2009年8月7日金曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(11) 訂正:『一切仏集密意経』訳経の時期など

サンギェ・イェシェの年代を「9世紀中頃~10世紀中頃」に変更した場合、『一切仏集密意経』訳経の時期も当然変更する必要があります。

サンギェ・イェシェが何歳でブルシャに行ったのか、手元の資料ではわかりません。ですから、とりあえず9世紀後半~10世紀中頃と広く取っておきましょう。

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まず「トム(khrom)」の解釈ですが、「吐蕃の植民地」という解釈はこの場合やや不都合になります。

9~10世紀は、ボロル/ブルシャに関する史料はほとんどない時代で、詳しい事情はわかりません。842年のラン・ダルマ王の死後、吐蕃軍の統制も崩れ占領地は急速に失われていった、と思われます。ボロル/ブルシャも吐蕃支配から脱していた可能性は高そうです。

しかし、吐蕃軍残党が行き場を失い現地で軍閥・野盗化し、あちこちに割拠していた様子は断片的に報告があります。9世紀中頃にアムド~河西を席巻した尚恐熱はそのような勢力のひとつ。

ボロルの北、ホータン(于闐)も9世紀半ばには吐蕃支配から脱し独立を回復したようです。しかし、『新五代史・四夷附録第三』于闐の条では、938~42年に于闐を訪れた高居誨の旅行記『居誨記』からの引用文に「霊州より黄河を渡り于闐に至る。往々吐蕃族の帳(テント)を見る。于闐は常に吐蕃と攻め合い奪いあっている」とあります。10世紀になっても、ホータン周辺に吐蕃軍残党がうろうろしていたことがわかります。

9~10世紀、ボロルあたりにもそのような吐蕃軍残党が割拠していた可能性は高いでしょう。バルティスタンのスカルドゥ王家は、マクポン(Maqpon)という称号を持っています。これはもちろんチベット語の「dmag dpon(将軍)」が語源です。吐蕃のバルティスタン駐留軍司令官の子孫なのかもしれません。しかし、この駐留軍の吐蕃帝国崩壊後の動向も全く史料に残っていないので、推測に留まります。

ボロルでも独立は回復していたでしょうが、吐蕃軍の残党がまだ幅を利かせ、かつての「khrom(占領地)」という呼び方もまだ使われていたかもしれません。もう少し検討は必要ですが、今のところ「khrom」の意味を変更はしないでおきます。

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次に翻訳を担当した人たちについてです。

サンギェ・イェシェが、それより百年以上前の人物グル・リンポチェの弟子ではあり得ないことは前回述べたとおりです。当然、その同時代人とされているダーナラクシタなどもグル・リンポチェの弟子ではあり得ないでしょう。

かといってこれひとつで、ダーナラクシタの実在も疑う程ではないと考えます。グル・リンポチェとの関わりに関する記述は、ニンマパ関係史料ではよく目にする文言で、権威付けの道具としてはありふれたものです。本来グル・リンポチェとは無関係な伝説であるはずの「ケサル伝」にも後にはグル・リンポチェが登場するようになることからも、その権威付けの有効性が窺えます。

「グル・リンポチェ伝」自体、きわめて物語色が濃く史実は少ないと考えられているのですから、グル・リンポチェに関連するというお話も大半は「あとづけ」とみなして無視してもかまわないでしょう。

史実を探る際にグル・リンポチェがらみのエピソードに引っ張られると失敗しやすい、というのは今回改めて実感したことですね。

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後に詳述しますが、チェツェンキェーはボン教関係史料にもブルシャ在住の人物としてその名が現れます。実在の人物とみていいでしょう。また系譜を逆算していくと、その年代は10世紀前半あたりに落ち、これはサンギェ・イェシェの年代とうまく重なります。

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『一切仏集密意経』には偽経ではないか、という疑いもあるのですが、だとすればその由来を語る後書きも相当手の込んだ捏造、ということになります。しかし、現状ではそこまで積極的に否定するだけの材料を持っていません。

その偽経説とは別に、そのブルシャ語タイトルがリアリティのあるものなのか検討しておく必要はあるでしょう。

で、ようやく本道に戻ります。

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