2009年8月29日土曜日

閑話休題 ボツ原稿の巻

現在使っている某社のコンピュータは、時には起動に1時間かかったり、ハードディスクがいきなり停止したり、キーボードが暴走したり(BSの暴走が一番やっかい)、と墓場に片足突っ込んだ状態なのですが、なんとかだましだましやってます。

¥¥¥¥¥¥←これも暴走キーボードの残骸(残してみました)

ハードディスクを整理しようと、日頃覗かない圧縮ファイル群をいじっていたところ、例の某地域ガイドブック・ボツ原稿ファイルのジャングルに迷い込んでしまいました。

久々に読んだところ、我が作品ながらおもしろくておもしろくて、気がつけば数時間がたっていました。今日は大サービスでそのボツ原稿(最終稿の数歩手前くらい)の一部をスクリーン・ショットでお見せしましょう。解像度は低いんですが、雰囲気だけお楽しみ下さい。


この解像度でも見る人が見れば、どの地域のガイドブックで、どの場所のページなのかすぐわかってしまいますが、ま、そういうことで。

なお、この企画は「商品価値なし」という判断で丸ごとボツになっていますし、調査時期も7~8年前なので、今は復活の可能性はゼロです。もしもいまだに期待している方がいたとしても、その期待には一切お応えできませんのであしからず。

次回はまた、いつものように「予想外」の長期戦に入っている「ブルシャ」話に戻ります。もう(28)まで書き終わっているんですが(あはは)。その後もまだ続きそう・・・。

2009年8月26日水曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(17) ブルシャのボン教

ボン教関係文献では、ボン教先進国として、タジク(ペルシア)、カチェ(カシミール)、ギャカル(インド)と共にブルシャが現れます。これらの国からシャンシュンにボン教が伝わり、さらにチベットへと伝えられた、とされています。

ところが、そのそれぞれのボン教がどのようなものであったのかは、今ひとつわかりません。「ブルシャのボン教」も同様です。

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・'jig rten mgon po+'bri gung gling pa shes rab 'byung gnas (13C初?) 『'jig rten mgon po'i gsung bzhi bcu pa(ジクテン・ゴンポの四十のお言葉)』.(注1)

では、伝説的な吐蕃王ディグム・ツェンポ(dri gum btsan po/gri gum btsan po)が家臣ロガム・タジ(lo ngam rta rdzi)と争い戦死した際、王家では刀で死亡した際の儀式がわからず、カチェ、ブルシャ、シャンシュンからボンポ(bon po=ボン教徒)を招いて葬祭を執り行った、とされています。

ここで言う「カチェの/ブルシャの/シャンシュンのボン教」とは、チベットのボン教と同類・同系統と考える必要はなく、「宗教」一般くらいの意味と取っておけばいいでしょう。これら「外国のボン教(宗教)」の影響を受けつつ「チベットのボン教」が教義を整えていく、その過程が象徴的に記されているわけです(そのまま史実と受け取っていいわけではない)。

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この三人のボンポは、それぞれ

(1)ゲクー(ge god=ge khod)神、キュン(khyung=ガルーダ)、メラ(me lha=火の神)に祈り、ダマルーに乗って空を飛んだり、血を吹き出させたり、鳥の羽で鉄を切ったりできる。
(2)ジュティク(ju thig=紐占い)、ラカ(lha bka'=神託)、ソクマル(sog dmar=肩甲骨を焼き割れて入ったひびで占う)などで吉凶を占うことができる。
(3)刀で死んだ者の葬礼の方法を知っている。

だった、といいます。結局(3)が当座の役に立った、ということなのでしょう。

・R.A.スタン・著, 山口瑞鳳+定方晟・訳 (1993) 『チベットの文化 決定版』. pp.xviii+389+53. 岩波書店, 東京. ← フランス語原版 : Rolf Alfred Stein (1987) LA CIVILISATION TIBÉTAINE : ÉDITION DÉFINITIVE. pp.ix+252+pls. l'Asiathèque, Paris.

では、登場順に(1)=カチェ(カシミール)のボンポ、(2)=ブルシャのボンポ、(3)=シャンシュンのボンポ、と比定しています。しかし、原文では「gcig gis ・・・(一人は・・・)」に続いてそれぞれの職能があげられているだけで、上記の順番で語られているのかどうか実は定かではありません。

・Namkhai Norbu (1995) DRUNG, DEU AND BON : NARRATIONS, SYMBOLIC LANGUAGES AND THE BÖN TRADITION IN ANCIENT TIBET. pp.xx+327. Library of Tibetan Works and Archives, Dharamsala.
・Vitali(1996)既出

などではスタンのような解釈を取らず、ボンポの職能を各々に特定していません。

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(1)の職能がやたら詳しく記述されているのですが、これがカチェのボン(宗教)に特定できるでしょうか。

ダマルーに乗って空を飛ぶのは、ボン教文献ではあちこちに出てくるモチーフで、「ブル氏起源神話」でもブルシャ・ナムセー・チドル(ウーセル・ダンデン)がダマルーに乗って空を飛んでいます。これがブルシャのボンポであっても不思議はありません。

ゲクー神(sku bla ge khod/dbal chen ge khod)は、カン・ティセ(gangs ti se)の守護神でシャンシュン土着の神です(注2)。荒ぶる降魔神(bdud 'dul)でもあり、360の眷属を有する、とされています。

カチェ(カシミール)の宗教者がシャンシュン土着の神に祈るのは奇妙です。しかし、ゲクー神は「山の荒ぶる神」というヒンドゥ教のシヴァ神と似た性格を持っている上に、その在所も同じカン・ティセ=カイラース山です。シヴァ神=ゲクー神とみなした上での記述であれば、さほどおかしくないかもしれません。しかし、確かにシヴァ神と認識しているのであれば、そのチベット名ワンチュク・チェンポ(dbang phyug chen po=Maheshwara)とかラ・チェンポ(lha chen po=Mahadeva)の方を使いそうではあります。

キュンはヴィシュヌ神の乗物ガルーダ、メラは火の神アグニ(Agni)そのものですから、カチェ(カシミール)のヒンドゥ教司祭の職能だとすれば、矛盾しません。

メラについては、ゾロアスター教の影響も感じさせます。キュンについては、キュン=ガルーダという等式が一般化していますが、そのモチーフにはゾロアスター教の霊鳥スィームルグ(サエーナ)の影響もあるのではないか?と考えているのですが、そのあたりの検討は未了です。

(1)については、カチェ(カシミール)らしくもあり、一部ゾロアスター教の影響も感じさせ、これはブルシャのボンポではないか、とも感じさせます。また、ゲクー、キュンとシャンシュンの深い関係を重視すればシャンシュンのボンと言いたくもなります。結局、どの国のボンポと特定できる決め手には欠けます。

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(2)をブルシャのボンポに特定できるでしょうか。

フンザには現在も「ビタン(Bitan)」という神降ろしがおり、シャーマニズムが生き残っています。これは(2)で記述されている「ラカ(lha bka')」そのものになります。

しかし、こういったシャーマニズムは世界中にあり、チベット周辺でもごく一般的ですから、これだけでブルシャに特定できるものではありません。

「ジュティク(ju thig)」とは、六本の紐をくしゃくしゃと丸めて投げ捨て、そこでできた結び目の数、位置、形などで吉凶を占う「紐占い」。一度だけではなく十三度投げ、それぞれの組み合わせを総合して吉凶を判断するかなり複雑なシステムらしい。

ジュティクについては前述の、Namkhai Norbu(1995)DRUNG, DEU AND BON. に一章が設けられています。しかし、占者心得や準備については詳しいのですが、具体的な卦の吉凶判断についてはほとんど語られていません。

図にあげられている卦の例は、きわめて複雑な結び目で、とても自然にできるものではありません。これらはおそらく象徴的なもので、儀式の下ごしらえとして魔除けや浄化の働きをする特別な卦なのかもしれません。

ジュティクはその起源が明らかではありません。ボン経典ではシェンラブ・ミウォが弟子に伝えたことにはなっていますが・・・。現在のカラコルム地域にはこういった占いは見あたりませんし、世界的にもどこに源泉を求められるのか、私には知識がありません。

一つ注目されるのは、ジュティクには「シャンシュン・ジュティク(zhang zhung ju thig)」という経典がある、と伝えられていることです。その中に「36本の紐で作られた360の結び目が360の神々(mdud lha)に対応する」とされています。この360神はゲクー神の360の眷属に対応するのではないか、とも推測されています(注3)。

どうも、ジュティクも上記三国の中ではシャンシュンとの関係が一番深そうです。そもそも「ジュティク(ju thig)」という単語自体シャンシュン語ですから、ブルシャよりもシャンシュン・ボンポの職能と考えた方がよさそうです。

肩甲骨(sog dmar)による占いは、古代中国・殷代のものが有名ですが、モンゴルやシベリアなど、北アジアの広い範囲で知られています。古代チベットにもありました。吐蕃時代の8~9世紀にチベット人が占いに使った肩甲骨がタリム盆地のミーラーン(米蘭)遺跡より出土しています(注4)。

古代にカチェ、ブルシャ、シャンシュンのいずれかで、このような卜骨占いが行われていたかどうか、今のところわかりません。また卜骨占いは北アジアから伝播した可能性が高そうですが、この三国のいずれも伝播の可能性があります。これだけでは、肩甲骨占いがどの国のボンポの職能か判断できません。

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(3)の「刀で死んだ者の葬礼の方法を知っている」という職能ですが、これもこれだけでは三国のどれに相当するのか判断できません。

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結局(1)~(3)の各ボンポの職能からでは、それぞれがどの国のボンポに対応するのか判断するのは難しいのが現状です。どちらかというと、(1)~(3)全部シャンシュン・ボンポじゃないか、という気もするのですが・・・。

おそらく、この三国の名はチベット・ボン教に影響を及ぼした外国として象徴的にあげられているだけで、各ボンポの職能の方も、それまでのボン教とは異質な職能として、これも象徴的にあげられているにすぎないかもしれません。

上記伝説の記述を額面通りに史実と受け取るのは危険です。

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(注1)
これは仏教ディグン・カギュパ開祖ジクテン・ゴンポの著作だが、ボン教発展史についても語っており、客観的かつリアリティのある見解をとっている。しかしこの見解は、ボン教教団側のものとは全く異なる(特にシェンラブ・ミウォの年代と出自に関して顕著)ため、ボン教徒には認められていない。

かいつまんでまとめておくと、ボン教の発展を三段階に分けるもので、

(1)ドゥル・ボン(rdol bon=粗いボン)
ティデ・ツェンポ王(khri lde btsan po=srib khri btsan po=khri lde yag pa、ディグム・ツェンポの父)の代にオン('on)谷出身のシェンラブ・ミウォが創始した悪魔払いの宗教。ドゥル・ポン(dur bon=墓の/葬祭のボン)と解する説もある。

(2)キャル・ボン('khyar bon=方向を転じたボン)
ディグム・ツェンポ王がロガム・タジと争い戦死した際に、シェンラブ・ミウォは刀で死んだ者の葬祭の方法がわからず、カチェ(カシミール)、ブルシャ、シャンシュンよりボンポを招いてその方法を学び、葬祭を執り行った。これを契機として、ヒンドゥ教シヴァ派をはじめとする外国のボン(宗教)の影響が入るようになった。

(3)ギュル・ボン(bsgyur bon=翻訳されたボンor変形されたボン)
これはさらに三段階に分けられている。
(3a)学僧シャムゴンチェン(sham sngon can=「青い腰巻きを身につけた者」の意味)が多くの仏教の内容をボン経典に取り入れた(場所不明、インドか?)。
(3b)ティソン・デツェン王の時、仏教側(グル・リンポチェが代表)とボン教側(デンパ・ナムカーが代表)が論争を行い、仏教側が勝利。ボン教は禁教となり、数多くのボン経典が破棄を恐れ各地に埋蔵された。
(3c)10~11世紀にシェンチェン・ルガーが埋蔵経典(gter ma)を発見し、ボン教の復興が始まった。

となる。このボン教三段階発展説は後に、

・tu'u bkwan blo bzang chos kyi nyi ma(トゥカン・ラマ三世) (1802) 『grub mtha' thams cad kyi khungs dang 'dod tshul ston pa legs bshad gsal ba'i me long(宗義水晶鏡)』.

でもそのまま採用されている。

(注2)
ゲクー神は、もともとルトク(ru thog)の土着神であったともいわれる(Vitali 1996)。ゲクー神は天界よりカン・ティセに降臨したのだが、後にはこれがいろいろ変形されて、「シェンラブ・ミウォがカン・ティセに降臨した」などという説になったりする。

ゲクー神の図像はこちらで。

・Himalayan Art > Iconography > Religious Traditions > Bon Religion > Deities / Wrathful Deities > Bon Deity: Walchen Gekho
http://www.himalayanart.org/search/set.cfm?setID=638

ただし、これは仏教の影響を受けた後、仏教の忿怒尊に似せてかなり変形されて描かれた姿、と推測される。

国立民族学博物館で開催されていた「チベット ポン教の神がみ」展で、ゲクー神の図像を見ることができたのかも知れません(見ていないので知らない。私も是非見たかったのですが、貧乏ですので大阪まで行ってくる金もありません)。

(注3)
出典:
・Samten Gyaltshan Karmay (1975) A General Introduction to the History and Doctrine of Bon. Memoirs of the Research Department of the Toyo Bunko, no.33, pp.171-218. → Reprinted IN : Karmay(1998) THE ARROW AND THE SPINDLE. pp.104-156. Mandala Book Point, Kathmandu.

(注4)
この出土卜骨サンプルに関する考察は、

・武内紹人+西田愛 (2003) チベット語の羊骨占い文書. 神戸市外国語大学外国語研究, no.58[2003], pp.(1)-(16).

で論じられている。

2009年8月22日土曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(16) ブル氏起源神話の検証

前回は、ブル氏がゾロアスター教的な世界観をボン教、特に『ズープク』神話に持ち込んだのではないか?という話でしたが、こうなるとブル氏のトゥーカル(トハリスターン)出身(神話上は降臨だが)という話も、荒唐無稽とは言えなくなってきます。

このブル氏起源神話が歴史的に裏付けが取れるものなのかどうか、検討してみましょう。

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ウーセル・ダンデン(ブルシャ・ナムセー・チドル)が降臨したとされるトゥーカル(トハリスターン)は、3~7世紀にはクシャン朝(傍系らしいキダーラを含む)、ササン朝ペルシア、エフタル、西突厥の間で争奪戦が繰り広げられた場所です。7世紀前半~8世紀初は原住のトカラ系/エフタル系の諸侯を西突厥王族(吐火羅葉護)が支配する図式になっていました。

『大唐西域記』などの求法僧の旅行記や地理志では、仏教のことばかり書かれていますが、ペルシア文化の影響が色濃い社会であったのは間違いありません。広義のトハリスターンはゾロアスター教発祥の地とされる旧バクトリアをも含み、すぐ北のソグディアナもゾロアスター教が盛んでしたから、トハリスターンもゾロアスター教がかなり盛んな地域だったはずです。

7世紀後半からイスラム帝国軍の東進が始まります。652年にはササン朝は滅ぼされ、トハリスターンにもイスラム帝国軍の支配が及ぶようになります。7世紀中には頻発した反乱も8世紀初には徹底的に制圧され、大半がイスラム帝国の支配下に入りました(注1)。

イスラム教改宗の圧力は、硬軟取り混ぜてひたひたと押し寄せていきました。仏教はこの時代に滅びたようです。ゾロアスター教はペルシアでは多数派でしたが、イスラム化の進行に伴って徐々に減っていきます。トハリスターンでも同じ状況だったでしょう。

ゾロアスター教徒離散の歴史は、10世紀にインド・グジャラートに避難した、いわゆるパールスィー以外はほとんど知られていません。トハリスターンのゾロアスター教徒の消息も知りたいところですが、手元にはこれといった資料がありません。

そこで、ここからはだいたんな仮説になりますが、トハリスターンからイスラム化の圧力を避けてブルシャ(ギルギット~フンザ)へ避難したゾロアスター教徒の一族がブル氏だったのではないでしょうか?移住の時期は後述しますが、8世紀前半と想定できます。

ブル氏が本当にトハリスターン出身だとしても、その出自はペルシア系なのかトカラ系なのかエフタル系なのかテュルク系なのか?残念ながら今のところそれを判断できる材料はありません。

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『テンチュン』、『レクシェー・ズー』をもとに、ブル氏の系図を作ってみるとこうなります。ナムカー・ユンドゥン以降は主に『レクシェー・ズー』を参照しています(注2)。


ブル氏略系図

この中では、ニンマパ経典を翻訳したことで知られるトツェンキェー(ツェツェンキェー/チェツェンキェー)、シェンチェン・ルガーの弟子ナムカー・ユンドゥン以降の世代が年代特定に有効です。

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まず、より確実なナムカー・ユンドゥンから見ていきましょう。

ブル氏の一部は、ナムカー・ユンドゥンの曾祖父ユンドゥン・ギャルツェン(ユンギャムチェン)兄弟がブルシャからンガリーに移り、さらにユンドゥン・ギャルツェンがツァンに移ったとされています。

ナムカー・ユンドゥン(994-1054)はボン教中興の祖シェンチェン・ルガー(gshen chen klu dga'、996-1035)の弟子となり、師の遷化後もボン教再興に尽力しました(注3)。

細かい年次については不正確な点があるかもしれませんが、その子孫の年代も考慮すると、両者が11世紀前半に活動した人物であることは間違いないと思われます。

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ではここを基準に世代を逆上ってみましょう。

ナムカー・ユンドゥンの曾祖父で、ブルシャからツァンに移ったとされるユンドゥン・ギャルツェン(ユンギャムチェン)はどうでしょうか。

この世代での重要事件は、同人を含む四兄弟がンガリー王ツェーポ・ツェーデに招かれて、まずブルシャからンガリーに移った、という出来事。一世代に約25年を与えてナムカー・ユンドゥンから逆上れば、その年代はだいたい10世紀中頃にあたるでしょうか。

ツェーポ・ツェーデの名は、グゲ王ツェ・デ[位:1057-ca.90d]がモデルとみられます。ところがツェ・デは11世紀後半の人物で、これはナムカー・ユンドゥンよりも時代が下がってしまいますから、ツェーポ・ツェーデ=グゲ王ツェ・デとすることはできません。モデルにしたのは名前だけとみられます。ではこのンガリー王は誰なのでしょうか。

10世紀初~中頃は、吐蕃王家の末裔キデ・ニマゴン(skyid lde nyi ma mgon)が中央チベットを追われ西遷し、ンガリー・コルスム一帯を制圧した年代と一致します。

『テンチュン』ではツェーポ・ツェーデはブル氏四兄弟をブルシャよりンガリーに招いただけですが、『レクシェー・ズー』ではその前に争いがあったとされています。これは『テンチュン』で語られているブルシャ・チベット戦争を後の時代にずれ込ませただけかもしれませんが、キデ・ニマゴンの西方進出戦争が反映されている可能性もありそうです。

もっともニマゴンの進出範囲として記録されているのは下ラダックまでで、バルティスタンやボロル/ブルシャまで兵を出したという記録はないのですが。

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『ンガリー王統記』や『ラダック王統記』には、ニマゴン王が宗教に関わった話題はありませんが、ラダックのチョクラムサルにニマゴンの名の下に彫られたチャムバ(byams pa/弥勒菩薩)磨崖仏と碑文が残されています。仏教を国教として推進した吐蕃王家の末裔ですから、敬虔な仏教徒であることに不思議はありません。しかしボン教との関わりはわかりません。

チョクラムサルのチャムバ磨崖仏と碑文

『ンガリー王統記』によれば、10世紀末までンガリーでは民間でボン教が栄えていた、と記録されています。その後イェシェ・ウーにより仏教復興運動が開始され、ボン教は激しく迫害を受けたようです。

逆を言えば、その先代であるニマゴン王、タシゴン王(イェシェ・ウーの父)は比較的ボン教に寛容だった、とも言えるでしょう。また、現在のボン教と仏教ニンマパには、ゾクチェンのように共通する内容がみられます。ヨーガ技術の点では両者の間に大きな違いはなかったのかもしれません。ブル氏のツェツェンキェー(トツェンキェー/チェツェンキェー)がボン教とニンマパの双方で訳経師として重要視されていることでもその傾向が窺えます。

ニマゴン王またはタシゴン王はブルシャより、ボン教徒であるか仏教徒であるかにかかわらず有能なるタントリストとしてブル氏四兄弟を招いた可能性はありそうです。

ブル氏四兄弟をブルシャからンガリーに招いたツェーポ・ツェーデは一応キデ・ニマゴン王に比定しておきますが、もう少し証拠がほしいところです。

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ユンドゥン・ギャルツェン(ユンギャムチェン)の父である訳経師ツェツェンキェー/トツェンキェーに行きましょう。

この人物は、ニンマパ関連文献に現れる訳経師チェツェンキェーと同一人物であるのは明らかです。ナムカー・ユンドゥンから四世代前ですから、その年代はだいたい10世紀前半に当たります。

ブルシャで彼に師事したとされるニンマパ行者ヌブ・サンギェ・イェシェの生没年は9世紀中頃~10世紀中頃と推測されますから、年代上二人はうまい具合に重なります。

ツェツェンキェー/トツェンキェー/チェツェンキェーが実在の人物であった可能性はかなり高いでしょう。

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10世紀頃のボロル/ブルシャはどういう状況だったのか?というと、実はこの時代は史料に乏しく、具体的にはほとんどわからない状態です。

唯一、

・著者不詳 (982) HUDŪD AL-'ĀLAM(世界地理誌-東から西まで). (ペルシア語)

のわずかな記述があるのみです。

・Vladimir Minorsky (1937)HUDŪD AL-'ĀLAM(THE REGIONS OF THE WORLD). pp.xx+524. Luzac, London. →上記史料の英訳。一部、桑山(1998)収録
・桑山正進・編(1998) 『慧超往五天竺國傳研究 改訂第二刷』. pp.xii+292+pls. 臨川書店, 京都. →Minorsky(1937)を一部収録

からその記述を見てみます。

┌┌┌┌┌ 以下、桑山(1998)収録のMinorsky(1937)の英訳に基づき和訳 ┐┐┐┐┐

ボロルは広い国である。その王は太陽の息子と称する。王は日が昇るまで起床しない。息子は父より先に起床してはいけないからだという。王の称号はBulūrīn Shāhである。この国には塩は産出しないのでカシミールより輸入している。

└└└└└ 以上、桑山(1998)収録のMinorsky(1937)の英訳に基づき和訳 ┘┘┘┘┘

まだ、イスラム化していない状況がわかる程度で、王家がテュルク系とみられるトラカン朝なのか、その前のシャー・レイス朝なのかも不明です。

ブル氏の伝説では、一族はボン教司祭としてブルシャ/ボロル王家に重用されたことになっていますが、その状況も裏付けが取れません。またブルシャ/ボロルに残留した一族がその後どうなったのかもわかりません。

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ツェツェンキェーから先の世代をみてみましょう。

ツェツェンキェーの父ラウ・セーキュンについては名前しか情報がないので飛ばして、ブル氏始祖ウーセル・ダンデン(ブルシャ・ナムセー・チドル)に進みます。

これまで述べた論法で、一世代25年で逆上らせるとウーセル・ダンデンの年代は9世紀後半あたりに落ちます。しかし、その年代と、ウーセル・ダンデン時代の重要事件、ツェーポ・ツーデ(btshad po rtsod lde)のブルシャ侵攻との整合性はあるのでしょうか。

この事件は前述の通り、722年の吐蕃軍侵攻を唐の援軍を得て撃退した事件、あるいは737年の吐蕃軍による小勃律制圧~747年の唐軍による撃退がモデルとなっているのは明らかです。後者では、ボロル(勃律)も吐蕃側として唐軍に討伐される側になっていますから、どちらかというと722年の戦争の方が似ているでしょうか。

いずれにしてもこれは8世紀前半の出来事で、系譜を逆上って推測した年代=9世紀後半よりも150年ほど古い時代になります。ツェツェンキェーの年代はかなり特定できていますから、系譜ではその前に約150年=六世代ほど欠損がある、とも考えられます。

しかし、このエピソードは、実はウーセル・ダンデンやその時代とは無関係で、記憶に残っている吐蕃による侵攻エピソードを適当に挿入しただけ、と考えることもできます。『テンチュン』と『レクシェー・ズー』ではその年代がだいぶ異なることからも、かなりぞんざいに扱われているのがわかります。そうなると、このエピソードに基づいてウーセル・ダンデンの年代を8世紀前半と推定しても意味はなくなります。

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当時のブルシャ王(あるいはトゥーカル王)とされるセーウェル王は実在のボロル(ブルシャ/小勃律)王に比定できるでしょうか。

722年であれば、当時の小勃律王は没謹忙(Vikrama+ナントカ?/Vajra-mangala?)です。没謹忙は唐がらみで話題の多い人物ですが、ブル氏起源神話と重なるエピソードはこの戦争以外にはなく、単に同じ年代に落ちる、ということしか言えません。

737~47年であれば、この間小勃律王は、難泥(Nandi)→麻号来(Mangala?/Maheshwara?)あるいは麻来兮→蘇失利之(フンザ・ハルデイキシュ碑文に名が見えるDeva Shri Chandra Vikramadityaに比定する説がある、ただし語頭の「蘇」はSurendraあたりの略称かもしれない)と、三人の王が入れ替わっており、どうもセーウェル王という一人の王に比定できそうにはありません。

シャンシュン語「セーウェル(sad wer)」をサンスクリット語に訳すると「Devarāja」になりますが、これはありふれた名前すぎて特定の個人名に比定できるヒントにはなりません。碑文・経典に現れるボロル王には、「ナントカ+Deva」、「Deva+ナントカ」という名前は多く決め手になりかねます。

結局「セーウェル」という王に関する情報からでは、ボロル史にその実在の証拠を求めることはできません。今のところ言えるのは、年代的に没謹忙に比定できるかも知れない、といった程度です。

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ウーセル・ダンデン/ブルシャ・ナムセー・チドルのエピソードを史実とみなすには、どうも材料が充分とは言えません。

『レクシェー・ズー』の別のエピソードでは、ブルシャ・ナムセー(ウーセル・ダンデン)は吐蕃王ディグム・ツェンポ時代の人物として登場し、ディグム・ツェンポのボン教排斥を諫める役回りを演じます。

ディグム・ツェンポのエピソード自体多分に神話的な内容ですから、こちらもそのまま史実と受け取ることはできません。ブルシャ・ナムセー(ウーセル・ダンデン)の姿もますますリアリティが薄れてきます。

結局、ツェツェンキェー(チェツェンキェー/トツェンキェー)以前の系譜、特に始祖ブルシャ・ナムセー・チドル(ウーセル・ダンデン)は神話的存在でしかなく、実在の人物ととらえることはなかなか難しい状態です。

しかし、この神話にはある程度史実が取り入れられているのは確かですから、今後もう少し細かく分析を進めていけば、このブルシャ・ナムセー・チドル(ウーセル・ダンデン)の輪郭やブル氏の出自もさらにはっきりしてくるかもしれません。

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特に、「7~8世紀のイスラム軍の侵攻を避けてトハリスターンからブルシャ/ボロルに避難してきたゾロアスター教に関わりのある氏族」という仮説は魅力的で、年代的にも整合性があるので、なんとかこの年代を生かしたいところです。

とはいえ、これまで展開した8~10世紀のブルシャ/ボロル、ブル氏の年代論では、利用できる史料が少なすぎます。こういった議論も今まで詳しくされたことがなく、まだまだ未踏の分野です。

今後新たに利用可能な新史料が出てくるかもしれません。また既存史料からも利用可能な箇所が発見されるかもしれません。

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話が長すぎて、結局何の話なんだかわからなくなってしまいますが、ブル氏はブルシャ(あるいはさらに向こうのトハリスターン)とチベットを結ぶ重要な存在であり、西方起源の思想をボン教にもたらした重要な役割も果たしている、と考えられる、ということです。

すっかり忘れているかもしれませんが、「チベット文字ブルツァ体」もこのブル氏が深く関与している可能性があります。ブル氏東遷に伴ってボン経典と共に、チベットにもたらされた文字なのかもしれません。しかし、具体的にこれを裏付ける史料がないので現段階では仮説に留まります。

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(注1)
656~67年、683~92年にはイスラム側の内紛に乗じてトハリスターンの諸侯は独立を回復したが、その都度イスラム軍の巻き返しにあっている。703~04年の反乱もクタイバ将軍の登場により鎮圧。709~10年には最後の大反乱が鎮圧され、トハリスターン主要部のイスラム世界への併合が完成する。

イスラム勢力に屈しなかった吐火羅葉護やエフタル系諸侯はバダフシャン方面に押し込められ、たびたび唐朝に救援を要請したが、大勢を回復するまでには至らなかった。こういったパミール奥地のイスラム化はその後長い時間をかけて進行していく。

(注2)
ブル氏には、この他にもドゥチェン・ユンドゥン・ラマ(bru chen g-yung drung bla ma、1072年イェル・エンサカ寺建立)、その子孫ドゥチェン・ギャルワ・ユンドゥン(bru chen rgyal ba g-yung drung、1242-90)など、著名人はまだまだいるが、今のところ系譜上の位置付けが充分把握できていない人物が多く、また今回のテーマとは直接関係はないので大半を割愛した。

(注3)
ナムカー・ユンドゥンとシェンチェン・ルガーの生没年は、

・nyi ma bstan 'dzin (1842) 『sangs rgyas kyi bstan rtsis ngo mtshar nor bu'i phreng ba(覚者方の年譜、素晴らしき宝石の連珠)』.

より。この本文(影印版)+英訳は、

・Per Kvaerne (1971) A Chronological Table of the bon po : The bstan rtsis of nyi ma bstan 'dzin. Acta Orientalia, vol.33, pp.205-282. (タイトルはBacot式転写で表記されているが、これをWylie式転写に改めた)

に収録されている。

2009年8月18日火曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(15) ブル氏起源神話とその他のボン教神話、そしてゾロアスター教

このブル氏の起源神話、すぐに気づくのは「シェンラブ・ミウォ神話の焼き直しではないか?」という疑問。

ボン教の開祖とされる(注1)シェンラブ・ミウォは、天界よりオルモルンリン('ol mo lung ring)に降臨し、国にボン教を布教し、法敵キャッパ・ラクリン(khyab pa lag ring)を調伏します。ブル氏の起源神話はこれと実によく似たストーリーです。

ブル氏は後に、シェンラブ・ミウォの子孫とされるシェン氏とともにウー・ツァンでボン教布教に尽力していたわけで、当然シェン氏の持つシェンラブ・ミウォ神話の影響を受けたのでは?と考えたくなります。

年代論については後述しますが、始祖ウーセル・ダンデン(ブルシャ・ナムセー・チドル)が実在したと考えた場合でも、せいぜい8世紀前半の人物とみられます。ボン教が伝える「シェンラブ・ミウォは1万8千年前の人物」という設定と比べると、きわめてスケールが小さく感じます。

しかしそれだけによりリアリティがあるわけで、実際は「シェンラブ・ミウォ神話の方が、このブル氏起源神話の影響を受けて作られた」という逆の流れも充分あり得ます。お話というものは、伝わるに従いどんどん大げさになるものですから。

あるいは、双方の元ネタになった未知の神話があるのかもしれません。この辺はボン教神話の形成・発展を考える上で、今後注目されるようになるでしょう。

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また、ウーセル・ダンデン(ブルシャ・ナムセー・チドル)とンガムレン・ナクポの対立は、ボン経典

・gshen chen klu dga' (1017発見) 『lung mtshan nyid srid pa'i mdzod phug(万物の縁起を伝える宝蔵窟)』 → 通称 : 『mdzod phug』あるいは『mdzod』(注2)

に記されている創世神話における、光の神サンポ・ブムティ(sangs po 'bum khri)と闇の神ムンパ・セルデン・ナクポ(mun pa zer ldan nag po)の対立ストーリーの縮小コピーであるかのように見えます。

『ズープク』に記されている創世神話をおおまかに述べておくと、

┌┌┌┌┌ 以下、Karmay(1972)より抜粋 ┐┐┐┐┐

原初の宇宙は五大元素の塵が希薄にちらばった虚空の状態にあり、ナムカ・トンデン・チュースムジェ(nam mkha' stong ldan phyod sum rje)という人格神の名で呼ばれる(『古事記』の天御中主神のようなもの)。

父祖神ティギャル・ククパ(khri rgyal khug pa)がこの塵を集め「ハ(ha)」と息を吐くと風が生じ、それが光となり、火を生じた。火の熱と風の冷気によって水滴が生じ、水滴が凝集して固体となり、風によって運ばれてきた元素がどんどん集まり山のような固まりができた。そこから光の卵(形は四角でヤクの大きさ)が生じた。一方、もう一人の父祖神カルパ・メーブム・ナクポ(bskal pa med 'bum nag po)は同様にして闇の卵(形は三角でオスウシの大きさ)を生じさせた。

光の卵からは存在・光の神スィーパ・サンポ・ブムティ(srid pa sangs po 'bum khri)が生まれ、宇宙に光をあふれさせた。一方、闇の卵からは非存在・闇の神ムンパ・セルデン・ナクポ(mun pa zer ldan nag po)が生まれ、宇宙に闇をあふれさせた。

水滴から海が生じ、そこに現れた光の青い卵から光の女神チュチャム・ギャルモ(chu lcam rgyal mo)が生まれた。サンポ・ブムティとチュチャム・ギャルモの間には、神々(lha)、山神(gnyan)、王族、人間などが生まれた。

一方、ムンパ・セルデン・ナクポも、自身の闇から作り出した闇の女神トンシャム・ナクモ(stong zhams nag mo)との間に悪鬼(srin)が生まれた。

こうして神々の世界と悪鬼の世界が作られていった。

└└└└└ 以上、Karmay(1972)より抜粋 ┘┘┘┘┘

ブル氏の起源神話に現れる人物とは、名前や役どころが似ています。一般には『ズープク』の方が有名ですから、『テンチュン』や『レクシェー・ズー』の方がこれを利用したものと考えたくなります。しかし、こちらもブル氏の神話の方が元ネタなのかもしれません。こちらは裏付けがあります。

『レクシェー・ズー』によれば、シェンチェン・ルガーに師事したブル氏のドゥチェン・ナムカー・ユンドゥンとキュンギ・ギャルツェン(リンチェン・ギャルツェン)親子は、ルガーが発見した(とされる)『ズープク』などを研究するよう指示されたといいます。実質的には、『ズープク』はまるごとルガーとこのブル氏親子の著作であるか、彼らによる大幅な加筆があった可能性は大です。

いうまでもなく、この光と闇の対立を語る二元論的世界観の大もとはゾロアスター教とみていいでしょう(注3)。

ブル氏の出身地とされるトハリスターンはゾロアスター教発祥の地にも近く、彼らがもともとゾロアスター教徒であったかどうかはわからないにしても、ゾロアスター教の教義や神話には親しんでいたはずです。そのブル氏が伝えてきたゾロアスター教的な世界観が、彼らによって『ズープク』に取り入れられたのではないでしょうか。

「ボン教の世界観にゾロアスター教の影響がある」とはよくいわれることですが、幻の存在である「タジクのオルモルンリン」との関係が漠然と述べられるだけで、その伝播の経緯について具体的に語られることがありませんでした。しかしこれで、

ゾロアスター教の光と闇の二元論 → トハリスターン → ブル氏 → 『ズープク』 → ボン教の光と闇の二元論

という筋道で、かなり具体的に両者を一直線に結ぶことができます。

トハリスターン出身とされる(神話上は降臨だが)ブル氏が、ブルシャ経由でウー・ツァンに移動し、自家の起源神話にゾロアスター教の世界観を持ち込み、さらにボン教、特に『ズープク』に同家が伝えるゾロアスター教的な世界観をよりはっきりした形で持ち込んだ、という可能性を指摘できそうです。

ボン教と西方世界との関わりはもちろんこれだけではありません(注4)。ゾロアスター教の影響をボン教にもたらした経路は他にもいろいろ想定はできますが、これだけ具体的に経緯を追えるのですから、少なくとも『ズープク』の世界観の形成には、この経典に直接関わったブル氏が大きな役割を果たしたことは間違いないでしょう。

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(注1)
シェンラブ・ミウォの名は『敦煌文献』にも現れているが、そこではボン教開祖というステイタスではなく、シェン(ボン教司祭)の大元締、といった役回り。

ボン教開祖に祭り上げられる前のシェンラブ・ミウォの姿についてはいずれまた。

(注2)
シェンラブ・ミウォが語った内容がシャンシュン語で記され、さらにチベット語に訳され、その後ボン教迫害期に埋蔵されたものが、シェンチェン・ルガーによって1017年に発見された、とされる。実際は、発見者とされるルガーやその弟子たちが、ボン教徒に伝わる様々な伝説にオリジナルの思想を加えて完成させた経典なのかもしれない。

(注3)
五大元素の思想にはインド思想の影響が色濃く、また風輪・火輪・金輪(固体)が生じる様子は仏教の『大毘婆娑論』、『倶舎論』の影響がみられる。

卵から万物が生じていく思想もやはりインド起源と思われる。「ヒラニヤーンダ(黄金の卵)から創造主プラジャーパティが生まれた」という『ブラフーマナ』の思想や、「宇宙卵の中に世界が存在している」という『ヴィシュヌ・プラーナ』の思想が影響しているようだ。卵から様々な神格・人格がどんどん生まれてくるストーリーは、ラン氏の神話『ラン・ポティセル(朗氏家族史)』に特に顕著で、キュン(ガルーダ)をトーテムとして持つ氏族としては利用しやすいモチーフだったのだろう。

しかし、なんといっても存在・光・神々と非存在・闇・悪鬼の二元対立論で語られる創造神話には、ゾロアスター教の思想が強く影響しているのは確実。

光と闇の卵の発生を語る段にはやや混乱がみられ、ティギャル・ククパが双方を創造した、とも、光の卵はティギャル・ククパが、闇の卵はカルパ・メーブム・ナクポが創造した、とも読める。

この辺は、初期ゾロアスター教からササン朝ペルシア時代のゾロアスター教へ移り変わる状況を反映しているのかもしれない。初期ゾロアスター教では、最高神アフラ・マズダが生んだ善霊スパンタ・マンユと悪霊アンラ・マンユの二元対立論で世界観が語られるのだが、後にはアフラ・マズダの地位が下がり、最高神ズルワーンのもとでアフラ・マズダとアンラ・マンユの対立という図式に変わる。その過渡期の混乱が、この『ズープク』神話のやや混乱した記述に反映されているのかもしれない。

(注4)
ディグム・ツェンポあるいはその子プデ・グンギャルの代にブルシャなどからボン教徒を招いたエピソード、タジクの王族出身でシャンシュンを経由して7世紀頃チベットに移動したとされるチェ(lce)氏、ボン教関係史料で多数語られるタジク→ウギェン(ウディヤーナ)/ブルシャ/シャンシュン→チベットという方向での訳経エピソード、など、西方世界からチベットへの人・宗教・文化の流入を示す話はたくさんある。

2009年8月13日木曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(14) ボン教とブル氏

ドゥ/ブル('bru)氏もボン教の名家です(ここでは、主に古風な発音の「ブル」で通します)。

ブル氏はシェンラブ・ミウォの子孫を称するシェン(gshen)氏と共に、11世紀以降ウー・ツァンにおけるボン教復興に尽力した家系です(注1)。また各種チベット史書では、古代チベット四大(または六大)部族の一つトン(stong)部族の代表として挙げられています。

このブル氏は、ボン教経典『bstan 'byung(テンチュン)』や『legs bshad mdzod(レクシェー・ズー)』では、トゥーカル(thod dkar、トハリスターン)に降臨した天神族とされ、その後ブルシャに移り、さらに一部がンガリーを経てウー・ツァンに移った、とされているのです(注2)。

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まずはこの二経典を説明しておきましょう。

『テンチュン』の正式タイトルは、

・kun grol grags pa (1766) 『sangs rgyas bstan pa spyi'i 'byung khungs yid bzhin nor bu 'dod pa 'jo ba'i gter mdzod(神々の教えすべての起源、大願成就の宝石を有する乳の宝蔵)』/通称『bstan 'byung(<ボン>教史)』

ブル氏に関する部分は、その原文(Bacot式転写)と英訳が、

・Helmut H. Hoffmann (1969) An Account of the Bon Religion in Gilgit. Central Asiatic Journal, vol.13, no.2[1969], pp.137-145.

に収録されています。

『レクシェー・ズー』の正式名称は、

・grub dbang bkra shis rgyal mtshan dri med snying po (ca.1922) 『legs bshad rin po che'i mdzod dpyod ldan dga' ba'i char(宝珠なる麗辞の宝蔵、賢者への慈雨)』。

「ボン教史」を記した経典で、特に11世紀以降のボン教復興期に詳しい。シェン(gshen)氏、ブル('bru)氏、キュンポ(khyung po)氏など、ボン教の有力氏族の系譜を記した記事も貴重です。

『レクシェー・ズー』4章以降の原文(Wylie式転写)、英訳はKarmay(1972)に収録されています。

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ブル氏の系譜に関しては、『テンチュン』と『レクシェー・ズー』はほぼ同じ内容を伝えており、おそらく後者が前者を参照、あるいは両者がなにか同一の情報源を利用した、とみてよさそうです。『テンチュン』の方がやや詳しい事情を伝えており、『レクシェー・ズー』にはみえないエピソードがあり、貴重です。

ここでは『テンチュン』を基準にブル氏の起源伝説を見ていき、両経典に差異がある箇所は(注)に示しておきます。

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┌┌┌┌┌ 以下、Hoffmann(1969)より抜粋 ┐┐┐┐┐

ブル('bru)氏には「天のブル氏(gnam 'bru)」と「地のブル(sa 'bru)」があり、「天のブル氏」がここで述べるブル氏。「地のブル」は仏教サキャパ(クン氏/'khon、注3)。

天界の最上に位置するオクミン・トゥクポ・クーパ('og min stug po bkod pa)から、インドラ神(brgya byin)の子であるウーセル・ダンデン('od gser mdang ldan/黄金光の輝き、注4)は、衆生を救おうと、まず下位の天界の一つバルラ・ウーサル(bar lha 'od gsal)に下り、続いてツァスムラ(rtsa gsum lha/三十三天)に下った。

リ・ラブ(ri rab/最勝の山=メール山/須弥山)の頂上から下界を見たところ、大ザムリン('dzam gling chen/大贍部洲、注5)の一角、ウギェン(o rgyan/ウディヤーナ)、ブルシャ(bru sha/ギルギット)トゥーカル(thod gar/トハリスターン)においてンガムレン・ナクポ(ngams len nag po/黒い色を持つ者)率いる悪鬼(bdud)たちが地上の人々・家畜たちを疫病・冷害・干魃・虫害で苦しめていることを知った。

ウーセル・ダンデンは、ヤンガル(ya ngal)司祭(gshen)に導かれ、ツェ(mtshe)とチョ(gcho)司祭(gshen)を従え(注6)、ウギェン、ブルシャ、トゥーカルのセーカル(gsas mkhar、注7)に降臨した。

これを知ったセーウェル(sad wer)王(注8)はウーセル・ダンデンを王宮に招き、バラモン・サルバル(bram ze gsal 'bar)に「神の御子にお名前を差し上げるように」と命じた。

バラモンは「お体には様々な吉兆が現れております。天より地に降臨なされた(brul ba)がゆえに。神の御子である貴種(gsha')ゆえに。また、ブラフマーの印である頭蓋骨の隙間(Brahmarandhra)がございます(注9)。ゆえに『ブルシャ・ナムセー・チドル(bru sha gnam gsas spyi rdol=ブルシャなる天神族、頭骨に隙間あり)』というお名前を差し上げたいと思います」と述べた。

ブルシャ・ナムセー・チドルは魔王ンガムレン・ナクポを退治し(注10)、国は幸福を取り戻した。ウギェン、トゥーカル、ブルシャの国々にボン教を布教し、セーウェル王やバラモン・サルバルをはじめとする王家の人々もこれに帰依した(注11)。

その後、ツェーポ(btshad po、注12)という者がンガリー・コルスムから四度に渡り攻めてきて、ブルシャ・ナムセーの都を占領した(注13)。そのツーデ(rtsod sde)王は一時は捕虜となったが、王の体重と同じだけの黄金を集めて身代金として支払い釈放された(注14)。

ブルシャ・ナムセー・チドルが、金の角つき帽をかぶり(gser gyi bya ru can)、トルコ石でできた太鼓に乗って戦場の空に現れると、敵味方の軍勢はひれ伏し、ツェーポはブルシャ・ナムセー・チドルを導師として崇めた。

ブルシャ・ナムセー・チドルの子はラウ・セーキュン(lha bu gsas khyung)。その子ツェツェンキェー(mtshe btsan skyes)は訳経師として有名(注15)。ツェツェンキェーには九人の子が生まれ、上の五人はブルシャに止まり、下の四人はツェーポ・ツェーデ(btsad po rtsad lde)に招かれンガリーに移った(注16)。ンガリー・コルスムからチベット国の四ル(bod yul ru bzhi)までみなこの四兄弟を崇めるようになった(注17)。

四兄弟の一番上、ユンギャム・チェン(g-yung rgyam chen、注18)がツァン(gtsang)に移り定住した。その二人の子のうちの上がキュン・ナクジン(khyung nag 'dzin)。その子はユンドゥン・センゲ(g-yung drung seng ge)。その三人の子はナムケー・ユンドゥン(nam kha'i g-yung drung)、リンギャル(rin rgyal)、シェルギャル(sher rgyal、注19)。

└└└└└ 以上、Hoffmann(1969)より抜粋 ┘┘┘┘┘

Hoffmann(1969)に収録されている『テンチュン』のブル氏の記事はここで終わっています。ツァンに移ったブル氏の略史は(注1)に見えるとおり。

内容の検討は次回以降に譲ります。それにしてもなかなか終わりませんね、この話題。

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(注1)
ボン教中興の祖とされるテルトン(gter ston/埋蔵経典発掘者)であるシェンチェン・ルガー(gshen chen klu dga'、996-1035)の弟子として、彼を補佐したドゥチェン・ナムカー・ユンドゥン('bru chen nam mkha' g-yung drung、994-1054)や、1072年にイェル・エンサカ(g-yas ru dbeng sa kha)寺を創建したドゥチェン・ユンドゥン・ラマ('bru chen g-yung drung bla ma)などが有名。

ブル氏一族はイェル・エンサカ寺近郊のトプギャル(thob rgyal/土布加)を領有し、同寺の僧院長を何度も輩出するなどウー・ツァン・ボン教の中核氏族として君臨してきた。仏教に多くみられる氏族教団的な組織を形成していたと思われる。

17世紀にパンチェン・リンポチェ五世(二世という数え方もある)ロサン・イェシェ(blo bzang ye shes、1663-1737)を輩出。その際に一族の大方は仏教に転向した。さらに19世紀にはパンチェン八世(五世という数え方もある)テンペー・ワンチュク(bstan pa'i dbang phyug、1855-81)を輩出し、その代にブル氏は完全に仏教徒となり、トプギャルの所領もタシルンポ寺に接収された。

ボン教の名家から仏教ゲルクパのトゥルク、それもパンチェン・リンポチェという大名跡が選出されるのは、一見奇異に思えるかも知れないが、それなりの理由がある。

ウー・ツァンのボン教では、顕教、特に論理学の分野でゲルクパの影響を強く受けている。1836年に論理学の大学ユンドゥンリン寺が建立されるまでは、ボン教僧といえども仏教僧院で顕教の修業をするケースが多かった。こういった交流を通じてブル氏もタシルンポ寺人脈に食い込んでいったのだろう。

インドのドランジに再建されたメンリ寺でも、午後になると僧院の中庭で激しい問答(dam bca')が繰り広げられている。その姿はゲルクパ僧院でみられるものとそっくり。いや、その熱気はゲルクパ僧院をこえているかもしれない。

ドランジ・メンリ寺のタムチャー風景

なお、ウー・ツァンのブル氏とは別に、ギャロン(rgyal rong)に落ち着いたブル氏もいた(両者の関係は不明)。この家系は12世紀にはさらにゴロク(mgo log/'gu log)に移動し一帯を制圧。上中下の三つの家系に分かれたため、いわゆる「ゴロク三部」と呼ばれた。

参考:
・Samten Gyaltshan Karmay (1972) THE TRESURY OF GOOD SAYING : A TIBETAN HISTORY OF BON. pp.xl+365+pls. Oxford University Press, London. → Reprint : (2001) Motilal Banarsidass, Delhi.
・Samten Gyaltshan Karmay (1975) A General Introduction to the History and Doctrine of Bon. Memoirs of the Research Department of the Toyo Bunko, no.33, pp.171-218. → Reprinted IN : Karmay(1998) THE ARROW AND THE SPINDLE. pp.104-156. Mandala Book Point, Kathmandu.
・サムテン・G・カルメイ(1987) ポン教. 長野泰彦+立川武蔵・編 (1987) 『チベットの言語と文化』所収. pp.364-388. 冬樹社, 東京.
・ジャンベン・ギャツォ・著, 池上正治・訳 (1991) 『パンチェン・ラマ伝』. pp.349. 平河出版社, 東京. ← 中文原版 : 降辺嘉措('jam dbyangs rgya mtsho) (1989) 『班禅大師』. 東方出版社, 北京.
・智観巴・貢却乎丹巴繞吉・著, 呉均+毛継祖+馬世林・訳 (1989) 『安多政教史』. pp.742. 甘粛民族出版社, 蘭州.
・Chö-Yang (1991) Section One : Religion(Five Principal Spiritual Traditions of Tibet). Chö-Yang, Year of Tibet Edition[1991], pp.6-149. → 邦訳 : Chö-Yang・著, イェーシェー・ラモ・訳 (1994) チベットの5つの精神文化 ボン教 ニンマ派 カギュ派 サキャ派 ゲルク派. 季刊・仏教, no.26「特集・チベット」[1994/1], pp.64-133.
・青海省社会科学院蔵学研究所・編, 陳慶英・主編 (1991) 『中国蔵族部落』. pp.14+5+651. 中国蔵学出版社, 北京. (第2版が2004年に出ているらしい)
・光嶌督 (1992) 『ボン教学統の研究』. (和文)pp.5+ii+123,(中文)pp.ii+99,(英文)pp.ii+147. 風響社, 東京.

(注2)
スムパのラン氏の歴史を伝えるta'i si tu byang chub rgyal mtshan (14C中?) 『rlangs kyi po ti bse ru(ラン・ポティセル/朗氏家族史)』では、『テンチュン』や『レクシェー・ズー』とは全く異なる出自が語られている。

ここでは、吐蕃王家の遠縁とされるアニェ・ムシ・ティト(a nye mu zi khri to)の六子がチベット六大氏族それぞれの祖とされ、その中の一人アチャク・ブル(a lcags 'bru)がトン(stong)部族/ブル('bru)氏の始祖となっている。

また、『ラダック王統記』では、地上に降臨した天神族の後裔リンジェウラ(ring rje'u ra)という人物をトン部族の祖としており、起源探索もなかなか一筋縄ではいかない。なお、この神話はドン(ldong)部族について詳しいので、このドン部族が有する神話を転用したのかもしれない。

参考:
・Karmay(1972)前掲
・Yeshe De Project (1986) ANCIENT TIBET : RESEARCH MATERIALS FROM YESHE DE PROJECT. pp.xi+371. Dharma Publishing, Berkeley.
・大司徒・絳求堅贊・著, 贊拉・阿旺+余万治・訳, 陳慶英・校 (1989) 『朗氏家族史』. pp.6+323. 西蔵人民出版社, 拉薩. → 再版 : (2002)西蔵人民出版社, 拉薩.

(注3)
サキャパ系の史料(修正@2009/09/03)によれば、クン氏は「天神三兄弟の次男がンガリー・トゥー(mnga' ris stod)に降臨したことに始まる氏族」とされている。そこでは、「ブル氏と同族」という記述こそないが、「西部チベット方面に降臨した天神族」という出自はブル氏と一致しており、本当に同祖であった可能性は高そう。ただし互いの系譜上のどこでつながるのかは不明。

ブル氏のウーセル・ダンデン(ブルシャ・ナムセー・チドル)よりもかなり前の世代(『テンチュン』などには記録が残っていないが)で分かれているような気はする。

参考:
・Giuseppe Tucci (1949) TIBETAN PAINTED SCROLLS (3vols.). La Libreria della Stato, Roma. → Reprinted : (1980) Rinsen Book, Kyoto.

(注4)
これは『テンチュン』でのスペル。『レクシェー・ズー』では「'od zer gdangs ldan(光明の輝き)」。

(注5)
天界の描写、および地上の描写から、この経典が語る世界観は小乗仏教の経典『大毘婆娑論』や『倶舎論』の影響を受けていることがわかる。いわゆる「須弥山世界観」である。

ザムリンは正しくはザムブリン('dzam bu gling)とつづられ、サンスクリット語のJambu-dvīdaのチベット語訳。須弥山の東西南北に位置する四大陸の一つで、これは南の大陸。人間が住む世界で、南が狭い逆三角形をしている。インド亜大陸がモデルであるのは明白。

須弥山世界観については、定方晟の一連の著作を参照されたし。

・定方晟 (1973) 『須弥山と極楽』. pp.193. 講談社現代新書330, 東京.
・定方晟 (1985) 『インド宇宙誌』. pp.261+ix. 春秋社, 東京.
・定方晟 (1989) 須弥山世界と蓮華蔵世界. 岩田慶治+杉浦康平・編 (1989) 『美と宗教のコスモス(2) アジアの宇宙観』所収. pp.130-173. 講談社, 東京.

(注6)
ヤンガル(ya ngal)氏は、ラトゥー・チャン(la stod byang/ツァン北西部)に地盤を有する氏族で、ボン教ではイェル・エンサカ寺でブル氏と共に活動した。12世紀後半には、その一員ルダクパ・タシ・ギャルツェン(klu brag pa bkra shis rgyal mtshan)がロー・マンタン~ドルポでのボン教布教に成功する。klu bragはカリ・ガンダキ流域の地名で、彼が建立したボン教僧院が今もそこにある。ネパールでの呼び名はLubra。

神話に従うなら、ヤンガル氏はトゥーカル/ブルシャからブル氏と共にウー・ツァンにやって来た、と考えることができるかもしれない。あるいはラトゥー・チャン土着の氏族で、ウー・ツァンにブル氏がやって来てから交流を持つようになり、その親密さゆえにブル氏の神話に反映された、という可能性もある。

ツェ氏とツォ氏は、『レクシェー・ズー』では「mtsho cog gshen」と表記されており、Karmay(1972)では、ツォツォク(mtsho cog)という一人の司祭、と解釈されている。

ツェ氏(mtshe/mtshe mi/mtsho/rtse)とチョ/チョク/ツォ氏(gcho/cog/mtso/gtso)氏は、『紅史』、『ダライ・ラマ五世年代記(西蔵王臣記)』、『ケーペーガートン(賢者の喜宴)』、『ラダック王統記』、『敦煌文献PT1038』などでは、初代吐蕃王ニャティ・ツェンポ時代の氏族として現れ、そちらでも司祭(gshen)とされていることが多い。

『ya ngal gdung rabs(ヤンガル氏族史)』になると、この三氏族がニャティ・ツェンポのクシェン(sku gshen/王家付きの司祭)として現れる(Vitali 1996)。ウーセル・ダンデンの降臨神話自体、ニャティ・ツェンポのものとよく似ており、影響関係が注目される。

シェンラブ・ミウォの降臨譚やケサルの降臨譚との類似点も多く、比較神話学の対象としても面白いが、今はとてもそこまでは手が回りません。

参考:
・David P. Jackson (1978) Notes on the History of Se-rib, and Nearby Places in the Upper Kali Gandaki Valley. Kailash, vol.6, no.3[1978], pp.195-227.
・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.xi+642. Dharamsala.
・John Myrdhin Reynolds (2005) THE ORAL TRADITION FROM ZHANG-ZHUNG. pp.xx+577. Vajra Publications, Kathmandu.

(注7)
gsas mkharとは、ボン教の神々を祠る社のこと。

(注8)
『レクシェー・ズー』では王の名は「sad wer gsal 'bar」とされるが、バラモンの名「gsal 'bar」との混同がみられるようで、『テンチュン』の方が本来の表記と思われる。

「sad wer」はシャンシュン語で、「神(々)の王」の意味。チベット語では「lha rgyal(po)」。サンスクリット語「Devarāja」の訳語とみられる。これは名前というより称号であり、それもごくありふれた名なので、特定の人物には比定できそうにない。

『テンチュン』では、この王は上記三国全体を支配する王という設定のようだが、トハリスターン/ブルシャ/ウディヤーナを広く支配した勢力はクシャーン朝、エフタルくらいのもの。この物語をそこまで逆上らせるのは厳しい。古い時代の記憶が反映されている、という程度はいえるかもしれないが・・・。『レクシェー・ズー』では「トゥーカルの王(tho(d) gar rgyal po)」とされる。

その後、物語の舞台はブルシャばかりになるので、実際はブルシャ王という扱いではないかと思われる。

(注9)
この部分はHoffmann訳には誤りがあり、Karmay訳の方が正確。

ヒンドゥ教では、頭蓋骨頂部に隙間があるのは超人の印だという。ヨーガの際にはルン(Vayu/風)がここを通ったり留まったりして重要な役割を持つらしい

「spyi rdol」の部分は『レクシェー・ズー』では「spyi brtol」。どちらでも同じ意味だが、「spyi brtol」だと「恥知らず」という意味で使われることもあるようなのでちょっと具合が悪い。

(注10)
トゥーカル以下の諸国に厄災をもたらしたンガムレン・ナクポは、もしかすると、7~8世紀のイスラム軍の侵攻をモデルにしているのかもしれない。唐ではアッバース朝のことを「黒衣大食」と呼んだ。

(注11)
『レクシェー・ズー』では、トゥーカル王セーウェルより禅定を受けて王位についたことになっている。しかし、子孫の動向を見るとみな宗教者であり、世俗的な支配者としてあとを継いでいる様子はない。

(注12)
吐蕃王を意味する「ツェンポ(btsan po)」の古語。ボン教文献では「btsad po」とつづられていることが多い。

(注13)
『レクシェー・ズー』にはこのエピソードはなく、その曾孫の世代に戦争があったことになっている。

このブルシャとチベットの戦争は、722年の吐蕃軍侵攻を唐の援軍を得て撃退した事件、あるいは737年の吐蕃軍の小勃律占領~747年の唐軍の小勃律占領(吐蕃軍を駆逐)がモデルとなっていると思われる。

(注14)
この部分はHoffmann訳とは異なる見解を取った。

これは、かの有名な「イェシェ・ウー(ye shes 'od)のガルロク(カルルク)遠征」とそっくりなエピソード。このツーデ(rtsod sde)王の名は、グゲ王ツェ・デ(rtse lde)[位:1057-ca.90d]がモデルと思われる。ツェ・デの曾祖父の兄弟がイェシェ・ウー(947-1024)に当たる。おそらくチベット仏教の諸史書の影響を受けたものと思われる。

しかし、『ンガリー王統記』に記されているとおり、ブルシャに遠征し捕虜となったのは実際はツェ・デの父ウー・デ('od lde)[位:1024-37d]であり、時代設定も人名もかなり混乱がみられる。

なおbtsad po rtsod sdeは、後にもbtsad po rtshad ldeとして再び登場する。

(注15)
ツェツェンキェーは、ニンマパ経典『一切仏集密意経』をチベット語に訳したブルシャの密教僧チェツェンキェー(che btsan skyes)と同一人物と見てよい。

『レクシェー・ズー』ではトツェンキェー(mtho btsan skyes)とつづられる。

(注16)
『レクシェー・ズー』では、この下の四人兄弟が最初ツェーポ・ツーデと争ったが、後に(仲直りし)王に招かれた、ことになっている。

おそらく、ツェーポ・ツーデ/ツェーデが時代をこえて二度に渡って現れる『テンチュン』の記事に疑問を持ち、『レクシェー・ズー』では二つを同時代の事件として統合したものと思われる。

(注17)
『レクシェー・ズー』では、「ンガリー・コルスムからチベット国の四ルまでみなブルシャの領土(mnga' ris)となった」とあるが、もちろん歴史上そういう事実は全くない。

(注18)
『レクシェー・ズー』では、ユンドゥン・ギャルツェン(g-yung drung rgyal mtshan)。こちらの方が整った名前であるが、だからといって正確かどうかはわからない。『テンチュン』の方はブルシャ語的な名前を報告している可能性なども考慮する必要があろう。

(注19)
『レクシェー・ズー』では、「ユンドゥン・センゲの子が三人」というのは同じだが、名前がわかっているのはナムカー・ユンドゥン(nam mkha' g-yung drung)のみ。そして、ナムカー・ユンドゥンの四人の子のうちの二人が、リンチェン・ギャルツェン(rin chen rgyal mtshan)とシェーラブ・ギャルツェン(shes rab rgyal mtshan)となっている。

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(追記)@2009/09/03

(注3)冒頭の文献名を、『ダライ・ラマ五世年代記/西蔵王臣記』から「サキャパ系の史料」に修正した。

2009年8月11日火曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(13) チベット文字ドゥツァ体(キュン体)とボン教

チベット文字ドゥツァ体が仏教ニンマパと関係しているかも?というのが前回までのお話でしたが、推測ばかりが多くてあまり歯切れのいい話になりませんでした。

これがボン教の伝承になると、ブルシャ(ボロル)がボン教先進国として、もう少しはっきりした姿で伝説の中に登場します。チベット文字ドゥツァ体は、ブルシャ(ボロル)とも関係が深いボン教関係者によってチベットに持ち込まれた、という可能性もありうると考えます。

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現在もドゥツァ体で書かれたボン経典はかなり頻繁に目にします。接触しやすい例を二つほど挙げておくと、

・テンジン・ワンギェル・リンポチェ・著, 梅野泉・訳 (2007) 『チベッタン・ヒーリング 古代ボン教・五大元素の教え』. pp.335. 地湧社, 東京. ← 英語原版 : Tenzin Wangyal Rinpoche (2002) HEALING WITH FORM, ENERGY AND LIGHT. Snow Lion Publications, Ithaca(USA).

の付録として印影が付されているボン経典『byung ba'i bcud len(バルドの祈り)』はドゥツァ体で書かれています。

また、

・David L. Snellgrove(tr.+ed.) (1967) THE NINE WAYS OF BON : EXCERPTS FROM GZI-BRJID. Oxford University Press. → Reprint : (1980) pp.vi+312. Prajñā Press, Boulder(USA).

の付録としてボン経典『gzi brjid(宝石スィの輝き)』の一部が印影として付されていますが、こちらもドゥツァ体で記されています。

ボン経典のうちどの程度がドゥツァ体で記されているのか?ドゥツァ体で記さなければならない、何か規則でもあるのか?ドゥツァ体で記される経典は、ある特定の分野・宗派・年代と関係があるのか?など、謎だらけですが、今のところはこの方面からの突っ込みができる程の知識は私にはありません。

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「ドゥツァ('bru tsha)体」あるいはその別名「キュン体(khyung bris)」の名には、ボン教における有力氏族の名「ドゥ/ブル('bru)」氏、「キュンポ(khyung po)」氏と共通する単語が含まれています。これはなぜなのでしょう?

このうち、キュンポ氏の方はチベット史の表舞台にたびたび登場し、重要な役割を演じているので、聞き覚えのある方もいるでしょう。

キュンポ氏はシャンシュンに起源を持つ名家です。

キュンポ氏で最も有名な人物は、6世紀末?~7世紀前半、ルンツェン・ルンナム(slon btsan rlung nam)~ソンツェン・ガンポ(srong btsan sgam po)の二代に渡り吐蕃王家に仕え、ロンチェ(blon che/宰相)にまで昇りつめたキュンポ・プンセー・スツェ(khyung po spung sad zu tse)。

スツェは大変興味深い人物で、それこそ話題が尽きないのですが、ここで詳しく語る余裕はありません。いずれまとめて語る機会もあろうかと思います。

スツェだけではなく、キュンポ氏はその後も吐蕃史にたびたび登場します。ポスト吐蕃時代にも、カム西部のキュンポ・テンチェン(khyung po steng chen/丁青)を政治的・宗教的に支配し、ボン教の法統を伝える氏族として、また15世紀にネパールのロー・マンタン(ムスタン)に王国を開いた氏族として有名です。

系図上キュンポ氏の傍系とされるラン(lang/rlangs)氏は、14~15世紀に中央チベットを支配するパクモドゥパ(phag mo gru pa)政権を樹立しました(ラン氏はキュンポ氏直系子孫ではなく、本来は無関係のスムパ出身氏族で、婚姻によってキュンポ氏と結びついた、という説もあります)。

また、仏教においてもキュンポ氏からは、シャンパ・カギュパ(shangs pa bka' brgyud pa)祖師キュンポ・ネンジョル(khyung po rnal 'byor、1002-64/978-1127/990-1139など諸説ある)、(ダクポ・)カギュパ(dwags po bka' brgyud pa)祖師の一人ミラレパ(mi la ras pa、1040-1123)などの巨人が出ています。

キュンポ氏、ダン/スブラン(sbrang)氏、ラン氏などより構成されるセ(bse)部族全体については、シャンシュン王国、女国、ボン教、ギャロンがらみでいずれ語る機会があろうかと思います。

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しかしブルシャ/ボロルとボン教の関わりでは、キュンポ氏よりもブル氏の方が重要で、文献でもかなり詳しくその関係を追うことができます。

次回はそのブル氏の歴史を追っていきます。

2009年8月9日日曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(12) Pavel Pouchaによるブルシャ語タイトルの解釈

さて、サンギェ・イェシェの年代を訂正したところで、ようやく本道に戻ります。

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『一切仏集密意経』のブルシャ語タイトルを解釈するには、その前段階として、かなり面倒な手はずを踏まないと、誤字を解釈してしまう危険性があることを話しました。現段階で、私にはそのやっかいな問題を解決する能力はありません。

ここでは、唯一このブルシャ語タイトルの解読を試みているPoucha(1960)の仕事を紹介するだけにしておきます。とはいえ、Pouchaの釈字や解釈がすべて正しいと考えているわけではありません。

参考:
・Pavel Poucha (1960) Bruža - Burušaski ?. Central Asiatic Journal, vol.5, no.4[1960], pp.295-300.

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Pouchaはサンスクリット語タイトルとブルシャ語タイトルを比較して、ブルシャ語単語の意味を拾い出す試みをしています。細かい議論は省略しますが、それで得られた比定は次の通り。

ブルシャ語 =サンスクリット語 = チベット語

pan(pang) ril = sarva(一切/すべて) = thams cad kyi/kun
'ub = āgama(聖典) = lung
'un =? yoga(ヨーガ) = rnal 'byor

bu(ddha)= tathāgata(如来) = de bzhin gshegs pa
ta(ntra)= tantra(タントラ) = rgyud
sid(dhi)= siddhi(成就する) = grub pa
bi(dya)= vidyā(明呪) = rig pa
su(tra)= sūtra(経) = mdo

解読できたものは、サンスクリット語からの借用語/略語らしき単語が5つあり、それ以外はわずかに3つ(1つは推定)に留まります。かなり苦労しているわりには成果はあまり芳しくありません

これらの単語は現在のブルシャスキー語に残存しているでしょうか?仏教が滅びてしまった今、それは期待できそうにありません。

ブルシャスキー語独自の宗教(イスラム教/民間信仰)用語を丹念に調べれば、意味や発音が変化しつつ残っている単語が見つかるかもしれませんが、かなり詳細なブルシャスキー語語彙集(調査報告)がないととても手がつけられません(か、自分で調査するか・・・)。

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Pouchaは次に、現代ブルシャスキー語の単語の中から似た発音のものを拾い出しました。

ブルシャ語 =現代ブルシャスキー語

ho = ho(あちら)
ril = ril(銅/鉄)
til = til(忘れる)
ti = ti/thi(単純な/空虚な)
hang = han(一つ)
bad =bada(階段/場所)
ri = rai(渇望/意志)
hal = hal(~もまた/狐) or hala(終着点)
ma = ma(あなたたち)
ma kyang = ma an(ビーズ/ネックレス/輪)
dang = dana(賢い)
rong = rung(草原)

これらはほとんどが日常語であって、これらの単語を組み合わせても、どうもあのタイトルになるような気がしません。

無論、ブルシャ語がブルシャスキー語に発展したと仮定した場合、単語の意味が変化している可能性は十分あるでしょう。また、それよりも単語の発音自体がかなり変化しているケースの方が多いでしょう。そうなると、現代ブルシャスキー語で似た発音の単語を探して比較しても、実は見当はずれの比較をしている場合が多いかもしれません。

しかし、ここで一つだけ言えるのは、意味の同一性はさておき、ブルシャ語単語とブルシャスキー語単語は似た発音を持つものがかなりみられる、ということです。

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ベルトルト・ラウファー(注1)は、

・Berthold Laufer (1908) Die Bru-ža Sprache und die historische Stellung des Padmasambhava. T'oung Pao Second Series, vol.9, no.1[1908], pp.1-46.(未見)

で、このブルシャ語タイトルを「偽作」と考えているようです(van Driem 1997より)。

このブルシャ語タイトルは実は「何の意味も成さないデタラメ」で、「ブルシャ語から翻訳した」という由来も虚偽。つまり、この経典をチベットに持ってきた(とされる)サンギェ・イェシェもしくは後のニンマパ関係者の誰かがすべて創作したもの、という考えでしょう。

「テルマ(埋蔵経典)」の真相に代表されるところですが、ニンマパ経典には常にその由来への信用問題がつきまとっています。ですからあのブルシャ語タイトルを偽作と疑うのは無理もないところです。

この経典をチベットに持ち込んだとされるサンギェ・イェシェの経歴も、虚実入り乱れた情報にあふれているわけですから、なかなかそのまま信用するわけにも行きません。

このままですとこのブルシャ語タイトルも、「君子危うきに近寄らず」で、怪しげな資料として利用されずに放置されてしまいます。

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しかし、このタイトルに現代のブルシャスキー語と似た響きを持つ単語が多数含まれるのも事実です。この証拠だけはなんとか生かせないものでしょうか?

こう考えることもできそうです。

つまり、仮にこのブルシャ語タイトルがデタラメであったとしても、その偽作者は片言ながらブルシャ語を知っており、タイトル内容とは無関係だろうがなんだろうがかまわず知っているブルシャ語単語をそちこちに散りばめ、また全体の響きもブルシャ語らしく整え、タイトルをブルシャ語らしく見せかけた、と考えるのはどうでしょうか?要するに「ブルシャ語風ハナモゲラ(注2)」です。

根拠薄弱なる仮説に過ぎませんが(この話題ではこればっかりですけど)、これまで見てきたおかしな点について一通りの説明が可能なようになってはいます。

この説が成り立つならば、この経典が翻訳された(とされる)9~10世紀頃、ブルシャスキー語と似た響きを持つ言語(ブルシャ語)がボロル/ブルシャ(ギルギット~フンザ)で使用されており、チベット人のニンマパ関係者の誰かが幾分なりともこれを知っていた、と考えることはできそうです。

もっとも、後世の偽作であった場合には、その時期はチベット大蔵経にこのタイトルが登場する15~17世紀以前、としか言えないわけですが・・・。

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しかしこういうアクロバティックな考えに一気に進む前に、できることはまだありそうです。

van Driem(1997)でも進言されているのですが、このブルシャ語タイトルについてはブルシャスキー語研究者による検討がいまだなされていません。まずはこの試みが急務でしょう。

とはいえ、それには前段階として、まずなるべく正確なつづりを探索する必要があり、前述のようにそれはかなり難航すると予想されます。そして、たとえ先へ進んでも、そこで得られる結論が「やっぱりデタラメだった」となる可能性も見え隠れしているようでは、学者さんたちが二の足を踏むのもある程度理解できます。

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結局、「ブルシャスキー語がいつから話されているか?」に対して、現状ではこの「ブルシャ語(?)タイトル」から明確な答えを得ることはできませんでしたが、もう少し突っ込んで解明が進めば、古代ブルシャ/ボロルの言語を知る重要な手がかりになりそうな気配はあります。踰えるべきハードルはまだまだたくさんありますが・・・。

2009年7月9日「ブルシャスキーって何語?」の巻(6) シンとヤシクーン で、「カラコルム地域全域(古代ボロルの領域)ではかつてブルシャスキー語あるいはその祖語が話されていた」という仮説まではなんとかたどり着いているのですが、肝心の古い時代の言語資料が、今のところこの怪しげなブルシャ語(とされる)タイトルしかないわけですから、何か新たな言語資料が見つかるまでは仮説に留まるでしょう。

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(注1)
Berthold Laufer(1874-1934)。ユダヤ系ドイツ人で、後にUSAに移住し、東洋学、特に中国学(Sinology)・チベット学(Tibetology)の大家として活躍した。本来は言語学者であるが、民族学の分野でも卓越した業績を残した。一般には『サイと一角獣』、『キリン伝来考』、『インド・イラニカ』といった博物学的な内容を持つ著作の人気が高い。

ブルシャ語やシャンシュン語といった言語に最初に注目した学者としても重要である。

(注2)
ハナモゲラ(語)については、

・ウィキペディア > ハナモゲラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%83%A2%E3%82%B2%E3%83%A9

あたりをご覧下さいゴスミダ。

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(追記1)
なお、Poucha(1960)は、最後におまけとしてネワール語から似た単語を拾い出しています。

ブルシャ語=?ネワール語

ho=?honakë/honë(合わせる)
til=?til(岸、美人のほくろ)
ta=?ta(高い)
sid=?siddh(成就する)

この方面での考察は、今のところこれ以上の発展はありませんが、「ho=?honakë/honë(合わせる)」は「sarva(一切)」と意味的にもかなりいい線です。

Pouchaが比較例としてネワール語を取り上げたのは、おそらく上記ブルシャ語タイトルの語感がなんとなくネワール語に似ている、と直感的に感じたためかもしれません。母音で終わる音節がいくつも続くあたりはちょっと似ています。

ネワール語の例:
Chi-gu che kana kha?(あなたはどこから来たのですか?)
Thuki-yaa guli?(これはいくらですか?)
Ji-gu naa ~ kha(私の名前は~です)

出典:
・Tej R. Kansakar (1989) ESSENTIAL NEWARI PHRASEBOOK. pp.54. Himalayan Book Centre, Kathmandu.

実は私もこのブルシャ語タイトルを見て、すぐさま「なんとなくシャンシュン語っぽいなあ」と感じたものです。私のシャンシュン文の経験はごくごく貧しいものですが、こちらも母音で終わる音節が続くあたりが似ている、と感じます。

シャンシュン語の例:
na mo dmu ra spungs so gu dun hrun /
謹んで天の王である導師(すなわちシェンラブ・ミウォ)に拝礼いたします
drung mu gyer gyi mu ye khi khar las /
永遠なるボンの天国の光明によって(下された)
u ye tha tson ma dra she skya nyi ri dang /
究極の秘密なる母タントラの慈悲に、太陽と
gu ru hri ho dza ra dha ki pa ta ya /
師、賢者、ダキニも拝礼なさった

なお、訳文は併記チベット文を参照した。

出典:
・zhu ston nyi ma grags pa (17C) 『sgra yi don sdeb snang gsal sgron me bzhugs so(輝かしき法灯なる言葉の大全/シャンシュン語辞典)』. → 一部収録 : 光嶌督 (1992) 『ボン教学統の研究』. 風響社, 東京.

ただし、シャンシュン語には、『敦煌文献』の中に発見されているいわゆる「古シャンシュン語」と、後世のボン教文献に現れるいわゆる「新シャンシュン語」があり、両者には共通する単語も多いが、かなり違いがあるようです。ここで例をあげたのは「新シャンシュン語」の方。

参考:
・TAKEUCHI Tsuguhito+NAGANO Yasuhiko+UEDA Sumie (2001) Preliminary Analysis of the Old Zhangzhung Language and Manuscripts. IN : NAGANO Yasuhiko+Randy J. LaPolla(ed.) (2001) BON STUDIES 3 : NEW RESEARCH ON ZHANGZHUNG AND RELATED HIMALAYAN LANGUAGES. pp.45-96. National Museum of Ethnology, Osaka.

シャンシュン語は、最近の研究ではネワル語と同じくヒマラヤ諸語のグループに分類されることが多く、比較的近縁であるのは間違いありません(シャンシュン語に最も近縁なのは、キナウル語とされる)。

シャンシュン語を含むヒマラヤ諸語と、ブルシャスキー語、そして「ブルシャ語」との比較はこのPouchaの簡単な試行しかなく、いまだ未踏の分野(少しでもモノになるのか?どうかも未知)。

「偽作者はブルシャ語に似せようと頑張ったが、ブルシャ語をあまり知らないため、少し知識があるシャンシュン語の方にうっかり似てしまった」などという可能性もありそうですが・・・。

まあ、それよりもブルシャ語とブルシャスキー語の比較の方が急務なのは言うまでもありません。

2009年8月7日金曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(11) 訂正:『一切仏集密意経』訳経の時期など

サンギェ・イェシェの年代を「9世紀中頃~10世紀中頃」に変更した場合、『一切仏集密意経』訳経の時期も当然変更する必要があります。

サンギェ・イェシェが何歳でブルシャに行ったのか、手元の資料ではわかりません。ですから、とりあえず9世紀後半~10世紀中頃と広く取っておきましょう。

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まず「トム(khrom)」の解釈ですが、「吐蕃の植民地」という解釈はこの場合やや不都合になります。

9~10世紀は、ボロル/ブルシャに関する史料はほとんどない時代で、詳しい事情はわかりません。842年のラン・ダルマ王の死後、吐蕃軍の統制も崩れ占領地は急速に失われていった、と思われます。ボロル/ブルシャも吐蕃支配から脱していた可能性は高そうです。

しかし、吐蕃軍残党が行き場を失い現地で軍閥・野盗化し、あちこちに割拠していた様子は断片的に報告があります。9世紀中頃にアムド~河西を席巻した尚恐熱はそのような勢力のひとつ。

ボロルの北、ホータン(于闐)も9世紀半ばには吐蕃支配から脱し独立を回復したようです。しかし、『新五代史・四夷附録第三』于闐の条では、938~42年に于闐を訪れた高居誨の旅行記『居誨記』からの引用文に「霊州より黄河を渡り于闐に至る。往々吐蕃族の帳(テント)を見る。于闐は常に吐蕃と攻め合い奪いあっている」とあります。10世紀になっても、ホータン周辺に吐蕃軍残党がうろうろしていたことがわかります。

9~10世紀、ボロルあたりにもそのような吐蕃軍残党が割拠していた可能性は高いでしょう。バルティスタンのスカルドゥ王家は、マクポン(Maqpon)という称号を持っています。これはもちろんチベット語の「dmag dpon(将軍)」が語源です。吐蕃のバルティスタン駐留軍司令官の子孫なのかもしれません。しかし、この駐留軍の吐蕃帝国崩壊後の動向も全く史料に残っていないので、推測に留まります。

ボロルでも独立は回復していたでしょうが、吐蕃軍の残党がまだ幅を利かせ、かつての「khrom(占領地)」という呼び方もまだ使われていたかもしれません。もう少し検討は必要ですが、今のところ「khrom」の意味を変更はしないでおきます。

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次に翻訳を担当した人たちについてです。

サンギェ・イェシェが、それより百年以上前の人物グル・リンポチェの弟子ではあり得ないことは前回述べたとおりです。当然、その同時代人とされているダーナラクシタなどもグル・リンポチェの弟子ではあり得ないでしょう。

かといってこれひとつで、ダーナラクシタの実在も疑う程ではないと考えます。グル・リンポチェとの関わりに関する記述は、ニンマパ関係史料ではよく目にする文言で、権威付けの道具としてはありふれたものです。本来グル・リンポチェとは無関係な伝説であるはずの「ケサル伝」にも後にはグル・リンポチェが登場するようになることからも、その権威付けの有効性が窺えます。

「グル・リンポチェ伝」自体、きわめて物語色が濃く史実は少ないと考えられているのですから、グル・リンポチェに関連するというお話も大半は「あとづけ」とみなして無視してもかまわないでしょう。

史実を探る際にグル・リンポチェがらみのエピソードに引っ張られると失敗しやすい、というのは今回改めて実感したことですね。

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後に詳述しますが、チェツェンキェーはボン教関係史料にもブルシャ在住の人物としてその名が現れます。実在の人物とみていいでしょう。また系譜を逆算していくと、その年代は10世紀前半あたりに落ち、これはサンギェ・イェシェの年代とうまく重なります。

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『一切仏集密意経』には偽経ではないか、という疑いもあるのですが、だとすればその由来を語る後書きも相当手の込んだ捏造、ということになります。しかし、現状ではそこまで積極的に否定するだけの材料を持っていません。

その偽経説とは別に、そのブルシャ語タイトルがリアリティのあるものなのか検討しておく必要はあるでしょう。

で、ようやく本道に戻ります。

2009年8月5日水曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(10) 訂正:サンギェ・イェシェのクロノロジー

2009年7月17日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(8) 仏教ニンマパとブルシャ で、サンギェ・イェシェの年代を

> 「生年は8世紀前半/半ば、没年は9世紀前半/半ば」あたりが妥当なところだろうか。

と書きましたが、我ながら腑に落ちない点もあるので、少し調べ直してみました。

前述の通り、サンギェ・イェシェの生没年はざっと見ただけでも770-883(114歳)、772-892(121歳)、823-962(140歳)、841or844-956(116or113歳)と諸説紛々で、実態は謎に包まれています。

今回紹介するのは「844年生まれ」という見解です。出典は、いつもおなじみの

・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.xi+642. Dharamsala.

その

Addendum One : Dating dPal.'khor.btsan's reign and the establishment of the kingdom of mNga'.ris skor.gsum. pp.541-551.

で、サンギェ・イェシェの生年・年齢が重要なデータとして扱われているのです。

これは、吐蕃帝国崩壊~グゲ王国成立の間の時代、ウースン王('od srung、ダルマ・ウィドゥムテン王の子)~その子ペルコルツェン王(dpal 'khor brtsan、初代グゲ王キデ・ニマゴンの父)の年代について論じたものです。

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ざっとこの時代の出来事を概観しておくと、

842年にダルマ・ウィドゥムテン(通称ラン・ダルマ、一般に「破仏」で有名だが実はその事実はなかったらしく、仏教僧ペルギ・ドルジェによる暗殺も否定されている)が死ぬと、その大妃であるナナム氏(sna nam bza')が生んだ(とされる、養子という説もある)ティデ・ユムテン(khri lde yum brtan)と小妃ツェポン氏(tshe spong bza')が生んだ(前王死去時は懐妊中であった)ナムデ・ウースン(gnam lde 'od srung)双方が王位を主張。

ユムテン側はウル(ラサ周辺)を支配、ウースン側はヨル(ヤルルン周辺)を支配し南北朝の対立が続く。この間に周辺地域を席巻した吐蕃軍は統制が乱れ、占領地は次々に失われていった。唐との交渉も途絶え、チベット国内の情勢は外には知られなくなる。

ウースンは9世紀末~10世紀初に没し、その子ペルコルツェンが継いだ。ペルコルツェンは次第にユムテン側に圧倒され、ヤルルンには居れなくなりギャンツェ~ラツェに移った。その間(もしくはその次の世代)に国内には反乱が多発し、ついには吐蕃王墓が荒らされるまでにペルコルツェンは落ちぶれた。

ペルコルツェンは10世紀初に暗殺され、その二子タシ・ツェクパペル(bkra shis brtsegs pa dpal)とキデ・ニマゴン(skyid lde nyi ma mgon)は西遷を余儀なくされた。タシ・ツェクパペルはツァン西部に落ち着き、その子孫はゾンカ(rdzong kha)~キーロン(skyid grong)を支配するグンタン(gung thang)王国をはじめ、ツァン西部に多くの小王国を建てた。また一部はヤルルンに戻り、ヤルルン・ジョウォ(yar lung jo bo)として諸領主の尊厳を集めた。またアムド・ツォンカ(tsong kha)に招かれ青唐王国を建てた唃厮囉(rgyal sras)もタシ・ツェクパペルの子孫とみられる。

一方のキデ・ニマゴンはさらに西に移り、プラン(spu hrang)に落ち着いた。そして西部チベット一帯を制圧し、その子孫はグゲ・プラン王国、ラダック王国、ザンスカール諸王国、ヤツェ王国などを建てた。この家系は熱心な仏教徒として知られ、吐蕃崩壊後国家の庇護を失い衰亡した仏教の復興に大きな役割を果たす。

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吐蕃時代の年代については、『敦煌文献・年表(編年記)』が絶対的な信頼度を持っていますが、それもティソン・デツェン王の治世半ば763年までしか残っていません。吐蕃後期の年代については、これに代わって中国側の史料を主にあてにしますが、こちらも吐蕃末期のダルマ・ウィドゥムテン王の頃には混乱した記述が目立つようになります。吐蕃王家・政府自体が混乱し、唐もその実情を把握し切れていない様子が窺えます。

その後のユムテン、ウースン以降の世代になると、中国側にもほとんど記録がなくなりますから、後世に編纂されたチベット語史料(仏教史)を使うしかありません。しかしこれらの史料では互いに矛盾した年次を伝えているため混乱が著しく、その年代を考察した論考も錯綜しています(注1)。

近年では、『プトゥン仏教史』、『紅史』、『王統明示鏡』のいわゆる古典三史料よりも、吐蕃史に詳しくまたより正確な情報を伝えていると評判の高い

・dpa' bo gtsug lag phreng ba (16C半ば) 『dam pa chos kyi 'khor lo bsgyur ba rnams kyi byung ba gsal bar byed pa mkhas pa'i dga' ston(聖典転法輪の顕現による輝きなる学者の宴)』 → 略称 : 『mkhas pa'i dga' ston(ケーペーガートン/賢者の喜宴/学者の宴)』
・mkhas pa lde'u (13C中以降) 『rgya bod kyi chos 'byung rgyas pa(インド・チベットの仏教弘通史)』 → 略称 : 『mkhas pa lde'u chos 'byung(ケーパ・デウ仏教史)』
・lde'u jo sras (13C中?) 『chos 'byung chen mo bstan pa'i rgyal mtshan(法幢なる大仏教史)』 → 略称 : 『lde'u jo sras chos 'byung(デウ・ジョセー仏教史)』

などが出版されて利用しやすくなり、より重視されるようになりました。

しかし、この時代に関しては、下記のサキャパ系史書の評価が高く、年次も一貫しているため、この年代を採用する研究者が多いようです。

・sa skya pa bsod nams rtse mo (1167) 『chos la 'jug pa'i sgo zhes bya ba'i bstan bcos(仏教入門と名づける経典)』 → 略称 : 『ソナム・ツェモ仏教入門』
・rje btsun grags pa rgyal mtshan (13C初?) 『bod kyi rgyal rabs(チベット王統記)』 → 略称 : 『ダクパ・ギャルツェン王統記』
・'gro mgon 'phags pa blo gros rgyal mtshan (1275) 『bod kyi rgyal rabs(チベット王統記)』 → 略称 : 『パスパ王統記』

842年(水犬年)ダルマ・ウィドゥムテン死
843年(水豚年)ウースン誕生・即位
893年(水牛年)ペルコルツェン誕生
905年(木牛年)ウースン死/ペルコルツェン即位
923年(水羊年)ペルコルツェン死
929年(土牛年)反乱(kheng log)が起きる
937年(火鳥年)吐蕃王墓が荒らされる

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これに対し、Vitali(1996)が得た結論は、これまでの定説に反して『デウ・ジョセー仏教史』の年次を採用する、というものでした(注2)。その年代は、

840(猿年)ウースンの誕生/即位
881(牛年)ペルコルツェンの誕生
893(牛年)ウースンの死/ペルコルツェン(13歳)の即位
905?(牛年)反乱(kheng log)の勃発(西暦は推定)
910(馬年)ペルコルツェンの死(暗殺)

反乱の年は単に「ペルコルツェン代のある牛年」としか記述がありませんが、他史料より推定したものです。

その証拠として重要視されているのが、

・nyang ral nyi ma 'od zer (12C後半?) 『chos 'byung me tog snying po sbrang rtsi' bcud(花蘂の蜜汁なる仏教史)』 → 通称 : 『nyan ral chos 'byung(ニャンレル仏教史)』
・padma 'phrin las rdo rje brag rig 'dzin (18C初?) 『yo ga gsum gyi bka' babs gnubs sangs rgyas ye shes kyi rnam thar(三つのヨーガの伝授:サンギェ・イェシェの伝記)』 → 略称 : 『sangs rgyas ye shes kyi rnam thar(サンギェ・イェシェ伝)』

『ニャンレル仏教史』は吐蕃時代の仏教史を記したもので、ウースン~ペルコルツェンの時代については上記のサキャパ三史料とほぼ同じ年次を採用しています。Vitali(1996)が重視しているのはそこではなく、サンギェ・イェシェが登場する箇所です。

┌┌┌┌┌ 以下、Vitali(1996)より ┐┐┐┐┐

『ニャンレル仏教史』より

領主に対する反乱により(国は)混乱状態となった。まずカム(khams)で反乱が起こった。次にチベット(bod)・チム(mchims/おそらくサムイェ周辺)でも反乱が起こり、ダルジェ・ペルギ・ダクパ(dar rje dpal gyi grags pa)はカムに避難した。次にウル(dbu ru/ウー北部・ラサ周辺)、ヨル(g-yo ru/ウー南部・ロカ周辺)、イェル(g-yas ru/ツァン北部)、ルラク(ru lag/ツァン南部)の三地方(「四地方」の誤り)でも反乱が起きた。

ウルで反乱が起きた際、ヌブ・サンギェ・イェシェ(gnubs sangs rgyas ye shes)の六人の子のうち四人はこの反乱で死に、一人は病死、一人は恥知らずにも逃亡した。この時、ヌブ・サンギェ・イェシェは、乞食に身をやつしてネパール(bal yul)のラマたちにお会しに行くつもりだった。

└└└└└ 以上、Vitali(1996)より ┘┘┘┘┘

これで、サンギェ・イェシェがペルコルツェン時代の反乱(注3)時には壮年~老人といえる年齢であったことがわかります。

その反乱の年次をもう少し詳しく知りたいところですが、そちらは『サンギェ・イェシェ伝』の方にあります。

┌┌┌┌┌ 以下、Vitali(1996)より ┐┐┐┐┐

『サンギェ・イェシェ伝』より

サンギェ・イェシェがおっしゃられるに、「そして、木男鼠年(甲子/きのえね)に61歳(還暦)を迎えたのだが、自分にとっては厄年(skeg)に当たっていており、真ん中(三回のうちの二回目、注4)の反乱が起きた。ダク(sgrags/サムイェの西方でヤル・ツァンポ北岸)に居ることができなくなり、ヌブ・ユル谷(gnubs yul rong/ヤムドク・ツォの西側)に避難した」と。さらに、「そこにも居れなくなり、ニェモ・チェカル(snye mo bye mkhar/ラサとユンドゥンリンの間でヤル・ツァンポ北岸)に移った」とおっしゃられた。

└└└└└ 以上、Vitali(1996)より ┘┘┘┘┘

ここでは、サンギェ・イェシェが61歳(かぞえ)であった年が木男鼠年(甲子/きのえね)とされているわけですが、その年に当たる候補としては

(1)784年誕生1歳-844年還暦61歳
(2)844年誕生1歳-904年還暦61歳
(3)904年誕生1歳-964年還暦61歳

あたりが考えられます。反乱(kheng log)の事実を考慮すると、最もしっくり行くのが、大規模な反乱が続発し、ついにはチョンギェの吐蕃王墓が荒らされたペルコルツェン時代(9世紀末~10世紀前半)に年代が落ちる(2)です。

反乱の年代をウースン時代に置く史料もありますが、ウースンは死後チョンギェの王墓に葬られた(彼が王墓に葬られた最後の吐蕃王)のであって、「王墓が荒らされた後でもかまわずそこに葬られた」とするのは不自然です。よってその反乱の年代をウースン時代に置くのは難しいでしょう(注5)。

(1)の可能性はどうでしょう。844年はラン・ダルマ王の死去直後でユムテン党vsウースン党間の王位争いがあったことが知られています。しかし反乱という形にまで至ったという記録はありません。また同時期の「論恐熱の反乱」もウー・ツァンにまで及んでいないのは(注5)で述べたとおりです。可能性としては(2)よりだいぶ低くなります(注6)。

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Vitali(1996)の説は、(2)の年代を採用し、「ペルコルツェンの在位期間-反乱-サンギェ・イェシェ61歳」がすべて同じ期間に落ちる唯一の史料『デウ・ジョセー仏教史』の年代を最も信頼できる、とするものです。

しかしこの説に問題がないわけではありません。特に、『デウ・ジョセー仏教史』では、ウースンの生年を840年と置いているのは疑問です。

中国側の記録は錯綜こそしていますが、ラン・ダルマ王の死を840年以前に置く解釈を取るのは不可能です。その点では「サキャパ三史料」の年代に分があります。

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また、Vitali説の一番のキーとなっているのが、『サンギェ・イェシェ伝』に述べられている「61歳=木男鼠年(甲子/きのえね)」です。しかし、これは本当に全面的に信頼していい数字なのでしょうか?

『サンギェ・イェシェ伝』が収録されているのは、

・padma 'phrin las rdo rje brag rig(18C初?) 『bka' ma mdo dbang gi bla ma rgyud pa'i rnam thar(アヌヨーガ乗経典相承祖師伝集)』

ですが、『サンギェ・イェシェ伝』をペマ・ティンレー(1640?-1718)自身が書いたのか、それともニンマパに伝わるその伝記を収録しただけなのか、手元の資料ではわかりませんでした。

もしペマ・ティンレー自身が書いたのだとすれば、それは17~18世紀のことですから、内容への信頼度はだいぶ下がります。

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また、カーラチャクラ暦が始まる1027年以前の暦法では、年の表記は干支併記ではなく十二支のみだったと考えられています。ですからサンギェ・イェシェ61歳の年「木男鼠年(甲子/きのえね)」という表記も怪しむべきで、本来は「鼠年(子/ね)」としか記録されていなかったとも考えられます。

そうなると、この年に当たる候補は、・・・・880年、892年、904年、916年、928年・・・とだいぶ広がってしまいます。

どうも現状ではVitali説に無条件で賛同するわけにもいきません。

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「サンギェ・イェシェの生年は844年で、61歳時は904年」というきっちりした数字をそのまま許容はできませんが、もう少しぼんやりと「サンギェ・イェシェの老齢のころに反乱(kheng log)があった」という事実は、『ニャンレル仏教史』、『サンギェ・イェシェ伝』の双方に類似の記述があるのですから認めてもよさそうです(注7)。

となると、きっちりした年次までは特定しないにしても、「9世紀中頃生まれ、10世紀初め頃の反乱が頻発したペルコルツェン時代には還暦の年頃だった」ということまでは言えそうです。没年はわかりませんが、百歳程度だったとすれば10世紀中頃になるでしょう。これは前々回推定した年代より実に百年後にずれ込んでいます。

ニンマパ関連史料の扱いの難しさを実感します。

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サンギェ・イェシェの年代を上述のように変更した場合、前述の『一切仏集密意経』訳経の年代も変更する必要があります。次回はその辺を修正しておきましょう。

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(注1)
この時代、特に年代を論じたものとしては、Vitali(1996)のほか、

・佐藤長 (1964) ダルマ王の子孫について. 東洋学報, vol.46, no.4[1964]. → 再録 : 佐藤長 (1986) 『中世チベット史研究』所収. pp.43-88. 同朋舎, 京都.
・山口瑞鳳 (1980) ダルマ王の二子と吐蕃の分裂. 駒沢大学仏教学部論集, no.11[1980/11], pp.214-233.
・Luciano Petech (1994) The Disintegration of the Tibetan Kingdom. IN : Per Kvaerne(ed.) (1994) Tibetan Studies : Proceedings of the 6th International Semina77777r of the International Association for Tibetan Studies, Fagernes, 1992, vol.2. → Reprinted IN : Alex McKay (ed.) (2003) THE HISTORY OF TIBET : VOLUME I. pp.286-297.

などがある。

(注2)
山口(1980)、Vitali(1996)などにより、各史料のウースン~ペルコルツェン時代の年代をまとめてみるとこのようになる。


(注3)
「サキャパ三史料」では、反乱が起きたのはペルコルツェンの死後になっている。『デウ・ジョセー仏教史』では、反乱によりヤルルンに居れなくなりさらにその流れで暗殺された、ということになっており、こちらの方がしっくりくる、ような気がする。

(注4)
二回目ではなく、チョンギェの吐蕃王墓が荒らされた三回目の反乱であった可能性もある。

(注5)
ただし、ウースン時代にも反乱と呼べるものはあった。『新唐書』や『資治通鑑』が詳しく伝えている842~66年の「論恐熱(blon khong bzher?)の反乱」がそれだが、その舞台は一貫してアムド~河西であり、チベット中央に影響が及ぶものではなかった。

(注6)
(2)を採用した場合、サンギェ・イェシェの業績として有名な

・グル・リンポチェの弟子となる
・ティソン・デツェン時代の訳経作業に参加した
・ラン・ダルマ王を幻術によりこらしめた

などのエピソードは、生まれる前の出来事になってしまい、三つ丸ごとありえないことになります。

(1)を採用した場合は、この三つのエピソードをうまく生かせることになり、その面では都合のいい年代論になる。ただし反乱エピソードの方をうまく説明できない。

(注7)
『ニャンレル仏教史』、『サンギェ・イェシェ伝』ともニンマパ関連史料である、という点では少し割り引いて考える必要はあるかもしれない。そうなると結局「ニンマパ関連史料」はどの程度信頼できるのか?という大問題にはまっていくので、この議論のこれ以上の展開は何らかの新証拠の発掘を待ちたいと思う。