2009年7月17日金曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(8) 仏教ニンマパとブルシャ

実はこの「ドゥツァ体」の伝来と関係ありそうな経典がチベット仏教にあるのです。

チベット仏教の古派であるニンマパが保持する重要な経典に、

『de bzhin gshegs pa thams cad kyi thugs gsang ba'i ye shes don gyi snying po rdo rje bkod pa'i rgyud rnal 'byor grub pa'i lung kun 'dus rig pa'i mdo theg pa chen po mngon par rtogs pa chos kyi rnam grangs rnam par bkod pa zhes bya ba'i mdo』

というものがあります。

漢名は
『一切如来密意智心蔵金剛荘厳本続修習成就旨普集名大乗経(現観法門荘厳経)』(注1)
または
『一切如来心秘密智慧心髄義金剛荘厳怛特羅瑜伽成就聖典総集明経大乗現観法門荘厳と名づくる経』(注2)

一般には、通称の『sangs rgyas kun gyi dgongs pa 'dus pa'i mdo(一切仏集密意経)』で呼ばれる場合が多いようです。

これは「吐蕃時代にチベット語に翻訳された」とされる、いわゆる「古タントラ(rnying rgyud)」の一つ(注3)。ニンマパではテルマ(gter ma/埋蔵経典)が有名ですが、これはテルマではなくインド仏典からの翻訳で、素性の明確な(と、ニンマパでは認識されている)経典(カーマ/bka' ma)。吐蕃時代にインド仏典から翻訳された密教経典は「古タントラ」と総称されます。

ニンマパの密教経典は新訳派とは違い、このような「古タントラ」が中心になっています。この『一切仏集密意経』は、ニンマパの密教「アヌヨーガ乗」(注4)の釈タントラとして重要視されています。

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さて、この『一切仏集密意経』ですが、後書きでは、

「インドの教師ダルマボディ(rgya gar gyi mkhan po dha rma bo dhi)、大学者ダーナラクシタ(ring lugs chen po da' na ra gshi ta)、主編・訳経師チェツェンキェー(zhu chen gyi lo tstsha ba che btsan skyes)によって、ブルシャ国のトム(bru zha'i yul gyi khrom)においてブルシャ文字(bru zha'i yi ge)から翻訳された」

と記されています。

まず、「トム(khrom)」とは何でしょうか?

現代チベット語では「市場」「群衆」という意味で使われます。「bru zha'i yul gyi khrom」をそのまま「ブルシャ国の市場」あるいは「ブルシャ国の町」と解しているケースもありますが、この場合は吐蕃時代の用法「植民地/占領地」(注5)と考えた方がよさそうです。

地名(町の名?)という可能性もあるかもしれませんが、ギルギット~バルティスタン周辺にそれに該当するような地名は今のところ見つかりません。

なお、前述のように『ラダック王統紀』では8世紀後半の記事ですでに「sbal ti」と「bru shal」が区別されていますが、バルティとブルシャはもともと同一国だったわけですから、この経典が翻訳された場所も、ギルギット/フンザ~バルティスタンと広く可能性を考えておいた方がいいでしょう。

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訳経の時期はいつでしょうか?。

「khrom=植民地」という解釈が正しければ、おそらく、親唐政権であった小勃律を吐蕃が制圧した737年以降のこととみてよさそうです(唐軍に奪還された747年以降の約十年間を除く、注6)。下限は吐蕃帝国の崩壊期(9世紀半ば~後半)になります。

訳者のダルマボディ、ダーナラクシタ、チェツェンキェーはニンマパ関係文献では、アヌヨーガ乗の祖師系譜にその名が現れます(というより、この経典自体がそれらの元ネタのようですが)。

ダーナラクシタはウディヤーナの僧or行者で、グル・リンポチェよりアヌヨーガの教えを受けています。ダルマボディはマガダの僧or行者でダーナラクシタの弟子筋に当たるようです。チェツェンキェーはブルシャの密教僧で、ダルマボディの孫弟子になります(注7)。

ダーナラクシタとダルマボディはブルシャ国に行き、そこでチェツェンキェーと共にアヌヨーガ経典をまずサンスクリット語からブルシャ語に翻訳し、さらにブルシャ語からチベット語に翻訳した、とされています。グル・リンポチェの弟子・孫弟子・曾孫弟子あたりに当たる世代の出来事ですから、8世紀末~9世紀前半に置くのはいい線でしょう。

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ニンマパの伝承では、ブルシャ国はインド~ウディヤーナ(スワート谷)から伝わった密教アヌヨーガ乗が盛んだった場所とされています。アヌヨーガをブルシャからチベットに導入した功労者はヌブチェン・サンギェ・イェシェ(gnubs chen sangs rgyas ye shes/通称ヌブワン/gnubs ban、8~9世紀、注8)。サンギェ・イェシェはグル・リンポチェ(Padmasambhava)の二十五人の弟子の一人で密教行者(sngags pa)の祖とされています。

サンギェ・イェシェはインド、ネパール、ブルシャなどを歴訪し諸師に教えを請いました。ブルシャの密教僧チェツェンキェーはそのような師の一人だった、といいます。ブルシャのアヌヨーガはサンギェ・イェシェの手でチベットに伝わり、ニンマパに伝承されてきたわけです。『一切仏集密意経』もサンギェ・イェシェがブルシャからチベットに持ち帰ったものと思われます(注9)。

アヌヨーガ乗はニンマパの修業体系に組み込まれ、現代までしっかり伝承されています。欧米・日本のニンマパ研究ではゾクチェンの人気が高く研究も盛んですが、このアヌヨーガ乗については最も研究の遅れている分野で、詳しい内容はあまり報告されていません。

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一方ブルシャのアヌヨーガ乗の伝統はどうなったのでしょうか。チベット側の記録でもそれは伝わっていません。また密教隆盛の様子もこれ以上わかりません。

しかしこの地は、大乗仏教発祥の地とされるガンダーラ、密教発祥の地とされるウディヤーナ(スワート)、7~8世紀に仏教が栄えたカシミールなどの仏教大国のすぐ北に位置していますから、大乗仏教、特に密教が伝わり栄えたであろうことは充分推測できます。ただし具体的な資料に乏しく、推定のレベルに留まります。

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(注1)
・大谷大学図書館・編 (1939) 『大谷大学図書館蔵 西蔵大蔵経 甘殊爾勘同目録 I』. pp.177. 大谷大学図書館, 京都.

にみえる漢名。大谷大学が所蔵しているのは寺本婉雅が将来した『北京殿板赤字西蔵大蔵経』。

(注2)
・東北帝国大学法文学部・編, (財)斎藤報恩会・補助 (1970) 『西蔵大蔵経総目録』. pp.2+701+124. 名著出版, 東京.

にみえる漢名。東北大学が所蔵しているのは多田等観が将来した『デルゲ版チベット大蔵経』。

(注3)
古タントラは、素性に疑問がある(つまりインド仏典の翻訳ではなく偽作の疑いがある)として、プトゥン(bu ston、1290-1364)の大蔵経目録にはほとんど収録されていない。これを踏襲する形で、古タントラは新訳派(カギュパ、サキャパ、ゲルクパ)にはほとんど顧みられていない。

『北京版大蔵経』では、「秘密部(密教部/rgyud)」の末尾におまけとして古タントラが付されている。大谷大学藏『北京版西蔵大蔵経』ではNo.452が『sangs rgyas kun gyi dgongs pa'dus pa'i mdo(一切仏集密意経)』。

『ジャン・サタム版(リタン版)大蔵経』、『デルゲ版大蔵経』などでは「古タントラ部(rnying rgyud)」が独立して設けられ、古タントラはそちらに収録されている。『ジャン・サタム版(リタン版)』ではNo.747が、東北大学蔵『デルゲ版』ではNo.829がこの経典。

大谷大学蔵『北京版』目録については(注1)を、東北大学蔵『デルゲ版』目録については(注2)を参照されたし。

在ベルリンの『ジャン・サタム版(リタン版)』目録については、

・IMAEDA Yoshiro (1982~84) CATALOGUE DU KANJUR TIBÉTAIN DE L'EDITION DE 'JANG SA-THAM (2 vols.). The International Institute for Buddhist Studies, Tokyo.

を参照されたし。

これら古タントラは、15世紀にラトナ・リンパ(ratna gling pa)が蒐集し、18世紀にジグメー・リンパ('jigs med gling pa)の手によって『rnying ma'i rgyud 'bum(古タントラ全集)』として開版されている。『古タントラ全集』No.161がこの経典。

『古タントラ全集』目録については、

・金子英一 (1982) 『古タントラ全集解題目録』. pp.68+496+23. 国書刊行会, 東京.

を参照されたし。

(注4)
ニンマパでは、教法を「九乗の宗義(theg pa rim pa dgu)」に区分している。

◆小の乗(phyi mtshan nyid kyi theg pa gsum)=顕教
1-声聞乗(nyan thos kyi theg pa)
2-独覚乗(rang rgyal ba'i theg pa)
3-菩薩乗(byang chub sems dpa'i theg pa)
◆中の乗(dka' thub rig byed kyi theg pa)=外タントラ乗(phyi rgyud sde gsum)
4-クリヤ乗(bya ba'i rgyud kyi theg pa)
5-ウパヤ乗(upa'i rgyud kyi theg pa)
6-ヨーガ乗(rnal 'byor gyi rgyud kyi theg pa)
◆大の乗(klong gyur thabs kyi theg pa)=内タントラ乗(nang rgyud gsum)
7-マハーヨーガ乗(rnal 'byor chen po'i theg pa)
8-アヌヨーガ乗(rjes su rnal 'byor gyi theg pa)
9-アティヨーガ乗=ゾクチェン/大究境(rdzogs pa chen po shin tu rnal 'byor gyi theg pa)

「アヌヨーガ乗」とは、「貪」を除くことを目的とし、「界(dbyings)」と「智(ye shes)」を体得するもの、だという(平松1989)。

この辺は私には理解が浅いところなので、正確な内容や修業の実際についてはニンマパ関係の資料をお読み下さい。

(注5)
「khrom」は「grom」ともつづられ、吐蕃時代、ル(ru)/トンデ(stong sde)制度が敷かれたチベット本土(ウー、ツァン、スム・ユル、シャンシュン-トンデ制度のみ)や藩王国(コンポ、ダクポ、ニャン・ユルなど)の外側に広がる占領地。旧・吐谷渾領の青海~河西回廊、タリム盆地、バルティスタン(大勃律)~ブルシャ(小勃律)あたりが対応するようだ。

参考:
・林冠群 (2000) 『唐代吐蕃的桀琛(rgayl phran)』. 蒙蔵委員会, 台北. → 再録 : 林冠群 (2006) 『唐代吐蕃論集』. pp.1-64. 中国藏学出版社, 北京.
・石川厳 (2003) 吐蕃帝国のマトム(rMa gróm)について. 日本西蔵学会会報, no.49[2003/05], pp.37-46.

「khrom」に関する研究では最も重要と思われる

・Géza Uray (1980) KHROM : Administrative Units of the Tibetan Empire in the 7th-9th Centuries. IN : Michael Aris+Aung San Suu Kyi(eds.) (1980) TIBETAN STUDIES IN HONOUR OF HUGH RICHARDSON. pp.310-318. Warminster.

は残念ながら未見。

(注6)
吐蕃が8世紀後半には大小勃律を奪還していた事実は、『la dwags rgyal rabs(ラダック王統紀)』のティソン・デツェン[位:754-97d]時代の記事として、

「四方の全地域が制圧され、東は中国(rgya nag)、南はインド(rgya gar)、西はバルティ(sbal ti)とブルシャル('bru shal)、北はホル(hor)のサイチョ・オドンケーカル(sa'i cho o don kas dkar、おそらく西州=旧・高昌国=トゥルファンを意味すると思われる)すべてを占領した」

とあることで裏付けられる。ただしこの記事では、40年にわたるティソン・デツェン時代のいつか、という細かい年代がわからない。

なお、大小勃律とは関係ないが、西州(トゥルファン)は吐蕃に占領されることなく唐の安西都護府として孤立した状態が続いたのであり、「sa'i cho・・・=西州」だとすればこの記事は誇大。西州の北に位置する北庭(ビシュバリク=ウルムチの東にあるジムサル=吉木薩爾)も、790年に吐蕃が占領したものの、翌791年にはウイグルが奪還した模様。

『敦煌文献・年表(編年記)』では、猿年=756年の記事として、

「猿年(756年)・・・(中略)・・・ワンジャク・ナクポ(ban 'jag nag po)国(パンジ川流域か?)、ゴク(gog)国(ワハーン=護密国)、シグニク(shig nig)国(シグナン=識匿国)など上手方面(stod phyogs)(諸国)から使者が(吐蕃宮廷を訪れツェンポに)拝礼した。」

とある。

747~53年には、小勃律(ブルシャ)、朅師(チトラル)、大勃律(バルティスタン)で吐蕃軍は唐軍に圧倒されていたはずなのだが、755年の安禄山の乱勃発による混乱で、早くも唐は西方ににらみが利かなくなったようだ。大小勃律には触れられていないが、大小勃律を依然唐が抑えていたならば、それよりさらに西方のパミール諸国が吐蕃へ使者を派遣できるはずがない。この時点で吐蕃はすでに大小勃律を奪還していた、とみてよさそうだ。

(注7)
ボン教側の伝承によると、チェツェンキェーはブル/ドゥ氏の一員とされる。トツェンキェー(mtho btsan skyes)/ツェツェンキェー(mtshe btsan skyes)の名で現われ、ボン教でも訳経師として知られている。

詳しくは、のちのエントリーで述べよう。

(注8)
サンギェ・イェシェの生没年は、

・斎藤昭俊+李戴昌・編(1989) 『東洋仏教人名事典』. pp.425. 新人物往来社, 東京.

では(823-962)とあり、百四十歳という異常な長命とされる(832年生まれとする資料もある)。サンギェ・イェシェの伝説にはランダルマ王[位:841-42d]との関わりも語られ、ペルコルツェン王[位:9世紀末-10世紀初]の代まで生存した、とされることもある。上述の生没年はこれらのエピソードを重視した結果の数字と思われる。

しかし、サンギェ・イェシェはティソン・デツェン王[位:754-97d]時代の仏教導入期にグル・リンポチェの弟子となり訳経作業に参加した、ともされ、これだと上記の生年とは大幅に矛盾する。

すべてのエピソードを考慮すると、その活動時期は約二百年にも渡ることになってしまい、さすがに信憑性に欠ける。

ニンマパの伝承では珍しいことではないが、サンギェ・イェシェの伝説には虚実入り乱れた内容が伝わっていると推測され、その実像はいまだ謎につつまれている。

寿命を百歳くらいとみて(それも疑問がないわけではないが)、ブルシャでの訳経エピソードとの整合性を考慮すると、「生年は8世紀前半/半ば、没年は9世紀前半/半ば」あたりが妥当なところだろうか。

サンギェ・イェシェの図像:
・Ragjung Yeshes Publications > Glossary > Sangye Yeshe of Nub
http://www.rangjung.com/authors/Sangye_Yeshe_of_Nub.htm

(注9)
アヌヨーガ乗の経典は「インド~ブルシャから伝わった」というより、実はサンギェ・イェシェ自身が創作し、インド仏典オリジナルに仮託したものではないか?と疑う説もある。

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参考(全般):
・George Roerich(tr.) (1949) THE BLUE ANNALS. pp.xx+1275. Asiatic Society of Bengal, Calcutta. → Reprint : (1996) Motilal Banarsidass, Delhi.
・Giuseppe Tucci (1970) Die Religionen Tibets. W.Kohlhammer, Stuttgart. → 英訳版 : Geoffrey Samuels(tr.) (1980) The Religion of Tibet. Routledge & Kegan Paul. → Reprint : (1988) pp.xii+340. University of California Press, Berkeley.
・Eva M. Dargyay (1977) THE RISE OF ESOTERIC BUDDHISM IN TIBET. → (1979) SECOND REVISED EDITION. Motilal Banarsidass, Delhi.
・金子(1982)上述.
・平松敏雄 (1982) 『西蔵仏教宗義研究 トゥカン『一切宗義』 第三巻 ニンマ派の章』. pp.x+213. 東洋文庫, 東京.
・平松敏雄 (1989) ニンマ派と中国禅. 長尾雅人ほか (1989) 『岩波講座 東洋思想 第一一巻 チベット仏教』所収. pp.263-287. 岩波書店, 東京.
・田中公明 (1993) 『チベット密教』. pls.+pp.iii+247+xxxiii. 平河出版社, 東京.
・Yeshe Tsogyal, Erik Pema Kunsang(tr.), Marcia Binder Schmidt(ed.) (1993) THE LOTUS-BORN : THE LIFE STORY OF PADMASAMBHAVA. pp.x+321. Shambhala Publications, Boston.

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(追記)@2009/07/24
チベット大蔵経に関しては次の文献を参照した。

・御牧克己 (1987) チベット語仏典概観. 長野泰彦+立川武蔵・編著 (1987) 『北村甫退官記念論文集 チベットの言語と文化』所収. pp.277-314. 冬樹社, 東京.
・今枝由郎 (1989) チベット大蔵経の編集と開版. 長尾雅人ほか (1989) 『岩波講座 東洋思想第一一巻 チベット仏教』所収. pp.325-350. 岩波書店, 東京.

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