1950~60年代のチベット・ヒマラヤ番組を調べていて意外だったのは、ブータンおよびシッキムに関する番組が思いのほか多いこと。ブータン番組は別の機会に譲るとして、今回紹介するのはシッキムについての番組。
シッキム(Sikkim/འབྲས་མོ་ལྗོངས་/'bras mo ljongs)は1975年にインドに併合されてしまいましたが、それまでは王国として独立していました(インドの保護国ではあった)。インド/チベットにはさまれたヒマラヤの小国として、ネパール、ブータンと似たポジションでした。
そのシッキムに1959年、半年間留学した日本人がいたのです。それも女性。その方をフィーチャーした番組がこれです。
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シッキムから帰って
1959年秋(20分) 日本テレビ
出演:和田若菜(早稲田大学生、25歳)。
和田さんは1958年、アルバイト先のホテルで来日中のシッキム王国ペンデン・トンドゥプ・ナムギャル(དཔལ་ལྡན་དོན་གྲུབ་རྣམ་རྒྱལ་/dpal ldan don grub rnam rgyal)皇太子(後に国王)と知り合った。翌1959年シッキムに招待され、2月から半年ほど国営チベット学院の留学生として滞在。主に教育制度について見て回った。番組では、滞在中の体験やシッキムの教育について語ったものと思われる。
参考:
・朝日新聞.
・和田若菜(1959)女子学生・ひとり中印国境を行く シッキムの教育事情見聞記. 朝日新聞1959/11/18夕刊.
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1959年といえば、ラサ蜂起~ダライ・ラマ法王亡命という大きな事件があった年です。2012年3月10日土曜日 チベット・ヒマラヤTV考古学(1) 1959年ラサ三月蜂起~ダライ・ラマ法王亡命関連番組 で紹介した産経新聞記者の報道も、チベット本土には入れないので、シッキムでその余波を観測する、というものでした。チベットの政治・文化を知る上で、当時のシッキムは今では考えられないほど重要なポジションにあったのです。
和田さんの留学はその事件とは関係はないものの、当時の騒然とした空気を近くで感じることのできた貴重な日本人の一人です。新聞寄稿記事にはこの事件に関する記述はわずかですが、紙面の制限上書けなかったことや意識的に避けた内容もあったと推測します。それよりもやはり、和田さんの興味の中心が教育制度にあったことは間違いないでしょうが。
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和田さんをシッキムに招いたペンデン・トンドゥプ皇太子とは、のちの国王。そう、米国人女性Hope Cookeを王妃に迎え、また独立シッキム最後の王となった方です。
1958年、皇太子の来日目的は日本産業の視察、とのこと。当時、ホテルの電話交換手としてアルバイトをしていた和田さんが皇太子の買物を手助けし、「シッキムに一度行ってみたい」と軽く漏らしたところ、意外にも1959年1月に招待状が送られてきて留学の運びになったようです。
当時はUS$1=360円、外貨持出額にも制限があったはずです。その中で未知のシッキムに半年間女性一人で向かうとは、その行動力と決断力には驚くばかりです。招待状を受け取って翌月には出発という早業にも驚きです。
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ガントク(Gangtok/སྒང་ཏོག/sgang tog)郊外のチベット学院(チベット学研究院/Namgyal Institute of Tibetology/རྣམ་རྒྱལ་བོད་ཀྱི་ཤེས་རིག་དཔེ་མཛོད་ཁང་/rnam rgyal bod kyi shes rig dpe mdzod khang)留学生ということですが、和田さんはシッキム語(チベット語シッキム方言/འབྲས་ལྗོངས་སྐད་/'bras ljongs skad)やレプチャ語が話せるわけではないので、チベット学やシッキム民俗を研究したのではありません。チベット学院自体も創設されたばかりで、みるべき資料はほとんどなかったといいます(現在は充実)。
和田さんは、ガントク周辺を中心として、小中高、そして大学の教育事情を見て回りました。寄稿記事の内容も、大半はその教育制度についてでした。
教育問題というのは生モノです。教育事情も今では大きく変化していますし、何よりも国がなくなりインドに併合されているのですから、教育の方向性も根本から変化してしまったでしょう。その記事の内容も今では古びてしまいました。しかし当時の政情や、現在は失われた習俗など、今でも価値の高い情報も未発表のままたくさん保持しておられるのではないか、と推測します。
和田さんに関する資料は、前述の新聞記事しか見つかりません。1959年のシッキムですから、記事一本だけではもったいない。もっといろいろなことを知りたい読者は、たくさんいるはずです。今からでも遅くありませんから、機会があればぜひ何らかの形で発表していただきたいものです。
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和田さんは、1959年に25歳ということは現在78歳。もしお話を聞くとすればなるべく早い方がいいでしょう。いや、水木サンのように90歳以上まで長生きしていただければ、チャンスはまだいくらでもありますが。
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(追記)
1950年代にシッキムを訪れた日本人としては、中根千枝先生の方が有名です。1953~56年(細かくは知らない)のことでした。
和田さんのシッキム留学があまり注目されなかったのは、もしかすると中根先生のインパクトが強すぎたのかもしれません。
中根先生のシッキム訪問・研究については、
・中根千枝 (1958) Sikkimにおける複合社会(Lepcha,Bhutia, Nepalee)の研究. 季刊民族学研究, vol.22, no.1+2[1958/03], pp.15-64.
・中根千枝 (1959) 『未開の顔・文明の顔』. 中央公論社, 東京. → 再発: (1962)普及版. 中央公論社, 東京./(1970)中央公論社, 東京./(1972)角川文庫, 東京./(1990)中公文庫, 東京.
を参照して下さい。
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