2017年9月28日木曜日

北周・武帝の廃仏と北宋代・訳経団システム

引き続き「新アジア仏教史シリーズ」(佼成出版社)を読んでいるわけですが、お次は、

・菅野博史・編集協力 (2010.12) 『仏教の東伝と受容』(新アジア仏教史06 中国 I 南北朝). 405pp.+map. 佼成出版社, 東京.


装幀 : 間村純一

です。

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日本の仏教研究は、日本仏教以外では、インドの原始仏教~大乗仏教と中国仏教が中心でした。なので、中国仏教研究の成果も充実の一言。成熟していると言ってもいいでしょう。

ですから、この本を読んでいても、いつかどこかで読んだ内容がほとんど。スラスラ読めます。

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その中でも面白かった話題を二つ。

・河野訓 (2010.2) 第4章 三教の衝突と融合. 『仏教の東伝と受容』(新アジア仏教史06 中国 I 南北朝)所収. pp.169-227. 佼成出版社, 東京.

「三武一宗の法難」というものがあります。これは中国史上、国家による仏教排斥事件があった四時期を総称した用語。

(1) 北魏・太帝(438~52)
(2) 北周・帝(574~78)
(3) 唐・宗(845~46)=会昌の廃仏
(4) 後周・世(955~59)

これに、共産中国が成立してから現在も続く期間も、含めていいかもしれません。

「三武一宗一毛の法難」。

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さて、その中でも北周・武帝による廃仏事件はあまり知られていないような気がします。

439年に華北を統一した北魏・拓跋氏は、南朝の宋・斉・梁と対峙し南北朝時代を形成します。534~35年に東魏・西魏に分裂。まもなく、東魏は550年に高氏に簒奪され、北斉となります。

一方の西魏も557年に宇文氏に簒奪され、北周となります。簒奪を見ることなく556年に死んだ宇文泰の嫡子・宇文覚が557年、初代・孝閔帝となります。

しかし北周朝廷の実権を握っていたのは、晋蕩公・宇文護(孝閔帝のいとこ)でした。宇文護を除こうとした孝閔帝は、逆に1年も持たずに廃位され、ついには暗殺されてしまいました。

次いで庶兄・宇文毓が第二代・世宗・明帝となります。しかし明帝も宇文護によって560年暗殺。

これを18歳で継いだのが、庶弟・宇文邕。これが高祖・武帝です。572年には宇文護を誅殺し、親政を実現します。


北周・宇文氏系図

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武帝は、還俗僧・衛元嵩と道士・張賓にそそのかされ、まず569年に「道・儒・仏」という順次を定めます。

574年には、帝の御前にて道・仏の論争が行われます。道教側は張賓、仏教側は智炫が代表。智炫は提示された質問に次々と明快な回答を示し、道教側を圧倒。これで、仏教側の勝利はほぼ間違いなくなります。

しかし智炫は最後に「今、仏を廃して道を存せんと欲するは、なお庶をもって嫡に代うるがごとし」と口を滑らせてしまいます。

さあ、庶子でありながら即位した武帝は、この発言に顔色を変えて内裏に戻ってしまいます。

で、その翌日に出された勅は、

「勅を出だし二教倶に廃せり」

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まるで落語ですが、本当らしいから笑えない。僧侶・道士200万人が還俗したという。

しかしこの廃仏は、578年、武帝の崩御によりわずか4年で終わりを告げます。

この辺の事情はよく知らなかっただけに、なかなかおもしろかった。

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お次は

・船山徹 (2010.2) 第5章 仏典漢訳史要略. 『仏教の東伝と受容』(新アジア仏教史06 中国 I 南北朝)所収. pp.233-277. 佼成出版社, 東京.


そのうちの「四 隋唐以降の専門家集団による訳場」が特におもしろい。

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ここでは、

・志磐 (1269) 『仏祖統紀』

に基づき、北宋代の訳経院での梵→漢の訳経作業の段取りが細かく記録されています。

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当時の訳経作業は、複数の係による分業作業となっていたのです。その係と作業手順、そして『般若心経』の一節を訳経例としてまとめておくと、

(1) 訳主 : 梵文を読み上げる
「vyavalokayati sma: panca skandhas, tamś ca svabhavaśunyan paśyati sma.」

(2) 証義 : 訳主の左。訳主と共に梵文を討議。

(3) 証文 : 訳主の右。梵文朗読の誤りを点検。

(4) 書字梵学僧 : 梵文を漢字で音写。
「尾也嚩嚕迦底、娑麼、畔左、塞建駄娑、怛室左、娑嚩婆嚩戌儞焔、跛失也底、娑麼」

(5) 筆受 : 梵語を漢語に改める。
「照見五蘊彼自性空見」

(6) 綴文 : 文字の順序を入れ替えて、漢語文法に合致するよう整える。
「照見五蘊皆空」

(7) 参訳 : 梵語・漢訳を比較検討し、誤りを点検。

(8) 刊定 : 冗長な部分を削除し、語句の意味を確定。

(9) 潤文官 : わかりやすい表現にするために、必要に応じて語句・文章を加える。
「照見五蘊皆空、度一切苦厄」

このような訳経集団により、システマティックに進められていたのだ。

一見、「なんだ実際に翻訳してるのは(5)だけじゃないか」と思うかもしれませんが、おそらくこれは辞書を使って機械的に訳しているだけだと思うので、実はそれほど重要な役割ではないような気がします。

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このシステムは宋代における完成形で、古い時代にはもっと素朴な訳場システムでした。

南北朝時代の鳩摩羅什の場合は、五百人もの僧が参集した上で、鳩摩羅什が梵文を読み漢語に訳して述べる。それとともに音の違い、文意について解説。参集諸僧と議論しながら訳経を進めている。

唐代の玄奘の場合には、おそらくかなり上記のような訳経システムが出来上がっていたことであろう。スピードも早かったらしいし。

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そして、吐蕃時代の訳経はどうだったろうか?中国仏教のシステムを参考にしていた可能性がかなりあるのかも。

こちらも8~9世紀のわずか百年間で、主たる仏典はほとんど翻訳してしまったのだから。

もしかすると、上記のような訳経システムがチベット語、特に文語の成立に大きく影響したのかもしれない、なんて妄想を広げたりして。

チベット語経典は、インド語経典のほとんど逐語訳に近いとも言われているし・・・。

まあ、この辺はおいおい調べてみよう。

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というわけで、これもまたなかなか面白い巻でした。

2017年9月23日土曜日

東京国立博物館 東洋館 「チベットの仏像と密教の世界」展

を見てきました。

・東京国立博物館 > 展示 > アジアギャラリー(東洋館) > 地下 > チベットの仏像と密教の世界 / 東洋館 12室   2017年9月5日(火) ~ 2017年10月15日(日)(as of 2017/09/22)
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1875


同展パンフレット, p.1


同展パンフレット, pp.2-3


同展パンフレット, p.4

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展示会場は、東博入り口から右手にある東洋館。その地下。ここは東南アジアとインドの文物が展示されている場所です。

チベット仏教はご存知の通り、インド仏教の正統な後継者ですから、場所はここでいいでしょう。

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展示されていたのは、ほとんどが清代の18~19世紀に北京で作られた金銅像でした。その数15体。壁側一列に収まるささやかな展示です。

古いものは、No.1菩薩像(15~16世紀)、No.7 チャクラサンヴァラ父母仏立像(15~16世紀)くらい。しかしこちらも古い特徴があまり見れらないので、もうちょっと後の時代のような気がします。15~16世紀の仏像・仏画だと、波状の目になっていることが多いのですが、その特徴はない。

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北京産が多いので、チベットで見る仏像とは微妙に雰囲気が違っています。北京ものを見慣れていない私にとっては逆に面白い。

2016年12月~2017年1月に早稲田大学 會津八一記念博物館で開催された「チベット仏教の美術」展とも似た感じ。

2017年1月15日日曜日 早稲田大学 會津八一記念博物館 「チベット仏教の美術」展

しかし、どれもチベット仏教図像から逸脱したものは一つもないので、チベット仏教図像学の勉強にも最適です。非常に近くで見れるし。

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気になったものをいくつか。

No.1 菩薩座像(パンフレットp.1アップ)

何の菩薩か不明となっているが、おそらくチャンバ བྱམས་པ་ byams pa  弥勒菩薩でよさそうだ。特徴は少し不足しているが。

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No.7 ヴァジュラバイラヴァ父母仏立像(パンフレット p.2上右)

こういう細身のドルジェ・ジッチェ རྡོ་རྗེ་འཇིགས་བྱེད་ rdo rje 'jigs byed वज्र भैरव  Vajrabhairava/यमान्तक Yamataka 大威徳明王は珍しい。

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No.9 十方天像(パンフレットp.2下右)

十方天の像がずらりと並ぶのは珍しいね。

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No.11 釈迦如来立像(栴檀瑞像)(パンフレットp.4上左)

これだけが木像で漆塗りだ。チベットよりもインド~中央アジア風。特に衣の襞。腰のくびれなんかもそうですね。

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No.12 ツォンカパ坐像(パンフレットp.4上右)

これはまた、ずいぶん縮こまった、かわいいツォンカパだ。元は黄帽をかぶっていたと思われる。

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No.13 名月母坐像
No.14 除蓋障菩薩坐像
No.15 巴[ロ寽]沙雑扎天像
(パンフレットp.4下)

いずれも単独で像が作られるのは珍しい尊格。除蓋障菩薩は八大菩薩の一尊格だが、他の二尊格は調べないと、どういう尊格かわからないです

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とまあ、小規模ながらも結構面白い展示なので是非どうぞ。

常設展の料金(一般620(520)円、大学生410(310)円(注)( )内は20名以上の団体料金)だけで観覧できます。

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常設展もひと通り見ました。

しかし、常設展はどこの美術館・博物館でも同じなのですが、いろんなテーマに次々移っていくので、頭が追いついていかない。一つ一つはみな素晴らしいものなのはわかっているが・・・・。

2017年9月17日日曜日

ラスワ~キーロン・ルート開通

2015年4月のネパール大地震で、ネパールは大きな被害を蒙りました。

この地震による道路崩壊、土砂崩れなどで、ネパール~チベットの陸路ルート(कोदारी Kodari~འགྲམ་ 'gram ダム(障木 ザンムー))間も大きな被害に遭い通行不能となった。2017年9月現在もまだ通行止め。

こうなると、ネパール・チベット双方にとって、観光だけではなく交易にも悪影響が長引いているわけで、同ルートの復旧はもとより、代替ルートの開発も並行して行われてきました。

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それが一応開通までこぎつけたようです。

・The Guardian > travel > Will Coldwell/Nepal-Tibet border reopens to tourists after 2015 earthquake(Saturday 16 September 2017 11.00 BST)
https://www.theguardian.com/travel/2017/sep/16/tibet-nepal-border-road-reopens-after-earthquake-kathmandu-lhasa

Kerung-Kathmandu Highwayという名称。

Kathmanduから西に向かい、Trishuli Gadi त्रिशूली नदी 流域に入ります。Rasuwa郡 रसुवा जिल्लाに入りさらに北上。地震時に壊滅的な被害を受けたLangtang谷への分岐を過ぎると、国境の村 Rasuwa Ghadhi रसुवा गदी。Kathmanduから約130km。

ここから国境を越えてチベットに入ります。Trishuli Gadiが名を変えたキーロン・ツァンポ སྐྱིད་གྲོང་གཙང་པོ་ skyid grong gtsang po 吉隆藏布沿いに約20kmで吉隆県の県都キーロン སྐྱིད་གྲོང་ skyid grong 吉隆。Kerungと表記されているのは、このキーロンのことです。


Google Mapを一部改変

参考:

・ROYAL MOUNTAIN TRAVEL –NEPAL > blog > View Archive Here > May 2016 > First hand experience from Kerung – Kathmandu Highway.(Posted on May 30, 2016)
http://royalmt.com.np/blog/first-hand-experience-from-kerung-kathmandu-highway/

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公式には外国人旅行者にも開放されたことになっているようだが、今のところ開通しているのは、未舗装1車線の狭い道路だけなので、すぐに外国人旅行客が続々と行ける状況ではなさそう。ネパール側の道路状況もまだ悪いし。

キーロンはグンタン王国の王都だった場所だし、吐蕃時代から名が知れた場所なので、是非一度行ってみたい。

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しかし、この道路は中国の援助によって建設されたもの。当然、いざという時には軍用道路として使うつもりだ。

中国のネパールへの経済援助攻勢は、なかなかはげしい。このルート建設の意義についても、色々考えさせられます。

参考:

・谷川昌幸/ネパール評論 Nepal Review > ラサ-カトマンズ,道路も鉄道も(2014/08/11)
https://nepalreview.wordpress.com/2014/08/11/a-797/

2017年9月16日土曜日

ボン教管長メンリ・ティジン・リンポチェ遷化

ボン教を統率しておられるメンリ・ティジン・リンポチェが2017年9月14日に亡くなられました。享年87歳。

・西藏之声 > 文本存档 > 2017 年 九月 > 流亡藏人社区悼西藏雍仲本教領袖曼日赤增仁波切圓寂(九月 15, 2017)
http://www.vot.org/cn/%E6%B5%81%E4%BA%A1%E8%97%8F%E4%BA%BA%E7%A4%BE%E5%8C%BA%E6%82%BC%E8%A5%BF%E8%97%8F%E9%9B%8D%E4%BB%B2%E6%9C%AC%E6%95%99%E9%A2%86%E8%A2%96%E6%9B%BC%E6%97%A5%E8%B5%A4%E5%A2%9E%E4%BB%81%E6%B3%A2%E5%88%87/

謹んでご冥福をお祈りいたします。

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例によってHiamchalガイドブック草稿から、メンリ・ティジン・リンポチェについて。

メンリ・ティジン・ルントク・テンペイ・ニマ・リンポチェ སྨན་རི་ཁྲི་འཛིན་ལུང་རྟོགས་བསྟན་པའི་ཉི་མ་རིན་པོ་ཆེ། sman ri khri 'dzin lung rtogs bstan pa'i nyi ma rin po che/ (1929-2017)

第33代メンリ寺座主であり、ボン教全体を統括する管長でもある。法名サンギェ・テンジン སངས་རྒྱས་བསྟན་འཛིན་ sangs rgyas bstan 'dzin。

1929年、アムド南部ンガワ རྔ་བ་ rnga ba(現・四川省阿壩蔵族羌族自治州)東部のキャンツァン རྐྱང་ཚང་ rkyang tshang(松播県山巴 བསམ་པ་ bsam paの近郊)に生まれる。このあたりにはボン教徒、ボン教僧院が多く、古来ボン教の東の中心であった。

8歳で出家しボン教僧院キャンツァン・ゴンパで学ぶ。27歳でゲシェ(博士)号を獲得。キャンツァン寺の座主となったが間もなくその座を辞しメンリ寺、ユンドゥンリン寺に移った。

1959年、チベットが中国共産党に完全に制圧されると、サンギェ・テンジン師は他のボン教高僧らと共に、ネパールを経てインドに亡命した。

亡命後は、インドやネパールに残るボン教経典の収集に努めていたが、その途中でイギリス人チベット学者David Snellgroveと出会い、ロボン・テンジン・ナムダク・リンポチェ སློབ་དཔོན་བསྟན་འཛིན་རྣམ་དག་རིན་པོ་ཆེ་ slob dpon bstan 'dzin rnam dag rin po che、サムテン・カルメイ བསམ་གཏན་མཁར་རྨེའུ་ bsam gtan mkhar rme'u師と共にロンドン大学に招かれ、1962~64年はここで研究生活を送る。

1964~66年はダライ・ラマ法王の要請に応じインドに帰国し、Mussourieのチベット人学校長となる。さらに1967~69年にはオスロ大学に助教授として招かれた。

1969年、再建が始まったHimachal Pradesh州Solan県Dolanjのタシ・メンリリン・ゴンパ བཀྲ་ཤིས་སྨན་རི་གླིང་དགོན་པ་ bkra shis sman ri gling dgon paの第33代座主(メンリ・ティジン སྨན་རི་ཁྲི་འཛིན་ sman ri khri 'dzin)として迎えられ、インドへ帰国。その後は同寺の拡充に努め、僧の育成も進んだ。

欧米人学者と共にボン教研究にも尽力。ボン教に関する知見は一般にも広まり、怪しげな魔術的宗教と誤解されてきたボン教に対する理解も深まるようになった。

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(追記)@2017/09/16

英文の記事も出ているので、そちらも補足。

・Phayul.com > News > 15 September 2017 > Tenzin Monlam/Head of Bon Tradition 33rd Menri Trizin passes away (Friday, September 15, 2017 20:25)
http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=39541&article=Head+of+Bon+Tradition+33rd+Menri+Trizin+passes+away&t=1&c=1

Karakoram仏教、Kashmir仏教、Swat仏教の存在の軽さ

引き続き「新アジア仏教史シリーズ」(佼成出版社)を読んでいるわけですが、

・佼成出版社・編 (2010.10) 『文明・文化の交差点』(新アジア仏教史05 中央アジア). 469pp.+map. 佼成出版社, 東京.


装幀 : 間村純一, 撮影 : 李学亮

この本には、重大な欠落があります。

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おおまかに目次を当たってみると、

(1)013-061 山田明爾/第1章 インダス越えて 仏教の中央アジア
(2)067-112 橘堂晃一/第2章 東トルキスタンにおける仏教の受容とその展開
(3)119-158 松田和信/第3章 中央アジアの仏教写本
(4)165-215吉田豊/第4章 出土資料が語る宗教文化 イラン語圏の仏教を中心に
(5)221-257宮治昭/第5章 中央アジアの仏教美術
(6)264-316 蓮池利隆+山部能宣/第6章 仏教信仰と社会
(7)324-403 沖本克己+川崎ミチコ+濱田瑞美/第7章 敦煌 文献・文化・美術

(1)はガンダーラ~アフガニスタンを中心に解説。(2)は、タイトル通り東トルキスタンについて解説。(3)は主にアフガニスタン出土資料について解説。(4)は東西トルキスタンについて解説。

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ここで注目は(4)。

Afghanistan北部Bactriaまでは仏教遺跡が豊富なのだが、その北Sogdianaに入ると、とたんに仏教遺跡に乏しくなる。

まあ、まだ見つかっていないのだろう、と思い込んでいたが、さにあらず。

要するにソグドには組織的に仏教が伝播することはなく、仏教寺院やそれを支える僧侶を再生産できる教団は存在しなかった。
同書, p.176

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では、あれだけ仏教が栄えた東トルキスタンへは、どうやって伝わったのか?仏教はBactriaから、Sogdianaをほぼ素通りして東トルキスタンに入ったのか?

この本を読んだらそう思ってしまいますよね。だって他の重要ルートには、全く触れていないのだから。

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本blogでも何度も触れていますが、

・桑山正進 (1985.3) バーミヤーン大佛成立にかかわるふたつの道. 東方学報京都, no.57, pp.109-209.
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/66642/1/jic057_109.pdf

は、非常に重要な論文です。

2世紀から記録が残るインド僧・中国求法僧の中国~インド往来ルートを総ざらえすることで、「罽賓」の混乱の整理、中国~インド往来ルートの変化、Bamiyan石窟寺院群成立年代について論じています。

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大部ではありますが、終始エキサイティングな展開で、とても勉強になりました。

「罽賓」の混乱の整理については、

2009年9月29日火曜日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(24) 漢文史料に現れる「ブルシャ」その1 

の(注4)にも簡単にまとめてありますのでご参照あれ。

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その研究成果では、インドから東トルキスタンの交易ルートは時代によって以下のように変化した、と考察されています。

4~6世紀 : カラコルム・ルート(代表例 : 法顕)
6世紀以降 : ヒンドゥクシュ・ルート(代表例 : 玄奘)

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東トルキスタンに仏教が伝わった時期については、わかっていないことが多いのですが、ホータン(和田/于闐)には紀元前1世紀に伝わったとされます。そして、4~6世紀に東トルキスタン~中国の仏教は大きく発展します。

その主な仏教伝播ルートはSogdiana経由ではなく、当時のメイン交易ルートKarakoram経由だったのでしょう。

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上掲書(3)には、テーマの性格上、当然いわゆる「ギルギット写本」について言及があります。

「ギルギット写本」は、1931年にGilgit近郊NaupurのStupaから発見された、白樺樹皮に書写されたSanskrit語経典群。6~7世紀のものと推定されています。Schoyen Collectionが現れるまでは、世界で最も古い仏典写本でした。

しかし、(3)では、GilgitやKarakoramの仏教、どころかその地域についての解説が何もなく、まるで仏教とは縁遠い場所からの出土であるかのような印象を持たざるを得ません。

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Gilgitの近辺について、最も古く仏教の記録が残っているのは、法顕(東晋416)『法顕伝(仏国記)』

法顕がインドへ向かう途中、401年に葱嶺(Pamir)を超えて最初の国が陁歴でした。これは現在のDarelと考えられています。

陁歴では小乗仏教が栄えていたそうですが、なぜか弥勒菩薩の木造大仏があったといいます。

当時Gilgitは、すでに波倫/波路(Bolor)国として存在していたと思われるが、交易ルートから外れていたのか法顕は報告していません。

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Gilgitからは、先ほどの「ギルギット写本」や7世紀のものと推定される仏像銘文などが見つかっており、双方に共通した王名が現れるようになります。これがBolor国の「Patola Shahi朝」と呼ばれる王朝です。

7世紀後半になると、Bolor(Gilgit)は、中国史書では勃律の名で現れるようになります。当時の中心はBaltistanであったと考えられています。721年頃に、勃律は大勃律(Baltistan)と小勃律(Gilgit)に分裂します。

このうち大勃律は当時チベット高原から西方に領土を広げていた吐蕃領となりますが、小勃律は8世紀に唐と吐蕃の間で激しい争奪戦が繰り広げられます。

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とまあ、Karakoram、特にGilgitにおける仏教興隆の様子というのは断片的にしかわかっていないのですが、GandhalaあるいはKashmirから仏教伝播するルート上の国・町として、かなり仏教が栄えた地域だったのは間違いないでしょう。

しかし、上掲書では全く記述がないのです。

現在、Karakoramの仏教や歴史を研究している日本の研究者はいないのでしょう。しかし、欧米やインド、パキスタンでの研究をまとめた概説すらも、誰も書けないとは思えません。ここは「コラム」の形でもいいから、Karakoram仏教の重要性に触れておいてほしかった。

Karakoram仏教は、この本では、Gandhalaと東トルキスタンをつなぐミッシング・リンクになってしまったわけです。

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Karakoram仏教の、まるで存在しないかのような扱いもさることながら、同様にKashmir仏教、Swat仏教も上掲書では記述が一切ありません(Swatは地名としてだけ2度出てくるが)。

Kashmirは歴史が明らかになり、仏教の様子もわかってくるのは7世紀からです。

SwatはGandhalaと同時期のKushan朝時代から仏教が伝わっていましたが、特に8世紀頃に密教が栄えたことで有名です。チベット語で ཨོ་རྒྱན་ o rgyanと呼ばれるUddiyanaとはSwatのことでした。

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確かに、仏教の東トルキスタン~中国への伝播では、KashmirもSwatも直接大きな役割を果たしていないかもしれませんが、Karakoramへ繋がるルートの一部であったのは間違いありません。

この地域が無視されているせいで、仏教の東方伝来についても具体的なルートが今ひとつイメージがわきにくい、というのが上掲書の残念な点でした。

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この辺を、じっくり研究する人が出てほしいなあ。

TalibanがSwatあたりまでウロチョロしていてちょっと物騒ではあるけど、Burushaski語研究者・吉岡乾先生のように、毎年のように調査旅行に行っている人もいるんだし、是非、日本の仏教史研究のミッシング・リンクを埋める人が出てきてほしい。

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なお、Karakoramの歴史・仏教、特にチベットとの関わりについては、

2009年6月17日水曜日~2012年3月1日木曜日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(1)~(36)+おまけ3本

にまとめてありますので、ご参照あれ。

2017年9月9日土曜日

故Walter BeckerとHawaiiのチベット仏教

分家blogの

音盤テルトン > 2017年9月4日月曜日 追悼 Walter Becker

で紹介した、Steely Danの片割れで、先日惜しくも亡くなったWalter Beckerのソロ作

Walter Becker/11 TRACKS OF WHACK [Giant] pub.1994


Art Direction : Mick Haggerty

のお話です。

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このアルバムの3曲めに、Surf and/or Die という曲があります。

歌詞はきわめて難解で、はっきり言って、何言ってるかさっぱりわかりません。少なくとも「サーフィンできなきゃ死ぬ方がマシ!サーフィンできたら死んでもいい!」という歌ではない(笑)。

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で、この曲冒頭に何やらボワーンとDidjeriduみたいな低音が入っているが、すぐに消えて曲が始まる。だが、よく聴くと、この低音は曲の間中、控えめながらずっと鳴り続けているのだ。

間奏になると、これがチベット仏教の読経であることが、はっきりわかるようになる。

曲の後半は、この読経をバックに(おそらく)Dean Parksのギター・ソロが延々続くという妙な展開。エンディングは、かすかにマラカスは聞こえるものの、読経が主役に躍り出る。

歌詞の内容に、チベット仏教の思想らしきものは感じられないので、読経は効果音として用いられている、と思ってよさそう。

しかし、まっとうなRockにチベット仏教の読経という唐突感は、まあなんでしょうね。変な気持ちになります。

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クレジットを見ると、

Extra Special Thanks : ・・・(略)・・・ Chants and prayers of Tibetan lamas made possible by the blessing of Nechung Rimpoche. Hawaii lamas - Lama Tenzin, Lama Lobsang, Lama Pedor, Lama Jikmey. FREE TIBET.

とある。

というわけで、次はこのNechung Rinpocheを調べてみました。

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何のことはない。すぐに見つかった。

・THE NECHUNG FOUNDATION གནས་ཆུང་རྡོ་རྗེ་སྒྲ་དབྱངས་གླིང་། gnas chung rdo rje sgra dbyangs gling/ (since 2015) > About Us > Rinpoche / Nechung Rinpoche and his lineage
http://nechungfoundation.org/rinpoche.html

探してみたら、例のHimachalガイドブック草稿の段階で、すでに調べてあった。全く忘れていたよ。これを少し手直しして、ここに紹介しておこう。

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ネーチュン・リンポチェ གནས་ཆུངརིན་པོ་ཆེ། gnas chung rin po che/

ネーチュン・ゴンパ座主。ネーチュン・ゴンパは、ラサ郊外デプン・ゴンパ横にあるニンマパのゴンパ。

トランス状態となり、サムイェ寺護法神ペハル པེ་ཧར་ pe harの使いであるドルジェ・ダクデン རྡོ་རྗེ་སྒྲགས་ལདན་ rdo rje sgrags ldan=ネーチュン གནས་ཆུང་ gnas chungを憑依させ、ペハルの神託を伝える神降ろしネーチュン・クテン གནས་ཆུང་སྐུ་རྟེན་ gnas chung sku rtenの在所として有名。なお、ネーチュン・リンポチェとネーチュン・クテンは別人。

1960年前後に、ネーチュン・リンポチェもネーチュン・クテンも亡命し、ネーチュン・ゴンパは文化大革命中に破壊された。現在は再建されているが、リンポチェもクテンもいない状態で、活動は低調。

ネーチュン・ゴンパはDharamshalaのGanchen Kyishongでは、1984年に再建されている。

19世紀末、ニンマパ南流総本山のミンドルリン・ゴンパから、ウギェン・ティンレー・チューペル ཨོ་རྒྱན་འཕྲིན་ལས་ཆོས་དཔལ་ o rgyan 'phrin las chos dpalがネーチュン・ゴンパに移った。師は、8世紀グル・リンポチェの25人の弟子の一人ランド・コンチョク・チュンネー ལང་གྲོ་དཀོན་མཆོག་འབྱུང་གནས་ lang gro dkon mchog 'byung gnasの転生者と認定され、ネーチュン・ゴンパ座主となった。

その転生者の系譜が、ネーチュン・リンポチェと呼ばれ、代々ネーチュン・ゴンパ座主となっている。

2世トゥプテン・コンチョク ཐུབ་བསྟན་དཀོན་མཆོག thub bstan dkon mchog(1918-82)は、古典や占星術の大家として知られ、1950年代には北京で教鞭を執るなどもしたが、数カ月間投獄された事を機に、釈放後の1962年インド亡命。

2世は、ネーチュン・ゴンパから亡命したクテンや僧らと共に細々と活動を続けていた。1974年にはHawaiiに布教し、Nechung Dorjee Drayang Ling Buddhist Centreを設立した。しかし、新ネーチュン・ゴンパ完成を待たずに1982年に遷化した。

その転生者はなかなか見つからなかったが、1995年にようやくネーチュン・リンポチェ3世が認定され、インドとHawaiiで活動中。

3世は1985年ラサ生まれ。1993年インド亡命。1995年に3世として認定された。まだ若手のリンポチェである。

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Walter Beckerは、Steely Dan/GAUCHO [abc] pub.1980 完成後にHawaiiに移住。亡くなるまでずっとHawaiiを拠点にしていた。

Beckerがチベット仏教信者になっていたとは思わないが、何度かHawaiiのThe Nechung Foundationを訪れ、Nechung Rinpocheと関係が生じたのではないかと思われる。「FREE TIBET!」の文言も見えることから、少なくともチベットにシンパシーを持っているのは間違いない。

これ以上は調べても出てこないので、これまで。

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なお、The Nechung FoundationがあるのはHawaii島。

Hawaii諸島には、この他

・Kagyu Thegchen Ling(as of 2017/09/09)
http://www.ktlhonolulu.org/index.htm
O'ahu島。カルマ・カギュパ。カルー・リンポチェ(現在は3世)のゴンパ。

・Maui Darma Center(as of 2017/09/09)
http://mauidharmacenter.com/
Maui島。カルマ・カギュパ。こちらもカルー・リンポチェのゴンパ。

がある。意外でしょ。

Hawaiiに行かれる方は、こちらも行き先に含めてみてください。なお、私はHawaiiに行ったことはありません。

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またWalter Beckerに戻るが、Steely Danには、Bodhisattva という曲もある。これは2枚目のアルバム COUNTDOWN TO ECSTASY [abc] pub.1973 収録の1曲めだ。

ギター・ソロがフィーチャーされたバリバリのRockで、曲名がBodhisattvaというミスマッチ感がこれまたおもしろい。

歌詞は短く、西欧人が東洋の仏教にいだくあこがれを描くもの。というか、Donald Fagenがそんな素直な詞を書くはずもなく、なんかそういう西欧人を小馬鹿にしたような歌詞だ。

まあでも、この曲は上で述べたようにギター・サウンドを聞く曲になっているので、あんまり曲名に引きずられる必要はないだろう。

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なんだか、よくわからない話になっていますが、調べれば調べるほど、こういう色々な分野が渾然一体となって現れてくる瞬間が、調べものの醍醐味。

2017年9月6日水曜日

ラフの仏教、カレンの仏教

ここ最近、「新アジア仏教史シリーズ」(佼成出版社)を延々読んでいるのですが、

・林行夫・編集協力 (2011.1) 『静と動の仏教』(新アジア仏教史04 スリランカ・東南アジア). 525pp.+map. 佼成出版社, 東京.


装幀 : 間村純一, 撮影 : 田村仁

が驚きでした。

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この巻は、上座部仏教世界、すなわちスリランカ、東南アジア諸国(ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア)、それと雲南省南部を扱っています。

上座部仏教史はこれまで勉強したことがなかったので、先般の横浜ユーラシア文化館「タイ・山の民」展もあったことだし、ちょうどいい機会、ということで読んでいたわけです。

上座部仏教における各国の状況と影響関係が、詳しく記述されています。これまで漠然としかイメージをつかんでいなかったんですが、各国の上座部仏教世界での時空的な位置づけがかなり頭に入った。まさにこれは「仏教史」の本ですね。

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その中でも驚いた論考がこれ。

・片岡樹 (2011.1) 第8章 仏教、民俗宗教、少数民族. 『静と動の仏教』(新アジア仏教史04 スリランカ・東南アジア)所収. pp.383-413. 佼成出版社, 東京.

これは上座部仏教世界の辺境・中国雲南省~タイ北部の少数民族における仏教を取り上げた論考です。

といっても西双版納のタイ族の上座部仏教ではありません。この本では第7章で別途取り上げられています。

対象はなんとラフ(拉祜族)及びカレンの仏教です。

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これまでラフのことを「仏教徒」という切り口で見たことがなかったので、この論考に書かれていることは「目からうろこ」の連続。

18~20世紀ラフ族で巻き起こった、仏教化と仏教小国家興亡と蜂起の数々。年代順に整理してみよう。

(01)18C(雲南)-「緬(ミャンマー)僧(実はタイ系民族の僧)」を崇拝するラフが挙兵し清朝官憲と衝突。

(02)18C(雲南西南部・孟連)-上座部仏教僧侶中心の宗教反乱+ビルマ側ラフ兵の支援。

(03)19C初(雲南)-南柵仏・張輔国(漢人僧)が54カ村を支配し、ラフの半独立国家を樹立。最終的には清朝の軍事介入により滅亡。

(04)19C半ば(雲南西南部・ラフ地区)-漢人僧・王仏爺が崇拝を集める。超能力を持つと信じられ、伝説が多い。

(05)19C後半(雲南西南部・西盟)-三仏祖(西盟仏)(?~1888)が周辺諸民族を教化。死後、ラフ仏教教団は清朝により解体・弾圧される。

(06)1891(雲南西南部)-ラフ仏教徒の残党集団・五仏房夷の一斉蜂起。半年ほどで鎮圧。残党はビルマ国境でゲリラ戦。

(07)1903(雲南西南部・双江)-清朝に討伐されたラフ首領の遺児が「仙人」とともに挙兵。一時はタイ族領主(土司)を追放。

(08)1918(雲南西南部)-「主子(至高神グシャ)出現」の噂に基づき、「仙人」(07仙人とは別)の煽動による大反乱。民国政府行政官は引き上げ、無政府状態となる。

(09)1918頃?(ビルマ東部)-「イエス・キリスト降臨」の噂が広まる。

(10)1930年代(ビルマ東部・ムンサート)-マヘグシャ崇拝運動が反英反乱に発展。英軍により鎮圧される。

(11)1950~70年代(ビルマ)-モナグシャ(モナトボ/プチョン・ロン)が指導するラフの反政府活動。タイ側からのラフも参加。モナグシャの死後は、長男チャウが継ぐか、単なる麻薬軍閥化。

(12)1980年代(タイ最北部)-チャヌパヤが「モナグシャの再来」として、ラフの崇拝を集める。1989チャヌパヤはキリスト教に改宗。

(13)1990年代半ば(タイ最北部~ビルマ東部)-タイ系上座部仏教僧ブンチュム師が、予言者オパチャクの指導により、「モナグシャの再来」として、ラフの崇拝を集める。

こういった聖者崇拝が卓越した形、あるいは精霊信仰が変形した形での、ラフの仏教流行と反乱については、はじめて聞く話ばかりで、驚きっぱなしだ。

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本論考では、次にタイ北西部のカレンの仏教について述べる。これも、これまでカレンを「仏教徒」としてみたことがなかったので、驚くことばかりでした。

(14)19C前半(タイ北西部)-ユワ運動。至高神ユワがカレンに与えたはずだが失われた、とする神話上の「黄金の本」を「白い弟」が持ち帰り、それと共にユワも帰還し、未来仏が出現すると信じられた。1920年代、「白い弟」=白人宣教師と解され、カレンの間にキリスト教改宗が進む。

(15)19C(下ビルマ~タイ)-テコラン運動。ユワ運動と同様の「黄金の本」回復+未来仏出現カルト。隠遁僧が指導者となり、1960年代にはその七代目指導者。

(16)20C(タイ北部)-シーウィチャイ師がカレンの崇拝を集める。

(17)20C後半(タイ北部)-僧籍を剥奪された元僧侶が「白衣の聖者」としてカレンの崇拝を集める。

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上座部仏教に漢人の大乗仏教、そして聖者信仰、精霊信仰、土着の神話、さらにはキリスト教まで。

まさにsyncretism(宗教混淆)の極みだが、考えてみれば他の宗教の影響が皆無の宗教など存在しないのだ。日本に伝わった仏教にも、インド土着の信仰、中国の儒教、日本の民間信仰などが色濃く入り込み、日本独特の仏教風土が形成されている。

どの地域でも似たようなものだが、いずれの地域も「自分のとこの仏教が正統仏教」と主張するところがおもしろい。

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とにかくこれまで全く知らなかったラフ仏教の歴史に加え、色々な宗教・信仰が雨あられのように次々と降り注ぎ、もう読んでいてめまいがするほど。

著者の片岡先生は、ラフ民族誌、特にキリスト教の関係について研究されている方だが、このように仏教も視界に入れることで、とても深みのある論考が出現してしまった。どえらくエキサイティングな論考でした。

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(追記)@2017/09/09

上記論考の関連論文がweb上にありました。

・片岡樹 (2015.7) 山地からみたブンチュム崇拝現象 ラフの事例.東南アジア研究, vol.53, no.1, pp.100-136.
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/201484/1/jjsas_53%281%29_100.pdf
・片岡樹 (2014.3) 山地民ラフから見た東南アジアの王と国家. FIELDPLUS, no.11, pp.4-5.
http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/78063/1/field-11_p04-05_kai.pdf
・片岡樹 (2011.3) 跨境民・ラフ族. 中国21, no.34, pp.225-242.
https://aichiu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=7382&item_no=1&page_id=13&block_id=17