2009年6月27日土曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(3) ポスト吐蕃時代のチベット・ボロル(ブルシャ)関係

一方、チベット側ではこの地方をどう呼ぶようになったのでしょうか?

ボロル/ブルシャ/勃律が721年頃東西(大小)に分裂した後、大勃律の方はいつのころからかバルティ・ユル(sbal ti'i yul)と呼ばれるようになりましたが(注1)、小勃律の方にブルシャ/ドゥシャ(bru sha/'bru zha)という名称が残りました(注2)。

9世紀に吐蕃帝国が解体し、チベット中央にとってボロル/ブルシャは対外戦略上重要な場所ではなくなりました。それでも16世紀にイスラム化するまでは(注3)依然仏教など(注4)も存続していたようで、ある程度の往来はあったようです。

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一方、隣接する西部チベット=ンガリー・コルスム諸国とは密接な関係があり、グゲ/ラダックとブルシャ(ギルギット)/バルティスタン諸国はたびたび戦争をしたり婚姻関係を結ぶなど、深い関係を続けていました。

代表的な例は、グゲ王ウー・デ[位:1024-37d]です。『mnga' ris rgyal rabs(ンガリー王統紀)』(Vitali 1996収録)によれば、ウー・デ('od lde)は、マルユル(mar yul=ラダック)に行き、さらにブルシャ(bru sha)へ遠征しましたが、そこで捕虜となってしまいます。サンギェ・メンラ(薬師如来)のご加護でこれを脱することが出来ましたが、シュルカル(shul dkar、おそらく現shi gar)で毒殺されてしまいました。

『zangs dkar chags tshul lo rgyus(ザンスカール史)』(Francke 1926収録)には、ラチェン・シャキャ・トゥバという王が現れ、このウー・デときわめてよく似たエピソードを残しています(同一人物とする説も有力)。

ザンスカールが混乱状態に陥った際、スピティのグゲ方面(spyi ti'i gu ge'i phyogs)よりラチェン・シャキャ・トゥバ(lha chen sha' kya thub pa)を招き王としました。王はブルシャル('bru shal)に行きその王女を王妃に迎えましたが(注5)、翌年その帰還途上ヤブグーパ(yab sgod pa)に王妃を奪われシャキャ・トゥバは亡くなりました。おそらく戦死か暗殺されたのでしょう。

ヤブグーはテュルク語の官職名「ヤブグ(yabghu)」と同じでしょう。バルティスタンのハプルー(kha pa lu)王家は「Yabgu」の称号を有しており、テュルク系の出自を持つと考えられています(系図では、テュルク系の出自は隠蔽されていますが、テュルク語の王名も現れ、その出自は隠しようがありません)。上述のシャキャ・トゥバからブルシャル王妃('bru shal rgyal mo)を奪ったヤブグーパはこのハプルー王であった可能性は高いと思われます。

なお、ウー・デもしくはシャキャ・トゥバのこのエピソードは、主人公をイェシェ・ウーに替えた上で、かの有名な「イェシェ・ウーのガルログ(gar log、カルルク)遠征」エピソードに変形されて、チベット各史書に残されている、と考えられています。

「ウー・デ=シャキャ・トゥバ」説の妥当性はさておき、グゲやザンスカールなど、西部チベット諸国がブルシャやバルティスタンと関係が続いていたことはこれでよくわかります。

ラダック王家が16世紀以降にバルティスタン諸国と戦争をしたり婚姻関係を結ぶなど、深く関係していたことを示す記事も『ラダック王統紀』に多数現れています。しかし、このころになると、ラダックとブルシャの間にはイスラム化したバルティスタン諸国が立ちはだかり、ブルシャ(ギルギット)の方もイスラム化したため、ラダック~ブルシャ(ギルギット)間の直接交流はほとんど聞かなくなります。

険しい山を背景にしたハプルー王宮(Khapulu Khar)

参考:
・August Hermann Francke (1926) ANTIQUITIES OF INDIAN TIBET : PART(VOLUME) II : THE CHRONICLES OF LADAKH AND MINOR CHRONICLES. pp.viii+310. Calcutta. → Reprint : (1992) Asian Educational Services, New Delhi.
・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.xi+642. Dharamsala, India.

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(注1)
「バルティ(sbal ti)」という地名の語源はわかっていない。

・Klaudios Ptolemaios(クラウディオス・プトレマイオス) (2C前半) SYNTAXIS GEOGRAPHIKE(地理学集成). → 邦訳 : 織田武雄・監修, 中務哲郎・訳 (1986) 『プトレマイオス地理学』. pp.xvi+263+pls. 東海大学出版会, 東京.

には、「Paropanisades(Paropamisadae、ヒンドゥクシュ山脈周辺)北部にBoltae(またはByltai)という人々が住んでいる」とあり、これがバルティ(スタン)の初出、とする説がある。しかし名前以外に情報はなく、位置も現在のバルティスタンよりやや西、と疑問点もあり確実とは言えない。が、仮にBoltae(Byltai)=Baltiで、その名の存在が紀元2世紀まで逆上るとするなら、「Bolor」と「Balti」が同源の名称である可能性は高まり、魅力的な説ではある。

一方、バルティの語源をチベット語に求めているのが山口瑞鳳氏。

・山口瑞鳳 (1987) 第II部 中央アジアの歴史 第四章 チベット.江上波夫・編 (1987) 『世界各国史 16 中央アジア史』所収. p.525-621. 山川出版社,東京.

では、747年の高仙芝による小勃律遠征を述べた後に、「当時、スムパ族のベルとランの部族兵団は勃律からタシュクルガン方面にかけて駐留し、吐蕃西方経営の拠点確保に当たっていたと思われるが、高仙芝に圧倒されて、しばらくはなすところも知らなかった。彼らが女国の故地近辺で働いた狼藉はスムパの掠奪として仏典に記録され、ベルデ(ベルの集団。今日のバルティスタン)の名をこの地に残した。」と述べている。

スムパ=sum pa、ベル氏='bal、ラン氏=lang/rlangs、ベルデ='bal sde(かと思われる)

つまり「'bal sde」→「sbal ti」となった、という説。

スムパのベル・キェサン・ドンツァブ('bal skyes bzang ldong tsab)がカラコルム方面軍を指揮し、ブルシャ(小勃律)を制圧したことは、『敦煌文献・年表(編年記)』の737年(牛年)の条に記されている。これにより、ブルシャは747年の高仙芝遠征までは完全に吐蕃の傘下に入る。

ベル・キェサン・ドンツァブは、この功が認められたか、同朋のラン・ニェシク(lang myes gzigs)と共に吐蕃政府中央でめきめきと頭角を現し、両人は750年頃にはド(ブロ)・チュンサン・オルマン('bro cung bzang 'or mang)と並ぶロンチェ(blon che、宰相)にまで上り詰めた(ただし、『敦煌文献・宰相記』ではラン・ニェシクはロンチェではない)。

737年以降も引き続きスムパ軍がカラコルム方面に駐留したかどうかは『敦煌文献』には記録がないが、その可能性は高いだろう。

ベルとランは、754年にティデ・ツクツェン(khri lde gtsug rtsan)王を暗殺しクーデターを起こすが、ンゲンラム・タクラ・ルコン(ngan lam stag sgra klu khong)らの働きによりこの乱は翌年鎮圧された(『ショル石柱碑』に基づく)。

このクーデターの原因については語られていないが、747~53年にかけて、カラコルム方面の小勃律、朅師(チトラル)、大勃律で相次いで唐軍に敗れた事件は関係ありそうだ。同方面の責任者(と推測される)ベルとランに対する風当たりは強まったことだろう。それで「どうせ粛清されるなら・・・」と、クーデターという破れかぶれの手に出たのかもしれない。状況証拠を総合して推測すると、こういうお話がうまくできあがるが、推測の域を出ない状態で、もう二・三歩証拠がほしいところ。

また、山口が述べる「仏典」とは、『チベット大蔵経カンギュール』所収の『dri ma med pa'i 'od kyis zhus pa(Vimalaprabhā-pariprcchā/無垢光所問/ヴィマラプラバー請問)』のこと。

そのチベット語原文は、

・The Tibetan Buddhist Resource Center > Digital Library > Canons > bka' 'gyur (stog pho brang) bris ma - view outline > mdo sde ( ka - ji ) > volume 81, mdo sde (a) > dri med 'od kyis zhus pa
http://tibetantexts.org/kb/tbrc-detail-outline.xq;jsessionid=429CA253DBBC75CFE45F5F14769628D9?address=10.30.3&wylie=n&RID=O01CT0007#O01CT000701JW27155

から閲覧できる。これは『(ラダック)ストク宮版』。また大谷大学蔵『北京版』ではNo.835、東北大学蔵『デルゲ版』ではNo.168。

・F.W.Thomas (1931) TIBETAN LITERARY TEXTS AND DOCUMENTS CONCERNING CHINESE TURKESTAN : PART-II : DOCUMENTS. Royal Asiatic Society, London.

にはその英訳・解説がある(上記チベット文とはページ数は一致しないので注意)。

これはインド仏典ではなく、ホータンで創作された経典と推測されている。内容は、釈迦如来、諸菩薩、諸神、信者が集い、ホータン(li yul)での仏教繁栄とチベット(gdong dmar=赤面)/スムパ(sum pa)軍による侵攻を予言する、というもの。

主人公のディマメーペー・ウー(dri ma med pa'i 'od/Vimalaprabhā/無垢光)は、マガダ国王(rgyal po ma skyes dgra/Ajātaśatru)の王女で、未来ではスカルドゥ(skar rdo)国王ワンチュク・ゴチャ(dbang phyug go cha/Iśvara-varman)の王女ラブゲー(rab nges)として転生する、と予言される。ラブゲーは金族の国(gser gyi rigs kyi yulあるいはgser gyi yul/Suvarnagotra)の王に嫁ぐ。スカルドゥ国と金族の国もホータンと共にチベット/スムパ軍の侵攻に巻き込まれるが、ラブゲーの仏教信仰の功徳により撃退に成功する、という筋書きになっている。

釈迦如来ら一同の予言により未来の出来事が語られるという複雑な構成で、時間が大きく小さく行きつ戻りつするため、内容は大変把握しづらい。

これは経典であり、史実を正確に伝えているとみなすことはできないが、チベット軍と共に(あるいはその一部として)スムパ軍がカラコルム~ホータン方面に展開していた事実を反映している、とみることはできよう。

史書では情報の少ない唐代のホータン史や大勃律(スカルドゥ)史への補足、そしていまだミステリアスな存在であるスヴァルナゴトラ(女国)の探究にこの経典を利用できないか?といろいろ試みられてはいるが、よい結果が出ているとは言い難い。

この経典が想定している「チベット/スムパ軍のホータン/スカルドゥ(大勃律)/スヴァルナゴトラ(女国)侵攻の年代」をいつに置くかについても様々な議論がある。チベット軍のホータン侵攻は唐代に何度もあり、665年、670年頃、676~77年、687年、791~92年頃(ホータンの完全制圧、850年頃まで吐蕃領)のどこに置くべきか結論が出ない。あるいは、これら数度にわたる侵攻の「印象」を総合してストーリーが作られているのかも知れないし、なかなか扱いが難しい文献である。

山口説が唱えるスムパ軍の動向は、この経典を参考に大胆に推測したもののようだが、そこでははっきり論拠が示されていないので、参考にする際には注意が必要。「'bal sdeがsbal tiの語源となった」とする説に賛同する声もどうも見あたらないようだ。

(注2)
『la dwags rgyal rabs(ラダック王統紀)』には、ティソン・デツェン(khri srong lde brtsan)[位:754-97d]時代の記事に「sbal ti」と「'bru shal」が並んで現れる。

『ラダック王統紀』は、19世紀まで代々書き継がれてきた史書であるため、古い時代の記事にもある程度手が加わっている可能性も考慮しなければならないが、大・小勃律が分裂したのは721年頃で、その頃から両者を区別するため、大勃律の方をバルティと呼ぶようになった、という可能性は保留しておいてもいいだろう。

(注3)
ボロルがイスラム化した年代については諸説ある。

Al Azraqī(9世紀半ば)『AKHBĀR MAKKA(メッカ史)』には、814~15年、アッバース朝軍がカーブル・テュルク・シャーを破り、さらにカシミール、そしてワハーン~ボロル(Balūr)などのチベット(吐蕃)領で勝利を収めた、という記録が残っており、これが真実であればボロルがイスラム教と接触した最初となろう。

口伝では、トラカン朝四代目の王ソウ・マリク1世(Sau Malik I、8世紀とする説があるがおそらく12世紀頃だろう)がイスラム教に入信したことでイスラム化が始まったとされるが、あまり信憑性がない。

作者不詳(982)『HUDŪD AL-'ĀLAM』では、「ボロル王は太陽(Aftab)の息子を称す」と記され、イスラム教の存在をうかがわせるような記事がない。

14世紀初、バダフシャンからモンゴル帝国軍の一派(おそらくチャガタイ家系?)とみられるタジ・モガル(Taj Moghal)という人物が、チトラル~ギルギット一帯を征服し、王家をイスラム教イスマイリ派に入信させた、という口伝もある。これは、14世紀初、カシミールがやはりモンゴル軍の侵攻を受け、その後王家がイスラム化したのと機を同じくしており興味深い。しかし、それでもボロルにはイスラム教はまだ定着しなかったようだ。

なお、現在フンザ~プンヤール~ヤスィンで盛んなイスマイリ派はこれとは直接関係がなく、18世紀、一時バダフシャンに亡命し後に即位したフンザ王サリム三世(Salim III)が導入したもの。

1528年、ボロルに侵攻したミルザ・ハイダルはこの国を「Kafiristan(異教徒の国)」と記している。16世紀前半になってもボロルにはまだイスラム教は浸透していなかった、とみられる。

イスラム化したのはボロルよりもバルティスタンの方が早かった。15世紀半ば、バルティスタン東部に移り住んだスーフィー、ハズラト・サイード・モハンマド・ヌールバクシ(Hazrat Sayed Mohammad Nurbaksh、?-1464)がシガル~ハプルーでの布教に成功。この地域はいまもスンニ派スーフィズムが盛ん。

1532年、バルティスタンに侵攻したミルザ・ハイダルはバフラム・ジュー(Bahram Ju/Choh)という名の首長(スカルドゥ王)に会っている(Ju/Chohはチベット語の「jo bo=領主/支配者」であろう)。ここも「Kafir(異教徒)」と記されている。同時代にはシーア派のミール・シャムスウッディン・イラキ(Mir Shamsuddin Iraqi、?-1525)がすでにスカルドゥで布教していたはずだが、イスラム化はあまり進んでいなかったようだ。バフラム・ジョの子マクポン・ボカ(Maqpon Bokha)がイスラム教シーア派に入信し、16世紀半ばにはスカルドゥもイスラム化が進む。

同じく16世紀半ば、イスファハーンからシーア派のサイイド・ブリヤ・ワリー(Sayyid Burya Wali)がこの地域にやって来て、ナガル、ギルギット、チトラルでイスラム教シーア派布教に成功する。

これでほぼカラコルム地域のイスラム化が完成。イスラム化の波は16世紀後半、さらにラダック側のプリク(スカルドゥから入ってきたのでシーア派が優勢)へ広がっていく。カラコルム地域の仏教は滅び、現在ではその痕跡はほとんど残っていない有様。

18世紀にフンザ~ヤスィンがイスマイリ化、19世紀頃からやはりイスマイリ派信者のワヒー人がカラコルム北部に入ってきて、現在の宗教分布が完成する。

参考:
・Mirza Muhammad Haidar Dughlat (1895) 前掲.
・Christpher I. Beckwith (1986) THE TIBETAN EMPIRE IN CENTRAL ASIA. pp.xxii+281. Princeton Univ. Press, New Jersey, USA.
・A.H. Dani (1991) 前掲.

(注4)
ボロルでは仏教の他、ゾロアスター教、ヒンドゥ教、分類不能の民間信仰、シャーマニズムなどが信仰されていたと推測されるが、仏教と、現在も続くシャーマニズム以外についてはほとんど物証が残っていない。

仏教についても、8世紀頃までは石仏・磨崖仏、発掘経典、中国人求法僧の旅行記などである程度知られているが、それ以降イスラム化するまでの仏教についてはニンマパの経典などから断片的な情報を拾うしかないのが現状。密教の本場ウディヤーナ(スワート)がすぐ南に控え、密教の影響が強く及んでいたであろうとは推測される。

(注5)
ウー・デ王あるいはシャキャ・トゥバ王のこのエピソードは、ボロル史/バルティスタン史では記録に残っていないので、そのどこに位置づけていいのかわからない。11世紀前半ボロルはトラカン朝の前、仏教国シャー・レイス朝(末期か?)であったと思われる(トラカン朝7世紀創建説もあるが信憑性はない)が、この王朝についてはほとんど情報がない。

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