引き続き「新アジア仏教史」を読んでいるわけですが、今回は鎌倉~室町時代の日本仏教。
・松尾剛次+佐藤弘夫+林淳+大久保良峻・編集協力 (2010.5) 『躍動する中世仏教』(新アジア仏教史 12 日本 II). 445pp. 佼成出版社, 東京.
装幀 : 間村俊一
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この巻の特徴としては、これまでの日本仏教研究では大きく取り上げられていた鎌倉新仏教(浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗)の扱いが小さくなっていること。
旧版「アジア仏教史」日本編では、鎌倉新仏教に3巻も当てられていたようだが、それが今回は1巻だけ。
上記宗派の開始は確かに鎌倉時代だが、本格的に勢力が拡大するのは室町時代から、というのがその理由の一つ。鎌倉新仏教の研究が一段落している、ということもあろう。
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今回新たな視点が与えられているのは、これまでは新仏教に対する旧勢力としか評価されていなかった南都仏教勢力、特に「律僧」という教団の動きだ。
・松尾剛次 (2010.5) 第3章 仏教者の社会活動. 『躍動する中世仏教』(新アジア仏教史 12 日本 II)所収. pp.141-186. 佼成出版社, 東京.
南都仏教の中でも奈良西大寺・叡尊(1201-90)とその高弟である鎌倉極楽寺・忍性(1217-1303)を中心とする律宗教団の人々を、「律僧」と呼ぶ。
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それまでは、仏教でも神仏習合が進み、仏僧らですら死穢を嫌い、葬送儀礼を忌避していたというのだ。
そのため、一般庶民はもとより、僧といえども充分な葬送をしてもらえず、野辺に打ち捨てられる、というケースが多かったらしい。
これで、平安時代の街周辺の描写に、死体ゴロゴロというのがいやに多いのがよく理解できた。今の日本仏教からは考えられない姿ですね。
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そこに現れたのが叡尊教団の律僧たち。彼らは「清浄の戒は汚染なし」と主張。つまり「日頃戒律を厳しく守っていれば、それがバリヤーとなって穢れから守られる」という理屈だ。
この理屈で、律僧たちは葬送儀礼に積極的に参入し、葬送儀礼システムを作っていった。
2017年12月12日火曜日 神仏習合の東西/葬式仏教の始まり/変成男子
で紹介した「死後出家」と共に、いよいよ現在の葬式仏教の姿ができあがっていくわけです。
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これと共に律僧たちは、宝塔や骨蔵器の発明なども創始。さらには全国的な港湾管理、道路の建設、寺院の修造/勧進活動などにも従事し、仏教に関わる経済活動でも大きな勢力となっていった。
もう一つ重要なのは、社会慈善運動。律僧が重視したのは非人/ハンセン氏病患者という、「穢れ」を持つとされ差別されていた人々の救済活動。
現在に至る仏教勢力が慈善活動に従事するという動きは、実にここに始まるらしいのだ。
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すごく面白い論考。これまでの研究からは見えてこなかった、現在の日本仏教が形成されるその裏面がよく理解できた。
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本巻の一番最後に収録されているのが
・彌永信美 (2010.5) コラム7 立川流. 『躍動する中世仏教』(新アジア仏教史 12 日本 II)所収. pp.376-379. 佼成出版社, 東京.
「立川流」とは、中世日本に存在したという真言密教の一宗派で、男女の性的結合を用いて即身成仏を達成する教団、とされ、邪教として弾圧され消滅された、というもの。
この論考は、その通説に疑問を呈したものだ。
まず、こういった性的儀式を用いた教団は確かに存在したらしい。
しかし、その性的儀式を行っていた勢力と「真言立川流」というちゃんとした宗派が結びつけられたのは誤解であり、おそらく両者は無関係であろう、というのがこの論考だ。そもそもこの勢力のものと伝えられる法系と、真言立川流の正統な法系は一致しないのだ。
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我々はこの性的儀式を持っていた教団のことを「真言立川流」という名称であり、インド起源の性瑜伽が、変形されて伝わったと思いこんでいたわけだが、どうもよく調べてみると、そんな単純な話ではなさそうだ。
そもそも、これが仏教の一派と言っていいのか?というところから考えてみる必要がありそうだ。
どうもその内容には陰陽道の影響が強いらしいし、中国道教の影響も考える必要がある。
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2017年10月25日水曜日 いまだに「ラマ教」/道教タントラ
で紹介した
・岡田英弘 (2003.7) 『やはり奇妙な中国の常識』(ワック文庫). 234pp. ワック出版, 東京.
← 初出 : 岡田英弘 (1997.10) 『中国意外史』(Shinshokan History Book Series). 253pp. 新書館, 東京.
に記述がある、中国の道教のタントラ密教とこの日本に伝わる「性的儀式の教団」は似ていると思う。
本論考は、この謎の教団についての研究の再出発点になるのかもしれませんね。
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というわけで、この巻もなかなか勉強になりました。
stod phyogsとは、チベット語で「上手方面」の意味。チベットを東西に流れる大河ヤルツァンポの上手側=西部チベット、そしてさらに西の方 にあたります。
2017年12月28日木曜日
2017年12月20日水曜日
古代インド大僧院プランの周辺諸国への展開
2017年11月29日水曜日 ベトナムの密教僧院遺跡
で紹介した、古代インドの仏教大僧院と、それらをモデルにしたチベットのチューコル/チョスコル ཆོས་འཁོར་ chos 'khorの関係。
こういった、平地に外壁で囲んで寺院群を建てるのは、古い僧院、特にグゲ時代(10~12世紀)の僧院が多いです。
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これが、サキャパ支配時代(13~14世紀)になると、僧院はやはりまだ平地に立つのですが、複数階で壁も分厚い要塞のような建築になってきます。
そして、その後は軍事的な役割も果たすようになり、山際、さらには山腹に僧院が広がる形態となります。
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前回は、そのグゲ時代のチューコルの例として、ンガリー མངའ་རིས་ mnga' risのトリン寺 མཐོ་ལྡིང་ཆོས་འཁོར་ mtho lding chos 'khor、スピティ སྤྱི་ཏི་ spyi tiのタボ寺 རྟ་ཕོ་ཆོས་འཁོར་ rta pho chos 'khorを挙げました。
この2つは同じ996年の創建と伝えられているのですが、グゲ王国主導による同年創建のチューコル/チョスコルはもう一つありました。それがLadakh ལ་དྭགས་ la dwagsのニャルマ寺 ཉར་མ་ཆོས་འཁོར་ nyar ma chos 'khor。
Nyarma Choskhor(Google Mapより)
しかし、ニャルマ寺のプランは、トリン寺やタボ寺ほどしっかりしていませんね。外壁の位置も寺院の配置もあまり整然としていません。
むしろチョルテン群の配置に意味がありそうなのですが、ここは現在ほとんど廃墟ということもあり、学術的な調査はほとんど行われていません。
今後の調査・研究に期待しましょう。
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上記3チューコルよりも創建時代は約百年下るLadakhのアルチ・チョスコル ཨལ་ལྕི་ཆོས་འཁོར་ al lci chos 'khorも、地形の制限もあり、あまり計画的なプランではありませんね。
Alchi Choskhor(Google Mapより)
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インドの僧院直系の、トリン寺やタボ寺と似たプランの僧院は中央チベット・ツァン གཙང་ (シガツェ地区)にあります。
まずは、ナルタン版大蔵経で有名なナルタン寺 སྣར་ཐང་དགོན་པ་ snar thang dgon pa(那塘寺)。シガツェ གཞི་ཀ་རྩེ་ gzhi ka rtse(日喀則)の西20km。
ナルタン寺(Google Map)
1153年創建。やはりグゲ時代です。もともとはカダムパの寺でしたが、17世紀にゲルクパ・タシルンポ寺の傘下に入ります。
1960年代には文化大革命で徹底的に破壊され、今も十分には復興していません。特に、チベット随一の権威を誇っていたパルカン དཔར་ཁང་ dpar khang(印経院)が破壊されたのは痛恨の出来事です。
破壊を免れた一部の版木がかき集められ、今は小さなお堂に雑然と保管されています。案内してくれたクショラ སྐུ་ཤོགས་ལགས་ sku shogs lags(お坊さん)も悲しそうな顔でした。
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もう一つやはりツァンの僧院ネニン寺 སྣས་ཉིང་དགོན་པ་ snas nying dgon pa(南尼寺)。ギャンツェの南東10km。
ネニン寺(Google Mapより)
この僧院の歴史は古く、創建は820年と伝えられています。このプランが完成したのがいつかはわかりませんが、やはり11世紀頃に拡張された姿という可能性はあるでしょう。
宗派は、吐蕃仏教(ニンマパ)→超宗派の学院→ゲルクパと移り変わりました。やはり文化大革命で完全に破壊。
名物だった大チョルテンをはじめ、本堂など徐々に復興してはいますが、境内には今も廃墟が累々と広がっています。
ここも今後の調査と復興が期待される場所です。
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以上の僧院は、Vikramashila Mahavihara विक्रमशिला महाविहारを模した僧院と思われますが、チベットの古い僧院と言ったら最も有名なのが、ロカ ལོ་ཁ་ lo kha(山南地区)のサムイェ寺 བསམ་ཡས་ཆོས་འཁོར་ bsam yas chos 'khor(桑耶寺)。
サムイェ寺(Google Mapより)
ここは今まで見てきた僧院とは異なるプランで、円形の外壁に囲まれています。これは「須弥山世界観」を表したもの。
つまり中央のツクラカン གཙུག་ལག་ཁང་ gtsug lag khangを(ス)メルー山 (सु)मेरु पर्वत(須弥山)と見立て、四方のチョルテンを(ス)メルー山を取り囲む東西南北の四大陸と見立てています。
須弥山世界観については、こちらをどうぞ。
・ウィキペディア > 須弥山(最終更新 2017年6月3日 (土) 16:23)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E5%BC%A5%E5%B1%B1
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サムイェ寺のモデルとなったのは、Vikramashilaではなく、Odantapuri Mahavihara ओदन्तपुरी महाविहारと云われています。
Odantapuriは、現在のJharkhand झारखंड州(旧Bihar बिहार州南部)Bihar Sharif बिहार शरीफ़にあったとされていますが、その遺構はいまだ発見されていません。
Bihar Sharifの西側にBadi Pahari बड़ी पहाड़ी(Hiranya Parvat हिरण्य पर्वत)という岩山があります。そこに仏教僧院とみられる遺構が残っています。
Odantapuri Mahavihara ? @Bihar Sharif(Google Mapより)
なお、Stupaのように見えるのは、Tughlaq朝の代官Sayed Ibrahim Malik Baya(?-1339)の墓。
しかし、この遺構がOdantapuri Mahaviharaで、サムイェ寺のモデルになったとはとうてい思えない。似ていない。
おそらく僧院本体があったのは岩山の麓の方で、それは今も街の下に埋まっているのではないかと思います。
今後の調査に期待しましょう。
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VikramashilaやOdantapuriの僧院プランは、チベットの僧院建築に大きな影響を与えていますが、東南アジアの仏教建築にも影響を与えていると思われます。
東南アジアでは、その中心にあるのは寺院ではなく、Stupaになっていますが。
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これはIndonesia Java島のBorobudur Stupa。
Borobudur Stupa(Google Mapより)
見れば見るほどサムイェ寺のプランにそっくりではありませんか。おそらくその大元、モデルとされたのはOdantapuriだったに違いありません。
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また、この周囲をギュッと押し詰めると、Nepal KathmanduのBodhnath Stupaになります。
Bodhnath Stupa(Google Mapより)
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また、Vikramashila型僧院プランの東南アジア的展開は、MyanmarのStupa建築に見ることができます。
これはMyanmar中央部PaganにあるAnanda Stupa。
Ananda Stupa @Pagan(Google Mapより)
PaganにはこういうStupaがもう数え切れないほどあります。
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Vikramashila Mahaviharaでは、中央の寺院と中庭を取り囲むように、外壁沿いに僧坊が並んでいたのですが、これがNepalに行くと、もう少し小規模な形で展開されています。
Nepal KathmanduにたくさんあるNewar仏教僧院は、Baha/Bahiと呼ばれています。
Kwa Bahal @Kathmandu(Google Mapより)
これはその一つKwa Bahal。
中庭の四方を建物が取り囲んでいます。これはもともとは僧坊で、外壁沿いに僧坊が並ぶ、古代インド大僧院のプランを受け継いでいるのです。かなり小規模になっていますが。
外周の建物には、今はこの寺の在家僧(Newar仏教は在家仏教なのです)やその檀家が住んでいます。
寺院は外周の一画にあり、中庭の中央に寺院がある古代インド大僧院のプランからは少し変化していますが、中庭の中央には必ずStupa(NepalではCaitya चैत्य チャイティヤと呼びます)があり、その名残を感じさせます。
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とまあ、思いつくまま古代インド大僧院のプランの周辺諸国への展開を見てきたわけですが、大元はすべてインドにあるのは間違いありません。
というわけで、チベットやラダックの僧院を参拝するにしても、古代インド仏教についての知識を持ちつつ見ると、そのおもしろさが十倍にも百倍にもなるわけです。
とはいえ、インドの仏跡は私は一度も行ったことないんですがね。一度(だけじゃなくて何度でも)行きたいんだけどなあ・・・
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(追記)@2017/12/21
もう一つ、グゲ時代のチューコルとしてコジャ・ゴンパ ཁ་ཆར་དགོན་པ་ kha char dgon pa(科加寺)があります。
コジャ寺(Google Mapより)
外壁に囲まれていますね。しかしこれはごく近年の「再建」だか「新造」だかわからない代物。
1990年代後半、私が訪れた際には外壁などなく、2つの寺院はごちゃごちゃと不規則に建っていた民家の間に埋もれていました。
外壁の形も寺院の向きと不調和で、なにか菱型に歪んでいるし、どうも怪しい。私は、これは僧院を「文化財」として管理するために、特に根拠なく新たに作った外壁と判断しています。
で紹介した、古代インドの仏教大僧院と、それらをモデルにしたチベットのチューコル/チョスコル ཆོས་འཁོར་ chos 'khorの関係。
こういった、平地に外壁で囲んで寺院群を建てるのは、古い僧院、特にグゲ時代(10~12世紀)の僧院が多いです。
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これが、サキャパ支配時代(13~14世紀)になると、僧院はやはりまだ平地に立つのですが、複数階で壁も分厚い要塞のような建築になってきます。
そして、その後は軍事的な役割も果たすようになり、山際、さらには山腹に僧院が広がる形態となります。
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前回は、そのグゲ時代のチューコルの例として、ンガリー མངའ་རིས་ mnga' risのトリン寺 མཐོ་ལྡིང་ཆོས་འཁོར་ mtho lding chos 'khor、スピティ སྤྱི་ཏི་ spyi tiのタボ寺 རྟ་ཕོ་ཆོས་འཁོར་ rta pho chos 'khorを挙げました。
この2つは同じ996年の創建と伝えられているのですが、グゲ王国主導による同年創建のチューコル/チョスコルはもう一つありました。それがLadakh ལ་དྭགས་ la dwagsのニャルマ寺 ཉར་མ་ཆོས་འཁོར་ nyar ma chos 'khor。
Nyarma Choskhor(Google Mapより)
しかし、ニャルマ寺のプランは、トリン寺やタボ寺ほどしっかりしていませんね。外壁の位置も寺院の配置もあまり整然としていません。
むしろチョルテン群の配置に意味がありそうなのですが、ここは現在ほとんど廃墟ということもあり、学術的な調査はほとんど行われていません。
今後の調査・研究に期待しましょう。
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上記3チューコルよりも創建時代は約百年下るLadakhのアルチ・チョスコル ཨལ་ལྕི་ཆོས་འཁོར་ al lci chos 'khorも、地形の制限もあり、あまり計画的なプランではありませんね。
Alchi Choskhor(Google Mapより)
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インドの僧院直系の、トリン寺やタボ寺と似たプランの僧院は中央チベット・ツァン གཙང་ (シガツェ地区)にあります。
まずは、ナルタン版大蔵経で有名なナルタン寺 སྣར་ཐང་དགོན་པ་ snar thang dgon pa(那塘寺)。シガツェ གཞི་ཀ་རྩེ་ gzhi ka rtse(日喀則)の西20km。
ナルタン寺(Google Map)
1153年創建。やはりグゲ時代です。もともとはカダムパの寺でしたが、17世紀にゲルクパ・タシルンポ寺の傘下に入ります。
1960年代には文化大革命で徹底的に破壊され、今も十分には復興していません。特に、チベット随一の権威を誇っていたパルカン དཔར་ཁང་ dpar khang(印経院)が破壊されたのは痛恨の出来事です。
破壊を免れた一部の版木がかき集められ、今は小さなお堂に雑然と保管されています。案内してくれたクショラ སྐུ་ཤོགས་ལགས་ sku shogs lags(お坊さん)も悲しそうな顔でした。
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もう一つやはりツァンの僧院ネニン寺 སྣས་ཉིང་དགོན་པ་ snas nying dgon pa(南尼寺)。ギャンツェの南東10km。
ネニン寺(Google Mapより)
この僧院の歴史は古く、創建は820年と伝えられています。このプランが完成したのがいつかはわかりませんが、やはり11世紀頃に拡張された姿という可能性はあるでしょう。
宗派は、吐蕃仏教(ニンマパ)→超宗派の学院→ゲルクパと移り変わりました。やはり文化大革命で完全に破壊。
名物だった大チョルテンをはじめ、本堂など徐々に復興してはいますが、境内には今も廃墟が累々と広がっています。
ここも今後の調査と復興が期待される場所です。
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以上の僧院は、Vikramashila Mahavihara विक्रमशिला महाविहारを模した僧院と思われますが、チベットの古い僧院と言ったら最も有名なのが、ロカ ལོ་ཁ་ lo kha(山南地区)のサムイェ寺 བསམ་ཡས་ཆོས་འཁོར་ bsam yas chos 'khor(桑耶寺)。
サムイェ寺(Google Mapより)
ここは今まで見てきた僧院とは異なるプランで、円形の外壁に囲まれています。これは「須弥山世界観」を表したもの。
つまり中央のツクラカン གཙུག་ལག་ཁང་ gtsug lag khangを(ス)メルー山 (सु)मेरु पर्वत(須弥山)と見立て、四方のチョルテンを(ス)メルー山を取り囲む東西南北の四大陸と見立てています。
須弥山世界観については、こちらをどうぞ。
・ウィキペディア > 須弥山(最終更新 2017年6月3日 (土) 16:23)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E5%BC%A5%E5%B1%B1
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サムイェ寺のモデルとなったのは、Vikramashilaではなく、Odantapuri Mahavihara ओदन्तपुरी महाविहारと云われています。
Odantapuriは、現在のJharkhand झारखंड州(旧Bihar बिहार州南部)Bihar Sharif बिहार शरीफ़にあったとされていますが、その遺構はいまだ発見されていません。
Bihar Sharifの西側にBadi Pahari बड़ी पहाड़ी(Hiranya Parvat हिरण्य पर्वत)という岩山があります。そこに仏教僧院とみられる遺構が残っています。
Odantapuri Mahavihara ? @Bihar Sharif(Google Mapより)
なお、Stupaのように見えるのは、Tughlaq朝の代官Sayed Ibrahim Malik Baya(?-1339)の墓。
しかし、この遺構がOdantapuri Mahaviharaで、サムイェ寺のモデルになったとはとうてい思えない。似ていない。
おそらく僧院本体があったのは岩山の麓の方で、それは今も街の下に埋まっているのではないかと思います。
今後の調査に期待しましょう。
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VikramashilaやOdantapuriの僧院プランは、チベットの僧院建築に大きな影響を与えていますが、東南アジアの仏教建築にも影響を与えていると思われます。
東南アジアでは、その中心にあるのは寺院ではなく、Stupaになっていますが。
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これはIndonesia Java島のBorobudur Stupa。
Borobudur Stupa(Google Mapより)
見れば見るほどサムイェ寺のプランにそっくりではありませんか。おそらくその大元、モデルとされたのはOdantapuriだったに違いありません。
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また、この周囲をギュッと押し詰めると、Nepal KathmanduのBodhnath Stupaになります。
Bodhnath Stupa(Google Mapより)
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また、Vikramashila型僧院プランの東南アジア的展開は、MyanmarのStupa建築に見ることができます。
これはMyanmar中央部PaganにあるAnanda Stupa。
Ananda Stupa @Pagan(Google Mapより)
PaganにはこういうStupaがもう数え切れないほどあります。
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Vikramashila Mahaviharaでは、中央の寺院と中庭を取り囲むように、外壁沿いに僧坊が並んでいたのですが、これがNepalに行くと、もう少し小規模な形で展開されています。
Nepal KathmanduにたくさんあるNewar仏教僧院は、Baha/Bahiと呼ばれています。
Kwa Bahal @Kathmandu(Google Mapより)
これはその一つKwa Bahal。
中庭の四方を建物が取り囲んでいます。これはもともとは僧坊で、外壁沿いに僧坊が並ぶ、古代インド大僧院のプランを受け継いでいるのです。かなり小規模になっていますが。
外周の建物には、今はこの寺の在家僧(Newar仏教は在家仏教なのです)やその檀家が住んでいます。
寺院は外周の一画にあり、中庭の中央に寺院がある古代インド大僧院のプランからは少し変化していますが、中庭の中央には必ずStupa(NepalではCaitya चैत्य チャイティヤと呼びます)があり、その名残を感じさせます。
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とまあ、思いつくまま古代インド大僧院のプランの周辺諸国への展開を見てきたわけですが、大元はすべてインドにあるのは間違いありません。
というわけで、チベットやラダックの僧院を参拝するにしても、古代インド仏教についての知識を持ちつつ見ると、そのおもしろさが十倍にも百倍にもなるわけです。
とはいえ、インドの仏跡は私は一度も行ったことないんですがね。一度(だけじゃなくて何度でも)行きたいんだけどなあ・・・
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(追記)@2017/12/21
もう一つ、グゲ時代のチューコルとしてコジャ・ゴンパ ཁ་ཆར་དགོན་པ་ kha char dgon pa(科加寺)があります。
コジャ寺(Google Mapより)
外壁に囲まれていますね。しかしこれはごく近年の「再建」だか「新造」だかわからない代物。
1990年代後半、私が訪れた際には外壁などなく、2つの寺院はごちゃごちゃと不規則に建っていた民家の間に埋もれていました。
外壁の形も寺院の向きと不調和で、なにか菱型に歪んでいるし、どうも怪しい。私は、これは僧院を「文化財」として管理するために、特に根拠なく新たに作った外壁と判断しています。
2017年12月12日火曜日
神仏習合の東西/葬式仏教の始まり/変成男子
引き続き「新アジア仏教史」を読んでいるわけですが、続いてはいよいよ日本仏教シリーズ。
・松尾剛次+佐藤弘夫+林淳+大久保良峻・編集強力 (2010.8) 『日本仏教の礎』(新アジア仏教史 11 日本 I). 477pp. 佼成出版社, 東京.
装幀 : 間村俊一
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この巻は、欽明天皇代の仏教伝来から平安時代末までを扱っています。
飛鳥・奈良仏教も、最澄・空海も非常に面白いのですが、特に面白かったのはこれ。
・門屋温 (2010.8) 第5章 神仏習合の形成. 『日本仏教の礎』(新アジア仏教史 11 日本 I)所収. pp.251-296. 佼成出版社, 東京.
日本の神仏習合のmodesを分類し、古い順から挙げてくれています。
今までぼんやりとしてしか理解していなかったので、頭の中がだいぶ整理できた。
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(1) 神身離脱と神宮寺(8世紀初以降)
これは、日本の神が自らを懺悔し、仏教に帰依したもの。仏教側のずいぶん勝手な言い分だが、勢力が弱まった神だとこんな仕打ちも受けてしまうのだ。
その結果として、神社の境内に仏教寺院が併設されます。
ただしこのシステムは日本独自のものではなく、中国から輸入された思想のようです。
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(2) 鎮守神勧請-よそ(国内)から新たに神を迎える(8世紀中以降)
代表は、東大寺の鎮守として招かれた八幡神。八幡神はもともと北九州の地方神(注)だが、おそらく北九州の豪族が大仏建立に大きな寄与をしたことが伺えるのだという。
八幡神は、これ以来仏教との関係が深まり、平安時代後期には「八幡大菩薩」などという名称まで頂戴するようになる。
(注)
八幡神は、おそらく朝鮮半島からの渡来人が信仰していた渡来神と推察されている。
八幡神の歴史については、
・飯沼賢司 (2004.6) 『八幡神とはなにか』(角川選書). 230pp. 角川書店, 東京.
→ 再発 : (2014.3) (角川文庫). 239pp. 角川書店, 東京.
などを参照のこと。
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(3) 鎮守神勧請-地主神型鎮守神(9世紀初以降)
寺院を建立するにあたり、その地土着の神を鎮守として祀ったもの。その際には、たいてい建立者がその神から温かく迎えられ、寺院建立を勧められる、といった神話が付随する。
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(4)鎮守神勧請-招来型(外国から)鎮守神(9世紀中以降)
入唐した僧が大陸の神を一緒に連れてきて、寺院の鎮守としたもの。入唐僧・円珍が招来し三井寺の鎮守とした新羅明神、円仁が将来した赤山明神などが代表例。
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(5) 本地垂迹説(9世紀中以降)
一番有名なのはこれ。
これは、日本の神々を仏教の如来・菩薩の化身として認識し、双方の信者を一つの舞台に取り込む試みだ。
先ほどの八幡神は、阿弥陀如来(無量寿如来)を本地とする「八幡大菩薩」として、仏教徒からも信仰篤い神となった。
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さて、これをインド仏教やチベット仏教と比較してみると、結構違っていますね。
インド仏教では、大乗仏教の早い時期から、ヒンドゥ教の神々を「天部」として吸収しています。
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その場合には、ヒンドゥ教の神々を調伏し、一旦成仏させた上で取り入れる、という、かなり乱暴な神話をくっつけています。もちろん仏教側の勝手な言い分ですが。
Shiva神が、降三世明王に調伏されて大自在天(महेश्वर、Mahesvara)として仏教の護法神となった、などが代表例。
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日本では、こういうあからさまな調伏神話はあまり聞きませんね。
どっちかというと、仏教の施主と神々の施主の争いの結果、仏教が優位に立った(例 : 蘇我氏と物部氏の争い)、という形で伝えられており、神話ではなくむしろ歴史として記録が残っていますね。
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一方チベットでは、仏教の諸尊が土着神を調伏するのではなく、グル・リンポチェやリンチェン・サンポなどの高僧が土着神を調伏する形を取っています。
それでも、調伏された神々は、その後寺院の鎮守として祀られる、というよりは、並行して山地に坐して存在し続けるケースがほとんど。
仏教徒もこれらの土着神を平行して信仰しています。そこには特に矛盾はないようです。
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神仏習合、というよりは神仏が共存しつつ、並行して進行されているのがKinnaurです。
Kinnaur、特にLower~Middle Kinnaurの村では、仏教ゴンパとヒンドゥ教Mandirが両方あるケースが多いです。中にはゴンパとMandirが仲よく並んでいる村もありました。
これは、お寺と神社の双方が町中にあるのを見慣れている、日本人ならよく理解できる光景なのですが、一神教の国から来た人たちには違和感があるようです。
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神仏習合は、Sri Lankaや東南アジアの上座部仏教の地域にもあります。
ここで詳しく解説できるほど知識はないのですが、あちこちの仏教圏での神仏習合の諸相を比較する、というのはおもしろい研究テーマかもしれません。
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続いては、
・上島亨 (2010.8) 第6章 院政期仏教の展開. 『日本仏教の礎』(新アジア仏教史 11 日本 I)所収. pp.251-296. 佼成出版社, 東京.
ここに「臨終出家」というシステムが出てくる。
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もともとは、天皇、皇族、貴族らが老年に至り出家し、来世のために修行する習慣が始まり。これが極端になり、退位後の天皇が上皇・法皇として朝廷を牛耳っていたのが平安後期の「院政期」。
しかし、生前に引退して出家できる余裕のある人ばかりではない。出家のチャンスを逃して死を迎えつつある貴族たちは、せめて死の直前には出家して(出家したことにして)、より良い来世を願った。このシステムが「臨終出家」。
院政期にはこの習慣が、貴族たちの間では一般化していたらしい。
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そこからさらに進み、「出家する間もなく亡くなってしまったのでは、かわいそう」とばかりに、死後でもいいから出家したことにして、より良い来世を願ったのが、現在も続く「葬式仏教」の始まりだ。「戒名」とはそういうことなのですね。
いやあ、何かすっきりしましたね。
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日本の葬式仏教については、チベット仏教ニンマパ/カギュパで枕経的な使い方をされている『バルド・トゥードル བར་དོ་ཐོས་གྲོལ། bar do thos grol/(チベット死者の書)』について書いた
2014年8月17日日曜日 『チベット死者の書』のチベット語スペル
でも触れているので、そちらもご一読を。
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もう一つ面白かった論考は、
・勝浦令子 (2010.8) 特論 女性と仏教. 『日本仏教の礎』(新アジア仏教史 11 日本 I)所収. pp.357-403. 佼成出版社, 東京.
ここに「変成男子(へんじょうなんし)」論が出てくる。
初期仏教では、女性は「五障」、すなわち「女性は梵天王、帝釈、魔王、転輪聖王、仏身にはなれない」とする説があった。
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じゃあ、女性が解脱できる方法はないか?と考え出されたのが「変成男子」説。
女性のままでは解脱できないのなら、一旦男に性転換して修行すればよい、という机上の空論だ。
------------------------------------------
実際には、女性も剃髪して出家し、尼になることで「変成男子を遂げた」というところに落ち着くのだが、仏典では、実際に性転換を遂げて男子と化する女性がたくさん出てくる。
だいぶ昔になるのだが、
2009年10月3日土曜日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(26) 漢文史料に現れる「ブルシャ」その3
で紹介した『佛説菩薩本行経』に現れる、変成男子を遂げた跋摩竭提の物語などはその典型ですね。
この頃は「変成男子」説についてよく知らなかったため、「変な話だなあ、なんで男になっちゃうの?」と思っていたのだが、今回改めて「変成男子」説について勉強し、「ああ、あれはそうだったのか」と膝を打ったというわけ。
------------------------------------------
日本仏教というと、チベット仏教と関係づけて語られるのは、ほとんど真言宗ばかりなのだが、同じ大乗仏教なので、当たり前だが共通点は多い。
チベット仏教について深く考える目的で、日本仏教の勉強をするのもなかなか悪くないですよ。
・松尾剛次+佐藤弘夫+林淳+大久保良峻・編集強力 (2010.8) 『日本仏教の礎』(新アジア仏教史 11 日本 I). 477pp. 佼成出版社, 東京.
装幀 : 間村俊一
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この巻は、欽明天皇代の仏教伝来から平安時代末までを扱っています。
飛鳥・奈良仏教も、最澄・空海も非常に面白いのですが、特に面白かったのはこれ。
・門屋温 (2010.8) 第5章 神仏習合の形成. 『日本仏教の礎』(新アジア仏教史 11 日本 I)所収. pp.251-296. 佼成出版社, 東京.
日本の神仏習合のmodesを分類し、古い順から挙げてくれています。
今までぼんやりとしてしか理解していなかったので、頭の中がだいぶ整理できた。
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(1) 神身離脱と神宮寺(8世紀初以降)
これは、日本の神が自らを懺悔し、仏教に帰依したもの。仏教側のずいぶん勝手な言い分だが、勢力が弱まった神だとこんな仕打ちも受けてしまうのだ。
その結果として、神社の境内に仏教寺院が併設されます。
ただしこのシステムは日本独自のものではなく、中国から輸入された思想のようです。
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(2) 鎮守神勧請-よそ(国内)から新たに神を迎える(8世紀中以降)
代表は、東大寺の鎮守として招かれた八幡神。八幡神はもともと北九州の地方神(注)だが、おそらく北九州の豪族が大仏建立に大きな寄与をしたことが伺えるのだという。
八幡神は、これ以来仏教との関係が深まり、平安時代後期には「八幡大菩薩」などという名称まで頂戴するようになる。
(注)
八幡神は、おそらく朝鮮半島からの渡来人が信仰していた渡来神と推察されている。
八幡神の歴史については、
・飯沼賢司 (2004.6) 『八幡神とはなにか』(角川選書). 230pp. 角川書店, 東京.
→ 再発 : (2014.3) (角川文庫). 239pp. 角川書店, 東京.
などを参照のこと。
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(3) 鎮守神勧請-地主神型鎮守神(9世紀初以降)
寺院を建立するにあたり、その地土着の神を鎮守として祀ったもの。その際には、たいてい建立者がその神から温かく迎えられ、寺院建立を勧められる、といった神話が付随する。
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(4)鎮守神勧請-招来型(外国から)鎮守神(9世紀中以降)
入唐した僧が大陸の神を一緒に連れてきて、寺院の鎮守としたもの。入唐僧・円珍が招来し三井寺の鎮守とした新羅明神、円仁が将来した赤山明神などが代表例。
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(5) 本地垂迹説(9世紀中以降)
一番有名なのはこれ。
これは、日本の神々を仏教の如来・菩薩の化身として認識し、双方の信者を一つの舞台に取り込む試みだ。
先ほどの八幡神は、阿弥陀如来(無量寿如来)を本地とする「八幡大菩薩」として、仏教徒からも信仰篤い神となった。
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さて、これをインド仏教やチベット仏教と比較してみると、結構違っていますね。
インド仏教では、大乗仏教の早い時期から、ヒンドゥ教の神々を「天部」として吸収しています。
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その場合には、ヒンドゥ教の神々を調伏し、一旦成仏させた上で取り入れる、という、かなり乱暴な神話をくっつけています。もちろん仏教側の勝手な言い分ですが。
Shiva神が、降三世明王に調伏されて大自在天(महेश्वर、Mahesvara)として仏教の護法神となった、などが代表例。
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日本では、こういうあからさまな調伏神話はあまり聞きませんね。
どっちかというと、仏教の施主と神々の施主の争いの結果、仏教が優位に立った(例 : 蘇我氏と物部氏の争い)、という形で伝えられており、神話ではなくむしろ歴史として記録が残っていますね。
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一方チベットでは、仏教の諸尊が土着神を調伏するのではなく、グル・リンポチェやリンチェン・サンポなどの高僧が土着神を調伏する形を取っています。
それでも、調伏された神々は、その後寺院の鎮守として祀られる、というよりは、並行して山地に坐して存在し続けるケースがほとんど。
仏教徒もこれらの土着神を平行して信仰しています。そこには特に矛盾はないようです。
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神仏習合、というよりは神仏が共存しつつ、並行して進行されているのがKinnaurです。
Kinnaur、特にLower~Middle Kinnaurの村では、仏教ゴンパとヒンドゥ教Mandirが両方あるケースが多いです。中にはゴンパとMandirが仲よく並んでいる村もありました。
これは、お寺と神社の双方が町中にあるのを見慣れている、日本人ならよく理解できる光景なのですが、一神教の国から来た人たちには違和感があるようです。
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神仏習合は、Sri Lankaや東南アジアの上座部仏教の地域にもあります。
ここで詳しく解説できるほど知識はないのですが、あちこちの仏教圏での神仏習合の諸相を比較する、というのはおもしろい研究テーマかもしれません。
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続いては、
・上島亨 (2010.8) 第6章 院政期仏教の展開. 『日本仏教の礎』(新アジア仏教史 11 日本 I)所収. pp.251-296. 佼成出版社, 東京.
ここに「臨終出家」というシステムが出てくる。
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もともとは、天皇、皇族、貴族らが老年に至り出家し、来世のために修行する習慣が始まり。これが極端になり、退位後の天皇が上皇・法皇として朝廷を牛耳っていたのが平安後期の「院政期」。
しかし、生前に引退して出家できる余裕のある人ばかりではない。出家のチャンスを逃して死を迎えつつある貴族たちは、せめて死の直前には出家して(出家したことにして)、より良い来世を願った。このシステムが「臨終出家」。
院政期にはこの習慣が、貴族たちの間では一般化していたらしい。
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そこからさらに進み、「出家する間もなく亡くなってしまったのでは、かわいそう」とばかりに、死後でもいいから出家したことにして、より良い来世を願ったのが、現在も続く「葬式仏教」の始まりだ。「戒名」とはそういうことなのですね。
いやあ、何かすっきりしましたね。
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日本の葬式仏教については、チベット仏教ニンマパ/カギュパで枕経的な使い方をされている『バルド・トゥードル བར་དོ་ཐོས་གྲོལ། bar do thos grol/(チベット死者の書)』について書いた
2014年8月17日日曜日 『チベット死者の書』のチベット語スペル
でも触れているので、そちらもご一読を。
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もう一つ面白かった論考は、
・勝浦令子 (2010.8) 特論 女性と仏教. 『日本仏教の礎』(新アジア仏教史 11 日本 I)所収. pp.357-403. 佼成出版社, 東京.
ここに「変成男子(へんじょうなんし)」論が出てくる。
初期仏教では、女性は「五障」、すなわち「女性は梵天王、帝釈、魔王、転輪聖王、仏身にはなれない」とする説があった。
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じゃあ、女性が解脱できる方法はないか?と考え出されたのが「変成男子」説。
女性のままでは解脱できないのなら、一旦男に性転換して修行すればよい、という机上の空論だ。
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実際には、女性も剃髪して出家し、尼になることで「変成男子を遂げた」というところに落ち着くのだが、仏典では、実際に性転換を遂げて男子と化する女性がたくさん出てくる。
だいぶ昔になるのだが、
2009年10月3日土曜日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(26) 漢文史料に現れる「ブルシャ」その3
で紹介した『佛説菩薩本行経』に現れる、変成男子を遂げた跋摩竭提の物語などはその典型ですね。
この頃は「変成男子」説についてよく知らなかったため、「変な話だなあ、なんで男になっちゃうの?」と思っていたのだが、今回改めて「変成男子」説について勉強し、「ああ、あれはそうだったのか」と膝を打ったというわけ。
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日本仏教というと、チベット仏教と関係づけて語られるのは、ほとんど真言宗ばかりなのだが、同じ大乗仏教なので、当たり前だが共通点は多い。
チベット仏教について深く考える目的で、日本仏教の勉強をするのもなかなか悪くないですよ。
2017年12月2日土曜日
代々木の魔窟 東豊書店まだ健在・・・だが・・・
2016年9月21日水曜日 代々木の魔窟 東豊書店 続報
2016年6月7日火曜日 代々木の魔窟 東豊書店 健在なり!
で報告した「代々木の魔窟」こと(命名したのは自分だが)東豊書店に久々に行ってみました。
なんだかんだで1年ぶりくらいになっちゃったな。
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というのも、東豊書店が入居している代々木会館に動きがあったという噂があったため。
これが2017年12月2日現在の代々木会館
あれ?何も変わってない。
しいていえば、1階の「きぬちゃん食堂」の横に新たにパイプが組んであるかな?程度。これ、「解体」の足場という感じじゃないなあ?なにか補強じゃないの?
きぬちゃん食堂も東豊書店ももちろん営業中。
「解体が始まった」というのはデマでした。
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デマの元はこれらしい↓
・Twitter > 滝本淳助 > (2017年)11月29日 僕の好きな 朽ち具合はこんな感じ。代々木駅のすぐ近く。もう解体工事が始まっています。
https://twitter.com/takimotonosekai/status/935684361956950016
1階の横に白いビニールシートがかけられ、なにか作業がありそうな雰囲気。
しかし変だ。今日の風景とは全く違う。
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で、その写真をよくよく見ると・・・なんと、1階にあるのは笠置酒場じゃないか!きぬちゃん食堂じゃない!
あそこに笠置酒場があったのっていつだ?
代々木会館は10年くらい見てなかったので、あそこが笠置酒場からきぬちゃん食堂に替わったのがいつか知らない。
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で、調べてみた。きぬちゃん食堂が開店したのは2014年11月らしい。ということは、滝本氏の写真はそれ以前の、「昔の写真」だ。ヘタすると10年くらい前かもしれない。
滝本氏は、代々木会館はとっくに解体されたと思い込んでいるようだが、どっこい、代々木会館も東豊書店もまだ生きているのだ。
滝本氏が知ったら驚くでしょうね。
これで安心。
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で、ひと安心したところで、東豊書店へ。
行ってみると、ドアは開いてるのに誰もいない。電気も半分消えている。しょうがないので、手持ちのハンディライトで照らしながら本探索(笑)。
こんな本屋、他にないよね。
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いつもあまり時間がなくてじっくり見れないのだが、今回はたっぷり時間をかけて見た。だってオヤジさん、20分くらい来ないんだもん(笑)。
で、よくよく見ると、東豊書店は古い本ばかりと思い込んでいたが、表面に並んでいる本はどれも結構新しい。といっても10年以内の本が多いんだが。
意外に本が入れ替わっていることに、今さら気づいた。
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そのうちオヤジさんが来て電気をつけてくれたので、ようやく落ち着いて探索再開。
今回の収穫は以下の通り。
(1) 霍巍 (1995.5) 『西藏古代墓葬制度史』(西藏文明研究系列). 8+6+5+405pp. 四川人民出版社, 成都.
(2) 阿壩藏族自治州概况 編写組・編 (1985.10) 『阿壩藏族自治州概况』(国家民委民族問題五種叢書之一 中国少数民族自治地方概况叢書). 2+2+269pp. 四川民族出版社, 成都.
(3) 韓百詩(Hambis)・著; 張国驥・訳 (2005.6) 『元史・諸王表箋証』(岳麓書院文庫 中国古代史研究系列). iii+iii+4+356pp. 湖南大学出版社, 長沙(湖南省).
← フランス語原版 : Louis Hambis (1945) LE CHAPITRE CVII DU YUAN CHE : LES GENEALOGIES IMPERIALES MONGOLES DANS L'HISTOIRE CHINOISE OFFICIELLE DE LA DYNASTIE MONGOLE (T'oung Pao, XXXVIII). xii+182pp.+tabs. E.J.Brill, Leiden.
結構散財したなあ。
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(1)は、前からほしかったのだが、いつの間にかどこの店でも見なくなり、買うチャンスを逃していたもの。
今もあるのは東豊だけになってしまった。で、今日思い切って買ったのだ。
なお、東豊にはこの本、在庫がもう1冊あります(笑)。
------------------------------------------
(2)は、本棚の上に積んである山の、最下部から掘り出してもらったもの。
とても恐ろしくて掘り出す気にならなかったのだが、オヤジさんが「ダイジョブ、ダイジョブ、出してあげるよ」と、ヒョイヒョイ脚立に乗って、山を崩し始めた。
オヤジさんもう90歳なのに・・・。とてもそんな年には見えないし、足腰もしっかり。驚き。長生き、体力保持には、どうも書店業務が適しているらしい(笑)。
その崩し方、崩した本の積み方にも東豊流コツがあるらしく、素人目には危なっかしく横に積んでいく。脚立に乗りながら、あの狭いスペースのどこに余分な本を積んでいくのか?
(あの場所を知っている人には)謎でしょう?私も狐につままれたようでした???
それで出てきたこの本、30年前の本なのにピカピカ。あはは。入荷してから、ずっと埋もれたままだったんでしょう。640円(笑)。
------------------------------------------
それで、その山をどかした部分で、とても恐ろしいものを見てしまった。なんと、あの山の裏にはもう一つ山が隠れていたのだ!
で、その裏山に埋もれていたのは、ピカピカの状態の1980年代の本!驚愕!目玉が飛び出しそうでした。
残念ながら、今回見た裏山には、今必要な本はなかったのだが、余裕があったらほしいような本がウジャウジャ。これらはたぶん、今はどこでも手に入らない。
そんな誰も見ることが出来ない裏山で埋まっているのだよ、この店は。なんということだ!まるで遺跡。
この裏にさらに山が隠れている!
いやはや、ほんとに驚きました。「敦煌・莫高窟」か、ここは!
------------------------------------------
(3)はなんと、Louis Hambis(1906-78)の翻訳ではないか。
私は系図オタクなので、チンギス家の系図も巨大なものを作っています。でも、元朝諸王の系図はまだ不十分で、『元史』、『新元史』の諸王表を見ながら、「いつかまとめなきゃなあ」と思っていたところだったので、エイッと思い切って買いました。
これは当分楽しめる。
------------------------------------------
今回は偶然、娘さんが訪れたところで、なんかお孫さんの話をされていました。「え、お客さん?」と言われたので苦笑。
ということで、昨年お見かけしたのは奥さんだとわかりました。
なんか、その会話の中で、「沖縄に行ったのは、返還(1972年)前だったナア。それから行ってないヨ」なんていう、なんかスゴイ話が聞こえてきました(笑)。
------------------------------------------
帰り際に「まだまだお元気でやってて下さい」と言ったら、「いやあ、私ももう90ダヨ。もう、そろそろ店閉めようかと思って・・・」とのこと。
来るたび、いつも似たようなことを言ってみるのだが、その都度「ダイジョブ、ダイジョブ」と返って来るのだが、今回はついにこの言葉を聞いてしまった。
「えええ?いつですか?」と訊き返すと、
「あと1年くらいかなア」とのこと。
------------------------------------------
今すぐ閉店ではないのでちょっと安心したが、それでもあの「魔窟」が1年後にはなくなってしまうらしいのだ。寂しい・・・。
しかし、あの本の行き先もまだ何も決まっていないらしい。うーん、誰かなんとかしてほしいなあ。
少なくとも、あの本の山、というより「大山脈」がゴミになってしまうのだけは避けなくてははならない。絶対に!
さっきも見たように、あそこの品物は、売り物の域をはるかに超えて、文化財の域に近づいている。失われるのは世界の損失である。
なにせ、中国本土や台湾、香港ですら今や入手不可能な本だらけなのだ。ホントですよ。
「古い本だから見つけるのは無理かな?でも東豊ならあるかも知れない」と行ってみて、何度助けられたことか。
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あと何度あそこに行けるかわからないが、できるだけ行って、必要な本はできるだけ採集しておこう。今回もだいぶまけてもらったし(笑)。
なお、今回、『藏族史料集(一)』、『通鑑吐蕃史料』がまだ在庫であるのを発見した(私は持ってるから買わなかったが)。1980年代のこんな本がまだまだあるのだ。
『唃厮囉』も『中国藏族部落』もまだあったなあ。なんで誰も買わない?
みなさんも是非、こういう真の「掘り出し物」を探しだしてみてください。その楽しみ方ができるのも、あと少しかあ・・・
2016年6月7日火曜日 代々木の魔窟 東豊書店 健在なり!
で報告した「代々木の魔窟」こと(命名したのは自分だが)東豊書店に久々に行ってみました。
なんだかんだで1年ぶりくらいになっちゃったな。
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というのも、東豊書店が入居している代々木会館に動きがあったという噂があったため。
これが2017年12月2日現在の代々木会館
あれ?何も変わってない。
しいていえば、1階の「きぬちゃん食堂」の横に新たにパイプが組んであるかな?程度。これ、「解体」の足場という感じじゃないなあ?なにか補強じゃないの?
きぬちゃん食堂も東豊書店ももちろん営業中。
「解体が始まった」というのはデマでした。
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デマの元はこれらしい↓
・Twitter > 滝本淳助 > (2017年)11月29日 僕の好きな 朽ち具合はこんな感じ。代々木駅のすぐ近く。もう解体工事が始まっています。
https://twitter.com/takimotonosekai/status/935684361956950016
1階の横に白いビニールシートがかけられ、なにか作業がありそうな雰囲気。
しかし変だ。今日の風景とは全く違う。
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で、その写真をよくよく見ると・・・なんと、1階にあるのは笠置酒場じゃないか!きぬちゃん食堂じゃない!
あそこに笠置酒場があったのっていつだ?
代々木会館は10年くらい見てなかったので、あそこが笠置酒場からきぬちゃん食堂に替わったのがいつか知らない。
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で、調べてみた。きぬちゃん食堂が開店したのは2014年11月らしい。ということは、滝本氏の写真はそれ以前の、「昔の写真」だ。ヘタすると10年くらい前かもしれない。
滝本氏は、代々木会館はとっくに解体されたと思い込んでいるようだが、どっこい、代々木会館も東豊書店もまだ生きているのだ。
滝本氏が知ったら驚くでしょうね。
これで安心。
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で、ひと安心したところで、東豊書店へ。
行ってみると、ドアは開いてるのに誰もいない。電気も半分消えている。しょうがないので、手持ちのハンディライトで照らしながら本探索(笑)。
こんな本屋、他にないよね。
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いつもあまり時間がなくてじっくり見れないのだが、今回はたっぷり時間をかけて見た。だってオヤジさん、20分くらい来ないんだもん(笑)。
で、よくよく見ると、東豊書店は古い本ばかりと思い込んでいたが、表面に並んでいる本はどれも結構新しい。といっても10年以内の本が多いんだが。
意外に本が入れ替わっていることに、今さら気づいた。
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そのうちオヤジさんが来て電気をつけてくれたので、ようやく落ち着いて探索再開。
今回の収穫は以下の通り。
(1) 霍巍 (1995.5) 『西藏古代墓葬制度史』(西藏文明研究系列). 8+6+5+405pp. 四川人民出版社, 成都.
(2) 阿壩藏族自治州概况 編写組・編 (1985.10) 『阿壩藏族自治州概况』(国家民委民族問題五種叢書之一 中国少数民族自治地方概况叢書). 2+2+269pp. 四川民族出版社, 成都.
(3) 韓百詩(Hambis)・著; 張国驥・訳 (2005.6) 『元史・諸王表箋証』(岳麓書院文庫 中国古代史研究系列). iii+iii+4+356pp. 湖南大学出版社, 長沙(湖南省).
← フランス語原版 : Louis Hambis (1945) LE CHAPITRE CVII DU YUAN CHE : LES GENEALOGIES IMPERIALES MONGOLES DANS L'HISTOIRE CHINOISE OFFICIELLE DE LA DYNASTIE MONGOLE (T'oung Pao, XXXVIII). xii+182pp.+tabs. E.J.Brill, Leiden.
結構散財したなあ。
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(1)は、前からほしかったのだが、いつの間にかどこの店でも見なくなり、買うチャンスを逃していたもの。
今もあるのは東豊だけになってしまった。で、今日思い切って買ったのだ。
なお、東豊にはこの本、在庫がもう1冊あります(笑)。
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(2)は、本棚の上に積んである山の、最下部から掘り出してもらったもの。
とても恐ろしくて掘り出す気にならなかったのだが、オヤジさんが「ダイジョブ、ダイジョブ、出してあげるよ」と、ヒョイヒョイ脚立に乗って、山を崩し始めた。
オヤジさんもう90歳なのに・・・。とてもそんな年には見えないし、足腰もしっかり。驚き。長生き、体力保持には、どうも書店業務が適しているらしい(笑)。
その崩し方、崩した本の積み方にも東豊流コツがあるらしく、素人目には危なっかしく横に積んでいく。脚立に乗りながら、あの狭いスペースのどこに余分な本を積んでいくのか?
(あの場所を知っている人には)謎でしょう?私も狐につままれたようでした???
それで出てきたこの本、30年前の本なのにピカピカ。あはは。入荷してから、ずっと埋もれたままだったんでしょう。640円(笑)。
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それで、その山をどかした部分で、とても恐ろしいものを見てしまった。なんと、あの山の裏にはもう一つ山が隠れていたのだ!
で、その裏山に埋もれていたのは、ピカピカの状態の1980年代の本!驚愕!目玉が飛び出しそうでした。
残念ながら、今回見た裏山には、今必要な本はなかったのだが、余裕があったらほしいような本がウジャウジャ。これらはたぶん、今はどこでも手に入らない。
そんな誰も見ることが出来ない裏山で埋まっているのだよ、この店は。なんということだ!まるで遺跡。
この裏にさらに山が隠れている!
いやはや、ほんとに驚きました。「敦煌・莫高窟」か、ここは!
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(3)はなんと、Louis Hambis(1906-78)の翻訳ではないか。
私は系図オタクなので、チンギス家の系図も巨大なものを作っています。でも、元朝諸王の系図はまだ不十分で、『元史』、『新元史』の諸王表を見ながら、「いつかまとめなきゃなあ」と思っていたところだったので、エイッと思い切って買いました。
これは当分楽しめる。
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今回は偶然、娘さんが訪れたところで、なんかお孫さんの話をされていました。「え、お客さん?」と言われたので苦笑。
ということで、昨年お見かけしたのは奥さんだとわかりました。
なんか、その会話の中で、「沖縄に行ったのは、返還(1972年)前だったナア。それから行ってないヨ」なんていう、なんかスゴイ話が聞こえてきました(笑)。
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帰り際に「まだまだお元気でやってて下さい」と言ったら、「いやあ、私ももう90ダヨ。もう、そろそろ店閉めようかと思って・・・」とのこと。
来るたび、いつも似たようなことを言ってみるのだが、その都度「ダイジョブ、ダイジョブ」と返って来るのだが、今回はついにこの言葉を聞いてしまった。
「えええ?いつですか?」と訊き返すと、
「あと1年くらいかなア」とのこと。
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今すぐ閉店ではないのでちょっと安心したが、それでもあの「魔窟」が1年後にはなくなってしまうらしいのだ。寂しい・・・。
しかし、あの本の行き先もまだ何も決まっていないらしい。うーん、誰かなんとかしてほしいなあ。
少なくとも、あの本の山、というより「大山脈」がゴミになってしまうのだけは避けなくてははならない。絶対に!
さっきも見たように、あそこの品物は、売り物の域をはるかに超えて、文化財の域に近づいている。失われるのは世界の損失である。
なにせ、中国本土や台湾、香港ですら今や入手不可能な本だらけなのだ。ホントですよ。
「古い本だから見つけるのは無理かな?でも東豊ならあるかも知れない」と行ってみて、何度助けられたことか。
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あと何度あそこに行けるかわからないが、できるだけ行って、必要な本はできるだけ採集しておこう。今回もだいぶまけてもらったし(笑)。
なお、今回、『藏族史料集(一)』、『通鑑吐蕃史料』がまだ在庫であるのを発見した(私は持ってるから買わなかったが)。1980年代のこんな本がまだまだあるのだ。
『唃厮囉』も『中国藏族部落』もまだあったなあ。なんで誰も買わない?
みなさんも是非、こういう真の「掘り出し物」を探しだしてみてください。その楽しみ方ができるのも、あと少しかあ・・・
ラベル:
チベット・ヒマラヤ本,
代々木,
中文書,
東豊書店,
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