ブルシャスキー語はいつから話されていたのでしょうか?そしてその範囲はどこまで広がっていたのでしょうか?
ブルシャスキー語が西欧人に知られるのは、イギリス人がこの地域に入り込むようになった19世紀半ば以降。Biddulph(1880)はこの言語を「Boorishki」と表記しましたが、初めての本格的な言語学的研究であるLorimer(1935~38)では「Burushaski」と表記され、以来この表記が一般的となっています。
それ以前にはブルシャスキー語の存在を示す報告は今のところ見あたりません。
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玄奘が『大唐西域記』の鉢露羅(Bolor)国の条で伝えている
「文字はおおむね印度と同じであるが、言語は諸国と異なっている。」(注1)
は、630年頃のボロルの言語を推測する上で重要です。玄奘が通過して来た周辺国で話されている、イラン系言語、テュルク系言語、インド・アーリア系言語、そしてカシミール語(シナー語とカシミール語は同グループ)とも違っていたものと推測できます。しかしこれがブルシャスキー語(あるいはその祖語)かどうか、判断できる材料はありません。
次に、慧超が『往五天竺国伝』の大勃律・揚同・娑播慈(注2)の条で伝えている
「衣服、言語、風俗もすべて(インドと)異なっている。・・・当地は胡人がいるので(仏法を)信仰しているのである。」(注3)
また小勃律の条で伝えている
「衣服、風俗、飲食物、言語は大勃律と似ている。」(注3)
も、720年頃のボロルの言語状況を伝える数少ない資料です。慧超は直接ボロル方面に足をのばしたわけではなく、これは伝聞による情報と考えられていますが、その情報の正確さには定評のあるところです。
インドと異なる言語が話されていた、とする情報は玄奘と矛盾しませんが、それをこえるようなものではありません。ここで貴重なのは、大・小勃律が似た言語を話している、という情報です。
大・小勃律はもともと一つの国(ボロル/勃律)なのですからそれほど不思議ではありませんが、シナー語、ブルシャスキー語、ワヒー語、バルティ語という系統の違う言語に細かく分かれている現状とは大きな違いです。
しかし当時の言語が具体的にどのような言語であるのか?ブルシャスキー語(あるいはその祖語)であるのか?という問題は依然わからないままです。
「胡人がいる」という情報からはコーカソイドの形質を持つ人々の存在を窺わせますが、玄奘の情報から、彼らの言語はイラン系でもインド・アーリア系でもなかったと推測できます。これはまさに現在のフンザそのものの状況であって、なかなかにわくわくするわけですが、どうしてもその肝心の言語自体にたどりつきません。
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8世紀よりチベット語で「ブルシャ(bru sha/'bru zha)」という名が現れます。これが「ブルシャスキー」という言語名と深く関係しているのは間違いないはずです。
かといってこの地名の存在だけで、当時すでにブルシャスキー語あるいはその祖語が話されていた、という証拠にはなりません。それにこの頃は、フンザ~ナガルだけではなくバルティスタンからカラコルム一帯がブルシャと呼ばれていたはずです(バルティスタンは後にブルシャの範囲からはずれますが)。ブルシャスキー語は古代にはこの広い範囲で話されていたのでしょうか?
先の慧超の報告「大・小勃律の言語は似ている」から判断するに、その可能性は高そうです。しかしなんとか肝心なその言語の実体にたどりつきたいものです。
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カラコルム各地に残されている経典や碑文のうちで紀元千年紀中のものは、大半がインド方面で使われていたインド系の言語(ガンダーラ語、サンスクリット語など)・文字(カローシュティー文字、ブラフミー文字、グプタ文字など)でつづられています。このあたりの事情は、玄奘が伝える情報と一致します。
しかし、この地域でそれらの言語が日常語として使われていたとは思えません。これら外来の言語・文字を知っていたのは、支配者階級や宗教関係者のみだったことでしょう。現地の言語を表記する文字は、ごく最近まで存在しなかったのですから、碑文を残す場合は経典で親しんだ外来の言語・文字で記すことになったのであろう、と推測できます。
というわけで、経典や碑文に現地の言語を伝えてくれるものは発見されていません。困ったものです。
この問題はなかなかつかみ所がないのですが、次回はもう少し別の方面から攻めてみましょう。
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(注1)
訳文は、
・水谷真成・訳注(1971) 『中国古典文学大系 大唐西域記』. 平凡社. → 再版 : (1999) 『大唐西域記 1~3』. pp.380+396+493. 平凡社東洋文庫653・655・657, 東京.
による。
(注2)
大勃律は東西(大小)分裂後のボロル/勃律の東側、現在のバルティスタン。揚同は羊同に同じく、シャンシュンと推定されている。娑播慈は今のところ不明だが、おおむねラダックあたりだろう、という意見が大勢を占める。
訳文は示さなかったが、この三国は吐蕃支配下にある、と記されており、720年頃の西部チベット~カラコルムの政治情勢を伝える貴重な記録でもある。
(注3)
訳文は、
・桑山正進・編 (1998) 『慧超往五天竺國傳研究 改訂第二刷』. pp.xii+292+pls. 臨川書店, 京都.
による。
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