2017年9月17日日曜日

ラスワ~キーロン・ルート開通

2015年4月のネパール大地震で、ネパールは大きな被害を蒙りました。

この地震による道路崩壊、土砂崩れなどで、ネパール~チベットの陸路ルート(कोदारी Kodari~འགྲམ་ 'gram ダム(障木 ザンムー))間も大きな被害に遭い通行不能となった。2017年9月現在もまだ通行止め。

こうなると、ネパール・チベット双方にとって、観光だけではなく交易にも悪影響が長引いているわけで、同ルートの復旧はもとより、代替ルートの開発も並行して行われてきました。

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それが一応開通までこぎつけたようです。

・The Guardian > travel > Will Coldwell/Nepal-Tibet border reopens to tourists after 2015 earthquake(Saturday 16 September 2017 11.00 BST)
https://www.theguardian.com/travel/2017/sep/16/tibet-nepal-border-road-reopens-after-earthquake-kathmandu-lhasa

Kerung-Kathmandu Highwayという名称。

Kathmanduから西に向かい、Trishuli Gadi त्रिशूली नदी 流域に入ります。Rasuwa郡 रसुवा जिल्लाに入りさらに北上。地震時に壊滅的な被害を受けたLangtang谷への分岐を過ぎると、国境の村 Rasuwa Ghadhi रसुवा गदी。Kathmanduから約130km。

ここから国境を越えてチベットに入ります。Trishuli Gadiが名を変えたキーロン・ツァンポ སྐྱིད་གྲོང་གཙང་པོ་ skyid grong gtsang po 吉隆藏布沿いに約20kmで吉隆県の県都キーロン སྐྱིད་གྲོང་ skyid grong 吉隆。Kerungと表記されているのは、このキーロンのことです。


Google Mapを一部改変

参考:

・ROYAL MOUNTAIN TRAVEL –NEPAL > blog > View Archive Here > May 2016 > First hand experience from Kerung – Kathmandu Highway.(Posted on May 30, 2016)
http://royalmt.com.np/blog/first-hand-experience-from-kerung-kathmandu-highway/

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公式には外国人旅行者にも開放されたことになっているようだが、今のところ開通しているのは、未舗装1車線の狭い道路だけなので、すぐに外国人旅行客が続々と行ける状況ではなさそう。ネパール側の道路状況もまだ悪いし。

キーロンはグンタン王国の王都だった場所だし、吐蕃時代から名が知れた場所なので、是非一度行ってみたい。

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しかし、この道路は中国の援助によって建設されたもの。当然、いざという時には軍用道路として使うつもりだ。

中国のネパールへの経済援助攻勢は、なかなかはげしい。このルート建設の意義についても、色々考えさせられます。

参考:

・谷川昌幸/ネパール評論 Nepal Review > ラサ-カトマンズ,道路も鉄道も(2014/08/11)
https://nepalreview.wordpress.com/2014/08/11/a-797/

2017年9月16日土曜日

ボン教管長メンリ・ティジン・リンポチェ遷化

ボン教を統率しておられるメンリ・ティジン・リンポチェが2017年9月14日に亡くなられました。享年87歳。

・西藏之声 > 文本存档 > 2017 年 九月 > 流亡藏人社区悼西藏雍仲本教領袖曼日赤增仁波切圓寂(九月 15, 2017)
http://www.vot.org/cn/%E6%B5%81%E4%BA%A1%E8%97%8F%E4%BA%BA%E7%A4%BE%E5%8C%BA%E6%82%BC%E8%A5%BF%E8%97%8F%E9%9B%8D%E4%BB%B2%E6%9C%AC%E6%95%99%E9%A2%86%E8%A2%96%E6%9B%BC%E6%97%A5%E8%B5%A4%E5%A2%9E%E4%BB%81%E6%B3%A2%E5%88%87/

謹んでご冥福をお祈りいたします。

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例によってHiamchalガイドブック草稿から、メンリ・ティジン・リンポチェについて。

メンリ・ティジン・ルントク・テンペイ・ニマ・リンポチェ སྨན་རི་ཁྲི་འཛིན་ལུང་རྟོགས་བསྟན་པའི་ཉི་མ་རིན་པོ་ཆེ། sman ri khri 'dzin lung rtogs bstan pa'i nyi ma rin po che/ (1929-2017)

第33代メンリ寺座主であり、ボン教全体を統括する管長でもある。法名サンギェ・テンジン སངས་རྒྱས་བསྟན་འཛིན་ sangs rgyas bstan 'dzin。

1929年、アムド南部ンガワ རྔ་བ་ rnga ba(現・四川省阿壩蔵族羌族自治州)東部のキャンツァン རྐྱང་ཚང་ rkyang tshang(松播県山巴 བསམ་པ་ bsam paの近郊)に生まれる。このあたりにはボン教徒、ボン教僧院が多く、古来ボン教の東の中心であった。

8歳で出家しボン教僧院キャンツァン・ゴンパで学ぶ。27歳でゲシェ(博士)号を獲得。キャンツァン寺の座主となったが間もなくその座を辞しメンリ寺、ユンドゥンリン寺に移った。

1959年、チベットが中国共産党に完全に制圧されると、サンギェ・テンジン師は他のボン教高僧らと共に、ネパールを経てインドに亡命した。

亡命後は、インドやネパールに残るボン教経典の収集に努めていたが、その途中でイギリス人チベット学者David Snellgroveと出会い、ロボン・テンジン・ナムダク・リンポチェ སློབ་དཔོན་བསྟན་འཛིན་རྣམ་དག་རིན་པོ་ཆེ་ slob dpon bstan 'dzin rnam dag rin po che、サムテン・カルメイ བསམ་གཏན་མཁར་རྨེའུ་ bsam gtan mkhar rme'u師と共にロンドン大学に招かれ、1962~64年はここで研究生活を送る。

1964~66年はダライ・ラマ法王の要請に応じインドに帰国し、Mussourieのチベット人学校長となる。さらに1967~69年にはオスロ大学に助教授として招かれた。

1969年、再建が始まったHimachal Pradesh州Solan県Dolanjのタシ・メンリリン・ゴンパ བཀྲ་ཤིས་སྨན་རི་གླིང་དགོན་པ་ bkra shis sman ri gling dgon paの第33代座主(メンリ・ティジン སྨན་རི་ཁྲི་འཛིན་ sman ri khri 'dzin)として迎えられ、インドへ帰国。その後は同寺の拡充に努め、僧の育成も進んだ。

欧米人学者と共にボン教研究にも尽力。ボン教に関する知見は一般にも広まり、怪しげな魔術的宗教と誤解されてきたボン教に対する理解も深まるようになった。

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(追記)@2017/09/16

英文の記事も出ているので、そちらも補足。

・Phayul.com > News > 15 September 2017 > Tenzin Monlam/Head of Bon Tradition 33rd Menri Trizin passes away (Friday, September 15, 2017 20:25)
http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=39541&article=Head+of+Bon+Tradition+33rd+Menri+Trizin+passes+away&t=1&c=1

Karakoram仏教、Kashmir仏教、Swat仏教の存在の軽さ

引き続き「新アジア仏教史シリーズ」(佼成出版社)を読んでいるわけですが、

・佼成出版社・編 (2010.10) 『文明・文化の交差点』(新アジア仏教史05 中央アジア). 469pp.+map. 佼成出版社, 東京.


装幀 : 間村純一, 撮影 : 李学亮

この本には、重大な欠落があります。

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おおまかに目次を当たってみると、

(1)013-061 山田明爾/第1章 インダス越えて 仏教の中央アジア
(2)067-112 橘堂晃一/第2章 東トルキスタンにおける仏教の受容とその展開
(3)119-158 松田和信/第3章 中央アジアの仏教写本
(4)165-215吉田豊/第4章 出土資料が語る宗教文化 イラン語圏の仏教を中心に
(5)221-257宮治昭/第5章 中央アジアの仏教美術
(6)264-316 蓮池利隆+山部能宣/第6章 仏教信仰と社会
(7)324-403 沖本克己+川崎ミチコ+濱田瑞美/第7章 敦煌 文献・文化・美術

(1)はガンダーラ~アフガニスタンを中心に解説。(2)は、タイトル通り東トルキスタンについて解説。(3)は主にアフガニスタン出土資料について解説。(4)は東西トルキスタンについて解説。

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ここで注目は(4)。

Afghanistan北部Bactriaまでは仏教遺跡が豊富なのだが、その北Sogdianaに入ると、とたんに仏教遺跡に乏しくなる。

まあ、まだ見つかっていないのだろう、と思い込んでいたが、さにあらず。

要するにソグドには組織的に仏教が伝播することはなく、仏教寺院やそれを支える僧侶を再生産できる教団は存在しなかった。
同書, p.176

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では、あれだけ仏教が栄えた東トルキスタンへは、どうやって伝わったのか?仏教はBactriaから、Sogdianaをほぼ素通りして東トルキスタンに入ったのか?

この本を読んだらそう思ってしまいますよね。だって他の重要ルートには、全く触れていないのだから。

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本blogでも何度も触れていますが、

・桑山正進 (1985.3) バーミヤーン大佛成立にかかわるふたつの道. 東方学報京都, no.57, pp.109-209.
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/66642/1/jic057_109.pdf

は、非常に重要な論文です。

2世紀から記録が残るインド僧・中国求法僧の中国~インド往来ルートを総ざらえすることで、「罽賓」の混乱の整理、中国~インド往来ルートの変化、Bamiyan石窟寺院群成立年代について論じています。

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大部ではありますが、終始エキサイティングな展開で、とても勉強になりました。

「罽賓」の混乱の整理については、

2009年9月29日火曜日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(24) 漢文史料に現れる「ブルシャ」その1 

の(注4)にも簡単にまとめてありますのでご参照あれ。

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その研究成果では、インドから東トルキスタンの交易ルートは時代によって以下のように変化した、と考察されています。

4~6世紀 : カラコルム・ルート(代表例 : 法顕)
6世紀以降 : ヒンドゥクシュ・ルート(代表例 : 玄奘)

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東トルキスタンに仏教が伝わった時期については、わかっていないことが多いのですが、ホータン(和田/于闐)には紀元前1世紀に伝わったとされます。そして、4~6世紀に東トルキスタン~中国の仏教は大きく発展します。

その主な仏教伝播ルートはSogdiana経由ではなく、当時のメイン交易ルートKarakoram経由だったのでしょう。

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上掲書(3)には、テーマの性格上、当然いわゆる「ギルギット写本」について言及があります。

「ギルギット写本」は、1931年にGilgit近郊NaupurのStupaから発見された、白樺樹皮に書写されたSanskrit語経典群。6~7世紀のものと推定されています。Schoyen Collectionが現れるまでは、世界で最も古い仏典写本でした。

しかし、(3)では、GilgitやKarakoramの仏教、どころかその地域についての解説が何もなく、まるで仏教とは縁遠い場所からの出土であるかのような印象を持たざるを得ません。

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Gilgitの近辺について、最も古く仏教の記録が残っているのは、法顕(東晋416)『法顕伝(仏国記)』

法顕がインドへ向かう途中、401年に葱嶺(Pamir)を超えて最初の国が陁歴でした。これは現在のDarelと考えられています。

陁歴では小乗仏教が栄えていたそうですが、なぜか弥勒菩薩の木造大仏があったといいます。

当時Gilgitは、すでに波倫/波路(Bolor)国として存在していたと思われるが、交易ルートから外れていたのか法顕は報告していません。

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Gilgitからは、先ほどの「ギルギット写本」や7世紀のものと推定される仏像銘文などが見つかっており、双方に共通した王名が現れるようになります。これがBolor国の「Patola Shahi朝」と呼ばれる王朝です。

7世紀後半になると、Bolor(Gilgit)は、中国史書では勃律の名で現れるようになります。当時の中心はBaltistanであったと考えられています。721年頃に、勃律は大勃律(Baltistan)と小勃律(Gilgit)に分裂します。

このうち大勃律は当時チベット高原から西方に領土を広げていた吐蕃領となりますが、小勃律は8世紀に唐と吐蕃の間で激しい争奪戦が繰り広げられます。

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とまあ、Karakoram、特にGilgitにおける仏教興隆の様子というのは断片的にしかわかっていないのですが、GandhalaあるいはKashmirから仏教伝播するルート上の国・町として、かなり仏教が栄えた地域だったのは間違いないでしょう。

しかし、上掲書では全く記述がないのです。

現在、Karakoramの仏教や歴史を研究している日本の研究者はいないのでしょう。しかし、欧米やインド、パキスタンでの研究をまとめた概説すらも、誰も書けないとは思えません。ここは「コラム」の形でもいいから、Karakoram仏教の重要性に触れておいてほしかった。

Karakoram仏教は、この本では、Gandhalaと東トルキスタンをつなぐミッシング・リンクになってしまったわけです。

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Karakoram仏教の、まるで存在しないかのような扱いもさることながら、同様にKashmir仏教、Swat仏教も上掲書では記述が一切ありません(Swatは地名としてだけ2度出てくるが)。

Kashmirは歴史が明らかになり、仏教の様子もわかってくるのは7世紀からです。

SwatはGandhalaと同時期のKushan朝時代から仏教が伝わっていましたが、特に8世紀頃に密教が栄えたことで有名です。チベット語で ཨོ་རྒྱན་ o rgyanと呼ばれるUddiyanaとはSwatのことでした。

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確かに、仏教の東トルキスタン~中国への伝播では、KashmirもSwatも直接大きな役割を果たしていないかもしれませんが、Karakoramへ繋がるルートの一部であったのは間違いありません。

この地域が無視されているせいで、仏教の東方伝来についても具体的なルートが今ひとつイメージがわきにくい、というのが上掲書の残念な点でした。

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この辺を、じっくり研究する人が出てほしいなあ。

TalibanがSwatあたりまでウロチョロしていてちょっと物騒ではあるけど、Burushaski語研究者・吉岡乾先生のように、毎年のように調査旅行に行っている人もいるんだし、是非、日本の仏教史研究のミッシング・リンクを埋める人が出てきてほしい。

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なお、Karakoramの歴史・仏教、特にチベットとの関わりについては、

2009年6月17日水曜日~2012年3月1日木曜日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(1)~(36)+おまけ3本

にまとめてありますので、ご参照あれ。

2017年9月9日土曜日

故Walter BeckerとHawaiiのチベット仏教

分家blogの

音盤テルトン > 2017年9月4日月曜日 追悼 Walter Becker

で紹介した、Steely Danの片割れで、先日惜しくも亡くなったWalter Beckerのソロ作

Walter Becker/11 TRACKS OF WHACK [Giant] pub.1994


Art Direction : Mick Haggerty

のお話です。

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このアルバムの3曲めに、Surf and/or Die という曲があります。

歌詞はきわめて難解で、はっきり言って、何言ってるかさっぱりわかりません。少なくとも「サーフィンできなきゃ死ぬ方がマシ!サーフィンできたら死んでもいい!」という歌ではない(笑)。

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で、この曲冒頭に何やらボワーンとDidjeriduみたいな低音が入っているが、すぐに消えて曲が始まる。だが、よく聴くと、この低音は曲の間中、控えめながらずっと鳴り続けているのだ。

間奏になると、これがチベット仏教の読経であることが、はっきりわかるようになる。

曲の後半は、この読経をバックに(おそらく)Dean Parksのギター・ソロが延々続くという妙な展開。エンディングは、かすかにマラカスは聞こえるものの、読経が主役に躍り出る。

歌詞の内容に、チベット仏教の思想らしきものは感じられないので、読経は効果音として用いられている、と思ってよさそう。

しかし、まっとうなRockにチベット仏教の読経という唐突感は、まあなんでしょうね。変な気持ちになります。

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クレジットを見ると、

Extra Special Thanks : ・・・(略)・・・ Chants and prayers of Tibetan lamas made possible by the blessing of Nechung Rimpoche. Hawaii lamas - Lama Tenzin, Lama Lobsang, Lama Pedor, Lama Jikmey. FREE TIBET.

とある。

というわけで、次はこのNechung Rinpocheを調べてみました。

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何のことはない。すぐに見つかった。

・THE NECHUNG FOUNDATION གནས་ཆུང་རྡོ་རྗེ་སྒྲ་དབྱངས་གླིང་། gnas chung rdo rje sgra dbyangs gling/ (since 2015) > About Us > Rinpoche / Nechung Rinpoche and his lineage
http://nechungfoundation.org/rinpoche.html

探してみたら、例のHimachalガイドブック草稿の段階で、すでに調べてあった。全く忘れていたよ。これを少し手直しして、ここに紹介しておこう。

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ネーチュン・リンポチェ གནས་ཆུངརིན་པོ་ཆེ། gnas chung rin po che/

ネーチュン・ゴンパ座主。ネーチュン・ゴンパは、ラサ郊外デプン・ゴンパ横にあるニンマパのゴンパ。

トランス状態となり、サムイェ寺護法神ペハル པེ་ཧར་ pe harの使いであるドルジェ・ダクデン རྡོ་རྗེ་སྒྲགས་ལདན་ rdo rje sgrags ldan=ネーチュン གནས་ཆུང་ gnas chungを憑依させ、ペハルの神託を伝える神降ろしネーチュン・クテン གནས་ཆུང་སྐུ་རྟེན་ gnas chung sku rtenの在所として有名。なお、ネーチュン・リンポチェとネーチュン・クテンは別人。

1960年前後に、ネーチュン・リンポチェもネーチュン・クテンも亡命し、ネーチュン・ゴンパは文化大革命中に破壊された。現在は再建されているが、リンポチェもクテンもいない状態で、活動は低調。

ネーチュン・ゴンパはDharamshalaのGanchen Kyishongでは、1984年に再建されている。

19世紀末、ニンマパ南流総本山のミンドルリン・ゴンパから、ウギェン・ティンレー・チューペル ཨོ་རྒྱན་འཕྲིན་ལས་ཆོས་དཔལ་ o rgyan 'phrin las chos dpalがネーチュン・ゴンパに移った。師は、8世紀グル・リンポチェの25人の弟子の一人ランド・コンチョク・チュンネー ལང་གྲོ་དཀོན་མཆོག་འབྱུང་གནས་ lang gro dkon mchog 'byung gnasの転生者と認定され、ネーチュン・ゴンパ座主となった。

その転生者の系譜が、ネーチュン・リンポチェと呼ばれ、代々ネーチュン・ゴンパ座主となっている。

2世トゥプテン・コンチョク ཐུབ་བསྟན་དཀོན་མཆོག thub bstan dkon mchog(1918-82)は、古典や占星術の大家として知られ、1950年代には北京で教鞭を執るなどもしたが、数カ月間投獄された事を機に、釈放後の1962年インド亡命。

2世は、ネーチュン・ゴンパから亡命したクテンや僧らと共に細々と活動を続けていた。1974年にはHawaiiに布教し、Nechung Dorjee Drayang Ling Buddhist Centreを設立した。しかし、新ネーチュン・ゴンパ完成を待たずに1982年に遷化した。

その転生者はなかなか見つからなかったが、1995年にようやくネーチュン・リンポチェ3世が認定され、インドとHawaiiで活動中。

3世は1985年ラサ生まれ。1993年インド亡命。1995年に3世として認定された。まだ若手のリンポチェである。

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Walter Beckerは、Steely Dan/GAUCHO [abc] pub.1980 完成後にHawaiiに移住。亡くなるまでずっとHawaiiを拠点にしていた。

Beckerがチベット仏教信者になっていたとは思わないが、何度かHawaiiのThe Nechung Foundationを訪れ、Nechung Rinpocheと関係が生じたのではないかと思われる。「FREE TIBET!」の文言も見えることから、少なくともチベットにシンパシーを持っているのは間違いない。

これ以上は調べても出てこないので、これまで。

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なお、The Nechung FoundationがあるのはHawaii島。

Hawaii諸島には、この他

・Kagyu Thegchen Ling(as of 2017/09/09)
http://www.ktlhonolulu.org/index.htm
O'ahu島。カルマ・カギュパ。カルー・リンポチェ(現在は3世)のゴンパ。

・Maui Darma Center(as of 2017/09/09)
http://mauidharmacenter.com/
Maui島。カルマ・カギュパ。こちらもカルー・リンポチェのゴンパ。

がある。意外でしょ。

Hawaiiに行かれる方は、こちらも行き先に含めてみてください。なお、私はHawaiiに行ったことはありません。

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またWalter Beckerに戻るが、Steely Danには、Bodhisattva という曲もある。これは2枚目のアルバム COUNTDOWN TO ECSTASY [abc] pub.1973 収録の1曲めだ。

ギター・ソロがフィーチャーされたバリバリのRockで、曲名がBodhisattvaというミスマッチ感がこれまたおもしろい。

歌詞は短く、西欧人が東洋の仏教にいだくあこがれを描くもの。というか、Donald Fagenがそんな素直な詞を書くはずもなく、なんかそういう西欧人を小馬鹿にしたような歌詞だ。

まあでも、この曲は上で述べたようにギター・サウンドを聞く曲になっているので、あんまり曲名に引きずられる必要はないだろう。

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なんだか、よくわからない話になっていますが、調べれば調べるほど、こういう色々な分野が渾然一体となって現れてくる瞬間が、調べものの醍醐味。

2017年9月6日水曜日

ラフの仏教、カレンの仏教

ここ最近、「新アジア仏教史シリーズ」(佼成出版社)を延々読んでいるのですが、

・林行夫・編集協力 (2011.1) 『静と動の仏教』(新アジア仏教史04 スリランカ・東南アジア). 525pp.+map. 佼成出版社, 東京.


装幀 : 間村純一, 撮影 : 田村仁

が驚きでした。

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この巻は、上座部仏教世界、すなわちスリランカ、東南アジア諸国(ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア)、それと雲南省南部を扱っています。

上座部仏教史はこれまで勉強したことがなかったので、先般の横浜ユーラシア文化館「タイ・山の民」展もあったことだし、ちょうどいい機会、ということで読んでいたわけです。

上座部仏教における各国の状況と影響関係が、詳しく記述されています。これまで漠然としかイメージをつかんでいなかったんですが、各国の上座部仏教世界での時空的な位置づけがかなり頭に入った。まさにこれは「仏教史」の本ですね。

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その中でも驚いた論考がこれ。

・片岡樹 (2011.1) 第8章 仏教、民俗宗教、少数民族. 『静と動の仏教』(新アジア仏教史04 スリランカ・東南アジア)所収. pp.383-413. 佼成出版社, 東京.

これは上座部仏教世界の辺境・中国雲南省~タイ北部の少数民族における仏教を取り上げた論考です。

といっても西双版納のタイ族の上座部仏教ではありません。この本では第7章で別途取り上げられています。

対象はなんとラフ(拉祜族)及びカレンの仏教です。

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これまでラフのことを「仏教徒」という切り口で見たことがなかったので、この論考に書かれていることは「目からうろこ」の連続。

18~20世紀ラフ族で巻き起こった、仏教化と仏教小国家興亡と蜂起の数々。年代順に整理してみよう。

(01)18C(雲南)-「緬(ミャンマー)僧(実はタイ系民族の僧)」を崇拝するラフが挙兵し清朝官憲と衝突。

(02)18C(雲南西南部・孟連)-上座部仏教僧侶中心の宗教反乱+ビルマ側ラフ兵の支援。

(03)19C初(雲南)-南柵仏・張輔国(漢人僧)が54カ村を支配し、ラフの半独立国家を樹立。最終的には清朝の軍事介入により滅亡。

(04)19C半ば(雲南西南部・ラフ地区)-漢人僧・王仏爺が崇拝を集める。超能力を持つと信じられ、伝説が多い。

(05)19C後半(雲南西南部・西盟)-三仏祖(西盟仏)(?~1888)が周辺諸民族を教化。死後、ラフ仏教教団は清朝により解体・弾圧される。

(06)1891(雲南西南部)-ラフ仏教徒の残党集団・五仏房夷の一斉蜂起。半年ほどで鎮圧。残党はビルマ国境でゲリラ戦。

(07)1903(雲南西南部・双江)-清朝に討伐されたラフ首領の遺児が「仙人」とともに挙兵。一時はタイ族領主(土司)を追放。

(08)1918(雲南西南部)-「主子(至高神グシャ)出現」の噂に基づき、「仙人」(07仙人とは別)の煽動による大反乱。民国政府行政官は引き上げ、無政府状態となる。

(09)1918頃?(ビルマ東部)-「イエス・キリスト降臨」の噂が広まる。

(10)1930年代(ビルマ東部・ムンサート)-マヘグシャ崇拝運動が反英反乱に発展。英軍により鎮圧される。

(11)1950~70年代(ビルマ)-モナグシャ(モナトボ/プチョン・ロン)が指導するラフの反政府活動。タイ側からのラフも参加。モナグシャの死後は、長男チャウが継ぐか、単なる麻薬軍閥化。

(12)1980年代(タイ最北部)-チャヌパヤが「モナグシャの再来」として、ラフの崇拝を集める。1989チャヌパヤはキリスト教に改宗。

(13)1990年代半ば(タイ最北部~ビルマ東部)-タイ系上座部仏教僧ブンチュム師が、予言者オパチャクの指導により、「モナグシャの再来」として、ラフの崇拝を集める。

こういった聖者崇拝が卓越した形、あるいは精霊信仰が変形した形での、ラフの仏教流行と反乱については、はじめて聞く話ばかりで、驚きっぱなしだ。

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本論考では、次にタイ北西部のカレンの仏教について述べる。これも、これまでカレンを「仏教徒」としてみたことがなかったので、驚くことばかりでした。

(14)19C前半(タイ北西部)-ユワ運動。至高神ユワがカレンに与えたはずだが失われた、とする神話上の「黄金の本」を「白い弟」が持ち帰り、それと共にユワも帰還し、未来仏が出現すると信じられた。1920年代、「白い弟」=白人宣教師と解され、カレンの間にキリスト教改宗が進む。

(15)19C(下ビルマ~タイ)-テコラン運動。ユワ運動と同様の「黄金の本」回復+未来仏出現カルト。隠遁僧が指導者となり、1960年代にはその七代目指導者。

(16)20C(タイ北部)-シーウィチャイ師がカレンの崇拝を集める。

(17)20C後半(タイ北部)-僧籍を剥奪された元僧侶が「白衣の聖者」としてカレンの崇拝を集める。

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上座部仏教に漢人の大乗仏教、そして聖者信仰、精霊信仰、土着の神話、さらにはキリスト教まで。

まさにsyncretism(宗教混淆)の極みだが、考えてみれば他の宗教の影響が皆無の宗教など存在しないのだ。日本に伝わった仏教にも、インド土着の信仰、中国の儒教、日本の民間信仰などが色濃く入り込み、日本独特の仏教風土が形成されている。

どの地域でも似たようなものだが、いずれの地域も「自分のとこの仏教が正統仏教」と主張するところがおもしろい。

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とにかくこれまで全く知らなかったラフ仏教の歴史に加え、色々な宗教・信仰が雨あられのように次々と降り注ぎ、もう読んでいてめまいがするほど。

著者の片岡先生は、ラフ民族誌、特にキリスト教の関係について研究されている方だが、このように仏教も視界に入れることで、とても深みのある論考が出現してしまった。どえらくエキサイティングな論考でした。

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(追記)@2017/09/09

上記論考の関連論文がweb上にありました。

・片岡樹 (2015.7) 山地からみたブンチュム崇拝現象 ラフの事例.東南アジア研究, vol.53, no.1, pp.100-136.
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/201484/1/jjsas_53%281%29_100.pdf
・片岡樹 (2014.3) 山地民ラフから見た東南アジアの王と国家. FIELDPLUS, no.11, pp.4-5.
http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/78063/1/field-11_p04-05_kai.pdf
・片岡樹 (2011.3) 跨境民・ラフ族. 中国21, no.34, pp.225-242.
https://aichiu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=7382&item_no=1&page_id=13&block_id=17

2017年8月28日月曜日

sro can続報

> Dasの辞書によると、「sro」はインド起源の単語だというが、その元の単語は見つけられなかった。

と書きましたが、なんとなくわかった。

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以前紹介した

・Klaus Glashoff / Spoken Sanskrit Dictionary VERSION 2(since 2005)(as of 2017/08/28)
http://spokensanskrit.org/

で探したところ、sro そのものはありませんでしたが、

श्रपयते shrapayate 料理する/汗をかかせる/熱する/炙る/焼く

これがいい線行っていそう。

पयते payate 行く/動く/増やす/豊富な/たくさんある

なので、どうやら

श्र shra 熱

の意味になりそうだが、これ単独では出てこない。接頭辞としてのみ現れるのかもしれない。

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チベット語に戻ると、Dasの辞書では、

སྲོ་ sro 熱情
    སྲོ་ཤི་བ་ sro shi ba 気が抜ける/意気消沈する
    ཐུགས་སྲོ་ thugs sro (西チベット)熱/激情/忿怒/怒り
    སྲོ་ཅན་ sro can (Jäshkeの辞書)怒り狂った/激怒した
སྲོ་བ་ sro ba 温める/暖める
    མེ་ལ་སྲོ་བ་ me la sro ba 火で暖まる
    ཉི་མ་ལ་སྲོ་བ་ nyi ma la sro ba 日で暖まる
    འཇམ་པའི་དྲོད་ཀྱིས་བུ་བསྲོ། 'jam pa'i drod kyis bu bsro/ (母の)穏やかな温かさで子は暖まる

とあります。

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こうして見ると、sro にはもともと「熱」という意味があり、それが

熱→熱情→怒り

と転じたようです。あるいは、

sro 熱→ thugs sro 熱情 → (thugs) sro 怒り

のように、意味の発展の上に、thugs(心)が省略された形、という解釈でもいいでしょう。

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これが中央チベットでは「古語」に当たるのかどうか知りませんが、「インド起源の言葉が主に西部チベットにだけ残っている」という状況は、例の「方言周圏論」(つまり古い言葉(あるいは文化)がある文化圏の周縁部にだけ残っている)が適用できそうな気もします。

いやあ、わずか1ページの1単語からいろんなことがわかった。楽しめました。

他の言語でも、同じような楽しみ方ができるはずです。

・吉岡乾・著, 西淑・イラスト (2017.8) 『なくなりそうな世界のことば』. 107pp. 創元社, 大阪.

からピックアップして、誰かやってみてください。

2017年8月26日土曜日

吉岡乾 『なくなりそうな世界のことば』

・吉岡乾・著, 西淑・イラスト (2017.8) 『なくなりそうな世界のことば』. 107pp. 創元社, 大阪.


デザイン : 近藤聡(明後日デザイン制作所)

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2009年6月17日水曜日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(1) ブルシャスキー語 
2015年12月5日土曜日 2015年11月29日(日)大学共同利用機関シンポジウム2015

で紹介した、おそらく日本でただ一人のブルシャスキー語研究者・吉岡乾(よしおかのぼる)先生の初著作です。初著作が絵本とは意外だった。

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この本、見つけるの苦労した。

まず「大きい本屋じゃないと、置いてないだろう」ということで、大型書店に行ったはいいが、それからが大変。

まず絵本のコーナー・・・ない。

「絵本とはいえ、どっちかというと大人向けかもな。するとまあ語学だろうな・・・」ということで、語学のコーナーへ・・・ない。

「文化人類学かな?」・・・ないっ。

「うーん困った」ということで、大型書店なら検索システムがある。それっ、検索っ!・・・在庫あり。おお、すごいぞ。

なになに、「在庫  ファンタジーの棚」だって?ファンタジー?なんか違うんじゃないかな・・・。

で、ファンタジーの棚を探したところ、そんなラベルの棚はないっ。

念のために「ラノベ」の棚に行ってみたが、当然ありませんね。

万策尽きて店員さんに訊いてみた。店員さんも首を傾げながら棚探索。

すると、ファンタジーのコーナーは「海外文学」の一角にあった。で、この本も無事ありました。

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しかし書店泣かせの本だ。

同じシリーズのE・F・サンダースの絵本も、米澤敬の絵本も同じ所にあった。版型が同じなので一緒に置きたくなる気持ちはわかるが、「サンダース絵本=外国文学」に引きずられて、外国文学でもファンタジーでもない本を一緒くたにされちゃ、誰も見つけられないよ。

著者のTwitterによると、著者自身は「ノベルス棚」で見つけたそうな。

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内容はタイトル通り。わかりやすい。

特徴としては、取り上げられている50言語のうち、ブルシャスキー語、シナー語をはじめ、カラコルム周辺の言語が7言語を占める点。著者の調査地域ですから、これは当然でしょうね。

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その中から、一つ紹介。

ラダック語「SROCAN ショチャン 怒りっぽい人、怒りんぼう」。


同書, p.44

「སྲོ་ཅན་ sro can」。チベット語ラサ方言では「ショチェン」ですが、ラダック語ではより字面に近く「ショチャン」と発音。

チベット語では「ཁྲོ་བ་ཅན་ khro ba can」で、ほぼ同じ意味になります。

チベット語でも「སྲོ་ sro」「སྲོ་ཅན་ sro can」という単語はありますが、あまり使われません。Dasの辞書によると、「sro」はインド起源の単語だというが、その元の単語は見つけられなかった。

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日本語の単語には直訳できない言葉が多く、すごく面白い。

・インドネシア・フローレス島ラマホロット語「DEBA' デゥバッ 手で触ってみるなど触覚を利用して何かを探す」

・カラコルム・ワヒー語「PURDUYUYN プルデュユーヴン 家畜に乳を出す気にさせる」

・シベリア・コリヤーク語「WINEKJEŃAJETGEL ウィヌクジュガージュトゥグル 7月末から8月初めに種雄トナカイが角を磨くときの暑さ」

なんか大好き。

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この本でちょっと残念なのは、人物画が各民族の衣装ではないこと。地域不明の服装ばかりで、各民族の特色が伝わってこない。

これは言語を紹介する本で、各民族の習俗を紹介する本ではないからかもしれないが、続編が出るようなら、その時はちょっと頑張って、各民族衣装の資料も探してほしい。

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評判はどうかな?と、Twitterで著者名で検索したところ、絶賛ですね。増刷かかるといいなあ。

ところで、本書に対する美辞麗句によるお褒めのtweetsの間に、著者自身による(お馴染みの)毒吐きまくりtweetsが挟まって出てくるのに爆笑。

これ、同一人物とは思わない人が多いかもしれない。吉岡先生らしくていいなあ。

2017年8月19日土曜日

横浜ユーラシア文化館「タイ・山の民を訪ねて1969~1974」展(3)

この展覧会がなぜ横浜ユーラシア文化館で開かれているかというと、まずこの横浜ユーラシア文化館の由来から。

この博物館は、横浜市民であった江上波夫先生(1906~2002)が横浜市に寄贈した文物・文献を展示し、また利用してもらうために2003年に開館されたもの。

江上先生は、上智大学西北タイ歴史・文化調査団の第3回調査(1973/12~1974/02)に参加されているのです。当時、江上先生は上智大学の教授。とはいえ、このあたりは江上先生は得意分野ではないので、あまり重要な役割ではなかったようですが。

とにかくそういう縁で、今回横浜ユーラシア文化館で、この展覧会が開催されたわけです。さすが、余裕のある自治体は羨ましいですねえ。

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タイ北部の少数民族地帯は、ずっと行きたいと思っているのだが、結局今まで一度も行っていない。ガイドブックや本などは結構たくさん持っているのだが。

その中から少し紹介。

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・地球の歩き方編集室・編 (1990.11) 『タイ北部 山岳民族を訪ねて』(地球の歩き方 FRONTIER 110). 119pp. ダイヤモンド・ビッグ社, 東京.


Art Director : 梅村城次

地球の歩き方シリーズ本編にはならない、行き先としてはまだマイナーな地域(1990年当時)のシリーズが「地球の歩き方FRONTIER」だった。このシリーズはすぐに消えた。

この中から本編に昇格した例も多い(ブータン、モンゴル、ベトナム、ラオスなど)が、これやパプア・ニューギニアなどは昇格できなかった。

この本の内容が、現在のタイ編にどの程度反映されているかは知らない。内容は、かなり気合の入っていて、写真、調査内容とも充実している。この地域では有名人である、三輪隆氏が大々的に協力しているせいもあろう。

もう古くなっている実用情報はさておき、今でも読み応えのある文章・写真・地図がてんこ盛りだ。

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類似本がその後出ていないこともあり、これをいまだに探している人も多いらしい。

ガイドブックってのは地位が低いですからね。古本業界でも大事にされていない。しかし、その分ひょんなとこで安く手に入る可能性もあるのだ。

探してる人頑張れ。これは苦労して入手する価値のある本です。

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表紙はカレンなのだが、ちょっと地味だったかな。タイ北部山岳民族といったら、インパクトがあるのはやっぱりアカでしょう。

というわけで中扉も挙げておきましょう。


同書, p.1

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お次はロンプラ。

・David Bradley (1991.11) THAI HILL TRIBES PHRASEBOOK ; 1ST EDITION (Language Survival Kit).181pp. Lonely Planet Publications, Howerton (Australia).



Bradley先生(1947~)は、Australia MelbourneにあるLa Trobe大学の言語学教授(当時も今も)。だからガイドブック/旅行用会話帳といって馬鹿にしてはいけない。相当にレベルが高い本なのだ。これも他に類書がないし。

ラフ語、アカ(ハニ)語、リス語、モン(ミャオ)語、ミエン(ヤオ)語の5言語会話と、カレン語などが少し紹介されている。

せいぜい数日の訪問・滞在ではほとんど利用価値はないのだが、片言でも現地の言葉をしゃべると「受け」が違う。早く現地に溶け込むには、まず言語を修得するのが一番なのだ。現地に腰を据えようという人にはもちろん必需品。

中国側のラフ語、ハニ語、リス語、ミャオ語、ヤオ語の会話帳というのもあまりいいのがないので、雲南や貴州でもある程度使えると思う。そういう使い方もしてみてほしい。

私も「地球の歩き方」のウイグル語会話帳をウズベキスタンで使ったら、かなり通じた(ウイグル語とウズベク語は、きわめて近縁のテュルク系言語)。

この本は1999年、2008年に改訂版が出ているらしい。意外に売れているのだな。

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さて、この上智大学調査隊だが、1973~74年の調査が最後になっている。

というのも、おそらく1974年にこの地域にクンサーが現れ、治安が悪化したせいではないかと思う。

中国国民党軍の残党であるクンサー(昆沙)は、第二次世界大戦後Burma東部Shan州で活動していた。しかしBurma政府によって1969年に逮捕された。

1974年、タイ政府の働きかけによりクンサーは釈放され、その後はタイ最北部に拠点を移した。で、この地帯は「黄金の三角地帯」と呼ばれ、クンサーが支配する麻薬(ケシ/阿片)栽培地帯となったのだった。

クンサーはさらに1985年にBurma側に拠点を移し、タイ最北部の治安も回復された。この地域に観光客が普通に訪れるようになったのは、その後のことのよう。

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民族学、言語学、少数民族好き、西南中国史に興味を持つ人々や、さらに、アレ好きな人、コレ好きな人など、様々な人々を魅了してやまないタイ最北部。

今回の展覧会は、そんな人々はもとより、これから行ってみようという人にもお勧めできる興味深い展覧会です。是非どうぞ。

2017年8月17日木曜日

横浜ユーラシア文化館「タイ・山の民を訪ねて1969~1974」展(2)

この展覧会では、タイ北部山岳民族の民族衣装、装飾品、農具、日用品、楽器などが、現地の写真とともに展示されています。

中国の雲南~貴州の諸民族の衣装や装飾品の美しさは有名なので、その分派であるタイ北部の諸民族の衣装・装飾品を見るのはなかなか楽しい。

最も漢化しているミエン(ヤオ)の民族衣装はちょっと地味だが、銀装飾品をジャラジャラ身につけたモン(ミャオ)、アカ(ハニ)の写真はやっぱり楽しい。

特にアカの女性は、膝を出した脚に脚絆をまくかわいい姿、そしてブランコに乗る面白い習俗で、人気だ。

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白鳥先生、そしてこの調査隊が最も興味を示したのは、ミエン(ヤオ)。ミエンについては、習俗の調査に加え、文献調査にも力を入れていた。

そこで発見したのが、「評皇券牒」。これは、ミエン(ヤオ)たちがまだ中国にいた時代、13世紀に南宋皇帝から与えられた特権や民族の由来を記す文書。

かつて一度は実際に発行されたのであろうが、現在残っているものはその実物ではなく、のちにミエン(ヤオ)たちが勝手に作ったものらしい。それでもミエン(ヤオ)の出自を示す貴重な資料に違いない。


『タイ・山の民を訪ねて1969~1974』図録, p.51

・白鳥芳郎 (1985.6) 『華南文化史研究』. 668+iv pp.+pls. 六興出版, 東京.

で一部見ていた「評皇券牒」をようやく見ることができた。といっても実物ではなく、巻物を写真に収めたものを巻物状に復元したものだったが。全編復元なので迫力ありますよ。

なお、前掲書には「評皇券牒」の全文があります。

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そう、ミエン(ヤオ)は、もともと中国の広西~貴州に住んでいた民族で、雲南~Laos/Myanmarを経てタイまで南下してきたのは100年前とまだ新しいのだ。だから、今でも漢語が話せたり読めたりする人がいる。

ミエン(ヤオ)だけではなく、モン(ミャオ)もリスもアカ(ハニ)もラフも、みな雲南から南下してきた民族だ。

それだけではない。実はミャンマー(ビルマ)人やタイ人も雲南から南下してきた民族なのだ。その時期は、およそ9~11世紀。東南アジアの「民族大移動」の時代といえる。民族大移動があるのは内陸ユーラシアだけではないのだ。

タイ北部の民族たちが南下してきたのは、それよりもずっと後だが、こういったダイナミックな動きは、小規模ながらいつの時代にもあったと思っていい。

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ミエン(ヤオ)は、中国でもタイでも焼畑農業を営む山岳民族。焼畑農業に適した山地を求めて、常に移動を繰り返したあげく、タイ北部にまで到達したらしい。移動の原動力は、政治的圧力ではなさそうだ。

ミエン(ヤオ)たちは神犬「槃瓠(ばんこ)」を祖と仰ぐ、犬トーテム民族。『後漢書』「南蛮西南夷伝」に、すでにこの神話が語られている。

(三皇五帝の帝嚳?)高辛氏が犬戎に攻められた際、「犬戎の呉将軍を討った者に賞金と王女を与える」とお触れを出したところ、高辛氏の飼い犬・槃瓠が将軍の首を咥えて持ってきた。王女は槃瓠に嫁ぎ、二人は山で暮らした。その間には六男六女が生まれ、その子孫が長沙武陵蛮(ヤオの先祖)である。

一方、「評皇券牒」には、

高辛氏→評皇、犬戎呉将軍→外国高王、槃瓠→盤護

と変えただけの同じ話が載っている。ここでは六男六女は、ミエン(ヤオ)の十二氏族の祖先となっている。

このように、ミエン(ヤオ)が中国古代から長江流域に住む武陵蛮の子孫であることは、ほぼ間違いない。また、その神話が二千年に渡り、そのまま保持されているのにも驚きだ。

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なお、この神話は日本にも入ってきて、滝沢馬琴が『南総里見八犬伝』の冒頭で、「伏姫と八房」エピソードとして翻案しているのも、皆さんご存知ですね。

また、名前は似ていますが、中国の世界創世神話に当たる巨人「盤古」とは、どういう関係にあるのかはわかっていません。どちらも中国南部で採集された神話なので、何らかの関係があると思われますが・・・。

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この展覧会では、ミエン(ヤオ)に関する展示が最も充実しており、これにはヤオ族文化研究所が大々的に協力しています。

・一般社団法人 ヤオ族文化研究所(since 2008)
http://www.yaoken.org/

これはもとも神奈川大学のプロジェクト研究所(2008年設立)であったものが、2015年に社団法人化されたものらしい。神奈川大学・廣田律子教授が所長。

研究者は全員他機関との兼任なので、学会/研究会に近いものと言えるかもしれない。だが、各研究者の研究成果を集約し、資料の保存・公開の器としては充分機能を果たしていると感じる。

しかし、ミエン/ヤオ専門の研究所が成立しているとは驚きである。

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今回の展示の補足ともいえる、展示「ヤオの神々」、映像「中国湖南省藍山県のヤオ族の儀礼」はヤオ族文化研究所の提供。

どちらもタイ北部ではなく、中国南部のヤオの調査記録である。見てみると非常に漢族文化/道教の影響の強いものだった。

しかしまた地味だなあ。このヤオを専門にしている研究者がまた、結構いるのにも驚いた。勉強になりました。

まだツヅク

2017年8月15日火曜日

由井格さんの東チベット写真展@長野県川上村

2017年7月10日月曜日 富山・長野チベット巡礼 (1) 東チベット写真展@長野県佐久市

で紹介した、由井格(ゆいいたる)さんの「東チベット写真展」の続報です。

・毎日新聞 > 地域 > 北信越 : 長野 > 人ふでがき : 武田博仁/中国・東チベット高地を踏査・研究 由井格さん/長野(2017年08月14日 10:47)
https://mainichi.jp/articles/20170814/ddl/k20/070/018000c

記事の内容は前回紹介したものとほぼ同様です。

2017年7月に佐久市臼田で開催した展覧会を、今は川上村文化センターで開催中です。会期は8月17日までと、あと2日しかありませんが、近くまで行く予定がある方は、ぜひこちらにも行ってみてください。写真も由井さんのお話も、おもしろいですよ。

2017年8月14日月曜日

横浜ユーラシア文化館「タイ・山の民を訪ねて1969~1974」展(1)

に行ってきました。

・横浜ユーラシア文化館 > 展覧会・イベント : 企画展 タイ・山の民を訪ねて1969~1974(as of 2017/08/11)
http://www.eurasia.city.yokohama.jp/exhibition/index.html

企画展 タイ・山の民を訪ねて1969~1974
会場 : 横浜ユーラシア文化館
住所 : 神奈川県横浜市中区日本大通12
会期 : 2017年7月15日(土)~9月24日(日)
休館日 : 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合火曜日)
開催時間 : 09:30~17:00(8/11、9/23は19:00まで)
観覧料 : 一般300円、小・中学生150円(常設展のみ 一般200円、小・中学生100円)
アクセス : みなとみらい線日本大通り駅3番出口すぐ/JR関内駅南口・市営地下鉄関内1番出口から徒歩約10分
■関連展示 : ミエン/ヤオの神々
■関連展示 : 中国湖南省藍山県のヤオ族の儀礼


同展チラシ1


同展チラシ2


同展チラシ3


同展チラシ4

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同展は、上智大学の調査団が1969~1974年に実施したタイ北部の山岳民族調査の資料を展示するもの。

調査は、

第1次調査 : 1969/11~1970/03
第2次調査 : 1971/10~1972/02
第3次調査 : 1973/12~1974/02

の3回実施されている。

中心となったのは、当時の上智大学教授・白鳥芳郎(1918~98)先生。なお、白鳥芳郎先生は、日本の東洋史学の創始者である白鳥庫吉(1865~1942)の孫に当たる。

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・木田歩 (2006.9) 南山大学人類学博物館所蔵上智大学西北タイ歴史・文化調査団コレクション. 『2005年度 生態史プロジェクト報告書』所収. pp.374-379. 総合地球環境学研究所, 京都.
https://chikyu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=583&item_no=1&page_id=13&block_id=69

によると、これらの資料は2000年、上智大学から南山大学人類学博物館に寄贈された。上智大学では関係者が退職し、充分な保管体制が取れないことから、白鳥先生が晩年に客員/非常勤研究員をされていた南山大学に寄贈されたものらしい。

ほぼ死蔵状態にあった資料が、このような形で陽の目を見ることは実に嬉しい。

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これは図録

・横浜ユーラシア文化館・編 (2017.7) 『タイ・山の民を訪ねて1969~1974』(シリーズ ユーラシアの造形). 80pp. 横浜ユーラシア文化館, 横浜.


同書, 表1

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その中から、調査地と調査対象の諸民族を示す地図を紹介しておこう。


同書, 表2


同書, 表3

登場する諸民族は、いわゆるタイ北部山岳民族(Hill Tribes)で、

(1) (フ)モン Hmong=中国の苗(ミャオ)族
(2) ミエン Mien=中国の瑶(ヤオ)族
(3) アカ Akha=中国の哈尼(ハニ)族
(4) リス Lisu=中国の傈僳(リス)族
(5) カレン Karen=MyanmarのKaren
(6) ラフ Lahu=中国の拉祜(ラフ)族

特にChaing Raiの北、LaosやMyanmarとの国境地帯、いわゆる「黄金の三角地帯 Golden Triangle」のモン(ミャオ)、ミエン(ヤオ)、アカ(ハニ)の資料が多い。

ツヅク

2017年8月12日土曜日

富山・長野チベット巡礼 (3h) 利賀・瞑想の郷-その9

街道沿い、スターフォレスト利賀(旧・小学校)の広場(元・校庭)を挟んで、小川の土手にNepal風の三重塔が立っている。



これももちろん利賀村-Tukuche村友好と関係ある建物だろう。2004年完成の建物らしい。

しかし、山奥の街道沿いで、いきなりこんなNepal建築に出くわすと、意外すぎてめまいがしてくる。

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特に何かがあるというわけではなく、いわば豪華な四阿(あずまや)である。しかし八方の柱には女神立像の木彫が置かれ、Nepalらしい佇まい。



ちゃんと調べたわけではないが、これらはNepalで崇拝されている「八母神 अष्ट मातृका Ashta Matrka」であろう。ヒンドゥ教の神々である。

八母神について詳しくは、

・立川武蔵 (1990.6) 『女神たちのインド』. 321pp. ありな書房, 東京.

を見てほしい。

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三重塔は吹き抜けになっていて、天井には曼荼羅が。蜘蛛の巣だらけなのがちょっと残念。まあこれだけ高いところにあると、掃除も大変なんだろうけど・・・。



これは瞑想の郷にもある、金剛界曼荼羅である。ただし、天井に描かれる際には、実際の方位に合わせて、東西が逆になっているので注意。

Himachalでもよく見かける、Kankani རྐང་གཉིས་ rkang gnyis ゲート・チョルテンの天井に曼荼羅が描かれているのと同じ。Kathmandu盆地のNewar建築とKali Gandakiのチベット文化の折衷様式といえる。

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三重塔の隣りにはもうひとつ建物があり、ささやかながらマニ車が3つと孔雀窓。



マニ車は、10も20も盛大に並んでいて、歩きながらガラガラ回すのが楽しいのだが、こう数個並んでいるだけだと、かえって寂しい気持ちになる。

しかし、日本でマニ車が回せるだけでもありがたい。久々にマニ車を回せて、少し気持ちが落ち着きました(日頃もう、マニ車を回したくて回したくて)。

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とまあ、数日の旅行をまとめるのに1ヶ月かかってしまったわけですが、それだけ濃い内容の旅行でした。

福光美術館「デルゲ印経院チベット木版仏画展」は8月20日まで開催されていますので、みなさんもぜひ行ってみてください。瞑想の郷も、冬は閉鎖なので行くなら今が一番いい。

あとこれも近くなので、誰か立山博物館にも行って、胎蔵曼荼羅の存在について、調べてきてほしいものだ。

2017年8月11日金曜日

富山・長野チベット巡礼 (3g) 利賀・瞑想の郷-その8

最後は(5)胎蔵曼荼羅


トラチャン+田中(1997), p.14

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真言密教では、胎蔵曼荼羅+金剛界曼荼羅で両界曼荼羅として重要視されますが、実はチベット仏教では、胎蔵曼荼羅の作例は非常にまれ。

『大日経 རྣམ་པར་སྣང་མཛད་ཆེན་པོ་མངོན་པར་རྫོགས་པར་བྱང་ཆུབ་པ་རྣམ་པར་སྤྲུལ་པ་བྱིང་གྱིས་རླབ་པ་ཤིན་ཏུ་རྒྱས་པ་མདོ་སྡེའི་དབང་པའི་རྒྱལ་པོ་ཤེས་བྱ་བའི་ཆོས་ཀྱི་རྣམ་གྲངས། rnam par snang mdzad chen po mngon par rdzogs par byang chub pa rnam par sprul pa bying gyis rlab pa shin tu rgyas pa mdo sde'i dbang pa'i rgyal po shes bya ba'i chos kyi rnam grangs/ महावैरोचनतन्त्र Mahavairocanatantra』は、8世紀にチベットにもたらされ、毘盧遮那如来と八大菩薩を合わせて崇拝する信仰が流行した。吐蕃時代には、この毘盧遮那如来と八大菩薩の図像例がかなりある。

しかし楼閣状に諸尊を配置した、いわゆる曼荼羅の形式では、チベットではほとんど描かれなかった。

私は壁画やタンカでの実物は一度も見たことがない。印刷物でも、知ってるのはせいぜい「ンゴル曼荼羅集」収録のものと、立山博物館所蔵のものくらい。

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そのせいもあり、Shashi Dorjeさんがこの胎蔵曼荼羅を描く際にも不明な点が多く、かなり苦労したという。結局いろいろな経典や資料から「復元した」という形となった。もちろん田中公明先生の研究がもとになっている。

・田中公明 (1982.3) 西蔵の胎蔵曼荼羅について. 日本西蔵学会々報, vol.28, pp.14-16.
https://projects.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=274491&item_no=1&page_id=13&block_id=21
→ 増補改訂 : (1996.8) 第2章 チベットの胎蔵曼荼羅について. 『インド チベット曼荼羅の研究』所収. pp.46-65. 法藏館, 京都.
・田中公明 (2003.3) チベットにおける胎蔵大日如来と胎蔵曼荼羅の伝承と作例について. 頼富本宏・編 『聖なるものの形と場』(国際シンポジウム18, 2001)所収. pp.39-54. 国際日本文化研究センター, 京都.
→ 再録 : 頼富本宏・編 (2004.3) 『聖なるものの形と場』. 法藏館, 京都.
http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/kosh/2003-03-31/s001/s009/pdf/article.pdf

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この曼荼羅を復元するにあたって、あちこちから作例も集めたらしいが、一致しない点がかなりあるらしい。チベットではあまり描かれる機会もなかったので仕方ないが。

瞑想の郷で、アムドから取り寄せた胎蔵曼荼羅(新作)も見せてもらった。概略らしく、かなりシンプルな構成だった。いちいち比較していないので、展示されているものとの違いはわからないが、ラブラン・ゴンパ周辺では、今も胎蔵曼荼羅の伝統が残っていることがわかって面白い。

最近では、ここの胎蔵曼荼羅が基準になってしまったらしく、新しい作例はみなこの曼荼羅の影響を受けているという。進化におけるボトルネック効果ですな。

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そういうわけで、胎蔵曼荼羅についてはよく知らないので、ごく簡単に紹介。

本尊は金剛界曼荼羅と同じく毘盧遮那如来 རྣམ་པར་སྣང་མཛད་ rnam par snang mdzad वैरोचन Vairocana。一面ニ臂。色はここでは黄色だ。中台八葉に囲まれます。この辺は真言密教と同じですが、中台八葉には何も描かれません。

胎蔵曼荼羅では、金剛界曼荼羅とは方角が違っている。

上=東、右=南、下=西、左=北

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初重(内側)-本尊・毘盧遮那如来とその脇侍に相当する金剛手菩薩と観世音菩薩、という三尊形式から発達した曼荼羅らしい構成。

(東)遍知院-一切遍知印(ཆོས་འབྱུང་ chos 'byung धर्मोदय Dharmodaya、一切諸仏の印)が描かれる。真言密教では頂点が上向き(上求菩提)だが、チベット密教では下向き(下化衆生)。この辺の違いは面白い。この部分は空白が多く、「余白恐怖症」の図像を見慣れた目には、少し居心地悪く感じる。

(南)金剛手院-金剛手菩薩 ཕྱག་ན་རྡོ་རྗེ་ phyag na rdo rje(持金剛 རྡོ་རྗེ་འཆང་ rdo rje 'chang)とその眷属
(西)持明院-金剛手院からはみ出た執金剛神十二尊。この辺もバランス悪く感じる。
(北)蓮華部院-観世音菩薩 སྤྱན་རས་གཟིགས་ spyan ras gzigsとその眷属

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二重

(東)釈迦院-釈迦如来 ཤ་ཀྱ་ཐུབ་པ་ sha kya thub paとその眷属
(南・西・北)外金剛部院-天部の諸神(もともとバラモン教/ヒンドゥ教の諸神)

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三重(外側)-八大菩薩から四尊。

(東)文殊院-文殊菩薩 འཇམ་དབྱངས་ 'jam dbyangsとその眷属
(南)除蓋障院-除蓋障菩薩 སྒྲིབ་པ་རྣམ་པར་སེལ་བ་ sgrib pa rnam par sel baとその眷属
(西)虚空蔵院-虚空蔵菩薩 ནམ་མཁའི་སྙིང་པོ་ nam mkha'i snying poとその眷属
(北)地蔵院-地蔵菩薩 སའི་སྙིང་པོ་ sa'i snying poとその眷属

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八大菩薩のうち、弥勒菩薩と普賢菩薩だけ現れないが、本来中台八葉に描かれているはず。この辺、チベット版はバランス悪いような気がする。今では比較的馴染みの薄い、除蓋障、虚空蔵、地蔵の諸菩薩が大きく取り上げられているのが面白いところだ。

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チベット密教の曼荼羅は、プトゥンの分類では、

(1)所作タントラの曼荼羅-如来・菩薩などの曼荼羅
(2)行タントラの曼荼羅-胎蔵曼荼羅
(3)瑜伽タントラの曼荼羅-金剛界曼荼羅、悪趣清淨曼荼羅、降三世曼荼羅など
(4)無上瑜伽タントラの曼荼羅-秘密集会曼荼羅、サンヴァラ曼荼羅、ヘーヴァジラ曼荼羅、カーラチャクラ曼荼羅など

に分けられ、この順に発達してきたと考えられている。

非常に整然とした金剛界曼荼羅(とその発展形)に比べると、胎蔵界曼荼羅は対称性をあまり気にしていないので、曼荼羅としての完成度は低いと感じるかもしれない。

しかし、これもまた観想儀式に利用するための実用品なのだ。儀式に都合がいいように諸尊が配置されているはずだ。見た目は大きな問題ではない。

陣内などはややシンプルなデザインで、金剛界曼荼羅にくらべると少し落ち着いた雰囲気を持つ曼荼羅である。

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富山県立山町にある立山博物館には、珍しいチベットの胎蔵曼荼羅が所蔵されているらしいのだが、常設で展示されているのやら、今もあるのやら、調べてもあまり資料が出てこない。素晴らしい曼荼羅らしいので、一度見たいものだ。

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チベット密教の曼荼羅の判別やその諸尊を調べるには、私は主に以下の資料を使っています。

(1) 田中公明 (1987.8) 『曼荼羅イコノロジー』. 315pp. 平河出版社, 東京.

ほとんどはこれで足りる。日本語によるチベット密教曼荼羅の基礎文献です。ホント役に立ちます。

シャトチャクラヴァルティン曼荼羅とか悪趣清浄金剛薩埵輪転王曼荼羅まで載っているので、現場でこれらマイナー曼荼羅を見つけた時も、おかげで判別できた。

(2) bSod nams rgya mstho+Musashi Tachikawa et al. (1989 & 91) THE NGOR MANDALAS OF TIBET (2 vols.)(Bibliotheca codicum Asiaticorum 2+4). xxxv+149pp. & xiv+245pp. Centre for East Asian Cultural Studies(ユネスコ東アジア文化研究センター), Tokyo. 

これは、サキャパ・ンゴルパの総本山ンゴル・ゴンパに伝わる曼荼羅群を集成したもの。英文、白黒。139点の曼荼羅を収録。

その原版となった

・ソナム・ギャムツォ (1983.12) 『西蔵曼荼羅集成』. 139pp. 講談社, 東京.

があまりに巨大(50cm四方)で扱いにくいため、簡略版として出版されたもの。前述のチベット胎蔵曼荼羅も収録。原版はカラーなのだが、縮刷版は白黒なのがちょっと残念。

(3) Raghu Vira+Lokesh Chandra(ed.) (1995) TIBETAN MANDALAS : VAJRAVALI AND TANTRA-SAMUCCAYA(Sata-pitaka Series, vol. 383). 270pp. International Academy of Indian Culture/Aditya Prakashan, New Delhi.

こちらは158点の曼荼羅を収録。

(2)(3)は、所作タントラの曼荼羅も豊富なので、シンプルな曼荼羅を調べる際にも使いでがある。

(1)~(3)を調べても出てこないような曼荼羅はまずない。とはいえ、あちこち調べていくと、そういう謎の曼荼羅にも出くわすんだからたまらん。今後の課題ですな。

(4)立川武蔵+正木晃・編 (1997.3) 『チベット仏教図像研究 ペンコルチューデ仏塔』(国立民族学博物館研究報告別冊, no.18). 379pp. 国立民族学博物館, 吹田(大阪).

ギャンツェのパンコル・チョルテンに描かれている曼荼羅集。

第5層(覆鉢)-瑜伽タントラ(金剛頂経系)
第6層(平頭)-無上瑜伽タントラのうち父タントラ(秘密集会系)
第7層(相輪下層)-無上瑜伽タントラのうち母タントラ(サンヴァラ系、ヘーヴァジラ系)

が描かれている。第5層では、ここでしか見られない珍しい曼荼羅が多く興味深い。

(5) Tenzin Namdak+Yasuhiko Nagano+Musashi Tachikawa (ed.) (2000) MANDALAS OF THE BON RELIGION : TRITAN NORBUTSE COLLECTION, KATHMANDU(Senri Ethnological Reports, no.12/Bon studies, no.1). xxxix+131pp. National Museum of Ethnology(国立民族学博物館), Osaka.

これは、これまでと文脈が変わって、ボン教の曼荼羅集である。チベット密教の曼荼羅に比べると、シンプルかつ抽象的なものが多い。尊像が描かれることがないのも特徴。

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なお、空想の館には、ネパール産の曼荼羅タンカが販売されているが、どれもTamang Mandalaであった。Kathmanduの土産物屋でよく見るやつですな。

Tamang Mandalaは、一応仏様が描いてあるものの、経典とは全く関係ないTamang人絵師によるオリジナル・デザイン。宗教的には何の意味もない単なる工芸品なので、購入の際にはそのつもりで。

奇抜なデザインが多く、ちょっとおもしろくはある。Tamang Mandalaもすでに歴史が長くなっているので、一度誰かまとめてほしいものだ。

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これで瞑想の郷に収蔵されている仏画・曼荼羅をひと通り見たわけだが、とにかく情報量が多いのが特徴。説明するだけでも、これだけ時間と手間がかかる。

通常の美術品の見方とは全く違った見方をする必要があることが、わかっていただけただろうか。

観覧するのに、隅々まで理解する必要はないけれど、知っていて観覧したほうが面白いのは間違いない。

一度見てから、チベット仏教図像学を勉強し、そして時間を置いてから再度観覧するのもいいだろう。前には見えなかったものが、そこで見えてくるはず。楽しいですよ。

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もう1回、街道沿いにあった建物を紹介。

2017年8月9日水曜日

富山・長野チベット巡礼 (3f) 利賀・瞑想の郷-その7

瞑想の館の隣りに立つ、三重塔が「瞑想美の館」。


瞑想美の館

1階には、福光美術館「デルゲ印経院木版仏画展」で展示されている142点のうち、重複分3点が展示されていた。

こんな感じで、少しずつ展示してでいいから、その展示品ごとの解説をコツコツと作ってほしい。10年くらいで全部の解説ができるんじゃないだろうか?

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2~3階吹き抜けには、

(5)南東壁 : 胎蔵曼荼羅 རྣམ་སྣང་མངོན་བྱང་གི་དཀྱིལ་འཁོར། rnam snang mngon byang gi dkyil 'khor/ गर्भमण्डल Garbha Mandala
(6)北西壁 : 金剛界曼荼羅 རྡོ་རྗེ་དབྱིངས་ཀྱི་དཀྱིལ་འཁོར། rdo rje dbyings kyi dkyil 'khor/ वज्रधातुमण्डल Vajradhatu Mandala

の2つの曼荼羅が向かい合って展示されている。


瞑想美の館の曼荼羅(瞑想の郷パンフレットを一部改変)

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この2枚は、1989~91年に描かれた「瞑想の館」の四枚の仏画・曼荼羅に続き、1994~97年にかけて、やはりShashi Dorjeさんによって描かれたものです。

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まず、わかりやすい(6)金剛界曼荼羅から。


トラチャン+田中(1997), p.12

この曼荼羅は、徹底的に対称性が保持されており、数学的というか幾何学的に非常に整然としている。理系の人には相性がいいかもしれない。

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中央の本尊は、もちろん毘盧遮那如来 རྣམ་པར་སྣང་མཛད་ rnam par snang mdzad वैरोचन Vairocana(白)。四面二臂のお姿です。

その周囲には、その眷属である四波羅蜜菩薩(女尊)が配されていますが、三昧耶形で描かれているので気づかないかもしれない。

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そしてその東南西北にはそれぞれ、

(東)阿閦如来 མི་བསྐྱོད་པ་ mi bskyod pa अक्षोभ्य Akshobhyaとその眷属
(南)宝生如来 རིན་ཆེན་འབྱུང་གནས་ rin chen 'byung gnas रत्नसम्भव Ratnasambhavaとその眷属
(西)阿弥陀如来 འོད་དཔག་མེད་ 'od dpag med अमिताभ Amitabhaとその眷属
(北)不空成就如来 དོན་ཡོད་གྲུབ་པ་ don yod grub pa अमोघसिद्धि Amoghasiddhiとその眷属

が並びます。

なお、金剛界曼荼羅では、

下=東、左=南、上=西、右=北

になっています。これは他の曼荼羅でもだいたい同じと考えて大丈夫です。

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内院、外院の四隅には、それぞれ四尊ずつ供養菩薩がいらしゃいます(八大供養菩薩)。また、東南西北の門衛として、忿怒形の四摂菩薩がいらっしゃいます。

全部で37尊。これは、三昧耶形の四波羅蜜菩薩を含む数え方になります。

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これをまとめると、以下の図のようになります。



これは、例によってヒマーチャル・ガイドブックのために作ったものでしたが、日の目を見ていないもの。Tabo Tsuglagkhang རྟ་བོ་གཙུག་ལག་ཁང་ rta bo gtsug lag khangの解説用図面の一部です。

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とても整然としているでしょう。Tabo Tsuglkagkhangに祀られている諸尊は、この金剛界曼荼羅の諸尊なのです。いわゆる立体曼荼羅です(楼閣形式ではありませんが)。


Tabo Tsugkagkhang

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また、外院を埋め尽くしているのは、賢劫千仏 བསྐལ་པ་བཟང་པོའི་སངས་རྒྱས་སྟོང་ bskal pa bzang po'i sangs rgyas stong。

現在が属する劫(བསྐལ་པ་ bskal pa कल्प Kalpa、1劫=数十億年)を「賢劫」と言います。大乗仏教では、過去の劫にも、現在の劫(賢劫)にも、未来の劫にも、たくさんの仏陀が現れた/現れる、と考えられています。その数は、各劫それぞれ千仏。

釈尊は賢劫では四番目の仏陀とされます。その賢劫に現れる千仏が外院に描かれているわけです。おそらく正確に千仏いらっしゃると思います。

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金剛界曼荼羅は、瑜伽タントラ経典である『金剛頂経 གསང་བ་རྣལ་འབྱོར་ཆེན་པོའི་རྒྱུད་རྡོ་རྗེ་རྩེ་མོ། gsang ba rnal 'byor chen po'i rgyud rdo rje rtse mo/ Vajrashekhara Mahaguhya Yogatantra』の思想・儀軌を図式化したもの。観想により諸尊を自己中に現出・同一化させ、さらに現出させた諸尊を供養する。その順番は厳密に定められており、それは曼荼羅に描かれたとおりに進められる。

というわけで、曼荼羅というものは観想という儀式実践のための実用品であって、飾っておいたり眺めているだけでは、役に立たない。

儀式を実践しないと意味がないわけだが、かといって本などを読んだだけでタントラの儀式を勝手に実践するなど、危険極まりない。顕教の修行を充分積んだと認定され、密教入門許可の儀式=灌頂を経た行者のみが、ラマの指導のもとで慎重に行われるものなのだ。

我々凡夫はそのような境地に至ることはできないので、せめて曼荼羅の意味を知っておくだけでいいでしょう。

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日本に伝来している金剛界曼荼羅は九つの曼荼羅が描かれたいわゆる「九会曼荼羅」だが、チベット仏教の金剛界曼荼羅はそのうちの「成身会曼荼羅」に相当する。

このへんの比較は、田中公明先生の著作を読んだほうがいいでしょう。

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金剛界曼荼羅の描き方にはいろんな流派があって、瞑想美の館に収蔵されている金剛界曼荼羅は、「आनन्दगर्भ Anandagarbha流」とのことです。

四隅に描かれたインド人僧のうち、向かって左上がAnandagarbha(9C?)です。右上がShakyamitra、右下がAbhayakaragupta、左下がBuddhaguhya。いずれも金剛界曼荼羅の流儀の創始者です。

このへんは解説を聞かないと、比定はむずかしいですね。

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この金剛界曼荼羅は、余白にもみっちりと文様が描かれ、非常に豪華なものになっています。現代曼荼羅壁画の最高峰と言っていいでしょう。

2017年8月5日土曜日

富山・長野チベット巡礼 (3e) 利賀・瞑想の郷-その6

「瞑想の館」の続き。

(3)極楽浄土図(阿弥陀如来)


トラチャン+田中(1997), p.8

こちらも日本でお馴染みの極楽浄土図=西方浄土図。もちろん本尊は阿弥陀如来 འོད་དཔག་མེད་ 'od dpag med。脇侍は向かって左が観世音菩薩 སྤྱན་རས་གཟིགས་ spyan ras gzigs、向かって右が金剛手菩薩 ཕྱག་ན་རྡོ་རྗེ་ phyag na rdo rje(大勢至菩薩 མཐུ་ཆེན་ཐོབ་ mthu chen thobと同体とみなされる)。

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その背後には十六羅漢 གནས་བརྟན་བཅུ་དྲུག gnas brtan bcu drug がずらりと並ぶ。壮観だ。

その両側に三尊ずついらっしゃる、宝幢などをかかげた六尊立像はよくわかりません。

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阿弥陀三尊の下両側に、三尊ずつ三角形を作っていらっしゃるのは、八大菩薩 ཉེ་སྲས་བརྒྱད་ nye sras brgyadのうち、観音、金剛手を除く六尊と思うが、それぞれの尊格比定はあんまり自信ない。

向かって左の三角形は、上段が文殊菩薩 འཇམ་དབྱངས་ 'jam dbyangs、下段向かって左側が弥勒菩薩 བྱམས་པ་ byams pa。下段向かって右側が地蔵菩薩 སའི་སྙིང་པོ་ sa'i snying po。

向かって右の三角形は、上段が普賢菩薩 ཀུན་ཏུ་བཟང་པོ་ kun tu bzang po、下段左側が除蓋障菩薩 སྒྲིབ་པ་རྣམ་པར་སེལ་བ་ sgrib pa rnam par sel ba 下段右側が虚空蔵菩薩 ནམ་མཁའི་སྙིང་པོ་ nam mkha'i snying po。

八大菩薩は、単独で描かれる時と八尊一緒に描かれる時で、色が変わったりするので、意外に比定がむずかしいのだ。

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最下段では、阿弥陀三尊と三部主尊が、有情を極楽へと導く光明を地上へと放っています。「これぞ大乗仏教」という絵ですね。

背景の宮殿はいやに和風に感じますが、それもそのはず。絵師Shashi Dorjeさんが、来日後京都・奈良のお寺を参拝し、それらを参考にしているのだそうです。より親しみがわきますね。

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一番上端、左手には珍しい黒帽ラマ。これは明らかにギャワ・カルマパ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་ rgyal ba karma pa(カルマ・カギュパの管長)なのですが、よくよく見ると、これは先代カルマパ16世ランジュン・リクペー・ドルジェ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་དྲུག་པ་རང་འབྱུང་རིག་པའི་རྡོ་རྗེ་ rgyal ba karma pa sku 'phreng bcu drug pa rang 'byung rig pa'i rdo rje師(1981年遷化)のような気がします。

というのも、この仏画が描かれた1989~91年には、17世はまだ見つかっていないから(1992年認定)。

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瞑想の館に収蔵されている四枚の曼荼羅/仏画を見てきたわけですが、レベルの高さに驚くばかりです。

観覧では館長が案内してくれますが、案内が終わっても居残ってもいいようなので、しばらく眺めていてもいいでしょう。瞑想の真似事をしてみるのも、またよし。

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鑑賞では、ここで説明したような尊格比定が必ずしも必要ではありませんが、分かっていた方がずっと面白いのは間違いありません。

これは宗教美術であって、絵の隅々まで意味の塊なのです。普通の美術鑑賞とはだいぶ見方が違ってきます。

それぞれの尊格が何かわかったところで、ようやく「この絵の意味は何か?」「仏教のどういう思想を表しているのか?」と考えるステージに立つことができるのです。

売店には、田中公明先生の仏教図像学の本も置いてありますから、それを見ながらもう一度ひと通り鑑賞してみるのもいいでしょう。

とにかくここの絵は密度が濃いので、仏教図像学の勉強には最適の場所です。

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次回は「瞑想美の館」に移ります。

まだツヅク

2017年8月3日木曜日

富山・長野チベット巡礼 (3d) 利賀・瞑想の郷-その5

「瞑想の館」の続き。

(2)(4)は密教の諸尊でしたが、(1)十一面千手観音像、(3)極楽浄土図(阿弥陀如来)は、顕教の諸尊なので、日本人にも馴染みが深く、ちょっとホッとするかもしれません。


トラチャン+田中(1997), p.10

(1)十一面千手観音像は、中央に大きく観世音菩薩 སྤྱན་རས་གཟིགས་ spyan ras gzigsを描き、向かって左手に文殊菩薩 འཇམ་དབྱངས་ 'jam dbyangs、向かって右手に金剛手菩薩 ཕྱག་ན་རྡོ་རྗེ་ phyag na rdo rje(大勢至菩薩 མཐུ་ཆེན་ཐོབ་ mthu chen thobと同体とみなされる)が描かれる。

この三尊の組み合わせは、三部主尊 རིགས་གསུམ་མགོན་པོ་ rigs gsum mgon poと呼ばれ、チベット仏教では最もポピュラーな図像です。

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本尊では十一面千手というお姿でしたが、その足元には四臂観音  སྤྱན་རས་གཟིགས་ཕྱག་བཞི་པ་ spyan ras gzigs phyag bzhi paのお姿も見えます。より親しみやすいお姿です。

その両側は観音菩薩の息子・娘らしいのですが、観音菩薩の描き方にもいろいろ流派があって、その中の「ソンツェン・ガンポ王流」に特有の尊格らしいです。このへんはよく知らない。

十一面千手観音の頭上には、観音菩薩の本地である阿弥陀如来が描かれます。観音菩薩は阿弥陀如来の属性のうち、慈悲の化身であるため、両者が一緒に描かれるケースが多いわけです。

「観音菩薩は阿弥陀如来の弟子」と解されることもあります。チベット仏教ゲルクパでは、ダライ・ラマは観音菩薩の化身、パンチェン・リンポチェは阿弥陀如来の化身とされます。

先代が遷化され、新しい化身が選ばれた時、両リンポチェの間に年齢差が生じている場合が多いです。その場合は、特にこの二大名跡のうちの年上の方が、年下を指導し協力しあうという特別な関係があります。

現在の政治状況がそれを許さないのは、実に残念。

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四隅の内、向かって左上はソンツェン・ガンポ王ではないかと思いますが、よくわかりません。

向かって右上は緑多羅菩薩 སྒྲོལ་མ་ལྗང་གུ sgrol ma ljang gu。

向かって右下はよくわかりません。こういった護法尊 ཆོས་སྐྱོང་ chos skyongも数が多くて、なかなか全部は把握できない。

向かって左下は毘沙門天(多聞天) རྣམ་ཐོས་སྲས་ rnam thos sras。四天王 རྒྱལ་ཆེན་བཞི་ rgyal chen bzhiの中から、この毘沙門天が単独で描かれるケースが多いです。その場合はでっぷりとした腹が特徴で、財宝神としての属性が強調された姿になります。

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各尊格を見て気づくのは、チベット仏教画のタッチではあるのだが、現代ヒンドゥ教大衆画の影響がかなり見られること。道端で売られていたり、どの民家でも貼られているアレですね。

そのスタイルは、19世紀のKerala出身の画家Raja Ravi Varma राजा रवि वर्मा (1848~1906)が発明したもので、西洋絵画の手法でヒンドゥ神画を描いていき、絶大な人気を得たものです。実はこれは、インド古来の絵画や、ミニアチュールの伝統とは全く断絶した絵なのです。

現代インドでは、どの宗教画家もVarma画法の模倣で描いているわけですが、様式化が著しく、まるで全部同じ画家が描いているかのように見えてしまいます。

その影響がチベット仏教画にまで及んでいるというのがおもしろいし、またそこがNepalらしいといえるかもしれません。

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Varmaについて、より詳しくは、

・長谷川明 (1987.11) 『インド神話入門』(とんぼの本). 119pp. 新潮社, 東京.
・ウィキペディア >ラヴィ・ヴァルマ(最終更新 2016年10月30日 (日) 21:48)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%9E

を見てほしい。

まだツヅク

2017年8月1日火曜日

富山・長野チベット巡礼 (3c) 利賀・瞑想の郷-その4

「瞑想の館」の続き。

(2)寂静四十二尊曼荼羅の対面には、それと対になる(3)忿怒五十八尊曼荼羅が展示されている。


トラチャン+田中(1997), p.6

本尊は、普賢チェチョク・ヘールカ父母仏 ཀུན་བཟང་ཆེ་མཆོག་ཧེ་རུ་ཀ་ཡབ་ཡུམ་ kun bzang che mchog he ru ka yab yum。寂静曼荼羅の本尊・普賢菩薩の忿怒形になります。よって、その真上に普賢父母仏が描かれているわけです

その周囲にヘールカ父母仏が五尊(ヤプユムなので十尊ですが)描かれています。これは寂静曼荼羅の金剛界五如来に対応しているわけです。

ここでも、金剛界曼荼羅などに顕著に見られる対称性を、あまり気にしない構成で、ニンマパ特有のもの。

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この曼荼羅のおもしろいところは、恐ろしい姿をした女神様たちが多数描かれているところだろう。

まず内院外郭にケウリマ ཀེའུ་རི་མ་ ke'u ri ma(Gauri गौरी)八尊、タメンマ ཕྲ་མེན་མ་ phra men ma(Dakini डाकिनी)八尊。いずれも瑜伽女(Dakini)の仲間たちで、特にタメンマはいずれも獣面であるのが目を引く。

更に外院にはずらりと獣面のワンチュクマ དབང་ཕྱུག་མ་ dbang phyug ma二十八尊。

楼閣形式の曼荼羅だと小さく描かれてしまうが、これが楼閣形式ではない形式だと、これらの瑜伽女方は大きく描かれるため、とても目を引く。色もカラフルだし。

その一部は前回も挙げた

2012年3月3日土曜日 ヒマーチャル小出し劇場(3) タシ・ポン(絵師タシ・ツェリン)
2015年10月23日金曜日 ヒマーチャル小出し劇場(28) 外国人なんか誰も来ないところへ行くと・・・

で見てほしい。

シト百尊曼荼羅の諸尊は、『チベット死者の書 བར་དོ་ཐོས་གྲོལ། bar do thos grol/』に現れる諸尊でもある。浦辻館長の案内では、曼荼羅も主にその線に沿って説明してくれます。

『チベット死者の書』についてはこちらもどうぞ↓。

2014年8月17日日曜日 『チベット死者の書』のチベット語スペル

なお、曼荼羅の外側の忿怒四尊は、頑張って調べないとわかりません。忿怒尊、特にニンマパの諸尊はむずかしいです。

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曼荼羅の背景はフラッシュのような縁取りが見られ、このへんは絵師のオリジナリティが発揮される部分です。20世紀の絵師らしいモダンな画面構成。

チベット仏教美術というのは、尊容や構成は経典によってガチガチに固定されて入るのですが、こういった余白部分は絵師の裁量に委ねられています。絵師の個性が出るところです。

ひと通り主題を鑑賞した後、こういった部分にも目を向けて、絵師の個性に思いを馳せるのもまた、チベット仏教美術館賞の醍醐味なのです。

ツヅク

2017年7月30日日曜日

富山・長野チベット巡礼 (3b) 利賀・瞑想の郷-その3

瞑想の館、瞑想美の館を観覧するには、入場料が必要です。勝手に入ることは出来ません。「瞑想の館」→「瞑想の美の館」の順に、ひと通り館長が案内してくれます。

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まずは山側に向かって左手(実際は中央)の「瞑想の館」から。


瞑想の館

入り口のそばにマニ車があるのがうれしい。4つだけだし、中にペチャ དཔེ་ཆ་ dpe cha 経典も入ってなさそうだったが。


瞑想の館 マニ車

しかし回廊の外枠内側にマニ車を設置されると、回廊を時計回りで回っているのに、マニ車を回す時は逆回りになるので困る。

まあ、ここは宗教施設ではないのであまり神経質になる必要はないのだが、チベットでのやり方が通用しないと、どうしても違和感が出てしまう。

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真ん中の階段/通路を挟んで2棟の三重塔(第2~第3層は吹き抜け)が連結したような建物だ。この辺の話をするにも、設計者の情報がほしいですね。

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1階にはヒンドゥ教神像がずらりと並ぶ。珍しいものはないが、日本でこれだけのヒンドゥ教神像を見る機会って、めったにないなあ、と思いつつ眺めていた。

日本の日常からチベット仏教世界へ旅立つ、その入口としてのヒンドゥ教神像というのは悪くないアイディアかも。実際、チベットへ行く時に、Nepal Kathmandu経由で行く人もかなりいるし、Tukucheへ行く際はもちろん、まずKathmanduが出発点だ。

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入り口から左手の棟、2~3階の吹き抜けは、田中公明先生がCGで再現した「ミトラ百種曼荼羅」。

2006年に瞑想の郷でお披露目されて以来、ずっとここで展示されているようだ。

・なんと-e.com > ブログ 2006年8月 > 2006/08/03 夏の企画展「ミトラの108曼荼羅」
http://www.nanto-e.com/blog-item-3668.html

その内容は、本としてまとまってもいます。

・田中公明 (2007.4) 『曼荼羅グラフィックス』. 136pp. 山川出版社, 東京.
https://www.yamakawa.co.jp/product/64026

この本は、瞑想の郷や福光美術館でも販売されていました。

しかしこの展示はかなり専門的なもので、説明つきで見ても理解は難しいと思う。尊格は省略されているので、つかみ所も少ないし。

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そして右手の棟の2~3階吹き抜けに曼荼羅・仏画4枚が収蔵されている。


瞑想の郷パンフレット1


瞑想の郷パンフレット2

壁四面、2mくらいの高さから上に、約4m四方の曼荼羅・仏画が展示されているのだ。すごい迫力。

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瞑想の館の曼荼羅・仏画(瞑想の郷パンフレットを一部改変)

正面に当たる南東壁から時計回りに紹介。

(1)南東壁 : 十一面千手観音像 སྤྱན་རས་གཟིགས་ཕྱག་སྟོང་སྤྱན་སྟོང་། spyan ras gzigs phyag stong spyan stong/
(2)南西壁 : 寂静四十二尊曼荼羅 ཞི་བ་བཞི་བཅུ་རྩ་གཉིས་ཀྱི་དཀྱིལ་འཁོར། zhi ba bzhi bcu rtsa gnyis kyi dlyil 'khor/
(3)北西壁 : 極楽浄土図 བདེ་ཅན་ཞིང་བཀོད། bde can zhing bkod/ (阿弥陀如来 འོད་དཔག་མེད། 'od dpag med/)
(4)北東壁 : 忿怒五十八尊曼荼羅 ཁྲོ་བོ་ལྔ་བཅུ་རྩ་བརྒྱད་ཀྱི་དཀྱིལ་འཁོར། khro bo lnga bcu rtsa brgyad kyi dkyil 'khor/

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(2)と(4)は、チベット仏教ニンマパに伝わる「シトー(寂静忿怒)百尊曼荼羅」を寂静四十ニ尊、忿怒五十八尊に分けて、曼荼羅に描いたもの。

ニンマパだけではなく、カギュパ諸派でも重要視されている。特にカルマ・カギュパ。

シトー百尊が、僧院・寺院の壁画として描かれる場合には、本尊を中心に諸尊がまとまって描かれるものの(それでも曼荼羅ではある)、このように曼荼羅らしく楼閣内に描かれることは比較的珍しい。

・2012年3月3日土曜日 ヒマーチャル小出し劇場(3) タシ・ポン(絵師タシ・ツェリン)

で書いたように、Kinnaurのゴンパではシトー百尊壁画が人気で、新しい壁画がどんどん描かれていたが、これらは楼閣形式ではなかった。

スペースの関係もある。楼閣形式で尊格の多い大型曼荼羅を、壁画として描くためには、かなり高く広い面が取れる壁が必要となるのだ。小さいゴンパが多いKinnaurではそれは難しいようだ。

ま、どちらの形式でも、観想に用いるのに不自由はない。

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トラチャン+田中(1997), p.4

(2)寂静四十二尊曼荼羅の本尊は、法身普賢父母仏 ཆོས་སྐུ་ཀུན་ཏུ་བཟང་པོ་ཡབ་ཡུམ་ chos sku kun tu bzang po yab yum。ニンマパでは普賢菩薩が本初仏。

その下には毘盧遮那父母仏 རྣམ་པར་སྣང་མཛད་ཡབ་ཡུམ་ rnam par snang mdzad yab yum。曼荼羅の中心に二尊(ヤプユムなので四尊になるが)というのは珍しく、おそらくチベット独自に発達した曼荼羅であると推測されている。

その周囲には、阿閦如来とその眷属五尊、宝生五尊、阿弥陀五尊、不空成就五尊が描かれ、金剛界曼荼羅に近い曼荼羅であることがわかる。

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その間には、上段は五部のダーキニー、五部の持明者、下段には六道の仏が描かれている。

こういった、対称性を少し崩した配置は、この曼荼羅独特のもの。

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こうして、描かれている諸尊を説明していくと、いつまでたっても終わらないので、詳しくは、

・サシ・ドージ・トラチャン・作画+解説, 田中公明・解説+訳 (1997.4) 『富山県利賀村 「瞑想の館」と「瞑想美の館」の仏画について』. 16pp. 利賀国際山村文化体験村(瞑想の郷), 利賀(富山).
(瞑想の郷で販売、あるいは配布されている小冊子)


・田中公明 (1987.8) 『曼荼羅イコノロジー 曼荼羅の歴史と発展について』. 315pp. 平河出版社, 東京.

を読んでほしい。

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寂静四十二尊曼荼羅の外側についても触れておこう。こういった余白に何を描くかは、儀軌には記されておらず、絵師の裁量に任されている。

ここでは、上段中央に阿弥陀如来、向かって左にはパドマサンバヴァとシャーンタラクシタ、向かって右にはカーマラシーラとティソン・デツェン。いずれも吐蕃時代の仏教導入に功があった祖師方。

下段は、向かって左が忿怒尊(ニンマパの忿怒尊は独特の尊格が多いので、調べるのに時間がかかるため、今はこれで勘弁して)、右がセンゲ・ドンマ(獅子面のダーキニー)。

とまあ、こちらもきりがないのでここまで。

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ほらね、これだけ書いても、一枚を中途半端にしか説明できない。いかに仏画の情報量が多いかわかってほしい。

さらに曼荼羅全体の意味や、どのように利用するかなど語り始めると、もういつまでたっても終わらないので、それぞれ解説書を読んでほしい。

ツヅク

2017年7月28日金曜日

富山・長野チベット巡礼 (3a) 利賀・瞑想の郷-その2

瞑想の郷は、利賀村上畠にあります。標高約630m。街道からは140mほど登ります。

・一般財団法人 利賀ふるさと財団/天竺温泉の郷 > 関連サイト : 瞑想の郷(as of 2017/07/27)
http://www.tenjiku-onsen.com/meisou/

開館時間 : 9:00~16:00
休館日 : 毎週水曜日、冬季休館(12~4月中旬)
入場料 :一般 600円、小・中学生 300円、幼児 無料

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1989年、そばの源流を探し求めてNepalを訪問した信州大学・氏原教授、宮崎利賀村村長らがKali Gandaki काली गण्डकी流域Tukuche टुकुचे(ཐུགས་རྗེ་ thugs rjeではないか?という気がする)を訪れ、まずTukuche村と姉妹提携が結ばれた。

そしてTukucheにある4つのゴンパを参拝し、その壁画の美しさに感動した村長らは、地元の絵師Shashi Dorje Trachanさんに曼荼羅や仏画を描いてもらうことにした。

Shashiさんは1989年秋から利賀村に1年半滞在し、2枚の曼荼羅、2枚の仏画を描いた(瞑想の館に収蔵)。その間に瞑想の郷の建設が進み、1991年にオープン。その4枚の仏画は「瞑想の館」に所蔵された。

1994~97年にかけては、さらに2枚の曼荼羅が描かれ、こちらは新造の「瞑想美の館」に所蔵されている。

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建物の配置はこうなっています。


瞑想の郷配置(Google Mapより)

いずれもネパール風の建物。直線の寄棟造りが特徴です。

中心となるのは上段の2棟。敷地の真ん中に「花曼荼羅」。

飛鳥寺や法隆寺などの日本古代の寺院配置のようでもあり、SpitiのTabo Choskhorなど平地に建つ古いゴンパのようでもあり、そのどれでもないユニークな配置。

特に中央に曼荼羅状の構造物を置くという配置は、他に類を見ない。敷地内で、配置について考えているだけでも楽しい。

設計者や、設計の経緯についての情報がもっとほしいところだ。

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・瞑想の館 : 三重塔が2つ連結したような建物。シトー寂静・忿怒百尊曼荼羅2枚、十一面千手観音図、極楽浄土図、ミトラ百種曼荼羅などが所蔵されている。瞑想の郷の中心。


瞑想の館

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・瞑想美の館 : 三重塔そのもの。金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅などが所蔵されている。


瞑想美の館

上段には、瞑想の館の左右対照に2つの建物が建てられるようなスロットが2つあるが、現在は瞑想美の館のみだ。いずれもう1棟建てられる日を楽しみにしよう。

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・瞑洗房 : これはトイレ。この位置である必要があったんだろうか?すぐそばのスロットに建物が建った時、ちょっと邪魔になるような気がする。

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次は下段。

・花曼荼羅 : 中央にポールが立つ同心円状の花壇。一見するとチャクラサンヴァラ曼荼羅を模したように見えるが、本当にそうなのかは定かでない。

・Wikipedia (English) > Cakrasamvara Tantra(This page was last edited on 19 April 2017, at 16:24.)
https://en.wikipedia.org/wiki/Cakrasa%E1%B9%83vara_Tantra


花曼荼羅

この花曼荼羅の景観は、開館時間中はライブカメラで配信されている。

・一般財団法人 利賀ふるさと財団/天竺温泉の郷 > 関連サイト : 瞑想の郷 > ライブカメラ(as of 2017/07/27)
http://ss.7104.jp/live/toga_meisounosato.html

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・空想の館 : 事務所兼売店。瞑想の館、瞑想美の館の観覧にはここでチケットを買ってから。

・瞑水の館 : 研修所、宿泊所。宿泊、食事は事前に予約が必要(おそらく1週間以上前)。

・サタル सत्तल sattal : Nepal風の四阿(あづまや)が2つ。

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次回はいよいよ瞑想の館、瞑想美の館の曼荼羅を見ていこう。

2017年7月23日日曜日

富山・長野チベット巡礼 (3) 利賀・瞑想の郷-その1

福光美術館の後、2004年の市町村合併で同じ南砺市内になっている利賀(旧・利賀村)へ行きました。「とが」と読みます。

特徴のある場所なので、今でも「利賀村」と呼ばれているよう。

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利賀の位置(Google Mapより)

こちらはまず行き方から。主に2つ。

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(1) 井波から市営バス

南砺市北東部の井波(旧・井波町)が利賀への入り口。

井波へは、あちこちからバスがある。私は、加越能バス(金沢←→井波)で、道の駅・福光から井波に出た。この便は毎日6往復。

利賀への市営バス(井波利賀線)が出るのは、旧・井波駅から。


旧・井波駅

これは、1972年に廃線となった加越能鉄道・加越線の旧駅舎。なかなか立派だ。現在は物産展示館(木彫刻が名産)・バスの待合所。

井波から利賀へのバスは毎日3便(10:15、13:20、16:45)。土日も運行。バスと言っても、客は11人くらいしか乗れないバンだ。


利賀行き市営バス

今回、乗客は行きは3人、帰りは1人、とスカスカであったが、平日だったからかもしれない。土日や夏休みは混むのかも。

井波-利賀間は約1時間。利賀川流域に入ると、深い谷を見下ろしながらのドライブとなる。樹木を取っ払うとKinnaurみたいな所ですね。

このバスは、利賀川流域奥の阿別当まで行く。瞑想の郷がある上畠、民宿やそばの郷がある坂上も、もちろん通る(ただし街道沿いだけで、山手には入らない)。

利賀中心部に達するまで民家はほとんどないので、車で行く人は、天気の悪い日や冬場には要注意。道はちょっと狭いが、山道に慣れた人なら大丈夫。

このルートは、行くまで知らなかったのだが、福光美術館のおねーさんたちに教えてもらいました。助かりました。

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(2) JR高山本線・越中八尾から市営バス

まず、富山からJR高山本線で越中八尾(えっちゅうやつお)駅へ。

越中八尾から利賀への市営バスが、こちらは毎日2便(10:15、16:45)。土日も運行。

ただし、利賀川流域は利賀行政センターまで。あとは百瀬川流域に戻ってしまう。上畠や坂上までは2~3kmなので、歩いても1時間くらい。村内バスもあるらしいが、よく知らない。

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利賀主要部(Google Mapより)

宿は民宿が数軒ある。私が泊まったのは、「中の屋」さん。ちょっと坂を登ると、あとは瞑想の郷までアップダウンなしで行ける。

中の屋は、民宿にしては少し高めの料金設定だが、それは食事がすごいいいから。米は自前の田んぼで作っている無農薬米だし、どぶろく「まごたりん」も作っている。奥さんはフィリピンの人で、明るく楽しい人だった。

その近くにも民宿「いなくぼ」。そばの郷方面にも民宿があるよう。街道沿いの「スターフォレスト利賀」は、旧小学校で、夏休みには合宿所として利用されている施設で、通常は宿泊施設として使われていない。

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瞑想の郷については次回。

2017年7月21日金曜日

カム小出し劇場 (3) デルゲ

20年位前に行った時の様子をまとめたもの。実用情報はもう使えないので省略。

2000年頃には、四川省チベットのほぼ全域が旅行者に開放されたが、この頃はまだダルツェンドの先は未開放だった。そのため、行く先々で緑の服を着た人たちに大人気で、彼らの職場にしょっちゅう招待されてました。

今も名目上は開放されているようだが、デルゲに入るのはなかなか厳しくなっているようだ。

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デルゲ སྡེ་དགེ sde dge徳格

ディ・チュー འབྲི་ཆུ་ 'bri chu 金沙江の支流シ・チュー ཟི་ཆུ་ zi chuに開けた谷間の町。日本の温泉町と似た風情。思ったより狭い街なので、外国人は目立つ。

カム最大の王国・デルゲ王国の都であった。デルゲ・パルカンとデルゲ・ゴンチェンの間にある建物が旧王宮らしい(現在は徳格中学)。


デルゲ主要部(Google Mapより)

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デルゲの歴史

デルゲ王は、吐蕃時代の有力氏族ガル མགར་ mgar氏の後裔。ガル氏の中では、ソンツェン・ガンポ སྲོང་བརྩན་སྒམ་པོ་ srong brtsan sgam po王の大臣で、文成公主を迎えるため唐に赴いたガル・トンツェン・ユルスン མགར་སྟོང་རྩན་ཡུལ་ཟུང་ mgar stong rtsan yul zung が最も有名。

ガル・トンツェンの息子たちは、698年に吐蕃王ティ・ドゥースン ཁྲི་འདུས་སྲོང་ khri 'dus srongによって滅ぼされたが、粛清を免れたガル氏族もいたようだ。

8世紀後半、ガル氏の一人でグル・リンポチェ གུ་རུ་རིན་པོ་ཆེ་ gu ru rin po che(パドマサンバヴァ पद्मसम्भ)の弟子とされる僧アムニェ・チャンペー・ペル ཨ་མྱེ་བྱམས་པའི་དཔལ་ a mye byams pa'i dpalが、カムのリン གླིང་ gling(リンツァン གླིང་ཚང་ gling tshang 林葱/嶺倉(デルゲの北))に移り住み、吐蕃帝国から自治権を与えられていた。チャンペー・ペルはガル・トンツェンの息子、とする説もあるが疑わしい。

13世紀になると、この後裔はサキャパ ས་སྐྱ་པ་ sa skya paのパクパ འཕགས་པ་ 'phags paによりカムの行政権を与えられ、勢力を拡大した。

15世紀にロドゥ・トブデン བློ་གྲོས་སྟོབས་ལྡན་ blo gros stobs ldan王がデルゲに都を移した。タントン・ギャルポ ཐང་སྟོང་རྒྱལ་པོ་ thang stong rgayl poを招聘し、デルゲ・ゴンチェンの建設を始めたのもこの王である(完成は17世紀半ば)。

1639年のグシ・ハーン གུ་ཤྲི་ཁཱན་ gu shri khAnによる侵略の際にはなんとかその地位を保ったものの、ラサ政府の影響下に置かれるようになった。

18世紀、テンパ・ツェリン བསྟན་པ་ཚེ་རིང་ bstan pa tshe ring王のもと、デルゲ王国は周囲の諸国を広く征服し、その最盛期を迎えた。1729年にはデルゲ・パルカンも完成した。

1863年には、他のカムの王国と同じく、ニャロン王 ཉག་རོང་དཔོན་པོ་ nyag rong dpon poゴンポ・ナムギャル མགོན་པོ་རྣམ་རྒྱལ་ mgon po rnam rgyalに屈し、一時王は廃位されたが、1865年ゴンポ・ナムギャルがラサ軍に鎮圧されると、デルゲ王はその地位を取り戻した。

1900-08年、ドルジェ・センゲ རྡོ་རྗེ་སེང་གེ་ rdo rje seng ge王とその弟ンガワン・ジャンペル・リンチェン ངག་དབང་འཇམ་དཔལ་རིན་ཆེན་ ngag dbang 'jam dpal rin chenによる王位争いが続いた。この内紛に乗じて趙爾豊率いる四川軍が侵入し、兄弟を追放し中国領とした。しかし、1917年にはラサ軍がデルゲを奪還し、王は復位した。

1950年、人民解放軍が侵攻を開始し、デルゲにも共産党員が駐在するようになる。カム地方の人々は共産主義改革に反発し反乱が頻発した。1957年、デルゲの人々も蜂起したがあっという間に中国軍に鎮圧された。デルゲ・ゴンチェンも破壊され、多数の僧が殺害された。デルゲ王国は、この時完全に滅亡した。

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デルゲ・パルカン སྡེ་དགེ་པར་ཁང་། sde dge par khang/ 徳格印経院


デルゲ・パルカン

1729年、デルゲ王テンパ・ツェリンによって完成された経典印刷所。デルゲ王はサキャパ(ンゴルパ)の施主であるが、パルカンは超宗派。現在は四川省文物局が管轄している。ナルタン・ゴンパ སྣར་ཐང་དགོན་པ་ snar thang dgon pa 那当寺のパルカンは、文革で完全に破壊されてしまったので、現在はここがチベット文化圏最大のパルカンである。

ペルプン・ゴンパ དཔལ་སྤུང་དགོན་པ་ dpal spung dgon pa 八邦寺(カルマ・カギュパ)の創設者、タイ・スィトゥ・リンポチェ8世 ཏའི་སི་ཏུ་རིན་པོ་ཆེ་སྐུ་འཕྲེང་བརྒྱད་པ་ ta'i si tu rin po che sku 'phreng brgyad pa(チューキ・チュンネ ཆོས་ཀྱི་འབྱུང་གནས་ chos kyi 'byung gnas、別名ツクラク・チューキ・ナンワ གཙུག་ལག་ཆོས་ཀྱི་སྣང་བ་ gtsug lag chos kyi snang ba)が、ここで1733年カンギュールを編集・開版した。1742年にはシュチェン・ツルティム・リンチェン ཞུ་ཆེན་ཙུལ་ཁྲིམས་རིན་ཆེན་ zhu chen tsul khrims rin chen監修のもとテンギュールも完成。このデルゲ版大蔵経は、同じころ完成したナルタン版大蔵経と並び最も広く普及した版である。この版木彫刻様式はグツェ派と呼ばれる。


デルゲ・パルカン 朝のコルラ

朝な夕なにここをコルラしている人の数は多い。デルゲ・ゴンチェンよりも人気が高いよう。パルカンから流れ出る墨混じりの水を、ありがたいものとして飲む人もいる。

3階建紅壁の立派な建物で、入口には番人もいる。残念ながら、この時は中には入れなかったので、内部の様子は、

・池田巧+中西純一+山中勝次 (2003.7) 『活きている文化遺産デルゲパルカン チベット大蔵経木版印刷所の歴史と現在』. 214pp. 明石書店, 東京.

などで見てほしい。

タルチョ、ルンタ類はパルカン前の売店で売っている。

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デルゲ・ゴンチェン སྡེ་དགེ་དགོན་ཆེན། sde dge dgon chen/ 徳格更慶寺


デルゲ・ゴンチェンのドゥカン入口

ルンドゥプテン・ゴンパ ལྷུན་གྲུབ་སྟེང་དགོན་པ་ lhun grub steng dgon paとも呼ばれる。サキャパの分派ンゴルパ ངོར་པ་ ngor pa。

1448年、ロド・トブデン王がタントン・ギャルポを招き建設を開始した。完成したのは、17世紀半ばラチェン・チャムパ・プンツォク ལྷ་ཆེན་བྱམས་པ་ཕུན་ཚོགས་ lha chen byams pa phun tshogs王の時。サキャパの方式を受け継ぎ、デルゲ王のおじ甥相続で維持発展していった。

1957年、共産主義政策に対する反乱の最中に中国軍によって大規模に破壊された。しかし、近年復興が進み今では300人ほどの僧がいる。

ツァンのンゴル寺に次ぐンゴルパの重要な寺院で、かつてはンゴル寺の座主が退職すると、このデルゲ・ゴンチェンで教授することになっていた。この時は12時間続く大きな法要が行われていて、ンゴル寺からも多くの僧が出張して来ていた。

デルゲ・パルカンのさらに奥にドゥカンを中心とし、いくつかラカン・僧房群が建ち並ぶ。


デルゲ・ゴンチェン平面図(出版用の整理はしていないので見にくいと思う)

ドゥカン དུས་ཁང་ dus khang/ツァムカン འཚམས་ཁང་ 'tshams khang 1~3

マニ車と転法輪のある通路を抜けると中庭に出る。正面がドゥカンの入口。反対側には小坊主のタツァン གྲྭ་ཚང་ grwa tshang(学校)もある。

ドゥカンはかなり広く、正面奥にリンポチェの席と諸尊像を祠った棚がある。壁画はごく新しいものだが、素晴らしい出来。左壁に一群のイダム・ヤプユム ཡི་དམ་ཡབ་ཡུམ་ yi dam yab yumの壁画があり、布がかけてある。またその前には忿怒尊像が多数立ちはだかる。

ドゥカンの裏手にはツァムカンが3つ。左手にはグル・リンポチェと護法尊、真ん中にはジョウォ・リンポチェ ཇོ་བོ་རིན་པོ་ཆེ་ jo bo rin po cheを中心とするドゥスム・サンギェ འདུས་གསུམ་སངས་རྒྱས་ 'dus gsum sangs rgyas 三世仏とネシェ・ゲ ཉེ་སྲས་བརྒྱད་ nye sras brgyad 八菩薩+ギャルチェン・シ རྒྱལ་ཆེན་བཞི་ rgyal chen bzhi 四天王、右手にはチャムパ  byams pa བྱམས་པ་ 弥勒菩薩とネテン・チュードゥク སགནས་བརྟན་བཅུ་དྲུག gnas brtan bcu drug 十六羅漢が祠ってある。いずれも新しいものばかりだが、古そうな寺院の構造、密教色の濃い像・壁画といいなかなか興味深いゴンパである。

ヤネ・ラカン དབྱར་གནས་ལྷ་ཁང་ dbyar gnas lha khang

ドゥカンの隣りにある小さなラカン。小坊主多し。ここもごく新しいものばかり。主尊はシャキャ・トゥバ ཤཱ་ཀྱ་ཐུབ་པ་ shA kya thub pa。
 
その他のラカン

ヤネ・ラカンのすぐ上手にもう一つラカンがある。また広場を挟んだ東はずれにも古そうな小ラカンがある。

タンギェル・ラカン ཐང་རྒྱལ་ལྷ་ཁང་ thang rgyal lha khang

パルカン、ゴンチェンとは谷を挟んだ対岸、南の山手にある。タントン・ギャルポを祠っているらしい。

大チョルテン

町の北はずれに高さ15mの大チョルテンがある。3段基壇のナムギャル型。新しいもの。四隅に4色の小チョルテンが立っており、これは全体で5如来を表わしたものか?。ヘルミカ(平頭)には目もついている。

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参考文献は準備中。調べたのはだいぶ昔なので、少し手間がかかるのだ。