引き続き「新アジア仏教史シリーズ」(佼成出版社)を読んでいるわけですが、
・佼成出版社・編 (2010.10) 『文明・文化の交差点』(新アジア仏教史05 中央アジア). 469pp.+map. 佼成出版社, 東京.
装幀 : 間村純一, 撮影 : 李学亮
この本には、重大な欠落があります。
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おおまかに目次を当たってみると、
(1)013-061 山田明爾/第1章 インダス越えて 仏教の中央アジア
(2)067-112 橘堂晃一/第2章 東トルキスタンにおける仏教の受容とその展開
(3)119-158 松田和信/第3章 中央アジアの仏教写本
(4)165-215吉田豊/第4章 出土資料が語る宗教文化 イラン語圏の仏教を中心に
(5)221-257宮治昭/第5章 中央アジアの仏教美術
(6)264-316 蓮池利隆+山部能宣/第6章 仏教信仰と社会
(7)324-403 沖本克己+川崎ミチコ+濱田瑞美/第7章 敦煌 文献・文化・美術
(1)はガンダーラ~アフガニスタンを中心に解説。(2)は、タイトル通り東トルキスタンについて解説。(3)は主にアフガニスタン出土資料について解説。(4)は東西トルキスタンについて解説。
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ここで注目は(4)。
Afghanistan北部Bactriaまでは仏教遺跡が豊富なのだが、その北Sogdianaに入ると、とたんに仏教遺跡に乏しくなる。
まあ、まだ見つかっていないのだろう、と思い込んでいたが、さにあらず。
要するにソグドには組織的に仏教が伝播することはなく、仏教寺院やそれを支える僧侶を再生産できる教団は存在しなかった。
同書, p.176
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では、あれだけ仏教が栄えた東トルキスタンへは、どうやって伝わったのか?仏教はBactriaから、Sogdianaをほぼ素通りして東トルキスタンに入ったのか?
この本を読んだらそう思ってしまいますよね。だって他の重要ルートには、全く触れていないのだから。
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本blogでも何度も触れていますが、
・桑山正進 (1985.3) バーミヤーン大佛成立にかかわるふたつの道. 東方学報京都, no.57, pp.109-209.
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/66642/1/jic057_109.pdf
は、非常に重要な論文です。
2世紀から記録が残るインド僧・中国求法僧の中国~インド往来ルートを総ざらえすることで、「罽賓」の混乱の整理、中国~インド往来ルートの変化、Bamiyan石窟寺院群成立年代について論じています。
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大部ではありますが、終始エキサイティングな展開で、とても勉強になりました。
「罽賓」の混乱の整理については、
2009年9月29日火曜日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(24) 漢文史料に現れる「ブルシャ」その1
の(注4)にも簡単にまとめてありますのでご参照あれ。
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その研究成果では、インドから東トルキスタンの交易ルートは時代によって以下のように変化した、と考察されています。
4~6世紀 : カラコルム・ルート(代表例 : 法顕)
6世紀以降 : ヒンドゥクシュ・ルート(代表例 : 玄奘)
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東トルキスタンに仏教が伝わった時期については、わかっていないことが多いのですが、ホータン(和田/于闐)には紀元前1世紀に伝わったとされます。そして、4~6世紀に東トルキスタン~中国の仏教は大きく発展します。
その主な仏教伝播ルートはSogdiana経由ではなく、当時のメイン交易ルートKarakoram経由だったのでしょう。
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上掲書(3)には、テーマの性格上、当然いわゆる「ギルギット写本」について言及があります。
「ギルギット写本」は、1931年にGilgit近郊NaupurのStupaから発見された、白樺樹皮に書写されたSanskrit語経典群。6~7世紀のものと推定されています。Schoyen Collectionが現れるまでは、世界で最も古い仏典写本でした。
しかし、(3)では、GilgitやKarakoramの仏教、どころかその地域についての解説が何もなく、まるで仏教とは縁遠い場所からの出土であるかのような印象を持たざるを得ません。
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Gilgitの近辺について、最も古く仏教の記録が残っているのは、法顕(東晋416)『法顕伝(仏国記)』。
法顕がインドへ向かう途中、401年に葱嶺(Pamir)を超えて最初の国が陁歴でした。これは現在のDarelと考えられています。
陁歴では小乗仏教が栄えていたそうですが、なぜか弥勒菩薩の木造大仏があったといいます。
当時Gilgitは、すでに波倫/波路(Bolor)国として存在していたと思われるが、交易ルートから外れていたのか法顕は報告していません。
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Gilgitからは、先ほどの「ギルギット写本」や7世紀のものと推定される仏像銘文などが見つかっており、双方に共通した王名が現れるようになります。これがBolor国の「Patola Shahi朝」と呼ばれる王朝です。
7世紀後半になると、Bolor(Gilgit)は、中国史書では勃律の名で現れるようになります。当時の中心はBaltistanであったと考えられています。721年頃に、勃律は大勃律(Baltistan)と小勃律(Gilgit)に分裂します。
このうち大勃律は当時チベット高原から西方に領土を広げていた吐蕃領となりますが、小勃律は8世紀に唐と吐蕃の間で激しい争奪戦が繰り広げられます。
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とまあ、Karakoram、特にGilgitにおける仏教興隆の様子というのは断片的にしかわかっていないのですが、GandhalaあるいはKashmirから仏教伝播するルート上の国・町として、かなり仏教が栄えた地域だったのは間違いないでしょう。
しかし、上掲書では全く記述がないのです。
現在、Karakoramの仏教や歴史を研究している日本の研究者はいないのでしょう。しかし、欧米やインド、パキスタンでの研究をまとめた概説すらも、誰も書けないとは思えません。ここは「コラム」の形でもいいから、Karakoram仏教の重要性に触れておいてほしかった。
Karakoram仏教は、この本では、Gandhalaと東トルキスタンをつなぐミッシング・リンクになってしまったわけです。
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Karakoram仏教の、まるで存在しないかのような扱いもさることながら、同様にKashmir仏教、Swat仏教も上掲書では記述が一切ありません(Swatは地名としてだけ2度出てくるが)。
Kashmirは歴史が明らかになり、仏教の様子もわかってくるのは7世紀からです。
SwatはGandhalaと同時期のKushan朝時代から仏教が伝わっていましたが、特に8世紀頃に密教が栄えたことで有名です。チベット語で ཨོ་རྒྱན་ o rgyanと呼ばれるUddiyanaとはSwatのことでした。
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確かに、仏教の東トルキスタン~中国への伝播では、KashmirもSwatも直接大きな役割を果たしていないかもしれませんが、Karakoramへ繋がるルートの一部であったのは間違いありません。
この地域が無視されているせいで、仏教の東方伝来についても具体的なルートが今ひとつイメージがわきにくい、というのが上掲書の残念な点でした。
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この辺を、じっくり研究する人が出てほしいなあ。
TalibanがSwatあたりまでウロチョロしていてちょっと物騒ではあるけど、Burushaski語研究者・吉岡乾先生のように、毎年のように調査旅行に行っている人もいるんだし、是非、日本の仏教史研究のミッシング・リンクを埋める人が出てきてほしい。
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なお、Karakoramの歴史・仏教、特にチベットとの関わりについては、
2009年6月17日水曜日~2012年3月1日木曜日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(1)~(36)+おまけ3本
にまとめてありますので、ご参照あれ。
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