2017年11月14日火曜日

西蔵ツワン先生の新聞記事

2014年5月15日木曜日 チベット・ヒマラヤTV考古学(10) 1960年代、日本へのチベット人留学生
2017年6月16日金曜日 飯能で映画「ラサへの歩き方」を見てきました

で紹介した、埼玉県在住の在日チベット人、西蔵(にしくら)ツ(ェ)ワン先生(日本に帰化)の新聞記事が出てました。

・毎日新聞 > 医療 > ストーリー 三股智子/日本で生きるチベット難民(その1) いつか帰りたい故郷 (毎日新聞2017年11月12日東京朝刊)
https://mainichi.jp/articles/20171112/ddm/001/040/127000c
・毎日新聞 > 医療 > ストーリー 三股智子/日本で生きるチベット難民(その2止) 日本に育てられ (毎日新聞2017年11月12日東京朝刊)
https://mainichi.jp/articles/20171112/ddm/010/040/063000c

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西蔵ツ(ェ)ワン先生の本名が

ツ(ェ)ワン・ユゲル ཚེ་དབང་གཡུ་རྒྱལ། tshe dbang g-yu rgyal/

であることもわかりました。チベット文字綴りは推定ですが。

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本文に現れる他の人名の、チベット文字綴りも推定してみましょう。

まずツ(ェ)ワン先生と共に来日した5人の留学生のうち、他の4人。

ペマ・ギャルポ པདྨ་རྒྱལ་པོ། padma rgyal po/

ダムデン・ギュルミー(西大寺ダムデン) དམ་ལྡན་བསྒྱུར་མེད། dam ldan bsgyur med/

ギュルミー・ワンダー བསྒྱུར་མེད་དབང་གྲགས། bsgyur med dbang grags/

トプゲイ・ブティア སྟོབས་རྒྱལ་ भोटिया stobs rgyal Bhutia
(Bhutia/Bhotiyaはチベット語ではなく、インドにおいてチベット人を指す他称)

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ツ(ェ)ワンさん、ペマさん、ダムデンさん以外の2人の行方が気になっていたのだが、ギュルミーさんはギャワ・リンポチェ(ダライ・ラマ法王)のbodyguardとなり、現在はCanada在住。

トプゲイさんは在Delhi日本大使館に勤務。インドで活動しているため、チベット人であることを示すBhutiaを苗字のように使っているものと思われる。

かなりすっきりした。

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ツ(ェ)ワン先生の奥さん

チュドレン ཆོས་འདྲེན། chos 'dren/ か ཆུ་འདྲེན། chu 'dren/

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毎日新聞のチベット関連記事については、これまであまりいい印象を持っていなかった。

ダライ・ラマ法王説法の取材について、「デスクワークから離れられてよかった」なんていう、中学生レベルの感想を紙面に垂れ流したり、チベット取材では、チベット人による中国共産党批判の声を伝えながら、それは、批判した本人が誰なのか、共産党側が簡単に特定できるような、お粗末な記事だった。

間接的に中国共産党のチベット抑圧に手を貸している、と言われても仕方あるまい。

他の紙面でも、だんだんレベルの低い記事が目立つようになり、毎日新聞を読む機会もなくなっていたところ。

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今回の記事は、淡々としているものの、取材内容を的確かつ簡潔に届けており、好感が持てる。

こういう優秀な記者が、本社に栄転するといろいろ圧力を受けて、まるで人民日報そのままのような記事を垂れ流すようになるのは勘弁してほしいものだ。

2017年11月13日月曜日

広島大学がンガリーに望遠鏡設置完了

2016年10月5日水曜日 広島大学ンガリー天文台
2017年3月14日火曜日 広島大学ンガリー天文台(続報)

で紹介した、西チベット・ンガリー(阿里地区)の「ガル山(注)」に建設した観測所にようやく望遠鏡が据え付け終わったそうです。

・読売新聞/YOMIURI ONLINE > 科学・IT > 松田祐哉/重力波、チベットから迫る…広島大が望遠鏡設置 (2017年11月12日 14時41分) 
http://www.yomiuri.co.jp/science/20171112-OYT1T50024.html

作業は9月下旬~10月上旬だったそうで、もう気候は相当厳しくなっていると思われます。標高5130mの場所での作業はかなり大変だったでしょう。お疲れ様でした。

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しかし、この観測所に日本人研究者は常駐せず、日本から遠隔操作して観測するんだそうですが、大丈夫かなあ。中国~チベットは何が起きるかわからないので、想定外のトラブルがかなりありそうな気もするんですが・・・。

でも、trouble shootingが突発的に必要になったとしても、近くに飛行場もできているし、うまくいけば日本から1週間以内に現場に到達できるでしょう。冬はどうか知りませんが(笑)。

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何はともあれ、重力波天体の観測というのは、私もとても興味があるテーマなので、是非KAGRAと共に、日本初の重力波とその発信源天体の発見に結びついてほしいものです。

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(注)

観測所の場所は一般的には「ガー山」と呼ばれていますが、私は「ガル山」と呼びます。その理由については、2017年3月14日のpostをお読みください。

2017年10月25日水曜日

いまだに「ラマ教」/道教タントラ

・菅野博史・編集協力 (2010.9) 『中国文化としての仏教』(新アジア仏教史08 中国III 宋元明清). 413pp. 佼成出版社, 東京.


装幀 : 間村俊一

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この巻は、もはや中国仏教が完成の域に達し、現在に至る「ほぼ停滞」の時代を記述しています。

その反対に元・明・清と、漢土に勢力を拡大してきたのがチベット仏教。なんかこの本では、渋々取り上げてる感がありあり。

さすがに「ヒンドゥ教と混交した、もはや仏教とは言えない淫祠邪教」といった論調は見なくなったが、「ラマ教」という時代錯誤の表現は、この本にもバンバン出てくる。まあこれが中国仏教研究者の本音なんでしょうね。

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・陳継東 (2010.9) 第3章 仏教民間信仰の諸相. 『中国文化としての仏教』(新アジア仏教史08 中国III 宋元明清)所収. pp.149-183. 佼成出版社, 東京.

がおもしろい。宗派発展史・教義研究中心の中国仏教史ではこぼれ落ちた諸相がいろいろわかる。このへんはさすが中国人研究者の仕事だ。

漢土の四大霊山である

文殊菩薩の聖地・五台山
普賢菩薩の聖地・峨眉山
地蔵菩薩の聖地・九華山
観音菩薩の聖地・普陀山

の由来と沿革を知ることができたのはよかった。普陀山の由来が日本人僧というのは、はじめて知ったなあ。

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また、仏教から半ば逸脱して「民間宗教」化した白蓮教とか羅教(無為教)といったところの記述が興味深い。

羅教開祖・羅祖が、悟りに至るまでの右往左往する様は、下手な小説よりもおもしろい。人気も出るわな。

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ところで、この本とは別なんだが、

・岡田英弘 (2003.7) 『やはり奇妙な中国の常識』(ワック文庫). 234pp. ワック出版, 東京.
← 初出 : 岡田英弘 (1997.10) 『中国意外史』(Shinshokan History Book Series). 253pp. 新書館, 東京.


装幀 : 加藤俊二(プラス・アルファ)

におもしろい話があった。道教のタントラ密教だ。

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秘密結社III, 同書pp.59-75.
性, 同書pp.139-152.

あたりで紹介されている性密儀は、どうもタントラ密教とよく似ている。また真言立川流とも似ている。

ところがその源流は、というと2世紀の五斗米道・張陵まで逆上るというのだ。インドのタントラ密教(ヒンドゥ教・仏教を問わず)の始まりである7~8世紀よりずっと早い。

まあ文献として内容が残っているのは、道教版大蔵経である『道蔵』所収「上清黄書過度儀」らしいので、その内容が正確にはいつ頃のものなのかはっきりしないのだが・・・。

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その儀軌が本当に2世紀由来のものであるのならば、インド・タントラ密教の発祥についても、中国道教の影響を考える必要があるのかもしれない。

いろいろ面白いことを考えさせてくれる2冊でした。

2017年10月11日水曜日

ナーランダー寺に、金剛三昧以外に日本人僧がいたか?

金剛三昧についてネット上で調べていると、「ナーランダー寺に日本人僧がいた」という情報が出てくる。

例えば、これ

・YAHOO! JAPAN > 知恵袋 > 教養と学問、サイエンス > 歴史 >日本史 > 古代インドに行った最初の日本人仏教僧は誰ですか?(2015/1/29 12:51:59)https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14141274494

wikipediaの日印関係を見ると、(中略) 同じ段落には、
「現在は破壊されてしまったインドのナーランダにある古い学院の記録には、日本から来た学者と弟子のことが書かれている。」
ともあります。
ナーランダは12世紀に破壊されたそうなので、日本人は破壊される前、すなわち12世紀以前に訪れていたと思われます。でも、名前が出ていません。

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というわけで、ウィキペディアに行ってみると、

・ウィキペディア > 日印関係(最終更新 2017年10月5日 (木) 19:56)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%8D%B0%E9%96%A2%E4%BF%82

現在は破壊されてしまったインドのナーランダにある古い学院の記録には、日本から来た学者と弟子のことが書かれている。[4]

脚注 
4. Garten, Jeffrey (2006年12月9日). “Really Old School”. New York Times 2008年11月8日閲覧。

とある。うーん、そんな話聞いたことないねえ。

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もう一つ、

・Wikipedia (English) > Nalanda(This page was last edited on 10 October 2017, at 16:18)
https://en.wikipedia.org/wiki/Nalanda

The Mahavihara
The subjects taught at Nalanda covered every field of learning, and it attracted pupils and scholars from Korea, Japan, China, Tibet, Indonesia, Persia and Turkey.[57]

Notes 
57. Garten, Jeffrey E. (9 December 2006). "Really Old School"

どうやら、この話の大元がわかってきた。そこで、この元記事に行ってみよう。

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・The New York Times > ALL > Opinion > OP-ED Contributors > Jeffrey Garten/Really Old School(DEC. 9, 2006)
http://www.nytimes.com/2006/12/09/opinion/09garten.html

Nalanda was also the most global university of its time, attracting pupils and scholars from Korea, Japan, China, Tibet, Indonesia, Persia and Turkey.

伝言ゲームで伝わるうちに、微妙にニュアンスが変わっているが、「日本からの仏弟子・学僧を惹きつけた」と書いてある。これだと、「日本人僧がNalanda寺にいた」と読めてしまいますね。

しかし、日本版ウィキにある「古い学院の記録には、日本から来た学者と弟子のことが書かれている」なんてどこにも書いてないぞ。

これが伝言ゲームの恐ろしさ。伝言を繰り返すうちに、途中で誰かが自分で創作して、尾ひれをつけてしまうのだ。おそらく無意識に。

また、上記の論拠・出典は提示がないので、いったいどこから来た説なのか不明。

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著者のJeffrey Gartenについて調べてみた。

・JAFFREY E. GARTEN > ABOUT(as of 2017/10/11)
http://jeffreygarten.com/about/
・Wikipedia (English) > Jeffrey Garten(This page was last edited on 3 September 2017, at 07:36)
https://en.wikipedia.org/wiki/Jeffrey_Garten

「NY Timesに寄稿」と書いてあるので、この人に間違いないだろう。

1946年生まれ。経済学者。米国務省、White House、Lehman Brothers、Elliot Group社長、Columbia University教授、商務次官などを歴任。現在はYale School of Managementの名誉学長(元学長)。

はい、歴史畑・仏教畑の人では全然ありませんね。上の記述もあまり信頼できるとは思わないほうがいいでしょう。

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この文章をそのまま検索してみると、ほぼ同じ文章がたくさん見つかりますが、見渡したところ、どれも新しい。

Gartenの文を引いているものも多く、どうも上記Garten記事がだいぶ影響を与えているらしい。

Garten記事の論拠は不明だが、彼はこの分野の専門家ではないので、おそらく歴史・仏教畑の著者による元ネタがあると思われる。が、今はその元ネタはわからない。

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しかし、前回述べたように『酉陽雑俎』に、金剛三昧がNalanda寺を訪れた、という記事があるので、まんざら根拠がないわけではない。

私の推測では、その情報が不完全な形で伝わり、『酉陽雑俎』や「金剛三昧」という固有名詞が抜け落ちた形で、「Nalanda寺に日本人がいた」という情報だけが伝わっている、と考えます。

だから、その情報と金剛三昧の情報が別ルートで伝わると、「金剛三昧の他にも、Nalanda寺に日本人が別にいた」と思えてしまうわけです。

今のところ、金剛三昧以外に「Nalanda寺に日本人がいた」という話は、私は知らないのですが、もし文献にそのような記述があるのであれば、是非教えて下さい。

2017年10月7日土曜日

平安時代初期/唐代、インドに行ったはじめての日本人?金剛三昧

前回紹介した本と直接の関係はないのだが、ちょうど同時代9世紀に、どうやらインドに行って来た日本人、それも「密教僧」がいたらしい、というお話をしておきましょう。

その名は「金剛三昧(こんごうざんまい)」

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金剛三昧の存在を記録する文献は、ただ一つ。

・段成式 (唐ca.860) 『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』(前集20巻+続集10巻).

段成式(ca.803-63)は、青州(山東省)出身の官僚・文人(父は節度使~宰相・段文昌)。

『酉陽雑俎』は、古今東西の様々な事物について記録した、いわば百科事典(ちょろっと書いておいた忘備録みたいな文も多い)。中には怪しげな志怪譚も多く、明らかな作り話も見られる。

邦訳は、

・段成式・著, 今村与志雄・訳注 (1980.7~81.12) 『酉陽雑俎 1~5』(東洋文庫). 平凡社, 東京.

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金剛三昧が現れるのは次の文。

前集 巻三 貝編 仏教経典録異
國初、僧玄奘往五印取經、西域敬之。成式見倭國僧金剛三昧、言嘗至中天、寺中多畫玄奘蔴屩及匙筋、以綵雲乗之、蓋西域所無者。毎至齋日、輙膜拜焉。又言那蘭陀寺僧食堂中、熱際有巨蠅數萬。至僧上堂時、悉自飛集於庭樹。

建国の初め、僧の玄奘は、五印(五天竺)に赴き、経典を取ってきた。西域では、玄奘を尊敬している。わたしは、倭国の僧、金剛三昧に会ったことがある。金剛三昧はこう語った。「かつて中天(中天竺)へ行きました。寺院では、玄奘の麻の屩(くつ)、及び匙筯(ひちょ/箸)を多く画いており、綵雲に乗っています。多分、西域にないものだからでしょう。いつも斎戒の日はかならず合掌して礼拝します」。また、こう話した。「ナーランダー寺の僧の食堂(じきどう)は、炎熱のとき、大きな蝿が数万いる。僧が食堂に入ってくるときになると、ことごとくひとりでに飛んで、庭の樹に集まる」。
今村・訳 同書(東洋文庫版)1巻, pp.226-227

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段成式は天竺に行った日本人僧に会った、というのだ。金剛三昧というからには密教僧であろう。

梵名に翻訳すると वज्र समाधि Vajrasamadhi(おそらくこちらが元)。余計なお世話だが、チベット名に翻訳してあげると རྡོ་རྗེ་ཏིང་ངེ་འཛིན་ rdo rje ting nge 'dzin。

法名に「三昧」と入るのは珍しいかもしれないが、チベットでも同時代、9世紀初にニャン・ティンゲジン མྱང་ཏིང་ངེ་འཛིན་ myang ting nge 'dzinという僧がいるので、おかしくはない。

法名が「なにかハッタリくさい(すなわち嘘くさい)」と考える人もいるようだが、これがインドで授けられた法名だとすると、むしろ俄然リアリティが出てくる。

中国で授けられた法名ならば、密教学僧であっても当時は二文字が普通だ。Vajrasamadhiというインド名を、まんま漢訳しただけの「金剛三昧」という法名は、確かにインドへ行って修行した証拠と言えるかもしれない。

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段成式が金剛三昧に会ったのは、いつなのだろうか。

『酉陽雑俎』の成立は、段成式の晩年860年頃と推測されているがはっきりしない。おそらく亡くなるまで連綿と書き継いでいたのだろう。

だから、上記の文が書かれた年代、あるいは金剛三昧に会った年代も、いつなのかわからない。今のところは820~60年頃と広く取っておこう。

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『酉陽雑俎』では、金剛三昧はもう1箇所に登場します。そちらには年代が入っているので、金剛三昧の足跡のヒントとなります。

続集 巻二 支諾皐中
倭國僧金剛三昧、蜀僧廣升、峨眉縣、與邑人約遊峨眉、同雇一夫、負笈荷糗藥。山南頂徑狹、俄轉而待、負笈忽入石罅。僧廣升先覽、即牽之、力不勝。視石罅甚細、若隨笈而開也。衆因組衣斷蔓、厲其腰肋出之。笈才出、罅亦隨合。衆詰之、曰、我常薪於此、有道士住此隙内、毎假我舂藥、適亦招我、我不覺入。時元和十三年。

倭国の僧、金剛三昧と、蜀の僧、広昇とが、峨眉県で、県人をさそって峨眉に出かけた。一緒に人夫を一人、やとい、笈(きゅう)を背負わせ、乾糧(ほしいい)を持たせた。薬山の南の頂上は、山道が狭く、急に方向がかわって待っていると、笈を背負った人夫が、不意に、岩の隙間に入った。僧広昇が、さきにみて、すぐさま、ひっぱったが、その力にあまった。岩の隙間をみると、非常に細く、笈のとおりに開いているようであった。人々は、そこで衣をつなぎ、蔓をきり、その腰肋を強化して、人夫を出した。笈が出るや、隙間もそれとともにあわさった。人々は、人夫を責めた。人夫はいった。「わしは、いつも、ここで薪をとっています。道士がその隙間のなかに住んでいて、つねに、わしの手をかりて薬をついています。いまし方、わしを招いたから、わしは、思わず、入ってしまった」そのときは、元和十三年(八一八)であった。
今村・訳 同書(東洋文庫版)4巻, p.87

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元和十三年とは818年である。その年、段成式は16歳くらい。これは、段成式が金剛三昧に会ってその話を聞いた年、ということではないだろう。

金剛三昧が元和十三年に峨眉山に行き、後に段成式に会った時に、それを昔話として語った、ということだと思う。

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段成式が金剛三昧に会った時期は、相変わらずわからないわけだが、818年に金剛三昧がすでに唐にいて、四川の峨眉山あたりをうろうろしていたことはわかった。

峨眉山は普賢菩薩の聖地である。普賢菩薩は唐・代宗[位:762-79]の結縁仏であったこともあり、普賢菩薩及びこれに関係が深い文殊菩薩の信仰がかなり流行したよう。不空三蔵の五台山での文殊信仰布教もその一環らしい。

不空は774年にすでに遷化しているので、金剛三昧は不空の弟子・恵果の系統に当たる義明、義操、義真、あるいは般若あたりに師事したのであろうか。あるいは完全にインドでの修行が中心だった可能性もある。

「金剛」の名が示すように、おそらくは「金剛頂経」系の密教を学んだ僧であったのだろう。

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818年に唐にいたということは、それ以前の遣唐使で入唐したことになる。可能性としてあるのは、

777年 第16回遣唐使
779年 第17回遣唐使
804年 第18回遣唐使(最澄、空海、霊仙)
805年 第18'回遣唐使(空海帰国)

あたり。その後遣唐使は間がかなり空き、

838年 第19回遣唐使(円仁)

まで30年以上ない。

参考:
・ウィキペディア > 遣唐使(最終更新 2017年9月23日 (土) 20:42)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF

遣渤海使や遣新羅使で大陸に渡り、そこから唐に移ったという可能性もあるかも知れない。ただ、そういう例は記録にないので、可能性に留まる。

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804年に入唐したとすると、818年の峨眉山行は入唐15年目となる。この間に天竺往来は厳しいかもしれない(特に陸路の場合)。その場合は、818年の峨眉山行の後に天竺往来した、と考えたほうがよさそう。

779年に入唐したとすれば、818年の峨眉山行は入唐40年目。その間天竺往来は十分可能な時間だ。入唐時は少なくとも、年齢は二十代以上だったと思われるので、818年には60歳以上という高齢だったことになる。777年入唐の場合もほぼ同じ。

段成式が金剛三昧と会ったのは、818年以降。『酉陽雑俎』では、金剛三昧が高齢だったような記述がないので、804年入唐の可能性のほうが高いか?

まあ、いつ会ったのか?にもよるし、単に書かなかっただけなのかもしれないので、推察の一つとして取ってほしい。

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804年入唐の場合は、最澄、空海、霊仙あたりに付き添って入唐した無名の人物である可能性もある。

・百度百科 > 霊仙三蔵(as of 2017/10/06)
https://baike.baidu.com/item/%E7%81%B5%E4%BB%99%E4%B8%89%E8%97%8F

などは、はっきり「金剛三昧も804年遣唐使の一員」と書いているが、そんな証拠はどこにもない。それは単なる推察である。

最澄、空海はすぐに帰ってしまったので、それよりも、長らく唐に滞在した霊仙(759-ca.827)の関係者と見た方がいいかもしれない。

法相宗の僧・霊仙は、804年45歳で入唐し、長安で学んだ。810年、醴泉寺(れいせんじ)にて、西域僧・般若三蔵と共に『大乗本生心地観経』の漢訳に従事した。811年には「三蔵法師」の称号を授けられる。怨敵調伏の秘法「大元帥法」を習得する。しかし、これらの秘法流出を恐れられ、出国を禁じられた。820年に五台山に移る。825年には、遣渤海使経由で日本とやり取りをし、仏舎利や経典を日本に届けている。828年以前に遷化したようだ。

参考:
・ウィキペディア > 霊仙(最終更新 2017年9月4日 (月) 23:44)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E4%BB%99

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霊仙は、入唐後、般若三蔵と近しい関係だったようで、当然密教を学んだと思われる。密教呪法「大元帥法」も学んでいるし。

なお、この「大元帥法」は、838年入唐、839年帰国の日本人僧・常暁によって日本に持ち帰られ、以後、真言密教の大秘法として伝えられている。

般若三蔵には空海も師事したが、それより近しくまた長く接していた霊仙も「金剛頂経」を学んだ可能性は高いだろう。

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そして、ようやく金剛三昧に戻るが、彼が霊仙に付き添って唐に留まった人物だとすると、その後密教修行を極めるために、インドへ向かった、というストーリーは成り立ちそうだ。

そのタイミングは、820年霊仙が五台山へ移った後かもしれない。ただしこれが成立しやすいのは、陸路でインドへ向かった場合。だが、当時、西域経営が衰え、唐の威光が全く通用しなくなっている西域ルートは、求法僧には使われなくなっている。

どっちかというと、海路でインドへ向かった可能性が高いのではないかと思う。証拠は何もないので、単なる推察だが。

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もしかすると、日本~唐では出家しておらず、霊仙の付き人として付き添っているうちに、発心したのかもしれない。そして一念発起してインド行き。そこではじめて出家し、Vajrasamadhi(金剛三昧)という法名を授けられたのかもしれない。

日本~唐時代にすでに出家しており、漢風法名(たいてい二文字)を持っていたのであれば、そちらを後生大事に名乗るはずだ。

だから、この金剛三昧が日本人であるかは別として、インドに行ったのは本当ではないかという気がしている。

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なお、金剛三昧についてはこの2つの記事しかないので、彼のステイタス、どの寺に所属していたのかなどは不明。なんか遊行僧みたいでもある。

また、その後亡くなるまで唐に滞在したのか(たぶんそう)、日本に帰国できたのかも全く不明だ。日本名もわかっていない(たぶん日本時代も記録がない)。

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しかしなあ、前にも書いたように『酉陽雑俎』には怪しげな話も多い。「金剛三昧」の話も、まるっきりホラ話という可能性も捨てきれないのだ。

(1) 段成式が作ったホラ話(金剛三昧という人物など存在しない)。
(2) 金剛三昧が作ったホラ話(実は日本人ではない/実はインドへなど行っていない)
(3) 段成式は金剛三昧に会っていない(けど、誰かが会って聞いた話をふくらませている/あるいはその誰かが話をふくらませている)

などなど、いろんな可能性が考えられる。

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考えて見れば、金剛三昧のNalanda寺話も、「玄奘の靴や箸が描かれていた」だの「蝿がいっぱいいた」だの、しょうもない話題ばっかりだ。なんか噂話や伝聞でも仕入れられそうな話。

まあ、段成式とはちょろっと立ち話しただけだとすると、聞ける話はその程度なのかもしれないが。

峨眉山での話も、特に金剛三昧は活躍していないし、何と言っても話が胡散臭すぎる。

一刀両断「話にならない、無視」で済ませるのも一つの方法だが、わからないけど、色々詮索したり、妄想を広げるのは楽しいものだ。

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このエントリーも、金剛三昧詮索には、あまり役に立っていないかもしれないが、少なくとも「金剛三昧」という法名が「ハッタリくさい/インチキくさい」ものではないことを、後押しする役割は果たしているのではないか?

こうやってチンケな考えであっても、調べ、考察し、表明していると、同じ所をグルグル回っているようでも、少しずつ螺旋状に上って行くのだ。

結局は、新資料が出てこない限り画期的な進展はないだろうが、その時に少しでも役に立つのであればうれしい。

2017年10月6日金曜日

唐代中国密教

えー、ネタがないので、引き続き「新アジア仏教史」ネタです。お次は、

・菅野博史・編集協力 (2010.6) 『興隆・発展する仏教』(新アジア仏教史07 中国 II 隋唐). 507pp.+map. 佼成出版社, 東京.


装幀 : 間村純一, 撮影 : 丸山勇

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この巻の前半では、如来蔵思想、唯識思想、地論宗、摂論宗、天台宗、華厳宗、浄土教、三階教あたりの解説が続き、かなり込み入った仏教理論に立ち入る。なかなか消化できずに苦労したが、それだけ日本での同分野の研究が成熟している、ということなのだろう。

続いては禅宗。これも宗派の流れがだいぶイメージできるようになった。

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そして自分にとって一番面白かったのが、

・岩崎日出男 (2010.6) 第6章 密教の伝播と浸透.『興隆・発展する仏教』(新アジア仏教史07 中国 II 隋唐)所収. pp.337-391. 佼成出版社, 東京.

これまで名前はよく聞くが、漠然としか理解していなかった

善無畏三蔵(शुभकरसिंह Śubhakarasimha/637-735/東インド烏荼国王家出身/Nalanda寺で修行/716入唐/『大日経』を伝える/長寿でも有名)

金剛智三蔵(वज्रबोधि Vajrabodhi/671-741/中インド王家出身/Nalanda寺で修行/719入唐/『金剛頂経』、灌頂儀礼、密教絵画を伝える)

一行禅師(683-729/河南出身/金剛智、善無畏に師事/『大日経疏』を著す)

不空三蔵(अमोघवज्र Amoghavajra/705-774/西域出身/金剛智に師事し『金剛頂経』を学ぶ/744~46海路渡印し経典収集/五台山・文殊信仰を推進)

恵果和尚(けいかかしょう/746-805/長安近郊出身/不空に師事し『金剛頂経』を学ぶ/善無畏の弟子に師事し『大日経』を学ぶ/『金剛頂経』『大日経』を両部として一元化/805空海に教えを授ける)

般若三蔵(प्रज्ञ Prajna/733-810?/Kapisi(迦畢試)国出身/Kashmir(迦濕彌羅)、Nalanda寺で修行/781海路入唐/『大乗理趣六波羅蜜多経』漢訳)

について、だいぶ理解が進んだ。

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中国密教と道教の(特に呪術においての)共通性と交渉についての考察もあった。昨年、「悪霊祓い」でだいぶ調べたこともあり、興味深く読んだ。

いや、この件はまだまだまとまっていないのだが、「インド呪術→密教呪術→道教呪術→日本の祈祷僧・陰陽師」という流れがありそうなことがだんだんわかってきた。まだ点でしか繋がっていないので、もっと理解が進んだら書きます。

その流れの分岐として、ボン教やチベット仏教の呪術が位置づけられそうでもある。道教呪術←→ボン教・チベット仏教呪術については、まだ十分整理できていないので、もう少し要調査。

2017年9月28日木曜日

北周・武帝の廃仏と北宋代・訳経団システム

引き続き「新アジア仏教史シリーズ」(佼成出版社)を読んでいるわけですが、お次は、

・菅野博史・編集協力 (2010.12) 『仏教の東伝と受容』(新アジア仏教史06 中国 I 南北朝). 405pp.+map. 佼成出版社, 東京.


装幀 : 間村純一

です。

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日本の仏教研究は、日本仏教以外では、インドの原始仏教~大乗仏教と中国仏教が中心でした。なので、中国仏教研究の成果も充実の一言。成熟していると言ってもいいでしょう。

ですから、この本を読んでいても、いつかどこかで読んだ内容がほとんど。スラスラ読めます。

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その中でも面白かった話題を二つ。

・河野訓 (2010.2) 第4章 三教の衝突と融合. 『仏教の東伝と受容』(新アジア仏教史06 中国 I 南北朝)所収. pp.169-227. 佼成出版社, 東京.

「三武一宗の法難」というものがあります。これは中国史上、国家による仏教排斥事件があった四時期を総称した用語。

(1) 北魏・太帝(438~52)
(2) 北周・帝(574~78)
(3) 唐・宗(845~46)=会昌の廃仏
(4) 後周・世(955~59)

これに、共産中国が成立してから現在も続く期間も、含めていいかもしれません。

「三武一宗一毛の法難」。

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さて、その中でも北周・武帝による廃仏事件はあまり知られていないような気がします。

439年に華北を統一した北魏・拓跋氏は、南朝の宋・斉・梁と対峙し南北朝時代を形成します。534~35年に東魏・西魏に分裂。まもなく、東魏は550年に高氏に簒奪され、北斉となります。

一方の西魏も557年に宇文氏に簒奪され、北周となります。簒奪を見ることなく556年に死んだ宇文泰の嫡子・宇文覚が557年、初代・孝閔帝となります。

しかし北周朝廷の実権を握っていたのは、晋蕩公・宇文護(孝閔帝のいとこ)でした。宇文護を除こうとした孝閔帝は、逆に1年も持たずに廃位され、ついには暗殺されてしまいました。

次いで庶兄・宇文毓が第二代・世宗・明帝となります。しかし明帝も宇文護によって560年暗殺。

これを18歳で継いだのが、庶弟・宇文邕。これが高祖・武帝です。572年には宇文護を誅殺し、親政を実現します。


北周・宇文氏系図

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武帝は、還俗僧・衛元嵩と道士・張賓にそそのかされ、まず569年に「道・儒・仏」という順次を定めます。

574年には、帝の御前にて道・仏の論争が行われます。道教側は張賓、仏教側は智炫が代表。智炫は提示された質問に次々と明快な回答を示し、道教側を圧倒。これで、仏教側の勝利はほぼ間違いなくなります。

しかし智炫は最後に「今、仏を廃して道を存せんと欲するは、なお庶をもって嫡に代うるがごとし」と口を滑らせてしまいます。

さあ、庶子でありながら即位した武帝は、この発言に顔色を変えて内裏に戻ってしまいます。

で、その翌日に出された勅は、

「勅を出だし二教倶に廃せり」

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まるで落語ですが、本当らしいから笑えない。僧侶・道士200万人が還俗したという。

しかしこの廃仏は、578年、武帝の崩御によりわずか4年で終わりを告げます。

この辺の事情はよく知らなかっただけに、なかなかおもしろかった。

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お次は

・船山徹 (2010.2) 第5章 仏典漢訳史要略. 『仏教の東伝と受容』(新アジア仏教史06 中国 I 南北朝)所収. pp.233-277. 佼成出版社, 東京.


そのうちの「四 隋唐以降の専門家集団による訳場」が特におもしろい。

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ここでは、

・志磐 (1269) 『仏祖統紀』

に基づき、北宋代の訳経院での梵→漢の訳経作業の段取りが細かく記録されています。

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当時の訳経作業は、複数の係による分業作業となっていたのです。その係と作業手順、そして『般若心経』の一節を訳経例としてまとめておくと、

(1) 訳主 : 梵文を読み上げる
「vyavalokayati sma: panca skandhas, tamś ca svabhavaśunyan paśyati sma.」

(2) 証義 : 訳主の左。訳主と共に梵文を討議。

(3) 証文 : 訳主の右。梵文朗読の誤りを点検。

(4) 書字梵学僧 : 梵文を漢字で音写。
「尾也嚩嚕迦底、娑麼、畔左、塞建駄娑、怛室左、娑嚩婆嚩戌儞焔、跛失也底、娑麼」

(5) 筆受 : 梵語を漢語に改める。
「照見五蘊彼自性空見」

(6) 綴文 : 文字の順序を入れ替えて、漢語文法に合致するよう整える。
「照見五蘊皆空」

(7) 参訳 : 梵語・漢訳を比較検討し、誤りを点検。

(8) 刊定 : 冗長な部分を削除し、語句の意味を確定。

(9) 潤文官 : わかりやすい表現にするために、必要に応じて語句・文章を加える。
「照見五蘊皆空、度一切苦厄」

このような訳経集団により、システマティックに進められていたのだ。

一見、「なんだ実際に翻訳してるのは(5)だけじゃないか」と思うかもしれませんが、おそらくこれは辞書を使って機械的に訳しているだけだと思うので、実はそれほど重要な役割ではないような気がします。

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このシステムは宋代における完成形で、古い時代にはもっと素朴な訳場システムでした。

南北朝時代の鳩摩羅什の場合は、五百人もの僧が参集した上で、鳩摩羅什が梵文を読み漢語に訳して述べる。それとともに音の違い、文意について解説。参集諸僧と議論しながら訳経を進めている。

唐代の玄奘の場合には、おそらくかなり上記のような訳経システムが出来上がっていたことであろう。スピードも早かったらしいし。

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そして、吐蕃時代の訳経はどうだったろうか?中国仏教のシステムを参考にしていた可能性がかなりあるのかも。

こちらも8~9世紀のわずか百年間で、主たる仏典はほとんど翻訳してしまったのだから。

もしかすると、上記のような訳経システムがチベット語、特に文語の成立に大きく影響したのかもしれない、なんて妄想を広げたりして。

チベット語経典は、インド語経典のほとんど逐語訳に近いとも言われているし・・・。

まあ、この辺はおいおい調べてみよう。

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というわけで、これもまたなかなか面白い巻でした。

2017年9月23日土曜日

東京国立博物館 東洋館 「チベットの仏像と密教の世界」展

を見てきました。

・東京国立博物館 > 展示 > アジアギャラリー(東洋館) > 地下 > チベットの仏像と密教の世界 / 東洋館 12室   2017年9月5日(火) ~ 2017年10月15日(日)(as of 2017/09/22)
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1875


同展パンフレット, p.1


同展パンフレット, pp.2-3


同展パンフレット, p.4

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展示会場は、東博入り口から右手にある東洋館。その地下。ここは東南アジアとインドの文物が展示されている場所です。

チベット仏教はご存知の通り、インド仏教の正統な後継者ですから、場所はここでいいでしょう。

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展示されていたのは、ほとんどが清代の18~19世紀に北京で作られた金銅像でした。その数15体。壁側一列に収まるささやかな展示です。

古いものは、No.1菩薩像(15~16世紀)、No.7 チャクラサンヴァラ父母仏立像(15~16世紀)くらい。しかしこちらも古い特徴があまり見れらないので、もうちょっと後の時代のような気がします。15~16世紀の仏像・仏画だと、波状の目になっていることが多いのですが、その特徴はない。

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北京産が多いので、チベットで見る仏像とは微妙に雰囲気が違っています。北京ものを見慣れていない私にとっては逆に面白い。

2016年12月~2017年1月に早稲田大学 會津八一記念博物館で開催された「チベット仏教の美術」展とも似た感じ。

2017年1月15日日曜日 早稲田大学 會津八一記念博物館 「チベット仏教の美術」展

しかし、どれもチベット仏教図像から逸脱したものは一つもないので、チベット仏教図像学の勉強にも最適です。非常に近くで見れるし。

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気になったものをいくつか。

No.1 菩薩座像(パンフレットp.1アップ)

何の菩薩か不明となっているが、おそらくチャンバ བྱམས་པ་ byams pa  弥勒菩薩でよさそうだ。特徴は少し不足しているが。

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No.7 ヴァジュラバイラヴァ父母仏立像(パンフレット p.2上右)

こういう細身のドルジェ・ジッチェ རྡོ་རྗེ་འཇིགས་བྱེད་ rdo rje 'jigs byed वज्र भैरव  Vajrabhairava/यमान्तक Yamataka 大威徳明王は珍しい。

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No.9 十方天像(パンフレットp.2下右)

十方天の像がずらりと並ぶのは珍しいね。

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No.11 釈迦如来立像(栴檀瑞像)(パンフレットp.4上左)

これだけが木像で漆塗りだ。チベットよりもインド~中央アジア風。特に衣の襞。腰のくびれなんかもそうですね。

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No.12 ツォンカパ坐像(パンフレットp.4上右)

これはまた、ずいぶん縮こまった、かわいいツォンカパだ。元は黄帽をかぶっていたと思われる。

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No.13 名月母坐像
No.14 除蓋障菩薩坐像
No.15 巴[ロ寽]沙雑扎天像
(パンフレットp.4下)

いずれも単独で像が作られるのは珍しい尊格。除蓋障菩薩は八大菩薩の一尊格だが、他の二尊格は調べないと、どういう尊格かわからないです

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とまあ、小規模ながらも結構面白い展示なので是非どうぞ。

常設展の料金(一般620(520)円、大学生410(310)円(注)( )内は20名以上の団体料金)だけで観覧できます。

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常設展もひと通り見ました。

しかし、常設展はどこの美術館・博物館でも同じなのですが、いろんなテーマに次々移っていくので、頭が追いついていかない。一つ一つはみな素晴らしいものなのはわかっているが・・・・。

2017年9月17日日曜日

ラスワ~キーロン・ルート開通

2015年4月のネパール大地震で、ネパールは大きな被害を蒙りました。

この地震による道路崩壊、土砂崩れなどで、ネパール~チベットの陸路ルート(कोदारी Kodari~འགྲམ་ 'gram ダム(障木 ザンムー))間も大きな被害に遭い通行不能となった。2017年9月現在もまだ通行止め。

こうなると、ネパール・チベット双方にとって、観光だけではなく交易にも悪影響が長引いているわけで、同ルートの復旧はもとより、代替ルートの開発も並行して行われてきました。

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それが一応開通までこぎつけたようです。

・The Guardian > travel > Will Coldwell/Nepal-Tibet border reopens to tourists after 2015 earthquake(Saturday 16 September 2017 11.00 BST)
https://www.theguardian.com/travel/2017/sep/16/tibet-nepal-border-road-reopens-after-earthquake-kathmandu-lhasa

Kerung-Kathmandu Highwayという名称。

Kathmanduから西に向かい、Trishuli Gadi त्रिशूली नदी 流域に入ります。Rasuwa郡 रसुवा जिल्लाに入りさらに北上。地震時に壊滅的な被害を受けたLangtang谷への分岐を過ぎると、国境の村 Rasuwa Ghadhi रसुवा गदी。Kathmanduから約130km。

ここから国境を越えてチベットに入ります。Trishuli Gadiが名を変えたキーロン・ツァンポ སྐྱིད་གྲོང་གཙང་པོ་ skyid grong gtsang po 吉隆藏布沿いに約20kmで吉隆県の県都キーロン སྐྱིད་གྲོང་ skyid grong 吉隆。Kerungと表記されているのは、このキーロンのことです。


Google Mapを一部改変

参考:

・ROYAL MOUNTAIN TRAVEL –NEPAL > blog > View Archive Here > May 2016 > First hand experience from Kerung – Kathmandu Highway.(Posted on May 30, 2016)
http://royalmt.com.np/blog/first-hand-experience-from-kerung-kathmandu-highway/

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公式には外国人旅行者にも開放されたことになっているようだが、今のところ開通しているのは、未舗装1車線の狭い道路だけなので、すぐに外国人旅行客が続々と行ける状況ではなさそう。ネパール側の道路状況もまだ悪いし。

キーロンはグンタン王国の王都だった場所だし、吐蕃時代から名が知れた場所なので、是非一度行ってみたい。

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しかし、この道路は中国の援助によって建設されたもの。当然、いざという時には軍用道路として使うつもりだ。

中国のネパールへの経済援助攻勢は、なかなかはげしい。このルート建設の意義についても、色々考えさせられます。

参考:

・谷川昌幸/ネパール評論 Nepal Review > ラサ-カトマンズ,道路も鉄道も(2014/08/11)
https://nepalreview.wordpress.com/2014/08/11/a-797/

2017年9月16日土曜日

ボン教管長メンリ・ティジン・リンポチェ遷化

ボン教を統率しておられるメンリ・ティジン・リンポチェが2017年9月14日に亡くなられました。享年87歳。

・西藏之声 > 文本存档 > 2017 年 九月 > 流亡藏人社区悼西藏雍仲本教領袖曼日赤增仁波切圓寂(九月 15, 2017)
http://www.vot.org/cn/%E6%B5%81%E4%BA%A1%E8%97%8F%E4%BA%BA%E7%A4%BE%E5%8C%BA%E6%82%BC%E8%A5%BF%E8%97%8F%E9%9B%8D%E4%BB%B2%E6%9C%AC%E6%95%99%E9%A2%86%E8%A2%96%E6%9B%BC%E6%97%A5%E8%B5%A4%E5%A2%9E%E4%BB%81%E6%B3%A2%E5%88%87/

謹んでご冥福をお祈りいたします。

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例によってHiamchalガイドブック草稿から、メンリ・ティジン・リンポチェについて。

メンリ・ティジン・ルントク・テンペイ・ニマ・リンポチェ སྨན་རི་ཁྲི་འཛིན་ལུང་རྟོགས་བསྟན་པའི་ཉི་མ་རིན་པོ་ཆེ། sman ri khri 'dzin lung rtogs bstan pa'i nyi ma rin po che/ (1929-2017)

第33代メンリ寺座主であり、ボン教全体を統括する管長でもある。法名サンギェ・テンジン སངས་རྒྱས་བསྟན་འཛིན་ sangs rgyas bstan 'dzin。

1929年、アムド南部ンガワ རྔ་བ་ rnga ba(現・四川省阿壩蔵族羌族自治州)東部のキャンツァン རྐྱང་ཚང་ rkyang tshang(松播県山巴 བསམ་པ་ bsam paの近郊)に生まれる。このあたりにはボン教徒、ボン教僧院が多く、古来ボン教の東の中心であった。

8歳で出家しボン教僧院キャンツァン・ゴンパで学ぶ。27歳でゲシェ(博士)号を獲得。キャンツァン寺の座主となったが間もなくその座を辞しメンリ寺、ユンドゥンリン寺に移った。

1959年、チベットが中国共産党に完全に制圧されると、サンギェ・テンジン師は他のボン教高僧らと共に、ネパールを経てインドに亡命した。

亡命後は、インドやネパールに残るボン教経典の収集に努めていたが、その途中でイギリス人チベット学者David Snellgroveと出会い、ロボン・テンジン・ナムダク・リンポチェ སློབ་དཔོན་བསྟན་འཛིན་རྣམ་དག་རིན་པོ་ཆེ་ slob dpon bstan 'dzin rnam dag rin po che、サムテン・カルメイ བསམ་གཏན་མཁར་རྨེའུ་ bsam gtan mkhar rme'u師と共にロンドン大学に招かれ、1962~64年はここで研究生活を送る。

1964~66年はダライ・ラマ法王の要請に応じインドに帰国し、Mussourieのチベット人学校長となる。さらに1967~69年にはオスロ大学に助教授として招かれた。

1969年、再建が始まったHimachal Pradesh州Solan県Dolanjのタシ・メンリリン・ゴンパ བཀྲ་ཤིས་སྨན་རི་གླིང་དགོན་པ་ bkra shis sman ri gling dgon paの第33代座主(メンリ・ティジン སྨན་རི་ཁྲི་འཛིན་ sman ri khri 'dzin)として迎えられ、インドへ帰国。その後は同寺の拡充に努め、僧の育成も進んだ。

欧米人学者と共にボン教研究にも尽力。ボン教に関する知見は一般にも広まり、怪しげな魔術的宗教と誤解されてきたボン教に対する理解も深まるようになった。

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(追記)@2017/09/16

英文の記事も出ているので、そちらも補足。

・Phayul.com > News > 15 September 2017 > Tenzin Monlam/Head of Bon Tradition 33rd Menri Trizin passes away (Friday, September 15, 2017 20:25)
http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=39541&article=Head+of+Bon+Tradition+33rd+Menri+Trizin+passes+away&t=1&c=1

Karakoram仏教、Kashmir仏教、Swat仏教の存在の軽さ

引き続き「新アジア仏教史シリーズ」(佼成出版社)を読んでいるわけですが、

・佼成出版社・編 (2010.10) 『文明・文化の交差点』(新アジア仏教史05 中央アジア). 469pp.+map. 佼成出版社, 東京.


装幀 : 間村純一, 撮影 : 李学亮

この本には、重大な欠落があります。

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おおまかに目次を当たってみると、

(1)013-061 山田明爾/第1章 インダス越えて 仏教の中央アジア
(2)067-112 橘堂晃一/第2章 東トルキスタンにおける仏教の受容とその展開
(3)119-158 松田和信/第3章 中央アジアの仏教写本
(4)165-215吉田豊/第4章 出土資料が語る宗教文化 イラン語圏の仏教を中心に
(5)221-257宮治昭/第5章 中央アジアの仏教美術
(6)264-316 蓮池利隆+山部能宣/第6章 仏教信仰と社会
(7)324-403 沖本克己+川崎ミチコ+濱田瑞美/第7章 敦煌 文献・文化・美術

(1)はガンダーラ~アフガニスタンを中心に解説。(2)は、タイトル通り東トルキスタンについて解説。(3)は主にアフガニスタン出土資料について解説。(4)は東西トルキスタンについて解説。

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ここで注目は(4)。

Afghanistan北部Bactriaまでは仏教遺跡が豊富なのだが、その北Sogdianaに入ると、とたんに仏教遺跡に乏しくなる。

まあ、まだ見つかっていないのだろう、と思い込んでいたが、さにあらず。

要するにソグドには組織的に仏教が伝播することはなく、仏教寺院やそれを支える僧侶を再生産できる教団は存在しなかった。
同書, p.176

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では、あれだけ仏教が栄えた東トルキスタンへは、どうやって伝わったのか?仏教はBactriaから、Sogdianaをほぼ素通りして東トルキスタンに入ったのか?

この本を読んだらそう思ってしまいますよね。だって他の重要ルートには、全く触れていないのだから。

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本blogでも何度も触れていますが、

・桑山正進 (1985.3) バーミヤーン大佛成立にかかわるふたつの道. 東方学報京都, no.57, pp.109-209.
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/66642/1/jic057_109.pdf

は、非常に重要な論文です。

2世紀から記録が残るインド僧・中国求法僧の中国~インド往来ルートを総ざらえすることで、「罽賓」の混乱の整理、中国~インド往来ルートの変化、Bamiyan石窟寺院群成立年代について論じています。

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大部ではありますが、終始エキサイティングな展開で、とても勉強になりました。

「罽賓」の混乱の整理については、

2009年9月29日火曜日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(24) 漢文史料に現れる「ブルシャ」その1 

の(注4)にも簡単にまとめてありますのでご参照あれ。

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その研究成果では、インドから東トルキスタンの交易ルートは時代によって以下のように変化した、と考察されています。

4~6世紀 : カラコルム・ルート(代表例 : 法顕)
6世紀以降 : ヒンドゥクシュ・ルート(代表例 : 玄奘)

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東トルキスタンに仏教が伝わった時期については、わかっていないことが多いのですが、ホータン(和田/于闐)には紀元前1世紀に伝わったとされます。そして、4~6世紀に東トルキスタン~中国の仏教は大きく発展します。

その主な仏教伝播ルートはSogdiana経由ではなく、当時のメイン交易ルートKarakoram経由だったのでしょう。

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上掲書(3)には、テーマの性格上、当然いわゆる「ギルギット写本」について言及があります。

「ギルギット写本」は、1931年にGilgit近郊NaupurのStupaから発見された、白樺樹皮に書写されたSanskrit語経典群。6~7世紀のものと推定されています。Schoyen Collectionが現れるまでは、世界で最も古い仏典写本でした。

しかし、(3)では、GilgitやKarakoramの仏教、どころかその地域についての解説が何もなく、まるで仏教とは縁遠い場所からの出土であるかのような印象を持たざるを得ません。

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Gilgitの近辺について、最も古く仏教の記録が残っているのは、法顕(東晋416)『法顕伝(仏国記)』

法顕がインドへ向かう途中、401年に葱嶺(Pamir)を超えて最初の国が陁歴でした。これは現在のDarelと考えられています。

陁歴では小乗仏教が栄えていたそうですが、なぜか弥勒菩薩の木造大仏があったといいます。

当時Gilgitは、すでに波倫/波路(Bolor)国として存在していたと思われるが、交易ルートから外れていたのか法顕は報告していません。

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Gilgitからは、先ほどの「ギルギット写本」や7世紀のものと推定される仏像銘文などが見つかっており、双方に共通した王名が現れるようになります。これがBolor国の「Patola Shahi朝」と呼ばれる王朝です。

7世紀後半になると、Bolor(Gilgit)は、中国史書では勃律の名で現れるようになります。当時の中心はBaltistanであったと考えられています。721年頃に、勃律は大勃律(Baltistan)と小勃律(Gilgit)に分裂します。

このうち大勃律は当時チベット高原から西方に領土を広げていた吐蕃領となりますが、小勃律は8世紀に唐と吐蕃の間で激しい争奪戦が繰り広げられます。

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とまあ、Karakoram、特にGilgitにおける仏教興隆の様子というのは断片的にしかわかっていないのですが、GandhalaあるいはKashmirから仏教伝播するルート上の国・町として、かなり仏教が栄えた地域だったのは間違いないでしょう。

しかし、上掲書では全く記述がないのです。

現在、Karakoramの仏教や歴史を研究している日本の研究者はいないのでしょう。しかし、欧米やインド、パキスタンでの研究をまとめた概説すらも、誰も書けないとは思えません。ここは「コラム」の形でもいいから、Karakoram仏教の重要性に触れておいてほしかった。

Karakoram仏教は、この本では、Gandhalaと東トルキスタンをつなぐミッシング・リンクになってしまったわけです。

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Karakoram仏教の、まるで存在しないかのような扱いもさることながら、同様にKashmir仏教、Swat仏教も上掲書では記述が一切ありません(Swatは地名としてだけ2度出てくるが)。

Kashmirは歴史が明らかになり、仏教の様子もわかってくるのは7世紀からです。

SwatはGandhalaと同時期のKushan朝時代から仏教が伝わっていましたが、特に8世紀頃に密教が栄えたことで有名です。チベット語で ཨོ་རྒྱན་ o rgyanと呼ばれるUddiyanaとはSwatのことでした。

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確かに、仏教の東トルキスタン~中国への伝播では、KashmirもSwatも直接大きな役割を果たしていないかもしれませんが、Karakoramへ繋がるルートの一部であったのは間違いありません。

この地域が無視されているせいで、仏教の東方伝来についても具体的なルートが今ひとつイメージがわきにくい、というのが上掲書の残念な点でした。

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この辺を、じっくり研究する人が出てほしいなあ。

TalibanがSwatあたりまでウロチョロしていてちょっと物騒ではあるけど、Burushaski語研究者・吉岡乾先生のように、毎年のように調査旅行に行っている人もいるんだし、是非、日本の仏教史研究のミッシング・リンクを埋める人が出てきてほしい。

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なお、Karakoramの歴史・仏教、特にチベットとの関わりについては、

2009年6月17日水曜日~2012年3月1日木曜日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(1)~(36)+おまけ3本

にまとめてありますので、ご参照あれ。

2017年9月9日土曜日

故Walter BeckerとHawaiiのチベット仏教

分家blogの

音盤テルトン > 2017年9月4日月曜日 追悼 Walter Becker

で紹介した、Steely Danの片割れで、先日惜しくも亡くなったWalter Beckerのソロ作

Walter Becker/11 TRACKS OF WHACK [Giant] pub.1994


Art Direction : Mick Haggerty

のお話です。

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このアルバムの3曲めに、Surf and/or Die という曲があります。

歌詞はきわめて難解で、はっきり言って、何言ってるかさっぱりわかりません。少なくとも「サーフィンできなきゃ死ぬ方がマシ!サーフィンできたら死んでもいい!」という歌ではない(笑)。

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で、この曲冒頭に何やらボワーンとDidjeriduみたいな低音が入っているが、すぐに消えて曲が始まる。だが、よく聴くと、この低音は曲の間中、控えめながらずっと鳴り続けているのだ。

間奏になると、これがチベット仏教の読経であることが、はっきりわかるようになる。

曲の後半は、この読経をバックに(おそらく)Dean Parksのギター・ソロが延々続くという妙な展開。エンディングは、かすかにマラカスは聞こえるものの、読経が主役に躍り出る。

歌詞の内容に、チベット仏教の思想らしきものは感じられないので、読経は効果音として用いられている、と思ってよさそう。

しかし、まっとうなRockにチベット仏教の読経という唐突感は、まあなんでしょうね。変な気持ちになります。

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クレジットを見ると、

Extra Special Thanks : ・・・(略)・・・ Chants and prayers of Tibetan lamas made possible by the blessing of Nechung Rimpoche. Hawaii lamas - Lama Tenzin, Lama Lobsang, Lama Pedor, Lama Jikmey. FREE TIBET.

とある。

というわけで、次はこのNechung Rinpocheを調べてみました。

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何のことはない。すぐに見つかった。

・THE NECHUNG FOUNDATION གནས་ཆུང་རྡོ་རྗེ་སྒྲ་དབྱངས་གླིང་། gnas chung rdo rje sgra dbyangs gling/ (since 2015) > About Us > Rinpoche / Nechung Rinpoche and his lineage
http://nechungfoundation.org/rinpoche.html

探してみたら、例のHimachalガイドブック草稿の段階で、すでに調べてあった。全く忘れていたよ。これを少し手直しして、ここに紹介しておこう。

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ネーチュン・リンポチェ གནས་ཆུངརིན་པོ་ཆེ། gnas chung rin po che/

ネーチュン・ゴンパ座主。ネーチュン・ゴンパは、ラサ郊外デプン・ゴンパ横にあるニンマパのゴンパ。

トランス状態となり、サムイェ寺護法神ペハル པེ་ཧར་ pe harの使いであるドルジェ・ダクデン རྡོ་རྗེ་སྒྲགས་ལདན་ rdo rje sgrags ldan=ネーチュン གནས་ཆུང་ gnas chungを憑依させ、ペハルの神託を伝える神降ろしネーチュン・クテン གནས་ཆུང་སྐུ་རྟེན་ gnas chung sku rtenの在所として有名。なお、ネーチュン・リンポチェとネーチュン・クテンは別人。

1960年前後に、ネーチュン・リンポチェもネーチュン・クテンも亡命し、ネーチュン・ゴンパは文化大革命中に破壊された。現在は再建されているが、リンポチェもクテンもいない状態で、活動は低調。

ネーチュン・ゴンパはDharamshalaのGanchen Kyishongでは、1984年に再建されている。

19世紀末、ニンマパ南流総本山のミンドルリン・ゴンパから、ウギェン・ティンレー・チューペル ཨོ་རྒྱན་འཕྲིན་ལས་ཆོས་དཔལ་ o rgyan 'phrin las chos dpalがネーチュン・ゴンパに移った。師は、8世紀グル・リンポチェの25人の弟子の一人ランド・コンチョク・チュンネー ལང་གྲོ་དཀོན་མཆོག་འབྱུང་གནས་ lang gro dkon mchog 'byung gnasの転生者と認定され、ネーチュン・ゴンパ座主となった。

その転生者の系譜が、ネーチュン・リンポチェと呼ばれ、代々ネーチュン・ゴンパ座主となっている。

2世トゥプテン・コンチョク ཐུབ་བསྟན་དཀོན་མཆོག thub bstan dkon mchog(1918-82)は、古典や占星術の大家として知られ、1950年代には北京で教鞭を執るなどもしたが、数カ月間投獄された事を機に、釈放後の1962年インド亡命。

2世は、ネーチュン・ゴンパから亡命したクテンや僧らと共に細々と活動を続けていた。1974年にはHawaiiに布教し、Nechung Dorjee Drayang Ling Buddhist Centreを設立した。しかし、新ネーチュン・ゴンパ完成を待たずに1982年に遷化した。

その転生者はなかなか見つからなかったが、1995年にようやくネーチュン・リンポチェ3世が認定され、インドとHawaiiで活動中。

3世は1985年ラサ生まれ。1993年インド亡命。1995年に3世として認定された。まだ若手のリンポチェである。

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Walter Beckerは、Steely Dan/GAUCHO [abc] pub.1980 完成後にHawaiiに移住。亡くなるまでずっとHawaiiを拠点にしていた。

Beckerがチベット仏教信者になっていたとは思わないが、何度かHawaiiのThe Nechung Foundationを訪れ、Nechung Rinpocheと関係が生じたのではないかと思われる。「FREE TIBET!」の文言も見えることから、少なくともチベットにシンパシーを持っているのは間違いない。

これ以上は調べても出てこないので、これまで。

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なお、The Nechung FoundationがあるのはHawaii島。

Hawaii諸島には、この他

・Kagyu Thegchen Ling(as of 2017/09/09)
http://www.ktlhonolulu.org/index.htm
O'ahu島。カルマ・カギュパ。カルー・リンポチェ(現在は3世)のゴンパ。

・Maui Darma Center(as of 2017/09/09)
http://mauidharmacenter.com/
Maui島。カルマ・カギュパ。こちらもカルー・リンポチェのゴンパ。

がある。意外でしょ。

Hawaiiに行かれる方は、こちらも行き先に含めてみてください。なお、私はHawaiiに行ったことはありません。

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またWalter Beckerに戻るが、Steely Danには、Bodhisattva という曲もある。これは2枚目のアルバム COUNTDOWN TO ECSTASY [abc] pub.1973 収録の1曲めだ。

ギター・ソロがフィーチャーされたバリバリのRockで、曲名がBodhisattvaというミスマッチ感がこれまたおもしろい。

歌詞は短く、西欧人が東洋の仏教にいだくあこがれを描くもの。というか、Donald Fagenがそんな素直な詞を書くはずもなく、なんかそういう西欧人を小馬鹿にしたような歌詞だ。

まあでも、この曲は上で述べたようにギター・サウンドを聞く曲になっているので、あんまり曲名に引きずられる必要はないだろう。

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なんだか、よくわからない話になっていますが、調べれば調べるほど、こういう色々な分野が渾然一体となって現れてくる瞬間が、調べものの醍醐味。

2017年9月6日水曜日

ラフの仏教、カレンの仏教

ここ最近、「新アジア仏教史シリーズ」(佼成出版社)を延々読んでいるのですが、

・林行夫・編集協力 (2011.1) 『静と動の仏教』(新アジア仏教史04 スリランカ・東南アジア). 525pp.+map. 佼成出版社, 東京.


装幀 : 間村純一, 撮影 : 田村仁

が驚きでした。

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この巻は、上座部仏教世界、すなわちスリランカ、東南アジア諸国(ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア)、それと雲南省南部を扱っています。

上座部仏教史はこれまで勉強したことがなかったので、先般の横浜ユーラシア文化館「タイ・山の民」展もあったことだし、ちょうどいい機会、ということで読んでいたわけです。

上座部仏教における各国の状況と影響関係が、詳しく記述されています。これまで漠然としかイメージをつかんでいなかったんですが、各国の上座部仏教世界での時空的な位置づけがかなり頭に入った。まさにこれは「仏教史」の本ですね。

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その中でも驚いた論考がこれ。

・片岡樹 (2011.1) 第8章 仏教、民俗宗教、少数民族. 『静と動の仏教』(新アジア仏教史04 スリランカ・東南アジア)所収. pp.383-413. 佼成出版社, 東京.

これは上座部仏教世界の辺境・中国雲南省~タイ北部の少数民族における仏教を取り上げた論考です。

といっても西双版納のタイ族の上座部仏教ではありません。この本では第7章で別途取り上げられています。

対象はなんとラフ(拉祜族)及びカレンの仏教です。

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これまでラフのことを「仏教徒」という切り口で見たことがなかったので、この論考に書かれていることは「目からうろこ」の連続。

18~20世紀ラフ族で巻き起こった、仏教化と仏教小国家興亡と蜂起の数々。年代順に整理してみよう。

(01)18C(雲南)-「緬(ミャンマー)僧(実はタイ系民族の僧)」を崇拝するラフが挙兵し清朝官憲と衝突。

(02)18C(雲南西南部・孟連)-上座部仏教僧侶中心の宗教反乱+ビルマ側ラフ兵の支援。

(03)19C初(雲南)-南柵仏・張輔国(漢人僧)が54カ村を支配し、ラフの半独立国家を樹立。最終的には清朝の軍事介入により滅亡。

(04)19C半ば(雲南西南部・ラフ地区)-漢人僧・王仏爺が崇拝を集める。超能力を持つと信じられ、伝説が多い。

(05)19C後半(雲南西南部・西盟)-三仏祖(西盟仏)(?~1888)が周辺諸民族を教化。死後、ラフ仏教教団は清朝により解体・弾圧される。

(06)1891(雲南西南部)-ラフ仏教徒の残党集団・五仏房夷の一斉蜂起。半年ほどで鎮圧。残党はビルマ国境でゲリラ戦。

(07)1903(雲南西南部・双江)-清朝に討伐されたラフ首領の遺児が「仙人」とともに挙兵。一時はタイ族領主(土司)を追放。

(08)1918(雲南西南部)-「主子(至高神グシャ)出現」の噂に基づき、「仙人」(07仙人とは別)の煽動による大反乱。民国政府行政官は引き上げ、無政府状態となる。

(09)1918頃?(ビルマ東部)-「イエス・キリスト降臨」の噂が広まる。

(10)1930年代(ビルマ東部・ムンサート)-マヘグシャ崇拝運動が反英反乱に発展。英軍により鎮圧される。

(11)1950~70年代(ビルマ)-モナグシャ(モナトボ/プチョン・ロン)が指導するラフの反政府活動。タイ側からのラフも参加。モナグシャの死後は、長男チャウが継ぐか、単なる麻薬軍閥化。

(12)1980年代(タイ最北部)-チャヌパヤが「モナグシャの再来」として、ラフの崇拝を集める。1989チャヌパヤはキリスト教に改宗。

(13)1990年代半ば(タイ最北部~ビルマ東部)-タイ系上座部仏教僧ブンチュム師が、予言者オパチャクの指導により、「モナグシャの再来」として、ラフの崇拝を集める。

こういった聖者崇拝が卓越した形、あるいは精霊信仰が変形した形での、ラフの仏教流行と反乱については、はじめて聞く話ばかりで、驚きっぱなしだ。

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本論考では、次にタイ北西部のカレンの仏教について述べる。これも、これまでカレンを「仏教徒」としてみたことがなかったので、驚くことばかりでした。

(14)19C前半(タイ北西部)-ユワ運動。至高神ユワがカレンに与えたはずだが失われた、とする神話上の「黄金の本」を「白い弟」が持ち帰り、それと共にユワも帰還し、未来仏が出現すると信じられた。1920年代、「白い弟」=白人宣教師と解され、カレンの間にキリスト教改宗が進む。

(15)19C(下ビルマ~タイ)-テコラン運動。ユワ運動と同様の「黄金の本」回復+未来仏出現カルト。隠遁僧が指導者となり、1960年代にはその七代目指導者。

(16)20C(タイ北部)-シーウィチャイ師がカレンの崇拝を集める。

(17)20C後半(タイ北部)-僧籍を剥奪された元僧侶が「白衣の聖者」としてカレンの崇拝を集める。

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上座部仏教に漢人の大乗仏教、そして聖者信仰、精霊信仰、土着の神話、さらにはキリスト教まで。

まさにsyncretism(宗教混淆)の極みだが、考えてみれば他の宗教の影響が皆無の宗教など存在しないのだ。日本に伝わった仏教にも、インド土着の信仰、中国の儒教、日本の民間信仰などが色濃く入り込み、日本独特の仏教風土が形成されている。

どの地域でも似たようなものだが、いずれの地域も「自分のとこの仏教が正統仏教」と主張するところがおもしろい。

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とにかくこれまで全く知らなかったラフ仏教の歴史に加え、色々な宗教・信仰が雨あられのように次々と降り注ぎ、もう読んでいてめまいがするほど。

著者の片岡先生は、ラフ民族誌、特にキリスト教の関係について研究されている方だが、このように仏教も視界に入れることで、とても深みのある論考が出現してしまった。どえらくエキサイティングな論考でした。

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(追記)@2017/09/09

上記論考の関連論文がweb上にありました。

・片岡樹 (2015.7) 山地からみたブンチュム崇拝現象 ラフの事例.東南アジア研究, vol.53, no.1, pp.100-136.
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/201484/1/jjsas_53%281%29_100.pdf
・片岡樹 (2014.3) 山地民ラフから見た東南アジアの王と国家. FIELDPLUS, no.11, pp.4-5.
http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/78063/1/field-11_p04-05_kai.pdf
・片岡樹 (2011.3) 跨境民・ラフ族. 中国21, no.34, pp.225-242.
https://aichiu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=7382&item_no=1&page_id=13&block_id=17

2017年8月28日月曜日

sro can続報

> Dasの辞書によると、「sro」はインド起源の単語だというが、その元の単語は見つけられなかった。

と書きましたが、なんとなくわかった。

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以前紹介した

・Klaus Glashoff / Spoken Sanskrit Dictionary VERSION 2(since 2005)(as of 2017/08/28)
http://spokensanskrit.org/

で探したところ、sro そのものはありませんでしたが、

श्रपयते shrapayate 料理する/汗をかかせる/熱する/炙る/焼く

これがいい線行っていそう。

पयते payate 行く/動く/増やす/豊富な/たくさんある

なので、どうやら

श्र shra 熱

の意味になりそうだが、これ単独では出てこない。接頭辞としてのみ現れるのかもしれない。

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チベット語に戻ると、Dasの辞書では、

སྲོ་ sro 熱情
    སྲོ་ཤི་བ་ sro shi ba 気が抜ける/意気消沈する
    ཐུགས་སྲོ་ thugs sro (西チベット)熱/激情/忿怒/怒り
    སྲོ་ཅན་ sro can (Jäshkeの辞書)怒り狂った/激怒した
སྲོ་བ་ sro ba 温める/暖める
    མེ་ལ་སྲོ་བ་ me la sro ba 火で暖まる
    ཉི་མ་ལ་སྲོ་བ་ nyi ma la sro ba 日で暖まる
    འཇམ་པའི་དྲོད་ཀྱིས་བུ་བསྲོ། 'jam pa'i drod kyis bu bsro/ (母の)穏やかな温かさで子は暖まる

とあります。

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こうして見ると、sro にはもともと「熱」という意味があり、それが

熱→熱情→怒り

と転じたようです。あるいは、

sro 熱→ thugs sro 熱情 → (thugs) sro 怒り

のように、意味の発展の上に、thugs(心)が省略された形、という解釈でもいいでしょう。

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これが中央チベットでは「古語」に当たるのかどうか知りませんが、「インド起源の言葉が主に西部チベットにだけ残っている」という状況は、例の「方言周圏論」(つまり古い言葉(あるいは文化)がある文化圏の周縁部にだけ残っている)が適用できそうな気もします。

いやあ、わずか1ページの1単語からいろんなことがわかった。楽しめました。

他の言語でも、同じような楽しみ方ができるはずです。

・吉岡乾・著, 西淑・イラスト (2017.8) 『なくなりそうな世界のことば』. 107pp. 創元社, 大阪.

からピックアップして、誰かやってみてください。

2017年8月26日土曜日

吉岡乾 『なくなりそうな世界のことば』

・吉岡乾・著, 西淑・イラスト (2017.8) 『なくなりそうな世界のことば』. 107pp. 創元社, 大阪.


デザイン : 近藤聡(明後日デザイン制作所)

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2009年6月17日水曜日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(1) ブルシャスキー語 
2015年12月5日土曜日 2015年11月29日(日)大学共同利用機関シンポジウム2015

で紹介した、おそらく日本でただ一人のブルシャスキー語研究者・吉岡乾(よしおかのぼる)先生の初著作です。初著作が絵本とは意外だった。

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この本、見つけるの苦労した。

まず「大きい本屋じゃないと、置いてないだろう」ということで、大型書店に行ったはいいが、それからが大変。

まず絵本のコーナー・・・ない。

「絵本とはいえ、どっちかというと大人向けかもな。するとまあ語学だろうな・・・」ということで、語学のコーナーへ・・・ない。

「文化人類学かな?」・・・ないっ。

「うーん困った」ということで、大型書店なら検索システムがある。それっ、検索っ!・・・在庫あり。おお、すごいぞ。

なになに、「在庫  ファンタジーの棚」だって?ファンタジー?なんか違うんじゃないかな・・・。

で、ファンタジーの棚を探したところ、そんなラベルの棚はないっ。

念のために「ラノベ」の棚に行ってみたが、当然ありませんね。

万策尽きて店員さんに訊いてみた。店員さんも首を傾げながら棚探索。

すると、ファンタジーのコーナーは「海外文学」の一角にあった。で、この本も無事ありました。

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しかし書店泣かせの本だ。

同じシリーズのE・F・サンダースの絵本も、米澤敬の絵本も同じ所にあった。版型が同じなので一緒に置きたくなる気持ちはわかるが、「サンダース絵本=外国文学」に引きずられて、外国文学でもファンタジーでもない本を一緒くたにされちゃ、誰も見つけられないよ。

著者のTwitterによると、著者自身は「ノベルス棚」で見つけたそうな。

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内容はタイトル通り。わかりやすい。

特徴としては、取り上げられている50言語のうち、ブルシャスキー語、シナー語をはじめ、カラコルム周辺の言語が7言語を占める点。著者の調査地域ですから、これは当然でしょうね。

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その中から、一つ紹介。

ラダック語「SROCAN ショチャン 怒りっぽい人、怒りんぼう」。


同書, p.44

「སྲོ་ཅན་ sro can」。チベット語ラサ方言では「ショチェン」ですが、ラダック語ではより字面に近く「ショチャン」と発音。

チベット語では「ཁྲོ་བ་ཅན་ khro ba can」で、ほぼ同じ意味になります。

チベット語でも「སྲོ་ sro」「སྲོ་ཅན་ sro can」という単語はありますが、あまり使われません。Dasの辞書によると、「sro」はインド起源の単語だというが、その元の単語は見つけられなかった。

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日本語の単語には直訳できない言葉が多く、すごく面白い。

・インドネシア・フローレス島ラマホロット語「DEBA' デゥバッ 手で触ってみるなど触覚を利用して何かを探す」

・カラコルム・ワヒー語「PURDUYUYN プルデュユーヴン 家畜に乳を出す気にさせる」

・シベリア・コリヤーク語「WINEKJEŃAJETGEL ウィヌクジュガージュトゥグル 7月末から8月初めに種雄トナカイが角を磨くときの暑さ」

なんか大好き。

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この本でちょっと残念なのは、人物画が各民族の衣装ではないこと。地域不明の服装ばかりで、各民族の特色が伝わってこない。

これは言語を紹介する本で、各民族の習俗を紹介する本ではないからかもしれないが、続編が出るようなら、その時はちょっと頑張って、各民族衣装の資料も探してほしい。

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評判はどうかな?と、Twitterで著者名で検索したところ、絶賛ですね。増刷かかるといいなあ。

ところで、本書に対する美辞麗句によるお褒めのtweetsの間に、著者自身による(お馴染みの)毒吐きまくりtweetsが挟まって出てくるのに爆笑。

これ、同一人物とは思わない人が多いかもしれない。吉岡先生らしくていいなあ。

2017年8月19日土曜日

横浜ユーラシア文化館「タイ・山の民を訪ねて1969~1974」展(3)

この展覧会がなぜ横浜ユーラシア文化館で開かれているかというと、まずこの横浜ユーラシア文化館の由来から。

この博物館は、横浜市民であった江上波夫先生(1906~2002)が横浜市に寄贈した文物・文献を展示し、また利用してもらうために2003年に開館されたもの。

江上先生は、上智大学西北タイ歴史・文化調査団の第3回調査(1973/12~1974/02)に参加されているのです。当時、江上先生は上智大学の教授。とはいえ、このあたりは江上先生は得意分野ではないので、あまり重要な役割ではなかったようですが。

とにかくそういう縁で、今回横浜ユーラシア文化館で、この展覧会が開催されたわけです。さすが、余裕のある自治体は羨ましいですねえ。

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タイ北部の少数民族地帯は、ずっと行きたいと思っているのだが、結局今まで一度も行っていない。ガイドブックや本などは結構たくさん持っているのだが。

その中から少し紹介。

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・地球の歩き方編集室・編 (1990.11) 『タイ北部 山岳民族を訪ねて』(地球の歩き方 FRONTIER 110). 119pp. ダイヤモンド・ビッグ社, 東京.


Art Director : 梅村城次

地球の歩き方シリーズ本編にはならない、行き先としてはまだマイナーな地域(1990年当時)のシリーズが「地球の歩き方FRONTIER」だった。このシリーズはすぐに消えた。

この中から本編に昇格した例も多い(ブータン、モンゴル、ベトナム、ラオスなど)が、これやパプア・ニューギニアなどは昇格できなかった。

この本の内容が、現在のタイ編にどの程度反映されているかは知らない。内容は、かなり気合の入っていて、写真、調査内容とも充実している。この地域では有名人である、三輪隆氏が大々的に協力しているせいもあろう。

もう古くなっている実用情報はさておき、今でも読み応えのある文章・写真・地図がてんこ盛りだ。

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類似本がその後出ていないこともあり、これをいまだに探している人も多いらしい。

ガイドブックってのは地位が低いですからね。古本業界でも大事にされていない。しかし、その分ひょんなとこで安く手に入る可能性もあるのだ。

探してる人頑張れ。これは苦労して入手する価値のある本です。

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表紙はカレンなのだが、ちょっと地味だったかな。タイ北部山岳民族といったら、インパクトがあるのはやっぱりアカでしょう。

というわけで中扉も挙げておきましょう。


同書, p.1

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お次はロンプラ。

・David Bradley (1991.11) THAI HILL TRIBES PHRASEBOOK ; 1ST EDITION (Language Survival Kit).181pp. Lonely Planet Publications, Howerton (Australia).



Bradley先生(1947~)は、Australia MelbourneにあるLa Trobe大学の言語学教授(当時も今も)。だからガイドブック/旅行用会話帳といって馬鹿にしてはいけない。相当にレベルが高い本なのだ。これも他に類書がないし。

ラフ語、アカ(ハニ)語、リス語、モン(ミャオ)語、ミエン(ヤオ)語の5言語会話と、カレン語などが少し紹介されている。

せいぜい数日の訪問・滞在ではほとんど利用価値はないのだが、片言でも現地の言葉をしゃべると「受け」が違う。早く現地に溶け込むには、まず言語を修得するのが一番なのだ。現地に腰を据えようという人にはもちろん必需品。

中国側のラフ語、ハニ語、リス語、ミャオ語、ヤオ語の会話帳というのもあまりいいのがないので、雲南や貴州でもある程度使えると思う。そういう使い方もしてみてほしい。

私も「地球の歩き方」のウイグル語会話帳をウズベキスタンで使ったら、かなり通じた(ウイグル語とウズベク語は、きわめて近縁のテュルク系言語)。

この本は1999年、2008年に改訂版が出ているらしい。意外に売れているのだな。

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さて、この上智大学調査隊だが、1973~74年の調査が最後になっている。

というのも、おそらく1974年にこの地域にクンサーが現れ、治安が悪化したせいではないかと思う。

中国国民党軍の残党であるクンサー(昆沙)は、第二次世界大戦後Burma東部Shan州で活動していた。しかしBurma政府によって1969年に逮捕された。

1974年、タイ政府の働きかけによりクンサーは釈放され、その後はタイ最北部に拠点を移した。で、この地帯は「黄金の三角地帯」と呼ばれ、クンサーが支配する麻薬(ケシ/阿片)栽培地帯となったのだった。

クンサーはさらに1985年にBurma側に拠点を移し、タイ最北部の治安も回復された。この地域に観光客が普通に訪れるようになったのは、その後のことのよう。

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民族学、言語学、少数民族好き、西南中国史に興味を持つ人々や、さらに、アレ好きな人、コレ好きな人など、様々な人々を魅了してやまないタイ最北部。

今回の展覧会は、そんな人々はもとより、これから行ってみようという人にもお勧めできる興味深い展覧会です。是非どうぞ。

2017年8月17日木曜日

横浜ユーラシア文化館「タイ・山の民を訪ねて1969~1974」展(2)

この展覧会では、タイ北部山岳民族の民族衣装、装飾品、農具、日用品、楽器などが、現地の写真とともに展示されています。

中国の雲南~貴州の諸民族の衣装や装飾品の美しさは有名なので、その分派であるタイ北部の諸民族の衣装・装飾品を見るのはなかなか楽しい。

最も漢化しているミエン(ヤオ)の民族衣装はちょっと地味だが、銀装飾品をジャラジャラ身につけたモン(ミャオ)、アカ(ハニ)の写真はやっぱり楽しい。

特にアカの女性は、膝を出した脚に脚絆をまくかわいい姿、そしてブランコに乗る面白い習俗で、人気だ。

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白鳥先生、そしてこの調査隊が最も興味を示したのは、ミエン(ヤオ)。ミエンについては、習俗の調査に加え、文献調査にも力を入れていた。

そこで発見したのが、「評皇券牒」。これは、ミエン(ヤオ)たちがまだ中国にいた時代、13世紀に南宋皇帝から与えられた特権や民族の由来を記す文書。

かつて一度は実際に発行されたのであろうが、現在残っているものはその実物ではなく、のちにミエン(ヤオ)たちが勝手に作ったものらしい。それでもミエン(ヤオ)の出自を示す貴重な資料に違いない。


『タイ・山の民を訪ねて1969~1974』図録, p.51

・白鳥芳郎 (1985.6) 『華南文化史研究』. 668+iv pp.+pls. 六興出版, 東京.

で一部見ていた「評皇券牒」をようやく見ることができた。といっても実物ではなく、巻物を写真に収めたものを巻物状に復元したものだったが。全編復元なので迫力ありますよ。

なお、前掲書には「評皇券牒」の全文があります。

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そう、ミエン(ヤオ)は、もともと中国の広西~貴州に住んでいた民族で、雲南~Laos/Myanmarを経てタイまで南下してきたのは100年前とまだ新しいのだ。だから、今でも漢語が話せたり読めたりする人がいる。

ミエン(ヤオ)だけではなく、モン(ミャオ)もリスもアカ(ハニ)もラフも、みな雲南から南下してきた民族だ。

それだけではない。実はミャンマー(ビルマ)人やタイ人も雲南から南下してきた民族なのだ。その時期は、およそ9~11世紀。東南アジアの「民族大移動」の時代といえる。民族大移動があるのは内陸ユーラシアだけではないのだ。

タイ北部の民族たちが南下してきたのは、それよりもずっと後だが、こういったダイナミックな動きは、小規模ながらいつの時代にもあったと思っていい。

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ミエン(ヤオ)は、中国でもタイでも焼畑農業を営む山岳民族。焼畑農業に適した山地を求めて、常に移動を繰り返したあげく、タイ北部にまで到達したらしい。移動の原動力は、政治的圧力ではなさそうだ。

ミエン(ヤオ)たちは神犬「槃瓠(ばんこ)」を祖と仰ぐ、犬トーテム民族。『後漢書』「南蛮西南夷伝」に、すでにこの神話が語られている。

(三皇五帝の帝嚳?)高辛氏が犬戎に攻められた際、「犬戎の呉将軍を討った者に賞金と王女を与える」とお触れを出したところ、高辛氏の飼い犬・槃瓠が将軍の首を咥えて持ってきた。王女は槃瓠に嫁ぎ、二人は山で暮らした。その間には六男六女が生まれ、その子孫が長沙武陵蛮(ヤオの先祖)である。

一方、「評皇券牒」には、

高辛氏→評皇、犬戎呉将軍→外国高王、槃瓠→盤護

と変えただけの同じ話が載っている。ここでは六男六女は、ミエン(ヤオ)の十二氏族の祖先となっている。

このように、ミエン(ヤオ)が中国古代から長江流域に住む武陵蛮の子孫であることは、ほぼ間違いない。また、その神話が二千年に渡り、そのまま保持されているのにも驚きだ。

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なお、この神話は日本にも入ってきて、滝沢馬琴が『南総里見八犬伝』の冒頭で、「伏姫と八房」エピソードとして翻案しているのも、皆さんご存知ですね。

また、名前は似ていますが、中国の世界創世神話に当たる巨人「盤古」とは、どういう関係にあるのかはわかっていません。どちらも中国南部で採集された神話なので、何らかの関係があると思われますが・・・。

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この展覧会では、ミエン(ヤオ)に関する展示が最も充実しており、これにはヤオ族文化研究所が大々的に協力しています。

・一般社団法人 ヤオ族文化研究所(since 2008)
http://www.yaoken.org/

これはもとも神奈川大学のプロジェクト研究所(2008年設立)であったものが、2015年に社団法人化されたものらしい。神奈川大学・廣田律子教授が所長。

研究者は全員他機関との兼任なので、学会/研究会に近いものと言えるかもしれない。だが、各研究者の研究成果を集約し、資料の保存・公開の器としては充分機能を果たしていると感じる。

しかし、ミエン/ヤオ専門の研究所が成立しているとは驚きである。

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今回の展示の補足ともいえる、展示「ヤオの神々」、映像「中国湖南省藍山県のヤオ族の儀礼」はヤオ族文化研究所の提供。

どちらもタイ北部ではなく、中国南部のヤオの調査記録である。見てみると非常に漢族文化/道教の影響の強いものだった。

しかしまた地味だなあ。このヤオを専門にしている研究者がまた、結構いるのにも驚いた。勉強になりました。

まだツヅク

2017年8月15日火曜日

由井格さんの東チベット写真展@長野県川上村

2017年7月10日月曜日 富山・長野チベット巡礼 (1) 東チベット写真展@長野県佐久市

で紹介した、由井格(ゆいいたる)さんの「東チベット写真展」の続報です。

・毎日新聞 > 地域 > 北信越 : 長野 > 人ふでがき : 武田博仁/中国・東チベット高地を踏査・研究 由井格さん/長野(2017年08月14日 10:47)
https://mainichi.jp/articles/20170814/ddl/k20/070/018000c

記事の内容は前回紹介したものとほぼ同様です。

2017年7月に佐久市臼田で開催した展覧会を、今は川上村文化センターで開催中です。会期は8月17日までと、あと2日しかありませんが、近くまで行く予定がある方は、ぜひこちらにも行ってみてください。写真も由井さんのお話も、おもしろいですよ。

2017年8月14日月曜日

横浜ユーラシア文化館「タイ・山の民を訪ねて1969~1974」展(1)

に行ってきました。

・横浜ユーラシア文化館 > 展覧会・イベント : 企画展 タイ・山の民を訪ねて1969~1974(as of 2017/08/11)
http://www.eurasia.city.yokohama.jp/exhibition/index.html

企画展 タイ・山の民を訪ねて1969~1974
会場 : 横浜ユーラシア文化館
住所 : 神奈川県横浜市中区日本大通12
会期 : 2017年7月15日(土)~9月24日(日)
休館日 : 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合火曜日)
開催時間 : 09:30~17:00(8/11、9/23は19:00まで)
観覧料 : 一般300円、小・中学生150円(常設展のみ 一般200円、小・中学生100円)
アクセス : みなとみらい線日本大通り駅3番出口すぐ/JR関内駅南口・市営地下鉄関内1番出口から徒歩約10分
■関連展示 : ミエン/ヤオの神々
■関連展示 : 中国湖南省藍山県のヤオ族の儀礼


同展チラシ1


同展チラシ2


同展チラシ3


同展チラシ4

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同展は、上智大学の調査団が1969~1974年に実施したタイ北部の山岳民族調査の資料を展示するもの。

調査は、

第1次調査 : 1969/11~1970/03
第2次調査 : 1971/10~1972/02
第3次調査 : 1973/12~1974/02

の3回実施されている。

中心となったのは、当時の上智大学教授・白鳥芳郎(1918~98)先生。なお、白鳥芳郎先生は、日本の東洋史学の創始者である白鳥庫吉(1865~1942)の孫に当たる。

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・木田歩 (2006.9) 南山大学人類学博物館所蔵上智大学西北タイ歴史・文化調査団コレクション. 『2005年度 生態史プロジェクト報告書』所収. pp.374-379. 総合地球環境学研究所, 京都.
https://chikyu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=583&item_no=1&page_id=13&block_id=69

によると、これらの資料は2000年、上智大学から南山大学人類学博物館に寄贈された。上智大学では関係者が退職し、充分な保管体制が取れないことから、白鳥先生が晩年に客員/非常勤研究員をされていた南山大学に寄贈されたものらしい。

ほぼ死蔵状態にあった資料が、このような形で陽の目を見ることは実に嬉しい。

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これは図録

・横浜ユーラシア文化館・編 (2017.7) 『タイ・山の民を訪ねて1969~1974』(シリーズ ユーラシアの造形). 80pp. 横浜ユーラシア文化館, 横浜.


同書, 表1

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その中から、調査地と調査対象の諸民族を示す地図を紹介しておこう。


同書, 表2


同書, 表3

登場する諸民族は、いわゆるタイ北部山岳民族(Hill Tribes)で、

(1) (フ)モン Hmong=中国の苗(ミャオ)族
(2) ミエン Mien=中国の瑶(ヤオ)族
(3) アカ Akha=中国の哈尼(ハニ)族
(4) リス Lisu=中国の傈僳(リス)族
(5) カレン Karen=MyanmarのKaren
(6) ラフ Lahu=中国の拉祜(ラフ)族

特にChaing Raiの北、LaosやMyanmarとの国境地帯、いわゆる「黄金の三角地帯 Golden Triangle」のモン(ミャオ)、ミエン(ヤオ)、アカ(ハニ)の資料が多い。

ツヅク

2017年8月12日土曜日

富山・長野チベット巡礼 (3h) 利賀・瞑想の郷-その9

街道沿い、スターフォレスト利賀(旧・小学校)の広場(元・校庭)を挟んで、小川の土手にNepal風の三重塔が立っている。



これももちろん利賀村-Tukuche村友好と関係ある建物だろう。2004年完成の建物らしい。

しかし、山奥の街道沿いで、いきなりこんなNepal建築に出くわすと、意外すぎてめまいがしてくる。

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特に何かがあるというわけではなく、いわば豪華な四阿(あずまや)である。しかし八方の柱には女神立像の木彫が置かれ、Nepalらしい佇まい。



ちゃんと調べたわけではないが、これらはNepalで崇拝されている「八母神 अष्ट मातृका Ashta Matrka」であろう。ヒンドゥ教の神々である。

八母神について詳しくは、

・立川武蔵 (1990.6) 『女神たちのインド』. 321pp. ありな書房, 東京.

を見てほしい。

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三重塔は吹き抜けになっていて、天井には曼荼羅が。蜘蛛の巣だらけなのがちょっと残念。まあこれだけ高いところにあると、掃除も大変なんだろうけど・・・。



これは瞑想の郷にもある、金剛界曼荼羅である。ただし、天井に描かれる際には、実際の方位に合わせて、東西が逆になっているので注意。

Himachalでもよく見かける、Kankani རྐང་གཉིས་ rkang gnyis ゲート・チョルテンの天井に曼荼羅が描かれているのと同じ。Kathmandu盆地のNewar建築とKali Gandakiのチベット文化の折衷様式といえる。

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三重塔の隣りにはもうひとつ建物があり、ささやかながらマニ車が3つと孔雀窓。



マニ車は、10も20も盛大に並んでいて、歩きながらガラガラ回すのが楽しいのだが、こう数個並んでいるだけだと、かえって寂しい気持ちになる。

しかし、日本でマニ車が回せるだけでもありがたい。久々にマニ車を回せて、少し気持ちが落ち着きました(日頃もう、マニ車を回したくて回したくて)。

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とまあ、数日の旅行をまとめるのに1ヶ月かかってしまったわけですが、それだけ濃い内容の旅行でした。

福光美術館「デルゲ印経院チベット木版仏画展」は8月20日まで開催されていますので、みなさんもぜひ行ってみてください。瞑想の郷も、冬は閉鎖なので行くなら今が一番いい。

あとこれも近くなので、誰か立山博物館にも行って、胎蔵曼荼羅の存在について、調べてきてほしいものだ。

2017年8月11日金曜日

富山・長野チベット巡礼 (3g) 利賀・瞑想の郷-その8

最後は(5)胎蔵曼荼羅


トラチャン+田中(1997), p.14

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真言密教では、胎蔵曼荼羅+金剛界曼荼羅で両界曼荼羅として重要視されますが、実はチベット仏教では、胎蔵曼荼羅の作例は非常にまれ。

『大日経 རྣམ་པར་སྣང་མཛད་ཆེན་པོ་མངོན་པར་རྫོགས་པར་བྱང་ཆུབ་པ་རྣམ་པར་སྤྲུལ་པ་བྱིང་གྱིས་རླབ་པ་ཤིན་ཏུ་རྒྱས་པ་མདོ་སྡེའི་དབང་པའི་རྒྱལ་པོ་ཤེས་བྱ་བའི་ཆོས་ཀྱི་རྣམ་གྲངས། rnam par snang mdzad chen po mngon par rdzogs par byang chub pa rnam par sprul pa bying gyis rlab pa shin tu rgyas pa mdo sde'i dbang pa'i rgyal po shes bya ba'i chos kyi rnam grangs/ महावैरोचनतन्त्र Mahavairocanatantra』は、8世紀にチベットにもたらされ、毘盧遮那如来と八大菩薩を合わせて崇拝する信仰が流行した。吐蕃時代には、この毘盧遮那如来と八大菩薩の図像例がかなりある。

しかし楼閣状に諸尊を配置した、いわゆる曼荼羅の形式では、チベットではほとんど描かれなかった。

私は壁画やタンカでの実物は一度も見たことがない。印刷物でも、知ってるのはせいぜい「ンゴル曼荼羅集」収録のものと、立山博物館所蔵のものくらい。

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そのせいもあり、Shashi Dorjeさんがこの胎蔵曼荼羅を描く際にも不明な点が多く、かなり苦労したという。結局いろいろな経典や資料から「復元した」という形となった。もちろん田中公明先生の研究がもとになっている。

・田中公明 (1982.3) 西蔵の胎蔵曼荼羅について. 日本西蔵学会々報, vol.28, pp.14-16.
https://projects.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=274491&item_no=1&page_id=13&block_id=21
→ 増補改訂 : (1996.8) 第2章 チベットの胎蔵曼荼羅について. 『インド チベット曼荼羅の研究』所収. pp.46-65. 法藏館, 京都.
・田中公明 (2003.3) チベットにおける胎蔵大日如来と胎蔵曼荼羅の伝承と作例について. 頼富本宏・編 『聖なるものの形と場』(国際シンポジウム18, 2001)所収. pp.39-54. 国際日本文化研究センター, 京都.
→ 再録 : 頼富本宏・編 (2004.3) 『聖なるものの形と場』. 法藏館, 京都.
http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/kosh/2003-03-31/s001/s009/pdf/article.pdf

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この曼荼羅を復元するにあたって、あちこちから作例も集めたらしいが、一致しない点がかなりあるらしい。チベットではあまり描かれる機会もなかったので仕方ないが。

瞑想の郷で、アムドから取り寄せた胎蔵曼荼羅(新作)も見せてもらった。概略らしく、かなりシンプルな構成だった。いちいち比較していないので、展示されているものとの違いはわからないが、ラブラン・ゴンパ周辺では、今も胎蔵曼荼羅の伝統が残っていることがわかって面白い。

最近では、ここの胎蔵曼荼羅が基準になってしまったらしく、新しい作例はみなこの曼荼羅の影響を受けているという。進化におけるボトルネック効果ですな。

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そういうわけで、胎蔵曼荼羅についてはよく知らないので、ごく簡単に紹介。

本尊は金剛界曼荼羅と同じく毘盧遮那如来 རྣམ་པར་སྣང་མཛད་ rnam par snang mdzad वैरोचन Vairocana。一面ニ臂。色はここでは黄色だ。中台八葉に囲まれます。この辺は真言密教と同じですが、中台八葉には何も描かれません。

胎蔵曼荼羅では、金剛界曼荼羅とは方角が違っている。

上=東、右=南、下=西、左=北

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初重(内側)-本尊・毘盧遮那如来とその脇侍に相当する金剛手菩薩と観世音菩薩、という三尊形式から発達した曼荼羅らしい構成。

(東)遍知院-一切遍知印(ཆོས་འབྱུང་ chos 'byung धर्मोदय Dharmodaya、一切諸仏の印)が描かれる。真言密教では頂点が上向き(上求菩提)だが、チベット密教では下向き(下化衆生)。この辺の違いは面白い。この部分は空白が多く、「余白恐怖症」の図像を見慣れた目には、少し居心地悪く感じる。

(南)金剛手院-金剛手菩薩 ཕྱག་ན་རྡོ་རྗེ་ phyag na rdo rje(持金剛 རྡོ་རྗེ་འཆང་ rdo rje 'chang)とその眷属
(西)持明院-金剛手院からはみ出た執金剛神十二尊。この辺もバランス悪く感じる。
(北)蓮華部院-観世音菩薩 སྤྱན་རས་གཟིགས་ spyan ras gzigsとその眷属

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二重

(東)釈迦院-釈迦如来 ཤ་ཀྱ་ཐུབ་པ་ sha kya thub paとその眷属
(南・西・北)外金剛部院-天部の諸神(もともとバラモン教/ヒンドゥ教の諸神)

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三重(外側)-八大菩薩から四尊。

(東)文殊院-文殊菩薩 འཇམ་དབྱངས་ 'jam dbyangsとその眷属
(南)除蓋障院-除蓋障菩薩 སྒྲིབ་པ་རྣམ་པར་སེལ་བ་ sgrib pa rnam par sel baとその眷属
(西)虚空蔵院-虚空蔵菩薩 ནམ་མཁའི་སྙིང་པོ་ nam mkha'i snying poとその眷属
(北)地蔵院-地蔵菩薩 སའི་སྙིང་པོ་ sa'i snying poとその眷属

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八大菩薩のうち、弥勒菩薩と普賢菩薩だけ現れないが、本来中台八葉に描かれているはず。この辺、チベット版はバランス悪いような気がする。今では比較的馴染みの薄い、除蓋障、虚空蔵、地蔵の諸菩薩が大きく取り上げられているのが面白いところだ。

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チベット密教の曼荼羅は、プトゥンの分類では、

(1)所作タントラの曼荼羅-如来・菩薩などの曼荼羅
(2)行タントラの曼荼羅-胎蔵曼荼羅
(3)瑜伽タントラの曼荼羅-金剛界曼荼羅、悪趣清淨曼荼羅、降三世曼荼羅など
(4)無上瑜伽タントラの曼荼羅-秘密集会曼荼羅、サンヴァラ曼荼羅、ヘーヴァジラ曼荼羅、カーラチャクラ曼荼羅など

に分けられ、この順に発達してきたと考えられている。

非常に整然とした金剛界曼荼羅(とその発展形)に比べると、胎蔵界曼荼羅は対称性をあまり気にしていないので、曼荼羅としての完成度は低いと感じるかもしれない。

しかし、これもまた観想儀式に利用するための実用品なのだ。儀式に都合がいいように諸尊が配置されているはずだ。見た目は大きな問題ではない。

陣内などはややシンプルなデザインで、金剛界曼荼羅にくらべると少し落ち着いた雰囲気を持つ曼荼羅である。

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富山県立山町にある立山博物館には、珍しいチベットの胎蔵曼荼羅が所蔵されているらしいのだが、常設で展示されているのやら、今もあるのやら、調べてもあまり資料が出てこない。素晴らしい曼荼羅らしいので、一度見たいものだ。

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チベット密教の曼荼羅の判別やその諸尊を調べるには、私は主に以下の資料を使っています。

(1) 田中公明 (1987.8) 『曼荼羅イコノロジー』. 315pp. 平河出版社, 東京.

ほとんどはこれで足りる。日本語によるチベット密教曼荼羅の基礎文献です。ホント役に立ちます。

シャトチャクラヴァルティン曼荼羅とか悪趣清浄金剛薩埵輪転王曼荼羅まで載っているので、現場でこれらマイナー曼荼羅を見つけた時も、おかげで判別できた。

(2) bSod nams rgya mstho+Musashi Tachikawa et al. (1989 & 91) THE NGOR MANDALAS OF TIBET (2 vols.)(Bibliotheca codicum Asiaticorum 2+4). xxxv+149pp. & xiv+245pp. Centre for East Asian Cultural Studies(ユネスコ東アジア文化研究センター), Tokyo. 

これは、サキャパ・ンゴルパの総本山ンゴル・ゴンパに伝わる曼荼羅群を集成したもの。英文、白黒。139点の曼荼羅を収録。

その原版となった

・ソナム・ギャムツォ (1983.12) 『西蔵曼荼羅集成』. 139pp. 講談社, 東京.

があまりに巨大(50cm四方)で扱いにくいため、簡略版として出版されたもの。前述のチベット胎蔵曼荼羅も収録。原版はカラーなのだが、縮刷版は白黒なのがちょっと残念。

(3) Raghu Vira+Lokesh Chandra(ed.) (1995) TIBETAN MANDALAS : VAJRAVALI AND TANTRA-SAMUCCAYA(Sata-pitaka Series, vol. 383). 270pp. International Academy of Indian Culture/Aditya Prakashan, New Delhi.

こちらは158点の曼荼羅を収録。

(2)(3)は、所作タントラの曼荼羅も豊富なので、シンプルな曼荼羅を調べる際にも使いでがある。

(1)~(3)を調べても出てこないような曼荼羅はまずない。とはいえ、あちこち調べていくと、そういう謎の曼荼羅にも出くわすんだからたまらん。今後の課題ですな。

(4)立川武蔵+正木晃・編 (1997.3) 『チベット仏教図像研究 ペンコルチューデ仏塔』(国立民族学博物館研究報告別冊, no.18). 379pp. 国立民族学博物館, 吹田(大阪).

ギャンツェのパンコル・チョルテンに描かれている曼荼羅集。

第5層(覆鉢)-瑜伽タントラ(金剛頂経系)
第6層(平頭)-無上瑜伽タントラのうち父タントラ(秘密集会系)
第7層(相輪下層)-無上瑜伽タントラのうち母タントラ(サンヴァラ系、ヘーヴァジラ系)

が描かれている。第5層では、ここでしか見られない珍しい曼荼羅が多く興味深い。

(5) Tenzin Namdak+Yasuhiko Nagano+Musashi Tachikawa (ed.) (2000) MANDALAS OF THE BON RELIGION : TRITAN NORBUTSE COLLECTION, KATHMANDU(Senri Ethnological Reports, no.12/Bon studies, no.1). xxxix+131pp. National Museum of Ethnology(国立民族学博物館), Osaka.

これは、これまでと文脈が変わって、ボン教の曼荼羅集である。チベット密教の曼荼羅に比べると、シンプルかつ抽象的なものが多い。尊像が描かれることがないのも特徴。

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なお、空想の館には、ネパール産の曼荼羅タンカが販売されているが、どれもTamang Mandalaであった。Kathmanduの土産物屋でよく見るやつですな。

Tamang Mandalaは、一応仏様が描いてあるものの、経典とは全く関係ないTamang人絵師によるオリジナル・デザイン。宗教的には何の意味もない単なる工芸品なので、購入の際にはそのつもりで。

奇抜なデザインが多く、ちょっとおもしろくはある。Tamang Mandalaもすでに歴史が長くなっているので、一度誰かまとめてほしいものだ。

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これで瞑想の郷に収蔵されている仏画・曼荼羅をひと通り見たわけだが、とにかく情報量が多いのが特徴。説明するだけでも、これだけ時間と手間がかかる。

通常の美術品の見方とは全く違った見方をする必要があることが、わかっていただけただろうか。

観覧するのに、隅々まで理解する必要はないけれど、知っていて観覧したほうが面白いのは間違いない。

一度見てから、チベット仏教図像学を勉強し、そして時間を置いてから再度観覧するのもいいだろう。前には見えなかったものが、そこで見えてくるはず。楽しいですよ。

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もう1回、街道沿いにあった建物を紹介。

2017年8月9日水曜日

富山・長野チベット巡礼 (3f) 利賀・瞑想の郷-その7

瞑想の館の隣りに立つ、三重塔が「瞑想美の館」。


瞑想美の館

1階には、福光美術館「デルゲ印経院木版仏画展」で展示されている142点のうち、重複分3点が展示されていた。

こんな感じで、少しずつ展示してでいいから、その展示品ごとの解説をコツコツと作ってほしい。10年くらいで全部の解説ができるんじゃないだろうか?

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2~3階吹き抜けには、

(5)南東壁 : 胎蔵曼荼羅 རྣམ་སྣང་མངོན་བྱང་གི་དཀྱིལ་འཁོར། rnam snang mngon byang gi dkyil 'khor/ गर्भमण्डल Garbha Mandala
(6)北西壁 : 金剛界曼荼羅 རྡོ་རྗེ་དབྱིངས་ཀྱི་དཀྱིལ་འཁོར། rdo rje dbyings kyi dkyil 'khor/ वज्रधातुमण्डल Vajradhatu Mandala

の2つの曼荼羅が向かい合って展示されている。


瞑想美の館の曼荼羅(瞑想の郷パンフレットを一部改変)

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この2枚は、1989~91年に描かれた「瞑想の館」の四枚の仏画・曼荼羅に続き、1994~97年にかけて、やはりShashi Dorjeさんによって描かれたものです。

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まず、わかりやすい(6)金剛界曼荼羅から。


トラチャン+田中(1997), p.12

この曼荼羅は、徹底的に対称性が保持されており、数学的というか幾何学的に非常に整然としている。理系の人には相性がいいかもしれない。

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中央の本尊は、もちろん毘盧遮那如来 རྣམ་པར་སྣང་མཛད་ rnam par snang mdzad वैरोचन Vairocana(白)。四面二臂のお姿です。

その周囲には、その眷属である四波羅蜜菩薩(女尊)が配されていますが、三昧耶形で描かれているので気づかないかもしれない。

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そしてその東南西北にはそれぞれ、

(東)阿閦如来 མི་བསྐྱོད་པ་ mi bskyod pa अक्षोभ्य Akshobhyaとその眷属
(南)宝生如来 རིན་ཆེན་འབྱུང་གནས་ rin chen 'byung gnas रत्नसम्भव Ratnasambhavaとその眷属
(西)阿弥陀如来 འོད་དཔག་མེད་ 'od dpag med अमिताभ Amitabhaとその眷属
(北)不空成就如来 དོན་ཡོད་གྲུབ་པ་ don yod grub pa अमोघसिद्धि Amoghasiddhiとその眷属

が並びます。

なお、金剛界曼荼羅では、

下=東、左=南、上=西、右=北

になっています。これは他の曼荼羅でもだいたい同じと考えて大丈夫です。

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内院、外院の四隅には、それぞれ四尊ずつ供養菩薩がいらしゃいます(八大供養菩薩)。また、東南西北の門衛として、忿怒形の四摂菩薩がいらっしゃいます。

全部で37尊。これは、三昧耶形の四波羅蜜菩薩を含む数え方になります。

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これをまとめると、以下の図のようになります。



これは、例によってヒマーチャル・ガイドブックのために作ったものでしたが、日の目を見ていないもの。Tabo Tsuglagkhang རྟ་བོ་གཙུག་ལག་ཁང་ rta bo gtsug lag khangの解説用図面の一部です。

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とても整然としているでしょう。Tabo Tsuglkagkhangに祀られている諸尊は、この金剛界曼荼羅の諸尊なのです。いわゆる立体曼荼羅です(楼閣形式ではありませんが)。


Tabo Tsugkagkhang

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また、外院を埋め尽くしているのは、賢劫千仏 བསྐལ་པ་བཟང་པོའི་སངས་རྒྱས་སྟོང་ bskal pa bzang po'i sangs rgyas stong。

現在が属する劫(བསྐལ་པ་ bskal pa कल्प Kalpa、1劫=数十億年)を「賢劫」と言います。大乗仏教では、過去の劫にも、現在の劫(賢劫)にも、未来の劫にも、たくさんの仏陀が現れた/現れる、と考えられています。その数は、各劫それぞれ千仏。

釈尊は賢劫では四番目の仏陀とされます。その賢劫に現れる千仏が外院に描かれているわけです。おそらく正確に千仏いらっしゃると思います。

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金剛界曼荼羅は、瑜伽タントラ経典である『金剛頂経 གསང་བ་རྣལ་འབྱོར་ཆེན་པོའི་རྒྱུད་རྡོ་རྗེ་རྩེ་མོ། gsang ba rnal 'byor chen po'i rgyud rdo rje rtse mo/ Vajrashekhara Mahaguhya Yogatantra』の思想・儀軌を図式化したもの。観想により諸尊を自己中に現出・同一化させ、さらに現出させた諸尊を供養する。その順番は厳密に定められており、それは曼荼羅に描かれたとおりに進められる。

というわけで、曼荼羅というものは観想という儀式実践のための実用品であって、飾っておいたり眺めているだけでは、役に立たない。

儀式を実践しないと意味がないわけだが、かといって本などを読んだだけでタントラの儀式を勝手に実践するなど、危険極まりない。顕教の修行を充分積んだと認定され、密教入門許可の儀式=灌頂を経た行者のみが、ラマの指導のもとで慎重に行われるものなのだ。

我々凡夫はそのような境地に至ることはできないので、せめて曼荼羅の意味を知っておくだけでいいでしょう。

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日本に伝来している金剛界曼荼羅は九つの曼荼羅が描かれたいわゆる「九会曼荼羅」だが、チベット仏教の金剛界曼荼羅はそのうちの「成身会曼荼羅」に相当する。

このへんの比較は、田中公明先生の著作を読んだほうがいいでしょう。

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金剛界曼荼羅の描き方にはいろんな流派があって、瞑想美の館に収蔵されている金剛界曼荼羅は、「आनन्दगर्भ Anandagarbha流」とのことです。

四隅に描かれたインド人僧のうち、向かって左上がAnandagarbha(9C?)です。右上がShakyamitra、右下がAbhayakaragupta、左下がBuddhaguhya。いずれも金剛界曼荼羅の流儀の創始者です。

このへんは解説を聞かないと、比定はむずかしいですね。

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この金剛界曼荼羅は、余白にもみっちりと文様が描かれ、非常に豪華なものになっています。現代曼荼羅壁画の最高峰と言っていいでしょう。

2017年8月5日土曜日

富山・長野チベット巡礼 (3e) 利賀・瞑想の郷-その6

「瞑想の館」の続き。

(3)極楽浄土図(阿弥陀如来)


トラチャン+田中(1997), p.8

こちらも日本でお馴染みの極楽浄土図=西方浄土図。もちろん本尊は阿弥陀如来 འོད་དཔག་མེད་ 'od dpag med。脇侍は向かって左が観世音菩薩 སྤྱན་རས་གཟིགས་ spyan ras gzigs、向かって右が金剛手菩薩 ཕྱག་ན་རྡོ་རྗེ་ phyag na rdo rje(大勢至菩薩 མཐུ་ཆེན་ཐོབ་ mthu chen thobと同体とみなされる)。

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その背後には十六羅漢 གནས་བརྟན་བཅུ་དྲུག gnas brtan bcu drug がずらりと並ぶ。壮観だ。

その両側に三尊ずついらっしゃる、宝幢などをかかげた六尊立像はよくわかりません。

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阿弥陀三尊の下両側に、三尊ずつ三角形を作っていらっしゃるのは、八大菩薩 ཉེ་སྲས་བརྒྱད་ nye sras brgyadのうち、観音、金剛手を除く六尊と思うが、それぞれの尊格比定はあんまり自信ない。

向かって左の三角形は、上段が文殊菩薩 འཇམ་དབྱངས་ 'jam dbyangs、下段向かって左側が弥勒菩薩 བྱམས་པ་ byams pa。下段向かって右側が地蔵菩薩 སའི་སྙིང་པོ་ sa'i snying po。

向かって右の三角形は、上段が普賢菩薩 ཀུན་ཏུ་བཟང་པོ་ kun tu bzang po、下段左側が除蓋障菩薩 སྒྲིབ་པ་རྣམ་པར་སེལ་བ་ sgrib pa rnam par sel ba 下段右側が虚空蔵菩薩 ནམ་མཁའི་སྙིང་པོ་ nam mkha'i snying po。

八大菩薩は、単独で描かれる時と八尊一緒に描かれる時で、色が変わったりするので、意外に比定がむずかしいのだ。

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最下段では、阿弥陀三尊と三部主尊が、有情を極楽へと導く光明を地上へと放っています。「これぞ大乗仏教」という絵ですね。

背景の宮殿はいやに和風に感じますが、それもそのはず。絵師Shashi Dorjeさんが、来日後京都・奈良のお寺を参拝し、それらを参考にしているのだそうです。より親しみがわきますね。

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一番上端、左手には珍しい黒帽ラマ。これは明らかにギャワ・カルマパ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་ rgyal ba karma pa(カルマ・カギュパの管長)なのですが、よくよく見ると、これは先代カルマパ16世ランジュン・リクペー・ドルジェ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་དྲུག་པ་རང་འབྱུང་རིག་པའི་རྡོ་རྗེ་ rgyal ba karma pa sku 'phreng bcu drug pa rang 'byung rig pa'i rdo rje師(1981年遷化)のような気がします。

というのも、この仏画が描かれた1989~91年には、17世はまだ見つかっていないから(1992年認定)。

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瞑想の館に収蔵されている四枚の曼荼羅/仏画を見てきたわけですが、レベルの高さに驚くばかりです。

観覧では館長が案内してくれますが、案内が終わっても居残ってもいいようなので、しばらく眺めていてもいいでしょう。瞑想の真似事をしてみるのも、またよし。

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鑑賞では、ここで説明したような尊格比定が必ずしも必要ではありませんが、分かっていた方がずっと面白いのは間違いありません。

これは宗教美術であって、絵の隅々まで意味の塊なのです。普通の美術鑑賞とはだいぶ見方が違ってきます。

それぞれの尊格が何かわかったところで、ようやく「この絵の意味は何か?」「仏教のどういう思想を表しているのか?」と考えるステージに立つことができるのです。

売店には、田中公明先生の仏教図像学の本も置いてありますから、それを見ながらもう一度ひと通り鑑賞してみるのもいいでしょう。

とにかくここの絵は密度が濃いので、仏教図像学の勉強には最適の場所です。

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次回は「瞑想美の館」に移ります。

まだツヅク

2017年8月3日木曜日

富山・長野チベット巡礼 (3d) 利賀・瞑想の郷-その5

「瞑想の館」の続き。

(2)(4)は密教の諸尊でしたが、(1)十一面千手観音像、(3)極楽浄土図(阿弥陀如来)は、顕教の諸尊なので、日本人にも馴染みが深く、ちょっとホッとするかもしれません。


トラチャン+田中(1997), p.10

(1)十一面千手観音像は、中央に大きく観世音菩薩 སྤྱན་རས་གཟིགས་ spyan ras gzigsを描き、向かって左手に文殊菩薩 འཇམ་དབྱངས་ 'jam dbyangs、向かって右手に金剛手菩薩 ཕྱག་ན་རྡོ་རྗེ་ phyag na rdo rje(大勢至菩薩 མཐུ་ཆེན་ཐོབ་ mthu chen thobと同体とみなされる)が描かれる。

この三尊の組み合わせは、三部主尊 རིགས་གསུམ་མགོན་པོ་ rigs gsum mgon poと呼ばれ、チベット仏教では最もポピュラーな図像です。

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本尊では十一面千手というお姿でしたが、その足元には四臂観音  སྤྱན་རས་གཟིགས་ཕྱག་བཞི་པ་ spyan ras gzigs phyag bzhi paのお姿も見えます。より親しみやすいお姿です。

その両側は観音菩薩の息子・娘らしいのですが、観音菩薩の描き方にもいろいろ流派があって、その中の「ソンツェン・ガンポ王流」に特有の尊格らしいです。このへんはよく知らない。

十一面千手観音の頭上には、観音菩薩の本地である阿弥陀如来が描かれます。観音菩薩は阿弥陀如来の属性のうち、慈悲の化身であるため、両者が一緒に描かれるケースが多いわけです。

「観音菩薩は阿弥陀如来の弟子」と解されることもあります。チベット仏教ゲルクパでは、ダライ・ラマは観音菩薩の化身、パンチェン・リンポチェは阿弥陀如来の化身とされます。

先代が遷化され、新しい化身が選ばれた時、両リンポチェの間に年齢差が生じている場合が多いです。その場合は、特にこの二大名跡のうちの年上の方が、年下を指導し協力しあうという特別な関係があります。

現在の政治状況がそれを許さないのは、実に残念。

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四隅の内、向かって左上はソンツェン・ガンポ王ではないかと思いますが、よくわかりません。

向かって右上は緑多羅菩薩 སྒྲོལ་མ་ལྗང་གུ sgrol ma ljang gu。

向かって右下はよくわかりません。こういった護法尊 ཆོས་སྐྱོང་ chos skyongも数が多くて、なかなか全部は把握できない。

向かって左下は毘沙門天(多聞天) རྣམ་ཐོས་སྲས་ rnam thos sras。四天王 རྒྱལ་ཆེན་བཞི་ rgyal chen bzhiの中から、この毘沙門天が単独で描かれるケースが多いです。その場合はでっぷりとした腹が特徴で、財宝神としての属性が強調された姿になります。

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各尊格を見て気づくのは、チベット仏教画のタッチではあるのだが、現代ヒンドゥ教大衆画の影響がかなり見られること。道端で売られていたり、どの民家でも貼られているアレですね。

そのスタイルは、19世紀のKerala出身の画家Raja Ravi Varma राजा रवि वर्मा (1848~1906)が発明したもので、西洋絵画の手法でヒンドゥ神画を描いていき、絶大な人気を得たものです。実はこれは、インド古来の絵画や、ミニアチュールの伝統とは全く断絶した絵なのです。

現代インドでは、どの宗教画家もVarma画法の模倣で描いているわけですが、様式化が著しく、まるで全部同じ画家が描いているかのように見えてしまいます。

その影響がチベット仏教画にまで及んでいるというのがおもしろいし、またそこがNepalらしいといえるかもしれません。

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Varmaについて、より詳しくは、

・長谷川明 (1987.11) 『インド神話入門』(とんぼの本). 119pp. 新潮社, 東京.
・ウィキペディア >ラヴィ・ヴァルマ(最終更新 2016年10月30日 (日) 21:48)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%9E

を見てほしい。

まだツヅク

2017年8月1日火曜日

富山・長野チベット巡礼 (3c) 利賀・瞑想の郷-その4

「瞑想の館」の続き。

(2)寂静四十二尊曼荼羅の対面には、それと対になる(3)忿怒五十八尊曼荼羅が展示されている。


トラチャン+田中(1997), p.6

本尊は、普賢チェチョク・ヘールカ父母仏 ཀུན་བཟང་ཆེ་མཆོག་ཧེ་རུ་ཀ་ཡབ་ཡུམ་ kun bzang che mchog he ru ka yab yum。寂静曼荼羅の本尊・普賢菩薩の忿怒形になります。よって、その真上に普賢父母仏が描かれているわけです

その周囲にヘールカ父母仏が五尊(ヤプユムなので十尊ですが)描かれています。これは寂静曼荼羅の金剛界五如来に対応しているわけです。

ここでも、金剛界曼荼羅などに顕著に見られる対称性を、あまり気にしない構成で、ニンマパ特有のもの。

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この曼荼羅のおもしろいところは、恐ろしい姿をした女神様たちが多数描かれているところだろう。

まず内院外郭にケウリマ ཀེའུ་རི་མ་ ke'u ri ma(Gauri गौरी)八尊、タメンマ ཕྲ་མེན་མ་ phra men ma(Dakini डाकिनी)八尊。いずれも瑜伽女(Dakini)の仲間たちで、特にタメンマはいずれも獣面であるのが目を引く。

更に外院にはずらりと獣面のワンチュクマ དབང་ཕྱུག་མ་ dbang phyug ma二十八尊。

楼閣形式の曼荼羅だと小さく描かれてしまうが、これが楼閣形式ではない形式だと、これらの瑜伽女方は大きく描かれるため、とても目を引く。色もカラフルだし。

その一部は前回も挙げた

2012年3月3日土曜日 ヒマーチャル小出し劇場(3) タシ・ポン(絵師タシ・ツェリン)
2015年10月23日金曜日 ヒマーチャル小出し劇場(28) 外国人なんか誰も来ないところへ行くと・・・

で見てほしい。

シト百尊曼荼羅の諸尊は、『チベット死者の書 བར་དོ་ཐོས་གྲོལ། bar do thos grol/』に現れる諸尊でもある。浦辻館長の案内では、曼荼羅も主にその線に沿って説明してくれます。

『チベット死者の書』についてはこちらもどうぞ↓。

2014年8月17日日曜日 『チベット死者の書』のチベット語スペル

なお、曼荼羅の外側の忿怒四尊は、頑張って調べないとわかりません。忿怒尊、特にニンマパの諸尊はむずかしいです。

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曼荼羅の背景はフラッシュのような縁取りが見られ、このへんは絵師のオリジナリティが発揮される部分です。20世紀の絵師らしいモダンな画面構成。

チベット仏教美術というのは、尊容や構成は経典によってガチガチに固定されて入るのですが、こういった余白部分は絵師の裁量に委ねられています。絵師の個性が出るところです。

ひと通り主題を鑑賞した後、こういった部分にも目を向けて、絵師の個性に思いを馳せるのもまた、チベット仏教美術館賞の醍醐味なのです。

ツヅク

2017年7月30日日曜日

富山・長野チベット巡礼 (3b) 利賀・瞑想の郷-その3

瞑想の館、瞑想美の館を観覧するには、入場料が必要です。勝手に入ることは出来ません。「瞑想の館」→「瞑想の美の館」の順に、ひと通り館長が案内してくれます。

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まずは山側に向かって左手(実際は中央)の「瞑想の館」から。


瞑想の館

入り口のそばにマニ車があるのがうれしい。4つだけだし、中にペチャ དཔེ་ཆ་ dpe cha 経典も入ってなさそうだったが。


瞑想の館 マニ車

しかし回廊の外枠内側にマニ車を設置されると、回廊を時計回りで回っているのに、マニ車を回す時は逆回りになるので困る。

まあ、ここは宗教施設ではないのであまり神経質になる必要はないのだが、チベットでのやり方が通用しないと、どうしても違和感が出てしまう。

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真ん中の階段/通路を挟んで2棟の三重塔(第2~第3層は吹き抜け)が連結したような建物だ。この辺の話をするにも、設計者の情報がほしいですね。

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1階にはヒンドゥ教神像がずらりと並ぶ。珍しいものはないが、日本でこれだけのヒンドゥ教神像を見る機会って、めったにないなあ、と思いつつ眺めていた。

日本の日常からチベット仏教世界へ旅立つ、その入口としてのヒンドゥ教神像というのは悪くないアイディアかも。実際、チベットへ行く時に、Nepal Kathmandu経由で行く人もかなりいるし、Tukucheへ行く際はもちろん、まずKathmanduが出発点だ。

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入り口から左手の棟、2~3階の吹き抜けは、田中公明先生がCGで再現した「ミトラ百種曼荼羅」。

2006年に瞑想の郷でお披露目されて以来、ずっとここで展示されているようだ。

・なんと-e.com > ブログ 2006年8月 > 2006/08/03 夏の企画展「ミトラの108曼荼羅」
http://www.nanto-e.com/blog-item-3668.html

その内容は、本としてまとまってもいます。

・田中公明 (2007.4) 『曼荼羅グラフィックス』. 136pp. 山川出版社, 東京.
https://www.yamakawa.co.jp/product/64026

この本は、瞑想の郷や福光美術館でも販売されていました。

しかしこの展示はかなり専門的なもので、説明つきで見ても理解は難しいと思う。尊格は省略されているので、つかみ所も少ないし。

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そして右手の棟の2~3階吹き抜けに曼荼羅・仏画4枚が収蔵されている。


瞑想の郷パンフレット1


瞑想の郷パンフレット2

壁四面、2mくらいの高さから上に、約4m四方の曼荼羅・仏画が展示されているのだ。すごい迫力。

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瞑想の館の曼荼羅・仏画(瞑想の郷パンフレットを一部改変)

正面に当たる南東壁から時計回りに紹介。

(1)南東壁 : 十一面千手観音像 སྤྱན་རས་གཟིགས་ཕྱག་སྟོང་སྤྱན་སྟོང་། spyan ras gzigs phyag stong spyan stong/
(2)南西壁 : 寂静四十二尊曼荼羅 ཞི་བ་བཞི་བཅུ་རྩ་གཉིས་ཀྱི་དཀྱིལ་འཁོར། zhi ba bzhi bcu rtsa gnyis kyi dlyil 'khor/
(3)北西壁 : 極楽浄土図 བདེ་ཅན་ཞིང་བཀོད། bde can zhing bkod/ (阿弥陀如来 འོད་དཔག་མེད། 'od dpag med/)
(4)北東壁 : 忿怒五十八尊曼荼羅 ཁྲོ་བོ་ལྔ་བཅུ་རྩ་བརྒྱད་ཀྱི་དཀྱིལ་འཁོར། khro bo lnga bcu rtsa brgyad kyi dkyil 'khor/

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(2)と(4)は、チベット仏教ニンマパに伝わる「シトー(寂静忿怒)百尊曼荼羅」を寂静四十ニ尊、忿怒五十八尊に分けて、曼荼羅に描いたもの。

ニンマパだけではなく、カギュパ諸派でも重要視されている。特にカルマ・カギュパ。

シトー百尊が、僧院・寺院の壁画として描かれる場合には、本尊を中心に諸尊がまとまって描かれるものの(それでも曼荼羅ではある)、このように曼荼羅らしく楼閣内に描かれることは比較的珍しい。

・2012年3月3日土曜日 ヒマーチャル小出し劇場(3) タシ・ポン(絵師タシ・ツェリン)

で書いたように、Kinnaurのゴンパではシトー百尊壁画が人気で、新しい壁画がどんどん描かれていたが、これらは楼閣形式ではなかった。

スペースの関係もある。楼閣形式で尊格の多い大型曼荼羅を、壁画として描くためには、かなり高く広い面が取れる壁が必要となるのだ。小さいゴンパが多いKinnaurではそれは難しいようだ。

ま、どちらの形式でも、観想に用いるのに不自由はない。

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トラチャン+田中(1997), p.4

(2)寂静四十二尊曼荼羅の本尊は、法身普賢父母仏 ཆོས་སྐུ་ཀུན་ཏུ་བཟང་པོ་ཡབ་ཡུམ་ chos sku kun tu bzang po yab yum。ニンマパでは普賢菩薩が本初仏。

その下には毘盧遮那父母仏 རྣམ་པར་སྣང་མཛད་ཡབ་ཡུམ་ rnam par snang mdzad yab yum。曼荼羅の中心に二尊(ヤプユムなので四尊になるが)というのは珍しく、おそらくチベット独自に発達した曼荼羅であると推測されている。

その周囲には、阿閦如来とその眷属五尊、宝生五尊、阿弥陀五尊、不空成就五尊が描かれ、金剛界曼荼羅に近い曼荼羅であることがわかる。

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その間には、上段は五部のダーキニー、五部の持明者、下段には六道の仏が描かれている。

こういった、対称性を少し崩した配置は、この曼荼羅独特のもの。

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こうして、描かれている諸尊を説明していくと、いつまでたっても終わらないので、詳しくは、

・サシ・ドージ・トラチャン・作画+解説, 田中公明・解説+訳 (1997.4) 『富山県利賀村 「瞑想の館」と「瞑想美の館」の仏画について』. 16pp. 利賀国際山村文化体験村(瞑想の郷), 利賀(富山).
(瞑想の郷で販売、あるいは配布されている小冊子)


・田中公明 (1987.8) 『曼荼羅イコノロジー 曼荼羅の歴史と発展について』. 315pp. 平河出版社, 東京.

を読んでほしい。

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寂静四十二尊曼荼羅の外側についても触れておこう。こういった余白に何を描くかは、儀軌には記されておらず、絵師の裁量に任されている。

ここでは、上段中央に阿弥陀如来、向かって左にはパドマサンバヴァとシャーンタラクシタ、向かって右にはカーマラシーラとティソン・デツェン。いずれも吐蕃時代の仏教導入に功があった祖師方。

下段は、向かって左が忿怒尊(ニンマパの忿怒尊は独特の尊格が多いので、調べるのに時間がかかるため、今はこれで勘弁して)、右がセンゲ・ドンマ(獅子面のダーキニー)。

とまあ、こちらもきりがないのでここまで。

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ほらね、これだけ書いても、一枚を中途半端にしか説明できない。いかに仏画の情報量が多いかわかってほしい。

さらに曼荼羅全体の意味や、どのように利用するかなど語り始めると、もういつまでたっても終わらないので、それぞれ解説書を読んでほしい。

ツヅク