていた(例:Vikramaditya Nandiなど)。没謹忙(中古音[muat kian mang])は「Vikrama(+ナントカ)」とか「Vajra-mangala」あたりではないかと推測できるが定説はない。

(注6)
王女ティマルー(je ba khri ma lod)の続柄は不明だが、当時の吐蕃王ティデ・ツクツェン(khri lde gtsug rtsan)の娘とみてよいだろう。なお、ティデ・ツクツェンの祖母にあたるド(ブロ)氏王妃ティマルー('bro za khri ma lod、?-712)とは別人なので注意。

(注7)
かつては、751年の「タラス河の戦い」で高仙芝率いる唐軍がアッバース朝軍に敗れたことを機として唐の西方経営が後退した、と唱えられることが多かったが、現在は、タラス河での戦敗は大きな影響をもたらしていない、という説が優勢。高仙芝は唐朝廷から全く罰せられていないし、タラス戦後もボロル方面での唐軍の対吐蕃攻勢は活発で、753年には吐蕃勢力下の大勃律へ遠征を行い成功させている。

むしろ安史の乱に始まる内政の混乱で、8世紀後半以降唐は西方経営どころではなくなった、というのが実状らしい。

8世紀後半には吐蕃が逆襲を開始。西方遠征を成功させ、パミール諸国が吐蕃朝廷に使節を送るようになる。大小勃律もこれで再び吐蕃の傘下に戻ったと思われる。吐蕃支配から解放されるのは842年の吐蕃帝国崩壊後であろう。

(注8)
Mirza Muhammad Haidar Dughlat(1499/1500-51)。ドゥグラート部はカシュガル土着の名家。モンゴル帝国チャガタイ・カン家に仕えると共に、カンの擁立を牛耳り代々娘婿(クルガン=キュルゲン)として君臨した。14世紀後半にはチャガタイ・カン(モグーリスターン・カン)位を簒奪したカマルッディーンという人物もいた。

チャガタイ家は内紛・分裂を繰り返したあげく勢力はどんどん縮小し、16世紀初頭には所領はタリム盆地のみとなった(カシュガル・カン家)。

ミルザ・ハイダルは当時のカシュガル・カンであるサイード・カン[位:1514-37/38]に仕え、ボロル、バルティスタン、ラダック、カシミールなどに遠征し成功を収めた。しかしラシード・カン[位:1537/38-59/60]の代になると、粛清を恐れムガル皇帝フマユーンの下に亡命(フマユーンの父である初代ムガル皇帝バーブルとミルザ・ハイダルは母方で従弟同士に当たる)。1541~51年にはカシミールの支配者として君臨し、そこで生涯を終えた。

カシミール在住の1541~45年に彼が記した『TARIKH-I-RASHIDI(ラシード・カンに捧げる歴史書)』は、自伝であると共にチャガタイ・カン家の歴史を記したもので、史料に乏しい後期チャガタイ家の動向を伝える第一級史料となっている。

ミルザ・ハイダル自身が指揮したボロル、ラダック、バルティスタン遠征の記録も、16世紀前半の西部ヒマラヤ~カラコルム地域の様子を伝える貴重な史料である。ラダックやグゲ側の史料では、同時代の記録は簡略すぎて、はっきりとわかっていないことが多い。また『TARIKH-I-RASHIDI』の記述とは一致しない点も多く、それらの問題は今なお充分解明されているとは言い難い。

参考:
・Mirza Muhammad Haidar Dughlat, Ney Elias(ed.), E. Denison Ross(tr.) (1895) TARIKH-I-RASHIDI OF MIRZA MUHAMMAD HAIDAR DUGHLAT : A HISTORY OF THE MOGHULS OF CENTRAL ASIA. pp.xxiii+128+535. London. → Reprint : (1986) Renaissance Publishing House, Delhi.
・間野英二 (1987) バーブル・パーディシャーフとハイダル・ミルザー その相互関係. 東洋史研究, vol.46, no.3[1987/12], pp.97-128.

(注9)
それ以前にも複数回王朝交代があった可能性があるが、ややこしくて長い話になる上に、今のところ定説もないので、今回は省略。

(注10)
トラカン(Trakhan)とは、突厥やその末裔が用いていた官職名タルカン(tarkhan)が訛ったものであるのは明らか。ただし、この王家がテュルクのどういう系統に属すのかは、わかっていない。

同王家は後にイスラム化し、西方起源(ペルシア起源)を称し始め、テュルク起源である事実を隠蔽した、とみられている。これはイスラム化した王朝に典型的に見られる系図改竄手法。

またトラカン王朝の創始年代も諸説あるが、詳しい話はいずれまた。

(注11)
レイシア朝は16世紀末、ムガル皇帝バーブルの一族を称するカトル(Kator)朝に取って代わられる。チトラルを支配するカトル朝からはさらにフシュワクト(Khushwaqt)朝が分家しマストゥージ~ヤスィンを支配した。フシュワクト朝は徐々にプンヤール(Punial)までを手中に収めてギルギットに迫り、19世紀にはカラコルム諸国は大混乱に陥る。

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(追記)@2009/07/08

(注4)を若干補足した。

2009年6月17日水曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(1) ブルシャスキー語

また西部チベット「方面」の話に戻ることにしましょう。といっても、今度は「チベット文化圏(Ethnic Tibet)」もちょっと飛び越えてしまいますが。

「ブルシャスキーって何語?って、ブルシャスキーと言ったらフンザのブルシャスキー語に決まっているじゃないか」とおっしゃるかもしれませんが、まあひとつ話を聞いておくんなまし。

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その通り、ブルシャスキー(Burushaski)といえばカラコルム(注1)の奥地フンザ(+ナガル+ヤスィン)で使われている言葉の名称です。

この言葉は周囲の言葉(ダルド系言語のシナー語、ペルシア系言語のワヒー語、チベット系言語のバルティ語など)とはまったく異なり、言語系統不明の孤立語とされています(注2)。そのためフンザの人々(自称はブルショ/Burusho)も、いったいどういう出自であるのかわかっていません。

この近辺ではお馴染みの「アレクサンドロス大王軍兵士の末裔」という「俗説」もありますが(注3)、これは荒唐無稽な伝説として研究者には認められていません。


ウルタル氷河を背景にフンザ遠景

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まず、ブルシャスキー語がどんな言語なのか見ておきましょう。

ほとんど他人の仕事の引き写しなのに、語尾や語順だけちょっと変えてさも自分の仕事でござい、と出すも姑息なので、ここは専門家がコンパクトにまとめたものをそのまま紹介しておきます。出典は、

・吉岡乾(よしおかのぼる) (2006) 先住民たちの現在(23) ブルシャスキー語を話す人々. 月刊言語, vol.35, no.11[2006/11], pp.96-99.

┌┌┌┌┌ 以下、吉岡(2006)より ┐┐┐┐┐

◆ブルシャスキー語の特色

ブルシャスキー語はパキスタン北部地域、フンザ、ナガル、ヤスィンという三つの谷で主に用いられており、大まかに、谷ごとに方言差がある。言語系統は不明で基本語順はSOV、膠着的な分裂能格言語。高低アクセントを持ち、反り舌音や反響語(echo word)などがインド的言語特徴として見られる。子音y.[(注4)]が通言語的に珍しい。名詞クラスが四つあり、概して、ヒト男性、ヒト女性、具体物、抽象物がそれぞれに分類される。妖精や魔物は、ヒト女性か具体物に属する。一部、所属主を義務的に明示しなければならない名詞、形容詞があり、例えばa-ríing(注5)「私の手」、gu-ríing(注5)「あなたの手」(a-「私の」、gu-「あなたの」)に含まれている名詞要素-ríing(注5)「手」は、単独では用いられない。数詞は20進法と10進法の組み合わせになっていて、例えば「494」は、wálti tha ke wálti áltar túrma wálti(「4」×「100」「&」「4」×「20」+「10」+「4」)となる。
(以下略)

└└└└└ 以上、吉岡(2006)より ┘┘┘┘┘

この十代の数え方に現れる、20をひとかたまりとする数え方(注6)はブルシャスキー語独特であるかのごとく大げさに喧伝されることがありますが、実は周囲のダルド系言語シナー語、コワル語、カラーシュ語などはみな同じ数え方をします。さらに東のチベット・ビルマ系ヒマラヤ諸語のラーホール諸語(パッタン語、ティナン語、ガハール語)、キナウル語なども同じです。

例 : 「75」の数え方
ブルシャスキー語: iski altar turma tsundo (3×20+10+5)
シナー語 : che bi gah daiy poin (3×20+10+5)
カラーシュ語: troi bishir jush ponch (3×20+10+5)
キナウル語 : shumu nizau sae nga (3×20+10+5)

ブルシャスキー語特有ではなく、(少なくとも)西部ヒマラヤでは珍しくない数え方であることがわかります(東西さらにどこまで追跡できるのかは知りません)。

考えてみれば、十進法が両手の指全部を基準にしているのに対し、二十進法は両手・両足の指全部を基準にしているのですから、特に変わった数え方とは言えないでしょう。ある特定の言語・文化に源泉を求めるのは不可能かもしれません(バスク語やアイヌ語なども同じ数え方です)。


カラコルム地方言語地図

上図に関する参考:
・Ahmad Hassan Dani (1991) HISTORY OF NORTHERN AREAS OF PAKISTAN. pp.xvi+532. National Institute of Historical and Cultural Research, Islamabad.
・P.N. Pushp+K. Warikoo(ed.) (1996) JAMMU, KASHMIR AND LADAKH : LINGUISTIC PREDICAMENT. pp.224. Har-Anand Publications, New Delhi.
・F.M. Khan (2002) THE STORY OF GILGIT BALTISTAN AND CHITRAL. pp.xiv+256. Eejaz Literary Agents & Publishers, Gilgit.
・The Gulf 2000 Project > Reference > Map Collections > Ethnographic and Cultural/1. Languages/Baluchistan and Pakistan Languages((c)M.Izady, 2007)
http://gulf2000.columbia.edu/images/maps/Pakistan_Baluchistan_Linguistic_sm.jpg

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言葉の響きも、ヒンディ語/ウルドゥ語とペルシア語の中間的な響きを持つシナー語とはだいぶ違い、やたらと母音がはさまるあたりはちょっと日本語と似た響きでもあります。共通する単語こそなさそうですが、キナウル語などのヒマラヤ諸語とも語感は似ている気がします(注7)。

いくつか簡単なフレーズを紹介しておきましょう。

ご機嫌いかがですか?: Besan hal bila ?
元気です。 : Shuwa ba.
あなたの名前は何ですか?: Uume guik besan bila ?(注8)
私の名前は~です。: Jaa eik ~ bila.(注8)
~はどこですか?: ~ amulo bila ?
~はありますか?: ~ bila ?
これはいくらですか?: Khos(男性形)/Khot(女性形) berum bila ?
(私に)~を下さい。: Jar ~ Jowuu.
わかりません。: O dayalam.
1:han/2:alto/3:usko/4:walto/5:tsundo/6:misindo/7:talo/8:altambo/9:huncho/10:turmo/10+X:turma+X/20:altar/100:tha

参考:
・John Biddulph (1880) TRIBES OF THE HINDOO KOOSH. pp.vi+164+clxix. Calcutta. → Reprint : (2001) Bhavana Books & Prints, New Delhi.
・萬宮健策 (1990) ブルーシャスキー語語彙調査についての報告. (東京外国語大学)言語・文化研究, no.8[1990/03], pp.23-30.
・John King (1993) KARAKORAM HIGHWAY : THE HIGH ROAD TO CHINA : 2ND EDITION. pp.234. Lonely Planet, Hawthorn(Australia).
・John Mock+Kimberley O'Neil (1996) TREKKING IN THE KARAKORAM & HINDUKUSH. pp.332. Lonely Planet, Hawthorn(Australia).
・Hunzo.com > Burushaski > General Conversation
http://www.hunzo.com/Burushaski/b_conversation.asp
(追加@2009/06/29)

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この「ブルシャスキー語」の「ブルシャ」とは?、「スキー」とは何でしょうか?

「ブルシャ」の方は、民族名「ブルショ」と同源なのは明らかです。その源流はこれから何回かかけて探索していきますが、今のところその語源は不明です。

一方の「スキー」は、一見スラブ系言語の「~の出身」を表す接尾辞のように見えますが、これは偶然。ブルシャスキー語研究は19世紀からイギリス人の手で始められており、ロシア人は初期には関与していません。それに、「ブルシャスキー」は地元での自称であって、研究者が勝手に発明し名づけた用語でもありません。

「スキー」の方も、今のところ意味・語源とも不明です。これも後ほど探索していきますが、その前にまず「ブルシャ」を片づけましょう。

この辺、ギルギット~フンザの歴史に馴染みのある方はほとんどいないでしょうから、基礎知識として次回はまずその歴史を簡単に紹介しておきましょう。

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(注1)
日本では「カラコルム」という表記が一般的だが、英語表記では「Karakoram」または「Karakorum」。両方「カラコラム」と発音するはずだが、日本では後者のスペルをローマ字読みして、なぜか「カラコルム」となった。

同様な例に、インドのウッタラーンチャル州の避暑地「Mussoorie」がある。これは「マスーリー」と読むのだが、日本ではこれをローマ字読みして「ムスーリー」となった。

(注2)
ブルシャスキー語の系統を探索する学説は諸説あり、近年ではIlija Casule(マケドニア出身)による「フリギア語関連説」、George van Driemによる「イェニセイ語(ケット語)関連説」などが話題を呼んでいる。しかしどの説も多くの支持を得るまでには至っておらず、依然系統不明としておくのが無難。

参考:
・縄田鉄男 (1999) ブルシャスキー語. 亀井孝ほか・編著 (1999) 『言語学大辞典 第3巻 世界言語編(下-1)』所収. pp.844-850. 三省堂, 東京.
・George van Driem (2001) LANGUAGES OF THE HIMALAYAS : AN ETHNOLINGUISTIC HANDBOOK OF THE GREATER HIMALAYAN REGION, CONTAINING AN INTRODUCTION TO THE SYMBIOTIC THEORY OF LANGUAGE (2 vols). Brill, Leiden.
・Ilija Casule (2004) Burushaski - Phrygian Lexical Correspondences in Ritual, Burial, Myth and Onomastics. Central Asiatic Journal. vol.48, no.1, pp.50-104.

(注3)
西部ヒマラヤのあちこちに流布している「アレクサンドロス大王軍兵士の末裔」という俗説については、いずれまとめて紹介しようと思っています。

(注4)
IPA発音記号で示されており、


(注5)
実際はIPA発音記号で示されており、


(注6)
一般に、単純に「二十進法」と表現されることもあるが、例えば17=turma tullo(「10」+「7」)という組み合わせで純然たる二十進法ではない。「二十進法と十進法の組み合わせ」という表現が正確だが、もう少し手短な表現にならないものだろうか・・・。

(注7)
ブルシャスキー語とヒマラヤ諸語の比較は本腰を入れてやったことはないのですが、「水」を意味する単語、ブルシャスキー語「tsil」とヒマーチャル・プラデシュ州のヒマラヤ諸語(ラーホール諸語、マラーナーのカナシ語、キナウル語)「ti/soti」(シャンシュン語では「ti/ting」)は関係あるかもしれない。

これは、フンザ周辺の言語、シナー語「woi」、カシミール語「pony」、ワヒー語「yupkh」、バルティ語(チベット語)「chu」などとは全く共通点がない。

また、「良い。」を意味する文章、ブルシャスキー語「Shuwa ba」とマラーナーのカナシ語「Shobilas」はかなり近い。「~ bila(~です)」は、ブルシャスキー語で頻出する言い回しなので特に気になるところ。

(注8)
「名前(ナントカ-ik)」は、前述の「所属主を義務的に明示しなければならない名詞」の一つ。名詞要素「-ik」は単独では用いられない。

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(追記)@2009/06/29

ブルシャスキー語例文での参考文献として、うっかり掲載を忘れていたHunzo.comを追加した。