カラコルム地域は今でこそイスラム化してはいますが、かつてはインド文化と共通したカースト制度を持っていました。インド本土ほど複雑なものではなく、カースト間の婚姻もわりとゆるいシンプルなものですが。
パキスタンはカースト制度を否定するイスラム教を国教とする立場上、最近の本で詳しく取り上げられることはありませんが、インド文化の残滓といえるカースト制度は今もある程度残存しているようです。19世紀にはカースト制度の名残も現在より色濃く、当時の本ではかなり詳しく報告されています。
ここでは主にBiddulph(1880)の報告に基づき、主に19世紀のギルギットの様子をまとめてみます。
最上位に位置するのが王族「ラジャ(Raja)」です。その下には豪族・領主階級「ロノ(Rono)」がいます(インドの「Rana」に対応する)。Ronoは、Raja=トラカン王朝同様その出自をペルシアやアラブに求めていることが多いようですが信憑性はありません。出自がカシミール、という説は信憑性がありそうです。
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その下に来るのが「シン(Shin)」です。ギルギットを中心とした一帯で話されているシナー語(Shina)の名は彼らの名から取られています。彼らは高位カーストとされてはいますが、特に武士カースト(クシャトリヤ)に相当するというわけではなさそうです。
彼らに特徴的なのは、土着ではなく南の方から移り住んだと伝えられていること(注1)、インド的なヒンドゥ教の影響(らしき風習)を色濃く残していることです。
南といってもそれほど遠くなく、インダス川下流方面のチラス(Chilas)/コーヒスタン(Khohistan)~カシミール直北のキシャンガンガー(Kishanganga)あたりが原住地とみられています。カシミール史にはカシミールのすぐ北に住む異民族「Darada」が頻繁に現れ、カシミールの王家とは敵対したり同盟したり同化したりと密接な関係を続けています(注2)。このダラダとシンはほぼ同一勢力であったと考えてよさそうです(注3)。
シン人に「sing(singhに同じ/獅子)」を姓に持つ人が多いことは、西インドを発祥とするラージプート(Rājpūt)と共通しています。また牛に関する禁忌も、ヒンドゥ教の牛を神聖視する風習が、イスラム化後に忌避という形に転じて生き残ったものと推測されています(注4)。
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シンの下に置かれているのが「ヤシクーン(Yashkun)」。これがギルギット~フンザの原住民とされます。不思議なのは、シナー語話者であるギルギットのヤシクーン、ブルシャスキー語話者であるフンザ~ナガルのヤシクーン(注5)は言語の違いにもかかわらず同じ扱いになっていることです。出自が同じとみられているわけでしょう。
シン人が南に起源を持ち、北へと移動してきたことを考えるならば、ギルギットのヤシクーンは元来シナー語話者ではなくブルシャスキー語話者で、シン人移住後その影響を受けてシナー語を話すようになった、という仮説が成り立ちます。
ブルシャスキー語分布域を見てみましょう。現在は東のフンザ~ナガルを中心とする地域と西のヤスィンを中心とする地域(注6)に分かれています。
カラコルム地方言語地図
その間は、北からはワヒー語が、南からはシナー語が食い込んで両地域を分断していることがわかります。ワヒー語が後来の言語であることは明らかです。またシナー語・文化も南からやって来たと推測されています。比較的近年に、フンザ~ナガルからヤスィンに(あるいはその逆)大規模な移民が行われたという記録(伝承)もありません。
ということは、ヤスィンとフンザ~ナガル間のプンヤール、イシコマン、グピスあたりも元々はブルシャスキー語の分布域で、後にシナー語・文化圏に取って代わられ、またさらに後には北から移住してきたワヒー人によって北部はワヒー語文化圏になったのであろう、と推測できます。
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というわけで、カラコルム地域では古来より広くブルシャスキー語(あるいはその祖語)が話されていたのではないか?という仮説は一応立てることは可能です。しかしなにしろ肝心な古い時代の言語資料が一切ないので、今のところは仮説に留まります。
「ヤシクーン」というカーストの存在が特に重要になりますが、これが本当に昔は全部ブルシャスキー語を話していたのか?が問題となります。
F.M.Khan(2002)では、「ギルギットのヤシクーンは古くからシナー語を話していた」という説を唱えています。そうすると、ブルシャスキー語を話すフンザ~ナガルのヤシクーンとはどういう関係になるのでしょうか?残念ながら、この著作ではそれに対する答えはありません。
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「カラコルム地域全域(古代ボロルの領域)ではかつてブルシャスキー語あるいはその祖語が話されていた」という仮説は検討する価値はあると思っていますが、充分検証せず、これを前提にいろいろな話を進めていくと、一挙にトンデモ方面に足を踏み入れてしまいますので、ここでやめておきます。
しかし、断片的な情報ではありますが、この説を補強できそうな資料が意外な方面にありました。チベット語文献です。
というわけで、チベット方面に一度戻りましょう。
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(注1)
ただし、シン人の北上の過程はあまりわかっていない。シン人がまとまった勢力として武力でギルギットを制圧したような記録(伝承)はないため、おそらく長い時間をかけてギルギットの社会に食い込んでいき、上位カーストとしての地位を確立したものと思われる。
(注2)
ムガル帝国に併合される直前、独立カシミール王国の最後を飾るチャク(Chak)朝(1555~89)はこのダルドの王朝。
カシミール語もシナー語と同じダルド諸語に区分されている。ただしカシミールは古くからインド側と交流があり、ダルド諸語の中で一番インド・アーリア系言語の影響が強い(ダルド諸語に多くみられるいわゆる「二十進法」はカシミール語では失われている)。
カシミール人とシン人(ダルド)は近接して住んでおり、元来両者の間にどれほど差があったかわからない。カシミール人・文化はインドからの影響を受けつつ同時に周辺民族を同化し取り込んでいった。
(注3)
「Darada」という集団名・地名は、ヘロドトス(BC5C)『歴史』に、ハカーマニシュ(アケメネス)朝ペルシア支配地の東端に位置し、ガンダーラの隣国の人々「Dadikai」として現れる。その後もストラボン(AD1C)『世界地誌』には「Derdai」として(位置は東インドと間違っているが)、大プリニウス(AD77)『博物誌』には「Dardae」として、プトレマイオス(2C)『地理学』では「Daradrae」としてその名がギリシア・ローマに伝わっている。
参考:
・松平千秋・訳(1967) 『世界古典文学全集 第10巻 ヘロドトス』. pp.456+29+pls. 筑摩書房, 東京.
・Luciano Petech (1977) THE KINGDOM OF LADAKH C.950-1842A.D. pp.XII+191. IsMEO, Roma.
・織田武雄・監修, 中務哲郎・訳 (1986) 『プトレマイオス地理学』. pp.xvi+263+pls. 東海大学出版会, 東京.
・中野貞雄+里美+美代・訳(1986) 『プリニウスの博物誌 第I巻』. pp.vi+531. 雄山閣出版, 東京.
・Dani(1991)前掲.
・飯尾都人・訳(1994) 『ストラボン ギリシア・ローマ世界地誌II』. pp.696. 龍溪書舎, 東京.
「シン=ダラダ/ダルド」という認識が正しければ、シナー語を代表とし、コワル語、カラーシュ語などを含めた総称「ダルド諸語」という用語はさほど悪いものではありません。ところが「ダラダ/ダルド」はあくまで他称ですから、シン人やコワル人などが直接「ダルド人」と呼ばれたり、カラコルム地域一帯が「Dardistan」と呼ばれたりするのは現地の人々には抵抗があるようです。
というわけで、現在は個別の民族名・言語名としての「ダルド」という呼び名はほぼ絶滅していて、民族学・言語学上でシン人/シナー語やコー人・コワル語などを含む諸民族・諸言語の「総称」として生き残っているだけになります。
(注4)
シン人は、牛に対する禁忌を持っていることがきわめて特徴的。かつては牛肉を食べない、牛乳を飲まない、なるべく触ることもしない、という徹底ぶりだった。所有はしても、飼育は下位カーストの使用人にさせていた。今はだいぶ消滅してきているようだ。
ヒンドゥ教では、シヴァ派にとってはシヴァ神の乗り物である牡牛ナンディ(Nandi)崇拝として、ヴィシュヌ派にとってはヴィシュヌ神の化身とされる牛飼い出身の英雄クリシュナ(Krishna)に対する信仰が、牛への神聖視に発展したものとされている。
参考:
辛島昇ほか・監修(1992) 『南アジアを知る事典』. 平凡社, 東京. → (2002) 改訂増補版. pp.1005.
シン人の牛に関する禁忌は、イスラム化後に神聖視が忌避という形に転じて生き残ったものと推測されている。
これとは別に、私見ではありますが、シン人の牛忌避習俗の起源は、シャクティ(女神)信仰と関係しているのではないか?とも考えているのですが、これは長くなるので稿を改めましょう。
なお、この風習はシン人の別派であるラダック・ダー・ハヌーのブロクパにも残っているが廃れつつあるのは同様。また、カラーシュ人にもあるようで、ダルド系民族全体の歴史を探る上でも重要な風習と思われる。この辺も突っ込み始めるときりがないので、ここまで。
(注5)
フンザ~ナガルでは、シンはごく少数派。
(注6)
ヤスィンのブルシャスキー語はウェルチクワル語(Werchikwar)と呼ばれ、他言語の影響が少ない古形を保持していると考えられている。
「Werchikwar」とはまた奇怪な響きを持つ名だが、実はこれが「bru sha」、「Burusho」につながる単語ではないか?という推測もある。しかし今のところ結論は出ていない。
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