2017年4月4日火曜日

チャンキャ・リンポチェ来日

3月初めに、こういうニュースがありました。

・RFA 自由亜洲電台普通話 > 中国 > 軍事外交 > 南洲, 嘉華・責編/達頼喇嘛確立的第20世章嘉活佛訪問日本(2017-03-01)
http://www.rfa.org/mandarin/yataibaodao/junshiwaijiao/nz-03012017102254.html

チャンキャ・リンポチェ8世(20世という数え方もある)がひっそりと来日されていたようです。

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チャンキャ・リンポチェ ལྕང་སྐྱ་རིན་པོ་ཆེ་ lcang skya rin po che(モンゴル語 : ジャンジャ・フトクト 章嘉呼図克図)は、ゲルクパのトゥルク大名跡。アムド~南モンゴル、そして清朝皇帝から尊敬を集めたトゥルク སྤྲུལ་སྐུ sprul sku(化身ラマ)である。

チャンキャ・リンポチェの転生系譜をどう数えるかは錯綜しており、現チャンキャ・リンポチェは5世、7世、8世、20世と様々。ここでは8世説をとっておく。

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この場合の1世ダクパ・ウーセル གྲགས་པ་འོད་ཟེར་ grags pa 'od zer 扎巴俄色/哲巴鄂色爾(1607-41)は、アムド・ツォンカ ཨ་མདོ་ཙོང་ཁ་ a mdo tsong kha 湟中の張家村に生まれた。よって、トゥルク名跡名は「張家=zhang jia→モンゴル語/チベット語アムド方言:ジャンジャ→チベット語ウー・ツァン方言:チャンキャ」となった。

ウー・ツァン方言での「キャ ཀྱ kya」は、アムド~カムでは「チャ/ヂャ/ジャ」と発音されるので、「ジャ」を転写するのに「kya」を使ってもいいのである。

ダクパ・ウーセルは、ゴンルン・チャンパリン・ゴンパ དགོང་ལུང་བྱམས་པ་གླིང་དགོན་པ་ dgong lung byams pa gling dgon pa 佑寧寺(青海省互助土族自治県内、西寧の北東約30km)で修行した後、ラサ ལྷ་ས་ lhasa 拉薩のデプン・ゴンパ འབྲས་སྤུངས་དགོན་པ་ 'bras spungs dgon pa 哲蚌寺のゴマン・タツァン སྒོ་མང་གྲྭ་ཚང་ sgo mang grwa tshangやツァン西部のンガムリン・ゴンパ ངམ་རིང་དགོན་པ་ ngam ring dgon pa 昂仁寺で修行。アムド帰郷後はゴンルン寺僧院長を務めた。

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ダクパ・ウーセルの遷化後、代々転生者が選ばれるようになり、これがチャンキャ・リンポチェの系譜となる。

2世ンガワン・ロサン・チューデン ངག་དབང་བློ་བཟང་ཆོས་ལྡན་ ngag dbang blo bzang chos ldan 阿班羅桑曲殿(1642-1715)は、17世紀末、清朝皇帝・康煕帝[位:1661-1722d]に北京に招かれ大いに信任を得た。

ジューンガル部のガルダン・ボショクト・ハーン 噶爾丹博碩克図汗による侵略を避けて清朝に帰順したモンゴル諸部に対し、康熙帝はその鎮撫の一環として、その地に多くのチベット仏教寺院を建立。南モンゴル・ドロンノール(多倫)には、後に内外モンゴル最大の寺となる彙宗寺を建立し、チャンキャ・リンポチェを僧院長に置いた。

以後、チャンキャ・リンポチェはアムドに加えて南モンゴルでも大きな影響力を持つようになる。

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チャンキャ・リンポチェで最も有名なのが3世ルルペ―・ドルジェ རོལ་པའི་རྡོ་རྗེ་ rol pa'i rdo rje 若白多傑(1717-86)。

1723~24年の青海ホシュート部ロブザン・ダンジン བློ་བཟང་བསྟན་འཛིན་ blo bzang bstan 'dzin 羅卜蔵丹津の乱では、清朝軍によりアムド各地の寺が破壊されたが、清朝皇帝・雍正帝[位:1722-35d]は、幼いチャンキャ3世をゴンルン寺から保護するよう命じ、北京に招いた。チャンキャ3世は、以後主に北京で修行・活動することになる。

乾隆帝[位:1735-96d]はチャンキャ3世を導師として崇め、ラサ政府との連絡役としても重宝された。北京では雍和宮に在住。以後、ここが北京のチベット仏教の拠点となる。

チャンキャ・リンポチェ4~7世は、アムド、南モンゴル、北京を行き来しつつ、これらの地域で絶大な影響力を誇った。

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7世ロサン・ペンデン・テンペイ・ドンメ བློ་བཟང་དཔལ་ལྡན་བསྟན་པའི་སྒྲོན་མེ་ blo bzang dpal ldan bstan pa'i sgron me 羅桑般殿丹畢蓉梅(1891-57)の時代、1912年清朝は崩壊、中華民国が成立した。蒋介石の北伐完了(1928年)後、7世は蒙藏委員会委員を務めるなど、国民党政府の要職を歴任。第二次世界大戦後は護国浄覚輔教大師の称号を授与された。

しかし、1946~49年の国共内戦で、国民党が共産党に敗れると、蒋介石と共に1949年台湾に移った。台湾・中華民国でも中国仏教会理事長を務めたが、1957年遷化。

7世の遷化後、転生者の選出は長らく行われなかった。

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それが実は、間はあいたが8世の選出が行われていたようなのだ。インドへ亡命中のゲルクパ中枢、特にダライ・ラマ法王により8世の選出が行われている。

8世はアムド・ツォンカ出身のテンジン・ドンヨー・イェシェ・ギャムツォ བསྟན་འཛིན་དོན་ཡོད་ཡེ་ཤེས་རྒྱ་མཚོ་ bstan 'dzin don yod ye shes rgya mtsho師(1980-)。ゴンルン寺で修行し、1998年インドへ亡命。そして、同年にいきなりチャンキャ・リンポチェの転生者と認定されている。

おそらくゴンルン寺在籍当時から、密かにチャンキャ・リンポチェの転生者として認知されていたのだろう。そしてインド亡命後すぐに、ゲルクパ高僧たち及びダライ・ラマ法王によって、それが追認されたのではないかと思う。

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この認定には、中国共産党、南モンゴル(内蒙古自治政府)、台湾・中華民国政府はいずれも関与していないし、連絡も受けていないはず。これはハルハ(現・モンゴル国)第一のトゥルクであるジェツン・ダムパ・リンポチェ(ジェプツン・ダムパ・フトクト)9世選出のケースと似ている。

ジェツン・ダムパ・リンポチェ9世について詳しくは、

2012年3月5日月曜日 ハルハ・ジェツン・ダムパ・リンポチェ遷化(2012年3月1日)

を参照のこと。

しかし、ジェツン・ダムパ・リンポチェもチャンキャ・リンポチェも、もともとはチベットでのトゥルク名跡なのだ。

たまたま政治的な役割が大きくなり、過去に内外モンゴルの政治に深く関与するようになってしまっただけなので、それらの地域で政治的な存在としてのトゥルク名跡は不要、と判断するのならば、それはかまわない。

チベット仏教ゲルクパのトゥルク名跡として、宗派が転生者を選出するのは何の問題もないし、トゥルク名跡を終わりと決めた(そんな判断はそもそも筋違いなのだが)よその政治家たちに相談したり知らせる必要も全くない。

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私が「どうもチャンキャ・リンポチェの転生者がいるらしい」と聞いたのは2000年頃。南インドのデプン・ゴンパ・ゴマン・タツァンで修行中とのことだった。

その後、表立った活動は聞いたことがなかったが、ついに表舞台に登場された。で、ようやく最初に挙げた記事になる。

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来日の目的や(いるとすれば)スポンサーなどは、記事からはよくわからないが、高野山や東大寺を訪問されたそうだから、宗教目的の訪問と理解した。

表舞台に登場して最初の記事が、政治的な内容であるのは、ちょっと複雑な気持ちになる。このニュースサイトの性格からして、記事の内容が政治的なものになってしまうのは、しかたがないところだが・・・。

記事は、チャンキャ・リンポチェが、2016年11月に結成されたばかりの南モンゴル・クリルタイ(南モンゴル議会/オンニュート・モンゴリアン・イフ・フラルダイ/南蒙古大呼拉爾)のメンバーと会った際の様子を報告するもの。「法会」とも表記されているので、宗教的なお話もされたのでしょう。

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ただし、チャンキャ・リンポチェが同クリルタイの活動に以前から興味を持っていたのは確からしく、南モンゴル・クリルタイの公式サイト

・南モンゴルクリルタイ公式サイト(since 2016/11)
http://southmongolia.org/

を見ると、クリルタイ結成にあたって祝辞を寄せてもいる。

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チャンキャ・リンポチェは「五台山にも行ってみたい」とお話されているが、それはチャンキャ・リンポチェの先世が五台山に寺院を建立されているから。五台山は文殊菩薩の聖地であり、チベット仏教色も濃い場所なのです。

現状では、里帰りの形であっても中国に戻るのはむずかしいかもしれないが、いずれ中国訪問あるいは帰郷がかない、それがチベット人、モンゴル人、漢族のいずれにも歓迎される形であってほしいものです。

チャンキャ・リンポチェという名跡は、それを可能にする力を持っていると思っています。

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参考 :

・菅沼晃 (2004.7) 『モンゴル仏教紀行』. pls.+viii+245+9pp. 春秋社, 東京.
・一般社団法人 文殊師利大乗仏教会དཔལ་ལྡན་འབྲས་སྤུངས་བཀྲ་ཤིས་སྒོ་མང་འཇམ་དབྱངས་ཐེག་ཆེན་ཆོས་ཚོགས་ > GOMANG デプン・ゴマン学堂 > 僧院教育 化身ラマの教育(作成日: 2010-07-26 最終更新日: 2016-07-03)
http://www.mmba.jp/gomang/education/lamaeducation
・維基百科 自由的百科全書 >章嘉呼図克図(本頁面最后修訂于2016年12月15日 (星期四) 02:57)
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%A0%E5%98%89%E5%91%BC%E5%9B%BE%E5%85%8B%E5%9B%BE
・The Treasury of Lives > People > Incarnations > Incarnation Lines : Changkya (as of 2017/04/01)
http://treasuryoflives.org/incarnation/Changkya

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(追記)@2017/04/07

今回の来日での講演会の告知がありました。今更ですが。

・りたりたゆうこうかいfacebook > 2月25日サンギャ・ホトクト法話会@東京 公開 · 主催者: りたりたゆうこうかい((2017年)2月17日)
https://www.facebook.com/events/1820966324824812/?acontext=%7B%22ref%22%3A%223%22%2C%22ref_newsfeed_story_type%22%3A%22regular%22%2C%22action_history%22%3A%22null%22%7D

もう一つありました。

・モンゴル自由連盟党 > アーカイブ > 2016年3月 > 4月9日大阪にて「インド訪問報告」、ダイチン代表が報告します(03/07 2016) > インド訪問報告(PDF)
http://lupm.org/japanese2/wp-content/uploads/2016/03/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E8%A8%AA%E5%95%8F%E5%BA%83%E5%91%8A%E4%BF%AE%E6%AD%A3%E6%9C%80%E5%BE%8C02.pdf

これによると、今回の来日はモンゴル仏教会と南モンゴル自由民主運動基金会(おそらく南モンゴルクリルタイの前身)による招聘であったことがわかります。

2017年3月31日金曜日

カルマパ17世タイェー・ドルジェ師が結婚して還俗

というニュースが出ました。

・共同通信PRワイヤー > 2017年3月30日 Private Office of the 17th Karmapa カルマパ聖下が内輪の結婚式挙行を発表 AsiaNet 68000 (0465) 【ニューデリー2017年3月29日PR Newswire=共同通信JBN】
http://prw.kyodonews.jp/opn/release/201703300451/

といっても、これはニュースではなく、共同通信が宣伝/プレスリリースのスペースを売っているサイトのようです。いろんな言語で同じ記事があちこちに出ていました。

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また、このカルマ・カギュパの管長(となるはずの方)ギャワ・カルマパは、有名なギャワ・カルマパ17世ウギェン・ティンレー・ドルジェ師ではありません。

実はカルマパ17世は二人いるのです。


カルマパ17世ティンレー・タイェー・ドルジェ師(2000年当時)

例によって、ヒマーチャル・ガイドブックの没原稿を使って説明しときましょう。情報は2001年時点のもの。

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二人のカルマパ17世

チベット仏教四大宗派の一つカギュパ བཀའ་རྒྱུད་པ་ bka' rgyud paは、大小さまざまの小宗派に分かれている。このうちの最大勢力がカルマパ ཀརྨ་པ་ karma pa(カルマ・カギュパ ཀརྨ་བཀའ་རྒྱུད་པ་ karma bka' rgyud pa)。管長であるギャワ・カルマパ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་ rgyal ba karma paは12世紀から続くチベット最古の転生ラマ(トゥルク སྤྲུལ་སྐུ sprul sku)系譜(1世はカルマパ開祖ドゥースム・キェンパ དུས་གསུམ་མཁྱེན་པ་ dus gsum mkhyen pa(1110-93))。チベット本土での総本山はラサ西方にあるツルプー・ゴンパ མཙུར་ཕུ་དགོན་པ་ mtsur phu dgon pa。

1959年のチベット動乱でダライ・ラマ法王がインドに亡命すると、これに続いて多くの高僧がチベットを脱出した。カルマパ16世ランジュン・リクペー・ドルジェ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་དྲུག་པ་རང་འབྱུང་རིག་པའི་རྡོ་རྗེ་ rgyal ba karma pa sku 'phreng bcu drug pa rang 'byung rig pa'i rdo rje (1924-81)もその一人。16世はシッキムのルムテク・ゴンパ རུམ་ཐེག་དགོན་པ་ rum theg dgon paを本拠地に教団を再建。海外での布教には特に力を入れ、欧米人信徒を多数獲得するなど成功を収めた。

1981年、16世は急逝。カルマパ教団は4人の摂政により運営される。転生者はなかなか見つからなかったが、摂政の一人タイ・スィトゥ・リンポチェ(タイ・スィトゥパ)12世ペマ・ドンヨー・ニンジェ・ワンポ  ཏའི་སི་ཏུ་རིན་པོ་ཆེ་(ཏའི་སི་ཏུ་པ་)སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་གཉིས་པ་པདྨ་དོན་ཡོད་སྙིང་རྗེ་དབང་པོ་ ta'i si tu rin po che (ta'i si tu pa) sku 'phreng bcu gnyis pa padma don yod snying rje dbang po(1954-)が発見した遺言状をきっかけに捜索が進展。1992年、東チベット(カム)・チャムド ཆབ་མདོ་ chab mdo昌都県ラトク  ལྷ་ཐོག lha thog 拉多近郊に住む牧民一家に転生者が発見された。

この少年アポ・ガガ ཨ་པོ་དགའ་དགའ་ a po dga' dga'は、中国政府・チベット亡命政府双方により公式にカルマパ17世ウギェン・ティンレー・ドルジェ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་བདུན་པ་ཨོ་རྒྱན་འཕྲིན་ལས་རྡོ་རྗེ་ rgyal ba karma pa sku 'phreng bcu bdun pa o rgyan 'phrin las rdo rje(1986-)として認定され、ツルプー寺で即位した。


カルマパ17世ウギェン・ティンレー・ドルジェ師(2000年当時)

しかし摂政の一人で、先代16世の甥でもあるシャマル・リンポチェ(シャマルパ)14世ミパム・チューキ・ロドゥ ཞྭ་དམར་རིན་པོ་ཆེ་(ཞྭ་དམར་པ་)སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་བཞི་པ་མི་ཕམ་ཆོས་ཀྱི་བློ་གྲོས་ zhwa dmar rin po che (zhwa dmar pa) sku 'phreng bcu bzhi pa mi pham chos kyi blo gros(1952-2014)は、1990年以来独自に転生者を擁立し、この選択に異議を唱え続けている。これが「もう一人のカルマパ」17世ティンレー・タイェー・ドルジェ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་བདུན་པ་འཕྲིན་ལས་མཐའ་ཡས་རྡོ་རྗེ་ rgyal ba karma pa sku 'phreng bcu bdun pa 'phrin las mtha' yas rdo rje(1983-)である。ツルプー近郊に生まれたこの少年はシャマルパにより密かにインドへ迎えられていた。

一般には17世として公認されているウギェン・ティンレー・ドルジェ師への支持が圧倒的に多いが、タイェー・ドルジェ師とシャマルパ側を支持する人々も無視できない数にのぼる。

ツルプー寺で修行を積んでいたウギェン・ティンレー・ドルジェは、2000年1月突如チベット亡命政府のあるダラムシャーラーに現われ世界を驚かせた。実質的な亡命である(2001年インド政府により公式に難民認定された)。

2002年1月現在、16世の本拠地であったルムテク寺にはどちらのギャワ・カルマパも入っておらず、跡目争いの決着はまだ先のようだ。

この騒動については、

・田中公明(2000.4)『活仏たちのチベット』. ii+210pp. 春秋社, 東京.

に詳しい。

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タイェー・ドルジェ師の本拠地は、New Delhi南部にあるカルマパ国際仏教学院Karmapa International Buddhist Institute(KIBI)。

・KIBI Karmapa International Buddhist Institute(since 1990)
http://www.kibi-edu.org/

こちらもヒマーチャル・ガイドブック没原稿から。

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カルマパ国際仏教学院 Karmapa International Buddhist Institute(KIBI) ཀརྨ་པ་རྒྱལ་ཡོངས་ནང་པའི་གཙུག་ལག་མཐོ་སློབ། karma pa rgyal yongs nang pa'i gtsug lag mtho slob/

いわゆるもう一人のカルマパ17世ティンレー・タイェー・ドルジェ師と彼を擁立したシャマル・リンポチェが主宰する仏教学院。1979年の創建(現在の建物は1994年)。

New Delhi南部、Institutional Areaにある(Qutab Hotel裏手)。クトゥブ・ミナールの観光と組み合わせて訪れるとよい。

ここでは主に外国人を対象にした仏教のレクチャーが長期コース(数年)・短期コースで開催されている。寺院は広い集会堂にシャカ像があるだけのシンプルな造り(2001年当時)。周囲は研修生の宿舎。

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というわけだが、この後、シャマル・リンポチェ14世が2014年に遷化し、タイェー・ドルジェ師のニュースもあまり聞かなくなった、と思っていた矢先のこのニュースでした。

結婚されたということは、破戒となるため僧籍には居られません。よって還俗されることになります。

といっても、チベット仏教、特にニンマパ/カギュパ/サキャパには俗人のリンポチェはたくさんいらっしゃいます。還俗されて、宗教活動もやめてしまわれる方もいますが、その多くは行者として宗教活動を続けます。

特にギャワ・カルマパという大名跡で、カルマ・シャマルパ教団のトップですから、やめられないでしょう。

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しかし、よくこれが許されたものです。タイェー・ドルジェ師の意志がよっぽど強かったのでしょう。

何はともあれ、まずは、おめでとうございました、とお祝い申し上げます。

2017年3月14日火曜日

広島大学ンガリー天文台(続報)

2016年10月5日水曜日 広島大学ンガリー天文台

で、ンガリー མངའརིས་ mnga' ris 阿里地区に広島大学が設置した望遠鏡について触れましたが、この場所については、中国のニュースサイトでも多数報じられています。

・万花鏡 > 探索 > 阿里啓動 : 将建世界最高原初引力波観測站 2016年12月13日 来源: 互聯网
http://m.wanhuajing.com/d661883

もとは科学網の記事らしいのですが、本家記事にアクセス出来ないので配信記事の方を紹介。

当サイトでも紹介した、観測基地への道路工事の様子の写真がありますね。相当大変そう。

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ここには、広島大学の望遠鏡だけではなく、中国側の望遠鏡も置かれているようだ。

この記事でちょっと不思議に思ったのは、「引力波望遠鏡」という記述。引力波とは、一般に言う重力波のこと。

しかし、2016年2月に発表されたUSA LIGO(Laser Interferometer Gravitational-Wave Observatory/レーザー干渉計重力波観測所)による史上初の重力波イベント観測は、マイケルソン干渉計によるもの。これは重力波による空間の歪みを観測するもので、天候の影響は受けないはず。

同様にマイケルソン干渉計を使った日本の重力波観測所KAGRAなどは、岐阜県神岡鉱山跡の地下に建設されているし。

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実は、ここでいう重力波は、2016年に観測された2つのブラックホールの合体によって発生した重力波とは別の重力波の観測を目指している。それが原始重力波。

これは、ビッグバンの38万年後に生じた宇宙の晴れ上がり時の光=宇宙マイクロ波背景放射の偏光分布を調べることで、ビッグバンの直前に宇宙が爆発的に拡大した現象(インフレーション)の痕跡を探ろうというもの。

とまあ、自分でも実はよく理解していないのだが(笑)。

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原始重力波についてはここらへん↓でお勉強をどうぞ。

・大栗博司のブログ > 2014年03月17日 原始の重力波
http://planck.exblog.jp/21835733/
・日経サイエンス > バックナンバー > 2016年 > 日経サイエンス 2016年5月号 大特集:重力波 > L. M. クラウス(アリゾナ州立大学)/ビッグバンから上がるのろし 原始重力波に挑む
http://www.nikkei-science.com/201605_058.html
・一般社団法人 日本物理学会 > 刊行物 > 日本物理学会誌 > バックナンバー目次 > 2017年第3号 > 山口昌英/原始重力波とは何か? その検出がなぜ大事なのか?
http://www.jps.or.jp/books/gakkaishi/2017/03/72-03_trends.pdf

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なお、中国の記事では、日本や広島大学についてはいっさい触れられておりません。ありがちだなあ。

また、広島大学のHinOTORIプロジェクトが、中国の原始重力波観測プロジェクトとどう連動するのか、よく理解しておりません。単に場所が同じ所で、観測場所と建設費用を共同で賄っているだけかもしれません。

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広島大学のHinOTORIプロジェクトは、重力波観測に関係したプロジェクトではあっても、KAGRAと連動したプロジェクト。LIGOが観測した現象と同じような、ブラックホールなどの合体で生じた重力波がKAGRAで観測された場合に、その対象天体を探し出す目的で設置されています。

マイケルソン干渉計による重力波観測では、観測に成功しても、重力波がやって来た方向については、非常におおざっぱにしかわからない。それで、重力波観測直後に、その発生源天体を探索したり、重力波天体によるガンマ線バーストを観測するのがHinOTORIプロジェクト目的だという。

すごくおもしろそうですね。

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ところで、HinOTORIプロジェクトのwebsite

・HinOTORI : Hiroshima University Operated Tibet Optical Robotic Imager(as of 2017/03/13)
http://hinotori.hiroshima-u.ac.jp/

などで、しきりにこの観測所のことを「ガー山」と呼んでいるのだが、これいったいなんだろう?と思っていた。

それが、

・京都大学理学研究科 宇宙物理研究所 > 研究・教育活動 京大 岡山3.8m望遠鏡計画 > 新着情報 2013年3月12~13日 サイエンス・装置WSを行いました。内容はこちら。 > 佐々木敏由紀+吉田道利+姚永強/西チベット天体観測環境調査の紹介と京都3.8mレプリカ設置の可能性
http://www.kusastro.kyoto-u.ac.jp/psmt/instWS/1st_instWS/1st_sasaki.pdf

を見たら、ようやく理解できた。

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「ガー山」とは、「ガル སྒར་ sgar(近く)の山」のことでした。観測所すぐ南を流れている河がIndus河(センゲ・ツァンポ སེང་གེ་གཙང་པོ་ seng ge gtsang po 獅泉河)の支流であるガル・ツァンポ སྒར་གཙང་པོ་ sgar gtsang po噶爾藏布。

ガルとは「天幕」あるいは「幕営地」のことです。

西チベットに栄えたグゲ(གུ་གེ gu ge古格)王国は、1630年、Ladakh王国に滅ぼされ、旧グゲ領はLadakhに占領されます。しかし17世紀後半になると、チベットを統一したグシ・ハーン王家+ダライ・ラマ政権とLadakh王国との間で戦争が勃発(1679~83年)。

終始押し気味に戦争を進めたチベット側が講和後、占領した旧グゲ領をそのまま併合。ラサからはガルポン སྒར་དཔོན་ sgar dponと呼ばれる役人が派遣され、旧グゲ領を統治します。

その役人の駐在地を「ガル(幕営地)」と呼んだのです。名称としてはそっちが先で、役職名ガルポンは「ガルに駐在した役人」という意味になります。

ガルは、ガル・ツァンポ上流(南東側)にある夏営地ガリヤサ སྒར་དབྱར་ས་ sgar dbyar sa噶爾雅沙と、下流(北西側)にある冬営地ガル・グンサ སྒར་དགུན་ས་ sgar dgun sa 噶爾昆薩の2箇所あり、両者間は約100km離れています。単にガル(あるいはガルトク སྒར་ཐོག sgar thog噶爾大克)といえば、一般には夏営地ガリヤサの方を指します。

どちらも、当時ンガリーの中心地だったとは思えないほど、今は寂れた村です。それもそのはず。「ガル(幕営地)」の名の通り、もともとそこには町らしい町はなく、天幕の集合体だったから。

天体観測所のある場所は、ガル・グンサのすぐ近くです。

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というわけで、もともと名前などなかった場所に「ガル(近くの)山」と名前をつけたと思われます。

ところが、「Gar」を英語風に読んだものだから、「ガー山」になってしまったわけです。またもや「英語風読み」が悪さをしています。

いまさら「ガー山」を「ガル山」と変更できないかもしれませんが、本来は「ガル」である、というのは覚えておいてください。