2009年10月3日土曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(26) 漢文史料に現れる「ブルシャ」その3

次に、(2)『佛本行集経』巻11(隋訳) - 「波流沙[中古音:pua liau sha]」 を見てみましょう。

『佛本行集経』は、釈尊(ゴータマ・シッダールタ)の伝記、いわゆる仏伝の一種です。編纂年代は不明、漢訳は闍那崛多(隋581~91)によります。本文は、

・高楠順次郎ほか・編(1924) 『大正新脩大蔵経 第三巻 本縁部 上』. 大蔵出版社, 東京.

などで。

その巻十一は「集学技芸品」という章で、釈尊が少年時代に学問を修める様子を記述しています。釈尊が学んだ書物の一覧があり、その中に

波流沙書(隋言悪言)」

という書物名があります。

これはサンスクリット語「Parusha-lipi(粗い+文字・言葉)」の前半音写+後半意訳とみられています。漢訳文を合わせて察するに、「粗い(言葉)=悪口雑言」をリストアップし、上流階級では使ってはならない言葉が何かを学ぶ書物ではないか、と推測されます。「波流沙」の出現箇所はこれだけです。

意味でも時代設定でも、地名「ブルシャ(ボロル)」には結びつきそうにありません。これは「ブルシャ(ボロル)」とは無関係とみなしてよさそうです。

参考:
・鎌田茂雄ほか・編(1998) 『大蔵経全解説大事典』. pp.10+1071. 雄山閣出版社, 東京.
・鈴木学術財団・編(1986) 『漢訳対照 梵和大辞典 新装版』. 講談社, 東京.

===========================================

次に、(2a)『佛説菩薩本行経』巻上(東晋訳) - 「不流沙[中古音:piuat/piau liau sha]」を見ましょう。

『佛説菩薩本行経』は、釈尊の前世を語る、いわゆるジャータカ(本生譚集)の一種です。編纂年代は不明、漢訳者不明(東晋代)。本文は、

・高楠順次郎ほか・編(1924) 『大正新脩大蔵経 第三巻 本縁部 上』. 大蔵出版社, 東京.

などで。

十一の本生譚が収録されており、その中の一話に「不流沙城」という地名が現れます。

┌┌┌┌┌ 以下、『大正大蔵経3』より抜粋の上和訳 ┐┐┐┐┐

閻浮提(Jambu-dvida、インドを中心とする世界)の中に不流沙という城(国)があった。王の名は婆檀寧、王妃の名は跋摩竭提。国には飢饉に加え疫病がはびこり、王も病に倒れてしまう。王妃は王の快癒を祈願するために祠堂に赴いた。

その帰り、ある家の前を通りかかると泣き叫ぶ婦人の声が聞こえた。この婦人は夫に逃げられた上に、赤ん坊を産んだばかりだった。なのに食べるものは一切なく、この産んだばかりの我が子を殺して食べるしかないという悲惨な状況。事情を聞いた跋摩竭提は、哀れに思い自らの乳房を二つ切り取りこの婦人に食肉として与えた。

この有様を天界から見ていた帝釈天(インドラ神)をはじめとする神々は、跋摩竭提の行いに感銘を受け、その面前に降臨する。跋摩竭提の慈悲の志を知り、彼女に将来の成仏を約束し、また彼女の望み通り男子に変じさせた。そして飢饉、疫病は去り、国は幸福を取り戻した。

その後、王が死去すると家臣はこぞって跋摩竭提を王に推挙し、国は栄え続けた。この跋摩竭提こそが釈尊の前世であった。

└└└└└ 以上、『大正大蔵経3』より抜粋の上和訳 ┘┘┘┘┘

というもの。

この不流沙城(国)が、カラコルム山中の国ブルシャ(ボロル)であることを窺わせる記述は全くありません。これは本生譚ですから、時代もブルシャ(ボロル)が歴史上に現れる遙か昔、どころか釈尊よりも昔の出来事、という設定で、無理に史実に比定する必要もないと思われます。

城(国)の名「不流沙」にはモデル(借用もと)はありそうです。この本生譚がいつ、どこで、誰によって作られたのかわかりませんから、そのモデルについても比定はなかなか難しいのですが、前述のプルシャプラ(ペシャワール)は著名な地名ですから、その候補の一つと考えていいでしょう。

いずれにしても、この「不流沙」もブルシャ(ボロル)とはまず関係ないとみてよさそうです。

参考:
・鎌田茂雄ほか・編(1998) 『大蔵経全解説大事典』. pp.10+1071. 雄山閣出版社, 東京.

===========================================

なお、経典の内容検索には、

・【網路藏経閣】佛學世界
http://www.suttaworld.org/
・中華電子仏典協会 Chinese Buddhist Electronic Text Association (CBETA)
http://cbeta.org/

のデータベースを利用した。

2009年10月1日木曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(25) 漢文史料に現れる「ブルシャ」その2

「不流沙」と共に遣使している国々の中で、「乾達」=「ガンダーラ」という比定はほぼ確実なのですが、阿婆羅、達舍、越伽使密については、前回の比定とは別の比定も可能です。『魏書』西域伝の中から似た国名を探してみます。

「阿婆羅」=西域伝の「阿弗太汗(現・ヒヴァか?)」?
「達舍」=西域伝の「諾色波羅(Nakhshab)」?
「越伽使密」=西域伝の「呼似密(Khwarism=ホレズム)」?(注1)あるいは「伽色尼(Kashaniya/Kesh=現・シャフリサブス)」?(注2)

西域伝諸国の読み・位置は、内田(1970~72)に従った(注3)。

ここで挙げた西域伝の国名は、不思議なことに本紀遣使記事には現れません(注4)。西域伝に条が立っているのですから、遣使がなかったとも思えません。本紀遣使記事と西域伝では別の漢字で表記された可能性があります。本紀と西域伝ではソースが異なるのでしょうか?。

遣使記事に直接名前が挙がっていなくとも、「・・・等諸国」の中に含まれているのかもしれません。しかし、わざわざ西域伝に条を立てるような国々をあらかた省略してしまうとも思えません。別名表記された可能性は高いでしょう(注5)。

------------------------------------------

これらはいずれもソグディアナに位置する国です。この比定が正しいのなら、「不流沙」の位置もガンダーラではなくそちらの方に求めたくなります。

すると、完全には一致しませんが、

「不流沙」=西域伝の「弗敵沙(Badakhshan=バダフシャン)」?(注6)

という可能性が浮かび上がってきます。この場合は、「敵」が本紀遣使記事では「流」と誤記された、と仮定しなければなりません。ここが弱点です。

また、本紀遣使記事を当たると、449年(太平真君10年)に浮圖沙国が遣使しており、これは弗敵沙国と同じ国かもしれません。そうなると、この国が「不流沙」というさらなる別名で記録されている、というのも腑に落ちない話です。これもこの説の弱点。

------------------------------------------

もう一つ候補があります。

アム・ダリヤ南岸のフルム(Khulm、現Tashkurgan近郊)は、北魏代にはその名は確認できませんが、唐代になると

「忽懍」@『大唐西域記』
「富樓州」@『新唐書』

の名で現れます。これが北魏代に「不流沙」の名で記録された可能性はあるかもしれません。欠点はいうまでもなく、まず「沙」の音が説明できないこと。そして、やはり北魏代に国として存在していたかどうか確認できないこと、です。


中世ソグディアナ地図
出典:
・香山陽坪 (1987) 第II部 中央アジアの歴史 第三章 西トルキスタン 第二節 中世国家. 江上波夫・編 (1987) 『世界各国史16 中央アジア史』所収. p.467-484. 山川出版社, 東京.
(一部を加筆・改変した)

===========================================

なんとも収拾がつかなくなっていますが整理すると、この「不流沙国」を

(a)ボロル/ブルシャ(ギルギット周辺)
(b)プルシャプラ(現ペシャワール)
(c)現シャーバス・ガリー
(d)バダフシャン
(e)フルム(現タシュクルガン近郊)

のどれに比定するかについては、どれも一長一短あり決定できません。少なくとも、他の候補を退けて「不流沙=ボロル/ブルシャ」と断定できるほど証拠はそろっていない、とは言えるでしょう。

個人的には(c)の可能性が高いと思っていますが、もう少し証拠を集める必要があります。

===========================================

(注1)
ホレズムは、この他

「貨利習彌伽」@『大唐西域記』/『慈恩寺三蔵伝』/『新唐書』
「火辞彌」@『新唐書』
「火尋」@『新唐書』
「過利」@『新唐書』

などの表記がある。

(注2)
ケシュは、この他

「羯霜那」@『大唐西域記』/『慈恩寺三蔵伝』
「乞史」@『新唐書』

などの表記がある。隋・唐代に一般に「史国」と呼ばれたのはこの国。

(注3)
西域伝の諸国については、北魏の旧都・代(平城=現・山西省・大同)よりの里程が付されている。「阿弗太汗」、「諾色波羅」、「呼似密」は代より二万数千里と記され、これは「波斯(ササン朝ペルシア)」と同程度の距離になる。

これらの国々は、方角を記す際の起点が「忸密(ブハラ)」になっている。この「忸密」は代より二万二千八百二十(22,820)里とされるが、ブハラから200km(約四百里)しか離れていない「悉萬斤(サマルカンド)」が一万二千七百二十(12,720)里とされているのに比べると異常な数字である。よって「忸密」の里程は一万二千八百二十(12,820)里が正しく、二万なにがしという数字は誤記であろう、と推測されている(内田1970~72)。

従って「忸密」を起点として記述されている上記三国の里程も実際は一万数千里が正しい、とみてよい。これらの国々をペルシアの彼方に求めるよりも、内田説に従いソグディアナに求める方が妥当と考える。

(注4)
『魏書』本紀の遣使記事はこれまで充分活用されておらず、西域伝に条が立っている諸国に比定する試みもあまり見かけない。ちょっともったいない。また両者の比定が可能であるのならば、本紀と西域伝ではなぜに国名表記が異なっているのか?など、解明すべき謎は多い。

(注5)
前回の「鉢露羅」-「不流沙」との違いは、これが「Bolor」-「bru sha」といった具合に原音からして異なる(と推測される)のに対し、この三国では原音は同じで漢字表記だけが別になっている(と推測される)こと。

(注6)
バダフシャンはこの他、

「波多叉拏」@『続高僧伝』
「鉢鐸創那」@『大唐西域記』/『慈恩寺三蔵伝』
「抜特山」@『新唐書』
「蒱特山」@『往五天竺国伝』

などの表記がある。

===========================================

なお、『魏書』、『北史』の内容検索には、

・華東師範大学研究生院
http://www.yjsy.ecnu.edu.cn/

の二十五史データベースを利用した。

2009年9月29日火曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(24) 漢文史料に現れる「ブルシャ」その1

・桑山正進・編 (1998) 『慧超往五天竺國傳研究 改訂第二刷』. pp.xii+292+pls. 臨川書店, 京都.

は、8世紀前半の求法僧・慧超が著した地理書『往五天竺国伝』の研究書です。これには詳細な注釈がついており、8世紀のカラコルム~西部チベットについても情報の宝庫です。p.104-107は「注97 大勃律国」(執筆・森安孝夫)になっており、そこにボロル/ブルシャ/バルティの名を記録した諸文献の一覧表があります。

できあがりは一見なんのことはない表ですが、実はたいへんな労作で、これだけ広範に渡る文献に当たり、ひとつひとつ丹念に拾い出していく作業には相当な手間と時間がかかったはずです。敬意を表します。

------------------------------------------

このうち、「ボロル」の音写とみられる波倫/鉢盧勒/波路/鉢露羅/勃律?/布露/卜羅爾/博洛爾、「バルティ」の音写とみられる巴児希などがギルギット~バルティスタン周辺の地名を示すことは明白です。

そして、「ブルシャ」を音写した(かもしれない)漢字として、次の三つがあげられています。

(1)『魏書』世宗本紀 - 「不流沙[中古音:piuat/piau liau sha]」
(2)『佛本行集経』巻11(隋訳) - 「波流沙[中古音:pua liau sha]」
(3)継業 『呉船録』(10世紀) - 「布路州[中古音:pu lu tciau]」

これが本当にボロル/ブルシャ(ギルギット/フンザ/バルティスタン)を示すものであるのか、確かめてみましょう。

これとは別に、私が独自に仏典から発見した

(2a)『佛説菩薩本行経』巻上(東晋訳) - 「不流沙[中古音:piuat/piau liau sha]」

も合わせて検討します。

===========================================

まず、(1)『魏書』世宗本紀 - 「不流沙[中古音:piuat/piau liau sha]」 から。

これは、北魏皇帝・世宗・宣武帝[位:499-515d]代の諸国遣使記事に現れます。それもごくごく局所的で、511年(永平四年)に二度に渡って現れるだけです。

511年(永平四年)の遣使記事を抜き出してみると、

・四年春正月・・・。甲子、阿悅陀、不數羅國並遣使朝獻。
・(春)三月癸卯、婆比幡彌、烏萇、比地、乾達諸國並遣使朝獻。
・(夏)六月乙亥、乾達、阿婆羅、達舍、越伽使密、不流沙諸國並遣使朝獻。
・秋七月辛酉、吐谷渾、契丹國並遣使朝獻。
・(秋)八月辛未、阿婆羅、達舍、越伽使密、不流沙等諸國並遣使朝獻。
・(秋八月)癸巳、勿吉國獻楛矢。
・(秋)九月・・・。嚈噠、朱居槃、波羅、莫伽陀、移婆僕羅、倶薩羅、舍彌、羅樂陀等諸國並遣使朝獻。
・冬十月丁丑、婆比幡彌、烏萇、比地、乾達等諸國並遣使朝獻。
・(冬)十有一月甲午、宕昌國遣使朝獻。
・(冬十有一月)戊申、難地、伏羅國並遣使朝獻。
・(冬)十有二月・・・。戊子、大羅汗、婆來伽國遣使朝獻。

六月と八月の二度、不流沙国が北魏朝廷に遣使したことになっています(注1)。

------------------------------------------

この「不流沙」がボロル/ブルシャを示すのであれば、8世紀にチベット語文献に現れる「bru sha/'bru zha」に先立ち、最も古い用例になります。

が、一番の疑問は、北魏代の出来事を記した文献では、ボロル/ブルシャは「波倫」、「波路」、「鉢盧勒」と記されており、これらは一貫して「Bolor」の音写であるのに、この「不流沙」だけが例外で「bru sha/'bru zha」の音写になってしまうことです。

同じ『魏書』でも、西域伝では「波路」とされているのに、同じ国が本紀では原音も異なる「不流沙」という別名で記されているのであれば、これは奇妙です。また西域伝の記事では、波路国が北魏に遣使した旨の記述がありません(本紀の遣使記事の方にも波路国の名はありません)。

------------------------------------------

ただし、『魏書』西域伝には大きな問題があります。『魏書』の一部は唐~五代の頃に散逸しており、西域伝も実は丸々欠損しているのです。

幸いなことに、『魏書』西域伝は、『周書』異域伝、『隋書』西域伝と共に、『北史』西域伝の編纂に利用されており、そこに『魏書』西域伝からの引用とみられる箇所が多数みられます。

そこで、宋代に『魏書』を再版する際に、『北史』西域伝より北魏代と思われる記事を抽出して『魏書』西域伝を復元しています。

詳しくは、

・内田吟風 (1970~72) 魏書西域伝原文考釈(上)(中)(下). 東洋史研究, (上)-vol.29, no.1[1970/06], pp.83-106, (中)-vol.30, no.2・3[1971/12], pp.82-101, (下)-vol.31, no.3[1972/12], pp.58-72.
・内藤みどり(1984) 『魏書』西域伝の構成について. 早稲田大学文学部東洋史研究室・編 (1984) 『中国正史の基礎的研究』所収. pp.147-180. 早稲田大学出版部, 東京.

あたりをご覧下さい。

------------------------------------------

現・『魏書』西域伝・波路国の条は、『北史』西域伝・波路国の条とほとんど同文で、内田(1970~72)説では原・『魏書』西域伝・波路国の条の内容がそのまま保存されている、と考えられています。

しかし、『北史』編纂の際には原・『魏書』から抜粋して収録されているケースが多く、『北史』記事ではかなり情報落ちしている可能性も否定できません。

原・『魏書』西域伝に「波路の別名は不流沙」とか「波路/不流沙は永平四年に遣使」といった記事がもともとあって、『北史』編纂の際に情報落ちした、という可能性がないわけではありませんが、現状の文面からは、「波路」と「不流沙」の関係を知ることはできません。

------------------------------------------

方向を変えて、本紀の文面から攻めてみましょう。

不流沙国と一緒に遣使している国は、乾達[中古音:kan/gien dat]、阿婆羅[中古音:a bua la]、達舍[中古音:dat cia]、越伽使密[中古音:yiwat ka shia miet]の四ヶ国です。

この中で、列伝にほぼ同じ国名が確認できるのは乾達=乾陁(Gandhara)国のみ(注2)。本紀に現れる遣使国で列伝が立っていない国はかなりあります。このことからも原・『魏書』西域伝→『北史』西域伝の段階でかなり情報落ちしているのでは?と思わせます。

不流沙を含んだこの五ヶ国は、同時に遣使しているのですから、互いに近隣であった可能性があります。

まず、乾達(ガンダーラ)の近くで探してみましょう。すると、他に比定できそうなのは、「達舎」=「Taxila」(注3)、「越伽使密」=「Kashmir」(注4)、でしょうか(別の比定については次回)。不流沙=ボロル/ブルシャだとすれば、これはカシミールのすぐ北に当たりますから、これらの国々と一緒に北魏に使節を送っても不自然ではありません。

------------------------------------------

ところが、これらの国々の近くにはボロル/ブルシャとは別に、これと似た地名が存在しています。

まずは、いわずと知れた「プルシャプラ(現・Peshawar)」です。この地名の漢文表記をいくつか見てみると、

・法顕 (東晋416) 『法顕伝(仏国記)』 - 「弗樓沙[中古音:piuat lau sha]」
・魏収・撰 (北斉554) 『魏書』西域伝 - 「富樓沙[中古音:piau lau sha]」(5世紀のキダーラ・クシャン(大月氏)傍系・小月氏の都として)
・玄奘 (唐646) 『大唐西域記』 - 「布路沙布邏[中古音:pu lu sha pu la]」

これが「不流沙」と表記されていても不思議ではありません。

しかし、5世紀末~6世紀中頃、ガンダーラはエフタル・テギンに治められており、その中心地プルシャプラは当時ガンダーラ城(乾陀羅城)と呼ばれていました(『洛陽伽藍記』)。とすれば、乾達(ガンダーラ)国とプルシャプラが511年に同時に別国扱いで使節を送っているのは矛盾します。

「不流沙=プルシャプラ」という比定はかなり可能性が低そうです

------------------------------------------

まぎらわしいのですが、プルシャプラの近くにはもう一つ似た地名があります。

・楊衒之 (東魏547) 『洛陽伽藍記』 - 「佛沙伏[中古音:biuat sha biuk/biau]」(「伏」は「町」を意味する接尾辞「-pura」)
・玄奘 (唐646) 『大唐西域記』 - 「跋虜沙[中古音:buat lu sha]」

これは、プルシャプラ(ペシャワール)からカーブル川を北に渡り東北東に65kmにある現Shahbaz Garhiに比定されています。「佛沙伏」、「跋虜沙」の原音はVaroucha、Palusha、Varusha(pura)などと推定されていますが、定説はありません。

これも「不流沙」と表記されても何ら不思議はありません。

この地は古くからプルシャプラと並ぶガンダーラの要地だったらしく、近郊には紀元前3世紀のアショーカ王碑文をはじめ仏教遺跡が多数発見されています。もしかすると両都市とも実は同じ名で、地名の移動があった、ということなのかもしれません。

しかし、エフタル・テギンの支配下のガンダーラにありながら、その領内の都市(国家?)が北魏に遣使などできるものでしょうか?佛沙伏/跋虜沙にローカルな王がいて、エフタル・テギンの属国として従っていたのであれば、エフタル・テギン(乾達王)と共に北魏に遣使を送った可能性はあります。

が、『洛陽伽藍記』では、当時佛沙伏に王がいた旨の記述がありません。エフタル・テギンがガンダーラを制圧する以前の同地の政体についても情報がありません。

一緒に遣使している「達舎国」が同じくエフタル・テギン支配下のガンダーラにある「タキシラ(Taxila)」であるならば、そういった可能性はさらに高まりますが、タキシラにもローカルな王がいたかどうか不明です。

このお話は次回に続きます。


ガンダーラ周辺の地図(6世紀前半)
出典:
・桑山正進 (1990) 『カーピシー・ガンダーラ史研究』. 京都大学人文科学研究所, 京都.
(一部を改変した)

===========================================

(注1)
『北史』では、511年(永平四年)は、

・是歳,西域、東夷、北狄二十九國並遣使朝貢。

と簡略化されている。

(注2)
当時ガンダーラはエフタル傍系のテギン(官職名)が支配していた。トハリスターンに本拠地を構えていたエフタル本国からはかなり離れているため、『魏書』では嚈噠/[ロ歇]噠(エフタル)とは別扱いにされている。

なお、このガンダーラの支配者エフタル・テギンが、仏典やインド/カシミール史に現れるフーナのミヒラクラに比定できるか?という話題はとても今はカバーしきれない。

実はエフタルに関する話題も、私の得意分野ではあるので、いつか機会があれば、やってみましょう。

(注3)
タキシラは、この他、

「竺刹尸羅」@『法顕伝(仏国記)』
「呾叉始羅」@『大唐西域記』/『慈恩寺三蔵伝』

と表記されている。

(注4)
カシミールは、唐代には「迦濕彌羅/箇失蜜」と表記されているが、南北朝時代には「罽賓」と記されていた。

この「罽賓」は実にやっかいな用語。漢代にはガンダーラ一帯をさした。南北朝時代には、罽賓はカシミールをさす場合とカーピシー~ガンダーラをさす場合があって混乱している。

『大唐西域記』が迦濕彌羅(カシミール)国について「旧に罽賓という。訛なり。」と注記し、混乱に収拾がはかられた。以後唐代には罽賓=カーピシー、迦濕彌羅/箇失蜜=カシミールとはっきり区別されるようになった。

『魏書』西域伝には、罽賓国の条がある。「罽賓国は善見城に都しする。波路(ボロル)の西南に在り。」とされ、方角的にはカーピシーだが、両国間の距離は三百里=約150kmしかなく、その点ではカシミールの方がふさわしい。記事にも農作物が豊富な様が描かれており、これは間違いなくカシミールを示す内容。

しかし、求法僧の旅行記などに現れる罽賓はガンダーラ一帯をさしているケースが多い。この件に関する詳細な論考は、

・桑山正進 (1983) 罽賓と佛鉢. (1983) 『展望 アジアの考古学 樋口隆康教授退官記念論集』所収 pp.598-607. 新潮社, 東京.
・桑山正進 (1985) バーミヤーン大佛成立にかかわるふたつの道. 東方学報京都, no.57[1985/03], pp.109-209.
・桑山正進 (1990) 『カーピシー・ガンダーラ史研究』. 京都大学人文科学研究所, 京都.

を参照のこと。

本紀には罽賓と越伽使密の双方が現れる。『魏書』本紀の遣使記事より抜き出してみると、

451(太平真君12→正平1)
・春正月・・・。是月、破洛那、罽賓、迷密諸國各遣使朝獻。
453(興安2)
・(冬)十有二月、・・・。庫莫奚、契丹、罽賓等十餘國各遣使朝貢。
502(景明3)
・是歳、疏勒、罽賓、婆羅捺、烏萇、阿喩陀、羅婆、不崙、陀拔羅、弗波女提、斯羅、噠舍、伏耆奚那太、羅槃、烏稽、悉萬斤、朱居槃、訶盤陀、撥斤、厭味、朱沴洛、南天竺、持沙那斯頭諸國並遣使朝貢。
508(正始5→永平1)
・秋七月辛卯、高車、契丹、汗畔、罽賓諸國並遣使朝獻。
511(永平4)
・(夏)六月乙亥、乾達、阿婆羅、達舍、越伽使密、不流沙諸國並遣使朝獻。
・(秋)八月辛未、阿婆羅、達舍、越伽使密、不流沙等諸國並遣使朝獻。
517(煕平2)
・(春正月)癸丑、地伏羅、罽賓國並遣使朝獻。
・秋七月乙丑、地伏羅、罽賓國並遣使朝獻。

罽賓と越伽使密は同年に遣使したことはないので、そこからは同じ国か別の国か判断できない。

『魏書』西域伝・罽賓条は、大半がカシミールを示す記事と思われるので、遣使を送っている罽賓もカシミールである可能性が高い。しかし、中にはカーピシーも混在しているのではないか?とも思わせる。特に、517年の地伏羅(ザーブル、アフガニスタン南部)と共に遣使している罽賓はその隣接国カーピシーの方かもしれない。

この時代は、カーピシーもカシミールも充分な史料がなく、北魏に遣使できるような国・政情であったかどうかわからない。この問題はもう少しつっこんで調べないと結論が出せない。また「不流沙」問題も、そこから解けるヒントが現れてくるかも知れないので、注目し続けたいところ。

2009年9月24日木曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(23) シャンシュン語、キナウル語で解釈してみる

「bru sha/'bru zha」や「sbal ti」の語尾の「sha/zha」や「ti」がチベット語やブルシャスキー語で意味・語源不明であるならば、7世紀まで西部チベットを支配していたとみられるシャンシュン王国のことば=シャンシュン語を持ち出すのはどうでしょうか。

シャンシュン語は近年、国立民族学博物館が進めている研究などで、徐々にその実体が明らかになってきています。チベット・ビルマ系の言語であるのは確実です。その中でもヒマラヤ諸語と呼ばれる言語群に含まれる可能性が高く、現存している言語の中ではキナウル語に最も近いとみられています。しかし、そのかつての分布や起源などについては依然謎の多い言語です。

------------------------------------------

シャンシュン王国がどの程度の広がりを持っていたのか、支配体制がどうだったのか、不明な点ばかりなのですが、7世紀に吐蕃に併合されるまでは少なくとも現在のンガリー一帯を支配していた大勢力であったのは間違いありません。チベットとボロル(ブルシャ)の間にあって、知られている古代言語はこのシャンシュン語のみですから、試行的にこの言語を利用してみるのは悪い試みではないでしょう。

ただし、現在ボン教文献に散見されるシャンシュン語は、敦煌文献にわずかに発見されている古いシャンシュン語とはだいぶ異なります。前者は新シャンシュン語、後者は古シャンシュン語と呼び区別されています。

不確定要素はたくさんありますが、とりあえず試行的に新シャンシュン語で解釈できないか、トライしてみましょう。

------------------------------------------

筆者が参照できるシャンシュン語辞書は、

・Dan Martin(ed.) (1997) Zhang-Zhung Dictionary.
http://www.comet.net/ligmincha/html/zzdict1.html
(現在は公開を終了しているようです)

のみです。

近年、別のシャンシュン語辞書が出版されたようですが、なかなか入手できずにいます(貧乏ですので)。

------------------------------------------

まず「zha」を当たってみましょう。

いきなりですが、上述の辞書には「zha」という単語はありません。がっかり。では、一部に「zha」を含む単語で、ものになりそうなものを挙げてみます。

「シャンシュン語」=「チベット語」=「日本語」

「dmu zhag」=「mkha' lding」=「ガルーダ」
「zhang zhag」/「zhung zhag」=「bya khyung」=「ガルーダ」
「zhang ze」/「zham ze」=「rdzu 'phrul」=「魔術」
「zhim zhal」=「bde sdug」=「幸福と苦痛」
「zhum zhal」=「khrag 'dzin」=「皮」
「bri zhal」=「'ja' tshon」=「虹」

など。なかではガルーダ関連が気になるところですが、ガルシャ(ラーホール)、ブルシャと結びつくような伝説はなさそうです。他はあまりぱっとしませんね(注1)。

「sha」ではどうでしょうか。

「tri shan」=「shes rab」=「智慧」
「tha shan」=「la shan」=「分別すること」
「pa shang」=「dbang sdud」=「力や影響をつなぐ/統合する/引きつける」
「tse shan」=「rna」=「耳」
「sha/ka sha」=「ma chags」=「執着することなく/愛することなく」
「sha 'bal」=「sta re」=「ボン教神が持つ小斧」
「sha zur/shang zur」=「g-ya' brag」=「石がごろごろした山腹・崖」
「sha ya」=「bshags」=「告白」
「sha ya gyin」=「bshags pa yin」=「説明したように」
「sha ri」=「dpal ldan」=「聖なる(sri)」
「sha shin」=「rnam shes/shes pa」=「覚醒」
「shang ze」=「rgan po/rgan mo」=「老人」
「shing sha」=「rga shi」=「老化と死」

この中では「sha zur/shang zur」=「石がごろごろした山腹・崖」が地名と関係ありそうです。分解してみると「sha/shang」が「石(ごろごろ)」で、「zur」が「山腹・崖」になります。すると、ここでひとつおもしろい関係が浮かび上がります。

------------------------------------------

ラーホールのチベット名「ガルシャ」には様々なスペルがあり、前半はdkar/gar/ga、後半はsha/shwa/zha/zhwaなどとつづられます。この中から「dkar sha」というつづりを選んでみましょう。これを、チベット語「白い」+シャンシュン語「石」のハイブリッド単語と考えてみます。すると、ラーホール/ガルシャ特産として有名な「白い(大理)石」そのものになります。

シャンシュン語で、名詞を修飾する形容詞が前からかかるのか、チベット語のように後ろからかかるのかはっきりしませんが、シャンシュン語と近縁とされるキナウル語/ラーホール諸語では「形容詞+名詞」の順です。

ラーホール/ガルシャ産の大理石で作った仏像は西部チベット各地で崇められています。有名なのは地元ティロキナートのパクパ・リンポチェ像、カン・ティセのチュク・リンポチェ像です。ラダック・ティンモスガンにあるチェンレスィ大理石像は、スピティ産といわれていますが、おそらく同じくラーホール/ガルシャ産ではないかと思っています。

「チベット語+シャンシュン語」のハイブリッド、という点にちょっと苦しい面がありますが、可能性はかなりありそうです。

------------------------------------------

では、この理屈を「ブルシャ」語源探索に利用できるか試してみます。

「bru/'bru」は王朝名「Patola/Palola」に起源を持つと仮定しましたが、これとシャンシュン語「sha(石)」を組み合わせたら何か意味を持つでしょうか。

ここで前回の『大慈恩寺三蔵法師伝』、『大唐西域記』などの「金銀を産出」という記述が生きてくるわけです。ボロル/ブルシャで多産する(とされる)金や銀を指して、「パトラ王朝の石」と呼び、それが「ブルシャ」という地名になった、と考えることはできないでしょうか。

あるいは、前回の「boori(銀)」を持ち出し、ブルシャスキー語「boori(銀)」+シャンシュン語「sha(石)」のハイブリッドで「銀鉱石」を意味する、と考えてもよさそうです。あるいはこちらの方が有望でしょうか。

------------------------------------------

西部チベット~カラコルムでの金銀の産出や流通状況(特に古代の)についてはわかっていないことばかりで不確定要素は多く、これも「大胆な仮説」の域を出ませんが、検討価値のあるものと信じます。

シャンシュン語「sha」にしても、上記のリストをみると同じスペルでも様々な意味がありそうです。さらに探索していけば他にも何か有望なものが抽出できるかもしれません。が、とりあえず今のところは検討は端緒についたばかりです。

------------------------------------------

次に「ti」ですが、これはシャンシュン語では意味がたくさんあります。

(1)良いこと、秀逸、有益
(2)数字の一(tig)の短縮形。語頭に置かれ「ひとつの~」とも使われる。
(3)属格を表す接尾辞
(4)「~すべき」を表す接尾辞
(5)「ti」あるいは「ting」で、水
(6)北
(7)考える、憶える

この中では(3)、(5)あたりが有望でしょうか。

(3)と考えた場合、「sbal ti」は「パトラ王朝の」といった意味になり、もともとボロル国の中心地であったバルティスタンの名にはふさわしい。

(4)と考えた場合、「水」を「川」とか「谷」の意味に取り、「パトラ王朝の谷」とする。これもワンステップ変換・解釈が必要ですが、なかなかよさげ。

その理屈で「spyi ti(スピティ)」、「nyung ti(クッルー)」だとかに応用できるかどうかは、長くなりそうなのでいずれまた別稿で。

------------------------------------------

おまけで、シャンシュン語と近縁の言語とされるキナウル語(hom skad)もみておきます。

出典は、

・Davadatta Sharma (1988) A DESCRIPTIVE GRAMMAR OF KINNAUR. pp.xvi+203. Mittal Publications, Delhi.

すると、「-shya」という接尾辞がみつかります。これは、「○○-shya」という使い方で「○○に属する」を意味します(注2)。

例:
denshang-shya=村+に属する→村人
teg-shya=大きい+に属する→大きい人/年上の人

これを「ブルシャ」に当てはめてみると、「パトラ王朝に属する」となり、こちらもなかなか魅力的です。

欠点としては、この接尾辞「-shya」と同じ用法が、今のところシャンシュン語では確認できないことです。キナウル語とシャンシュン語は近縁とはいえだいぶ違いますから無理もありませんが、シャンシュン語の方はなんといってもサンプル数が少なすぎます。「全くあり得ない」と結論を出すのも早すぎるでしょう。

この辺は、今後の研究で関連性が見いだせるかもしれません。

------------------------------------------

とまあ、チベット語、ブルシャスキー語、シャンシュン語、キナウル語といろいろ語源探索してみましたが、「これは完璧」とまではなかなかいきません。

結局、確実な語源にまでたどり着くことはできませんでしたが、この「ブルシャ」という単語が伝わっている場所が、地元フンザ・ナガルとチベットだけというのは確実です。チベット語化しているといってもいいでしょう。

では、その「ブルシャ」に「スキー」がくっついて「ブルシャスキー」になるのはなぜなのか?「スキー」は何か?という問題に進みますが、その前に漢文史料に現れる「ブルシャ」も片づけておきます。

===========================================

(注1)
「bri zhal(虹)」は全体で「bru sha/'bru zha」とよく似ている。ブルシャは「bru shal」とつづられるケースもあるため、この場合は一層似てくる。しかし「虹」とブルシャ/ボロルを結びつける伝説も今のところ確認できない。

今は「bru/'bru」は「Patola/Palola」の訛った形?という仮説で進んでいるので、この探究には深入りしないことにする。

また、前半「bru/'bru」と似たシャンシュン語単語に、「'brug(下る)」、「bra min(シラミの卵)」、「bran(召使い/奴隷)」、「'bar(日の出/輝き)」、「ti bar(習慣)」、「du bur(捨てる)」、「bur ci(行動/活動)」、「khre bre(だまさない)」などもあるが、今はこれ以上検討しない。

(注2)
ただしこれは男性形。女性形では「-she」になる。

2009年9月22日火曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(22) 「bru/'bru/buru」=「boori(銀)」か?

不覚でした。

「ブルシャスキーって何語?」の巻(20) 「ブルシャ」をチベット語とブルシャスキー語で解釈してみる

で、

> この中では「boor sah」=「西に沈む太陽」の組み合わせが
> 意味ありげに見えます。

にばかり気を奪われて、もうひとつ語源として有望なブルシャスキー語単語があることに気がつきませんでした。

それは「boori(銀)」です。

------------------------------------------

・玄奘 (唐646) 『大唐西域記』.
・慧立+彦悰 (唐688) 『大慈恩寺三蔵法師伝』.

には、鉢露羅(ボロル)国の情報として、「金銀を(多く)産出する」とあります(注1)。

「ブルシャ」の前半「bru/'bru/buru」が、銀を産出することに因んだ名(ブルシャスキー語)である可能性は考慮すべきでしょう。

------------------------------------------

金については、『大唐西域記』はボロル(ブルシャ)の南に位置する達麗羅(ダレル/Darel)国でも「黄金を産出する」と報告しています。コーヒスターン(ダレル/チラスから南にかけての地域)には今もソニワル(Soniwal)と呼ばれる集団(注2)がおり、これはインダス川で砂金取りを生業としています。

また、ギリシア・ローマ史料に記録されている「黄金を掘り出す大蟻」もこのあたり~西部チベット(注3)にかけての情報だろうと、推測されています。

以上のように、ギルギット周辺の金についてはかなり情報があるのですが、一方肝心の銀についてはあまり情報がありません。銀は砂金のような形状としては取れませんから、必ずや近くに銀鉱山があったはずです。

しかし現在ギルギット周辺で銀の採掘が行われているという情報は聞かないし、かつて銀山があったという情報や廃鉱銀山の情報も今のところ知りません。

------------------------------------------

玄奘の報告は7世紀前半のものです。銀鉱山は比較的短期間の稼働であったり、その後間もなく稼働を停止したのかもしれません。それから千四百年も経過しているのですから、その記憶が失われたとしても不思議ではありません。今後調査を進め、丹念に聞き込みを続ければ古い銀鉱の情報も現れてくるかもしれません。

現状では銀鉱山の存在を確認できませんが、玄奘の情報はかなり信頼されていますから、ボロル(ブルシャ)が「銀を多産する」という情報、そして「銀(ブルシャスキー語で「boori」)がブルシャの語源となった」という仮説は充分考慮に値すると考えます。それにはまだまだ情報を集めなければなりませんが。

------------------------------------------

仮に「boori(銀)」が「ブルシャ」の語源になったのだとしても、それで説明できるのは前半の「ブル」のみで、後半の「シャ」はやはり謎のままです。

ここはやはり、チベット語、ブルシャスキー語以外の言語を使ってでもなんとか解明しておきたいところです。

というわけで、一回で元に戻れます。よかった。

===========================================

(注1)
訳文は、

・水谷真成・訳注(1971) 『中国古典文学大系 大唐西域記』. 平凡社. → 再版 : (1999) 『大唐西域記 1~3』. pp.380+396+493. 平凡社東洋文庫653・655・657, 東京.
・長沢和俊・訳(1998) 『玄奘三蔵 西域・インド紀行』. pp.329. 講談社学術文庫1334, 東京.

を参照した。

(注2)
ソニワルは、民族名というより砂金取りに従事する人々の集団名で、その名も「金族」の意味。インドのカーストと同じように、職能集団に与えられた名。

(注3)
西部チベットの金鉱・砂金については、女国/スヴァルナゴトラやグゲ王国がらみの話になり、長くなるのでいずれまた。

2009年9月16日水曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(21) 様々な地名表記とその語源

基本に立ち返って、「パトラ・シャーヒー朝(注1)の王朝名パトラ(Patola)/パロラ(Palola)から派生した名」という説をもう一度検討してみましょう。これによると、ボロル、ブルシャ、バルティはみなこの「パトラ」が語源と考えられています。

------------------------------------------

PATOLAPALOLA

BOLORBALURBULUR=波倫/波路/鉢露羅/鉢盧勒/勃律?

BRU SHA/'BRU ZHA

SBAL TI=勃律?

------------------------------------------

このうち、「Patola/Palola」と「Bolor/Balur」間の対応が最もよく、「Patola→Bolor」という説はやはり説得力があります。P←→B、L←→Rの交替が容易に行われることは理解しやすいでしょう。

では残りの「bru sha/'bru zha」、「sbal ti」はどうでしょうか?どちらも最初の子音(B/P)、2番目の子音(T/L/R)まではまあまあ対応していますが、3番目の子音が対応しません。

「bru sha/'bru zha」、「sbal ti」の前半はとりあえず王朝名「Patola」に起源を持つと仮に考えておいて、後半の「sha/zha」、「ti」は何か別の起源を持つ接尾辞ではあるまいか?と考えてみます。

------------------------------------------

近隣で「sha/zha」や「ti」を語尾に持つ地名はないでしょうか?

まず「sha/zha」ですが、インドのヒマーチャル・プラデシュ州ラーホールがチベット語で「ガルシャ(gar zha/dkar sha)」といいます。またザンスカールにも大僧院のある村「カルシャ(dkar sha)」もあります。地域の規模としては前者の方が比較対象として有望でしょう(注2)。

また「ti」の方ですが、ヒマーチャル・プラデシュ州に「スピティ(spyi ti)」が、また同じく「ニュンティ(nyung ti、マナーリー~クッルーをさすチベット名)」があります。ラーホール北部の無人の地リンティ(ling ti)、ラダックのシャクティ(shag ti)、ラダック・ルプシュの「チュムルティ(chu mur ti=chu dmar)」という地名があります。やはり地域の規模としては前二者が比較対象として有望でしょう

「bru sha/'bru zha」や「sbal ti」という地名はこれらと共通した命名ではなかろうか、と推測されますが、残念なことにそのどれも語源が明らかではありません。

「zha/sha」も「ti」もなにか土地に関係した接尾辞のようではありますが、何語なのかわかりません。当然、その意味も語源も不明です。

===========================================

(注1)
パトラ・シャーヒー朝は、7世紀頃にボロルを支配していたと考えられている王朝。ギルギット近郊で発見された経典(いわゆる「ギルギット写本」)、碑文、仏像の銘文などにいくつか王名が残っているだけで、この王朝の実体は謎に包まれている。「Patola/Palola」の名はこれらの王名に伴って現れる名で、よって「パトラ・シャーヒー朝」と総称されている。

「Patola/Palola」の語源は今のところ不明。観世音菩薩の在所を意味する「Potalaka(補陀洛山)」を思い起こさせる名ではあるが、ギルギット周辺で観世音菩薩信仰が盛んであったことを示す証拠は特に見いだせない。観音像は皆無ではないが、弥勒菩薩像がやたら多いのに比べるとわずかなもの。

(注2)
「吐谷渾」を意味する「アシャ('a zha)」という地名・集団名もあるが、これは匈奴の奴隷を意味する単語「阿柴虜[中古音:a tshie/dze lu]」が語源といわれており、関係はなさそうだ。

2009年9月12日土曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(20) 「ブルシャ」をチベット語とブルシャスキー語で解釈してみる

伝説とは別に、まっとうにチベット語で解釈できるか見てみましょう。

前半は、「'bru/bru/'brum」は「穀物」「果実」の意味、「bru ba/'bru ba」ですと「掘る」になります。

後半は、「zha」なら「表面」「麻痺」「湿気」など、「zhwa」なら「冠」「帽子」、「zha ba」で「足の不自由な」、「sha」なら「肉」、「sha ba」なら「鹿」の意味があります。また「zha nye(zha ne)」の語頭であるならば「鉛」などが考えられます。

しかし、二つを組み合わせてもこれといった意味を持ちません。また、そのどれについても特にギルギット~フンザと結びつく伝説はなさそうです。おそらくこれは本来チベット語ではないでしょう。

先のブル氏起源説話に見えるように、「brul ba(下った/降臨した、非完了形は'brul ba)」と「gsha'(貴い)」をそれぞれ部分的に取って組み合わせた、などとしたら、候補となる単語は数限りなく、さらにその組み合わせとなると無限に近い数に達します。

そのどれかを組み合わせれば、いかにもそれらしいお話をこじつけることはできそうですが、あまり真相に近づけるような気もしません。

------------------------------------------

今度はブルシャスキー語で見てみましょう。手元にあるブルシャスキー語の語彙集では、語彙数はあまり多くないのですが、できる範囲で頑張ってみましょう。

「bring(鳥)」、「biro(男、オス)」、「birdi(地面)」、「birgah(戦い)」、「brin(<鳥の>群れ)」、「birango(<音が>長い)」、「birunsh(桑)」、「bron(米)」、「boori(銀)」、「boor(西、日没)」、「burro(徴税人)」

「ishah(<時間の>月)」、「sah(太陽)」、「sheh(羊毛)」

出典は、

・John Biddulph (1880) TRIBES OF THE HINDOO KOOSH. pp.vi+164+clxix. Calcutta. → Reprint : (2001) Bhavana Books & Prints, New Delhi.
・萬宮健策 (1990) ブルーシャスキー語語彙調査についての報告. (東京外国語大学)言語・文化研究, no.8[1990/03], pp.23-30.
・Homayun Sidky (1995) HUNZA : AN ETHNOGRAPHIC OUTLINE. pp.209. Illustrated Book Publishers, Jaipur.

この中では「boor sah」=「西に沈む太陽」の組み合わせが意味ありげに見えます。

チベット語の「'bru zha/bru sha」では前半は「'bru/bru」と単音節になっていますが、ブルシャスキー語の「Burusho/Burushaski」では「bu ru」と二音節になっているあたりも、上の説に都合のいい状況です(注-2009/09/15追記)。

「(チベット側あるいはバルティスタン側から見て)日が沈む(西の国)=boor sah」が「bru sha/'bru zha」と訛った、とこじつけることもできそうですが、ブルシャスキー語語彙のごくごく一部をチェックしただけですから、「これが有望な説」などと吹聴する気はありません。もしそうだとしても、文献・伝説上での裏付けも必要でしょう。ここでは一つの思いつきとして、将来何かのヒントになれば幸いです。

===========================================

(注)@2009/09/15追記
外国語をチベット語に音写した場合、母音の位置が一部入れ替わる現象は他にも例がある。

有名なのは、Türk(テュルク/突厥)をチベット語で音写した単語「dru gu/gru gu」。

2009年9月8日火曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(19) ブル氏起源神話にみえる「ブルシャ」の語源

『テンチュン』や『レクシェー・ズー』で語られているブル氏起源神話でひとつ重要なのは、「ブルシャ(bru sha/'bru zha)」の語源が語られていることです。

> バラモンは「お体には様々な吉兆が現れております。
> 天より地に降臨なされた(brul ba)がゆえに
> 神の御子である貴種(gsha')ゆえに
> また、ブラフマーの印である頭蓋骨の隙間
> (Brahmarandhra)がございます。ゆえに
> 『ブルシャ・ナムセー・チドル(bru sha gnam gsas
> spyi rdol=ブルシャなる天神族で頭骨に隙間あり)』
> というお名前を差し上げたいと思います」と述べた。

ここでは「ブルシャ('bru zha/bru sha)」という名称をチベット語で説明しています。きちんと語られてはいませんが、ブル(シャ)氏という名称が先にあり、ブルシャという地名はブル(シャ)氏が住みついたことにちなむものだ、と言いたいようです(注)。

が、これはどう考えても後付けのこじつけでしょう。そもそも舞台がトハリスターンやカラコルムなのに、その名がチベット語で説明できる、というお話には無理があります。

ブル氏は、ブルシャからチベットにやって来たがゆえに「ブル」氏と名乗った、と考える方が合理的です。となると、「ブルシャ」という地名が先にあったとしてと考え、そちらから攻める方が実りは多そうです。

===========================================

(注)
ただし、ブル氏始祖ウーセル・ダンデン(ブルシャ・ナムセー・チドル)の年代は、実在したとすれば8世紀前半と想定でき、これはチベット側史料に「ブルシャ」という地名が現れ始める時期と奇妙に一致している。

2009年9月4日金曜日

ヒマーチャル・ニュース

まだ9月になったばかりだというのに、ヒマーチャル・プラデシュ州山岳部ではもう雪が降ってロータン・ラ(マナーリー~ラーホール間)は一時閉鎖されたようです。ずいぶん早いですね。

・My Himachal > Higher reaches of Himachal receive seasons first snow. Aug 31st, 2009
http://himachal.us/2009/08/31/higher-reaches-of-himachal-receive-seasons-first-snow/15382/news/ravinder

・My Himachal > Higher reaches of Himachal get more snow. Sep 3rd, 2009
http://himachal.us/2009/09/03/higher-reaches-of-himachal-get-more-snow/15460/news/ravinder

・SAMAYLIVE.com > Homepage » Regional > Manali-Leh highway reopened, 282 people rescued. Fri, 04 Sep 2009
http://www.samaylive.com/news/manalileh-highway-reopened-282-people-rescued/654352.html

もっともこれは、冬の雪ではなくて、夏のモンスーンの雨が上空の寒気で雪になってしまったもの。今年は向こうも寒いのですね(注-2009/09/05追記)。シムラーでさえ雪になったと言いますから、そうとう強い寒気です。

私は9月10月にあの辺をウロウロしていることが多かったので、これだけ降雪が早いと、9月頭にしてもうマナーリーから奥に入れなくなってしまうわけで、困りもの。

ラダックやスピティに入っている旅行者で、陸路でインド平野部に抜けようと考えている人は少し予定を早めにした方がいいかもしれませんね。

------------------------------------------

おまけで、↓これはスピティの一妻多夫制のリポート。

・globalpost.com > Home > Asia > India > When two husbands are better than one. Polyandry in the Himalayas is a complex affair. Not surprisingly. By Joel Elliott — Special to GlobalPost. Published: September 2, 2009 07:02 ET. Updated: September 3, 2009 08:23 ET
http://www.globalpost.com/dispatch/india/090826/when-two-husbands-are-better-one

一般にはインド独立後禁止された、と伝えられている一妻多夫制ですが、ラーホール・スピティ県全体でまだ500家族ほどいるようです。

===========================================

(注)-2009/09/05追記

インド洋のモンスーンと日本の夏の気候との関係について、少し補足しておく。

南半球低緯度高空を東から西に吹いている貿易風は、インド洋の西でアフリカ大陸東部の高原地帯にぶつかる。そして時計回りにクリンと回って、インド洋西部からインド亜大陸に吹きつける。

この風は、夏場はインド洋から吸い上げたものすごい湿気を伴って吹きつけるため、モンスーンと呼ばれる雨期をインド亜大陸にもたらす。

さて、この風はさらに北東へ流れ日本にまで到達している。だからインド/ヒマラヤの気候と日本の気候は無関係ではない。あまり系統だてて調べたわけじゃないけれど、春~初夏にインドで死者が多数出るような熱波のニュースがあった年は、日本も猛暑だったような気がする。

最近注目されているのが、インド洋のエルニーニョ現象とも言える「ダイポール現象」。これは、理由はわからないがインド洋の東に冷水塊が現れ、その影響で反対側の西には暖水塊が現れる。そこでは蒸発量も当然多くなる。ここがちょうど風の通り道になっているから、例年より多い湿気がもたらされてインド亜大陸は大雨。日本に到達する頃には湿気を落とし、乾いた熱波としてやって来る。それで、日本は猛暑、といった具合。

細かい話は省略して、おおざっぱに説明するとこんなところだろうか。

もっと詳しく、そして正確な内容が知りたければ、こちら↓をどうぞ。

・地球環境フロンティア研究センター > 過去のニュース・イベント > プレス発表 > 2003/06/23 > 1994年の日本の猛暑の原因を解明 ━ インド洋ダイポール現象と東アジアの気候システムを結ぶ点と線 ━
http://www.jamstec.go.jp/frcgc/jp/press/IOD/
・(参考2)6、7、8月の平均的なモンスーンの流れのパターン
http://www.jamstec.go.jp/frcgc/jp/press/IOD/images/Ref2_J.gif

同サイトには、この他にもダイポール現象に関するリポート多数。

今年の冷夏・多雨もきっと、インド洋の水温分布が影響してるんだろうなあ。上述のヒマラヤ方面の寒波と日本の早い秋の訪れも、もちろん関係あるはず?と思う。全然調べていないけど。

参考:
・宮原三郎 (1997)世界の屋根ヒマラヤと地球をめぐる風. 酒井治孝・編著 (1997) 『ヒマラヤの自然誌 ヒマラヤから日本列島を遠望する』所収. pp.27-46. 東海大学出版会, 東京.

===========================================

(追記)@2009/09/05

(注)を追加。

2009年9月2日水曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(18) 外国のボン教輸入の異伝

西方ボン教輸入に関する伝説は、文献によりヴァリエーションがあります。例えば、

・ngag dbang blo bzang rgya mtsho(ダライ・ラマ五世) (1643) 『rgyal blon gtso bor brjod pa'i deb ther(ダライ・ラマ五世年代記/西蔵王臣記)』.
・sum pa mkhan po ye shes dpal 'byor (1748) 『chos 'byung dpag bsam ljon bzang(パクサム・ジョンサン)』.

では、ブルシャとシャンシュンのボン教を輸入したのはディグム・ツェンポの代で、ドゥン(sgrung=物語)、デウ(lde'u=謎掛け歌)、シェン氏のナム・ボン(gnam bon=天のボン)を導入したのがその子プデ・グンギェルの代、とされています。

参考:
・山口瑞鳳 (1988) 『チベット(下)』. pp.v+372+xxiv. 東京大学出版会, 東京.
・五世達頼喇嘛・著, 劉立千・訳注 (1992) 『西蔵王臣記』. pp.3+3+2+356. 西蔵人民出版社, 拉薩. → 再版 : (2000) 民族出版社, 北京.
・R.A.スタン (1993) 前掲.
・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.xi+642. Dharamsala.

前の伝説において、(1)の派手な職能を持つボンポは、スタンの解釈ではカチェのボンポに当たるはずですが、そのカチェ・ボンポはここには出てきません。スタンの解釈も怪しむべきかと思われます。ブルシャ、シャンシュンに比べると、カチェのボンポはそれほど重要な存在ではなかったのかも知れません。また、ディグム・ツェンポの葬祭との関係も語られてはいません。

また、

・sa skya bsod nams rgyal mtshan (1368) 『rgyal rabs rnams kyi 'byung tshul gsal ba'i me long chos 'byung(王統明示鏡)』.

では、プデ・グンギェルの前にはすでにドゥン(sgrung=物語)とデウ(lde'u=謎掛け歌)により政治が司られており、この代にタジク(stag gzigs)のオルモルンリン('ol mo lung ring)にシェンラブ・ミウォが生まれ、ユンドゥン・ボン(g-yung drung bon=永遠のボン)がシャンシュンから導入された、ことになっています。

------------------------------------------

このあたりの伝説はなかなかに錯綜しています。いったいどれをあてにしたらいいのか、はたまたどれもあてにできないのか。じゃあ、ボン教側の伝説(これは長くなるのでいつかまた・・・)の方を全面的に信頼するか、というとそれも難しい・・・。

ボン教関連の話題は、すべてにおいてヴァリエーションが多すぎて、すっきりと整理されていません。よって、読んでいる方もわかりにくいと思いますが、それがボン教研究の現状です。

------------------------------------------

「カチェのボン」はヒンドゥ教シヴァ派、もしくはその影響が強い宗教、「ブルシャのボン」はゾロアスター教やマニ教、もしくはその影響が強い宗教、あたりではないかとも推測されます。

これら「外国のボン(宗教)」が導入されて、ジクテン・ゴンポの唱えるところの「キャル・ボン('khyar bon=方向を転じたボン)」が始まり、これ以降ヒンドゥ教の卵生神話やゾロアスター教の光と闇の二元論などがボン教教義に導入されたのではないか、と考えられています。

チベットのボン教徒にとっては、ブルシャはボン教(実際はゾロアスター教、マニ教、ヒンドゥ教、分類不能の民間信仰などだったかもしれない)先進国の一つとして重要視された国だったようですが、その「ブルシャのボン教」の実体は結局のところ、ようとして知れません。

2009年8月29日土曜日

閑話休題 ボツ原稿の巻

現在使っている某社のコンピュータは、時には起動に1時間かかったり、ハードディスクがいきなり停止したり、キーボードが暴走したり(BSの暴走が一番やっかい)、と墓場に片足突っ込んだ状態なのですが、なんとかだましだましやってます。

¥¥¥¥¥¥←これも暴走キーボードの残骸(残してみました)

ハードディスクを整理しようと、日頃覗かない圧縮ファイル群をいじっていたところ、例の某地域ガイドブック・ボツ原稿ファイルのジャングルに迷い込んでしまいました。

久々に読んだところ、我が作品ながらおもしろくておもしろくて、気がつけば数時間がたっていました。今日は大サービスでそのボツ原稿(最終稿の数歩手前くらい)の一部をスクリーン・ショットでお見せしましょう。解像度は低いんですが、雰囲気だけお楽しみ下さい。


この解像度でも見る人が見れば、どの地域のガイドブックで、どの場所のページなのかすぐわかってしまいますが、ま、そういうことで。

なお、この企画は「商品価値なし」という判断で丸ごとボツになっていますし、調査時期も7~8年前なので、今は復活の可能性はゼロです。もしもいまだに期待している方がいたとしても、その期待には一切お応えできませんのであしからず。

次回はまた、いつものように「予想外」の長期戦に入っている「ブルシャ」話に戻ります。もう(28)まで書き終わっているんですが(あはは)。その後もまだ続きそう・・・。

2009年8月26日水曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(17) ブルシャのボン教

ボン教関係文献では、ボン教先進国として、タジク(ペルシア)、カチェ(カシミール)、ギャカル(インド)と共にブルシャが現れます。これらの国からシャンシュンにボン教が伝わり、さらにチベットへと伝えられた、とされています。

ところが、そのそれぞれのボン教がどのようなものであったのかは、今ひとつわかりません。「ブルシャのボン教」も同様です。

------------------------------------------

・'jig rten mgon po+'bri gung gling pa shes rab 'byung gnas (13C初?) 『'jig rten mgon po'i gsung bzhi bcu pa(ジクテン・ゴンポの四十のお言葉)』.(注1)

では、伝説的な吐蕃王ディグム・ツェンポ(dri gum btsan po/gri gum btsan po)が家臣ロガム・タジ(lo ngam rta rdzi)と争い戦死した際、王家では刀で死亡した際の儀式がわからず、カチェ、ブルシャ、シャンシュンからボンポ(bon po=ボン教徒)を招いて葬祭を執り行った、とされています。

ここで言う「カチェの/ブルシャの/シャンシュンのボン教」とは、チベットのボン教と同類・同系統と考える必要はなく、「宗教」一般くらいの意味と取っておけばいいでしょう。これら「外国のボン教(宗教)」の影響を受けつつ「チベットのボン教」が教義を整えていく、その過程が象徴的に記されているわけです(そのまま史実と受け取っていいわけではない)。

------------------------------------------

この三人のボンポは、それぞれ

(1)ゲクー(ge god=ge khod)神、キュン(khyung=ガルーダ)、メラ(me lha=火の神)に祈り、ダマルーに乗って空を飛んだり、血を吹き出させたり、鳥の羽で鉄を切ったりできる。
(2)ジュティク(ju thig=紐占い)、ラカ(lha bka'=神託)、ソクマル(sog dmar=肩甲骨を焼き割れて入ったひびで占う)などで吉凶を占うことができる。
(3)刀で死んだ者の葬礼の方法を知っている。

だった、といいます。結局(3)が当座の役に立った、ということなのでしょう。

・R.A.スタン・著, 山口瑞鳳+定方晟・訳 (1993) 『チベットの文化 決定版』. pp.xviii+389+53. 岩波書店, 東京. ← フランス語原版 : Rolf Alfred Stein (1987) LA CIVILISATION TIBÉTAINE : ÉDITION DÉFINITIVE. pp.ix+252+pls. l'Asiathèque, Paris.

では、登場順に(1)=カチェ(カシミール)のボンポ、(2)=ブルシャのボンポ、(3)=シャンシュンのボンポ、と比定しています。しかし、原文では「gcig gis ・・・(一人は・・・)」に続いてそれぞれの職能があげられているだけで、上記の順番で語られているのかどうか実は定かではありません。

・Namkhai Norbu (1995) DRUNG, DEU AND BON : NARRATIONS, SYMBOLIC LANGUAGES AND THE BÖN TRADITION IN ANCIENT TIBET. pp.xx+327. Library of Tibetan Works and Archives, Dharamsala.
・Vitali(1996)既出

などではスタンのような解釈を取らず、ボンポの職能を各々に特定していません。

------------------------------------------

(1)の職能がやたら詳しく記述されているのですが、これがカチェのボン(宗教)に特定できるでしょうか。

ダマルーに乗って空を飛ぶのは、ボン教文献ではあちこちに出てくるモチーフで、「ブル氏起源神話」でもブルシャ・ナムセー・チドル(ウーセル・ダンデン)がダマルーに乗って空を飛んでいます。これがブルシャのボンポであっても不思議はありません。

ゲクー神(sku bla ge khod/dbal chen ge khod)は、カン・ティセ(gangs ti se)の守護神でシャンシュン土着の神です(注2)。荒ぶる降魔神(bdud 'dul)でもあり、360の眷属を有する、とされています。

カチェ(カシミール)の宗教者がシャンシュン土着の神に祈るのは奇妙です。しかし、ゲクー神は「山の荒ぶる神」というヒンドゥ教のシヴァ神と似た性格を持っている上に、その在所も同じカン・ティセ=カイラース山です。シヴァ神=ゲクー神とみなした上での記述であれば、さほどおかしくないかもしれません。しかし、確かにシヴァ神と認識しているのであれば、そのチベット名ワンチュク・チェンポ(dbang phyug chen po=Maheshwara)とかラ・チェンポ(lha chen po=Mahadeva)の方を使いそうではあります。

キュンはヴィシュヌ神の乗物ガルーダ、メラは火の神アグニ(Agni)そのものですから、カチェ(カシミール)のヒンドゥ教司祭の職能だとすれば、矛盾しません。

メラについては、ゾロアスター教の影響も感じさせます。キュンについては、キュン=ガルーダという等式が一般化していますが、そのモチーフにはゾロアスター教の霊鳥スィームルグ(サエーナ)の影響もあるのではないか?と考えているのですが、そのあたりの検討は未了です。

(1)については、カチェ(カシミール)らしくもあり、一部ゾロアスター教の影響も感じさせ、これはブルシャのボンポではないか、とも感じさせます。また、ゲクー、キュンとシャンシュンの深い関係を重視すればシャンシュンのボンと言いたくもなります。結局、どの国のボンポと特定できる決め手には欠けます。

------------------------------------------

(2)をブルシャのボンポに特定できるでしょうか。

フンザには現在も「ビタン(Bitan)」という神降ろしがおり、シャーマニズムが生き残っています。これは(2)で記述されている「ラカ(lha bka')」そのものになります。

しかし、こういったシャーマニズムは世界中にあり、チベット周辺でもごく一般的ですから、これだけでブルシャに特定できるものではありません。

「ジュティク(ju thig)」とは、六本の紐をくしゃくしゃと丸めて投げ捨て、そこでできた結び目の数、位置、形などで吉凶を占う「紐占い」。一度だけではなく十三度投げ、それぞれの組み合わせを総合して吉凶を判断するかなり複雑なシステムらしい。

ジュティクについては前述の、Namkhai Norbu(1995)DRUNG, DEU AND BON. に一章が設けられています。しかし、占者心得や準備については詳しいのですが、具体的な卦の吉凶判断についてはほとんど語られていません。

図にあげられている卦の例は、きわめて複雑な結び目で、とても自然にできるものではありません。これらはおそらく象徴的なもので、儀式の下ごしらえとして魔除けや浄化の働きをする特別な卦なのかもしれません。

ジュティクはその起源が明らかではありません。ボン経典ではシェンラブ・ミウォが弟子に伝えたことにはなっていますが・・・。現在のカラコルム地域にはこういった占いは見あたりませんし、世界的にもどこに源泉を求められるのか、私には知識がありません。

一つ注目されるのは、ジュティクには「シャンシュン・ジュティク(zhang zhung ju thig)」という経典がある、と伝えられていることです。その中に「36本の紐で作られた360の結び目が360の神々(mdud lha)に対応する」とされています。この360神はゲクー神の360の眷属に対応するのではないか、とも推測されています(注3)。

どうも、ジュティクも上記三国の中ではシャンシュンとの関係が一番深そうです。そもそも「ジュティク(ju thig)」という単語自体シャンシュン語ですから、ブルシャよりもシャンシュン・ボンポの職能と考えた方がよさそうです。

肩甲骨(sog dmar)による占いは、古代中国・殷代のものが有名ですが、モンゴルやシベリアなど、北アジアの広い範囲で知られています。古代チベットにもありました。吐蕃時代の8~9世紀にチベット人が占いに使った肩甲骨がタリム盆地のミーラーン(米蘭)遺跡より出土しています(注4)。

古代にカチェ、ブルシャ、シャンシュンのいずれかで、このような卜骨占いが行われていたかどうか、今のところわかりません。また卜骨占いは北アジアから伝播した可能性が高そうですが、この三国のいずれも伝播の可能性があります。これだけでは、肩甲骨占いがどの国のボンポの職能か判断できません。

------------------------------------------

(3)の「刀で死んだ者の葬礼の方法を知っている」という職能ですが、これもこれだけでは三国のどれに相当するのか判断できません。

------------------------------------------

結局(1)~(3)の各ボンポの職能からでは、それぞれがどの国のボンポに対応するのか判断するのは難しいのが現状です。どちらかというと、(1)~(3)全部シャンシュン・ボンポじゃないか、という気もするのですが・・・。

おそらく、この三国の名はチベット・ボン教に影響を及ぼした外国として象徴的にあげられているだけで、各ボンポの職能の方も、それまでのボン教とは異質な職能として、これも象徴的にあげられているにすぎないかもしれません。

上記伝説の記述を額面通りに史実と受け取るのは危険です。

===========================================

(注1)
これは仏教ディグン・カギュパ開祖ジクテン・ゴンポの著作だが、ボン教発展史についても語っており、客観的かつリアリティのある見解をとっている。しかしこの見解は、ボン教教団側のものとは全く異なる(特にシェンラブ・ミウォの年代と出自に関して顕著)ため、ボン教徒には認められていない。

かいつまんでまとめておくと、ボン教の発展を三段階に分けるもので、

(1)ドゥル・ボン(rdol bon=粗いボン)
ティデ・ツェンポ王(khri lde btsan po=srib khri btsan po=khri lde yag pa、ディグム・ツェンポの父)の代にオン('on)谷出身のシェンラブ・ミウォが創始した悪魔払いの宗教。ドゥル・ポン(dur bon=墓の/葬祭のボン)と解する説もある。

(2)キャル・ボン('khyar bon=方向を転じたボン)
ディグム・ツェンポ王がロガム・タジと争い戦死した際に、シェンラブ・ミウォは刀で死んだ者の葬祭の方法がわからず、カチェ(カシミール)、ブルシャ、シャンシュンよりボンポを招いてその方法を学び、葬祭を執り行った。これを契機として、ヒンドゥ教シヴァ派をはじめとする外国のボン(宗教)の影響が入るようになった。

(3)ギュル・ボン(bsgyur bon=翻訳されたボンor変形されたボン)
これはさらに三段階に分けられている。
(3a)学僧シャムゴンチェン(sham sngon can=「青い腰巻きを身につけた者」の意味)が多くの仏教の内容をボン経典に取り入れた(場所不明、インドか?)。
(3b)ティソン・デツェン王の時、仏教側(グル・リンポチェが代表)とボン教側(デンパ・ナムカーが代表)が論争を行い、仏教側が勝利。ボン教は禁教となり、数多くのボン経典が破棄を恐れ各地に埋蔵された。
(3c)10~11世紀にシェンチェン・ルガーが埋蔵経典(gter ma)を発見し、ボン教の復興が始まった。

となる。このボン教三段階発展説は後に、

・tu'u bkwan blo bzang chos kyi nyi ma(トゥカン・ラマ三世) (1802) 『grub mtha' thams cad kyi khungs dang 'dod tshul ston pa legs bshad gsal ba'i me long(宗義水晶鏡)』.

でもそのまま採用されている。

(注2)
ゲクー神は、もともとルトク(ru thog)の土着神であったともいわれる(Vitali 1996)。ゲクー神は天界よりカン・ティセに降臨したのだが、後にはこれがいろいろ変形されて、「シェンラブ・ミウォがカン・ティセに降臨した」などという説になったりする。

ゲクー神の図像はこちらで。

・Himalayan Art > Iconography > Religious Traditions > Bon Religion > Deities / Wrathful Deities > Bon Deity: Walchen Gekho
http://www.himalayanart.org/search/set.cfm?setID=638

ただし、これは仏教の影響を受けた後、仏教の忿怒尊に似せてかなり変形されて描かれた姿、と推測される。

国立民族学博物館で開催されていた「チベット ポン教の神がみ」展で、ゲクー神の図像を見ることができたのかも知れません(見ていないので知らない。私も是非見たかったのですが、貧乏ですので大阪まで行ってくる金もありません)。

(注3)
出典:
・Samten Gyaltshan Karmay (1975) A General Introduction to the History and Doctrine of Bon. Memoirs of the Research Department of the Toyo Bunko, no.33, pp.171-218. → Reprinted IN : Karmay(1998) THE ARROW AND THE SPINDLE. pp.104-156. Mandala Book Point, Kathmandu.

(注4)
この出土卜骨サンプルに関する考察は、

・武内紹人+西田愛 (2003) チベット語の羊骨占い文書. 神戸市外国語大学外国語研究, no.58[2003], pp.(1)-(16).

で論じられている。

2009年8月22日土曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(16) ブル氏起源神話の検証

前回は、ブル氏がゾロアスター教的な世界観をボン教、特に『ズープク』神話に持ち込んだのではないか?という話でしたが、こうなるとブル氏のトゥーカル(トハリスターン)出身(神話上は降臨だが)という話も、荒唐無稽とは言えなくなってきます。

このブル氏起源神話が歴史的に裏付けが取れるものなのかどうか、検討してみましょう。

------------------------------------------

ウーセル・ダンデン(ブルシャ・ナムセー・チドル)が降臨したとされるトゥーカル(トハリスターン)は、3~7世紀にはクシャン朝(傍系らしいキダーラを含む)、ササン朝ペルシア、エフタル、西突厥の間で争奪戦が繰り広げられた場所です。7世紀前半~8世紀初は原住のトカラ系/エフタル系の諸侯を西突厥王族(吐火羅葉護)が支配する図式になっていました。

『大唐西域記』などの求法僧の旅行記や地理志では、仏教のことばかり書かれていますが、ペルシア文化の影響が色濃い社会であったのは間違いありません。広義のトハリスターンはゾロアスター教発祥の地とされる旧バクトリアをも含み、すぐ北のソグディアナもゾロアスター教が盛んでしたから、トハリスターンもゾロアスター教がかなり盛んな地域だったはずです。

7世紀後半からイスラム帝国軍の東進が始まります。652年にはササン朝は滅ぼされ、トハリスターンにもイスラム帝国軍の支配が及ぶようになります。7世紀中には頻発した反乱も8世紀初には徹底的に制圧され、大半がイスラム帝国の支配下に入りました(注1)。

イスラム教改宗の圧力は、硬軟取り混ぜてひたひたと押し寄せていきました。仏教はこの時代に滅びたようです。ゾロアスター教はペルシアでは多数派でしたが、イスラム化の進行に伴って徐々に減っていきます。トハリスターンでも同じ状況だったでしょう。

ゾロアスター教徒離散の歴史は、10世紀にインド・グジャラートに避難した、いわゆるパールスィー以外はほとんど知られていません。トハリスターンのゾロアスター教徒の消息も知りたいところですが、手元にはこれといった資料がありません。

そこで、ここからはだいたんな仮説になりますが、トハリスターンからイスラム化の圧力を避けてブルシャ(ギルギット~フンザ)へ避難したゾロアスター教徒の一族がブル氏だったのではないでしょうか?移住の時期は後述しますが、8世紀前半と想定できます。

ブル氏が本当にトハリスターン出身だとしても、その出自はペルシア系なのかトカラ系なのかエフタル系なのかテュルク系なのか?残念ながら今のところそれを判断できる材料はありません。

------------------------------------------

『テンチュン』、『レクシェー・ズー』をもとに、ブル氏の系図を作ってみるとこうなります。ナムカー・ユンドゥン以降は主に『レクシェー・ズー』を参照しています(注2)。


ブル氏略系図

この中では、ニンマパ経典を翻訳したことで知られるトツェンキェー(ツェツェンキェー/チェツェンキェー)、シェンチェン・ルガーの弟子ナムカー・ユンドゥン以降の世代が年代特定に有効です。

------------------------------------------

まず、より確実なナムカー・ユンドゥンから見ていきましょう。

ブル氏の一部は、ナムカー・ユンドゥンの曾祖父ユンドゥン・ギャルツェン(ユンギャムチェン)兄弟がブルシャからンガリーに移り、さらにユンドゥン・ギャルツェンがツァンに移ったとされています。

ナムカー・ユンドゥン(994-1054)はボン教中興の祖シェンチェン・ルガー(gshen chen klu dga'、996-1035)の弟子となり、師の遷化後もボン教再興に尽力しました(注3)。

細かい年次については不正確な点があるかもしれませんが、その子孫の年代も考慮すると、両者が11世紀前半に活動した人物であることは間違いないと思われます。

------------------------------------------

ではここを基準に世代を逆上ってみましょう。

ナムカー・ユンドゥンの曾祖父で、ブルシャからツァンに移ったとされるユンドゥン・ギャルツェン(ユンギャムチェン)はどうでしょうか。

この世代での重要事件は、同人を含む四兄弟がンガリー王ツェーポ・ツェーデに招かれて、まずブルシャからンガリーに移った、という出来事。一世代に約25年を与えてナムカー・ユンドゥンから逆上れば、その年代はだいたい10世紀中頃にあたるでしょうか。

ツェーポ・ツェーデの名は、グゲ王ツェ・デ[位:1057-ca.90d]がモデルとみられます。ところがツェ・デは11世紀後半の人物で、これはナムカー・ユンドゥンよりも時代が下がってしまいますから、ツェーポ・ツェーデ=グゲ王ツェ・デとすることはできません。モデルにしたのは名前だけとみられます。ではこのンガリー王は誰なのでしょうか。

10世紀初~中頃は、吐蕃王家の末裔キデ・ニマゴン(skyid lde nyi ma mgon)が中央チベットを追われ西遷し、ンガリー・コルスム一帯を制圧した年代と一致します。

『テンチュン』ではツェーポ・ツェーデはブル氏四兄弟をブルシャよりンガリーに招いただけですが、『レクシェー・ズー』ではその前に争いがあったとされています。これは『テンチュン』で語られているブルシャ・チベット戦争を後の時代にずれ込ませただけかもしれませんが、キデ・ニマゴンの西方進出戦争が反映されている可能性もありそうです。

もっともニマゴンの進出範囲として記録されているのは下ラダックまでで、バルティスタンやボロル/ブルシャまで兵を出したという記録はないのですが。

------------------------------------------

『ンガリー王統記』や『ラダック王統記』には、ニマゴン王が宗教に関わった話題はありませんが、ラダックのチョクラムサルにニマゴンの名の下に彫られたチャムバ(byams pa/弥勒菩薩)磨崖仏と碑文が残されています。仏教を国教として推進した吐蕃王家の末裔ですから、敬虔な仏教徒であることに不思議はありません。しかしボン教との関わりはわかりません。

チョクラムサルのチャムバ磨崖仏と碑文

『ンガリー王統記』によれば、10世紀末までンガリーでは民間でボン教が栄えていた、と記録されています。その後イェシェ・ウーにより仏教復興運動が開始され、ボン教は激しく迫害を受けたようです。

逆を言えば、その先代であるニマゴン王、タシゴン王(イェシェ・ウーの父)は比較的ボン教に寛容だった、とも言えるでしょう。また、現在のボン教と仏教ニンマパには、ゾクチェンのように共通する内容がみられます。ヨーガ技術の点では両者の間に大きな違いはなかったのかもしれません。ブル氏のツェツェンキェー(トツェンキェー/チェツェンキェー)がボン教とニンマパの双方で訳経師として重要視されていることでもその傾向が窺えます。

ニマゴン王またはタシゴン王はブルシャより、ボン教徒であるか仏教徒であるかにかかわらず有能なるタントリストとしてブル氏四兄弟を招いた可能性はありそうです。

ブル氏四兄弟をブルシャからンガリーに招いたツェーポ・ツェーデは一応キデ・ニマゴン王に比定しておきますが、もう少し証拠がほしいところです。

------------------------------------------

ユンドゥン・ギャルツェン(ユンギャムチェン)の父である訳経師ツェツェンキェー/トツェンキェーに行きましょう。

この人物は、ニンマパ関連文献に現れる訳経師チェツェンキェーと同一人物であるのは明らかです。ナムカー・ユンドゥンから四世代前ですから、その年代はだいたい10世紀前半に当たります。

ブルシャで彼に師事したとされるニンマパ行者ヌブ・サンギェ・イェシェの生没年は9世紀中頃~10世紀中頃と推測されますから、年代上二人はうまい具合に重なります。

ツェツェンキェー/トツェンキェー/チェツェンキェーが実在の人物であった可能性はかなり高いでしょう。

------------------------------------------

10世紀頃のボロル/ブルシャはどういう状況だったのか?というと、実はこの時代は史料に乏しく、具体的にはほとんどわからない状態です。

唯一、

・著者不詳 (982) HUDŪD AL-'ĀLAM(世界地理誌-東から西まで). (ペルシア語)

のわずかな記述があるのみです。

・Vladimir Minorsky (1937)HUDŪD AL-'ĀLAM(THE REGIONS OF THE WORLD). pp.xx+524. Luzac, London. →上記史料の英訳。一部、桑山(1998)収録
・桑山正進・編(1998) 『慧超往五天竺國傳研究 改訂第二刷』. pp.xii+292+pls. 臨川書店, 京都. →Minorsky(1937)を一部収録

からその記述を見てみます。

┌┌┌┌┌ 以下、桑山(1998)収録のMinorsky(1937)の英訳に基づき和訳 ┐┐┐┐┐

ボロルは広い国である。その王は太陽の息子と称する。王は日が昇るまで起床しない。息子は父より先に起床してはいけないからだという。王の称号はBulūrīn Shāhである。この国には塩は産出しないのでカシミールより輸入している。

└└└└└ 以上、桑山(1998)収録のMinorsky(1937)の英訳に基づき和訳 ┘┘┘┘┘

まだ、イスラム化していない状況がわかる程度で、王家がテュルク系とみられるトラカン朝なのか、その前のシャー・レイス朝なのかも不明です。

ブル氏の伝説では、一族はボン教司祭としてブルシャ/ボロル王家に重用されたことになっていますが、その状況も裏付けが取れません。またブルシャ/ボロルに残留した一族がその後どうなったのかもわかりません。

------------------------------------------

ツェツェンキェーから先の世代をみてみましょう。

ツェツェンキェーの父ラウ・セーキュンについては名前しか情報がないので飛ばして、ブル氏始祖ウーセル・ダンデン(ブルシャ・ナムセー・チドル)に進みます。

これまで述べた論法で、一世代25年で逆上らせるとウーセル・ダンデンの年代は9世紀後半あたりに落ちます。しかし、その年代と、ウーセル・ダンデン時代の重要事件、ツェーポ・ツーデ(btshad po rtsod lde)のブルシャ侵攻との整合性はあるのでしょうか。

この事件は前述の通り、722年の吐蕃軍侵攻を唐の援軍を得て撃退した事件、あるいは737年の吐蕃軍による小勃律制圧~747年の唐軍による撃退がモデルとなっているのは明らかです。後者では、ボロル(勃律)も吐蕃側として唐軍に討伐される側になっていますから、どちらかというと722年の戦争の方が似ているでしょうか。

いずれにしてもこれは8世紀前半の出来事で、系譜を逆上って推測した年代=9世紀後半よりも150年ほど古い時代になります。ツェツェンキェーの年代はかなり特定できていますから、系譜ではその前に約150年=六世代ほど欠損がある、とも考えられます。

しかし、このエピソードは、実はウーセル・ダンデンやその時代とは無関係で、記憶に残っている吐蕃による侵攻エピソードを適当に挿入しただけ、と考えることもできます。『テンチュン』と『レクシェー・ズー』ではその年代がだいぶ異なることからも、かなりぞんざいに扱われているのがわかります。そうなると、このエピソードに基づいてウーセル・ダンデンの年代を8世紀前半と推定しても意味はなくなります。

------------------------------------------

当時のブルシャ王(あるいはトゥーカル王)とされるセーウェル王は実在のボロル(ブルシャ/小勃律)王に比定できるでしょうか。

722年であれば、当時の小勃律王は没謹忙(Vikrama+ナントカ?/Vajra-mangala?)です。没謹忙は唐がらみで話題の多い人物ですが、ブル氏起源神話と重なるエピソードはこの戦争以外にはなく、単に同じ年代に落ちる、ということしか言えません。

737~47年であれば、この間小勃律王は、難泥(Nandi)→麻号来(Mangala?/Maheshwara?)あるいは麻来兮→蘇失利之(フンザ・ハルデイキシュ碑文に名が見えるDeva Shri Chandra Vikramadityaに比定する説がある、ただし語頭の「蘇」はSurendraあたりの略称かもしれない)と、三人の王が入れ替わっており、どうもセーウェル王という一人の王に比定できそうにはありません。

シャンシュン語「セーウェル(sad wer)」をサンスクリット語に訳すると「Devarāja」になりますが、これはありふれた名前すぎて特定の個人名に比定できるヒントにはなりません。碑文・経典に現れるボロル王には、「ナントカ+Deva」、「Deva+ナントカ」という名前は多く決め手になりかねます。

結局「セーウェル」という王に関する情報からでは、ボロル史にその実在の証拠を求めることはできません。今のところ言えるのは、年代的に没謹忙に比定できるかも知れない、といった程度です。

------------------------------------------

ウーセル・ダンデン/ブルシャ・ナムセー・チドルのエピソードを史実とみなすには、どうも材料が充分とは言えません。

『レクシェー・ズー』の別のエピソードでは、ブルシャ・ナムセー(ウーセル・ダンデン)は吐蕃王ディグム・ツェンポ時代の人物として登場し、ディグム・ツェンポのボン教排斥を諫める役回りを演じます。

ディグム・ツェンポのエピソード自体多分に神話的な内容ですから、こちらもそのまま史実と受け取ることはできません。ブルシャ・ナムセー(ウーセル・ダンデン)の姿もますますリアリティが薄れてきます。

結局、ツェツェンキェー(チェツェンキェー/トツェンキェー)以前の系譜、特に始祖ブルシャ・ナムセー・チドル(ウーセル・ダンデン)は神話的存在でしかなく、実在の人物ととらえることはなかなか難しい状態です。

しかし、この神話にはある程度史実が取り入れられているのは確かですから、今後もう少し細かく分析を進めていけば、このブルシャ・ナムセー・チドル(ウーセル・ダンデン)の輪郭やブル氏の出自もさらにはっきりしてくるかもしれません。

------------------------------------------

特に、「7~8世紀のイスラム軍の侵攻を避けてトハリスターンからブルシャ/ボロルに避難してきたゾロアスター教に関わりのある氏族」という仮説は魅力的で、年代的にも整合性があるので、なんとかこの年代を生かしたいところです。

とはいえ、これまで展開した8~10世紀のブルシャ/ボロル、ブル氏の年代論では、利用できる史料が少なすぎます。こういった議論も今まで詳しくされたことがなく、まだまだ未踏の分野です。

今後新たに利用可能な新史料が出てくるかもしれません。また既存史料からも利用可能な箇所が発見されるかもしれません。

------------------------------------------

話が長すぎて、結局何の話なんだかわからなくなってしまいますが、ブル氏はブルシャ(あるいはさらに向こうのトハリスターン)とチベットを結ぶ重要な存在であり、西方起源の思想をボン教にもたらした重要な役割も果たしている、と考えられる、ということです。

すっかり忘れているかもしれませんが、「チベット文字ブルツァ体」もこのブル氏が深く関与している可能性があります。ブル氏東遷に伴ってボン経典と共に、チベットにもたらされた文字なのかもしれません。しかし、具体的にこれを裏付ける史料がないので現段階では仮説に留まります。

===========================================

(注1)
656~67年、683~92年にはイスラム側の内紛に乗じてトハリスターンの諸侯は独立を回復したが、その都度イスラム軍の巻き返しにあっている。703~04年の反乱もクタイバ将軍の登場により鎮圧。709~10年には最後の大反乱が鎮圧され、トハリスターン主要部のイスラム世界への併合が完成する。

イスラム勢力に屈しなかった吐火羅葉護やエフタル系諸侯はバダフシャン方面に押し込められ、たびたび唐朝に救援を要請したが、大勢を回復するまでには至らなかった。こういったパミール奥地のイスラム化はその後長い時間をかけて進行していく。

(注2)
ブル氏には、この他にもドゥチェン・ユンドゥン・ラマ(bru chen g-yung drung bla ma、1072年イェル・エンサカ寺建立)、その子孫ドゥチェン・ギャルワ・ユンドゥン(bru chen rgyal ba g-yung drung、1242-90)など、著名人はまだまだいるが、今のところ系譜上の位置付けが充分把握できていない人物が多く、また今回のテーマとは直接関係はないので大半を割愛した。

(注3)
ナムカー・ユンドゥンとシェンチェン・ルガーの生没年は、

・nyi ma bstan 'dzin (1842) 『sangs rgyas kyi bstan rtsis ngo mtshar nor bu'i phreng ba(覚者方の年譜、素晴らしき宝石の連珠)』.

より。この本文(影印版)+英訳は、

・Per Kvaerne (1971) A Chronological Table of the bon po : The bstan rtsis of nyi ma bstan 'dzin. Acta Orientalia, vol.33, pp.205-282. (タイトルはBacot式転写で表記されているが、これをWylie式転写に改めた)

に収録されている。

2009年8月18日火曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(15) ブル氏起源神話とその他のボン教神話、そしてゾロアスター教

このブル氏の起源神話、すぐに気づくのは「シェンラブ・ミウォ神話の焼き直しではないか?」という疑問。

ボン教の開祖とされる(注1)シェンラブ・ミウォは、天界よりオルモルンリン('ol mo lung ring)に降臨し、国にボン教を布教し、法敵キャッパ・ラクリン(khyab pa lag ring)を調伏します。ブル氏の起源神話はこれと実によく似たストーリーです。

ブル氏は後に、シェンラブ・ミウォの子孫とされるシェン氏とともにウー・ツァンでボン教布教に尽力していたわけで、当然シェン氏の持つシェンラブ・ミウォ神話の影響を受けたのでは?と考えたくなります。

年代論については後述しますが、始祖ウーセル・ダンデン(ブルシャ・ナムセー・チドル)が実在したと考えた場合でも、せいぜい8世紀前半の人物とみられます。ボン教が伝える「シェンラブ・ミウォは1万8千年前の人物」という設定と比べると、きわめてスケールが小さく感じます。

しかしそれだけによりリアリティがあるわけで、実際は「シェンラブ・ミウォ神話の方が、このブル氏起源神話の影響を受けて作られた」という逆の流れも充分あり得ます。お話というものは、伝わるに従いどんどん大げさになるものですから。

あるいは、双方の元ネタになった未知の神話があるのかもしれません。この辺はボン教神話の形成・発展を考える上で、今後注目されるようになるでしょう。

------------------------------------------

また、ウーセル・ダンデン(ブルシャ・ナムセー・チドル)とンガムレン・ナクポの対立は、ボン経典

・gshen chen klu dga' (1017発見) 『lung mtshan nyid srid pa'i mdzod phug(万物の縁起を伝える宝蔵窟)』 → 通称 : 『mdzod phug』あるいは『mdzod』(注2)

に記されている創世神話における、光の神サンポ・ブムティ(sangs po 'bum khri)と闇の神ムンパ・セルデン・ナクポ(mun pa zer ldan nag po)の対立ストーリーの縮小コピーであるかのように見えます。

『ズープク』に記されている創世神話をおおまかに述べておくと、

┌┌┌┌┌ 以下、Karmay(1972)より抜粋 ┐┐┐┐┐

原初の宇宙は五大元素の塵が希薄にちらばった虚空の状態にあり、ナムカ・トンデン・チュースムジェ(nam mkha' stong ldan phyod sum rje)という人格神の名で呼ばれる(『古事記』の天御中主神のようなもの)。

父祖神ティギャル・ククパ(khri rgyal khug pa)がこの塵を集め「ハ(ha)」と息を吐くと風が生じ、それが光となり、火を生じた。火の熱と風の冷気によって水滴が生じ、水滴が凝集して固体となり、風によって運ばれてきた元素がどんどん集まり山のような固まりができた。そこから光の卵(形は四角でヤクの大きさ)が生じた。一方、もう一人の父祖神カルパ・メーブム・ナクポ(bskal pa med 'bum nag po)は同様にして闇の卵(形は三角でオスウシの大きさ)を生じさせた。

光の卵からは存在・光の神スィーパ・サンポ・ブムティ(srid pa sangs po 'bum khri)が生まれ、宇宙に光をあふれさせた。一方、闇の卵からは非存在・闇の神ムンパ・セルデン・ナクポ(mun pa zer ldan nag po)が生まれ、宇宙に闇をあふれさせた。

水滴から海が生じ、そこに現れた光の青い卵から光の女神チュチャム・ギャルモ(chu lcam rgyal mo)が生まれた。サンポ・ブムティとチュチャム・ギャルモの間には、神々(lha)、山神(gnyan)、王族、人間などが生まれた。

一方、ムンパ・セルデン・ナクポも、自身の闇から作り出した闇の女神トンシャム・ナクモ(stong zhams nag mo)との間に悪鬼(srin)が生まれた。

こうして神々の世界と悪鬼の世界が作られていった。

└└└└└ 以上、Karmay(1972)より抜粋 ┘┘┘┘┘

ブル氏の起源神話に現れる人物とは、名前や役どころが似ています。一般には『ズープク』の方が有名ですから、『テンチュン』や『レクシェー・ズー』の方がこれを利用したものと考えたくなります。しかし、こちらもブル氏の神話の方が元ネタなのかもしれません。こちらは裏付けがあります。

『レクシェー・ズー』によれば、シェンチェン・ルガーに師事したブル氏のドゥチェン・ナムカー・ユンドゥンとキュンギ・ギャルツェン(リンチェン・ギャルツェン)親子は、ルガーが発見した(とされる)『ズープク』などを研究するよう指示されたといいます。実質的には、『ズープク』はまるごとルガーとこのブル氏親子の著作であるか、彼らによる大幅な加筆があった可能性は大です。

いうまでもなく、この光と闇の対立を語る二元論的世界観の大もとはゾロアスター教とみていいでしょう(注3)。

ブル氏の出身地とされるトハリスターンはゾロアスター教発祥の地にも近く、彼らがもともとゾロアスター教徒であったかどうかはわからないにしても、ゾロアスター教の教義や神話には親しんでいたはずです。そのブル氏が伝えてきたゾロアスター教的な世界観が、彼らによって『ズープク』に取り入れられたのではないでしょうか。

「ボン教の世界観にゾロアスター教の影響がある」とはよくいわれることですが、幻の存在である「タジクのオルモルンリン」との関係が漠然と述べられるだけで、その伝播の経緯について具体的に語られることがありませんでした。しかしこれで、

ゾロアスター教の光と闇の二元論 → トハリスターン → ブル氏 → 『ズープク』 → ボン教の光と闇の二元論

という筋道で、かなり具体的に両者を一直線に結ぶことができます。

トハリスターン出身とされる(神話上は降臨だが)ブル氏が、ブルシャ経由でウー・ツァンに移動し、自家の起源神話にゾロアスター教の世界観を持ち込み、さらにボン教、特に『ズープク』に同家が伝えるゾロアスター教的な世界観をよりはっきりした形で持ち込んだ、という可能性を指摘できそうです。

ボン教と西方世界との関わりはもちろんこれだけではありません(注4)。ゾロアスター教の影響をボン教にもたらした経路は他にもいろいろ想定はできますが、これだけ具体的に経緯を追えるのですから、少なくとも『ズープク』の世界観の形成には、この経典に直接関わったブル氏が大きな役割を果たしたことは間違いないでしょう。

===========================================

(注1)
シェンラブ・ミウォの名は『敦煌文献』にも現れているが、そこではボン教開祖というステイタスではなく、シェン(ボン教司祭)の大元締、といった役回り。

ボン教開祖に祭り上げられる前のシェンラブ・ミウォの姿についてはいずれまた。

(注2)
シェンラブ・ミウォが語った内容がシャンシュン語で記され、さらにチベット語に訳され、その後ボン教迫害期に埋蔵されたものが、シェンチェン・ルガーによって1017年に発見された、とされる。実際は、発見者とされるルガーやその弟子たちが、ボン教徒に伝わる様々な伝説にオリジナルの思想を加えて完成させた経典なのかもしれない。

(注3)
五大元素の思想にはインド思想の影響が色濃く、また風輪・火輪・金輪(固体)が生じる様子は仏教の『大毘婆娑論』、『倶舎論』の影響がみられる。

卵から万物が生じていく思想もやはりインド起源と思われる。「ヒラニヤーンダ(黄金の卵)から創造主プラジャーパティが生まれた」という『ブラフーマナ』の思想や、「宇宙卵の中に世界が存在している」という『ヴィシュヌ・プラーナ』の思想が影響しているようだ。卵から様々な神格・人格がどんどん生まれてくるストーリーは、ラン氏の神話『ラン・ポティセル(朗氏家族史)』に特に顕著で、キュン(ガルーダ)をトーテムとして持つ氏族としては利用しやすいモチーフだったのだろう。

しかし、なんといっても存在・光・神々と非存在・闇・悪鬼の二元対立論で語られる創造神話には、ゾロアスター教の思想が強く影響しているのは確実。

光と闇の卵の発生を語る段にはやや混乱がみられ、ティギャル・ククパが双方を創造した、とも、光の卵はティギャル・ククパが、闇の卵はカルパ・メーブム・ナクポが創造した、とも読める。

この辺は、初期ゾロアスター教からササン朝ペルシア時代のゾロアスター教へ移り変わる状況を反映しているのかもしれない。初期ゾロアスター教では、最高神アフラ・マズダが生んだ善霊スパンタ・マンユと悪霊アンラ・マンユの二元対立論で世界観が語られるのだが、後にはアフラ・マズダの地位が下がり、最高神ズルワーンのもとでアフラ・マズダとアンラ・マンユの対立という図式に変わる。その過渡期の混乱が、この『ズープク』神話のやや混乱した記述に反映されているのかもしれない。

(注4)
ディグム・ツェンポあるいはその子プデ・グンギャルの代にブルシャなどからボン教徒を招いたエピソード、タジクの王族出身でシャンシュンを経由して7世紀頃チベットに移動したとされるチェ(lce)氏、ボン教関係史料で多数語られるタジク→ウギェン(ウディヤーナ)/ブルシャ/シャンシュン→チベットという方向での訳経エピソード、など、西方世界からチベットへの人・宗教・文化の流入を示す話はたくさんある。

2009年8月13日木曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(14) ボン教とブル氏

ドゥ/ブル('bru)氏もボン教の名家です(ここでは、主に古風な発音の「ブル」で通します)。

ブル氏はシェンラブ・ミウォの子孫を称するシェン(gshen)氏と共に、11世紀以降ウー・ツァンにおけるボン教復興に尽力した家系です(注1)。また各種チベット史書では、古代チベット四大(または六大)部族の一つトン(stong)部族の代表として挙げられています。

このブル氏は、ボン教経典『bstan 'byung(テンチュン)』や『legs bshad mdzod(レクシェー・ズー)』では、トゥーカル(thod dkar、トハリスターン)に降臨した天神族とされ、その後ブルシャに移り、さらに一部がンガリーを経てウー・ツァンに移った、とされているのです(注2)。

------------------------------------------

まずはこの二経典を説明しておきましょう。

『テンチュン』の正式タイトルは、

・kun grol grags pa (1766) 『sangs rgyas bstan pa spyi'i 'byung khungs yid bzhin nor bu 'dod pa 'jo ba'i gter mdzod(神々の教えすべての起源、大願成就の宝石を有する乳の宝蔵)』/通称『bstan 'byung(<ボン>教史)』

ブル氏に関する部分は、その原文(Bacot式転写)と英訳が、

・Helmut H. Hoffmann (1969) An Account of the Bon Religion in Gilgit. Central Asiatic Journal, vol.13, no.2[1969], pp.137-145.

に収録されています。

『レクシェー・ズー』の正式名称は、

・grub dbang bkra shis rgyal mtshan dri med snying po (ca.1922) 『legs bshad rin po che'i mdzod dpyod ldan dga' ba'i char(宝珠なる麗辞の宝蔵、賢者への慈雨)』。

「ボン教史」を記した経典で、特に11世紀以降のボン教復興期に詳しい。シェン(gshen)氏、ブル('bru)氏、キュンポ(khyung po)氏など、ボン教の有力氏族の系譜を記した記事も貴重です。

『レクシェー・ズー』4章以降の原文(Wylie式転写)、英訳はKarmay(1972)に収録されています。

------------------------------------------

ブル氏の系譜に関しては、『テンチュン』と『レクシェー・ズー』はほぼ同じ内容を伝えており、おそらく後者が前者を参照、あるいは両者がなにか同一の情報源を利用した、とみてよさそうです。『テンチュン』の方がやや詳しい事情を伝えており、『レクシェー・ズー』にはみえないエピソードがあり、貴重です。

ここでは『テンチュン』を基準にブル氏の起源伝説を見ていき、両経典に差異がある箇所は(注)に示しておきます。

------------------------------------------

┌┌┌┌┌ 以下、Hoffmann(1969)より抜粋 ┐┐┐┐┐

ブル('bru)氏には「天のブル氏(gnam 'bru)」と「地のブル(sa 'bru)」があり、「天のブル氏」がここで述べるブル氏。「地のブル」は仏教サキャパ(クン氏/'khon、注3)。

天界の最上に位置するオクミン・トゥクポ・クーパ('og min stug po bkod pa)から、インドラ神(brgya byin)の子であるウーセル・ダンデン('od gser mdang ldan/黄金光の輝き、注4)は、衆生を救おうと、まず下位の天界の一つバルラ・ウーサル(bar lha 'od gsal)に下り、続いてツァスムラ(rtsa gsum lha/三十三天)に下った。

リ・ラブ(ri rab/最勝の山=メール山/須弥山)の頂上から下界を見たところ、大ザムリン('dzam gling chen/大贍部洲、注5)の一角、ウギェン(o rgyan/ウディヤーナ)、ブルシャ(bru sha/ギルギット)トゥーカル(thod gar/トハリスターン)においてンガムレン・ナクポ(ngams len nag po/黒い色を持つ者)率いる悪鬼(bdud)たちが地上の人々・家畜たちを疫病・冷害・干魃・虫害で苦しめていることを知った。

ウーセル・ダンデンは、ヤンガル(ya ngal)司祭(gshen)に導かれ、ツェ(mtshe)とチョ(gcho)司祭(gshen)を従え(注6)、ウギェン、ブルシャ、トゥーカルのセーカル(gsas mkhar、注7)に降臨した。

これを知ったセーウェル(sad wer)王(注8)はウーセル・ダンデンを王宮に招き、バラモン・サルバル(bram ze gsal 'bar)に「神の御子にお名前を差し上げるように」と命じた。

バラモンは「お体には様々な吉兆が現れております。天より地に降臨なされた(brul ba)がゆえに。神の御子である貴種(gsha')ゆえに。また、ブラフマーの印である頭蓋骨の隙間(Brahmarandhra)がございます(注9)。ゆえに『ブルシャ・ナムセー・チドル(bru sha gnam gsas spyi rdol=ブルシャなる天神族、頭骨に隙間あり)』というお名前を差し上げたいと思います」と述べた。

ブルシャ・ナムセー・チドルは魔王ンガムレン・ナクポを退治し(注10)、国は幸福を取り戻した。ウギェン、トゥーカル、ブルシャの国々にボン教を布教し、セーウェル王やバラモン・サルバルをはじめとする王家の人々もこれに帰依した(注11)。

その後、ツェーポ(btshad po、注12)という者がンガリー・コルスムから四度に渡り攻めてきて、ブルシャ・ナムセーの都を占領した(注13)。そのツーデ(rtsod sde)王は一時は捕虜となったが、王の体重と同じだけの黄金を集めて身代金として支払い釈放された(注14)。

ブルシャ・ナムセー・チドルが、金の角つき帽をかぶり(gser gyi bya ru can)、トルコ石でできた太鼓に乗って戦場の空に現れると、敵味方の軍勢はひれ伏し、ツェーポはブルシャ・ナムセー・チドルを導師として崇めた。

ブルシャ・ナムセー・チドルの子はラウ・セーキュン(lha bu gsas khyung)。その子ツェツェンキェー(mtshe btsan skyes)は訳経師として有名(注15)。ツェツェンキェーには九人の子が生まれ、上の五人はブルシャに止まり、下の四人はツェーポ・ツェーデ(btsad po rtsad lde)に招かれンガリーに移った(注16)。ンガリー・コルスムからチベット国の四ル(bod yul ru bzhi)までみなこの四兄弟を崇めるようになった(注17)。

四兄弟の一番上、ユンギャム・チェン(g-yung rgyam chen、注18)がツァン(gtsang)に移り定住した。その二人の子のうちの上がキュン・ナクジン(khyung nag 'dzin)。その子はユンドゥン・センゲ(g-yung drung seng ge)。その三人の子はナムケー・ユンドゥン(nam kha'i g-yung drung)、リンギャル(rin rgyal)、シェルギャル(sher rgyal、注19)。

└└└└└ 以上、Hoffmann(1969)より抜粋 ┘┘┘┘┘

Hoffmann(1969)に収録されている『テンチュン』のブル氏の記事はここで終わっています。ツァンに移ったブル氏の略史は(注1)に見えるとおり。

内容の検討は次回以降に譲ります。それにしてもなかなか終わりませんね、この話題。

===========================================

(注1)
ボン教中興の祖とされるテルトン(gter ston/埋蔵経典発掘者)であるシェンチェン・ルガー(gshen chen klu dga'、996-1035)の弟子として、彼を補佐したドゥチェン・ナムカー・ユンドゥン('bru chen nam mkha' g-yung drung、994-1054)や、1072年にイェル・エンサカ(g-yas ru dbeng sa kha)寺を創建したドゥチェン・ユンドゥン・ラマ('bru chen g-yung drung bla ma)などが有名。

ブル氏一族はイェル・エンサカ寺近郊のトプギャル(thob rgyal/土布加)を領有し、同寺の僧院長を何度も輩出するなどウー・ツァン・ボン教の中核氏族として君臨してきた。仏教に多くみられる氏族教団的な組織を形成していたと思われる。

17世紀にパンチェン・リンポチェ五世(二世という数え方もある)ロサン・イェシェ(blo bzang ye shes、1663-1737)を輩出。その際に一族の大方は仏教に転向した。さらに19世紀にはパンチェン八世(五世という数え方もある)テンペー・ワンチュク(bstan pa'i dbang phyug、1855-81)を輩出し、その代にブル氏は完全に仏教徒となり、トプギャルの所領もタシルンポ寺に接収された。

ボン教の名家から仏教ゲルクパのトゥルク、それもパンチェン・リンポチェという大名跡が選出されるのは、一見奇異に思えるかも知れないが、それなりの理由がある。

ウー・ツァンのボン教では、顕教、特に論理学の分野でゲルクパの影響を強く受けている。1836年に論理学の大学ユンドゥンリン寺が建立されるまでは、ボン教僧といえども仏教僧院で顕教の修業をするケースが多かった。こういった交流を通じてブル氏もタシルンポ寺人脈に食い込んでいったのだろう。

インドのドランジに再建されたメンリ寺でも、午後になると僧院の中庭で激しい問答(dam bca')が繰り広げられている。その姿はゲルクパ僧院でみられるものとそっくり。いや、その熱気はゲルクパ僧院をこえているかもしれない。

ドランジ・メンリ寺のタムチャー風景

なお、ウー・ツァンのブル氏とは別に、ギャロン(rgyal rong)に落ち着いたブル氏もいた(両者の関係は不明)。この家系は12世紀にはさらにゴロク(mgo log/'gu log)に移動し一帯を制圧。上中下の三つの家系に分かれたため、いわゆる「ゴロク三部」と呼ばれた。

参考:
・Samten Gyaltshan Karmay (1972) THE TRESURY OF GOOD SAYING : A TIBETAN HISTORY OF BON. pp.xl+365+pls. Oxford University Press, London. → Reprint : (2001) Motilal Banarsidass, Delhi.
・Samten Gyaltshan Karmay (1975) A General Introduction to the History and Doctrine of Bon. Memoirs of the Research Department of the Toyo Bunko, no.33, pp.171-218. → Reprinted IN : Karmay(1998) THE ARROW AND THE SPINDLE. pp.104-156. Mandala Book Point, Kathmandu.
・サムテン・G・カルメイ(1987) ポン教. 長野泰彦+立川武蔵・編 (1987) 『チベットの言語と文化』所収. pp.364-388. 冬樹社, 東京.
・ジャンベン・ギャツォ・著, 池上正治・訳 (1991) 『パンチェン・ラマ伝』. pp.349. 平河出版社, 東京. ← 中文原版 : 降辺嘉措('jam dbyangs rgya mtsho) (1989) 『班禅大師』. 東方出版社, 北京.
・智観巴・貢却乎丹巴繞吉・著, 呉均+毛継祖+馬世林・訳 (1989) 『安多政教史』. pp.742. 甘粛民族出版社, 蘭州.
・Chö-Yang (1991) Section One : Religion(Five Principal Spiritual Traditions of Tibet). Chö-Yang, Year of Tibet Edition[1991], pp.6-149. → 邦訳 : Chö-Yang・著, イェーシェー・ラモ・訳 (1994) チベットの5つの精神文化 ボン教 ニンマ派 カギュ派 サキャ派 ゲルク派. 季刊・仏教, no.26「特集・チベット」[1994/1], pp.64-133.
・青海省社会科学院蔵学研究所・編, 陳慶英・主編 (1991) 『中国蔵族部落』. pp.14+5+651. 中国蔵学出版社, 北京. (第2版が2004年に出ているらしい)
・光嶌督 (1992) 『ボン教学統の研究』. (和文)pp.5+ii+123,(中文)pp.ii+99,(英文)pp.ii+147. 風響社, 東京.

(注2)
スムパのラン氏の歴史を伝えるta'i si tu byang chub rgyal mtshan (14C中?) 『rlangs kyi po ti bse ru(ラン・ポティセル/朗氏家族史)』では、『テンチュン』や『レクシェー・ズー』とは全く異なる出自が語られている。

ここでは、吐蕃王家の遠縁とされるアニェ・ムシ・ティト(a nye mu zi khri to)の六子がチベット六大氏族それぞれの祖とされ、その中の一人アチャク・ブル(a lcags 'bru)がトン(stong)部族/ブル('bru)氏の始祖となっている。

また、『ラダック王統記』では、地上に降臨した天神族の後裔リンジェウラ(ring rje'u ra)という人物をトン部族の祖としており、起源探索もなかなか一筋縄ではいかない。なお、この神話はドン(ldong)部族について詳しいので、このドン部族が有する神話を転用したのかもしれない。

参考:
・Karmay(1972)前掲
・Yeshe De Project (1986) ANCIENT TIBET : RESEARCH MATERIALS FROM YESHE DE PROJECT. pp.xi+371. Dharma Publishing, Berkeley.
・大司徒・絳求堅贊・著, 贊拉・阿旺+余万治・訳, 陳慶英・校 (1989) 『朗氏家族史』. pp.6+323. 西蔵人民出版社, 拉薩. → 再版 : (2002)西蔵人民出版社, 拉薩.

(注3)
サキャパ系の史料(修正@2009/09/03)によれば、クン氏は「天神三兄弟の次男がンガリー・トゥー(mnga' ris stod)に降臨したことに始まる氏族」とされている。そこでは、「ブル氏と同族」という記述こそないが、「西部チベット方面に降臨した天神族」という出自はブル氏と一致しており、本当に同祖であった可能性は高そう。ただし互いの系譜上のどこでつながるのかは不明。

ブル氏のウーセル・ダンデン(ブルシャ・ナムセー・チドル)よりもかなり前の世代(『テンチュン』などには記録が残っていないが)で分かれているような気はする。

参考:
・Giuseppe Tucci (1949) TIBETAN PAINTED SCROLLS (3vols.). La Libreria della Stato, Roma. → Reprinted : (1980) Rinsen Book, Kyoto.

(注4)
これは『テンチュン』でのスペル。『レクシェー・ズー』では「'od zer gdangs ldan(光明の輝き)」。

(注5)
天界の描写、および地上の描写から、この経典が語る世界観は小乗仏教の経典『大毘婆娑論』や『倶舎論』の影響を受けていることがわかる。いわゆる「須弥山世界観」である。

ザムリンは正しくはザムブリン('dzam bu gling)とつづられ、サンスクリット語のJambu-dvīdaのチベット語訳。須弥山の東西南北に位置する四大陸の一つで、これは南の大陸。人間が住む世界で、南が狭い逆三角形をしている。インド亜大陸がモデルであるのは明白。

須弥山世界観については、定方晟の一連の著作を参照されたし。

・定方晟 (1973) 『須弥山と極楽』. pp.193. 講談社現代新書330, 東京.
・定方晟 (1985) 『インド宇宙誌』. pp.261+ix. 春秋社, 東京.
・定方晟 (1989) 須弥山世界と蓮華蔵世界. 岩田慶治+杉浦康平・編 (1989) 『美と宗教のコスモス(2) アジアの宇宙観』所収. pp.130-173. 講談社, 東京.

(注6)
ヤンガル(ya ngal)氏は、ラトゥー・チャン(la stod byang/ツァン北西部)に地盤を有する氏族で、ボン教ではイェル・エンサカ寺でブル氏と共に活動した。12世紀後半には、その一員ルダクパ・タシ・ギャルツェン(klu brag pa bkra shis rgyal mtshan)がロー・マンタン~ドルポでのボン教布教に成功する。klu bragはカリ・ガンダキ流域の地名で、彼が建立したボン教僧院が今もそこにある。ネパールでの呼び名はLubra。

神話に従うなら、ヤンガル氏はトゥーカル/ブルシャからブル氏と共にウー・ツァンにやって来た、と考えることができるかもしれない。あるいはラトゥー・チャン土着の氏族で、ウー・ツァンにブル氏がやって来てから交流を持つようになり、その親密さゆえにブル氏の神話に反映された、という可能性もある。

ツェ氏とツォ氏は、『レクシェー・ズー』では「mtsho cog gshen」と表記されており、Karmay(1972)では、ツォツォク(mtsho cog)という一人の司祭、と解釈されている。

ツェ氏(mtshe/mtshe mi/mtsho/rtse)とチョ/チョク/ツォ氏(gcho/cog/mtso/gtso)氏は、『紅史』、『ダライ・ラマ五世年代記(西蔵王臣記)』、『ケーペーガートン(賢者の喜宴)』、『ラダック王統記』、『敦煌文献PT1038』などでは、初代吐蕃王ニャティ・ツェンポ時代の氏族として現れ、そちらでも司祭(gshen)とされていることが多い。

『ya ngal gdung rabs(ヤンガル氏族史)』になると、この三氏族がニャティ・ツェンポのクシェン(sku gshen/王家付きの司祭)として現れる(Vitali 1996)。ウーセル・ダンデンの降臨神話自体、ニャティ・ツェンポのものとよく似ており、影響関係が注目される。

シェンラブ・ミウォの降臨譚やケサルの降臨譚との類似点も多く、比較神話学の対象としても面白いが、今はとてもそこまでは手が回りません。

参考:
・David P. Jackson (1978) Notes on the History of Se-rib, and Nearby Places in the Upper Kali Gandaki Valley. Kailash, vol.6, no.3[1978], pp.195-227.
・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.xi+642. Dharamsala.
・John Myrdhin Reynolds (2005) THE ORAL TRADITION FROM ZHANG-ZHUNG. pp.xx+577. Vajra Publications, Kathmandu.

(注7)
gsas mkharとは、ボン教の神々を祠る社のこと。

(注8)
『レクシェー・ズー』では王の名は「sad wer gsal 'bar」とされるが、バラモンの名「gsal 'bar」との混同がみられるようで、『テンチュン』の方が本来の表記と思われる。

「sad wer」はシャンシュン語で、「神(々)の王」の意味。チベット語では「lha rgyal(po)」。サンスクリット語「Devarāja」の訳語とみられる。これは名前というより称号であり、それもごくありふれた名なので、特定の人物には比定できそうにない。

『テンチュン』では、この王は上記三国全体を支配する王という設定のようだが、トハリスターン/ブルシャ/ウディヤーナを広く支配した勢力はクシャーン朝、エフタルくらいのもの。この物語をそこまで逆上らせるのは厳しい。古い時代の記憶が反映されている、という程度はいえるかもしれないが・・・。『レクシェー・ズー』では「トゥーカルの王(tho(d) gar rgyal po)」とされる。

その後、物語の舞台はブルシャばかりになるので、実際はブルシャ王という扱いではないかと思われる。

(注9)
この部分はHoffmann訳には誤りがあり、Karmay訳の方が正確。

ヒンドゥ教では、頭蓋骨頂部に隙間があるのは超人の印だという。ヨーガの際にはルン(Vayu/風)がここを通ったり留まったりして重要な役割を持つらしい

「spyi rdol」の部分は『レクシェー・ズー』では「spyi brtol」。どちらでも同じ意味だが、「spyi brtol」だと「恥知らず」という意味で使われることもあるようなのでちょっと具合が悪い。

(注10)
トゥーカル以下の諸国に厄災をもたらしたンガムレン・ナクポは、もしかすると、7~8世紀のイスラム軍の侵攻をモデルにしているのかもしれない。唐ではアッバース朝のことを「黒衣大食」と呼んだ。

(注11)
『レクシェー・ズー』では、トゥーカル王セーウェルより禅定を受けて王位についたことになっている。しかし、子孫の動向を見るとみな宗教者であり、世俗的な支配者としてあとを継いでいる様子はない。

(注12)
吐蕃王を意味する「ツェンポ(btsan po)」の古語。ボン教文献では「btsad po」とつづられていることが多い。

(注13)
『レクシェー・ズー』にはこのエピソードはなく、その曾孫の世代に戦争があったことになっている。

このブルシャとチベットの戦争は、722年の吐蕃軍侵攻を唐の援軍を得て撃退した事件、あるいは737年の吐蕃軍の小勃律占領~747年の唐軍の小勃律占領(吐蕃軍を駆逐)がモデルとなっていると思われる。

(注14)
この部分はHoffmann訳とは異なる見解を取った。

これは、かの有名な「イェシェ・ウー(ye shes 'od)のガルロク(カルルク)遠征」とそっくりなエピソード。このツーデ(rtsod sde)王の名は、グゲ王ツェ・デ(rtse lde)[位:1057-ca.90d]がモデルと思われる。ツェ・デの曾祖父の兄弟がイェシェ・ウー(947-1024)に当たる。おそらくチベット仏教の諸史書の影響を受けたものと思われる。

しかし、『ンガリー王統記』に記されているとおり、ブルシャに遠征し捕虜となったのは実際はツェ・デの父ウー・デ('od lde)[位:1024-37d]であり、時代設定も人名もかなり混乱がみられる。

なおbtsad po rtsod sdeは、後にもbtsad po rtshad ldeとして再び登場する。

(注15)
ツェツェンキェーは、ニンマパ経典『一切仏集密意経』をチベット語に訳したブルシャの密教僧チェツェンキェー(che btsan skyes)と同一人物と見てよい。

『レクシェー・ズー』ではトツェンキェー(mtho btsan skyes)とつづられる。

(注16)
『レクシェー・ズー』では、この下の四人兄弟が最初ツェーポ・ツーデと争ったが、後に(仲直りし)王に招かれた、ことになっている。

おそらく、ツェーポ・ツーデ/ツェーデが時代をこえて二度に渡って現れる『テンチュン』の記事に疑問を持ち、『レクシェー・ズー』では二つを同時代の事件として統合したものと思われる。

(注17)
『レクシェー・ズー』では、「ンガリー・コルスムからチベット国の四ルまでみなブルシャの領土(mnga' ris)となった」とあるが、もちろん歴史上そういう事実は全くない。

(注18)
『レクシェー・ズー』では、ユンドゥン・ギャルツェン(g-yung drung rgyal mtshan)。こちらの方が整った名前であるが、だからといって正確かどうかはわからない。『テンチュン』の方はブルシャ語的な名前を報告している可能性なども考慮する必要があろう。

(注19)
『レクシェー・ズー』では、「ユンドゥン・センゲの子が三人」というのは同じだが、名前がわかっているのはナムカー・ユンドゥン(nam mkha' g-yung drung)のみ。そして、ナムカー・ユンドゥンの四人の子のうちの二人が、リンチェン・ギャルツェン(rin chen rgyal mtshan)とシェーラブ・ギャルツェン(shes rab rgyal mtshan)となっている。

===========================================

(追記)@2009/09/03

(注3)冒頭の文献名を、『ダライ・ラマ五世年代記/西蔵王臣記』から「サキャパ系の史料」に修正した。

2009年8月11日火曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(13) チベット文字ドゥツァ体(キュン体)とボン教

チベット文字ドゥツァ体が仏教ニンマパと関係しているかも?というのが前回までのお話でしたが、推測ばかりが多くてあまり歯切れのいい話になりませんでした。

これがボン教の伝承になると、ブルシャ(ボロル)がボン教先進国として、もう少しはっきりした姿で伝説の中に登場します。チベット文字ドゥツァ体は、ブルシャ(ボロル)とも関係が深いボン教関係者によってチベットに持ち込まれた、という可能性もありうると考えます。

------------------------------------------

現在もドゥツァ体で書かれたボン経典はかなり頻繁に目にします。接触しやすい例を二つほど挙げておくと、

・テンジン・ワンギェル・リンポチェ・著, 梅野泉・訳 (2007) 『チベッタン・ヒーリング 古代ボン教・五大元素の教え』. pp.335. 地湧社, 東京. ← 英語原版 : Tenzin Wangyal Rinpoche (2002) HEALING WITH FORM, ENERGY AND LIGHT. Snow Lion Publications, Ithaca(USA).

の付録として印影が付されているボン経典『byung ba'i bcud len(バルドの祈り)』はドゥツァ体で書かれています。

また、

・David L. Snellgrove(tr.+ed.) (1967) THE NINE WAYS OF BON : EXCERPTS FROM GZI-BRJID. Oxford University Press. → Reprint : (1980) pp.vi+312. Prajñā Press, Boulder(USA).

の付録としてボン経典『gzi brjid(宝石スィの輝き)』の一部が印影として付されていますが、こちらもドゥツァ体で記されています。

ボン経典のうちどの程度がドゥツァ体で記されているのか?ドゥツァ体で記さなければならない、何か規則でもあるのか?ドゥツァ体で記される経典は、ある特定の分野・宗派・年代と関係があるのか?など、謎だらけですが、今のところはこの方面からの突っ込みができる程の知識は私にはありません。

------------------------------------------

「ドゥツァ('bru tsha)体」あるいはその別名「キュン体(khyung bris)」の名には、ボン教における有力氏族の名「ドゥ/ブル('bru)」氏、「キュンポ(khyung po)」氏と共通する単語が含まれています。これはなぜなのでしょう?

このうち、キュンポ氏の方はチベット史の表舞台にたびたび登場し、重要な役割を演じているので、聞き覚えのある方もいるでしょう。

キュンポ氏はシャンシュンに起源を持つ名家です。

キュンポ氏で最も有名な人物は、6世紀末?~7世紀前半、ルンツェン・ルンナム(slon btsan rlung nam)~ソンツェン・ガンポ(srong btsan sgam po)の二代に渡り吐蕃王家に仕え、ロンチェ(blon che/宰相)にまで昇りつめたキュンポ・プンセー・スツェ(khyung po spung sad zu tse)。

スツェは大変興味深い人物で、それこそ話題が尽きないのですが、ここで詳しく語る余裕はありません。いずれまとめて語る機会もあろうかと思います。

スツェだけではなく、キュンポ氏はその後も吐蕃史にたびたび登場します。ポスト吐蕃時代にも、カム西部のキュンポ・テンチェン(khyung po steng chen/丁青)を政治的・宗教的に支配し、ボン教の法統を伝える氏族として、また15世紀にネパールのロー・マンタン(ムスタン)に王国を開いた氏族として有名です。

系図上キュンポ氏の傍系とされるラン(lang/rlangs)氏は、14~15世紀に中央チベットを支配するパクモドゥパ(phag mo gru pa)政権を樹立しました(ラン氏はキュンポ氏直系子孫ではなく、本来は無関係のスムパ出身氏族で、婚姻によってキュンポ氏と結びついた、という説もあります)。

また、仏教においてもキュンポ氏からは、シャンパ・カギュパ(shangs pa bka' brgyud pa)祖師キュンポ・ネンジョル(khyung po rnal 'byor、1002-64/978-1127/990-1139など諸説ある)、(ダクポ・)カギュパ(dwags po bka' brgyud pa)祖師の一人ミラレパ(mi la ras pa、1040-1123)などの巨人が出ています。

キュンポ氏、ダン/スブラン(sbrang)氏、ラン氏などより構成されるセ(bse)部族全体については、シャンシュン王国、女国、ボン教、ギャロンがらみでいずれ語る機会があろうかと思います。

------------------------------------------

しかしブルシャ/ボロルとボン教の関わりでは、キュンポ氏よりもブル氏の方が重要で、文献でもかなり詳しくその関係を追うことができます。

次回はそのブル氏の歴史を追っていきます。

2009年8月9日日曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(12) Pavel Pouchaによるブルシャ語タイトルの解釈

さて、サンギェ・イェシェの年代を訂正したところで、ようやく本道に戻ります。

------------------------------------------

『一切仏集密意経』のブルシャ語タイトルを解釈するには、その前段階として、かなり面倒な手はずを踏まないと、誤字を解釈してしまう危険性があることを話しました。現段階で、私にはそのやっかいな問題を解決する能力はありません。

ここでは、唯一このブルシャ語タイトルの解読を試みているPoucha(1960)の仕事を紹介するだけにしておきます。とはいえ、Pouchaの釈字や解釈がすべて正しいと考えているわけではありません。

参考:
・Pavel Poucha (1960) Bruža - Burušaski ?. Central Asiatic Journal, vol.5, no.4[1960], pp.295-300.

------------------------------------------

Pouchaはサンスクリット語タイトルとブルシャ語タイトルを比較して、ブルシャ語単語の意味を拾い出す試みをしています。細かい議論は省略しますが、それで得られた比定は次の通り。

ブルシャ語 =サンスクリット語 = チベット語

pan(pang) ril = sarva(一切/すべて) = thams cad kyi/kun
'ub = āgama(聖典) = lung
'un =? yoga(ヨーガ) = rnal 'byor

bu(ddha)= tathāgata(如来) = de bzhin gshegs pa
ta(ntra)= tantra(タントラ) = rgyud
sid(dhi)= siddhi(成就する) = grub pa
bi(dya)= vidyā(明呪) = rig pa
su(tra)= sūtra(経) = mdo

解読できたものは、サンスクリット語からの借用語/略語らしき単語が5つあり、それ以外はわずかに3つ(1つは推定)に留まります。かなり苦労しているわりには成果はあまり芳しくありません

これらの単語は現在のブルシャスキー語に残存しているでしょうか?仏教が滅びてしまった今、それは期待できそうにありません。

ブルシャスキー語独自の宗教(イスラム教/民間信仰)用語を丹念に調べれば、意味や発音が変化しつつ残っている単語が見つかるかもしれませんが、かなり詳細なブルシャスキー語語彙集(調査報告)がないととても手がつけられません(か、自分で調査するか・・・)。

------------------------------------------

Pouchaは次に、現代ブルシャスキー語の単語の中から似た発音のものを拾い出しました。

ブルシャ語 =現代ブルシャスキー語

ho = ho(あちら)
ril = ril(銅/鉄)
til = til(忘れる)
ti = ti/thi(単純な/空虚な)
hang = han(一つ)
bad =bada(階段/場所)
ri = rai(渇望/意志)
hal = hal(~もまた/狐) or hala(終着点)
ma = ma(あなたたち)
ma kyang = ma an(ビーズ/ネックレス/輪)
dang = dana(賢い)
rong = rung(草原)

これらはほとんどが日常語であって、これらの単語を組み合わせても、どうもあのタイトルになるような気がしません。

無論、ブルシャ語がブルシャスキー語に発展したと仮定した場合、単語の意味が変化している可能性は十分あるでしょう。また、それよりも単語の発音自体がかなり変化しているケースの方が多いでしょう。そうなると、現代ブルシャスキー語で似た発音の単語を探して比較しても、実は見当はずれの比較をしている場合が多いかもしれません。

しかし、ここで一つだけ言えるのは、意味の同一性はさておき、ブルシャ語単語とブルシャスキー語単語は似た発音を持つものがかなりみられる、ということです。

------------------------------------------

ベルトルト・ラウファー(注1)は、

・Berthold Laufer (1908) Die Bru-ža Sprache und die historische Stellung des Padmasambhava. T'oung Pao Second Series, vol.9, no.1[1908], pp.1-46.(未見)

で、このブルシャ語タイトルを「偽作」と考えているようです(van Driem 1997より)。

このブルシャ語タイトルは実は「何の意味も成さないデタラメ」で、「ブルシャ語から翻訳した」という由来も虚偽。つまり、この経典をチベットに持ってきた(とされる)サンギェ・イェシェもしくは後のニンマパ関係者の誰かがすべて創作したもの、という考えでしょう。

「テルマ(埋蔵経典)」の真相に代表されるところですが、ニンマパ経典には常にその由来への信用問題がつきまとっています。ですからあのブルシャ語タイトルを偽作と疑うのは無理もないところです。

この経典をチベットに持ち込んだとされるサンギェ・イェシェの経歴も、虚実入り乱れた情報にあふれているわけですから、なかなかそのまま信用するわけにも行きません。

このままですとこのブルシャ語タイトルも、「君子危うきに近寄らず」で、怪しげな資料として利用されずに放置されてしまいます。

------------------------------------------

しかし、このタイトルに現代のブルシャスキー語と似た響きを持つ単語が多数含まれるのも事実です。この証拠だけはなんとか生かせないものでしょうか?

こう考えることもできそうです。

つまり、仮にこのブルシャ語タイトルがデタラメであったとしても、その偽作者は片言ながらブルシャ語を知っており、タイトル内容とは無関係だろうがなんだろうがかまわず知っているブルシャ語単語をそちこちに散りばめ、また全体の響きもブルシャ語らしく整え、タイトルをブルシャ語らしく見せかけた、と考えるのはどうでしょうか?要するに「ブルシャ語風ハナモゲラ(注2)」です。

根拠薄弱なる仮説に過ぎませんが(この話題ではこればっかりですけど)、これまで見てきたおかしな点について一通りの説明が可能なようになってはいます。

この説が成り立つならば、この経典が翻訳された(とされる)9~10世紀頃、ブルシャスキー語と似た響きを持つ言語(ブルシャ語)がボロル/ブルシャ(ギルギット~フンザ)で使用されており、チベット人のニンマパ関係者の誰かが幾分なりともこれを知っていた、と考えることはできそうです。

もっとも、後世の偽作であった場合には、その時期はチベット大蔵経にこのタイトルが登場する15~17世紀以前、としか言えないわけですが・・・。

------------------------------------------

しかしこういうアクロバティックな考えに一気に進む前に、できることはまだありそうです。

van Driem(1997)でも進言されているのですが、このブルシャ語タイトルについてはブルシャスキー語研究者による検討がいまだなされていません。まずはこの試みが急務でしょう。

とはいえ、それには前段階として、まずなるべく正確なつづりを探索する必要があり、前述のようにそれはかなり難航すると予想されます。そして、たとえ先へ進んでも、そこで得られる結論が「やっぱりデタラメだった」となる可能性も見え隠れしているようでは、学者さんたちが二の足を踏むのもある程度理解できます。

------------------------------------------

結局、「ブルシャスキー語がいつから話されているか?」に対して、現状ではこの「ブルシャ語(?)タイトル」から明確な答えを得ることはできませんでしたが、もう少し突っ込んで解明が進めば、古代ブルシャ/ボロルの言語を知る重要な手がかりになりそうな気配はあります。踰えるべきハードルはまだまだたくさんありますが・・・。

2009年7月9日「ブルシャスキーって何語?」の巻(6) シンとヤシクーン で、「カラコルム地域全域(古代ボロルの領域)ではかつてブルシャスキー語あるいはその祖語が話されていた」という仮説まではなんとかたどり着いているのですが、肝心の古い時代の言語資料が、今のところこの怪しげなブルシャ語(とされる)タイトルしかないわけですから、何か新たな言語資料が見つかるまでは仮説に留まるでしょう。

===========================================

(注1)
Berthold Laufer(1874-1934)。ユダヤ系ドイツ人で、後にUSAに移住し、東洋学、特に中国学(Sinology)・チベット学(Tibetology)の大家として活躍した。本来は言語学者であるが、民族学の分野でも卓越した業績を残した。一般には『サイと一角獣』、『キリン伝来考』、『インド・イラニカ』といった博物学的な内容を持つ著作の人気が高い。

ブルシャ語やシャンシュン語といった言語に最初に注目した学者としても重要である。

(注2)
ハナモゲラ(語)については、

・ウィキペディア > ハナモゲラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%83%A2%E3%82%B2%E3%83%A9

あたりをご覧下さいゴスミダ。

===========================================

(追記1)
なお、Poucha(1960)は、最後におまけとしてネワール語から似た単語を拾い出しています。

ブルシャ語=?ネワール語

ho=?honakë/honë(合わせる)
til=?til(岸、美人のほくろ)
ta=?ta(高い)
sid=?siddh(成就する)

この方面での考察は、今のところこれ以上の発展はありませんが、「ho=?honakë/honë(合わせる)」は「sarva(一切)」と意味的にもかなりいい線です。

Pouchaが比較例としてネワール語を取り上げたのは、おそらく上記ブルシャ語タイトルの語感がなんとなくネワール語に似ている、と直感的に感じたためかもしれません。母音で終わる音節がいくつも続くあたりはちょっと似ています。

ネワール語の例:
Chi-gu che kana kha?(あなたはどこから来たのですか?)
Thuki-yaa guli?(これはいくらですか?)
Ji-gu naa ~ kha(私の名前は~です)

出典:
・Tej R. Kansakar (1989) ESSENTIAL NEWARI PHRASEBOOK. pp.54. Himalayan Book Centre, Kathmandu.

実は私もこのブルシャ語タイトルを見て、すぐさま「なんとなくシャンシュン語っぽいなあ」と感じたものです。私のシャンシュン文の経験はごくごく貧しいものですが、こちらも母音で終わる音節が続くあたりが似ている、と感じます。

シャンシュン語の例:
na mo dmu ra spungs so gu dun hrun /
謹んで天の王である導師(すなわちシェンラブ・ミウォ)に拝礼いたします
drung mu gyer gyi mu ye khi khar las /
永遠なるボンの天国の光明によって(下された)
u ye tha tson ma dra she skya nyi ri dang /
究極の秘密なる母タントラの慈悲に、太陽と
gu ru hri ho dza ra dha ki pa ta ya /
師、賢者、ダキニも拝礼なさった

なお、訳文は併記チベット文を参照した。

出典:
・zhu ston nyi ma grags pa (17C) 『sgra yi don sdeb snang gsal sgron me bzhugs so(輝かしき法灯なる言葉の大全/シャンシュン語辞典)』. → 一部収録 : 光嶌督 (1992) 『ボン教学統の研究』. 風響社, 東京.

ただし、シャンシュン語には、『敦煌文献』の中に発見されているいわゆる「古シャンシュン語」と、後世のボン教文献に現れるいわゆる「新シャンシュン語」があり、両者には共通する単語も多いが、かなり違いがあるようです。ここで例をあげたのは「新シャンシュン語」の方。

参考:
・TAKEUCHI Tsuguhito+NAGANO Yasuhiko+UEDA Sumie (2001) Preliminary Analysis of the Old Zhangzhung Language and Manuscripts. IN : NAGANO Yasuhiko+Randy J. LaPolla(ed.) (2001) BON STUDIES 3 : NEW RESEARCH ON ZHANGZHUNG AND RELATED HIMALAYAN LANGUAGES. pp.45-96. National Museum of Ethnology, Osaka.

シャンシュン語は、最近の研究ではネワル語と同じくヒマラヤ諸語のグループに分類されることが多く、比較的近縁であるのは間違いありません(シャンシュン語に最も近縁なのは、キナウル語とされる)。

シャンシュン語を含むヒマラヤ諸語と、ブルシャスキー語、そして「ブルシャ語」との比較はこのPouchaの簡単な試行しかなく、いまだ未踏の分野(少しでもモノになるのか?どうかも未知)。

「偽作者はブルシャ語に似せようと頑張ったが、ブルシャ語をあまり知らないため、少し知識があるシャンシュン語の方にうっかり似てしまった」などという可能性もありそうですが・・・。

まあ、それよりもブルシャ語とブルシャスキー語の比較の方が急務なのは言うまでもありません。

2009年8月7日金曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(11) 訂正:『一切仏集密意経』訳経の時期など

サンギェ・イェシェの年代を「9世紀中頃~10世紀中頃」に変更した場合、『一切仏集密意経』訳経の時期も当然変更する必要があります。

サンギェ・イェシェが何歳でブルシャに行ったのか、手元の資料ではわかりません。ですから、とりあえず9世紀後半~10世紀中頃と広く取っておきましょう。

------------------------------------------

まず「トム(khrom)」の解釈ですが、「吐蕃の植民地」という解釈はこの場合やや不都合になります。

9~10世紀は、ボロル/ブルシャに関する史料はほとんどない時代で、詳しい事情はわかりません。842年のラン・ダルマ王の死後、吐蕃軍の統制も崩れ占領地は急速に失われていった、と思われます。ボロル/ブルシャも吐蕃支配から脱していた可能性は高そうです。

しかし、吐蕃軍残党が行き場を失い現地で軍閥・野盗化し、あちこちに割拠していた様子は断片的に報告があります。9世紀中頃にアムド~河西を席巻した尚恐熱はそのような勢力のひとつ。

ボロルの北、ホータン(于闐)も9世紀半ばには吐蕃支配から脱し独立を回復したようです。しかし、『新五代史・四夷附録第三』于闐の条では、938~42年に于闐を訪れた高居誨の旅行記『居誨記』からの引用文に「霊州より黄河を渡り于闐に至る。往々吐蕃族の帳(テント)を見る。于闐は常に吐蕃と攻め合い奪いあっている」とあります。10世紀になっても、ホータン周辺に吐蕃軍残党がうろうろしていたことがわかります。

9~10世紀、ボロルあたりにもそのような吐蕃軍残党が割拠していた可能性は高いでしょう。バルティスタンのスカルドゥ王家は、マクポン(Maqpon)という称号を持っています。これはもちろんチベット語の「dmag dpon(将軍)」が語源です。吐蕃のバルティスタン駐留軍司令官の子孫なのかもしれません。しかし、この駐留軍の吐蕃帝国崩壊後の動向も全く史料に残っていないので、推測に留まります。

ボロルでも独立は回復していたでしょうが、吐蕃軍の残党がまだ幅を利かせ、かつての「khrom(占領地)」という呼び方もまだ使われていたかもしれません。もう少し検討は必要ですが、今のところ「khrom」の意味を変更はしないでおきます。

------------------------------------------

次に翻訳を担当した人たちについてです。

サンギェ・イェシェが、それより百年以上前の人物グル・リンポチェの弟子ではあり得ないことは前回述べたとおりです。当然、その同時代人とされているダーナラクシタなどもグル・リンポチェの弟子ではあり得ないでしょう。

かといってこれひとつで、ダーナラクシタの実在も疑う程ではないと考えます。グル・リンポチェとの関わりに関する記述は、ニンマパ関係史料ではよく目にする文言で、権威付けの道具としてはありふれたものです。本来グル・リンポチェとは無関係な伝説であるはずの「ケサル伝」にも後にはグル・リンポチェが登場するようになることからも、その権威付けの有効性が窺えます。

「グル・リンポチェ伝」自体、きわめて物語色が濃く史実は少ないと考えられているのですから、グル・リンポチェに関連するというお話も大半は「あとづけ」とみなして無視してもかまわないでしょう。

史実を探る際にグル・リンポチェがらみのエピソードに引っ張られると失敗しやすい、というのは今回改めて実感したことですね。

------------------------------------------

後に詳述しますが、チェツェンキェーはボン教関係史料にもブルシャ在住の人物としてその名が現れます。実在の人物とみていいでしょう。また系譜を逆算していくと、その年代は10世紀前半あたりに落ち、これはサンギェ・イェシェの年代とうまく重なります。

------------------------------------------

『一切仏集密意経』には偽経ではないか、という疑いもあるのですが、だとすればその由来を語る後書きも相当手の込んだ捏造、ということになります。しかし、現状ではそこまで積極的に否定するだけの材料を持っていません。

その偽経説とは別に、そのブルシャ語タイトルがリアリティのあるものなのか検討しておく必要はあるでしょう。

で、ようやく本道に戻ります。

2009年8月5日水曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(10) 訂正:サンギェ・イェシェのクロノロジー

2009年7月17日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(8) 仏教ニンマパとブルシャ で、サンギェ・イェシェの年代を

> 「生年は8世紀前半/半ば、没年は9世紀前半/半ば」あたりが妥当なところだろうか。

と書きましたが、我ながら腑に落ちない点もあるので、少し調べ直してみました。

前述の通り、サンギェ・イェシェの生没年はざっと見ただけでも770-883(114歳)、772-892(121歳)、823-962(140歳)、841or844-956(116or113歳)と諸説紛々で、実態は謎に包まれています。

今回紹介するのは「844年生まれ」という見解です。出典は、いつもおなじみの

・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.xi+642. Dharamsala.

その

Addendum One : Dating dPal.'khor.btsan's reign and the establishment of the kingdom of mNga'.ris skor.gsum. pp.541-551.

で、サンギェ・イェシェの生年・年齢が重要なデータとして扱われているのです。

これは、吐蕃帝国崩壊~グゲ王国成立の間の時代、ウースン王('od srung、ダルマ・ウィドゥムテン王の子)~その子ペルコルツェン王(dpal 'khor brtsan、初代グゲ王キデ・ニマゴンの父)の年代について論じたものです。

------------------------------------------

ざっとこの時代の出来事を概観しておくと、

842年にダルマ・ウィドゥムテン(通称ラン・ダルマ、一般に「破仏」で有名だが実はその事実はなかったらしく、仏教僧ペルギ・ドルジェによる暗殺も否定されている)が死ぬと、その大妃であるナナム氏(sna nam bza')が生んだ(とされる、養子という説もある)ティデ・ユムテン(khri lde yum brtan)と小妃ツェポン氏(tshe spong bza')が生んだ(前王死去時は懐妊中であった)ナムデ・ウースン(gnam lde 'od srung)双方が王位を主張。

ユムテン側はウル(ラサ周辺)を支配、ウースン側はヨル(ヤルルン周辺)を支配し南北朝の対立が続く。この間に周辺地域を席巻した吐蕃軍は統制が乱れ、占領地は次々に失われていった。唐との交渉も途絶え、チベット国内の情勢は外には知られなくなる。

ウースンは9世紀末~10世紀初に没し、その子ペルコルツェンが継いだ。ペルコルツェンは次第にユムテン側に圧倒され、ヤルルンには居れなくなりギャンツェ~ラツェに移った。その間(もしくはその次の世代)に国内には反乱が多発し、ついには吐蕃王墓が荒らされるまでにペルコルツェンは落ちぶれた。

ペルコルツェンは10世紀初に暗殺され、その二子タシ・ツェクパペル(bkra shis brtsegs pa dpal)とキデ・ニマゴン(skyid lde nyi ma mgon)は西遷を余儀なくされた。タシ・ツェクパペルはツァン西部に落ち着き、その子孫はゾンカ(rdzong kha)~キーロン(skyid grong)を支配するグンタン(gung thang)王国をはじめ、ツァン西部に多くの小王国を建てた。また一部はヤルルンに戻り、ヤルルン・ジョウォ(yar lung jo bo)として諸領主の尊厳を集めた。またアムド・ツォンカ(tsong kha)に招かれ青唐王国を建てた唃厮囉(rgyal sras)もタシ・ツェクパペルの子孫とみられる。

一方のキデ・ニマゴンはさらに西に移り、プラン(spu hrang)に落ち着いた。そして西部チベット一帯を制圧し、その子孫はグゲ・プラン王国、ラダック王国、ザンスカール諸王国、ヤツェ王国などを建てた。この家系は熱心な仏教徒として知られ、吐蕃崩壊後国家の庇護を失い衰亡した仏教の復興に大きな役割を果たす。

------------------------------------------

吐蕃時代の年代については、『敦煌文献・年表(編年記)』が絶対的な信頼度を持っていますが、それもティソン・デツェン王の治世半ば763年までしか残っていません。吐蕃後期の年代については、これに代わって中国側の史料を主にあてにしますが、こちらも吐蕃末期のダルマ・ウィドゥムテン王の頃には混乱した記述が目立つようになります。吐蕃王家・政府自体が混乱し、唐もその実情を把握し切れていない様子が窺えます。

その後のユムテン、ウースン以降の世代になると、中国側にもほとんど記録がなくなりますから、後世に編纂されたチベット語史料(仏教史)を使うしかありません。しかしこれらの史料では互いに矛盾した年次を伝えているため混乱が著しく、その年代を考察した論考も錯綜しています(注1)。

近年では、『プトゥン仏教史』、『紅史』、『王統明示鏡』のいわゆる古典三史料よりも、吐蕃史に詳しくまたより正確な情報を伝えていると評判の高い

・dpa' bo gtsug lag phreng ba (16C半ば) 『dam pa chos kyi 'khor lo bsgyur ba rnams kyi byung ba gsal bar byed pa mkhas pa'i dga' ston(聖典転法輪の顕現による輝きなる学者の宴)』 → 略称 : 『mkhas pa'i dga' ston(ケーペーガートン/賢者の喜宴/学者の宴)』
・mkhas pa lde'u (13C中以降) 『rgya bod kyi chos 'byung rgyas pa(インド・チベットの仏教弘通史)』 → 略称 : 『mkhas pa lde'u chos 'byung(ケーパ・デウ仏教史)』
・lde'u jo sras (13C中?) 『chos 'byung chen mo bstan pa'i rgyal mtshan(法幢なる大仏教史)』 → 略称 : 『lde'u jo sras chos 'byung(デウ・ジョセー仏教史)』

などが出版されて利用しやすくなり、より重視されるようになりました。

しかし、この時代に関しては、下記のサキャパ系史書の評価が高く、年次も一貫しているため、この年代を採用する研究者が多いようです。

・sa skya pa bsod nams rtse mo (1167) 『chos la 'jug pa'i sgo zhes bya ba'i bstan bcos(仏教入門と名づける経典)』 → 略称 : 『ソナム・ツェモ仏教入門』
・rje btsun grags pa rgyal mtshan (13C初?) 『bod kyi rgyal rabs(チベット王統記)』 → 略称 : 『ダクパ・ギャルツェン王統記』
・'gro mgon 'phags pa blo gros rgyal mtshan (1275) 『bod kyi rgyal rabs(チベット王統記)』 → 略称 : 『パスパ王統記』

842年(水犬年)ダルマ・ウィドゥムテン死
843年(水豚年)ウースン誕生・即位
893年(水牛年)ペルコルツェン誕生
905年(木牛年)ウースン死/ペルコルツェン即位
923年(水羊年)ペルコルツェン死
929年(土牛年)反乱(kheng log)が起きる
937年(火鳥年)吐蕃王墓が荒らされる

------------------------------------------

これに対し、Vitali(1996)が得た結論は、これまでの定説に反して『デウ・ジョセー仏教史』の年次を採用する、というものでした(注2)。その年代は、

840(猿年)ウースンの誕生/即位
881(牛年)ペルコルツェンの誕生
893(牛年)ウースンの死/ペルコルツェン(13歳)の即位
905?(牛年)反乱(kheng log)の勃発(西暦は推定)
910(馬年)ペルコルツェンの死(暗殺)

反乱の年は単に「ペルコルツェン代のある牛年」としか記述がありませんが、他史料より推定したものです。

その証拠として重要視されているのが、

・nyang ral nyi ma 'od zer (12C後半?) 『chos 'byung me tog snying po sbrang rtsi' bcud(花蘂の蜜汁なる仏教史)』 → 通称 : 『nyan ral chos 'byung(ニャンレル仏教史)』
・padma 'phrin las rdo rje brag rig 'dzin (18C初?) 『yo ga gsum gyi bka' babs gnubs sangs rgyas ye shes kyi rnam thar(三つのヨーガの伝授:サンギェ・イェシェの伝記)』 → 略称 : 『sangs rgyas ye shes kyi rnam thar(サンギェ・イェシェ伝)』

『ニャンレル仏教史』は吐蕃時代の仏教史を記したもので、ウースン~ペルコルツェンの時代については上記のサキャパ三史料とほぼ同じ年次を採用しています。Vitali(1996)が重視しているのはそこではなく、サンギェ・イェシェが登場する箇所です。

┌┌┌┌┌ 以下、Vitali(1996)より ┐┐┐┐┐

『ニャンレル仏教史』より

領主に対する反乱により(国は)混乱状態となった。まずカム(khams)で反乱が起こった。次にチベット(bod)・チム(mchims/おそらくサムイェ周辺)でも反乱が起こり、ダルジェ・ペルギ・ダクパ(dar rje dpal gyi grags pa)はカムに避難した。次にウル(dbu ru/ウー北部・ラサ周辺)、ヨル(g-yo ru/ウー南部・ロカ周辺)、イェル(g-yas ru/ツァン北部)、ルラク(ru lag/ツァン南部)の三地方(「四地方」の誤り)でも反乱が起きた。

ウルで反乱が起きた際、ヌブ・サンギェ・イェシェ(gnubs sangs rgyas ye shes)の六人の子のうち四人はこの反乱で死に、一人は病死、一人は恥知らずにも逃亡した。この時、ヌブ・サンギェ・イェシェは、乞食に身をやつしてネパール(bal yul)のラマたちにお会しに行くつもりだった。

└└└└└ 以上、Vitali(1996)より ┘┘┘┘┘

これで、サンギェ・イェシェがペルコルツェン時代の反乱(注3)時には壮年~老人といえる年齢であったことがわかります。

その反乱の年次をもう少し詳しく知りたいところですが、そちらは『サンギェ・イェシェ伝』の方にあります。

┌┌┌┌┌ 以下、Vitali(1996)より ┐┐┐┐┐

『サンギェ・イェシェ伝』より

サンギェ・イェシェがおっしゃられるに、「そして、木男鼠年(甲子/きのえね)に61歳(還暦)を迎えたのだが、自分にとっては厄年(skeg)に当たっていており、真ん中(三回のうちの二回目、注4)の反乱が起きた。ダク(sgrags/サムイェの西方でヤル・ツァンポ北岸)に居ることができなくなり、ヌブ・ユル谷(gnubs yul rong/ヤムドク・ツォの西側)に避難した」と。さらに、「そこにも居れなくなり、ニェモ・チェカル(snye mo bye mkhar/ラサとユンドゥンリンの間でヤル・ツァンポ北岸)に移った」とおっしゃられた。

└└└└└ 以上、Vitali(1996)より ┘┘┘┘┘

ここでは、サンギェ・イェシェが61歳(かぞえ)であった年が木男鼠年(甲子/きのえね)とされているわけですが、その年に当たる候補としては

(1)784年誕生1歳-844年還暦61歳
(2)844年誕生1歳-904年還暦61歳
(3)904年誕生1歳-964年還暦61歳

あたりが考えられます。反乱(kheng log)の事実を考慮すると、最もしっくり行くのが、大規模な反乱が続発し、ついにはチョンギェの吐蕃王墓が荒らされたペルコルツェン時代(9世紀末~10世紀前半)に年代が落ちる(2)です。

反乱の年代をウースン時代に置く史料もありますが、ウースンは死後チョンギェの王墓に葬られた(彼が王墓に葬られた最後の吐蕃王)のであって、「王墓が荒らされた後でもかまわずそこに葬られた」とするのは不自然です。よってその反乱の年代をウースン時代に置くのは難しいでしょう(注5)。

(1)の可能性はどうでしょう。844年はラン・ダルマ王の死去直後でユムテン党vsウースン党間の王位争いがあったことが知られています。しかし反乱という形にまで至ったという記録はありません。また同時期の「論恐熱の反乱」もウー・ツァンにまで及んでいないのは(注5)で述べたとおりです。可能性としては(2)よりだいぶ低くなります(注6)。

------------------------------------------

Vitali(1996)の説は、(2)の年代を採用し、「ペルコルツェンの在位期間-反乱-サンギェ・イェシェ61歳」がすべて同じ期間に落ちる唯一の史料『デウ・ジョセー仏教史』の年代を最も信頼できる、とするものです。

しかしこの説に問題がないわけではありません。特に、『デウ・ジョセー仏教史』では、ウースンの生年を840年と置いているのは疑問です。

中国側の記録は錯綜こそしていますが、ラン・ダルマ王の死を840年以前に置く解釈を取るのは不可能です。その点では「サキャパ三史料」の年代に分があります。

------------------------------------------

また、Vitali説の一番のキーとなっているのが、『サンギェ・イェシェ伝』に述べられている「61歳=木男鼠年(甲子/きのえね)」です。しかし、これは本当に全面的に信頼していい数字なのでしょうか?

『サンギェ・イェシェ伝』が収録されているのは、

・padma 'phrin las rdo rje brag rig(18C初?) 『bka' ma mdo dbang gi bla ma rgyud pa'i rnam thar(アヌヨーガ乗経典相承祖師伝集)』

ですが、『サンギェ・イェシェ伝』をペマ・ティンレー(1640?-1718)自身が書いたのか、それともニンマパに伝わるその伝記を収録しただけなのか、手元の資料ではわかりませんでした。

もしペマ・ティンレー自身が書いたのだとすれば、それは17~18世紀のことですから、内容への信頼度はだいぶ下がります。

------------------------------------------

また、カーラチャクラ暦が始まる1027年以前の暦法では、年の表記は干支併記ではなく十二支のみだったと考えられています。ですからサンギェ・イェシェ61歳の年「木男鼠年(甲子/きのえね)」という表記も怪しむべきで、本来は「鼠年(子/ね)」としか記録されていなかったとも考えられます。

そうなると、この年に当たる候補は、・・・・880年、892年、904年、916年、928年・・・とだいぶ広がってしまいます。

どうも現状ではVitali説に無条件で賛同するわけにもいきません。

------------------------------------------

「サンギェ・イェシェの生年は844年で、61歳時は904年」というきっちりした数字をそのまま許容はできませんが、もう少しぼんやりと「サンギェ・イェシェの老齢のころに反乱(kheng log)があった」という事実は、『ニャンレル仏教史』、『サンギェ・イェシェ伝』の双方に類似の記述があるのですから認めてもよさそうです(注7)。

となると、きっちりした年次までは特定しないにしても、「9世紀中頃生まれ、10世紀初め頃の反乱が頻発したペルコルツェン時代には還暦の年頃だった」ということまでは言えそうです。没年はわかりませんが、百歳程度だったとすれば10世紀中頃になるでしょう。これは前々回推定した年代より実に百年後にずれ込んでいます。

ニンマパ関連史料の扱いの難しさを実感します。

------------------------------------------

サンギェ・イェシェの年代を上述のように変更した場合、前述の『一切仏集密意経』訳経の年代も変更する必要があります。次回はその辺を修正しておきましょう。

===========================================

(注1)
この時代、特に年代を論じたものとしては、Vitali(1996)のほか、

・佐藤長 (1964) ダルマ王の子孫について. 東洋学報, vol.46, no.4[1964]. → 再録 : 佐藤長 (1986) 『中世チベット史研究』所収. pp.43-88. 同朋舎, 京都.
・山口瑞鳳 (1980) ダルマ王の二子と吐蕃の分裂. 駒沢大学仏教学部論集, no.11[1980/11], pp.214-233.
・Luciano Petech (1994) The Disintegration of the Tibetan Kingdom. IN : Per Kvaerne(ed.) (1994) Tibetan Studies : Proceedings of the 6th International Semina77777r of the International Association for Tibetan Studies, Fagernes, 1992, vol.2. → Reprinted IN : Alex McKay (ed.) (2003) THE HISTORY OF TIBET : VOLUME I. pp.286-297.

などがある。

(注2)
山口(1980)、Vitali(1996)などにより、各史料のウースン~ペルコルツェン時代の年代をまとめてみるとこのようになる。


(注3)
「サキャパ三史料」では、反乱が起きたのはペルコルツェンの死後になっている。『デウ・ジョセー仏教史』では、反乱によりヤルルンに居れなくなりさらにその流れで暗殺された、ということになっており、こちらの方がしっくりくる、ような気がする。

(注4)
二回目ではなく、チョンギェの吐蕃王墓が荒らされた三回目の反乱であった可能性もある。

(注5)
ただし、ウースン時代にも反乱と呼べるものはあった。『新唐書』や『資治通鑑』が詳しく伝えている842~66年の「論恐熱(blon khong bzher?)の反乱」がそれだが、その舞台は一貫してアムド~河西であり、チベット中央に影響が及ぶものではなかった。

(注6)
(2)を採用した場合、サンギェ・イェシェの業績として有名な

・グル・リンポチェの弟子となる
・ティソン・デツェン時代の訳経作業に参加した
・ラン・ダルマ王を幻術によりこらしめた

などのエピソードは、生まれる前の出来事になってしまい、三つ丸ごとありえないことになります。

(1)を採用した場合は、この三つのエピソードをうまく生かせることになり、その面では都合のいい年代論になる。ただし反乱エピソードの方をうまく説明できない。

(注7)
『ニャンレル仏教史』、『サンギェ・イェシェ伝』ともニンマパ関連史料である、という点では少し割り引いて考える必要はあるかもしれない。そうなると結局「ニンマパ関連史料」はどの程度信頼できるのか?という大問題にはまっていくので、この議論のこれ以上の展開は何らかの新証拠の発掘を待ちたいと思う。

2009年7月21日火曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(9) ニンマパ経典のブルシャ語タイトル

この経典は「ブルシャ文字(bru zha'i yi ge)」で書かれていたといいますから、ブルシャに文字はあったはずです。インド由来のカローシュティー文字、ブラーフミー文字、グプタ文字などが存在したことは碑文や発掘経典で知られています。

しかしわざわざ「ブルシャ文字」と書くのですから、それとは別の文字があったという可能性が高そうです。もしかすると、それが「チベット文字ドゥツァ体」もしくはその原型ではなかったのだろうか?というのが私の仮説です。

『一切仏集密意経』はブルツァ体、もしくはその原型で記されており、その文字がチベット語に翻訳された経典と共に(あるいはブルシャ語経典も)チベットに伝わったのかもしれません。しかし、そういう記録が残っていないので謎のままです。

------------------------------------------

「ブルシャ文字」で記されていたこの経典、大もとの言語はサンスクリット語だったといいます。それを前述の三人の訳経師(lo tsa ba)がブルシャ語に翻訳した上で、さらにチベット語に翻訳したようです。「ブルシャ文字(bru sha'i yi ge)」には、「ブルシャ語」という意味も込められていると思われます。

残念ながらこの経典のブルシャ語版は伝わっていません。しかし、そのブルシャ語タイトルのみは現在まで伝わっているのです。

この経典の冒頭には、チベット語タイトルに加え、サンスクリット語タイトル(サンスクリット文字表記をチベット文字で転写したもの)、そしてブルシャ語タイトル(ブルシャ文字表記をチベット文字で転写したもの)の三つが付されています。

チベット語タイトルは前回挙げたので省略します。

(1)サンスクリット語タイトル

rgya gar skad du(インド語では)
sa rba ta tha' ga ta tsi ta ta dznya' na gu hya a rtha ga rbha byu' ha ba dzra tan tra sid dhi yo ga a' ga ma sa ma' dza sa rba bi dya' su tra ma ha' ya' na a bhi sa ma ya dha rma' pa rya ya bi byu' ha na ma su' traM

これをよりわかりやすくサンスクリット文字アルファベット転写に準じた方式で表すとこうなります。

Sarva tathāgata cittajñāna guhyārtha garbha vyūha vajra tantra siddhi yogāgama samāja sarvavidyāsūtra mahāyānābhisamaya dharma paryāya vivyūha nāma sūtram

(2)ブルシャ語タイトル

問題のブルシャ語タイトルですが、五資料を当たってみたところ、なんと全部つづりが違います(笑)。困ったもんです。

全部あげておきますが、相違点を赤字青字で示しました。赤字は少数派、青字が多数派です。かといって「青字が正しく、赤字は誤り」と考えているわけではありません。目安としてあげただけです。

bru zha'i skad du(ブルシャ語では)
<1>大谷大学説-『北京版大蔵経』より
hon ban ril til bi bu bi til ti ta sing 'un 'ub had bad ril 'ub bi su bad ri zhe hal ba'i ma kyad ku'i dang rod ti
<2>東北大学説-『デルゲ版大蔵経』より
hon pan ril til pi bu pi til ti ta sid 'un 'ub hang pad ril 'ub bi su bad ri zhe hal pa'i ma kyang ku'i dang rong ti
<3>Poucha説-『デルゲ版大蔵経』より
ho na pan ril til pi bu pi til ti ta sid 'un 'ub hang pang ril 'ub bi su bad ri zhe hal pa'i ma kyang ku'i dang rong ti
<4>金子英一説-『古タントラ全集』より
hon pan rol til pipu pitila titasing, 'un 'ub, hang pang ril, 'ub pa'i su, bang ri zhe hal pa'i ma kyang ku'i, dang rod ti
<5>ケント大学説-『古タントラ全集』より
hon pan ril til / pi pu / pi ti la / ti ta sid / 'un 'ub / hang pang ril / 'ub pa'i su / bad ri / zhe hal pa'i / ma kyang ku'i / dang rod ti

出典は、
<1>大谷大学図書館・編(1939) 『大谷大学図書館蔵 西蔵大蔵経 甘殊爾勘同目録 I』. pp.177. 大谷大学図書館, 京都.
<2>東北帝国大学法文学部・編, (財)斎藤報恩会・補助 (1970) 『西蔵大蔵経総目録』. pp.2+701+124. 名著出版, 東京.
<3>Pavel Poucha (1960) Bruža - Burušaski ?. Central Asiatic Journal, vol.5, no.4[1960], pp.295-300.
<4>金子英一(1982) 『古タントラ全集解題目録』. pp.68+496+23. 国書刊行会, 東京.
<5>Tibetan Studies at the University of Kent at Canterbury > The Rig 'dzin Tshe dbang nor bu Edition of the rNying ma'i rgyud 'bum > Catalogue > Volume Da > Da.1
http://ngb.csac.anthropology.ac.uk/csac/NGB/da/1

筆者がチベット文字表記でこのタイトルを見ているのは、

・大谷大学・監修, 西蔵大蔵経研究会・編 (1956) 『影印北京版西蔵大蔵経 9 甘殊爾 秘密部 九』. pp.277. 東京学術社, 東京.

のみです。当然私自身の釈字は<1>に近いものになります。

『影印北京版』は縮刷版でもあるので、一般に印刷が不鮮明な箇所が多く、ツェグの判別が難しい、paとbaの区別がしにくい、ngaとdaの区別がしにくい(これはこの版に限ったことではないが)、などの欠点があります。よって<1>大谷大学説の他説との差異は主にそこに現れています。他の読みとの相違点が一番多いので、この釈字の信頼度は低い、とは考えています。

それにしても、同じ資料(版は違うかもしれないが)を見ているはずの<2>と<3>、<4>と<5>の間ですら釈字にこれだけ違いがあるのですから、出発点からして思いやられます。

------------------------------------------

先に進む前に、すべての経本を比較してできるだけ正確なスペルをまず得るべきでしょうが、私にはそこまでできる能力がありません。なにしろ同じ『デルゲ版』同士や『古タントラ全集』同士ですら釈字が違うのですから、専門家にとってもかなりの難物のはずです。

チベット人にとってもブルシャ語は意味不明ですから、この無意味な字の連なりは写経や刻印の際にほとんど関心が払われることもなく、簡単に誤写・誤刻されたに違いありません。よって現行の各経本を比較したところで正しいスペルに到達できるような気もしません(注)。

なるべく最古の経本を探し出して、それに当たるしかいい方法はなさそうですが、それはとうてい私の手に余る仕事です。

===========================================

(注)
誤記・誤刻の箇所がチベット語であるならば、前後の文脈から類推して、正しいスペルに脳内で補正できる。例えば、文字列はどう見ても「ngad」であっても、前後の文脈から「dang」と補正する、など。

しかし未知の言語(ここではブルシャ語)が誤写・誤刻されてしまうと、どれが正しいスペルやら判断する基準がなく、お手上げとなる。

2009年7月17日金曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(8) 仏教ニンマパとブルシャ

実はこの「ドゥツァ体」の伝来と関係ありそうな経典がチベット仏教にあるのです。

チベット仏教の古派であるニンマパが保持する重要な経典に、

『de bzhin gshegs pa thams cad kyi thugs gsang ba'i ye shes don gyi snying po rdo rje bkod pa'i rgyud rnal 'byor grub pa'i lung kun 'dus rig pa'i mdo theg pa chen po mngon par rtogs pa chos kyi rnam grangs rnam par bkod pa zhes bya ba'i mdo』

というものがあります。

漢名は
『一切如来密意智心蔵金剛荘厳本続修習成就旨普集名大乗経(現観法門荘厳経)』(注1)
または
『一切如来心秘密智慧心髄義金剛荘厳怛特羅瑜伽成就聖典総集明経大乗現観法門荘厳と名づくる経』(注2)

一般には、通称の『sangs rgyas kun gyi dgongs pa 'dus pa'i mdo(一切仏集密意経)』で呼ばれる場合が多いようです。

これは「吐蕃時代にチベット語に翻訳された」とされる、いわゆる「古タントラ(rnying rgyud)」の一つ(注3)。ニンマパではテルマ(gter ma/埋蔵経典)が有名ですが、これはテルマではなくインド仏典からの翻訳で、素性の明確な(と、ニンマパでは認識されている)経典(カーマ/bka' ma)。吐蕃時代にインド仏典から翻訳された密教経典は「古タントラ」と総称されます。

ニンマパの密教経典は新訳派とは違い、このような「古タントラ」が中心になっています。この『一切仏集密意経』は、ニンマパの密教「アヌヨーガ乗」(注4)の釈タントラとして重要視されています。

------------------------------------------

さて、この『一切仏集密意経』ですが、後書きでは、

「インドの教師ダルマボディ(rgya gar gyi mkhan po dha rma bo dhi)、大学者ダーナラクシタ(ring lugs chen po da' na ra gshi ta)、主編・訳経師チェツェンキェー(zhu chen gyi lo tstsha ba che btsan skyes)によって、ブルシャ国のトム(bru zha'i yul gyi khrom)においてブルシャ文字(bru zha'i yi ge)から翻訳された」

と記されています。

まず、「トム(khrom)」とは何でしょうか?

現代チベット語では「市場」「群衆」という意味で使われます。「bru zha'i yul gyi khrom」をそのまま「ブルシャ国の市場」あるいは「ブルシャ国の町」と解しているケースもありますが、この場合は吐蕃時代の用法「植民地/占領地」(注5)と考えた方がよさそうです。

地名(町の名?)という可能性もあるかもしれませんが、ギルギット~バルティスタン周辺にそれに該当するような地名は今のところ見つかりません。

なお、前述のように『ラダック王統紀』では8世紀後半の記事ですでに「sbal ti」と「bru shal」が区別されていますが、バルティとブルシャはもともと同一国だったわけですから、この経典が翻訳された場所も、ギルギット/フンザ~バルティスタンと広く可能性を考えておいた方がいいでしょう。

------------------------------------------

訳経の時期はいつでしょうか?。

「khrom=植民地」という解釈が正しければ、おそらく、親唐政権であった小勃律を吐蕃が制圧した737年以降のこととみてよさそうです(唐軍に奪還された747年以降の約十年間を除く、注6)。下限は吐蕃帝国の崩壊期(9世紀半ば~後半)になります。

訳者のダルマボディ、ダーナラクシタ、チェツェンキェーはニンマパ関係文献では、アヌヨーガ乗の祖師系譜にその名が現れます(というより、この経典自体がそれらの元ネタのようですが)。

ダーナラクシタはウディヤーナの僧or行者で、グル・リンポチェよりアヌヨーガの教えを受けています。ダルマボディはマガダの僧or行者でダーナラクシタの弟子筋に当たるようです。チェツェンキェーはブルシャの密教僧で、ダルマボディの孫弟子になります(注7)。

ダーナラクシタとダルマボディはブルシャ国に行き、そこでチェツェンキェーと共にアヌヨーガ経典をまずサンスクリット語からブルシャ語に翻訳し、さらにブルシャ語からチベット語に翻訳した、とされています。グル・リンポチェの弟子・孫弟子・曾孫弟子あたりに当たる世代の出来事ですから、8世紀末~9世紀前半に置くのはいい線でしょう。

------------------------------------------

ニンマパの伝承では、ブルシャ国はインド~ウディヤーナ(スワート谷)から伝わった密教アヌヨーガ乗が盛んだった場所とされています。アヌヨーガをブルシャからチベットに導入した功労者はヌブチェン・サンギェ・イェシェ(gnubs chen sangs rgyas ye shes/通称ヌブワン/gnubs ban、8~9世紀、注8)。サンギェ・イェシェはグル・リンポチェ(Padmasambhava)の二十五人の弟子の一人で密教行者(sngags pa)の祖とされています。

サンギェ・イェシェはインド、ネパール、ブルシャなどを歴訪し諸師に教えを請いました。ブルシャの密教僧チェツェンキェーはそのような師の一人だった、といいます。ブルシャのアヌヨーガはサンギェ・イェシェの手でチベットに伝わり、ニンマパに伝承されてきたわけです。『一切仏集密意経』もサンギェ・イェシェがブルシャからチベットに持ち帰ったものと思われます(注9)。

アヌヨーガ乗はニンマパの修業体系に組み込まれ、現代までしっかり伝承されています。欧米・日本のニンマパ研究ではゾクチェンの人気が高く研究も盛んですが、このアヌヨーガ乗については最も研究の遅れている分野で、詳しい内容はあまり報告されていません。

------------------------------------------

一方ブルシャのアヌヨーガ乗の伝統はどうなったのでしょうか。チベット側の記録でもそれは伝わっていません。また密教隆盛の様子もこれ以上わかりません。

しかしこの地は、大乗仏教発祥の地とされるガンダーラ、密教発祥の地とされるウディヤーナ(スワート)、7~8世紀に仏教が栄えたカシミールなどの仏教大国のすぐ北に位置していますから、大乗仏教、特に密教が伝わり栄えたであろうことは充分推測できます。ただし具体的な資料に乏しく、推定のレベルに留まります。

===========================================

(注1)
・大谷大学図書館・編 (1939) 『大谷大学図書館蔵 西蔵大蔵経 甘殊爾勘同目録 I』. pp.177. 大谷大学図書館, 京都.

にみえる漢名。大谷大学が所蔵しているのは寺本婉雅が将来した『北京殿板赤字西蔵大蔵経』。

(注2)
・東北帝国大学法文学部・編, (財)斎藤報恩会・補助 (1970) 『西蔵大蔵経総目録』. pp.2+701+124. 名著出版, 東京.

にみえる漢名。東北大学が所蔵しているのは多田等観が将来した『デルゲ版チベット大蔵経』。

(注3)
古タントラは、素性に疑問がある(つまりインド仏典の翻訳ではなく偽作の疑いがある)として、プトゥン(bu ston、1290-1364)の大蔵経目録にはほとんど収録されていない。これを踏襲する形で、古タントラは新訳派(カギュパ、サキャパ、ゲルクパ)にはほとんど顧みられていない。

『北京版大蔵経』では、「秘密部(密教部/rgyud)」の末尾におまけとして古タントラが付されている。大谷大学藏『北京版西蔵大蔵経』ではNo.452が『sangs rgyas kun gyi dgongs pa'dus pa'i mdo(一切仏集密意経)』。

『ジャン・サタム版(リタン版)大蔵経』、『デルゲ版大蔵経』などでは「古タントラ部(rnying rgyud)」が独立して設けられ、古タントラはそちらに収録されている。『ジャン・サタム版(リタン版)』ではNo.747が、東北大学蔵『デルゲ版』ではNo.829がこの経典。

大谷大学蔵『北京版』目録については(注1)を、東北大学蔵『デルゲ版』目録については(注2)を参照されたし。

在ベルリンの『ジャン・サタム版(リタン版)』目録については、

・IMAEDA Yoshiro (1982~84) CATALOGUE DU KANJUR TIBÉTAIN DE L'EDITION DE 'JANG SA-THAM (2 vols.). The International Institute for Buddhist Studies, Tokyo.

を参照されたし。

これら古タントラは、15世紀にラトナ・リンパ(ratna gling pa)が蒐集し、18世紀にジグメー・リンパ('jigs med gling pa)の手によって『rnying ma'i rgyud 'bum(古タントラ全集)』として開版されている。『古タントラ全集』No.161がこの経典。

『古タントラ全集』目録については、

・金子英一 (1982) 『古タントラ全集解題目録』. pp.68+496+23. 国書刊行会, 東京.

を参照されたし。

(注4)
ニンマパでは、教法を「九乗の宗義(theg pa rim pa dgu)」に区分している。

◆小の乗(phyi mtshan nyid kyi theg pa gsum)=顕教
1-声聞乗(nyan thos kyi theg pa)
2-独覚乗(rang rgyal ba'i theg pa)
3-菩薩乗(byang chub sems dpa'i theg pa)
◆中の乗(dka' thub rig byed kyi theg pa)=外タントラ乗(phyi rgyud sde gsum)
4-クリヤ乗(bya ba'i rgyud kyi theg pa)
5-ウパヤ乗(upa'i rgyud kyi theg pa)
6-ヨーガ乗(rnal 'byor gyi rgyud kyi theg pa)
◆大の乗(klong gyur thabs kyi theg pa)=内タントラ乗(nang rgyud gsum)
7-マハーヨーガ乗(rnal 'byor chen po'i theg pa)
8-アヌヨーガ乗(rjes su rnal 'byor gyi theg pa)
9-アティヨーガ乗=ゾクチェン/大究境(rdzogs pa chen po shin tu rnal 'byor gyi theg pa)

「アヌヨーガ乗」とは、「貪」を除くことを目的とし、「界(dbyings)」と「智(ye shes)」を体得するもの、だという(平松1989)。

この辺は私には理解が浅いところなので、正確な内容や修業の実際についてはニンマパ関係の資料をお読み下さい。

(注5)
「khrom」は「grom」ともつづられ、吐蕃時代、ル(ru)/トンデ(stong sde)制度が敷かれたチベット本土(ウー、ツァン、スム・ユル、シャンシュン-トンデ制度のみ)や藩王国(コンポ、ダクポ、ニャン・ユルなど)の外側に広がる占領地。旧・吐谷渾領の青海~河西回廊、タリム盆地、バルティスタン(大勃律)~ブルシャ(小勃律)あたりが対応するようだ。

参考:
・林冠群 (2000) 『唐代吐蕃的桀琛(rgayl phran)』. 蒙蔵委員会, 台北. → 再録 : 林冠群 (2006) 『唐代吐蕃論集』. pp.1-64. 中国藏学出版社, 北京.
・石川厳 (2003) 吐蕃帝国のマトム(rMa gróm)について. 日本西蔵学会会報, no.49[2003/05], pp.37-46.

「khrom」に関する研究では最も重要と思われる

・Géza Uray (1980) KHROM : Administrative Units of the Tibetan Empire in the 7th-9th Centuries. IN : Michael Aris+Aung San Suu Kyi(eds.) (1980) TIBETAN STUDIES IN HONOUR OF HUGH RICHARDSON. pp.310-318. Warminster.

は残念ながら未見。

(注6)
吐蕃が8世紀後半には大小勃律を奪還していた事実は、『la dwags rgyal rabs(ラダック王統紀)』のティソン・デツェン[位:754-97d]時代の記事として、

「四方の全地域が制圧され、東は中国(rgya nag)、南はインド(rgya gar)、西はバルティ(sbal ti)とブルシャル('bru shal)、北はホル(hor)のサイチョ・オドンケーカル(sa'i cho o don kas dkar、おそらく西州=旧・高昌国=トゥルファンを意味すると思われる)すべてを占領した」

とあることで裏付けられる。ただしこの記事では、40年にわたるティソン・デツェン時代のいつか、という細かい年代がわからない。

なお、大小勃律とは関係ないが、西州(トゥルファン)は吐蕃に占領されることなく唐の安西都護府として孤立した状態が続いたのであり、「sa'i cho・・・=西州」だとすればこの記事は誇大。西州の北に位置する北庭(ビシュバリク=ウルムチの東にあるジムサル=吉木薩爾)も、790年に吐蕃が占領したものの、翌791年にはウイグルが奪還した模様。

『敦煌文献・年表(編年記)』では、猿年=756年の記事として、

「猿年(756年)・・・(中略)・・・ワンジャク・ナクポ(ban 'jag nag po)国(パンジ川流域か?)、ゴク(gog)国(ワハーン=護密国)、シグニク(shig nig)国(シグナン=識匿国)など上手方面(stod phyogs)(諸国)から使者が(吐蕃宮廷を訪れツェンポに)拝礼した。」

とある。

747~53年には、小勃律(ブルシャ)、朅師(チトラル)、大勃律(バルティスタン)で吐蕃軍は唐軍に圧倒されていたはずなのだが、755年の安禄山の乱勃発による混乱で、早くも唐は西方ににらみが利かなくなったようだ。大小勃律には触れられていないが、大小勃律を依然唐が抑えていたならば、それよりさらに西方のパミール諸国が吐蕃へ使者を派遣できるはずがない。この時点で吐蕃はすでに大小勃律を奪還していた、とみてよさそうだ。

(注7)
ボン教側の伝承によると、チェツェンキェーはブル/ドゥ氏の一員とされる。トツェンキェー(mtho btsan skyes)/ツェツェンキェー(mtshe btsan skyes)の名で現われ、ボン教でも訳経師として知られている。

詳しくは、のちのエントリーで述べよう。

(注8)
サンギェ・イェシェの生没年は、

・斎藤昭俊+李戴昌・編(1989) 『東洋仏教人名事典』. pp.425. 新人物往来社, 東京.

では(823-962)とあり、百四十歳という異常な長命とされる(832年生まれとする資料もある)。サンギェ・イェシェの伝説にはランダルマ王[位:841-42d]との関わりも語られ、ペルコルツェン王[位:9世紀末-10世紀初]の代まで生存した、とされることもある。上述の生没年はこれらのエピソードを重視した結果の数字と思われる。

しかし、サンギェ・イェシェはティソン・デツェン王[位:754-97d]時代の仏教導入期にグル・リンポチェの弟子となり訳経作業に参加した、ともされ、これだと上記の生年とは大幅に矛盾する。

すべてのエピソードを考慮すると、その活動時期は約二百年にも渡ることになってしまい、さすがに信憑性に欠ける。

ニンマパの伝承では珍しいことではないが、サンギェ・イェシェの伝説には虚実入り乱れた内容が伝わっていると推測され、その実像はいまだ謎につつまれている。

寿命を百歳くらいとみて(それも疑問がないわけではないが)、ブルシャでの訳経エピソードとの整合性を考慮すると、「生年は8世紀前半/半ば、没年は9世紀前半/半ば」あたりが妥当なところだろうか。

サンギェ・イェシェの図像:
・Ragjung Yeshes Publications > Glossary > Sangye Yeshe of Nub
http://www.rangjung.com/authors/Sangye_Yeshe_of_Nub.htm

(注9)
アヌヨーガ乗の経典は「インド~ブルシャから伝わった」というより、実はサンギェ・イェシェ自身が創作し、インド仏典オリジナルに仮託したものではないか?と疑う説もある。

===========================================

参考(全般):
・George Roerich(tr.) (1949) THE BLUE ANNALS. pp.xx+1275. Asiatic Society of Bengal, Calcutta. → Reprint : (1996) Motilal Banarsidass, Delhi.
・Giuseppe Tucci (1970) Die Religionen Tibets. W.Kohlhammer, Stuttgart. → 英訳版 : Geoffrey Samuels(tr.) (1980) The Religion of Tibet. Routledge & Kegan Paul. → Reprint : (1988) pp.xii+340. University of California Press, Berkeley.
・Eva M. Dargyay (1977) THE RISE OF ESOTERIC BUDDHISM IN TIBET. → (1979) SECOND REVISED EDITION. Motilal Banarsidass, Delhi.
・金子(1982)上述.
・平松敏雄 (1982) 『西蔵仏教宗義研究 トゥカン『一切宗義』 第三巻 ニンマ派の章』. pp.x+213. 東洋文庫, 東京.
・平松敏雄 (1989) ニンマ派と中国禅. 長尾雅人ほか (1989) 『岩波講座 東洋思想 第一一巻 チベット仏教』所収. pp.263-287. 岩波書店, 東京.
・田中公明 (1993) 『チベット密教』. pls.+pp.iii+247+xxxiii. 平河出版社, 東京.
・Yeshe Tsogyal, Erik Pema Kunsang(tr.), Marcia Binder Schmidt(ed.) (1993) THE LOTUS-BORN : THE LIFE STORY OF PADMASAMBHAVA. pp.x+321. Shambhala Publications, Boston.

===========================================

(追記)@2009/07/24
チベット大蔵経に関しては次の文献を参照した。

・御牧克己 (1987) チベット語仏典概観. 長野泰彦+立川武蔵・編著 (1987) 『北村甫退官記念論文集 チベットの言語と文化』所収. pp.277-314. 冬樹社, 東京.
・今枝由郎 (1989) チベット大蔵経の編集と開版. 長尾雅人ほか (1989) 『岩波講座 東洋思想第一一巻 チベット仏教』所収. pp.325-350. 岩波書店, 東京.