2017年9月28日木曜日

北周・武帝の廃仏と北宋代・訳経団システム

引き続き「新アジア仏教史シリーズ」(佼成出版社)を読んでいるわけですが、お次は、

・菅野博史・編集協力 (2010.12) 『仏教の東伝と受容』(新アジア仏教史06 中国 I 南北朝). 405pp.+map. 佼成出版社, 東京.


装幀 : 間村純一

です。

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日本の仏教研究は、日本仏教以外では、インドの原始仏教~大乗仏教と中国仏教が中心でした。なので、中国仏教研究の成果も充実の一言。成熟していると言ってもいいでしょう。

ですから、この本を読んでいても、いつかどこかで読んだ内容がほとんど。スラスラ読めます。

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その中でも面白かった話題を二つ。

・河野訓 (2010.2) 第4章 三教の衝突と融合. 『仏教の東伝と受容』(新アジア仏教史06 中国 I 南北朝)所収. pp.169-227. 佼成出版社, 東京.

「三武一宗の法難」というものがあります。これは中国史上、国家による仏教排斥事件があった四時期を総称した用語。

(1) 北魏・太帝(438~52)
(2) 北周・帝(574~78)
(3) 唐・宗(845~46)=会昌の廃仏
(4) 後周・世(955~59)

これに、共産中国が成立してから現在も続く期間も、含めていいかもしれません。

「三武一宗一毛の法難」。

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さて、その中でも北周・武帝による廃仏事件はあまり知られていないような気がします。

439年に華北を統一した北魏・拓跋氏は、南朝の宋・斉・梁と対峙し南北朝時代を形成します。534~35年に東魏・西魏に分裂。まもなく、東魏は550年に高氏に簒奪され、北斉となります。

一方の西魏も557年に宇文氏に簒奪され、北周となります。簒奪を見ることなく556年に死んだ宇文泰の嫡子・宇文覚が557年、初代・孝閔帝となります。

しかし北周朝廷の実権を握っていたのは、晋蕩公・宇文護(孝閔帝のいとこ)でした。宇文護を除こうとした孝閔帝は、逆に1年も持たずに廃位され、ついには暗殺されてしまいました。

次いで庶兄・宇文毓が第二代・世宗・明帝となります。しかし明帝も宇文護によって560年暗殺。

これを18歳で継いだのが、庶弟・宇文邕。これが高祖・武帝です。572年には宇文護を誅殺し、親政を実現します。


北周・宇文氏系図

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武帝は、還俗僧・衛元嵩と道士・張賓にそそのかされ、まず569年に「道・儒・仏」という順次を定めます。

574年には、帝の御前にて道・仏の論争が行われます。道教側は張賓、仏教側は智炫が代表。智炫は提示された質問に次々と明快な回答を示し、道教側を圧倒。これで、仏教側の勝利はほぼ間違いなくなります。

しかし智炫は最後に「今、仏を廃して道を存せんと欲するは、なお庶をもって嫡に代うるがごとし」と口を滑らせてしまいます。

さあ、庶子でありながら即位した武帝は、この発言に顔色を変えて内裏に戻ってしまいます。

で、その翌日に出された勅は、

「勅を出だし二教倶に廃せり」

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まるで落語ですが、本当らしいから笑えない。僧侶・道士200万人が還俗したという。

しかしこの廃仏は、578年、武帝の崩御によりわずか4年で終わりを告げます。

この辺の事情はよく知らなかっただけに、なかなかおもしろかった。

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お次は

・船山徹 (2010.2) 第5章 仏典漢訳史要略. 『仏教の東伝と受容』(新アジア仏教史06 中国 I 南北朝)所収. pp.233-277. 佼成出版社, 東京.


そのうちの「四 隋唐以降の専門家集団による訳場」が特におもしろい。

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ここでは、

・志磐 (1269) 『仏祖統紀』

に基づき、北宋代の訳経院での梵→漢の訳経作業の段取りが細かく記録されています。

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当時の訳経作業は、複数の係による分業作業となっていたのです。その係と作業手順、そして『般若心経』の一節を訳経例としてまとめておくと、

(1) 訳主 : 梵文を読み上げる
「vyavalokayati sma: panca skandhas, tamś ca svabhavaśunyan paśyati sma.」

(2) 証義 : 訳主の左。訳主と共に梵文を討議。

(3) 証文 : 訳主の右。梵文朗読の誤りを点検。

(4) 書字梵学僧 : 梵文を漢字で音写。
「尾也嚩嚕迦底、娑麼、畔左、塞建駄娑、怛室左、娑嚩婆嚩戌儞焔、跛失也底、娑麼」

(5) 筆受 : 梵語を漢語に改める。
「照見五蘊彼自性空見」

(6) 綴文 : 文字の順序を入れ替えて、漢語文法に合致するよう整える。
「照見五蘊皆空」

(7) 参訳 : 梵語・漢訳を比較検討し、誤りを点検。

(8) 刊定 : 冗長な部分を削除し、語句の意味を確定。

(9) 潤文官 : わかりやすい表現にするために、必要に応じて語句・文章を加える。
「照見五蘊皆空、度一切苦厄」

このような訳経集団により、システマティックに進められていたのだ。

一見、「なんだ実際に翻訳してるのは(5)だけじゃないか」と思うかもしれませんが、おそらくこれは辞書を使って機械的に訳しているだけだと思うので、実はそれほど重要な役割ではないような気がします。

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このシステムは宋代における完成形で、古い時代にはもっと素朴な訳場システムでした。

南北朝時代の鳩摩羅什の場合は、五百人もの僧が参集した上で、鳩摩羅什が梵文を読み漢語に訳して述べる。それとともに音の違い、文意について解説。参集諸僧と議論しながら訳経を進めている。

唐代の玄奘の場合には、おそらくかなり上記のような訳経システムが出来上がっていたことであろう。スピードも早かったらしいし。

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そして、吐蕃時代の訳経はどうだったろうか?中国仏教のシステムを参考にしていた可能性がかなりあるのかも。

こちらも8~9世紀のわずか百年間で、主たる仏典はほとんど翻訳してしまったのだから。

もしかすると、上記のような訳経システムがチベット語、特に文語の成立に大きく影響したのかもしれない、なんて妄想を広げたりして。

チベット語経典は、インド語経典のほとんど逐語訳に近いとも言われているし・・・。

まあ、この辺はおいおい調べてみよう。

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というわけで、これもまたなかなか面白い巻でした。

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