2016年12月30日金曜日

blogを3つに分けました

最近何のblogかわからなくなってるので、テーマで3つに分けました。

(1) stod phyogs トゥーチョク སྟོད་ཕྱོགས།
このblog。今までどおり、チベット・ヒマラヤの話題が中心。中国史、モンゴル、中央アジア、インドなどの話題もこちらで。

(2) KETOLA KA MAKHETLO 10000 (kkm10k)
新しいblog。マンガの話題を中心に、アート、本、科学などの話題。その他、雑多なものはなんでもここに突っ込みます。

(3) 音盤テルトン
新しいblog。音楽(Jazzが多い)の話題はこちらで。

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(1)からそれぞれのテーマの投稿を(2)、(3)に移してありますが、(1)の投稿もしばらく残しておきます(よって当分重複します)。

また、リンクやレイアウトにまだ不備がありますが、それらはおいおい修正していきます。

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さてさて、同時に3つも運営できるのでしょうか?まあやってみましょう。

2016年12月27日火曜日

中公新書『周』と『浙江大『左伝』真偽考』

最近読んだ中国古代史ものを2冊紹介。

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・佐藤信哉 (2016.9) 『周 理想化された古代王朝』(中公新書2396). 237pp. 中央公論新社, 東京.














中国古代の周王朝、特に西周時代にスポットを当てたもの。編集側の依頼は「春秋・戦国時代の周、すなわち東周を中心に」というものだったらしいが、著者が自分の専門である西周中心で押し切ってしまったそうな。正しいぞ!

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西周時代の記述といえば、武王克殷の後は、周公の話があって、その後一気に厲王と「共和の政」に進み、そして幽王憤死~東遷だけで終わることが多い。

この本では、西周時代の政治・礼制・文化を出土史料(主に金文)によって丹念に再構築していく。

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文献史料による西周史は、『尚書(書経)』、『史記』などをベースにした研究がこれまで散々行われており、この本でもそれがベースになっていることは言うまでもないが、出土資料を重視した研究でまとまったものというのは、

・白川静 (1971.4) 『金文の世界 殷周社会史』(東洋文庫184). 11+301pp. 平凡社, 東京.

以降少なかった。

特に最近は、中国国内では考古学的発見が相次ぎ、歴史を塗り替えるような発見が毎年のように続いている。白川(1971)以降の出土史料(主に青銅器銘文)を振り返りながら、西周史を見直していく作業は重要なのだ。

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このblogでは触れる機会があまりありませんが、私は中国史好きでもあります。

特に系図好きですね。中国の三皇五帝から清までの全王朝の系図+匈奴から清(女真)までの北アジア王朝の系図をExcelで作ってあります(もちろん、いろんな文献からの切り貼りで、独自のものではありませんが)。

で、この『周』はその系図の補足にすごく役に立ちました。

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BC770年、幽王憤死による西周滅亡後、一般にはその子・宜臼が成周(現・洛陽)に擁立され(平王)、以後は東周と呼ばれる、とされます。

ところが、平王とは別に、携王・余臣という王が並行して存在していたとする史料(『春秋左氏伝』、『竹書紀年』など)が存在しています。この携王が幽王とどういう関係にあるのかが、(私には)今までわかりませんでした。

清華大学・蔵『戦国竹簡』のうちの「繋年」=通称『清華簡・繋年』によると、携王は幽王の弟なのだそうです。これですっきりしたー。

『精華簡・繋年』は2008年に北京・清華大学が外国から買い戻して2010年から公開し始めた新しい出土史料なので、私のような素人にはまだまだ情報が回ってきません。

この中公新書『周』のような形で、その最新研究成果を教えてもらうとすごく助かる。

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この時代は、今はもちろんのこと、大昔にも周王室よりも春秋・戦国諸国の歴史のほうが人気があり、東周の動向はあまり取り上げられなくなる。もっとも、『史記』を読んでも、東周王室はスケールの小さい内輪もめがあるばかりで全然面白くないのは確か。

東周末の西周君、東周君あたりについても、金文を使った考察があっておもしろかった。この辺も自分にはよくわからなかったんですよ。だいぶ頭の中を整理できた。

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春秋・戦国の大諸侯については、『史記』や『春秋左氏伝』をベースにさんざん研究され、創作ものも数多くありおなじみなのだが、この本では周王室の周辺に仕えていた諸侯に関する情報が多いのもありがたい。

周公の系譜、召公の系譜、虢公、毛公、曽侯(南宮括の子孫)などですね。一連とまではいかない飛び飛びの系譜ながら、だいぶイメージつかめるようになった。西周時代の有力諸侯、申侯などについてはもっと知りたいなあ。

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本書では触れられなかったが、同著者による『穆天子伝』についての論考も読んでみたいなあ。

私が新書に求めるのは、こういうレベルの話題なのだが、最近は週刊誌記事の水増しレベルの新書が多く辟易していたところだった。

しかしこういう本の刊行を見ると、最近中公新書は昔の輝きを取り戻しつつあるよう。期待しよう。

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お次は

・浅野裕一+小沢賢二 (2013.12) 『浙江大『左伝』真偽考』. 292pp. 汲古書院, 東京.














高い本なので自分で買ったものではありません。図書館で借りたもの。グラビアには竹簡の写真が大量に掲載。これは持っていたいなあ。

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BC340年頃とされる楚の竹簡(著者たちは「斉・魯の竹簡」と推察)に関する論考。これは、もともと骨董市場から現れた出土文物。中国・浙江大学が2009年に購入者から寄贈を受け、整理と研究を進めてきた。

その中に『春秋左氏伝』と一致する内容が含まれており、その部分を『浙江大・左伝』と呼ぶ。

しかし、その真偽については定まっておらず議論が続いている。中国学界では、偽作説が優勢らしい。

『春秋左氏伝』(略称『左伝』)は春秋時代の正しい史実を多く含んではいるものの、同時代史料ではなく、前漢末・劉歆が左丘明に仮託して編纂したもの、というこちらも偽作説が優勢。

しかし『浙江大・左伝』が本物であるならば、戦国時代には『左伝』がすでに成立していたことになり、これは歴史を塗り替える発見となる。

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浅野、小沢の両先生は、偽作説が定着しつつある中、あえて真作説を唱え、困難な作業を実施した。その結果がこの本。

その是非について論評する能力は私にはない。特に偽作説を読んでいないので、本論考で、その偽作説に対して充分反論・論破できているのか判断がつけられない。

しかしネット上で調べても、この本はほとんど話題になっていないのですね。真作説、偽作説の当否はさておき、まずもっと議論されるべきと思う。

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大量に混入している「得」、「之」、「得之」といった衍字・衍文(文中に混入した余計な文字・文章)の解釈がやはり鍵でしょう。

ここでは、先生が弟子に読み聞かせながら書写させた時に入り込んだ、調子を整える字(「えーと」みたいなもの)と解釈されているが、証拠があるわけでなく、さらなる議論が必要。

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小沢先生の科斗文字についての論考はおもしろいし、ためになった。中国史や文学を見ていると、あちこちにこの「科斗文字」という言葉が出てくるのだが、その実態はよくわからなかったが、これでだいぶイメージつかめるようになった。

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上記書の本論からははずれるが、浅野+小沢(2013) p.155に中国文字学の大家・白川静の研究について重要な話が書いてあった。

これは他人の文章の引用という形で出てくるのだが、その原版がこれ↓

・東京大学大学院人文社会系研究科・文学部 > 教員紹介 > 教員エッセイ「私の選択」 > 2009年 > 大西克也(中国語中国文学)/文字の縁
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/teacher/essay/2009/3.html

そこで私は再び金文研究者としての白川静と向き合うことになった。そのようなある夜、研究会の後の飲み屋でふと感じた息苦しさが、白川文字学との訣別のきっかけとなった。以前あれほど魅力的に感じられた字源に関する言説が、実は甲骨文や金文のコンテクストに立脚点を持たず、信じるか信じないかというレベルで人に受け入れを迫るものであることに思い至ったのである。

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私も一時期白川文字学に入れ込んで、著作を大量に読んだものだが、ある時すっぱりと覚めた。それは漢字の最も基本的な部首「口」に関する疑問からであった。

白川説では、これはいわゆる「くち」ではなく、「サイ」というもの(が多い)だという。「祝詞」が入れられた箱だというのだが・・・。

祝詞?

ということは、漢字の最も基本的な部首ができる前に「祝詞を書いた文字」がすでにあったことになる。これはおかしい。

それにこの「サイ」、その材質が何か?(たぶん暗に木製と言いたいのだと思うが)、出土物として出てこないのはなぜか?、後代の宗教・文化にはどういう形で伝わっているのか?、あるいは伝わっていないのならば、それはなぜか?

などなど、一度疑問を持ってしまうと、芋づる式にどんどん疑問が出てくる。他の字源についても、解釈が独立してあるだけで、根拠薄弱なものが大半を占めることにもどんどん気づいてしまう。

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その白川説によって再構築された「呪術一色の王朝・殷」を、もう少し現実味のある姿にしたい、ということで研究を進めているのが、落合淳思先生。中公新書『周』も落合先生の手引で、執筆・発刊に至ったものだそうな。

落合先生の

・落合淳思 (2007.8) 『甲骨文字の読み方』(講談社現代新書1905). 235pp. 講談社, 東京.
・落合淳思 (2008.7) 『甲骨文字に歴史をよむ』(ちくま新書732). 228pp. 筑摩書房, 東京.
・落合淳思 (2015.1) 『殷 中国史最古の王朝』(中公新書2303). iii+256pp. 中央公論新社, 東京.

などの一連の著作(他に高い専門書ももちろんある)もずいぶん参考になった。

白川文字学については、別にちゃんと書かないとなあ。

2016年12月20日火曜日

Mustang王Jigme Dorje Palbar Bista逝去

MustangあるいはLo Mangthang གློ་བོ་སྨོན་ཐང་ glo bo smon thangの王様(ギャルポ རྒྱལ་པོ་ rgyal po)だったJigme Dorje Palbar Bista འཇིགས་མེད་རྡོ་རྗེ་དཔལ་འབར་ जिग्मे दोर्जेपलवर विष्टさん(1930-2016)が2016年12月16日Kathmanduで亡くなられたそうです。享年86歳。

・myRepublica > Kamal Pariyar/Last king of Mustang dies at 86.  December 17, 2016 00:00 AM
http://www.myrepublica.com/news/11273

ご冥福をお祈りいたします。

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王制は2008年に完全に廃止され、昨年からは王も健康上の理由でKathmanduに移り、入院していたようです。

知っている人は少ないかもしれませんが、Mustangを訪れた研究者やトレッカーを温かく迎えてくれることで有名な方でした。また一人、チベット文化圏のビッグネームが逝ってしまわれたなあ。

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私はMustangには行ったことはありませんが、カン・ティセ གངས་་ཏི་སེ་ gangs ti seからヤルツァンポ ཡར་ཀླུང་གཙང་པོ་ yar klung gtsang po沿いの道で東へ向かう途中、ドンバ འབྲོང་པ་ 'brong pa 仲巴付近からDhaulagiri方面を眺め、「あの先がMustangかあ」と思っただけでした。

しかし、チベット側からだと、峠らしい峠もなくホントちょっと下るだけでMustangなんですよね。国境なんて馬鹿らしいものと思わざるを得ませんでした。

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あまり知られていませんが、Mustang王家は大元をたどると、出自はシャンシュン ཞང་ཞུང་ zhang zhungになります。吐蕃時代に活躍したキュンポ ཁྱུང་པོ་ khyung po氏の末裔です。

キュンポ氏は、中央チベットに出てツァン gtsangに領地を得たキュンポ・プンセー・スツェ ཁྱུང་པོ་སྤུང་སད་ཟུ་ཙེ་ khyung po spung sad zu tseの系統(これがいわゆる小羊同/楊童)、シャンシュンに残り、644年頃に滅ぼされたリク・ミリャ ལིག་མྱི་རྷྱ་ lig myi rhya王朝の後を受けて、吐蕃属国のシャンシュン王となった系統(ラサンジェ王朝 ར་སང་རྗེ་ ra sang rje)があります。後者は、その後677年に結局吐蕃に滅ぼされて、カム ཁམས་ khams西部まで逃げテンチェン སྟེང་ཆེན་ steng chen 丁青にボン教王国を築きました。

一方、ツァンのキュンポ氏は、吐蕃時代には吐蕃家臣としてちょこちょこ名前が出てきます。

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吐蕃崩壊後、ツァンのキュンポ氏はツァン各地に散らばっていきます。その中から出てきたのが、キュンポ・ネンジョル ཁྱུང་པོ་རྣལ་འབྱོར་ khyung po rnal 'byor(1086-1139)とミラレーパ མི་ལ་རས་པ་ mi la ras pa(1052-1135)の二大高僧。Mustang王家はその遠い親戚に当たるわけですね。

吐蕃崩壊後、中央チベットから西遷した吐蕃王家末裔の一つがグンタン王国 གུང་ཐང་ gung thang 貢塘王国。その領地は、現在のキーロン སྐྱིད་གྲོང་ skyid grong 吉隆~ゾンカ རྫོང་དགའ་ rdzong dga' 宗嘎を中心とし、最盛期にはツァン西部を広く支配しました。

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その家臣として活躍したのがキュンポ氏の一支系。この家系から出たチューキョン・ブム ཆོས་སྐྱོང་འབུམ་ chos skyong 'bumは、1400年頃現在のMustangに代官として派遣されます。15世紀になるとグンタン王国は衰え始め、これに乗じてチューキョン・ブムの子アメ・ペル・サンポ・ギャル ཨ་མ་དཔལ་བཟང་པོ་རྒྱལ་ a ma dpal bzang po rgyalが1440年に独立。これがMustang王国の始まりです。

最盛期にはプラン སྤུ་ཧྲེང་ spu hreng普蘭に攻め入るなど、ツァン西部(ンガリー・メー མངའ་རིས་སྨད་ mnga' ris smad ンガリー下手と呼ばれることもある)方面の大勢力として君臨してきたこの王国も、19世紀になるとネパールGorkha王朝の属国となりました。その後も王国は細々と続いてきましたが、それも2008年にはついに終焉を迎えました。創建から実に600年近く。

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Jigme Dorje Palbar王の子息Jigme Sinki Palbar Bista འཇིགས་མེད་སེང་གེ་དཔལ་འབར་ 'jigs med seng ge dpal 'barが名目上王位を継がれるのでしょうが、旧王国の経営は一層難しくなりそうな気がします。

もしかすると、チベット側ルートが開放されれば、ツーリスト(大半は中国人になりそうだが)は倍増するかもしれない。でもなあ、それだと確実に文化汚染が進みそうだしなあ・・・。

そんな心配もしてしまう訃報でした。改めてJigme Dorje Palbar王のご冥福をお祈りいたします。

2016年12月14日水曜日

ヒマーチャル小出し劇場(37) Kinnaur Lippa村

何度か登場しているMiddle Kinnaurの村Lippa。ガイドブック等には一切登場しませんが、実に美しい村です。

例によってヒマーチャル・ガイドブック没原稿から。

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Lippa लिप्पा <2640m>

Rekong PeoからSutlej河上流へ約30km進むとTaiti Gad河口。そこからTaiti Gad沿いに北へ約7km。左岸の斜面に広がる大きな村。人口約1000人。フラット・ルーフの住宅が斜面を埋め尽くす様は壮観。











斜面の村だけに、通りは階段状に走っている。村のてっぺんにそびえているのがGanden Chokhor Gompa。土着神を祠る寺院は最下手に置かれている。

このように仏教寺院とヒンドゥ教(というより土着神)寺院が共存しているのは、日本の村に寺と神社が共存しているのにも似て、日本人には全く違和感がないのだが、欧米人にはよく理解できない風景かもしれない。

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◆Lippa Ganden Chokor Gompa དགའ་ལྡན་ཆོས་འཁོར་དགོན་པ་

村の最上部にそびえるチョモ・ゴンパ。ドゥクパ。チョモ(尼)は10名ほどいるが、その住居は集落内。通常は寺男が朝夕の世話をしているだけ。拝観料はお布施で。

創建年代は不明(せいぜい200年ほど前か?)だが、僧デーヴァラマとその子二代にわたり造営されたと伝えられる。

村を見渡す前庭に横長の棟が面しており、内部はドゥカンとチャムカン二つのお堂がマニ車回廊に囲まれている(お堂の説明は今回省略)。











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◆Tangtashu Mandir

村の下手にある土着神Tangtashuを祠った寺院。祠は二棟。どちらも、例によって入母屋造の屋根が美しい。Tangtashu神はJangi(जंगी འཇང་གྱིས་)のGyalmagyun神の弟といわれる。











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ところで、KinnaurにはKankani(རྐང་གཉིས་ rkang gnyis 「二本足」の意味)と呼ばれる「ゲートチョルテン」が多いのだが、Lippaの入り口には驚くべきKankaniがあります。











トラックもくぐれるKankaniです(笑)。見えないけど、屋根の下にはちゃんと小さいチョルテンがあります。

ここまで行くとやりすぎだよなあ。

2016年12月10日土曜日

『ロンチュン歌舞集』よりンガリーの民族衣装・装飾品

前回紹介した

・ཀརྨ་མཁས་གྲུབ་སྲིབ་སྐྱིད། karma mkhas grub srib skyid/ (1998) མངའ་རིས་རོང་ཆུང་ཁུལ་གྱི་ཐུན་མོང་མ་ཡིན་པའི་གནའ་སྲོལ་གླུ་གར་ཕྱོགས་བསྒྲིགས། mnga' ris rong chung khul gyi thun mong ma yin pa'i gna' srol glu gar phyogs bsgrigs/(A Collection of Ancient Songs of Ngari Rongchung/ンガリー・ロンチュン地方の比類なき伝統歌舞集). xxix+201pp. Karma Khedup, Dharamsala.

のカラー口絵から、ンガリー・ロンチュン地方の民族衣装や装飾品を紹介。

画像の下がキャプションの和訳

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歓迎の歌をお聞かせし、偉大なるダライ・ラマ法王14世猊下より、加持として最初の供物をいただいているお写真

高僧に、遠くで迎える歌(?)と歓迎の歌をお聞かせしているところ(撮影:Kim Yeshi)

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高僧に「幸福の絶頂」の歌をお聞かせしているところと思われる写真

十三天の踊り

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左右の山座の踊り

踊りを楽しんでいるところ

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ガルポン・センゲ・ングードゥプ(81歳)とその妻の歌い手タシ・ラゾム(85歳)、ツァパラン・シプキ・ドントゥー出身

歌い手ングードゥプ・サンモ(69歳)、シプキ周辺ゴンマ出身

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歌い手・故デキ・ドルマ、ツァパラン・シプキ・カンサル出身(撮影:Kim Yeshi)

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女性の装飾品

ペラクと耳隠し 花と一緒に身につける

銀製装飾品と珠

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銀製ブローチ

銀製の肩に達する長い耳飾り

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銀製飾り帯、お守り、ガウ、腕輪

(撮影:Kim Yeshi)

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これは、『ロンチュン歌舞集』の表1~背~表4をつないだもの。ギャワ・リンポチェ(ダライ・ラマ法王)をお迎えするところかな?

左手の女性たちは、KinnaurやKulluの帽子と似た帽子をかぶっていますね。こういうところでもやはり連続性が見られるわけです。

このタイプの帽子はプラン(སྤུ་ཧྲེང་ spu hreng 普蘭)にもあるのですが、おもしろいことにプランの人たちは、つばを下ろして後ろ前にかぶるという、変なかぶり方をします。それはまたいつか紹介しましょう。

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ところで上段の絵は、ツァパラン(རྩ་ཧྲང་ rtsa hrang 扎布譲、グゲ遺跡)の壁画なのですが、人々が一人おきに手をつないで踊っています。時代は15世紀。

驚くことに、実はこれも現役なのです。今も見られる場所はやっぱりKinnaur。










Pratap Studio, Rekong Peo提供

この踊りはKinnaurではKayangと呼ばれています。グゲ王国での名称は不明ですが、はじめてKayangを見た時は「あっ!グゲのアレだ!」とすぐわかって、どえらく感動しました。

ロンチュンでももちろん現役。上の図版のうち「踊りを楽しんでいるところ」で、一人おきに手をつないでいますね。ちゃんと本を読めば、ンガリーでの呼び名がわかるんじゃないかと思いますが、まだ見つけていません。すいません。

あと、写真はないけど、この踊りはSpitiでも見たことがあります。

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もう一つ、ンガリーの民族衣装の写真が出てきました。










これは、インドHimachal Pradesh州Mandi(मण्दी)県(注)Suja(सुजा)にある巨大僧院シェーラブリン・ゴンパ(ཤེས་རབ་གླིང་དགོན་པ་ shes rab gling dgon pa)のペルプン・シェーダ(དཔལ་སྤུངས་བཤད་གྲྭ dpal spungs bshad grwa)改築落成記念式典(2000年)の一幕。カルマ・カギュパ(ཀརྨ་བཀའ་བརྒྱུད་པ་ karma bka' brgyud pa)のタイ・スィトゥ・リンポチェ(ཏའི་སི་ཏུ་རིན་པོ་ཆེ་ ta'i si tu rin po che)の僧院です。

アトラクションとして、チベット舞台芸術研究所(Tibetan Institute of Performing Arts=TIPA)が出張して来て、歌や踊りを披露していました。それは大盛況。

その中にチョルカ・スム(ཆོལ་ཁ་གསུམ་ chol kha gsum チベット三州=ウー・ツァン+カム+アムド)の踊りがあったのですが、それを見て「あー、ンガリーはこの中に数えられていないんだなー」とちょっと寂しく思ったものでした。

ところが、その後にンガリーの踊りが単独で登場。うれしかったですね。

その出演者女性が羽織っているマントがロクパ(སློག་པ་ slog pa)。ンガリーのロクパはとてもカラフル。赤黄緑の三色がザックリと幾何学的に配置されたとてもモダンなデザインです。

彩りの少ないンガリーの土地でこのロクパに出会うと、とても楽しい気分になる。

しかしこのユニークな色使いとデザインはどこから来たのだろうか?チベットともインドとも異質な感じがする。

このロクパは『ロンチュン歌舞集』表紙の女性たちもはおっていますね。

(注) シェーラブリンの位置はぎりぎりMandi県内ですが、Kangra県境がすぐそこ。

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また、これとよく似たロクパはSpitiにもあります。














やはり緑が鮮やか。三角模様もあります。

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とまあ、あちこちから引っ張ってきて、ンガリーとその周辺の民族衣装などを見てきたわけですが、チベットの民族衣装でも、ンガリーやその周辺の民族衣装に関する研究は遅れています。

このエントリーで、西部チベット各地の民族衣装に興味を持つ人が増えることを期待します。

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(追記)@2016/12/11

「手つなぎ踊り」の壁画が描かれているのは、ツァパランのラカン・マルポと確認できました。ちょっと自信なかったんで書かないでおきましたけど。

「宣舞|玄舞」で検索すると、この踊りを取り上げた中国語サイトが、多数ひっかかってくることがわかりました。調べてみてください。

「宣/玄(xuan)」とはチベット語の何の音写か調べてみると、どうもཤོན་ shonの音写らしい。これだと「踊り」ということしか言っていないので、特にあの特殊な踊り方を表現するものではないですね。

ンガリーでも主に西部で確認されていることはわかりました。まさにロンチュン地方です。

もう少し調べてみましょう。

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(追記)@2016/12/11

Kinnaurで「手つなぎ踊り」をshonと呼んでいる例2つ。場所はどちらもLippaです。

・YouTube > tgnegikinnour/Kinnouri Shon Githang by Geshe Thupten Negi (2012/08/27 uploaded) 
https://www.youtube.com/watch?v=D7QKYEQE8z8

・YouTube > abhimanyu bhandari/kinnauri mela.........(2012/01/26 uploaded)
https://www.youtube.com/watch?v=yzJIyNjV3Bk

LippaはMiddle Kinnaurにありますから、「キナウル語(Hom-skad)が主/チベット語少し」くらいの地域です。ですから、Shon(Kayan)と両方使っています。

Shon Githangという表記がありますが、これは「ཤོན་གྱི་ཐང་ shon gyi thang」=「踊りの広場」という意味と思われます。

なんかこのエントリー、追記が果てしなく続きそうな予感・・・。

2016年12月5日月曜日

東京外国語大学図書館特別展示「旅するチベット語」

・東京外国語大学附属図書館・主催 「東京外国語大学附属図書館第17回特別展示 旅するチベット語 縁は異なもの文字は乗り物」. 東京外国語大学附属図書館2階ギャラリー, 府中, 2016/11/21-12/26.

を見てきました。

これはそのパンフレット














・星泉・選書+解説執筆 (2016.11) 『東京外国語大学附属図書館第17回特別展示 旅するチベット語 縁は異なもの文字は乗り物』. 16pp. 東京外国語大学附属図書館, 府中.
http://www.tufs.ac.jp/library/guide/shokai/tenji17.pdf

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ご覧のとおり、展示ケースわずか7つというささやかな展覧会ですが、内容は濃い。

図書館2階ロビーでの展示なので、図書館への入館手続きは不要。学外の人も自由に見ることができるので、近くまで来た方は是非どうぞ。

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展示内容タイトルをざっと紹介すると、

展示ケース1 : 記録の中のチベット(唐代、18世紀末)
展示ケース2 : ヨーロッパや日本からのまなざし(18世紀末~20世紀初)
展示ケース3 : 周辺の国々との関わりの中から生まれてきたもの(9世紀初、18世紀末、20世紀)
展示ケース4 :活版印刷との出会い、そして試練の時代(1950年代~60年代)
展示ケース5 : 文化復興の時代(1970年代後半~80年代)
展示ケース6 : 現代文学の幕開け(1970年代後半~2010年代)
展示ケース7 : 翻訳で広がる世界(2000年代~10年代)
おまけ : SERNYA 3冊のサンプル

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私の興味を引いたのはもちろん展示ケース1。









ここには

・馬掲+盛縄祖 (清1792) 『衛藏圖識』.

が展示されています。初版本なのか、どこかの時点で復刻されたものなのかはわかりませんが、とにかく貴重なもの。

なお、『衛藏圖識』の中身は、早稲田大学附属図書館のサイトでPDF版が公開されています。

・早稲田大学図書館 > コレクション・刊行物 > 古典籍総合データベース > 衛蔵図識 / [馬掲],[盛縄祖] [纂](as of 2016/12/04)
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru05/ru05_01515/

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パンフレット1ページ目の絵はここから取られています。面白いので公開されていた部分をちょっと訳してみましょう。

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ンガリー(མངའ་རིས་ mnga' ris 阿里)・ガルトク(གར་ཐོག gar thog 噶爾渡)部落のチベット人女性(番婦)の図

ンガリー(阿里)・ガルトク(噶爾渡)部落は、チベット西部にあり、ツァン地方(གཙང་ gtsang 後藏)タシルンポ(བཀྲ་ཤིས་ལྷུན་པོ་ bkra shis lhun po 札什倫布)、サンサン(བཟང་བཟང་ bzang bzang 三桑)と接する。ポラネー(ཕོ་ལྷ་ནས་ pho lha nas 頗羅鼐、1689-1747)の長子ギュルメー・ツェテン(འགྱུར་མེད་ཚེ་བརྟན་ 'gyur med tshe brtan 朱爾瑪特筞登、?-1750)がかつて駐屯していた場所である。

そこに住むチベット民の帽子の高さは一尺(約30cm)余り、帽子の縁は錦の類を使っている。幅広くはない。頂部は糸で縫い合わせてある(訳注:先が尖ったものになる)。

チベット女性の帽子は、前と後ろに玉すだれが垂れ下がり、(皇帝の冕冠の前後に垂れ下がる)旈(りゅう)のように、顔から頭を隠している。丸首で袖の大きい着物を着て、粗末なスカートを履いている。

役人に会う時でも帽子は取らず、右手で額より上を指し、「ཨཱོཾམཎིཧཱུྃ  オーム・マニ・フーム OMmaNihUM 唵嘛吽」と三度念ずるのみである。

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この女性の盛装、特に顔の前後に垂らした玉すだれがなんといっても面白いわけですが、実はこの装飾は今も現役なのです。

・ཀརྨ་མཁས་གྲུབ་སྲིབ་སྐྱིད། karma mkhas grub srib skyid/ (1998) མངའ་རིས་རོང་ཆུང་ཁུལ་གྱི་ཐུན་མོང་མ་ཡིན་པའི་གནའ་སྲོལ་གླུ་གར་ཕྱོགས་བསྒྲིགས། mnga' ris rong chung khul gyi thun mong ma yin pa'i gna' srol glu gar phyogs bsgrigs/(A Collection of Ancient Songs of Ngari Rongchung/ンガリー・ロンチュン地方の比類なき伝統歌舞集). xxix+201pp. Karma Khedup, Dharamsala.














表紙の女性の装飾がそれです。

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この本は、ンガリーのランチェン・カンバブ(གླང་ཆེན་ཁ་འབབ་ glang chen kha 'bab Sutelj川)流域最西端ロンチュン(རོང་ཆུང་ rong chung)地方の伝統歌舞を紹介したもの。ロンチュン地方からインドに亡命してきた人々による報告・記録になります。著者のカルマ・ケードゥプさんは、国境の町シプキ(སྲིབ་སྐྱིད་ srib skyid什布奇)出身らしく、名前のお尻に地名をつけていますね。

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『衛藏圖識』との違いは、ベレー帽みたいな帽子ではなく、Ladakhi女性のようにペラク(པེ་རག pe rag)をつけていること。この辺はLadakhからの影響と思われます。

ロンチュンを含む旧グゲ王国は17世紀にはLadakhに占領されていましたし、隣接しているSpiti、Upper Kinnaurも長らくLadakh領でした。

SpitiやUpper KinnaurのペラクはLadakhやZanskarで見られるよりもやや小ぶりです。ロンチュンのペラクも同様に小さめ。

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ロンチュンはインドHimachal Pradesh州Kinnaur県に接しています。Kinnaur県の最東端Spiti川流域Upper KinnaurはHangrang(ཧྲང་ཏྲང་ hrang trang)とも呼ばれ、文化・言語はロンチュンとはほとんど同じらしいです。このチベット文化は、さらに北へSpiti川沿いにSpiti(སྤྱི་ཏི་ spyi ti)へと連続しています。

Upper Kinnaurの女性装飾もロンチュンの装飾とそっくりです。














DK's Flash Photo Studio, Kaza提供

こちらでもペラクをつけていますね。

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ペラクではなく、『衛藏圖識』のようなベレー帽は、実はSutrej川をもう少し下ったMiddle Kinnaurに出てくるのです。ちょっと小規模ですが、もちろん玉すだれもあります。














Pratap Studio, Rekong Peo提供

これが『衛藏圖識』と一番似ていますね。

この顔の前の玉すだれ、Kinnaurでは「トノル」あるいは「ピラザ」と呼ばれています。「トノル」は「སྟོད་ནོར་ stod nor(頭部の宝物)」かも知れません。ベレー帽は「プレー・テパン」。

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少し離れてLahaulにも似たような装飾が見られます。










MS Kalpna Colour Lab, Keylong提供

こちらでは、この玉すだれに日月をつけてあり、「tarka」と呼ばれています。帽子はユ(གཡུ་ g-yu トルコ石)をたくさん縫いつけた帽子yutud(གཡུ་སྟོད་ g-yu stod)をかぶるのがユニーク。

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余談ですが、Lahaul西部Udaipurでは、Middle Kinnaurとよく似たベレー帽をかぶります。










Laxmi Art Studio, Udaipur提供

装飾は、他の地域と比べてちょっと地味かもしれませんが、耳を隠す装飾はやはり共通しています。

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一方、『衛藏圖識』における男性のとんがり帽子の絵は、パンフレットのp.3に出てきます。









星(2016)p.3

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こういったとんがり帽子は、西部チベット各地に出てくるのですが、ここではLadakhの例を紹介しておきましょう。もちろんSpitiやUpper Kinnaurにもあります。








Ladakh Sabuの祭り

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200年前の習俗が今もしっかり現役であることに感動するわけですが、現・中国領西チベットでは全く見ることができませんでした。残念。

お祭りにでも出くわせば、少しは見れたのかもしれませんが、民族衣装については、インド側の方が圧倒的に艶やかです。楽しい。

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最初に挙げた『ロンチュン歌舞集』ですが、買ってから十数年間、活用もせずに放ってあるので、少しは何とかしたい。

民族衣装の写真が結構あるので、その部分だけでもいずれ紹介しましょう。

2016年10月27日木曜日

ンガリー・アル・ツォ湖畔の雪崩の謎(続報)

2016年9月12日月曜日~2016年9月18日日曜日 ンガリー・アル・ツォ湖畔の雪崩の謎(1)~(4)

の続報です。

・AGU Blogosphere : American Geographical Union : Dave Petley(dr-dave)/THE LANDSLIDE BLOG > 24 OCTOBER 2016 The mysterious Tibetan ice avalanches of summer 2016
http://blogs.agu.org/landslideblog/2016/10/24/tibet-avalanches-1/
・AGU Blogosphere : American Geographical Union : Dave Petley(dr-dave)/THE LANDSLIDE BLOG > 25 OCTOBER 2016 Structures in the Aru Mountains giant avalanche deposits
http://blogs.agu.org/landslideblog/2016/10/25/aru-mountains-avalanche-1/
・Timothy Whitehead/Google Earth Blog : The amazing things about Google Earth > Avalanches in Tibet, OCTOBER 26, 2016
http://www.gearthblog.com/blog/archives/2016/10/avalanches-in-tibet.html

によれば、上記の雪崩の後、お隣りの氷河でも同様の氷河崩壊~雪崩が発生したようです(2016年9月21日)。












http://www.gearthblog.com/blog/archives/2016/10/avalanches-in-tibet.html
(October 16th, 2016. Copernicus Sentinel Data, 2016)

やはり湖畔近くまで雪崩が到達しており、メカニズムは同じでしょう。詳しくは過去ログでどうぞ。

それにしても恐るべき氷河サージ~雪崩の力だ。

2016年10月13日木曜日

ヒマーチャル小出し劇場(36) クッルー・ドゥシェラー

・THE TIMES OF INDIA > City News > Shimla > Festivities at historic week-long Kullu Dussehra begins today (TNN | Updated: Oct 11, 2016, 07.00 AM IST)
http://timesofindia.indiatimes.com/city/shimla/Festivities-at-historic-week-long-Kullu-Dussehra-begins-today/articleshow/54788630.cms

Kullu Dussehraが始まりました。

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特別にガイドブック用の記事を全部貼りましょう。ぜひ一度行ってみてください。

なお、正式には「ダシャラー」なのですが、Kulluではみんな「ドゥシェラー」と呼んでいましたね。よってここでもドゥシェラーと表記します。

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◆クッルー・ドゥシェラー Kullu Dussehra कुल्लू दशहरा

Kulluといえば、Dussehra。毎年10月 Kullu Maidan कुल्लू मैदान で開催される(日付は毎年変わる)。Kullu谷最大、HP州でも最大かつ最も著名な祭りである。

ドゥシェラー/ダシャラーは、インドのヒンドゥー教文化圏ではどこでも祝われる。もともとは秋の到来を祝う祭りで、前半は女神Durga दुर्गा を、後半はRama राम を讃える儀式が執り行われる。これは神話「Ramayana रामायण」にちなむもので、Ramaが鬼神Ravana रावण をに勝利したことを記念するもの。











女性の民族衣装を見るのも楽しみ。

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この祭りがKulluに伝えられたのは、17世紀と比較的新しい。











Kullu Raja Palace

1650年頃、当時のKullu王Jagat Singh जगत  सिंह が、Parvati पार्वती 谷に住むバラモン Durga Dutt दुर्गा दत्त が大きな真珠を持っていると聞きつけ、これを差し出すよう命じた。実はこれはデマであったのだが、再度に渡る命令に対しDurga Duttは所持を認めなかった。そして無実を証明するためにDurga Duttは家族もろとも自宅に火をつけ自殺してしまう。

その後王の身には、様々な不吉な出来事が起きる。王家付きの占星術師であるバラモンKishan Dass किसान इस に相談したところ、王はVishnu विष्णु 神の信仰を進言された。そしてその弟子Damodar Dass दामोदर इस に命じ、北インドAyodhya अयोध्या の寺院からRaghunath रघुनाथ 像を盗ませた。RaghunathはRamaの別名であり、RamaはVishnuの化身の一つ。

これは当然騒動となったが、結局Kullu王がAyodhyaの寺院に多額の寄進をすることで解決。Raghunath像はKullu王のもとにもたらされた。

当初Raghunath像はParvati谷のManikaran मणिकर्ण に祠られたが、まもなくSultanpur सुल्तानपुर(Kulluの旧名)にRaghunath Mandirが建立され、像はここに移された。そしてJagat Singh王はRaghunath神に王国を捧げ、自身は摂政としてKullu王国を統治し、都もSultanpurに移した。そして毎年Ramaを讃える祭りDussehraが盛大に開催されるようになる。














Kullu Raghunath Mandir

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単にRamaを讃えるというよりは、Rama信仰を背景としたKullu王家の威光を谷中に知らしめ、支配力を誇示するものといえるかもしれない。その後、Kullu Dussehraは独自の発展を遂げ、今では巨大な祭りになっている。なおこのDussehraでは、他地域のものとは異なり「Ramayana」が朗詠されることはないようだ。

DussehraにはKullu谷各地から300をこえる数の神々が集い、Kulluの主Raghunath神を参詣する。会場のDhalpur Maidan ढालपुर मैदान は、rath रथ(神輿)に乗ったmohra मोहरा(仮面)、祭りの期間村人が寝泊まりするテント、そして無数の露店、参拝・買い物客でいっぱいとなりその熱気に圧倒される。











布団も持ってきて、ここで寝るのだ

各地の神々はrathに乗ったmohraに憑依し、村人に担がれKulluまでやって来る。車を用いることは許されず、ずっと徒歩で担がれてくる。祭りの初日、最終日には村人に担がれて移動する神々の姿が街道沿いあちこちで見られる。チャイ屋での休憩時、神様もプラスチックのリゾートチェアで一休みしている姿は微笑ましい。











テント住まいのmohra/rath

膨大な数の露店も出る。冬を前にして各地の村人が交易を行う市の役割も果たしていたが、今では企業の宣伝・即売ブースなども多く商業的な色彩が強まりつつある。露店は祭りの後も出続けるので、しばらくは祭り気分が味わえる。











見よ、このにぎわい

祭りの間はMaidan対面にある野外劇場で連日歌や踊りのコンテストが開かれ、多くの聴衆が詰めかける。

祭りの期間はKullu市内の宿はほぼ満室となる。料金が倍に跳ね上がるホテルもある。予約は早めに。Kulluの宿が満室の場合、Bhuntar भुंतर やManali मनाली に宿を取り、そこから毎日祭りに通うという手もある。











祭りの間は、どのバスも屋根まで満員

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祭りの期間は7日間。毎日それぞれ独自の儀式が執り行われる。

まず最初に重要な役割を果たすのがManaliの女神Hidimba Devi हिडिम्बा देवी。この女神はKullu王家の守護女神でもある。祭りの初日、Manaliからrathに担がれSultanpurまでやって来て、Kullu王宮の前の広場で王家に迎えらえる。

次に、Raghunath像が寺院から出され、花やリボンでで飾られた豪華な山車に安置される。そして王族、Hidimba Deviに付き添われてDhalpur Maidanに向かう。Raghunath神の山車はMaidanの中央に据え付けられ、男子王族と共にここで1週間を過ごす。この間神々や民衆の参詣をここで受けるのだ。











人も神も一緒

2~5日目は各地からやって来た神々がRaghunath神像を参詣する。この祭りの期間中、神々のmohraはMaidanにテントを張ってRaghunath神と共に過ごす。もちろん村人も一緒である。色とりどりに飾られたmohra、rathは実に華やか。またそれぞれの村でmohraや装飾のデザインが異なるのも見ていて楽しいところ。











これはmohra/rathで神託を受けているところ。神託が下るとrathが重くなったり、傾いたり、揺れたりする。これでお告げの内容を判断する。いわば「こっくりさん」。

6日目が祭りのハイライト。この日は神々のmohra、rathが一堂に集いRaghunath神に謁見する。その姿はそれは壮観だという。

7日目が最終日。この日はRaghunathの山車がBeas 川 ब्यास नदी 河畔まで運ばれる。ここで水牛が生贄に付され、大きな焚き火が焚かれる。これはRamaが鬼神Ravanaの宮殿を燃やしたことを象徴している。その後山車はSultanpurに移動し、Raghunath像は寺院に再び安置される。これで祭りは解散となり、各地の神々は行きと同様村人に担がれながらのんびり自分の村へと帰って行く。

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Kulluの女性は、普段着もカラフルなことで知られている。まず頭はdhatu/thipu」と呼ばれるスカーフを姉さんかぶり。最近のデザインはペイズリー柄などのカラフルなもの。















上着はスネまであるドレスpattoo。ウール製でゆったりした作り。これにかなり大きめのウ-ル製ショールdohruを体に巻き付けピンで留めている。チェック柄や幾何学模様などのカラフルなものだ。この辺が個性の見せ所になっている。











2016年10月5日水曜日

広島大学ンガリー天文台

・朝日デジタル > 記事 > 清水康志/広島大がチベットに望遠鏡 宇宙の爆発現象を観測(2016年9月23日03時00分)
http://www.asahi.com/articles/ASJ9F3TGPJ9FPITB005.html

広島大学と中国国家天文台の研究グループが、チベット西部の標高約5100メートル地点に高感度の望遠鏡を設置した。
(中略)
広大宇宙科学センター長の吉田道利教授らが今月6~9日、チベット西部のアリ地区に入り、望遠鏡を仮設置した。

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というわけで、このHinOTORIプロジェクトのWebsiteに行ってみました。

・HinOTORI : Hiroshima University Operated Tibet Optical Robotic Imager(as of 2016/10/02)
http://hinotori.hiroshima-u.ac.jp/

なんか「n」が苦しいですが(笑)。

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場所はンガリー མངའརིས་ mnga' ris 阿里地区とのこと。では、それはどこなのかと調べてみると、

Environment
Latitude   32.31373N
Longitude  80.030018E
Altitude    5130m

だそうです。

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で、この緯度経度をGoogle Mapにつっこんで調べてみると・・・

















なるほど。場所は獅泉河の南約20km、ガル・ツァンポへ出る山越え道の近く。ガー山という場所だそうです。おもしろい場所に作ったもの。
















車が入れるよう、ちゃんと道がついていました。

HinOTORI Official Site Topの写真は、だいたい北方向を撮っています。右端の黒い小山の麓あたりが獅泉河。

獅泉河はだいぶ都市化し始めているとはいえ、明かりはたかが知れたものです。山を越えたガル・ツァンポ沿いの空港もそんなに頻繁に便があるわけではないし、絶好のロケーションといえるでしょう。

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・佐々木敏由紀 (2015.8) アジア域に観測サイトを求めて 西チベットサイト調査記(特集 アジア天文台 4). 天文月報, vol.108, no.8, pp.480-484.
http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/2015_108_08/108_480.pdf

によれば、チャンタン高原のオーマ འོ་མ་ 'o ma 物瑪も候補に挙がっていたらしい。しかし、意外にもヒマラヤ近くのほうが晴天率が高いんだそうで、それでガー山が選ばれたそうな。

しかし、上記の写真でもわかるように、ガー山からは獅泉河の町が見えてしまっているわけで、佐々木先生は、将来獅泉河が都会化する場合を心配しているようです。それは意外に早い時期なのかもしれませんね。

それで、獅泉河からESEに40kmほど入ったツォツォ གཙོ་ཙོ་ gtso tso 左左も将来の候補としして検討されているそうです。

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なお、インド側のLadakh Hanle ཝཾ་སླེ་ waM sleには、インドがすでに天文台を設けています。

・NATIONAL GEOGRAPHIC日本版 > ニュース > 宇宙&科学 > Andrew Fazekas・文, Nikhil Devasar・写真/世界一高い天文台の夜空、インド 2013.07.26
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/8198/

ここの標高は4500mですから、ガー山のほうが高いです。

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これまで挙げた場所の位置関係を示すとこうなります。








20年前には、よほどのチベット・マニアしか興味を持たなかったこのエリアが、徐々に知名度を上げていくのは悪いことではない。

そして、いつかは国境開放へ・・・なんてならないものかねえ・・・。

2016年10月1日土曜日

疑惑の峠を検証

2016年9月12日月曜日 ンガリー・アル・ツォ湖畔の雪崩の謎(1)

で紹介した

・北海道大学情報基盤センター北館 > その他のサービス : オンライン・データベース > POSITION : 位置情報データベース > API V2版 : グーグルマップで、緯度・経度・標高・水深を求める(2010/6/12)
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~x10795/Latlonele.html

を使って、「公称の数字がどうも怪しい」と言われている峠の標高を測ってみましょう。

ただし、上述の地図の標高が絶対正しい、と思っているわけではありません。でも現状では最良の標高データと言えそうです。作業仮説的な扱いで試行測定してみましょう、という程度。

今後もっと正確な標高データを持つデジタル地図が出てくるのかもしれません。

公称=と言ってもいろいろありますが、ガイドブック等でよく使われている数字、ということにしておきます。

Google=上述のサイトでひろった数字です。クリックする場所によって微妙に変わりますし、数m単位で正確、とまでは考えていないので、10m刻みで推定していきます。

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(1) Ladakh Leh-Nubra Khardong La མཁར་རྫོང་ལ་ mkhar rdzong la

まずはLadakh。LehからNubra谷へ抜けるBeacon Highwayの最高地点です。




公称=5606m
Google=5340m

私が気圧高度計で測った数字は5335mでしたからいい線いっていたようです。みなさんはどうでした?

「世界一高い自動車道」という売り文句ですが、実際は200m以上低いことがこれではっきりしました。それでもまだ「世界一」の可能性は残っています。さあ、ライバルのChang La、界山大坂はどうでしょうか?

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(2) Ladakh Takthok-Pangong Tso Chang La བྱང་ལ་ byang la

次もLadakhです。Indus川沿いからPamgong Tsoへ抜ける道の最高地点。ここも公称はKhardong Laに負けず高いですが、どうでしょうか?



公称=5599m
Google=5360m

ここも200m以上低くなってしまいました。それでもKhardong Laより若干高い!まあこの辺は誤差もあるかもしれないので、確実に世界一とは言えませんが。

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(3) 新蔵公路 界山大坂

中国/インドが領有を主張するアクサイチンを通る、新蔵公路の最高地点です。ここは驚くなかれ、道標に6700mというとんでもない数字が書いてあります。

・Luntaの小さい旅、大きい旅 ちょっとそこからヒマラヤの奥地まで > 西チベットの旅 14 2007-06-22 19:49:49
http://blog.goo.ne.jp/lunta_november/e/72629e8148bc1ddc23fd153db4f31de3

いや、書いてあった。

というのも最近の旅行記を見ると(2010年頃以降)、道標は上塗りされて5248mと表示されたようです。

・科学網 > 博客 > 孫建鵬 > 相冊 > 2010,騎行新藏線 > 当前第1張
http://bbs.sciencenet.cn/home.php?mod=space&uid=484062&do=album&picid=27710

なんだつまんない、まともになっちゃった。道標タイトルもなぜか「区界碑」から「界山達坂」に変わってる。

おそらくこの辺にも出没するようになった中国人旅行者からも、多数ツッコミが入ったのでしょう。さすがの中国政府も(比較的)正しい数字に修正せざるを得なかったよう。

道標のあった場所で、私が気圧高度計で測った数字は5240mでしたから、いい線いってます。

このあたりはだらだらした丘で、道沿いの最高地点ははっきりしない。界山大坂の道標がある場所は、ここから南にどんどん下り始める場所なので、一見峠らしく見えるから道標が置かれているだけ。その北西側にはもっと高い5300mくらいの地点があったはずです。

さらに驚いたことに、2015年の写真では、別の道標ができていて、そちらでは少し高くなって5347mになっています。あるいは同じ年の道標が5359mにもなっていて、わけがわかりません。

・螞蜂窩 > 目的地 > 日土 > 日土景点 > 界山達坂 有48張図(as of 2016/09/23)
http://www.mafengwo.cn/poi/1204173.html

それらの写真を見ると、元の道路から数m高い位置(北側)に舗装道路が作られていて、道標はそこにある。しかし100mも高くはならないでしょう。



公称=6700m → 5248m(2010年ころから) → 5347m(2015年ころから)
Google=5350m

今の道標の数字5347mはいい数字なのかもしれません。

しかしこんな短期間に表示がコロコロ変わるのは、自前で測量したんじゃなくて、たぶんどっかから数字をひろって来ただけなんでしょうね(笑)。

これが正しい数字だとすると、Ladakhの2峠とはいい勝負です。さあ、最終的にはどこが勝つのでしょう。

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じゃ、本当の「世界一高い自動車道」はどこだ?という話は、こちらが詳しい↓

・Wikipedia (English) > Khardung La (This page was last modified on 1 July 2016, at 09:45)
https://en.wikipedia.org/wiki/Khardung_La

残念ながらKhardong LaでもChang Laでも界山大坂でもないようですね。チベット内ではありますが。

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ついでに、LadakhやHimachalの峠も調べておきましょう。いや、これらは別に公称の標高を疑っているわけではないのですが。

まず、Manali-Leh Roadの峠を南から順に。

・Rohthang La རོ་ཐང་ལ་ ro thang la
公称=3978m Google=3980m

ManaliからLahaulへ抜ける峠。おお素晴らしい。公称は正しいですね。

・Baralacha La པ་ར་ལ་ཙ་ལ་ pa ra la tsa la
公称=4950m Google=4900m

LahaulからSerchuへ抜ける峠。公称は実際よりちょっと高いようです。でもまあそんなにひどい数字じゃない。

・Nakee La
公称=? Google=4700m or 4920m 気圧高度計=4950m

SerchuからPangへは峠を二度越えますが、その最初の峠。Nakee Laは尾根を回りこんでいるだけなので峠らしい峠ではない。

一般にNakee Laとされている場所は4700mくらいだが、その後ジグザグに斜面を登って行き4920mに達する。気圧高度計で測ったのは、おそらくそこでの数字。

・Lachulung La ལ་ཅུ་ལུང་ལ་ la cu lung la
公称=5065m Google=5070m

これは見事にほぼ一致。やっぱりちゃんとした峠はわりと正しい。

・Taglang La སྟག་ལང་ལ་ stag lang la
公称=5317m Google=5330m

これもなかなかいいですね。

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次にLeh-Srinagar Roadを東から西へ。

・Fotu La ཕུ་མཐོ་ལ་ phu mtho la
公称=4094m Google=4090m

これはいい線。

・Namika La
公称=3719m Google=3810m

意外に誤差があった。

・Zoji La འདུ་ཞི་ལ་ 'du zhi la
公称=3529m Google=3530m

これもいいですね。軍用道路を作る時にきっちり測量されているので、誤差は最小限。

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Zanskarの峠です。

・Penzi La དཔོན་རྩེ་ལ་ dpon rtse la
公称=4401m Google=4480m

Suru川からDoda川流域に入る、つまりZanskar入りする峠です。思ったより誤差が大きかった。

・Umasi La
公称=5340m Google=5410m

ZanskarからPadarへ抜けるトレッキング・ルートの最高地点。ここも結構誤差がある。

・Sengge La སེང་གེ་ལ་ seng ge la
公称=5050m Google=4940m

Lingshedを通るトレッキング・ルートの最高地点。トレッキング・ルート上の峠はちゃんと測量されていないので、みな誤差が大きいようですね。

・Shingo La ཤིང་ཀུན་ལ་ shing kun la
公称=5096m Google=5030m

ZanskarからLahaul(Darcha)へ抜ける峠です。

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Lahaul/Spiti
・Kunzum La ཀུན་འཛོམ་ལ་ kun 'dzom la
公称=4551m Google=4540m

LahaulとSpitiの境界の峠です。これも大丈夫そう。

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最後にカン・リンポチェ・コルラの最高地点ドルマ・ラ

Kang Tise
・Dolma La སྒྲོལ་མ་ལ་ sgrol ma la
公称=5668m Google=5590m

だいぶ誤差があります。しかし、この辺はGoogle標高もだいぶ誤差があるかもしれませんので、参考程度ということで。

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しかし楽しい。このサイトだけで何日も楽しめる。みなさんもこのサイトを使って、何か発見があったらぜひ教えて下さい。

2016年9月21日水曜日

代々木の魔窟 東豊書店 続報

約3ヶ月ぶりに東豊書店に行ってきました。

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2016年6月7日火曜日 代々木の魔窟 東豊書店 健在なり!

で述べた通りで、10年たっても何も変わらんのに、その後3ヶ月位では変化があるはずないんですが(笑)、今回は写真があります。

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これが代々木会館。素人衆には廃墟にしか見えない。看板のビリヤードだの金物店だのはとっくに退去。以来ずっとあのまま。テナントで生きているのは、3階東豊書店、1階立ち食い寿司屋、それと1階きぬちゃん食堂も生きているようでした。
















この斜めからのアングルはお馴染み。屋上は崩壊寸前。真下の空き地にはあまり長居しない方がいい。




















バックにドコモタワーを入れると、シュールな絵になる。

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入口には木製の扉が付いている。夜間・休日に侵入者が来ないように。階段にまで本や荷物が積んであるから。もっとも、ここの本盗んでも売る場所はない(笑)。















この看板も十年以上このまんま。懐かしの昭和テイスト。















店の入り口の外に本が山積みで、本や荷物は階段をも侵食している。行くたびにどんどん増えてる。店内は「本圧」がすごくて気詰まりなので、店主は入り口外の椅子に座っていることが多い。

(追記)@2016/10/11

ちなみに店の入口は向かって左側。正面は実は閉店したビリヤード屋の入口だったのだが、すっかり東豊書店の本に占拠されている。










中の棚はこんな具合。本の圧力がホントもう・・・。











見上げても、天井までこんな。閉所恐怖症の人は行くな。
















行けども行けどもこんな感じ。一応エアコンはついてる。

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今回も買ってきましたよ。ええ高い本を。だって見つけちゃったんだから、買わざるをえないでしょうが。

・林冠群 (2011.8) 『唐代吐蕃史研究 བོད་ཀྱི་བཙན་པོ་ལོ་རྒྱུས། bod kyi btsan po lo rgyus/』(聯經學術叢書). xix+850pp. 聯經出版事業, 台北.













林先生は台湾の方。すでに

・林冠群 (2006.9) 『唐代吐蕃史論集』(西蔵通史専題研究叢刊). 471pp. 中国藏学出版社, 北京.
・林冠群 (2007.10) 『唐代吐蕃歴史与文化論集』(西蔵通史専題研究叢刊). 426pp. 中国藏学出版社, 北京.

の2冊を持っているが、上掲書はその集大成。分厚い。これから読むのが楽しみだ。

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『唐代吐蕃史研究』はえらい高い本なんですが、調べてみると日本では東豊が一番安いことがわかった。意外。

東豊は、最近大陸の本はやたら高くてなかなか買えないんだが、台湾の本は比較的安いことがわかった。流通ルートの関係だな(店主は台湾出身)。

というわけで、思ったよりいい買い物ができた。200円もまけてくれたし。

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店主は、ちょうど台湾へ本を送る作業をしていた。変な話でしょ。台湾から輸入した本を、また台湾に送るんだから。

で、訊いたら、この店には台湾から「台湾の本」をわざわざ買いに来る客が多いんだそうな!!

というのも、この店には1980年代から全く動かないような本(一般には不良在庫という)が、(比喩でなく)山のようにあるのです。そういった古い本は、今や台湾でも手に入らないので、それでわざわざ台湾からこの店に本を探しに来るんだそうな。

ネット上の情報でも、日本人が台湾の古本屋に行ったところ「その本は、あの店ならあるかもしれない」と言って、東豊書店に電話していた、なんていう具合。すごい店なんですよ。

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帰り際に「まだまだお元気でお店やってください」と声をかけたら・・・

「でもねー、永久に店ができるわけじゃないからねー」と、珍しくちょっと弱気な店主(87歳)。

代々木会館に関しては何やら動きがある、という噂もあるが、店主にはこの魔窟をまだまだ守っていてほしい。

誰か店主の伝記作ってくれないかなあ。少なくとも本の雑誌あたりに一度きっちり取材してほしいところ。














最後に、東豊書店のビニール袋。