2019年7月16日火曜日

東豊書店より最後の発掘品 (5) 『宋代吐蕃史料集(一)』/『四川上古史新探』

最後だ。

・湯開建+劉建麗・輯校 (1986.7) 『宋代吐蕃史料集(一)』. 2+2+703pp. 四川民族出版社, 成都.



このシリーズは、

2012年2月10日金曜日 青唐王国関係論文リスト の巻

で簡単に触れた青唐王国(11世紀にアムド・ツォンカに栄えた吐蕃王家の後裔)の記事を、漢籍から拾ったもの。

元ネタは、北宋代の歴史をまとめた

・李燾・撰 (南宋1163-83) 『続資治通鑑長編』.

と、その散佚部分を復元した

・秦緗業+黄以周・撰 (清1883) 『続資治通鑑長編拾補』.

類似企画としては、

・陳燮章+索文清+陳乃文・輯 (1983) 『藏族史料集(二)』. 409pp. 四川民族出版社, 成都.

があるが、これは『宋史』から拾った記事が中心。上掲書はこれを補完するものになる。

それにしても分量が多い。上記エントリーでも書いたように、青唐王国の歴史というのは、一から十まで漢籍頼りなのだが、『続資治通鑑長編』にこれだけ膨大な記事があるとは知らなかった。これから(いつだ?)読むの大変。

なお、このシリーズは全3冊らしく、(二)は雑史などからの記事、(三)は考古史料などからの記事をまとめたものらしい。

(二)も(三)も見たことないねえ(笑)。今も見つかるとすれば、東豊書店くらいなものだったが、ついに見つけられずじまい。残念だ。

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・任乃強 (1986.6) 『四川上古史新探』(巴蜀史研究叢書). 330pp. 四川人民出版社, 成都.



これも古い本だが、状態はすこぶるいい(笑)。さすが東豊書店の在庫。

上編 羌族的遷徒與蜀族的発展
下編 巴的興亡與古老土著

に分かれている。

上編は四川の上手・成都あたりから西の古代史を、下編は四川の下手・重慶あたりの古代史を記述している。

上編前半は羌の歴史が延々続くので、チベット者にとってもおもしろい。後半は、蜀山氏、蚕叢氏、魚鳬氏、開明氏、といった神話~『華陽國志』にみえる歴史を記述。

これは三星堆遺跡が発見される前なので、頼りにしているのは文献史料のみだが、今ならだいぶ違った記述になるのだろう。

下編の巴国については、これまで調べたことがなかったので、これも役に立ちそうだ。

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東豊書店の在庫も行き先が決まったようだし、本当によかった。いずれ、装いも新たに市場に現れてくるだろう。それを楽しみに待っていよう。

2019年7月13日土曜日

東豊書店より最後の発掘品 (4) 『納西東巴文研究叢稿』/『彝族古代文化史』

お次は、

・喻遂生 (2003.9) 『納西東巴文研究叢稿』(西南師範大学漢語言文字學研究叢書). 1+2+370pp. 巴蜀書社, 成都.



雲南省麗江周辺に住む納西族の宗教・東巴教の経典で用いられる東巴文字についての研究書。

東巴教は、チベットの土着宗教ボン教の古い姿の流れをくむ宗教と考えられ、仏教の影響が色濃い今のボン教では失われてしまった伝承、教義、儀式を保存しているので、チベット研究にとっても重要な存在なのだ。

こういう本も何冊か持っているが、それらの補足として使うことになるだろう。

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・張福 (1999.2) 『彝族古代文化史』. 7+633pp. 雲南教育出版社, 昆明.



お次は四川~雲南の彝族。

彝族の祖先は、古代には烏蛮と呼ばれ、南詔王国(728~902)を建てた。これもチベット古代史ではジャン འཇང་ 'jang(「詔」のチベット語読み)と呼ばれ、重要な存在だ。

この本も、その南詔あたりから現代の彝族の文化についての研究書かと思ったら、さにあらず。それより前、春秋戦国~南北朝時代の彝族の先祖についてが中心の研究書だった。

先史時代から始まって、羌戎、濮、九隆、望苴子、蒲蛮、僰、嶲といった彝族の形成に関係があったとされる古代民族についての記述が続く。

その後は、現代の彝族宗教・神話より、古代の痕跡を探る。

そしていよいよ本論は、滇、爨(さん)についてだ。このまま烏蛮~南詔に行くのかと思いきや、なんと三国・南北朝の爨で終わり。これは意表を突かれた。隋唐より前の古代でおしまい、というまさに古代も古代だ。タイトルに偽りなし。

爨からは、東の烏蛮~彝族、西の白蛮~白族が分かれたとされており、重要な古代民族なのだ。

これはじっくり読むとかなり使いでがありそう。600ページ以上あるし。しかしこのページ数で、烏蛮も南詔も出てこないんだから、濃すぎる内容。

他の店ではどれくらいの売値なんだろう?と検索してみると、なんと日本にある中文書店のリストでは引っかかってこない。意外にレアものであることがわかった。国会図書館や大学図書館にはあるようだけど。

それにしてもこんな本がゴロゴロしていた東豊書店の貴重さがますます身にしみてきたよ・・・。

2019年7月7日日曜日

代々木会館完成は1963-64年で、1969年ではない

Web上の記事で、「代々木会館の完成は1969年、そして東豊書店の開店も1969年」という誤った情報が広まっているが、

2019年6月15日土曜日 東豊書店に関する文献集

で紹介した

・川上哲生 (2019.5) 光陰似箭 東豊書店の閉店を惜しむ. 中国研究月報, vol.73, no.5, pp.46-47.

を見ても、今のところWeb上で公開されている代々木会館の登記簿(いつ消えるかわからないが)を見ても、1963-64年(昭和38-39年)には代々木会館はすでにあり、それとほぼ同時に東豊書店が開店したことがわかる。おそらく1963-64年の登記・名義変更が代々木会館完成年であろう。

上記登記簿には、1969年には何も事件(不動産の登記・名義変更・譲渡などの手続きのことを云う業界用語で、警察が関係するわけではない)はない。

おそらく、最初に誰かが昭和39年を西暦変換する際に勘違いして、1969年と書いてしまい、それがずっと孫引きされているのだと思う。

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6月末に閉店した東豊書店の本は、なんとか行き先が決まったようで一安心。ほぼ文化財と化しているあの本の山が、廃棄されずに済んだことを喜びたい。また、関係者の尽力に感謝したい。

2019年7月6日土曜日

東豊書店より最後の発掘品 (3) 『西藏密宗喇嘛派拳術』

次は、今回発掘した本の中での最大の問題本

・韋永超・著, 羅威強・主編 (ca.1978) 『西藏密宗喇嘛派拳術 柔子八極拳譜』. 120pp. 藝美圖書公司, 香港.



この本、奥付に出版年月日がない。仕方がないので、編者の前言にある「寫於戊午春香江望海藥廬」から取って、戊午=1978年を出版年と推察する。

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全然聞いたこともない「チベット密教喇嘛派拳術」の本です。え~!?

この拳術は香港に伝わるもので、その起源はチベットに求められる、というのだ。

チベットの拳術?聞いたことないなー??

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とにかく、この本にある「西藏密宗喇嘛派源流考」から、その起源を探ってみよう。今のところ頼りはこれしかないのだから・・・。

清史によれば(って一体何のことを言ってんだか・・・)、

「喇嘛派武術は、天竺の僧院・雷音寺の活仏から(チベットの)格拉寺のラマ僧に伝わり、大いに発展し、いくつもの門派に分かれた。ついにはチベット国術となった。同活仏三代を経て、喇嘛派と呼ばれるようになった」

と云うのだが、聞いたことない話ばかりである。

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まず、天竺=インドの「雷音寺」だが、これは『西遊記』での三蔵法師一行の行き先「大雷音寺」が元ネタだろう。もういきなり胡散臭い。

実は、四川省・峨眉山にも雷音寺があり、実はこれが源流だったりして?

参考:

・百度百科 > 雷音寺(峨眉山雷音寺)(as of 2019/07/01)
https://baike.baidu.com/item/%E9%9B%B7%E9%9F%B3%E5%AF%BA/2250486

峨眉山・雷音寺については、後ほどもう少し突っこんでおこう。

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次はチベットにあるという格拉寺。

・佛教導航 > 総合専題 > 佛教機構 > 内地寺院介紹 > 正文内容 > 加桑卡郷格拉寺-類烏斉県-西藏寺院(発布時間:2013年03月23日)
http://www.fjdh.cn/ffzt/fjhy/ahsy2013/03/153140217823.html
・老牦牛 > 西藏租車、旅游攻略 > 昌都類烏斉県旅遊地図 (時間:2013-06-02)
http://www.laomaoniu.com/gonglue/772.html
・番茄表単 > 2019年格拉寺経堂修繕随喜(as of 2019/07/01)
https://uuivdt.fanqier.cn/f/hmx8h0a6

によれば、

西藏自治区 昌都地区 類烏斉(リウォチェ རི་བོ་ཆེ་ ri bo che)県の北端、加桑卡(チャクサムカ ལྕགས་ཟམ་ཁ་ lcags zam kha)郷のはずれ百美(あるいは日美)に、格拉寺という寺があるらしい。

小さなゴンパ(宗派不明)で、拳術が盛んな様子もない。どうもこれも関係なさそうだ。

そもそも、チベット仏教で拳術が盛んな寺など一つも知らん。

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その後の「喇嘛派拳術」の発展はというと・・・

「明代中葉(1500年前後?)、チベット僧・啊達陀尊者が深山で修行中、猿、鶴、蛇、熊、虎などが戦うさまを見て、その動きを取り入れ、八極拳を完成させた」

だそうな。

猿、蛇、虎が出てくるところを見ると、舞台はチベットではない。おそらく漢土のどこかに違いない。まあ、そこにチベット僧がいてもおかしくはないのだが、それにしてもチベットらしいところは一つもない。

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次は中国への伝来について、

「清代中葉(19世紀前半?)、チベット僧・星龍長老が広東に来訪。広州西方にある鼎湖山・慶雲寺で僧らに拳術を教えた。その晩年の弟子・王隠林は師の拳術の全てを継承した。

王隠林は、その後陝西などをめぐり修行。その名声は高まった。晩年になって香港に居を構え、医師を務める傍ら拳術を教えていた。

王隠林の息子が病死した後は、高弟・蔡懿恭(1882-1971)が流派を率い、優秀な弟子を多数輩出した。」

というのだが・・・。

王隠林はどうも実在していたようだが、その先代であるチベット僧・星龍長老になると、もうなんか怪しい。星龍長老がチベット僧であった、という話になると、ますます怪しい。

星龍長老の正体については後述。

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この本の大半は、喇嘛派拳術の形の写真が延々掲載してある。中国拳法について素人の私が見ると、その他の中国拳術とは全く区別がつかない。形にも、形の名前にも、チベットらしいところは一つもない。


同書 p.85 & p.42

形を見ているだけのせいもあるのだが、実用的な攻撃技というよりは、心身を鍛えるための拳術の雰囲気が強い。そう、「太極拳」的な。

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今のところの結論としては、この拳術にチベットと関係ありそうな点は見つからない。

おそらくは、星龍長老はチベット僧ではないだろう。実在したとすれば、漢土のどこかで中国系拳術の修行をした人だろう、としか言えない。

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もしも、喇嘛派拳術の起源が「天竺の雷音寺」ではなく、「峨眉山の雷音寺」であるなら、そして星龍長老もその辺(チベットの近くではある)出身の人であるなら、すべては辻褄が合う。

峨眉山には「峨眉武術」という伝統があるらしいので、一応この説は成立しそうだ。

ただし、現在見られる峨眉武術は、いろんな中国武術の寄せ集めの要素が強くなっているらしい。

参考:

・zigzagmax/中国武術雑記帳 > 2017-08-27 四川省武術協会編著『峨眉武術史略』
http://zigzagmax.hatenablog.com/entry/2017/08/27/215015

その中の雷音寺と中国拳術の関係など、詰めなきゃいけないことはたくさんあるが、そこまでやる気も出ない。

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星龍長老について調べてみると、その正体らしきものが出てきた。

・維基百科 自由的百科全書 > 李遂成 (本頁面最后修訂于2017年1月7日 (星期六) 19:46)
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E9%81%82%E6%88%90

これによると、星龍長老とは清末の武術師・李遂成の別名なのだそうな。生地は四川とある。やっぱりな。

星龍長老が四川チベット人(カムパ)である可能性はゼロではないが、その証拠もない。どこまで信用できるか知らないが、太平天国の将領でもあったというから、チベット人である可能性はますます低い。

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もう一つ

・維基百科 自由的百科全書 > 王隠林 (本頁面最后修訂于2018年6月9日 (星期六) 21:20)
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E9%9A%90%E6%9E%97

を見てみると、王隱林も星龍長老と呼ばれている。

『西藏密宗喇嘛派拳術』では、王隱林の武術は蔡懿恭の喇嘛派だけが受け継いだかのように書かれているが、実際は、俠家派、白鶴派、喇嘛派の三派に分かれたことがわかる。

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星龍長老=李遂成がなぜチベット僧ということになったのか?箔をつけるためのハッタリか?弟子たちの誤解か?今となっては全くわからない。

一応、自分としては納得できる地点まで来たので、この喇嘛派拳術についてはとりあえず終わり。

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これと似たケースに、「Peter Kelderのチベット体操」がある。

そもそもこのPeter Kelderという人物自体、素性がわかっていない。わかっているのは、1939年にUSAで、わずか16ページの小冊子

・Peter Kelder (1939) THE EYE OF REVELATION. 16pp. The New Era Press, Burbank (CA).
→ 邦訳 : ピーター・ケルダー・著, 渡辺昭子・訳 (1993.6) 『若さの泉 5つのチベット体操』. 119pp. 河出書房新社, 東京.

を出したということだけ。

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Kelderは、1930年代にSouth Californiaで、Bradford大佐という人物に出会い、このチベット体操を教わったのだという。

そして、そのBradford大佐は、英領インド軍退役後チベットへ向かい、チベット仏教僧院で修行し、この長生き体操を習得したのだという。

Bradford大佐という人物は、Kelderの著作にしか現れない胡散臭い人物だし、そのチベット行についても裏付けは全く取れない。

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二人が出会ったというのがCaliforniaというのも意味深。Californiaは神智学系オカルトの巣窟だったのだ。

神智学系チベット行のホラ話は、Helena Petrovna Blavatsky(1831-1891)から始まっているのだが、Baird T. Spalding(1872-1953)の『LIFE AND TEACHING OF THE MASTERS OF THE FAR EAST : VOLUMES 1-6(ヒマラヤ聖者の生活探求 1-5)』も有名。

そう、チベットやインドの話なのに、キリスト教の話やイエス・キリストばかりが出て来るあの失笑ものの本(実はこの本がヒットするまで、Spaldingはチベットどころかインドにも行ったことすらなかった)。

SpaldingはKelderとは同時代人だ。

Kelderのチベット体操も、Californiaに流布していた、神智学、インドのyoga、オカルト健康法が渾然一体となったオカルト・ムーヴメントの一環と見ている。

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チベット体操は、私はチベットとは無関係と見ているが、それ自体は特に害毒はなさそう。まっとうかどうかはわからんが、yogaの一種ではあるので、信じたい人は信じて実践すればいいだろう。

ただし、これが「チベット起源である」と主張する人は、立証の責任がある。

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喇嘛派拳術から神智学系チベット・ヨタ話に飛び火してしまったが、そういうことを思い出させたくれた、この本と東豊書店に感謝したい。

2019年7月3日水曜日

東豊書店より最後の発掘品 (2) Édouard Chavannes 『西突厥史料』

全部で8冊買ったので、紹介も手間がかかるのだ。

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・〔法〕沙畹・編著, 馮承鈞・訳 (2004.1) 『西突厥史料』. 3+8+1+339+60pp.+pl. 中華書局, 北京.



フランスの東洋史学者Édouard Chavannes(1865-1918)の名著

・Édouard Chavannes (1903) DOCUMENTS SUR LES TOU-KIUE (TURCS) OCCIDENTAUX : RECUEILLIS ET COMMENTÉ SUIVI DE NOTES ADDITIONELLES. iv+378+110pp.+pl. Librairie d'Amérique et d'Orient, Paris.

を中国語訳した

・〔法〕沙畹・編著, 馮承鈞・訳 (1934.3) 『西突厥史料』. 2+7+2+339+60pp.+pl. 商務印書館, 上海.

の復刻版。ややこしいなもう。

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吐蕃と西突厥~突騎施は、7~8世紀には同盟を結び深い関係にあった。

第3代(第4代という説もある)吐蕃ツェンポであるティ・ドゥーソン[位:676-704]の王妃らしき人物ツェンモ・ガトゥン བཙན་མོ་ག་ཏུན་ btsan mo ga tun(漢籍では「可敦」)(?-708)は、名前(というより称号だが)からしてテュルク系である。当時の政治状況から考えると、おそらく西突厥出身であろう。

この人物は、唐帝室とも親しくしていた人物であるので、西突厥の阿史那元慶の娘ではないか?と推察している。

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元慶の父・阿史那彌射(奚利邲咄陸可汗 [位:632-39])は639年唐に投降し、唐の軍人として長安に暮らしていた(後に興昔亡可汗 [位:657-62d])。その息子・元慶も長安で育ち、唐の軍人として活躍。

元慶は、唐の傀儡・西突厥可汗(興昔亡可汗[位:687-92])として擁立された後、唐(当時は則天武后の周だが)官僚の謀略により処刑されてしまう。

元慶の息子の一人・阿史那俀子[位:694d]は、これに反発して吐蕃王室に保護を求め(トンヤブゴ・カガン ཏོན་ཡ་བགོ་ཁ་གན་ ton ya bgo kha gan)、吐蕃軍と共に唐に反逆する。だが、あっさり敗退した。

ツェンモ・ガトゥンは、元慶の処刑に当たり、娘として身の危険を感じ、兄(?)・俀子と共に長安を脱出し、吐蕃に向かったのではないだろうか?そこでティ・ドゥーソンの王妃になったのでは?と推察している。

ガトゥンは、唐帝室と手紙のやり取りをしており、唐帝室とは旧知の間柄だったよう。それにふさわしい人物として、「唐軍高官・阿史那元慶の(長安で育った)娘」という仮説は成立するのではないか、と考えているわけ。

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これだけでも、かなりややこしい話なのだが、この時代の西突厥は系譜が巨大で、可汗位もあっちこっち行ってるし、在位期間も短く、並立していたりもして、何がなんだか分からない。

そういう整理をするためにChavannes本は一度読んでおく必要があるのだ。

名著

・内藤みどり (1988.2) 『西突厥史の研究』. ix+456pp. 早稲田大学出版部, 東京.

も、このChavannes本をだいぶ参考にしているわけだし。

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また、西突厥の第2代可汗・達頭(タルドゥ)可汗[位:565-603]も、隋・東突厥連合軍に敗れて、吐谷渾に逃げ込んでから行方がわからない。

おそらく、7世紀の吐谷渾、そしてそれを占領した吐蕃の中には、達頭可汗と共に逃げ込んで来たテュルク系の人々がかなりいるのではないか、と考えている。

吐蕃時代の有力氏族に、チョクロ ཅོག་རོ་ cog ro氏という家系がある。吐蕃王妃を出したり、親吐蕃の吐谷渾王家(マガトヨゴン・カガン)にも王妃を出したり、ロン བློན་ blon(吐蕃の大臣)を出したりする名家だった。

チョクロ氏は、吐蕃北方/吐谷渾関係で名前がよく出て来るので、私は吐谷渾出身氏族と見ている。そしてその名前チョクロは、「テュルク=突厥=勅勒」が訛ったものではあるまいか?と思ったりしてる。そして、それは遡ると、達頭可汗の吐谷渾への逃亡と関係あるのでは?とも。

まあ、これも仮説の初期段階程度で、もっと裏付けが取れるまではヨタ話の域を出ないが・・・。

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特に、達頭可汗のその後については皆目記録がないので、何もわからない。

「何もわからない」というのは、何を勝手に思ってもかまわないわけなので、そうすると「達頭可汗は、日本に行って聖徳太子になった」とかアホなことを言う人までいる。

まあ、そうなりたくはないので、今は思っているだけで、淡々と裏付けを集めよう、という魂胆です。

その資料としても、『西突厥史料』を買った、というわけでした。

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まだまだツヅク。