2012年2月10日金曜日

青唐王国関係論文リスト の巻

まだブルシャ話の途中ですが、一息ついたところで、青唐王国の話題をはさみます。

青唐王国とは、11世紀にアムドのツォンカに栄えたチベット系の王国です。その祖である唃厮囉(rgyal sras)は、吐蕃王家の末裔に当たります(注)。

この王国については、チベット好きの間でもあまり知られていません。せいぜい、山口瑞鳳氏の著作で簡単に触れてあるのを見たかなあ、というケースが多いでしょう。

そこでは「仏教王国吐蕃の再現」といった褒め言葉で語られていますが、その政権基盤は脆弱でした。最盛期であるはずの唃厮囉時代ですら三つに分裂していたくらいです。また、山口書では青唐王国の末路について言及されていません。

青唐王国は、東隣りの西夏と対立。そのせいもあり北宋と協力していましたが、内紛のあまりのグダグダぶりに「対・西夏の牽制役として失格」との烙印を押され、最後はその北宋に滅ぼされてしまいます(12世紀初)。

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この王国の歴史については、チベット史の分野では珍しく一から十まで漢文史料頼みで研究がなされています。具体的には『宋史』、『続・資治通鑑長編』、『宋会要輯稿』などが主な史料。

逆にチベット語史料では、この王国についてほとんど記録がなく、歴史を追うことができない状態です。唯一、「タシ・ツェクパ・ペルの孫ティデ(khri lde)がアムドのツォンカに行った」という記録が諸仏教史に残っていますが、この系譜についての続報はありません(追記参照)

「唃厮囉=ティデ」なのか?というと、私は「そうではない」と考えているのですが、この話題を始めるとすぐには終わらないので、今は立ち入らないことにします。

ただ、チベット語史料も近年意外なものが続々発見/再発見されているので、もしかすると青唐関連の史料も何か出てきているのかも?と期待もしています。アムド事情にはすべてに疎いので、もしそういう話題をご存知の方がいらしたら教えてください。

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今回のテーマですが、その青唐王国に関する論文のリストです。日本語のものが中心です。中文、欧文のものがたくさん抜けているであろうことは承知していますが、今回はご容赦を。ご指摘があればもちろん反映させていただきますので、抜けに気づかれた方はご一報を。

なぜ今このリストを示すのかというと、この分野では日本の二大巨頭である岩崎先生と鈴木先生の研究も20年ほど前に一段落。しかし、その結果は単行本などのまとまった形にはなっていません。チベット通史の中でもほぼ忘れ去られている状態。

で、これを機会に、既存論文を並べるだけでもいいからどこかで単行本化してくれないもんかなあ、というのが目論見です。日本チベット学会が論集のような形で出してくれればいいんですが、どうも同学会がそういった活動をした形跡はないようなので望み薄か・・・。

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・中島敏(1934)西羌族をめぐる宋夏の抗争.歴史学研究,vol.1,no.6.
・榎一雄(1940)王韶の煕河経略に就いて.蒙古学報,no.1.
・長澤和俊(1956)吐蕃の河西進出と東西交通.史観,no.47.
・長澤和俊(1960)遼代吐蕃遣使考.史観,no.57・58.
・前田正名(1964)『河西の歴史地理学的研究』.吉川弘文館.
・岩崎力(1974)西涼府潘羅支政権始末考.東方学,no.47.
・岩崎力(1975)西涼府政権の滅亡と宗哥族の発展.『鈴木俊先生古稀記念東洋史論叢』収録.山川出版社.
・岩崎力(1978)宗哥城唃厮囉政権の性格と企図.中央大学アジア史研究,no.2.
・鈴木俊一(1982)青唐をめぐる交通路.早稲田大学大学院文学研究科紀要 別冊,no.8.
・鈴木俊一(1983)青唐阿里骨政権の成立と契丹公主.史滴,no.4.
・鈴木俊一(1984)古代の河西通過路について.安田学園研究紀要,no.24.
・鈴木俊一(1985)「ゲルセ」-青唐吐蕃王国の王号-.安田学園研究紀要,no.25.
・岩崎力(1986)西夏建国と宗哥族の動向.『中村治兵衛先生古稀記念東洋史論叢』収録.刀水書房.
・岩崎力(1987)宋代河西チベット族と佛教.東洋史研究,vol.46,no.1.
・鈴木俊一(1987)青唐吐蕃唃厮囉王家と青海諸部族の動向 ~とくに喬氏を中心として~.安田学園研究紀要,no.27.
・鈴木俊一(1988)青唐大酋青宜結鬼章と煕河.安田学園研究紀要,no.28.
・祝啓源(1988)『唃厮囉-宋代藏族政権』.青海人民出版社,西寧.
・IWASAKI Tsutomu(1993)The Tibetan Tribes of Ho-hsi and Buddhism during the Northern Sung Period.Acta Asiatica,no.64.→ Reprinted IN : Alex McKay(ed.)(2003)HISTORY OF TIBET, VOLUME TWO.Routledge Curzon.
・陳光国(1997)『青海藏族史』 第四章 宋代的唃厮囉(公元960年-1279年).青海民族出版社,西寧.
・Bianca Horlemann(2007)The Relations of the Eleventh-Century Tsong kha Tribal Confederation to Its Neighbour States on the Silk Road.IN:Matthew T.Kapstein+Brandon Dotson(ed.)(2007)CONTRIBUTIONS TO THE CULTURAL HISTORY OF EARLY TIBET.Brill,Leiden.

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(注)
詳しく述べると、ランダルマ王の二子ユムテンとウースンのうちのウースン系の子孫です。ウースンの子がペルコルツェン、その二子はキデ・ニマゴンとタシ・ツェクパ・ペル。唃厮囉は、後者タシ・ツェクパ・ペルの子孫になります。なお、ニマゴンの子孫がラダック王家、グゲ王家になります。

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(追記)@2012/02/12
khri ldeの子孫については、『紅史』、『王統明示鏡』にその一人としてspyan snga don chenが、『新紅史』にはlha don po cheが現れます。この人物は、漢文史料の、唃厮囉の息子の一人で第二代青唐王・董氈[位:1065-83d]であるのは確実です。しかしチベット語史料では、その続報はありません。

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