2017年4月30日日曜日

panpanyaの語源?

panpanyaって何?という方は、まずこちらをどうぞ↓

kkm10k > 2016年11月29日火曜日 panpanya 『動物たち』
kkm10k > 2016年8月9日火曜日 panpanya 3連発

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panpanyaは確実にペンネームなのですが、そもそもこれが「パンパンヤ」と読むのか、「パンパニャ」と読むのか、はっきりしません。

Web上で色々調べた結果、「パンパンヤ」という説が優勢らしいので、私は「パンパンヤ」と読んでいますが、「パンパニャ」でもいいらしい。わけわからん。

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それで、このpanpanyaがどっから来た言葉なのか?何か由来があるのか?それとも、単なる造語なのか?全然わかりませんでした。

まあ、それがわからなくても、誰も何も困らないので、放っておいて、純粋にマンガを楽しんでいたわけなのです。実際web上を調べてみても、panpanyaの語源を調べた人はいないよう。

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ところが、twitterでpanpanyaを検索していたところ、なんか変なんですよ。タイのtweetがやたらとひっかかってくる。

どうも、タイにはPanpanyaという苗字の人がいるらしいのだ。

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そこでちょっと調べてみた。まず「panpanya thailand」で検索してみた。すると、出るわ出るわ。タイ語に「panpanya」という言葉があるのは確実となった。

中でもトップに出てくるのが「Panpanya Foundation(Panpanya財団/มูลนิธิปันปัญญา)」。これは、タイ国内の学校にコンピュータや電子辞書などのデジタル機器を提供したり、校舎の修繕を補助したりするNPO団体のようだ。

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しかし、これではPanpanyaが、固有名詞なのか一般名詞なのかもわからない。

それで次に当たってみたのがタイ語辞書。これ↓を使いました。

・ウェブリオ/weblio辞書 > その他の辞書 : タイ語辞書(as of 2017/04/30)
http://tjjt.weblio.jp/

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これは日本語でもタイ語でも検索できるオンライン辞書。タイ語は、タイ文字で入力するのが理想的だが、適当にアルファベットを入力すると、ヒットせずとも近そうな単語を拾ってくれる。便利。

まず「panpanya」で検索。ヒットなし。じゃあ、てんで、分割して検索。

「panya」で検索。ヒットなし。

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「pan」あるいは「ya」のどっちかが長母音なのかも?ということで、「panyaa」で検索。

すると、ようやく出ました出ました。

ปัญญา
発音  pan yaa
日本語  高い知性; 高い知力; 博識; 般若; 智慧; 仏智
解説  パーリ語

ปัญญา
発音  pan yaa
日本語  知性; 知恵; 般若

「panyaa」は「pan」と「yaa」に分割できること、発音は「パンヤー」らしいこと、また語源はPali語(古代中西部インドの言語、Sanskrit系)であることなど、色々わかってきたぞ。

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では今度は前の方の「pan」で行ってみよう。

ปัน
発音  pan
日本語  分配する

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なるほど。「ปันปัญญา pan pan yaa」で「知恵の分配」なのだ。これでさっきの「Panpanya財団」の意味も納得。

もしこれが語源だとすると、「panpanya」は「パンパンヤー」と読むのが正解になりそうだ。

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なんとなく納得できる地点まで来たわけだが、しかし、これがホントにマンガ家「panpanya」のペンネームの語源であるのかは、実は全然わかりません。

仮にこれが語源の正解だとしても、なんでまた、これをペンネームにしようと思ったのか、も謎。結局本人に訊かないと、全く埒が開かないのでした。

私の探索はここまで。

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(追記)@2017/04/30

タイ語 : ปัญญา pan yaa パンヤー 知恵/般若

は、

Pali語 : पञ्ञा paññā パンニャー 知恵/般若

が語源であり、さらに

Sanskrit語 : प्रज्ञा prajñā プラジュニャー 知恵/般若

にまで行き着く。

漢字の「般若」はこれらを音写したものです。

Pali語を重視すれば、「panpanya」は「パンパ(ン)ニャー」でもいいことになる。なるほど。

「panpanya」を漢字にしてやると「搬般若」でも意味が通じるぞ。いやあ、これはおもしろい。

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(追記)@2017/05/02

ぬいぐるみやクッションの中身である「パンヤ」は、ポルトガル語で「panha」。インドネシア産の樹木kapokから取れる「綿状の繊維」のこと。

参考:
・G.W.Sargant (1959)Commentary for Book IV, I [15] Panya no kukuri-makura. IN Ihara Saikaku(井原西鶴), G.W.Sargent (tr.), NIPPON EITAI-GURA, OR, DAIFUKU SHIN CHŌJA KAGAMI(『日本永代蔵 大福新長者教』) (1688). p.197. Cambrdge University Press, Cambridge.
https://books.google.co.jp/books?id=ux89AAAAIAAJ&pg=PA197&lpg=PA197&dq=panha++cotton&source=bl&ots=_-4GUK_gOC&sig=1qFkBwwDjdeDYNvb_Eq7EY09oAU&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjU8ITK9s_TAhVBsZQKHaOrAAE4ChDoAQgpMAE#v=onepage&q=panha%20%20cotton&f=false

日本では、江戸時代からある言葉なんですね。意外に古い。「パンヤ(入り)のくくり枕」はこそばゆくなって嫌だ、そうです(笑)。

本来、マレー半島の地名だったものが、繊維の名前として採用されたものらしい。

参考:
・関根岳是/GKZ植物事典 > パンヤ(as of 2017/05/02)
http://gkzplant2.ec-net.jp/mokuhon/syousai/hagyou/ha/pannya.html

しかし、マレーシアにはPanhaという地名は見つからない。これはもしかすると、マレー半島のタイ側ではあるまいか(追記参照)。

となると、またタイ語の「パンヤー」に戻って来るのかもしれない。堂々巡りだな。これは、これ以上深入りしないでおこう。

どっちにしろ、これはマンガ家panpanyaとはたぶん関係なさそうだ。わかんないけどね。

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(追記)@2017/05/02

あった。やはりマレー半島タイ側、Suratthani県の一角にPanyaという集落がある。

2017年4月4日火曜日

チャンキャ・リンポチェ来日

3月初めに、こういうニュースがありました。

・RFA 自由亜洲電台普通話 > 中国 > 軍事外交 > 南洲, 嘉華・責編/達頼喇嘛確立的第20世章嘉活佛訪問日本(2017-03-01)
http://www.rfa.org/mandarin/yataibaodao/junshiwaijiao/nz-03012017102254.html

チャンキャ・リンポチェ8世(20世という数え方もある)がひっそりと来日されていたようです。

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チャンキャ・リンポチェ ལྕང་སྐྱ་རིན་པོ་ཆེ་ lcang skya rin po che(モンゴル語 : ジャンジャ・フトクト 章嘉呼図克図)は、ゲルクパのトゥルク大名跡。アムド~南モンゴル、そして清朝皇帝から尊敬を集めたトゥルク སྤྲུལ་སྐུ sprul sku(化身ラマ)である。

チャンキャ・リンポチェの転生系譜をどう数えるかは錯綜しており、現チャンキャ・リンポチェは5世、7世、8世、20世と様々。ここでは8世説をとっておく。

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この場合の1世ダクパ・ウーセル གྲགས་པ་འོད་ཟེར་ grags pa 'od zer 扎巴俄色/哲巴鄂色爾(1607-41)は、アムド・ツォンカ ཨ་མདོ་ཙོང་ཁ་ a mdo tsong kha 湟中の張家村に生まれた。よって、トゥルク名跡名は「張家=zhang jia→モンゴル語/チベット語アムド方言:ジャンジャ→チベット語ウー・ツァン方言:チャンキャ」となった。

ウー・ツァン方言での「キャ ཀྱ kya」は、アムド~カムでは「チャ/ヂャ/ジャ」と発音されるので、「ジャ」を転写するのに「kya」を使ってもいいのである。

ダクパ・ウーセルは、ゴンルン・チャンパリン・ゴンパ དགོང་ལུང་བྱམས་པ་གླིང་དགོན་པ་ dgong lung byams pa gling dgon pa 佑寧寺(青海省互助土族自治県内、西寧の北東約30km)で修行した後、ラサ ལྷ་ས་ lhasa 拉薩のデプン・ゴンパ འབྲས་སྤུངས་དགོན་པ་ 'bras spungs dgon pa 哲蚌寺のゴマン・タツァン སྒོ་མང་གྲྭ་ཚང་ sgo mang grwa tshangやツァン西部のンガムリン・ゴンパ ངམ་རིང་དགོན་པ་ ngam ring dgon pa 昂仁寺で修行。アムド帰郷後はゴンルン寺僧院長を務めた。

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ダクパ・ウーセルの遷化後、代々転生者が選ばれるようになり、これがチャンキャ・リンポチェの系譜となる。

2世ンガワン・ロサン・チューデン ངག་དབང་བློ་བཟང་ཆོས་ལྡན་ ngag dbang blo bzang chos ldan 阿班羅桑曲殿(1642-1715)は、17世紀末、清朝皇帝・康煕帝[位:1661-1722d]に北京に招かれ大いに信任を得た。

ジューンガル部のガルダン・ボショクト・ハーン 噶爾丹博碩克図汗による侵略を避けて清朝に帰順したモンゴル諸部に対し、康熙帝はその鎮撫の一環として、その地に多くのチベット仏教寺院を建立。南モンゴル・ドロンノール(多倫)には、後に内外モンゴル最大の寺となる彙宗寺を建立し、チャンキャ・リンポチェを僧院長に置いた。

以後、チャンキャ・リンポチェはアムドに加えて南モンゴルでも大きな影響力を持つようになる。

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チャンキャ・リンポチェで最も有名なのが3世ルルペ―・ドルジェ རོལ་པའི་རྡོ་རྗེ་ rol pa'i rdo rje 若白多傑(1717-86)。

1723~24年の青海ホシュート部ロブザン・ダンジン བློ་བཟང་བསྟན་འཛིན་ blo bzang bstan 'dzin 羅卜蔵丹津の乱では、清朝軍によりアムド各地の寺が破壊されたが、清朝皇帝・雍正帝[位:1722-35d]は、幼いチャンキャ3世をゴンルン寺から保護するよう命じ、北京に招いた。チャンキャ3世は、以後主に北京で修行・活動することになる。

乾隆帝[位:1735-96d]はチャンキャ3世を導師として崇め、ラサ政府との連絡役としても重宝された。北京では雍和宮に在住。以後、ここが北京のチベット仏教の拠点となる。

チャンキャ・リンポチェ4~7世は、アムド、南モンゴル、北京を行き来しつつ、これらの地域で絶大な影響力を誇った。

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7世ロサン・ペンデン・テンペイ・ドンメ བློ་བཟང་དཔལ་ལྡན་བསྟན་པའི་སྒྲོན་མེ་ blo bzang dpal ldan bstan pa'i sgron me 羅桑般殿丹畢蓉梅(1891-57)の時代、1912年清朝は崩壊、中華民国が成立した。蒋介石の北伐完了(1928年)後、7世は蒙藏委員会委員を務めるなど、国民党政府の要職を歴任。第二次世界大戦後は護国浄覚輔教大師の称号を授与された。

しかし、1946~49年の国共内戦で、国民党が共産党に敗れると、蒋介石と共に1949年台湾に移った。台湾・中華民国でも中国仏教会理事長を務めたが、1957年遷化。

7世の遷化後、転生者の選出は長らく行われなかった。

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それが実は、間はあいたが8世の選出が行われていたようなのだ。インドへ亡命中のゲルクパ中枢、特にダライ・ラマ法王により8世の選出が行われている。

8世はアムド・ツォンカ出身のテンジン・ドンヨー・イェシェ・ギャムツォ བསྟན་འཛིན་དོན་ཡོད་ཡེ་ཤེས་རྒྱ་མཚོ་ bstan 'dzin don yod ye shes rgya mtsho師(1980-)。ゴンルン寺で修行し、1998年インドへ亡命。そして、同年にいきなりチャンキャ・リンポチェの転生者と認定されている。

おそらくゴンルン寺在籍当時から、密かにチャンキャ・リンポチェの転生者として認知されていたのだろう。そしてインド亡命後すぐに、ゲルクパ高僧たち及びダライ・ラマ法王によって、それが追認されたのではないかと思う。

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この認定には、中国共産党、南モンゴル(内蒙古自治政府)、台湾・中華民国政府はいずれも関与していないし、連絡も受けていないはず。これはハルハ(現・モンゴル国)第一のトゥルクであるジェツン・ダムパ・リンポチェ(ジェプツン・ダムパ・フトクト)9世選出のケースと似ている。

ジェツン・ダムパ・リンポチェ9世について詳しくは、

2012年3月5日月曜日 ハルハ・ジェツン・ダムパ・リンポチェ遷化(2012年3月1日)

を参照のこと。

しかし、ジェツン・ダムパ・リンポチェもチャンキャ・リンポチェも、もともとはチベットでのトゥルク名跡なのだ。

たまたま政治的な役割が大きくなり、過去に内外モンゴルの政治に深く関与するようになってしまっただけなので、それらの地域で政治的な存在としてのトゥルク名跡は不要、と判断するのならば、それはかまわない。

チベット仏教ゲルクパのトゥルク名跡として、宗派が転生者を選出するのは何の問題もないし、トゥルク名跡を終わりと決めた(そんな判断はそもそも筋違いなのだが)よその政治家たちに相談したり知らせる必要も全くない。

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私が「どうもチャンキャ・リンポチェの転生者がいるらしい」と聞いたのは2000年頃。南インドのデプン・ゴンパ・ゴマン・タツァンで修行中とのことだった。

その後、表立った活動は聞いたことがなかったが、ついに表舞台に登場された。で、ようやく最初に挙げた記事になる。

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来日の目的や(いるとすれば)スポンサーなどは、記事からはよくわからないが、高野山や東大寺を訪問されたそうだから、宗教目的の訪問と理解した。

表舞台に登場して最初の記事が、政治的な内容であるのは、ちょっと複雑な気持ちになる。このニュースサイトの性格からして、記事の内容が政治的なものになってしまうのは、しかたがないところだが・・・。

記事は、チャンキャ・リンポチェが、2016年11月に結成されたばかりの南モンゴル・クリルタイ(南モンゴル議会/オンニュート・モンゴリアン・イフ・フラルダイ/南蒙古大呼拉爾)のメンバーと会った際の様子を報告するもの。「法会」とも表記されているので、宗教的なお話もされたのでしょう。

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ただし、チャンキャ・リンポチェが同クリルタイの活動に以前から興味を持っていたのは確からしく、南モンゴル・クリルタイの公式サイト

・南モンゴルクリルタイ公式サイト(since 2016/11)
http://southmongolia.org/

を見ると、クリルタイ結成にあたって祝辞を寄せてもいる。

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チャンキャ・リンポチェは「五台山にも行ってみたい」とお話されているが、それはチャンキャ・リンポチェの先世が五台山に寺院を建立されているから。五台山は文殊菩薩の聖地であり、チベット仏教色も濃い場所なのです。

現状では、里帰りの形であっても中国に戻るのはむずかしいかもしれないが、いずれ中国訪問あるいは帰郷がかない、それがチベット人、モンゴル人、漢族のいずれにも歓迎される形であってほしいものです。

チャンキャ・リンポチェという名跡は、それを可能にする力を持っていると思っています。

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参考 :

・菅沼晃 (2004.7) 『モンゴル仏教紀行』. pls.+viii+245+9pp. 春秋社, 東京.
・一般社団法人 文殊師利大乗仏教会དཔལ་ལྡན་འབྲས་སྤུངས་བཀྲ་ཤིས་སྒོ་མང་འཇམ་དབྱངས་ཐེག་ཆེན་ཆོས་ཚོགས་ > GOMANG デプン・ゴマン学堂 > 僧院教育 化身ラマの教育(作成日: 2010-07-26 最終更新日: 2016-07-03)
http://www.mmba.jp/gomang/education/lamaeducation
・維基百科 自由的百科全書 >章嘉呼図克図(本頁面最后修訂于2016年12月15日 (星期四) 02:57)
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%A0%E5%98%89%E5%91%BC%E5%9B%BE%E5%85%8B%E5%9B%BE
・The Treasury of Lives > People > Incarnations > Incarnation Lines : Changkya (as of 2017/04/01)
http://treasuryoflives.org/incarnation/Changkya

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(追記)@2017/04/07

今回の来日での講演会の告知がありました。今更ですが。

・りたりたゆうこうかいfacebook > 2月25日サンギャ・ホトクト法話会@東京 公開 · 主催者: りたりたゆうこうかい((2017年)2月17日)
https://www.facebook.com/events/1820966324824812/?acontext=%7B%22ref%22%3A%223%22%2C%22ref_newsfeed_story_type%22%3A%22regular%22%2C%22action_history%22%3A%22null%22%7D

もう一つありました。

・モンゴル自由連盟党 > アーカイブ > 2016年3月 > 4月9日大阪にて「インド訪問報告」、ダイチン代表が報告します(03/07 2016) > インド訪問報告(PDF)
http://lupm.org/japanese2/wp-content/uploads/2016/03/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E8%A8%AA%E5%95%8F%E5%BA%83%E5%91%8A%E4%BF%AE%E6%AD%A3%E6%9C%80%E5%BE%8C02.pdf

これによると、今回の来日はモンゴル仏教会と南モンゴル自由民主運動基金会(おそらく南モンゴルクリルタイの前身)による招聘であったことがわかります。

2017年3月31日金曜日

カルマパ17世タイェー・ドルジェ師が結婚して還俗

というニュースが出ました。

・共同通信PRワイヤー > 2017年3月30日 Private Office of the 17th Karmapa カルマパ聖下が内輪の結婚式挙行を発表 AsiaNet 68000 (0465) 【ニューデリー2017年3月29日PR Newswire=共同通信JBN】
http://prw.kyodonews.jp/opn/release/201703300451/

といっても、これはニュースではなく、共同通信が宣伝/プレスリリースのスペースを売っているサイトのようです。いろんな言語で同じ記事があちこちに出ていました。

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また、このカルマ・カギュパの管長(となるはずの方)ギャワ・カルマパは、有名なギャワ・カルマパ17世ウギェン・ティンレー・ドルジェ師ではありません。

実はカルマパ17世は二人いるのです。


カルマパ17世ティンレー・タイェー・ドルジェ師(2000年当時)

例によって、ヒマーチャル・ガイドブックの没原稿を使って説明しときましょう。情報は2001年時点のもの。

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二人のカルマパ17世

チベット仏教四大宗派の一つカギュパ བཀའ་རྒྱུད་པ་ bka' rgyud paは、大小さまざまの小宗派に分かれている。このうちの最大勢力がカルマパ ཀརྨ་པ་ karma pa(カルマ・カギュパ ཀརྨ་བཀའ་རྒྱུད་པ་ karma bka' rgyud pa)。管長であるギャワ・カルマパ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་ rgyal ba karma paは12世紀から続くチベット最古の転生ラマ(トゥルク སྤྲུལ་སྐུ sprul sku)系譜(1世はカルマパ開祖ドゥースム・キェンパ དུས་གསུམ་མཁྱེན་པ་ dus gsum mkhyen pa(1110-93))。チベット本土での総本山はラサ西方にあるツルプー・ゴンパ མཙུར་ཕུ་དགོན་པ་ mtsur phu dgon pa。

1959年のチベット動乱でダライ・ラマ法王がインドに亡命すると、これに続いて多くの高僧がチベットを脱出した。カルマパ16世ランジュン・リクペー・ドルジェ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་དྲུག་པ་རང་འབྱུང་རིག་པའི་རྡོ་རྗེ་ rgyal ba karma pa sku 'phreng bcu drug pa rang 'byung rig pa'i rdo rje (1924-81)もその一人。16世はシッキムのルムテク・ゴンパ རུམ་ཐེག་དགོན་པ་ rum theg dgon paを本拠地に教団を再建。海外での布教には特に力を入れ、欧米人信徒を多数獲得するなど成功を収めた。

1981年、16世は急逝。カルマパ教団は4人の摂政により運営される。転生者はなかなか見つからなかったが、摂政の一人タイ・スィトゥ・リンポチェ(タイ・スィトゥパ)12世ペマ・ドンヨー・ニンジェ・ワンポ  ཏའི་སི་ཏུ་རིན་པོ་ཆེ་(ཏའི་སི་ཏུ་པ་)སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་གཉིས་པ་པདྨ་དོན་ཡོད་སྙིང་རྗེ་དབང་པོ་ ta'i si tu rin po che (ta'i si tu pa) sku 'phreng bcu gnyis pa padma don yod snying rje dbang po(1954-)が発見した遺言状をきっかけに捜索が進展。1992年、東チベット(カム)・チャムド ཆབ་མདོ་ chab mdo昌都県ラトク  ལྷ་ཐོག lha thog 拉多近郊に住む牧民一家に転生者が発見された。

この少年アポ・ガガ ཨ་པོ་དགའ་དགའ་ a po dga' dga'は、中国政府・チベット亡命政府双方により公式にカルマパ17世ウギェン・ティンレー・ドルジェ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་བདུན་པ་ཨོ་རྒྱན་འཕྲིན་ལས་རྡོ་རྗེ་ rgyal ba karma pa sku 'phreng bcu bdun pa o rgyan 'phrin las rdo rje(1986-)として認定され、ツルプー寺で即位した。


カルマパ17世ウギェン・ティンレー・ドルジェ師(2000年当時)

しかし摂政の一人で、先代16世の甥でもあるシャマル・リンポチェ(シャマルパ)14世ミパム・チューキ・ロドゥ ཞྭ་དམར་རིན་པོ་ཆེ་(ཞྭ་དམར་པ་)སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་བཞི་པ་མི་ཕམ་ཆོས་ཀྱི་བློ་གྲོས་ zhwa dmar rin po che (zhwa dmar pa) sku 'phreng bcu bzhi pa mi pham chos kyi blo gros(1952-2014)は、1990年以来独自に転生者を擁立し、この選択に異議を唱え続けている。これが「もう一人のカルマパ」17世ティンレー・タイェー・ドルジェ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་བདུན་པ་འཕྲིན་ལས་མཐའ་ཡས་རྡོ་རྗེ་ rgyal ba karma pa sku 'phreng bcu bdun pa 'phrin las mtha' yas rdo rje(1983-)である。ツルプー近郊に生まれたこの少年はシャマルパにより密かにインドへ迎えられていた。

一般には17世として公認されているウギェン・ティンレー・ドルジェ師への支持が圧倒的に多いが、タイェー・ドルジェ師とシャマルパ側を支持する人々も無視できない数にのぼる。

ツルプー寺で修行を積んでいたウギェン・ティンレー・ドルジェは、2000年1月突如チベット亡命政府のあるダラムシャーラーに現われ世界を驚かせた。実質的な亡命である(2001年インド政府により公式に難民認定された)。

2002年1月現在、16世の本拠地であったルムテク寺にはどちらのギャワ・カルマパも入っておらず、跡目争いの決着はまだ先のようだ。

この騒動については、

・田中公明(2000.4)『活仏たちのチベット』. ii+210pp. 春秋社, 東京.

に詳しい。

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タイェー・ドルジェ師の本拠地は、New Delhi南部にあるカルマパ国際仏教学院Karmapa International Buddhist Institute(KIBI)。

・KIBI Karmapa International Buddhist Institute(since 1990)
http://www.kibi-edu.org/

こちらもヒマーチャル・ガイドブック没原稿から。

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カルマパ国際仏教学院 Karmapa International Buddhist Institute(KIBI) ཀརྨ་པ་རྒྱལ་ཡོངས་ནང་པའི་གཙུག་ལག་མཐོ་སློབ། karma pa rgyal yongs nang pa'i gtsug lag mtho slob/

いわゆるもう一人のカルマパ17世ティンレー・タイェー・ドルジェ師と彼を擁立したシャマル・リンポチェが主宰する仏教学院。1979年の創建(現在の建物は1994年)。

New Delhi南部、Institutional Areaにある(Qutab Hotel裏手)。クトゥブ・ミナールの観光と組み合わせて訪れるとよい。

ここでは主に外国人を対象にした仏教のレクチャーが長期コース(数年)・短期コースで開催されている。寺院は広い集会堂にシャカ像があるだけのシンプルな造り(2001年当時)。周囲は研修生の宿舎。

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というわけだが、この後、シャマル・リンポチェ14世が2014年に遷化し、タイェー・ドルジェ師のニュースもあまり聞かなくなった、と思っていた矢先のこのニュースでした。

結婚されたということは、破戒となるため僧籍には居られません。よって還俗されることになります。

といっても、チベット仏教、特にニンマパ/カギュパ/サキャパには俗人のリンポチェはたくさんいらっしゃいます。還俗されて、宗教活動もやめてしまわれる方もいますが、その多くは行者として宗教活動を続けます。

特にギャワ・カルマパという大名跡で、カルマ・シャマルパ教団のトップですから、やめられないでしょう。

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しかし、よくこれが許されたものです。タイェー・ドルジェ師の意志がよっぽど強かったのでしょう。

何はともあれ、まずは、おめでとうございました、とお祝い申し上げます。

2017年3月14日火曜日

広島大学ンガリー天文台(続報)

2016年10月5日水曜日 広島大学ンガリー天文台

で、ンガリー མངའརིས་ mnga' ris 阿里地区に広島大学が設置した望遠鏡について触れましたが、この場所については、中国のニュースサイトでも多数報じられています。

・万花鏡 > 探索 > 阿里啓動 : 将建世界最高原初引力波観測站 2016年12月13日 来源: 互聯网
http://m.wanhuajing.com/d661883

もとは科学網の記事らしいのですが、本家記事にアクセス出来ないので配信記事の方を紹介。

当サイトでも紹介した、観測基地への道路工事の様子の写真がありますね。相当大変そう。

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ここには、広島大学の望遠鏡だけではなく、中国側の望遠鏡も置かれているようだ。

この記事でちょっと不思議に思ったのは、「引力波望遠鏡」という記述。引力波とは、一般に言う重力波のこと。

しかし、2016年2月に発表されたUSA LIGO(Laser Interferometer Gravitational-Wave Observatory/レーザー干渉計重力波観測所)による史上初の重力波イベント観測は、マイケルソン干渉計によるもの。これは重力波による空間の歪みを観測するもので、天候の影響は受けないはず。

同様にマイケルソン干渉計を使った日本の重力波観測所KAGRAなどは、岐阜県神岡鉱山跡の地下に建設されているし。

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実は、ここでいう重力波は、2016年に観測された2つのブラックホールの合体によって発生した重力波とは別の重力波の観測を目指している。それが原始重力波。

これは、ビッグバンの38万年後に生じた宇宙の晴れ上がり時の光=宇宙マイクロ波背景放射の偏光分布を調べることで、ビッグバンの直前に宇宙が爆発的に拡大した現象(インフレーション)の痕跡を探ろうというもの。

とまあ、自分でも実はよく理解していないのだが(笑)。

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原始重力波についてはここらへん↓でお勉強をどうぞ。

・大栗博司のブログ > 2014年03月17日 原始の重力波
http://planck.exblog.jp/21835733/
・日経サイエンス > バックナンバー > 2016年 > 日経サイエンス 2016年5月号 大特集:重力波 > L. M. クラウス(アリゾナ州立大学)/ビッグバンから上がるのろし 原始重力波に挑む
http://www.nikkei-science.com/201605_058.html
・一般社団法人 日本物理学会 > 刊行物 > 日本物理学会誌 > バックナンバー目次 > 2017年第3号 > 山口昌英/原始重力波とは何か? その検出がなぜ大事なのか?
http://www.jps.or.jp/books/gakkaishi/2017/03/72-03_trends.pdf

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なお、中国の記事では、日本や広島大学についてはいっさい触れられておりません。ありがちだなあ。

また、広島大学のHinOTORIプロジェクトが、中国の原始重力波観測プロジェクトとどう連動するのか、よく理解しておりません。単に場所が同じ所で、観測場所と建設費用を共同で賄っているだけかもしれません。

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広島大学のHinOTORIプロジェクトは、重力波観測に関係したプロジェクトではあっても、KAGRAと連動したプロジェクト。LIGOが観測した現象と同じような、ブラックホールなどの合体で生じた重力波がKAGRAで観測された場合に、その対象天体を探し出す目的で設置されています。

マイケルソン干渉計による重力波観測では、観測に成功しても、重力波がやって来た方向については、非常におおざっぱにしかわからない。それで、重力波観測直後に、その発生源天体を探索したり、重力波天体によるガンマ線バーストを観測するのがHinOTORIプロジェクト目的だという。

すごくおもしろそうですね。

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ところで、HinOTORIプロジェクトのwebsite

・HinOTORI : Hiroshima University Operated Tibet Optical Robotic Imager(as of 2017/03/13)
http://hinotori.hiroshima-u.ac.jp/

などで、しきりにこの観測所のことを「ガー山」と呼んでいるのだが、これいったいなんだろう?と思っていた。

それが、

・京都大学理学研究科 宇宙物理研究所 > 研究・教育活動 京大 岡山3.8m望遠鏡計画 > 新着情報 2013年3月12~13日 サイエンス・装置WSを行いました。内容はこちら。 > 佐々木敏由紀+吉田道利+姚永強/西チベット天体観測環境調査の紹介と京都3.8mレプリカ設置の可能性
http://www.kusastro.kyoto-u.ac.jp/psmt/instWS/1st_instWS/1st_sasaki.pdf

を見たら、ようやく理解できた。

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「ガー山」とは、「ガル སྒར་ sgar(近く)の山」のことでした。観測所すぐ南を流れている河がIndus河(センゲ・ツァンポ སེང་གེ་གཙང་པོ་ seng ge gtsang po 獅泉河)の支流であるガル・ツァンポ སྒར་གཙང་པོ་ sgar gtsang po噶爾藏布。

ガルとは「天幕」あるいは「幕営地」のことです。

西チベットに栄えたグゲ(གུ་གེ gu ge古格)王国は、1630年、Ladakh王国に滅ぼされ、旧グゲ領はLadakhに占領されます。しかし17世紀後半になると、チベットを統一したグシ・ハーン王家+ダライ・ラマ政権とLadakh王国との間で戦争が勃発(1679~83年)。

終始押し気味に戦争を進めたチベット側が講和後、占領した旧グゲ領をそのまま併合。ラサからはガルポン སྒར་དཔོན་ sgar dponと呼ばれる役人が派遣され、旧グゲ領を統治します。

その役人の駐在地を「ガル(幕営地)」と呼んだのです。名称としてはそっちが先で、役職名ガルポンは「ガルに駐在した役人」という意味になります。

ガルは、ガル・ツァンポ上流(南東側)にある夏営地ガリヤサ སྒར་དབྱར་ས་ sgar dbyar sa噶爾雅沙と、下流(北西側)にある冬営地ガル・グンサ སྒར་དགུན་ས་ sgar dgun sa 噶爾昆薩の2箇所あり、両者間は約100km離れています。単にガル(あるいはガルトク སྒར་ཐོག sgar thog噶爾大克)といえば、一般には夏営地ガリヤサの方を指します。

どちらも、当時ンガリーの中心地だったとは思えないほど、今は寂れた村です。それもそのはず。「ガル(幕営地)」の名の通り、もともとそこには町らしい町はなく、天幕の集合体だったから。

天体観測所のある場所は、ガル・グンサのすぐ近くです。

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というわけで、もともと名前などなかった場所に「ガル(近くの)山」と名前をつけたと思われます。

ところが、「Gar」を英語風に読んだものだから、「ガー山」になってしまったわけです。またもや「英語風読み」が悪さをしています。

いまさら「ガー山」を「ガル山」と変更できないかもしれませんが、本来は「ガル」である、というのは覚えておいてください。

2017年3月9日木曜日

東京外国語大学「チベット牧畜民の仕事展」とSERNYA Vol.4

・東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所・主催 『チベット牧畜民の仕事展』
会期:2017年2月13日(月)− 3月11日(土)土日休場
ただし2月18日(土)・19日(日)、3月11日(土)は開場
時間: 10−17時
会場:東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所1階資料展示室(〒183-8534東京都府中市朝日町3-11-1)
tel/fax:042-330-5543
入場料:無料



に行ってきました。

詳しくはこちらでもどうぞ↓

・TibetanCinema/チベット牧畜民の仕事展 > 2016年12月12日月曜日 チベット牧畜民の仕事展
http://tibetanpastoralists.blogspot.jp/2016/12/blog-post.html

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ドクパ འབྲོག་པ་ 'brog paの生活でいっぱいです!楽しい!



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ドクパを「遊牧民」と訳する人が多い中、ここではちゃんと「牧畜民」と訳されていますね。

ヤルサ དབྱར་ས་ dbyar sa 夏営地とグンサ དགུན་ས་ dgun sa 冬営地で移動はするものの、場所は毎年決まっています。草地・水場を求めて、頻繁に移動しているかのような誤解を招きがちな「遊牧民」という用語を採用しなかったのは正しい。

Ladakhの民族ブロクパについて書いたものですが、一部牧民ドクパについても触れているこちらも参考までにどうぞ↓

2014年4月17日木曜日~29日火曜日 「ブロクパ」とはどういう意味か?(1)~(5)
2014年5月4日日曜日 ブロク・スカット('brog skad)の会話例

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「クサイ、クサイ」という前触れだったのですが、臭くありません!

ヤク尾の払子などもあったので、さっそく匂いを嗅いでみましたが全然たいしたことなかった。

と思ったのだが・・・その近くに立っていると、なにやら左の方から「唾液を煮染めたような匂い」がプ~ンと・・・。

そこには羊の毛皮がありました。模造品fake-furと共に。

いやあ、これはクサイ!というより懐かしい匂いです。チベットでは、どこもかしこも、大なり小なりこういう匂いが充満してますから。

さあ、これを嗅ぎに行ってください。普通の展示物や映像では感じられないものが、こういう匂いですから。その意味では珍しい展覧会です。

欲を言えば、乳製品の匂いもあればよかったなあ。

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一番の目玉は、現地で撮った映像「チベット牧畜民の一日」でしょう。会場で繰り返し上映されています。


Sernya, vol.4, p.44より

ドクパ一家の朝から晩までを追って編集したものです。撮影はカシャムジャ མཁའ་བྱམས་རྒྱལ་ mkha' byams rgyal。プロが撮った映像なのでクオリティは素晴らしい。

95分ありますから、ひと通り見るのも大変ですが、ぜんぜん飽きませんよ。

ドキュメンタリーと称していながら、実は半分フィクションみたいな映像も多い中、これは作為的な絵は一つもありません。一日中繰り返し流しておきたいほどです。

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欲を言えば、映像が撮られた場所、標高、家族構成などのバックグラウンドの情報がもう少し欲しかった。まあ、それはSERNYAの既存号を見れば、ある程度わかるのだが。また、これからさらに補強編集がなされるかもしれないし。

あと各チャプター、たとえば「夕方の乳しぼり」のタイトルにもチベット文字タイトルが欲しかったなあ。

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2017年3月11日(土)は展覧会最終日ですが、解説付きでの上映会があります。

・東京外国語大学広報マネージメント室/TUFS Today > チベット牧畜民のくらし(2017.3.8公開)
https://tufstoday.com/articles/170308-2/

–上映会『チベット牧畜民の一日』
最終日の3月11日(土)は、13:30から『チベット牧畜民の一日』の解説付き上映も行います。
日時:2017年3月11日(土)13:30-15:20(13:00開場)
場所:AA研大会議室(303)
使用言語:チベット語(日本語字幕つき)
参加費:無料、事前申し込み:不要

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会場では、出たばかりのSERNYA最新号も配布されていました。

・SERNYA編集部+チベット文学研究会・編 (2017.2) SERNYA VOL.4. 176pp. 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所, 府中.


ブックデザイン : 草本舎

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例によって目次を紹介しておきましょう。


同書, pp.2-3

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興味を引いた論考をいくつか。

・別所裕介・著, 蔵西・画 (2017.2) 空間を刷新する儀式「ドッカ・ペンバ」 牧畜社会の厄払いと年越し行事. Sernya, vol.4, pp.8-16.

昨年はンガッパ・イェシェ・ドルジェ・リンポチェがらみで悪霊祓い・厄祓いについて調べる機会が多かったのだが、そのアムド・ドクパ社会での例です。

私が調べたものとの類似性・違いがわかって非常に興味深い。

この世界は大変に奥が深いので、まずいろんな実例の紹介が増えることは実にありがたい。

参考までに、私が調べたものをまとめて紹介するとこうなります↓

2016年1月25日月曜日 ヒマーチャル小出し劇場(30) ンガッパ・イェシェ・ドルジェ・リンポチェとジルノン・カギェリン・ゴンパ/2016年1月28日木曜日 ンガッパ・イェシェ・ドルジェ・リンポチェ補足
2016年6月10日金曜日~8月1日月曜日 ンガッパ・イェシェ・ドルジェ・リンポチェの悪霊祓い(1)~(13)

後者は、最後のまとめがまだ書かれていませんが、って人ごとみたいですが(笑)。陰陽師、祈祷僧、日本の憑きもの、道教呪術、インド呪術まで手を広げて調べ出して、収拾がつかなくなってます。

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それにしてもSERNYA専属イラストレーター蔵西さんの絵のクオリティは一段と上がっている。絵の描ける人がいる学術報告が、いかに充実したものになるか思い知らされます。

むしろ蔵西さんがマンガの世界に戻ってこれなくなるんじゃないか、と心配。まあ、それは冗談としても。

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・平田昌弘 (2017.2) ユーラシアにおけるチベットの乳文化の体系. Sernya, vol.4, pp.36-39. 

これまで、内陸アジアの乳製品文化については、モンゴルのものが取り上げられる機会がほとんどだった。私も乳製品に関する本はたくさん持っているが、その内陸アジア乳文化のパースペクティブの中に、チベット乳文化を置いてみるという、最近ご無沙汰だったアプローチの論考。

地域の比較から、時間と人・文化の移動を読み取る、つまり歴史を読み取る、ことを心がけている歴史好きとしては、とてもおもしろい論考でした。

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・海老原志穂 (2017.2) ラダックで唯一の小説家 ツェワン・トルデン. Sernya, vol.4, pp.119-123.

Ladakhももう十数年行っていないので、こうした動きも全く感知できない人になってしまいました。昔は日本にいながらも、Ladakh Ladags Melong ལ་དྭགས་མེ་ལོང་། la dwags me long/という雑誌を購読していたりしたんですけどね。

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長くなったので紹介もこれくらいにしておきますが、会期もあとわずかですが、ぜひ行ってみてください。

これだけ充実した展覧会だと、日本中を巡回してもいいですね。もうオファーは来てるかもしれませんが。まあ、それだとスタッフが死んじゃうか・・・。

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(追記)@2017/03/11

映像「チベット牧畜民の一日」を見て、ふと思った疑問

(1) 犬がいない!

ドクパの家庭で犬がいない、というのは見たことない。しかしあの映像には、犬が全く出てこない。なぜだろう?

チベットの犬、特にドクパが飼っている犬はかなり凶暴だ。家族以外にはなかなか慣れない。よく来るお客にさえワンワン吠えまくる。私も何度も噛みつかれそうになった(投石で撃退)。

映像の家庭でも絶対、犬を飼っているはずだ。

おそらくだが、日本の研究者が長期滞在する間、犬に噛まれるのを防止するため、滞在期間中はどっかよそに預けていたんではないかと推察する。

チベットの犬は狂犬病の予防注射など受けていないから、噛まれたら狂犬病になってしまうおそれが充分あるのだ。

ということだと思っていますが、ホントのところは知りません。

(2) 便所はどうなっているんだろう?

これは、上の「犬がいない!」とも関係する話。

まあ、なくても当たり前なんだけど、映像には便所についての話がない。でも気になりますよね。どうなっているのだろうか?穴を掘ってためているのだろうか?それとも、そこら辺でしてしまうのか?

私は後者だと思いますね。となると、そこら辺がウンコだらけになる?

大丈夫なのです。ブツは全部犬が食べてくれるから。野糞をしていると、ドクパの犬たちが、それまでギャンギャン吠えていたくせに、前足をチョコンと揃えておとなしく終わるのを待っている。そういう世界です。

で、あの映像で、「犬を預けていた」とすると、その間ブツの始末はどうなるのか?などなど、とても気になります。

今日、上映会に行く人は、その辺を質問するのも面白いかも。誰かお願いします(笑)。

2017年3月7日火曜日

地名がチベット文字表記のWeb Map発見

チベットの地名で、チベット文字表記を知りたい時はどうしていますか?

私の場合は、ほとんど

ཨ་མྱེས་རྨ་ཆེན་བོད་ཀྱི་རིག་གཞུང་ཞིབ་འཇུག་ཁང་། a myes rma chen bod kyi rig gzhung zhib 'jug khang/ Amnye Machen Institute (1998) རྒྱ་དམར་གྱི་བཙན་འོག་ཏུ་གནས་པའི་བོད་དང་ས་འབྲེལ་ཁག་གི་ས་ཁྲ། rgya dmar gyi btsan 'og tu gnas pa'i bod dang sa 'brel khag gi sa khra/ TIBET AND ADJACENT AREAS UNDER COMMUNIST CHINA'S OCCUPATION 1 : 3,200,000. Amnye Machen Institute, Dharamsala.

で事足りていますが、時々

・武振華・主編, 国家測絵局地名研究所・編 (1996.8) 『西藏地名』. 32+593pp. 中国藏学出版社, 北京.

を使うこともあります。ただしこれは自治区のみ。

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Web上の地図では、もちろんGoogle Mapを使うことが多いのですが、チベットの地名は漢字表記のみなので、チベット文字表記を知る目的では使えません。

それが、偶然だったのですが、チベット文字表記のWeb Mapを発見しました。これです↓

・OpenStreetMap Foundation/OpenStreetMap(as of 2017/03/01)
http://www.openstreetmap.org/

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ラサ ལྷ་ས་ lha sa 拉薩周辺を出してみましょう。


OpenStreetMapより

どうですか?Amnye Machen Instituteの地図と比べると、ちょっと地名が少ないような気もしますが、Web上にはこれまでこういう地図はなかったのですから、最初から贅沢を言ってはいけませんね。

特に、身近にチベット文字表記の地図がない人にとっては、かなり使いでがあるはずです。

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OpenStreetMap(OSM)の特長としては、市街図がきれいなこと。

ラサ市街にズームしてみましょう。


OpenStreetMapより

美しいですね。

Google Mapなどに比べると情報量は劣りますが、地点・場所情報も今後充実していくのかもしれません。

そう、実はこのOSMというプロジェクトは、誰でも情報を書き入れることができる、いわば地図版Wikipediaなのです。だから、今はわざと情報量を少なめにしてるのかもしれません。

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結構マイナーな場所でも、市街図はしっかりしています。

これはカムのチャムド ཆབ་མདོ་ chab mdo 昌都。


OpenStreetMapより

「あなたが情報を入れてください」と言っているかのような、まるで白地図です。

重宝するのはガイドブック屋さんでしょう。昔は私も、地図も何にもないところで、コンパス(磁石)と歩測で町の地図を作っていましたが、もうこういうものをベースに地図を作ることができるようになっているのですね。

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しかしこういう市街図は、一度作れば当分OK、とはいかず、常にアップデートを繰り返さなくてはならない宿命にあります。でないと、「この地図、情報古いや」と批判され、すぐにアクセスしてもらえなくなります。ユーザーは勝手ですよね。

はたして、OpenStreetMapがその需要に答えられるかどうかは未知数です。

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チベットから国境を越えて、Ladakhに入ると、残念ながらチベット文字表記はありません。

一方、Bhutanに入ると、なんとアルファベットなしでチベット文字表記のみ???大丈夫か、これ?

インドは、Devanagariなどのインド諸文字表記には対応していません。これも残念。まあ、これはGoogle Mapが対応しているからいいんだけど。

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まだまだ不備は多いようですが、なかなか使いでがあります。今後にも期待しましょう。

2017年3月4日土曜日

2014年のケサル・シンポジウムのProceedings

を入手しました。

・東方学会・編 (2016.10) 『シンポジウム 「ケサル/ゲセル王伝の伝承と現在」(第59回国際東方学者会議 2014年5月24日)』. 100pp. 東方学会, 東京.(限定頒布)



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2014年5月24日のシンポジウムのProceedingsです。中心になったのは中国文学者の戸倉英美先生。

中身を紹介しておくと、

1. 戸倉英美 (2016.10) シンポジウム 「ケサル/ゲセル王伝の伝承と現在」趣旨説明. 『シンポジウム 「ケサル/ゲセル王伝の伝承と現在」』所収. p.3. 東方学会, 東京.

2. 大谷寿一 (2016.10) ケサル大王 生きている英雄叙事詩. 『シンポジウム 「ケサル/ゲセル王伝の伝承と現在」』所収. pp.7-9. 東方学会, 東京.

3. 李連栄 (2016.10) 西藏《格薩爾》史詩之安多類型的特点. 『シンポジウム 「ケサル/ゲセル王伝の伝承と現在」』所収. pp.11-36. 東方学会, 東京.

4. 藤井真湖 (2016.10) 「モンゴル・ゲセル」とモンゴル英雄叙事詩の伝承スタイルの相違 馬の隠喩・パフォーマンス形態等の検討を通して. 『シンポジウム 「ケサル/ゲセル王伝の伝承と現在」』所収. pp.37-49. 東方学会, 東京.

5. 岡田千歳 (2016.10) パキスタン北部バルティスタン地方の『ケサル物語』伝承の現状と課題. 『シンポジウム 「ケサル/ゲセル王伝の伝承と現在」』所収. pp.51-65. 東方学会, 東京.

6. 岡田充博 (2016.10) 人を驢馬に変える妖術の話とその伝播 『シッディ・クール』『ゲセル・ハーン物語』所収話をめぐって. 『シンポジウム 「ケサル/ゲセル王伝の伝承と現在」』所収. pp.67-82. 東方学会, 東京.

7. 若松寛 (2016.10)  『ゲセル』とギリシア神話. 『シンポジウム 「ケサル/ゲセル王伝の伝承と現在」』所収. pp.83-85. 東方学会, 東京.

8. 宮本神酒男 (2016.10) ケサル王変遷史 曖昧な古代の起源から、ニューエイジ世代の救世主や漫画のヒーローとなるまで. 『シンポジウム 「ケサル/ゲセル王伝の伝承と現在」』所収. pp.87-94. 東方学会, 東京.

9. 戸倉英美 (2016.10) シンポジウム 「ケサル/ゲセル王伝の伝承と現在」報告. 『シンポジウム 「ケサル/ゲセル王伝の伝承と現在」』所収. pp.95-96. 東方学会, 東京.

10. Hidemi TOKURA (2016.10) The Transmission and Present State of the Epic of King Gesar. 『シンポジウム 「ケサル/ゲセル王伝の伝承と現在」』所収. pp.97-100. 東方学会, 東京.

あとでコピペして使いやすいように、収録書名も入れたままにしました。まとめて見るとちょっと鬱陶しいですが。

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李先生の論文3は、

・李連栄(ゾンジェジャムツォ) (2007.6) 中国における叙事詩「ケサル王伝」採集と研究の理論と実践. 日本西藏学会会報, no.53, pp.59-71.
http://ci.nii.ac.jp/els/110009841245.pdf?id=ART0010354422&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1488592493&cp=

を発展させたもの。いわゆる研究史だけではなく、中身の考察も加えられ、充実した内容になっています。

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岡田先生の論文5も、

・岡田千歳 (2001~03) 叙事詩「ケサル物語」の挿入歌について パキスタン北部バルティスタンの調査報告(1)~(3). 桃山学院大学教育研究所研究紀要, no.10~12.

を敷衍したもの。上記論文は、「ケサル王物語」の挿入歌に焦点を当てたものだが、今回はエピソード一覧などもあり、Baltistanの「ケサル王物語」の構造がより把握しやすくなっています。

ざっと見たところ、Baltistanでしか見られないようなエピソードが多数あり、「ケサル王物語」はBaltistanで独自の進化をとげているようですね。すごくおもしろい。

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6、7は、「ケサル王物語」の特定のエピソードを取り上げて、いろいろな物語類型と比較した論考。

「ケサル王物語」の謎の解明には、こういうアプローチが重要だと思っています。

というのも、「ケサル王物語」には世界各地の物語類型が、たくさん見られるから。ほとんど類型ばかりでできていると言ってもいいでしょうね。

上記論考は、全体構成とかエピソード骨格の類型比較まで至っていないので、今後そちらまで発展させてほしいアプローチ。

若松先生は、ギリシア神話との比較について述べておられますが、日本神話と共通するエピソードもあるんですよ。そこも「ケサル王物語」の面白いところ。

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また、以前紹介した

・角道(かくどう)正佳 (1997) 土族のゲセル. 大阪外国語大学論集, no.18, pp.225-250.
http://ci.nii.ac.jp/els/110004668876.pdf?id=ART0007399804&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1488589713&cp=

のように、各地の「ケサル王物語」を比較する研究と、物語類型との比較を並行して進めることで、「ケサル王物語」はかなり解明が進むと思っています。

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各論考タイトルを見ていくと、「伝」という表記と「物語」という表記が混在していることに気づきます。

私はགེ་སར་གྱི་སྒྲུང་། ge sar gyi sgrung/には、史実性はほとんどないと考えているので、「物語」を使うようにしています(以前「伝」と書いてしまったことはあるかもしれませんが)。

上述のように、「ケサル」の中に物語類型を続々発見してしまうと、なおさらそういう気になりますね。

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ところで、この本は、一応東方学会の名前で出ていますが、東方学会の正式な出版物という扱いではなさそうです。奥付もありません。巻末に「2016年10月」とあるので、辛うじて発行年月がわかる程度です。ほぼ、関係者のみに配布された私家版と言っていいでしょう。

興味のある人は結構いるんではないか、と思いますが、残念ながら入手方法はわかりません。私のは、ある方から頂いたものでした。

せめて国会図書館、東京都立図書館、主要な大学図書館などには寄贈して、一般人の目にも触れるようにしてほしいところですね。

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ケサルの話も頭の中にはあるんだが、忘れてしまいそうだし、私だって(一般論として)いつ死ぬかわからんので、そのうちざざっとでも書きましょう(←話半分)。

2017年2月25日土曜日

「地層はねじ曲が」っているか?@Near Khalsi, Ladakh

Leh – Srinagar Roadは、Lehから西へ向かうと、Indus河沿いにあるドライブインの町Khalsi མཁར་ལ་རྩེ་ mkhar la rtseの先でIndus河から離れ、Lamayuru བླ་མ་ཡུ་རུ་ bla ma yu ru~Fotu La ཕུ་མཐོ་ལ་ phu mtho laへ向けて登っていきます。

最近は谷沿いの道が開通し、ほとんどの車両はそちらを通りますが、以前はヘアピン・カーブの連続で急斜面を登って行く、Hangru Loopsというルートを取っていました。


Google Mapより

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そのHangru Loopsで高度を上げ、その途中からIndus川沿いの山を見るとこんなふうに見えます↓


Google Earthより

上の地図の、北向き矢印の方向に見ています。

探せば、写真もあるような気がしますが、探すのも面倒なので、Google Earthで代用させていただきます。Lamayuruに行ったことのある人なら、見覚えある風景でしょう。

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この山並みには、地層がうねうねと波打っている様子が現れていますね。

なかなか美しい風景なのですが、これをTVのナレーションやガイドさんが「造山運動の力で、地層がぐにゃぐにゃにねじ曲がっている。自然の力の大きさを感じられる場所」などと説明しているのを、何度か聞いたことがあります。

それを聞くたびに「あ~あ、また言ってるよ。かわいそうに」と思うのですが、誰も指摘しないので、このままだと、本当にそうだと思い込んでしまう人が続出しそうです。

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本当に「地層はねじ曲がって」いるのでしょうか?たしかにこの角度だと、うねうねしているように見えますね。

では角度を変えて、反対側、北側から伏角70度くらいで、この山並みを見下ろしてみましょう。上の地図の南向き矢印。


Google Earthより

するとどうでしょう、地層は全然曲がってなどいず、非常に整然としていることがわかります。まっすぐです。ただし、地層の傾斜は平らではなく、ほとんど垂直になっています。

ほぼ垂直に立っている地層にギザギザに切れ込みを入れてみましょう。するとこうなります↓



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さあ、これでわかりましたね。

あの「うねうね」は、地層が曲がっている姿ではなく、単に地形のうねうねを見ているだけだったのです。

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現場で誰かが「地層がねじ曲げられている」と言っていたら、あとでこっそりこのことを教えてあげてくださいね。TVの人には・・・しょうがないので、その時は恥をかいてもらいましょう(笑)。

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もっとも、この地層が立ってしまったのは、もっと大きなスケールでの地層のねじ曲がり(褶曲)の一部で、たまたま垂直になっている部分を見ているわけです。

その意味では「造山運動の力で、地層がねじ曲がっている」のは間違いないのですが、あの部分だけを指して「地層がねじ曲がっている」という表現は誤り、ということです。

2017年2月19日日曜日

ギャロン・ドブルの上九節

もうひとつ珍しい場所のニュースが引っかかってきました。

・新華網 > 江宏景・撮影/四川宝興 藏族群衆歓度“上九節” 2017年02月05日 16:01:58
http://news.xinhuanet.com/photo/2017-02/05/c_1120413223.htm

宝興県は、四川省成都市の西南西約100km、雅安市の北約50km。青衣江流域の県。


Google Mapより

ここはかつて、ギャロン རྒྱལ་(མོ་)རོང་ rgyal (mo) rong 十八王国(嘉絨十八土司)の一つ、ドブル མདོ་འབུལ་ mdo 'bul(穆坪/木坪)王国があった場所。ギャロン十八王国の中では、最も漢族居住地に近いところにあります。チベット文化圏の最前線です。

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1373年、丹紫江楚(タシ・ギャムツォ བཀྲ་ཤིས་རྒྱ་མཚོ་ bkra shis rgya mtsho)が創建間もない明朝に帰順。宣慰使司・董卜韓胡(stong dponナントカか?)の称号を得て、現・宝興県内を領地とした。

ドブル王家は、元代にはガクスル འགག་ཟུར་ 'gag zur(瓦寺=現・臥龍)にいて、そこでも韓胡董卜を称していたという。15世紀になるとガクスルにも王家が誕生。

ガクスル王家はキュンポ ཁྱུང་པོ་ khyung po氏なので、ドブル王家もキュンポ氏かもしれない。それは後で紹介する「上九節」の祭りからも推察可能。

「韓胡」についても、「khyung po」かも?とも思っている。

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また、ドブル二代目王・喃噶(ナムカー ནམ་མཁའ་ nam mkha'?)、三代目王・克羅俄堅(クラ・ウギェン སྐུ་ལྷ་ཨོ་རྒྱན་ sku lha o rgyan?)、七代目王・喃呆(ノルブー ནོར་བུ་ nor bu?)は、同時代のトスキャブ ཁྲོ་སྐྱབས་ khro skyabs(綽斯甲)王名とよく似ている(注)。この時代はトスキャブ王がドブル王を兼任していたのかもしれない。ドブル王家は、このトスキャブ王家の分家にあたる可能性、婚姻関係にあった可能性も考慮する必要がありそう。

ギャロン諸王家の系譜や、王家同士の関係は、まだまだわからないことが多いので、今後の研究でドブル王家の素性がはっきりするかもしれない。

(注)

トスキャブは、ギャロンの中心部バルカム འབར་ཁམས་ 'bar khams 馬爾康の西約40km。

トスキャブ王
22代目 南木喀斯増(南木喀斯丹増) ནམ་མཁའ་བསྟེན་ (ནམ་མཁའ་བསྟན་འཛིན་) nam mkha' bsten (nam mkha' bstan 'dzin)
23代目 葛拉些日加爾 སྐུ་ལྷ་ཤེས་རབ་རྒྱལ་ sku lha shes rab rgyal
25代目 納武日加爾 ནོར་(བུ་)རྒྱལ་ nor (bu) rgyal

トスキャブ王家は、ギャロン諸王家の大半を占めるダ སྦྲ་ sbra氏一族の総本家に当たる。トスキャブ王家の系譜はよく残っていて、10世紀くらいまで遡れそうだが、唐代の東女国(諸国)とどう結びつくかはわかっていない。

sbra(ng)というのは、suvarna(gotra) सुवर्ण(गोत्र)(金(族))がチベット語化したものと考えられており、かつてチベット西部にいた女国=蘇跋那具怛羅の氏族が東遷したもの。女国東遷については、『安多政教史』などに書かれているので史実とみてよい。

なお唐代の、チベット西部の女国(東女国と呼ばれることもある)、ギャロンの東女国については、その名称がまぎらわしいので、私は「チベット西部の女国」=「上手女国」、「ギャロンの東女国」=「下手女国」と呼ぶようにしています。

この用語が広まるといいんだけど・・・。

ギャロン十八王国の分布



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18世紀の金川之役では、ドブル王国は清朝の側について、ギャロン諸王国を説得する側に回った。このため滅亡を免れた。

この頃は、ダルツェンド དར་རྩེ་མདོ་ dar rtse mdo(打箭炉/康定)のチャクラ ལྕགས་ལ་ lcags la王家(明正土司)と婚姻関係を結び、深い関係となっていた。なお、チャクラ王家は、ダ氏でもキュンポ氏でもなく、ミニャク མི་ཉག mi nyag(タングート)系氏族。

18世紀初、チャクラ王家からドブル王家に嫁いだ桑結 སེང་གེ seng ge センゲは、夫・雍中七立(雍中七力) གཡུང་དྲུང་འཕྲིན་ལས་ g-yung drung 'phrin las ユンドゥン・ティンレー[位:1710]の死後、ドブル女王となる[位:1710-25]。

チャクラ女王であった母(?)・工喀 ཀུན་དགའ་ kun dga' クンガー[位:1701-17]が死去すると、桑結はチャクラ女王も兼任[位:1717-25]。桑結の子・堅参達結 རྒྱལ་མཚན་རྡོ་རྗེ་ rgyal mtshan rdo rje ギャルツェン・ドルジェ[位:17125-33]もチャクラ王・ドブル王を兼任した。

ギャロン諸王国間では、このような婚姻関係が盛んに結ばれており、はっきり書かれているわけではないが、複数の国王を兼任している人物がかなりいると思われます。

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清朝滅亡後もドブル王国は存続してきたが、「改土帰流」の流れには逆らえず、1928年に王制は廃止。宝興県が設置された。

中心地は宝興鎮だが、ここは漢族圏に近いため、古くから漢化が著しかった。TV番組などで見る限り、チベット色は薄い場所のよう。

奥地にある磽磧蔵族郷(བོད་གྲོང་ bod grong)にはまだまだチベット文化が色濃く残っています。上記の祭りの記事は、この磽磧蔵族郷が舞台。やっと記事の話まで戻ってきた。

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「上九節」はチベットの旧正月ロサル ལོ་གསར་ lo gsar中国の旧正月・春節(を採用している(追記参照))から九日目を祝う祭り。豊作祈願の要素が強いようだ。ドブルに特有の祭りらしいが(追記参照)、由来や式次第については

・中文百科在線 網路百科新概念 > 上九節( 最新編輯:hcl112233 (2011/10/8 14:48:52))
http://www.zwbk.org/zh-tw/Lemma_Show/218532.aspx

が詳しい。

これによると、「正月九日目に、上天より派遣された神鳥(嘉窮)=キュン ཁྱུང་ khyung=Garudaが、人々を苦しめていた大蛇を退治したことを祝う祭り」だという。やはり、ダ氏/キュンポ氏(セ བསེ་ bse部族)が持つキュン神話が出てきました。キュンはセ部族のトーテムであり、彼らはキュンの子孫と称しているのです。

しかし、神話はさておき、ロサル九日目というのがどっから来た風習なのかは、今ひとつわからない。

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式次第を見てみると「天鵝孵蛋」という催し物もある。どうもガルーダが卵を産み、そこから諸族が生まれていった、という起源神話らしいが、催し物を見ると、あまりその色彩はないですね。

広場の中央に高く積んだ、足場と丸太の柱の上での曲芸が主になっているよう。ひと通り見ても、ガルーダらしき姿がない。オリジナルからはだいぶ変形しているような気がした。

祭りの写真ではやたらと竜が出てくる。これは悪役であったはずの大蛇が、いつの間にか竜に変わってしまったのだろう。そして、あたかも竜が主役のように幅を利かせ、ガルーダはその姿すら見えない。

かなり、漢族の祭りの影響が強くなっているように見受けられました。

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この祭りが開かれている磽磧蔵族郷をGoogle Mapで見ると、なんとその中心部には巨大なダムが出来て水没しているではありませんか!びっくり。

幸いその周辺部の山腹に集落がたくさんあるので、住民はそちらに移住しているのだろうけど、中国の変わり様はとにかく早い。

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ギャロンは四川省にあり、カムにほど近いが、アムド文化圏なのです。記事の写真を見ても、毛皮の帽子などはアムドっぽい。ドブルがギャロン十八王国の一つであることが実感できますね。

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この地域はかつて日本のTV番組でも紹介されたことがあります。

・地球に好奇心 パンダ 野生の謎に迫る 中国原始の森で何が? 2002-05-04 NHK-BS2
制作:博宣インターナショナル
四川省宝興県(旧・ドブル王国=穆坪土司領内)パンダ保護研究所の保護活動と、奥地の磽磧蔵族郷で野生パンダを追う。レッサーパンダの映像も。75min.。

自然の紹介が中心で、チベット文化については少しだけ。すごく地味な番組でしたが、レッサーパンダは面白かった。

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一般にはチベット文化圏としては知られておらず、ガイドブックなどでも取り上げられたことがない地域だが、なかなかおもしろそうな場所ですね。

成都からも近く、山越えもないので、これから観光地として急速に発展していくかもしれない。私も一度行きたいなあ。ギャロン方面は一度も行ったことがない。

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文献 :

・智観巴・貢却乎丹巴繞吉・著, 呉均+毛継祖+馬世林・訳 (1989.4) 『安多政教史』. 742pp. 甘粛民族出版社, 蘭州.
・青海省社会科学院藏学研究所・編, 陳慶英・主編 (1991.6) 『中国藏族部落』. 14+5+651pp.
・雀丹 (1995.12) 『嘉絨藏族史志』. 3+806pp. 民族出版社, 北京.

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(追記)@2017/02/27

今気づいたのだが、上九節が行われるのは、「ロサルから九日目」ではなく、「春節から九日目」でした。

・松岡正子+高山茂 (1994.10) ギャロン・チベット族の年中行事と芸能. 比較民俗研究, no.10, pp.102-132.
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=4470&item_no=1&attribute_id=17&file_no=1

を見ると、ギャロンの特に漢族居住地に近い地域では、ロサルではなく春節を祝うところがあるらしい。それよりも、ギャロンの正月11月を祝う地域が多いらしい。かなり複雑ですね。

この論文では、もう一つ面白い記事を見つけた。上述のドブルの上九節と同じ祭りが、大金県(チュチェン/促侵/ラブテン)にもあるらしい。名称は「上九会」。チュチェン王家もキュンポ氏である。

2017年2月15日水曜日

雲南のモンゴル人+四川のモンゴル人

Himalayaの西はずれBaltistanから一転して、今度は東はずれ雲南です。

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私はGoogle Newsをカスタマイズして、チベット各地やヒマラヤ周辺、そしてモンゴルのニュースを表示できるようにしています。

カム・アムド方面はなかなか設定が難しくて、「四川|青海|甘粛|云南 藏族|蒙古|裕固|羌」という検索キーワードでなんとかニュースを表示させています。

チベット人だけではなくて、デード・モンゴル(青海モンゴル)のニュースも知りたいと思って「蒙古」というキーワードを入れているのですが、先日、意外にも雲南省のモンゴル人(雲南蒙古族)が引っかかってきました。初めてです。これは珍しい。

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・捜狐 > 旅游 > 肖育文/云南蒙古人,在紅土高原上繁衍生息了7百多年 2017-02-10 02:38
http://mt.sohu.com/travel/d20170210/125887707_154718.shtml

昆明市の南約70km、玉渓市通海県興蒙蒙古族郷。ここには約5000人の蒙古族(喀卓(ka zhuo)人)が住んでいます。雲南省在住の蒙古族の約半数がここにいます。

場所はこちら↓

















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見たところ、モンゴルの習俗は男性の民族衣装に色濃く残っているが、もしかするとこれは最近の復興かもしれない。女性の民族衣装などは、モンゴルというよりは雲南の少数民族との共通点が多く、一見しただけではモンゴルとは思えない。

言語はちゃんとモンゴル語。しかしモンゴル本土から孤立して700年。かなり独特なモンゴル語に進化しているらしい。

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はるか700年前、モンケの時代に雲南・大理王国を占領したモンゴル帝国は、フビライの代にはその子フゲチ(忽哥赤)を雲南王として置いた。

現在の通海県にもモンゴル駐屯軍が配され、現在の通海蒙古族はその子孫である。

雲南は、元代を通じてフビライの孫カマラ(チンキムの子)の系譜が梁王として雲南全域を治め、フゲチの子孫が雲南王として大理周辺を所領としていた。

1368年、大ハーン・トゴン・テムル(順帝)が大都を捨て北帰すると、多くのモンゴル人がそれに従った。しかし漢土に残ったモンゴル人もいた。

漢土に残ったモンゴル王侯の中には、明朝に抵抗していた勢力もいた。雲南の梁王(フゲチの子孫は代々雲南王だが、最後だけ梁王)把匝刺瓦児蜜(バツァラ・ワルミ)はその一人。しかしその梁王も1381年に明に投降。これでモンゴルによる雲南支配は終わった。

通海蒙古族もこの地に居残り、杞麗湖で漁業を営んできた。漁業とモンゴル人とはなんというミスマッチ。

その後、杞麗湖は干拓されて半分くらいの面積になってしまった。興蒙蒙古族郷も湖畔からかなり離れてしまったため、産業は今は農業と建築業が中心。

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実は私は雲南省には1回しか行ったことがなく、この興蒙蒙古族郷のことも知ってはいたのだが、そこまで手は回らなかった。いつか行ってみたいもんです。

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実は、興蒙蒙古族郷の他にも、四川省~雲南省には、このような元代モンゴル人の末裔があちこちにいます。

その中の一つが四川省・凉山彝族自治州・木里藏族自治県・屋脚蒙古族郷(瀘沽湖の北約20km)。ここには約750人のモンゴル人が住んでいます。

こちらは、

・テレビ東京+PROTX (1993.7) 日本人の源流 ヒマラヤ最東端 秘境に生きる女たち ムーリ高地. テレビ東京.

の一部で、その映像が紹介されたことがありますね。

モンゴル人らしさもところどころに残っていましたが、こちらも周辺民族、特に彝族からの影響が強く、民族衣装ではすぐには見分けがつきません。

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四川省には、この元代モンゴルの末裔の他に、清代の17世紀に満州兵と共に駐屯したモンゴル兵の子孫もいます。成都市が中心。人口約1000人。しかしこちらは、満族と共に早くから漢族に同化してしまい、あまり目立つ存在ではないようです。

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しかし、ロシアのKalmuyk(+テュルク化したTatar諸民族)、AfghanistanのMoghol、(ペルシア系言語話者になっているが)Hazara、それに雲南・四川の蒙古族と、モンゴルの広がりは本当にすごいですね。もちろん、チベット在住のモンゴル人(+チベット化したモンゴル末裔)も。

ブフ(モンゴル相撲)の世界大会には、ぜひこれらのモンゴル人たちも呼んで、本当の「世界大会」にしてほしい。

まあ、大モンゴルの結束を心底警戒している、中国やロシアに邪魔されるとは思うんだけど・・・。

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文献:

・四川省民族研究所 (1982.8) 蒙古族. 四川民族研究所・編 『四川少数民族』所収. pp.98-101. 四川民族出版社, 成都.
・木村肥佐生+鯉淵信一 (1984.11) 中国・雲南蒙古族研究ノート. アジア研究所紀要, no.11, pp.77-112.
・鄧啓耀 (1990.4) 蒙古[モンゴル]族. 中国雲南人民出版社・編,宋恩常・主編 『雲南の少数民族』所収. pp.196-203. 日本放送出版協会, 東京.
・鎌澤久也・文+写真, 楊海英・文 (1993秋) フビライの末裔たち. 季刊民族学, vol.17, no.4, pp.30-43.
・松沢哲郎+成瀬哲生+池上 哲司+辻本雅史 (1994.12) 少数民族のアイデンティティー 中国雲南省の蒙古族の調査から. ヒマラヤ学誌, no.5, pp.159-168.
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/185906/1/himaraya_05_159.pdf
・成瀬哲生 (1996.5) 雲南モンゴル族の村・興蒙雑考. ヒマラヤ学誌, no.6, pp.67-72.
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/185924/1/himaraya_06_67.pdf
・ユ ヒョヂョン (2002) 「飛び地の捨て子」か「新モンゴル人」か 中国雲南のモンゴル族. 東西南北-和光大学総合文化研究所年報, 2002, pp.109-117.

他にも、単行本の一部に含まれているかもしれないが、今は調べきれない。

Web上のもの

・中国国家地理網/中華遺産 > 民族與宗教 > 肖育文/変遷与固守中的雲南蒙古人(中華遺産 2009年第11期)
http://www.dili360.com/ch/article/p5350c3d9e964270.htm
・錦達/錦達的博客 > 到雲南走訪当地的蒙古族同胞 (2013-09-06 13:13:23)
http://blog.sina.com.cn/s/blog_53e218e00101cqfh.html
・豆辯 > 満族心 > 歴史 > 張利/成都市満族蒙古族歴史文化変遷(2014-02-03 16:12:15)
https://site.douban.com/125457/widget/notes/4971340/note/329166151/
・雲南省人民政府 > 旅游雲南 > 雲南少数民族 > 蒙古族(as of 2017/02/15)
http://www.yn.gov.cn/yn_lyyn/yn_ssmz/201211/t20121129_8732.html

2017年2月11日土曜日

Baltistan Arandoの雪崩被害

・INTERNATIONAL THE NEWS > National > Gilgit-Baltistan: Village under threat from glacier as all routes remain blocked (By Web Desk, February 08, 2017)
https://www.thenews.com.pk/latest/184849-Gilgit-Baltistan-Village-under-threat-from-glacier-as-all-routes-remain-blocked

Baltistanの奥地Arando(注)という場所で、氷河が崩壊し被害が出ているようです。

(注) Arandoはおそらくバルティ語(チベット語方言)の地名だが、チベット文字ではどういうスペルか今のところ不明。「ndo」はおそらく「མདོ་ mdo (川の)合流地点」。

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Arandoの場所はこちら↓












Google Mapより

Baltistanの中心地SkarduからShigar Nalla沿いに北へ約80km。人口などはわかりませんが、Google Mapで見ると、住宅は50軒程度、人口は300人位でしょうか。

Shigar Nalla南河畔にありますが、Shigar NallaはArandoのすぐ上流(西)でその名をChogo Lungma ཆུང་ངུ་ལུང་མ་ chung ngu lung maと名を変えます。そして、その上流部には、長大な氷河が発達しています(Chogo Lungma Glacier)。

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上記の記事では、氷河が「gliding=すべっている」と表現されています。そこで思い出したのが、以前取り上げた

2016年10月27日木曜日 ンガリー・アル・ツォ湖畔の雪崩の謎(続報)
2016年9月12日月曜日~2016年9月18日日曜日 ンガリー・アル・ツォ湖畔の雪崩の謎(1)~(4)

ここでは「サージ」という現象に起因する氷河の崩壊で、雪崩が平地を2km余りも滑って行くという、驚異的な現象を起こしていました。

このArandoでもこの氷河サージが起きているのではなかろうか?と考え、ちょっと調べてみました。

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Google Mapより

これがArando周辺の衛星写真ですが、Chogo Lungma氷河の末端は、Arandoの西約1kmまで迫っています。

このChogo Lungma氷河が崩壊したのでしょうか?どうもそれは考えにくい。

というのは、上記アル・ツォ湖畔の雪崩は、山地の急傾斜地にある氷河が崩壊し、直下の平地になだれ込んだものでした。

ところが、Chogo Lungma氷河は、かなり上流までゆるい傾斜が続いています。たとえ仮にChogo Lungma氷河でサージ現象が起きたとしても、平地を1kmも滑る雪崩を発生させる重力エネルギーがあるような気がしない。

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Arandoの南に急傾斜の谷があり、村のすぐ東には、この谷からもたらされた土砂が大量に堆積しているのが見える。雪崩を起こしたのはこちらの谷であろう。

よくよく見ると、その土砂は大量で、大きな岩も含んでいるなど淘汰が非常に悪い。通常の氷河末端河川でもたらされた、というよりは暴発的な雪崩、あるいは土砂崩れでもたらされた土砂のように見える。

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Google EarthでArandoの北東から眺めてみましょう。















Google Earthより

かなり凶悪な地形であることがわかります。

最上流部には複数の氷河が発達していますが、中流部には氷河はありません。

しかしその山肌を見ると、明るくフレッシュな色をしています。この部分には最近まで氷河があって、それが崩壊して雪崩・土砂崩れを起こしたものとみられます。氷河が崩壊した際に、山肌も削り取りながら下って行ったのではないでしょうか。

歴史上それが何度も繰り返されてきたのでしょう。Arando周辺には分厚く土砂が積もり、扇状地とも崖錐ともつかない急斜面が形成されています。

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もうちょっと引いた絵も見てみましょう。












Google Mapより

上流部には氷河が5本も発達していますね。中流部には氷河はありませんが、この写真は2016年に撮影されたもののようですので、そこにはまだ氷河は復活してはいないでしょう。

とすれば、今回崩壊を起こしているのは上流部にある氷河なのかもしれません。

(追記)@2017/02/11

と思ったら、拡大してよくよく見ると、中流部でも上の方にはすでに氷河がある。表面が汚れているので、わかりにくかった。失礼しました。

今回崩壊したのはこちらでしょうかね。

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アル・ツォ湖畔の氷河崩壊では、降水量の増加によって氷河下面に水がたまり、氷河が滑り落ちる「サージ」という現象が想定されています。

しかしアル・ツォ湖畔の氷河崩壊が起きたのは夏でした。今回は真冬です。サージで説明できるのでしょうか?何か別のメカニズムなのかもしれません。

(追記)@2017/02/11

ニュースでは「氷河の崩壊」とされているようですが、ここ数日の積雪による表層雪崩が発生し、途中で氷河の一部を剥ぎとってその氷塊も到達した、ということかも・・・などとも考えています。

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それよりも、今はArandoの村人への救援が重要。Arandoでは数日で3mの積雪があり、交通はシャットアウト。救援隊は徒歩でArandoへ向かっているとのことです。

被害が最小限に留まることを祈ります。

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(追記)@2017/02/14

Arandoの標高はというと、約2760m。Baltistanは低い。こんな奥地に行ってもまだ3000mに達しないのだ。

Arandoの美しい写真↓

・Twitter > PakistanTravelGuide@PakTravelGuide > Arando Shigar Skd , Gilgit Baltistan Pakistan ان وادیوں میں یونہی ملتے رہیں گے...
دل میں وفا کے دیے جلتے رہیں گے... By : ImtiZs photographY (9:31 - 2017年2月9日)
https://twitter.com/search?f=tweets&q=arando%20baltistan&src=typd

日付がごく最近だが、上記のニュースを見て貼ったのかもしれない。それにしてもすさまじい風景ですね。早く平穏な日々が戻ることを・・・。

ところで、この写真はArandoと言っても、本村から3kmほど東にある扇状地上の小さな集落(2710m)だと思う。分村なのかもしれない。

Google Earthで見るとこんな感じ。たぶんここでしょう。












Google Earthより

2017年2月3日金曜日

意外なチベットものマンガ ふみふみこ 『タルパちゃん』

意外なところでチベットものに遭遇。

・ふみふみこ (2014.10) 『人工精霊 タルパちゃん』(KC Kiss). 123pp. 講談社, 東京.
← 初出 : Kiss plus, 2013年5月号~2014年3月号/Kiss, 2014年4月号, 11月号.














装丁 : 川名潤(pri graphics inc.)

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「タルパ」とはなんでしょうか?このマンガにも軽く説明があります。














同書, pp.6-7.

タルパとは

何もないところからつくりだす
会話のできる架空人物・キャラクターのこと

妄想では自分で考えないと会話できないが
訓練してタルパをつくりだせば
他人と会話しているような会話ができ、
その姿を見ることもできる

タルパのつくりかた

1. つくりたいキャラクターの写真、絵を用意する そしてそのキャラの細かい性格を決める

2. 何回もそのキャラに話しかけ その返事をする様子を想像する その返事は設定したキャラの性格にあった返事を考える

最後に写真や絵を使わず そのキャラを視覚化していく

暗くした部屋で 壁などに向かい合わせに座り 空中に向けてイメージすると 良い

だそうです。

へえ、こんな妄想で作る人格が、けっこう一般的になっていたなんて・・・。

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このマンガに出てくる「タルパ」は、

ペンギン(小言の多いお祖母ちゃんがモデル)=ぽんちゃん(表紙の子)
あまり役に立たない世話を焼いてくれる小人
愚痴を聞いてくれるワニ
相づちを打ってくれるだけのおばあちゃん
迷った時の最後のひと押しをしてくれる仙人
話しかける練習用同級生
俺様系彼氏
コスプレ魔法少女のマスコット
子犬系彼氏

なんだか、あとの方ほどヤバそうですが・・・・。

最近は女子でも、妄想癖があることをカミングアウトする人が出てきていますが、ここまで露わにするようになっていたとはなあ。

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で、「女子の考えることはわかんねーや、ついて行けない・・・」とボヤきつつ読み進めたところ・・・、














同書, p.32

タルパ――――――――

それは無から作り出す
会話のできる架空人物・キャラクターのことである

チベット密教の秘奥義であり
姿も見え 会話もできる
そうした霊体を修行により
作り出すことができるのである!!

これぞチベット三千年の歴史!

「えーっ!?」ですよ。まさか、こんなところにチベット密教が登場するとは・・・。

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というわけで、さっそく調べたところ・・・

何のことはない。すでにWikipediaに項目が立っているではないですか。知らなんだ、そんなポピュラーになっているものだったとは。項目名は「トゥルパ」ですが。

・ウィキペディア > トゥルパ (最終更新 2016年11月18日 (金) 04:50)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%91

「トゥルパ སྤྲུལ་པ་ sprul pa 化身」が、発音に従って「tulpa」と表記され、これを英語風読みをして「タルパ」になったようです。

また「英語風の読み」が悪さをしてますね。なんとかならんもんかなあ。

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一方、2ちゃんねらー御用達のVikipedia フリーVIP百科事典には「タルパ」そのものの項目が立てられています。

・Vikipedia フリーVIP百科事典 > タルパ(最終更新日時は 2015年12月17日 (木) 14:45)
http://2ch.me/vikipedia/%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%91

意外にまともな記述。「タルパ」の現状についてはこちらを見たほうがわかりやすいでしょう。

「イマジナリーフレンド」という、マンガとほぼ同一の概念が紹介されていますね。

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チベット密教の修行では、神仏を観想し、眼前に神仏が降臨していると想像し、その神仏と自己を同一化させる、生起次第というヨーガを実践します。

降臨した神仏は人や物に宿る場合もあり、その場合が「トゥルパ」になります。特に高位の神仏、あるいは高僧が死後、人に宿る場合、その尊敬語として「トゥルク སྤྲུལ་སྐུ sprul sku」と呼ばれます。

このうち、観想による神仏の降臨を少し曲解し、さらに宗教性を消したものが、このマンガで言う「タルパ」になるでしょうか。

「トゥルパ」が「タルパ」になるまでに、途中に神智学あたりが噛んでいるような気もしますが、今はそこまで調べる気はしないなあ。

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・ポックル/タルパ資料室(2016/02~)
http://tulpa.blog.jp/

というblogもあります。

タルパ誤解の流れ 2016年02月03日
http://tulpa.blog.jp/archives/3534559.html

あたりはなかなかおもしろい。が、あとの項目はタイトルだけで中身なし。宣言したらちゃんと書いてほしいなあ(あっ、人のことは言えない身だった)。

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それにしても、自分の知らないところで、意外な形でチベットものが浸透していることを知って驚いた一件でした。

2017年1月29日日曜日

ヒマーチャル小出し劇場(38) Kinnaur Labrang Kharに屋根がついてる!?

Labrangとは、Middle Kinnaurにあるリンチェン・サンポゆかりの村Kanamの隣り村。Kinnaurではおなじみの角塔砦がそびえる村だ。













私が初めて訪れた1997年当時は、ガイドブックはもちろんのこと、学術書などにも、Labrangについてはいっさい情報がなかった。

Kanamに行った時に、谷を挟んで変なもの(Labrang Khar)があるのを見つけてはじめて発見。驚いたものです。奥が深いんですよ、Kinnaurは。

例によって、ヒマーチャル・ガイドブックのボツ原稿から。

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◇ Labrang བླ་བྲང་ bla brang लबरंग <2940>

Kanam ཀཱ་སྣམས་ kA snamsから谷を挟んで対岸に位置する急斜面に開けた村。人口約700人。リンク・ロードからは約200mの急登。

村を睥睨する角塔城跡が遠くからもよく目立つ。この他興味深い寺院がいくつかある。集落内はチョルテンやマニ壇だらけで、ひときわチベット色の濃い場所。斜面に密集して立ち並ぶ住宅はいずれも2~4層の立派なもので、上部は張り出しバルコニーになっており、村全体が一つの要塞のようだ。

◆Labrang Khar བླ་བྲང་མཁར་ bla brang mkhar

村の南側最上手に立つ7層の大角塔建築。その手前がSakangshu Mandir。Labrang KharはMorang Kharよりも一回り大きく高さ約30m。高台に立っていることもあり実に勇壮だ。

これもMorang Khar同様、地元のThakurによって建てられたものらしく、中世の集落間抗争時代のなごり。それにしても村の規模には似つかわしくない大きさだ。

壁はおなじみ、平石を積んだ層と太い角材を交互に積み上げたKatkuni構造。第5・6層と最上第8層には張り出しバルコニーが回してあったようだが、現在は骨組みが残るのみ。最上層は特に崩壊が著しい。内部には入れない。

その下手にもちょっと小振りの5層角塔が立つ。こちらは保存も良く、張り出しバルコニーが美しい。

(以下省略)

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で、ちょっと久々にLabrangを検索したところ、こんなサイトを見つけた。

・HubPages > Travel and Places > Visiting Asia > Southern Asia > India > Sanjay Sharma/The Kinner Tribe of Kinnaur (Updated on September 13, 2016)
http://hubpages.com/travel/The-Kinner-Tribe-of-Kinnaur

真ん中あたりのHouses in Kinnaurで、左から3番目の写真をクリックすると
https://usercontent2.hubstatic.com/8979103_f520.jpg

Labrang Kharが現れるのだが、なんと驚いたことに豪華な屋根がついている。バルコニーも新しくつけられている。

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角塔型の寺院・砦は、Lower KinnaurやShimla丘陵では雨や雪が多いので、反り屋根がついているが、Himalaya主稜を越えてチベット高原側のMiddle Kinnaurより上手に入ると反り屋根はなくなる。

これはHimalaya主稜を超えたところではぐっと降水量が減るから必要なくなるのだが、それはMorang Kharなども同じ。

上記サイトのずっと上の方、4. Gandharvas
https://usercontent1.hubstatic.com/8979106_f520.jpg

には、1860年のLabrang Kharの写真があり、私が撮った1997年の写真と同じく、屋根はない。おそらく昔からこうだったはずだ。

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いやあ、なんか違和感がすごいなあ。凝りに凝った屋根の意匠は、最近建てられた、あるいは再建された寺院の屋根とそっくり。これは、おそらく再現ではなく創作だろう。

日本だったら文化財に指定されるような建築をどんどん新しくしちゃう感覚は、日本人にはちょっと理解できない。観光客目当てなのだろうか?

あるいは、屋上はもともと土で固めただけなので、最近雨漏りがひどくなったのかもしれない。最近気候がだいぶ変わってHimalayaの裏手でも降水量が増えているし。

いつかまた行って、どういうことか理由を聞いてみたいところです。

2017年1月18日水曜日

モンゴル帝国歴史小説とモンゴル史研究者 (3) 『チンギス・ハン 世界を創った男』

・堺屋太一 (2007.7-.12) 『チンギス・ハン 世界を創った男 1-4』. 日本経済新聞出版社, 東京.
← 初出 : (2006.2-07.8) 日本経済新聞.
→ 再発 : (2011.8-.10) 『世界を創った男 チンギス・ハン 上・中・下』(日経ビジネス人文庫). 日本経済新聞出版社, 東京.


カバーイラストレーション : 横山明
ブックデザイン : 鈴木成一デザイン室+西山真紀子(albireo)
(日経ビジネス人文庫版)

カバー絵は、モンゴルというより、なんかスキタイみたい。

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チンギス・ハーンを取り上げた小説は、

・井上靖 (1960.10) 『蒼き狼』. 文藝春秋新社, 東京.
← 初出 : (1959.10-60.7) 文藝春秋.
→ 再発 : (1964.6) (新潮文庫). 新潮社, 東京./(1970.7) (旺文社文庫). 旺文社, 東京./(1996.4) 『天平の甍 海峡 敦煌 蒼き狼』(井上靖全集 12). 新潮社, 東京. ほか多数














カバー : 平山郁夫
(新潮文庫版)

をはじめ、枚挙にいとまがないが、『元朝秘史』をなぞるのが精一杯で、そこから一歩も出ない作品が多い。チンギス・ハーンの若き日に関する史料というのは『元朝秘史』しかないわけで、それに依存するのは仕方ない。だが、そこにどれだけオリジナリティを付加できるかが、小説家の腕の見せどころ。

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『蒼き狼』は、テムジン、ジョチの2代に渡る「俺は父親の血を受け継いでいないのではないか?」という葛藤が横糸となり、縦糸で流れるモンゴル勃興期の物語を奥深いものにしていた。

意図的に質実剛健に徹した文体といい、素晴らしい作品。若いうちに読んでおくべき必読書ですよ。まだ読んでない人は是非どうぞ。

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で、「堺屋チンギス」ですが、私は日経を読むような人ではないので、読んだのは単行本になってからでした。そもそも堺屋小説というもの自体読んだことがない。

堺屋先生は元・通産省官僚で、作家になった後も1998~2000年には経済企画庁長官を務めるなど、経済界の重鎮でもあります。歴史小説の中でも組織論や経済について語るなど、半分ビジネス書扱いされるような作品が多い。私はビジネス書・経済書のようなものも興味がないので、堺屋小説とはそれまで全く無縁でした。

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当然「モンゴル史ものだから一応読んでおくか」と、あまり期待しないで読み始めました。

最初は若き日のテムジン。当然『元朝秘史』に沿って、おなじみのストーリーが展開されます。どうということはない。

しかし、モンゴル語の用語や地名がやたらと充実しているのが気になった。そこで「モンゴル関係に強い協力者がいるな」と気がつきました。

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1巻を読み終わり、巻末の解説や注釈を見てびっくり。系図、地図、年表の充実ぶりたるやただごとではない。周辺の情勢や社会構造などにも目が行き届き、小説家だけでできる仕事ではない、モンゴル史に相当詳しい人、おそらく研究者が協力している、とまでわかりました。

『元朝秘史』だけでなく、『集史』や『聖武親征録』にも言及があり、研究者が深く関与しているのは確実となります。

協力○○とはっきり書かれていないので、誰だろう?といぶかしりながら、先を読み進めました。

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部族についてや移動・戦の場所についての言及が詳しく、どういう素性の誰、場所は具体的にどこ、というイメージをはっきり持って記述していることがわかり、すごく気持ちいい。記述がぼやけていないのだ。

テムジン=チンギス・ハーンがモンゴルを統一し、戦線が拡大してくると、金国やナイマン、またその彼方の情勢が詳しく語られる。広く歴史の大勢や政治情勢を把握していないと訳がわからなくなるところだが、それもしっかり押さえている。

モンゴル帝国の組織図なんてのまで出てきて、小説らしからぬ体裁が強まる。「こんなの必要か?」っていうくらい系図も一層詳しくなって来ました。この辺で「もしかするとあの先生か?」と目星がついてきたのですが・・・。

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耶律楚材も登場しますが、

「その方何ができる」
「さらば私、行政の方に通じ、詩作文書を能くし、占卜の術にも秀でております」
同書文庫版・下p.264

というわけで、どっちかというと杉山説を採用して、ハーン付きの占卜師という扱いになりました。

むしろ耶律阿海の方が登場回数が多く、こちらも杉山説を採用しているらしい。

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ホラズム遠征になると、歴史研究書・論文でも見たことないような詳細な経路図が出てきて、またもや驚かされる。ホラズム帝国年表まである。この辺まで来ると、協力している研究者が注釈を半ば乗っ取ったような格好になっている。

やり過ぎと感じる人も多いかもしれないが、これくらいやり過ぎたほうが歴史好きには断然面白い。大賛成です。

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西夏を占領したところでチンギス・ハーンが崩御。この小説もここであっさり終わりとなりました。

しかし予想を大きく裏切り、私にとっては大変楽しめた小説になりました。もっとも、それは小説の評価とは何か別のもののような気がしますが・・・。まあそれはどうでもいい。

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単行本の段階では、協力していた研究者が誰かはわからなかったのですが、文庫版のあとがきでようやくそれが明かされました。

本書の執筆に当たっては赤坂恒明氏の全面的な協力を得た。
同書・下・文庫版 p.466

やっぱり赤坂先生かあ~、ですね、感想は。系図がやたらと充実しているのに気づいたあたりで、もしかして・・・と思っていましたが、そういうことでしたか。考証がやたらとしっかりしているのも納得です。

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赤坂先生は一般書にはあまり登場しないので、モンゴル史研究者やモンゴル史好きにしか名前が売れていませんが、注目のモンゴル史研究者です。

・赤坂恒明のページ(開設 : 1997.12.22)
http://www.geocities.jp/akasakatsuneaki/akasaka.html

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・洋泉社 > 【ここまでわかった】戦国時代の天皇と公家衆たち(出版年月日2015/12/04)
http://www.yosensha.co.jp/book/b213586.html

によれば、

赤坂恒明 あかさか・つねあき
一九六八年千葉生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程退学。
現在、内蒙古大学蒙古学研究中心専職研究員・東海大学等非常勤講師。

だそうです。最近はモンゴル史だけではなく、日本史の分野でも活躍されているようですね。

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著作には、

・赤坂恒明 (2005.2) 『ジュチ裔諸政権史の研究』. ii+548+191pp. 風間書房, 東京.

があります。これがものすごい!

最近、世界史概説書(山川のとか『中央ユーラシアを知る事典』など)でジョチ家の系図がやたらと詳しくなったと思いませんか?ジョチ家主流だけじゃなく、その後継のアストラハン・ハーン家、カザン・ハーン家、カシモフ・ハーン家、クリミア・ハーン家や中央アジアのウズベク三ハーン国、カザフ・大中小ユズ、シビル・ハーン家まで、それまで漠然としか把握できていなかった巨大な系図が一目瞭然となっています。

これ、全部赤坂先生の仕事です。私もチンギス家の系図を作るのにかなり参考にさせていただきました。

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当初はジョチ家の系譜を追うことをテーマに研究をされていましたが、それは上記学術書の出版で一段落したようで、最近はモンゴル史を広く研究され、日本近世史の分野でも活躍されています。

赤坂先生の単著ではないので目立ちませんが、近著の、

・ボルジギン・ブレンサイン・編著, 赤坂恒明・編集協力 (2015.7) 『内モンゴルを知るための60章』(エリア・スタディーズ 135). 424pp. 明石書店, 東京.
・小松久男・編著 (2016.8) 『テュルクを知るための61章』(エリア・スタディーズ 148). 384pp. 明石書店, 東京.

もすごかった。驚いた。

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『内モンゴル・・・』では編集協力となっていますが、実質赤坂先生が編者でしょう。しかし内モンゴル人の研究者が続々と育ってきているのは間違いなく、それはうれしくも驚きでした。

同書では赤坂先生の執筆担当は、ハラチン部の日本人女性教師、トルグート部、黒竜江省のモンゴル人、新疆のモンゴル人(トゥバ人)、エベンキ/オロチョンなど。大筋は内モンゴル人研究者に任せ、手薄な項目を赤坂先生が埋めたという感じ。赤坂先生のモンゴルの隅々まで目が行き届いている実力がよくわかります。

『内モンゴル・・・』については他にも感想があるので、別稿で再論しましょう。とにかくモンゴル好きには必携書ですよ。

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『テュルク・・・』では編者ではありませんが、執筆項目のマニアックさ(学者にとっては当然だが)がものすごい。

テュルクの系譜、トゥバ、チュヴァシ/ガガウス、モンゴル帝国とテュルク、ハンガリーのテュルク学、在日トルコ・タタール、クリムチャク/カライム、南樺太のサハ人、キルギスの後裔、勇利アルバチャコフ(バシキール人)。いやいや、すごいですね。

こちらも必携です。

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これだけの実力者が協力したのですから、堺屋チンギス小説の考証が充実していないはずはないのです。読み応え十分、満足しました。

もっとも考証がしっかりしているからといって、小説の出来自体がいいかどうかはまた別のお話、また売れ行きもしかり。

一応文庫にもなって今も流通しているのだが、日経ビジネス人文庫というビジネス関連書の多いシリーズの中にあるため、どうにも目立たない。小説好きよりも歴史好きの人向きの作品と言えるでしょう。まだ読んでない人は是非。

なお、陳先生の『耶律楚材』や『チンギス・ハーンの一族』は文庫も全集も絶版のまま全滅。古本を、あるいは図書館で探してください。

2017年1月15日日曜日

早稲田大学 會津八一記念博物館 「チベット仏教の美術」展

を見て来ました。



会期 : 2016年12月8日(木)~2017年1月31日(火)
会場 : 會津八一記念博物館 2F 常設展示室
時間 : 10:00~17:00(入場は16:30まで)
閉館日 : 日曜・祝日
入館料 : 無料

・早稲田大学 > 早稲田大学 會津八一記念博物館 > ニュース > 特集展示 チベット仏教の美術(Tue, 06 Dec 2016)
https://www.waseda.jp/culture/aizu-museum/news/2016/12/06/1486/

・早稲田大学 > News ニュース > 「特集展示 チベット仏教の美術」展が開催中です(Posted Tue, 10 Jan 2017)
https://www.waseda.jp/top/news/47684

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私はGoogle Newsでチベット関係のニュースを表示させているのですが、今年になってからそのトップに、この展覧会のニュースが出るようになった。

全然知らなかったのでありがたい。というわけで、時間が取れる今のうちに行ってきたわけです。会期も今月いっぱいだし。

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早稲田大学に行ったのもだいぶ久しぶり。

南門通りを歩いて、「そういえば、カワチェンは昔ここにあったんだよなあ」などと思いながら。

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會津八一記念博物館は南門からすぐ。会場は2階、いろんな展示物と一緒。ケース4つとささやかな展示。

展示物リストは以下のとおり。


https://www.waseda.jp/culture/aizu-museum/assets/uploads/2016/12/bf02a842387416fed5a067dfbcd44cec.pdf

ツァツァ ཚ་ཚ་ tsha tsha(日干しあるいは素焼きの粘土製仏像小プレート)、陶仏、銅仏。いずれも10cm程度の小さいもの。

これは美術史家(でもある)會津八一先生が個人的に集めたものと、陸軍将校であった服部和彦氏が中国で集めたものだという(國學院大學にもコレクションがある)。年代は17~19世紀。

この時代になると、図像のスタイルはもうガチガチに固定されてしまい、仏像や仏画を見ても年代差や地域差はほとんどなくなります。ですから、見ただけだとあまり細かい年代や場所までは特定できなくなります。

「康煕帝のために作った」と銘があるものを含んでいるので、おそらくチベット本土の作ではなく、北京周辺で作られたものがほとんどなのではないだろうか。特に陶製の仏像というものは、チベットではまず見られないものだし。

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なぜか、やたらとツェパメ ཚེ་དཔག་མེད་ tshe dpag med 無量寿菩薩が多かったなあ。

「マハーカーラ(大黒天)立像」というものが珍しかった。まず木造であるのが珍しい。そして経典を抱えたグルキ・ゴンポ གུར་གྱི་མགོན་པོ་ gur gyi mgon poの姿、これもちょっと珍しい。これはサキャパの守護尊である。

チベット仏教の図像からは少し逸脱している感もあり、おもしろい像であった。

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尊格比定には田中公明先生が協力しているので、これはもう確実です。

ひとつ気になるのは、こういった仏教図像を紹介する本や展覧会では、いつまでたっても漢名とサンスクリット名だけの表記で、チベット語での表記がない。田中先生の近著でさえそう。

チベット文字フォントもだいぶ扱いやすくなっているし、そろそろチベット語・チベット文字での表記もしてほしい、と思う。

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この展覧会は会場の一部で、他にも中国の銅鏡などの文物やアイヌの文物など(會津八一コレクション)が展示されています。無料だし、気軽に見て回れるので、早稲田近辺にお寄りの際はぜひ行ってみてください。

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(追記)@2017/01/17

前掲の

https://www.waseda.jp/top/news/47684

に、4つのケース全部の写真があります。これでだいたいどういう展示かイメージはつかめるでしょう。

そういえば、3番めのケースの右奥かな、キュン ཁྱུང་ khyung ガルーダ(金翅鳥)の小像がちょっと珍しかったな。かわいらしいし。

2017年1月12日木曜日

モンゴル帝国歴史小説とモンゴル史研究者 (2) 『耶律楚材』、『チンギス・ハーンの一族』

・陳舜臣 (1994.5) 『耶律楚材 上・下』. 集英社, 東京.
→ 再発: (1997.5) (集英社文庫). 集英社, 東京./(2000.9) (陳舜臣中国ライブラリー 19). 集英社, 東京.など

という小説があります。



AD : 菊地信義
(集英社文庫版)

これは、モンゴル帝国第2代大ハーンであるオゴタイ時代に中書令を務めた契丹人・耶律楚材の生涯を描いた小説。

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ここでは陳先生は、耶律楚材を「死を覚悟して,モンゴルの野蛮から文明を守った名宰相」と高く評価しています。この小説の前にも、

・陳舜臣 (1990.11) 中国傑物伝 11 耶律楚材 死を覚悟して,モンゴルの野蛮から文明を守った名宰相. ウィル, vol.9, no.11, pp.148-154.
→ 収録: 陳舜臣 (1991.10) 『中国傑物伝』. 330pp. 中央公論社, 東京./(1994.9) (中公文庫). 381pp. 中央公論社, 東京./(2001.8) (陳舜臣中国ライブラリー 28). 553pp. 集英社, 集英社.

というエッセイを書いています。

「モンゴルの野蛮」とはまた、中国人に顕著な中華思想丸出しのタイトルですね。

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さあ、これに噛みついたのが杉山先生でした。

中国や欧米におけるモンゴル史研究は、漢籍史料や欧語史料に頼りがちでした。その結果、「世界を破壊し尽くしたチンギス・ハーン」「野蛮なモンゴル帝国」という否定的なイメージが世間にはびこります。

かつてモンゴル帝国の支配を受けたロシア(ソ連)や中国が、20世紀中に喧伝した否定的なイメージの影響も大きかった。モンゴル人民共和国においてさえ、ソ連の衛星国であったがために、チンギス・ハーンを極悪人として教育していたほど。

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杉山先生(だけではないのですが)は、これまであまり利用されてこなかったペルシア語史料を重要視して研究を進めます。特にフレグ・ウルスで編纂されたペルシア語モンゴル帝国史である

・Rashīd al-Dīn (1314) 『Jāmi' al-Tavārīkh(集史)』.

を最重要史料として研究を進めます。

その結果、それまでの悪いイメージを覆す史実を明らかにしていきました。最近では、

・杉山正明 (1992.6) 『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』(角川選書). 角川書店, 東京.
→ 再発: (2014.12) (改訂版)(角川ソフィア文庫). 角川書店, 東京.
・杉山正明 (1997.10) 『遊牧民から見た世界史 民族も国境もこえて』. 日本経済新聞社, 東京.
→ 再発: (2003.1) (日経ビジネス人文庫). 日本経済新聞社, 東京./(2011.7) (増補版)(日経ビジネス人文庫). 日本経済新聞社, 東京.
・杉山正明 (2000.12) 『世界史を変貌させたモンゴル 時代史のデッサン』(角川叢書). 角川書店, 東京.
・杉山正明 (2002.9) 『逆説のユーラシア史 モンゴルからのまなざし』. 日本経済新聞社, 東京.
→ 改題再発: (2006.3) 『モンゴルが世界を覆す』(日経ビジネス人文庫). 日本経済新聞社, 東京.

といったモンゴル帝国を肯定的に捉える一般書を続々と書かれている通り。

余談ですが、杉山先生はその方面でも、モンゴル史研究者の岡田英弘先生+宮脇淳子先生との間で軋轢を生んでいるのは、知ってる人は知っているが、ここでは触れる余裕なし。

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その方面での杉山先生の論調は、歴史研究を越えて、なんだかプロパガンダ的な色も感じさせるので、そのすべてに諸手を上げて賛成する気にもならないのですが・・・。

でも、歴史研究では史料が違えばまた別の姿が見えてくるのはよくある話です。利用可能なすべての史料を突き合わせて、徐々に真の姿に近づけていこうとするアプローチは間違いなく正しい。

特に東洋史では、いまだに漢籍史料絶対主義に陥っているケースが多々見られる(チベット史研究でもいまだに多い)ので、他言語史料も重要視するべきなのは、これからも変わらないでしょう。

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それで、耶律楚材に関しては、

・杉山正明 (1996.7) 『耶律楚材とその時代』(中国歴史人物選 8). 372pp. 白帝社, 東京.

という著作を発表。














耶律楚材の名は、ラシード・アッディーンの『集史』をはじめ、ペルシア語の歴史書には、まったく見えない。
(同書 p.6)

現実において、耶律楚材は、全モンゴル規模にわたる「行政官」でも「立案者」でも、ありえなかった。その資格・能力がなかった。まして、全モンゴルを指揮する「宰相」などでは、ありうべくもなかった。
(同書 p.23)

結論を先取りするかたちになるが、楚材は、チンギス・カン時代、ぜんぜん重視されなかった。むしろ、不平と失意の日々であった。第二代のオゴデイ・カアンの時代になって、少しは改善されたものの、あたえられた任務は、漢土を中心とする文化・教育面のごく一部と、河北・山東・山西における税収業務にかぎられた。それも、すぐに、あやうくなった。かれは、いわば、イメージ先行型の人間であった。

これまでよく語られたように、モンゴル大カアンが、かれに全幅の信頼をおいて、なんでも相談したという場面など、現実には、あるはずもなかった。それは、後述するように、多分に漢文史料の創作である。楚材本人にとっては、夢物語だったろう。
(同書 p.24-25)

陳舜臣氏の『耶律楚材』上下(集英社)は、楚材をあらんかぎり巨大化、聖人化した歴史ファンタジーであった。小説は、ここまで現実から離れて、虚空のかなたに飛翔できるのか。やはり歴史と小説とは、ひどくちがう。率直にそう感じた。

しかし、責任は、氏にあるのではないだろう。これまで、学者・研究者といわれる人たちが楚材を誇大視したためである。陳氏は、その路線を限りなく押しすすめたにすぎない。
(同書 p.368)

と容赦ない。

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杉山先生が大々的に協力した

・NHK総合テレビ(1992.4-.8) NHKスペシャル 大モンゴル 1~5

では、耶律楚材はほとんど登場しませんでした。杉山先生の意見がだいぶ反映されていたようです。

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この辺はすでに陳先生の耳にも入っていたようで、『耶律楚材 下』のあとがきで、

なかには、彼はそれほど重要な人物ではなかったと推測する人もいる。
『耶律楚材 下』(集英社文庫版) p.319

と書いています。

杉山先生の耶律楚材本が出た1996年には、陳舜臣「チンギス・ハーンの一族」の連載がすでに始まっていました(1995年4月~)。

こちらにも当然耶律楚材は登場し、「宰相役の中書令」などと表記されていますが、その登場場面はだいぶ少なくなっています。

中書令という職は、それ以前の時代には確かに宰相ですが、元代には全く別で、文書係のトップでしかなかったようです。従って、耶律楚材を「宰相」と表現するのは明らかに誇大、というのが杉山説。

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ここまでのお話を、著作の発表年月を基準に年表風にまとめるとこうなります。

1982.3 杉山正明 「クビライ政権の東方三王家 鄂州の役前後再論」(東方学報・京都)

1990.11 陳舜臣 連載「中国傑物伝 11 耶律楚材 死を覚悟して,モンゴルの野蛮から文明を守った名宰相」(ウィル)
1991.10 陳舜臣 『中国傑物伝』(中央公論社)

1992.4-.8 「NHKスペシャル 大モンゴル 1-5」(NHK総合テレビ)(杉山正明ほか協力)
1992.4-.8 NHK取材班・編 『大モンゴル 1-4』(角川書店)

1994.5 陳舜臣 『耶律楚材 上・下』(集英社)

1995.4 杉山正明 『クビライの挑戦 モンゴル海上帝国への道』(朝日選書)

1995.4-97.5 陳舜臣 連載「チンギス・ハーンの一族」(朝日新聞)

1996.5 杉山正明 『モンゴル帝国の興亡 上 軍事拡大の時代』(講談社現代新書)
1996.6 杉山正明 『モンゴル帝国の興亡 下 世界経営の時代』(講談社現代新書)
1996.7 杉山正明 『耶律楚材とその時代』(白帝社)

1997.5 陳舜臣 『チンギス・ハーンの一族 1 草原の覇者』(朝日新聞社)
1997.8 陳舜臣 『チンギス・ハーンの一族 2 中間を征く』(朝日新聞社)
1997.10 陳舜臣 『チンギス・ハーンの一族 3 滄海への道』(朝日新聞社)
1997.10 陳舜臣 『チンギス・ハーンの一族 4 斜陽万里』(朝日新聞社)

2004.2 杉山正明 『モンゴル帝国と大元ウルス』「第2章 モンゴル帝国の変容 クビライの脱権と大元ウルスの成立」(京都大学学術出版会)

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陳舜臣「チンギス・ハーンの一族」連載開始直後の1995年4月に、杉山先生の朝日選書『クビライの挑戦』、連載中盤の1996年5~6月に講談社現代新書『モンゴル帝国の興亡』が発表されています。

陳先生は、連載しながらこれら杉山先生の著作をだいぶ参考にしている形跡があります。前回紹介したフビライ即位時におけるタガチャルの行動を強調した展開が、その代表といえるでしょう。

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杉山先生は、陳舜臣「チンギス・ハーンの一族」については何もコメントしていません。耶律楚材の件からすると、何かコメントを発してもおかしくないのですが・・・。

陳先生が、小説でタガチャルの件を大きく取り上げたことについて、プラス方向にか、マイナス方向にかわかりませんが、何らかの感想を持ったはずですが、今のところコメントは発見できません。

私は、両者の間で手打ちがあったんではないか?と見ます。邪推かもしれませんが・・・。

間に立ったのは、可能性としては、『フビライの挑戦』、『チンギス・ハーンの一族』双方の版元である朝日新聞かな?などとも思っています。

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陳舜臣『チンギス・ハーンの一族』は、チンギス・ハーン~フビライまでのモンゴル帝国を描いた小説。

この分野では、チンギス・ハーンの生涯を描いて終わり、という小説がほとんどである中、フビライまでとはいえ元朝を描いているのが特徴です。

またモンゴル王家の女性たちが大きく取り上げられているのも珍しい。中盤は、モンゴル王家の女衆のお茶飲み話を軸にストーリーが展開される、というのもユニークな手法でした。

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連載前、あるいは連載中にモンゴル史関係の本がたくさん出版されたことは、陳先生にとってはよかったんではないでしょうか。

この小説はとにかく考証がしっかりしている。歴史好きには面白い小説だったと思います。

まあでも、陳先生の特徴ではあるのですが、この人は「戦さ」が描けない。ダイナミズムはあまりなく、淡々とストーリー/時間が進んでいく印象が強い。その点で小説としての評価は分かれることでしょう。

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2006年はチンギス・ハーン即位800周年でした。この前後には、またもやモンゴル帝国ブームがやって来ます。

例によってチンギス・ハーンを取り上げた小説・本がたくさん出たわけですが、今回大作に挑んだのは堺屋太一。

・堺屋太一 (2007.7-.12) 『チンギス・ハン 世界を創った男 1-4』. 日本経済新聞出版社, 東京.
← 初出 : (2006.2-07. 8) 日本経済新聞.
→ 再発 : (2011.8-.11) 『世界を創った男 チンギス・ハン 上・中・下』(日経ビジネス人文庫). 日本経済新聞出版社, 東京.

この小説には、最初からモンゴル史研究者が深く関わっていたのです。

ツヅク

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(追記)@2017/01/12

陳先生には、

・陳舜臣 (1979.2) 『小説 マルコ・ポーロ 中国冒険譚』. 252pp. 文藝春秋, 東京.
← 初出 : (1978.2-79.1) オール讀物, 1978年2月号-79年1月号.
→ 再発 : (1983.4) (文春文庫). 361pp. 文藝春秋, 東京./(2000.11) (陳舜臣中国ライブラリー 18) 集英社, 東京. など














カバー : 廣瀬郁/かもよしひさ
(文春文庫版)

という作品もあります。

『マルコ・ポーロ』、『耶律楚材』、『チンギス・ハーンの一族』を、私は勝手に「陳舜臣 元朝三部作」と呼んでいます。

マルコ・ポーロの物語と言っても、マルコ・ポーロについては自身の口述とされる『Devisement du monde(世界の記述/東方見聞録)』以外に史料はないわけで、その分大胆にフィクションで色付けすることができた作品です。

推理・活劇ものの要素が強く、後期の硬直した歴史小説よりは小説として格段に面白い。のびのび書けてる、と思う。

陳作品としてはあまり注目されたことがないが、こちらも一度読んでみてください。

2017年1月8日日曜日

モンゴル帝国歴史小説とモンゴル史研究者 (1) フビライ大ハーン即位の経緯

・杉山正明 (2004.2) 『モンゴル帝国と大元ウルス』(東洋史研究叢書刊之六十五(新装版3)). 32pls.+vi+548pp. 京都大学学術出版会, 京都.














を読みました。いまさらですが。杉山先生のモンゴル帝国関連論文集です。

ちょっとした発見があったので、ちょっと長くなりますが記しておきます。

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必要な部分(チュベイ王家とかコデン王家の論文)はすでに読んでいたのですが、一冊丸ごと読むのは初めてでした。

特に本書の目玉である「第2章 モンゴル帝国の変容 クビライの奪権と大元ウルスの成立」は読んでいなかったのですが、ようやくきちんと読めた。これは、

・杉山正明 (1982.3) クビライ政権の東方三王家 鄂州の役前後再論. 東方学報, no.54, pp.257-315.

を再録したものです。

フビライ(クビライ)が即位するまでの経緯を細かく追った論文。モンケの南宋攻撃軍に、フビライが一度は外されながら、再度加わり、そしてモンケの急死によって、一躍大ハーン位に就くまでの経緯が事細かに考察されている。

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馴染みのないチンギス家の人名が多いので、まずフビライ周辺の系図を挙げておきましょう。


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この論文では、第4代大ハーンのモンケ[位1251-59d]による1257~59年の南宋征伐とその急死、そしてその直後、弟たちフビライとアリク・ブガによる大ハーン位争いを軸として論考が進められる。

特に南宋攻撃におけるタガチャルの不可解な撤退と、モゲがモンケの死をいち早くフビライに伝えたことに注目しています。

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1251年、トゥルイ家の嫡男モンケ(チンギス・ハーンの孫)が第4代大ハーンとして即位すると、次弟フビライは漢地に所領を与えられた(金は第2代大ハーンのオゴタイ時代の1234年にすでに滅亡)。フビライは漢人軍閥も手なづけ、着々と漢地支配を固めていた。また、1252~54年には雲南に遠征、大理王国を滅ぼしてもいる。

しかし、モンケはフビライ所領における会計不備を指摘し、フビライの部下を多数処刑。フビライは失脚し、1957年に始まる南宋攻撃軍からも外されてしまう。

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モンケの南宋攻撃軍は、三派に分かれて進軍。中翼軍をモンケが指揮し、四川経由で南進。右翼軍はウリャンハタイが指揮(フビライと共に遠征し、そのまま雲南にとどまっていた)し、ベトナムまで進軍しその後北上。左翼軍はオッチギン(チンギス・ハーンの末弟)家のタガチャル(テムゲ・オッチギンの孫)が指揮し、漢土中央を南進して行った。

ところが、タガチャル指揮の左翼軍は漢江流域の要衝・襄陽への攻撃をわずか一週間で諦め撤退してしまう、という不可解な行動を取る。

激怒したモンケにより、タガチャルは左翼軍主将をはずされ、代わってフビライが左翼軍主将を命ぜられる。フビライの表舞台への復活である。

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1259年、フビライ軍が長江中流域の要衝・鄂州(現在の武漢)の攻撃にかかろうとしたところ、四川に進んでいたモンケが急死したとの知らせが入った。

これはモンケに従軍していたフビライの庶弟モゲからの、内密の知らせであった。フビライは、大ハーンの死をいち早く知ることができたのだ。

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フビライは、作戦を継続するか、中止して撤退するかの選択を迫られた。しかしここで撤退すれば、ベトナムから北上を続けているウリャンハタイ軍は孤立してしまう。

フビライの下した決断は鄂州攻撃であった。しかし決着方法も巧妙に練られており、南宋軍を指揮する賈似道との間で密かに停戦協議も進めていた。またタガチャル率いる東方三王国軍もフビライ軍に合流した。

やがて、北上してきたウリャンハタイとも連絡が取れ、フビライ軍はここで撤退。

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モンケ死後、大ハーン位争いが始まる。モンケの次弟フビライと末弟アリク・ブガの争いである。

南宋攻撃の間、アリク・ブガはモンゴル高原の都カラコルムで留守を守っており、モンケの葬儀もアリク・ブガが執り行った。西方のジョチ家、チャガタイ家の支持も取り付け、1260年アリク・ブガはクリルタイを開き、大ハーンに即位。

一方、フビライも漢地の自領で東方~漢地の有力者だけを集めて独自のクリルタイを開き大ハーンに即位。二人の大ハーンが並び立つことになった。

タガチャルをはじめとする東方三王国はもちろんフビライ支持。漢人軍閥もフビライを支持。

アリク・ブガとフビライの争いは、経済的に豊かな漢地を押さえ、モンゴル高原のアリク・ブガ勢力への物資供給を断ったフビライが圧倒的に優位に進めた。

そして1264年にはアリク・ブガが降伏。ついにフビライが唯一の大ハーンとして勝利をおさめたのだ。

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フビライの大ハーン奪権には、いくつかキー・ポイントがあるが、まず不可解なタガチャルの撤退によりフビライが復権したことと、そのタガチャルをはじめとする東方三王国が、モンケの死後いち早くフビライ側についた点があげられる。

こうして、その後の経緯まで見ていくと、タガチャルの無気力撤退も、フビライを復権させるための出来レースだったんではないか?と勘ぐりたくなるのだが、証拠がないので、杉山論文ではそこまで言わない。しかし、杉山先生も読者もそう思わざるをえないような筆致ですね。

モゲがモンケの死を、内密にいち早くフビライに知らせたことにより、フビライが迅速な対応を取ることができたのは間違いない。モゲのこの行動は、モゲがフビライの庶弟であり、さらには乳兄弟であったという、フビライとの密接な関係によるもの。

フビライにはそういった運と、陣営設立への綿密な工作により、アリク・ブガからの奪権に成功したのだ。

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この論文を読んだ時に「あっ」と思った。

このあたりの下りは、杉山先生の他の著作、『クビライの挑戦』や『モンゴル帝国の興亡』などでも読んでいたのだが、わりと読みすごしていて印象が薄かった。

この件についてしっかり頭に入ったのは、実は小説を読んでからだったのである。その小説とは・・・・

・陳舜臣 (1997.5-.10) 『チンギス・ハーンの一族 1~4』. 朝日新聞社, 東京.
← 初出:(1995.4-97.5) 連載. 朝日新聞.
→ 再発:(2000.5-.6) (集英社文庫). 集英社, 東京./(2000.10-.11)(陳舜臣中国ライブラリー 17-18). 集英社, 東京./(2007.1-.2) (中公文庫). 中央公論新社, 東京.

















デザイン : 河田純
(集英社文庫版)

その3巻がフビライ即位の巻です。

これは小説ですから、推測も自由。ここでは、タガチャルは以前からモンケに不満を持っていて、南宋攻撃以前からフビライと近しい関係にあった、という筋書きがなされています。小説としては、無理のない自然な流れでしょう。しかしこの流れを強調する点では、実に杉山論文そのままなのです。

意外。というのも実は、杉山先生と陳先生は、この小説の前に、「耶律楚材」について確執があったのです。

ツヅク

2017年1月3日火曜日

今年も初詣は矢川弁財天に行きました

昨年に引き続き矢川弁財天に行きました。









これまでのレポートはこちらで。

2016年1月1日金曜日 初詣は矢川弁財天へ
2015年9月20日日曜日 狛犬ならぬ狛蛇?

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ここは相変わらずのんびりした神社でよろしい。2体の狛蛇様もこの通り。


今年も神社をお守りしている母娘お二方と、弁財天の話や蛇神様の話などができて楽しかった。そんな話できる人は周りにいませんからね。

このあたりには本当に白蛇様がいるらしい。その目撃談もお聞きしました。見たいねえ。

せんべいももちろん買いました。写真取る前に割れちゃったんで、今回は写真なし。もう食べました。

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内院の白蛇様です。今年は2体が向かい合っているところの写真で。