全部で8冊買ったので、紹介も手間がかかるのだ。
------------------------------------------
・〔法〕沙畹・編著, 馮承鈞・訳 (2004.1) 『西突厥史料』. 3+8+1+339+60pp.+pl. 中華書局, 北京.
フランスの東洋史学者Édouard Chavannes(1865-1918)の名著
・Édouard Chavannes (1903) DOCUMENTS SUR LES TOU-KIUE (TURCS) OCCIDENTAUX : RECUEILLIS ET COMMENTÉ SUIVI DE NOTES ADDITIONELLES. iv+378+110pp.+pl. Librairie d'Amérique et d'Orient, Paris.
を中国語訳した
・〔法〕沙畹・編著, 馮承鈞・訳 (1934.3) 『西突厥史料』. 2+7+2+339+60pp.+pl. 商務印書館, 上海.
の復刻版。ややこしいなもう。
------------------------------------------
吐蕃と西突厥~突騎施は、7~8世紀には同盟を結び深い関係にあった。
第3代(第4代という説もある)吐蕃ツェンポであるティ・ドゥーソン[位:676-704]の王妃らしき人物ツェンモ・ガトゥン བཙན་མོ་ག་ཏུན་ btsan mo ga tun(漢籍では「可敦」)(?-708)は、名前(というより称号だが)からしてテュルク系である。当時の政治状況から考えると、おそらく西突厥出身であろう。
この人物は、唐帝室とも親しくしていた人物であるので、西突厥の阿史那元慶の娘ではないか?と推察している。
------------------------------------------
元慶の父・阿史那彌射(奚利邲咄陸可汗 [位:632-39])は639年唐に投降し、唐の軍人として長安に暮らしていた(後に興昔亡可汗 [位:657-62d])。その息子・元慶も長安で育ち、唐の軍人として活躍。
元慶は、唐の傀儡・西突厥可汗(興昔亡可汗[位:687-92])として擁立された後、唐(当時は則天武后の周だが)官僚の謀略により処刑されてしまう。
元慶の息子の一人・阿史那俀子[位:694d]は、これに反発して吐蕃王室に保護を求め(トンヤブゴ・カガン ཏོན་ཡ་བགོ་ཁ་གན་ ton ya bgo kha gan)、吐蕃軍と共に唐に反逆する。だが、あっさり敗退した。
ツェンモ・ガトゥンは、元慶の処刑に当たり、娘として身の危険を感じ、兄(?)・俀子と共に長安を脱出し、吐蕃に向かったのではないだろうか?そこでティ・ドゥーソンの王妃になったのでは?と推察している。
ガトゥンは、唐帝室と手紙のやり取りをしており、唐帝室とは旧知の間柄だったよう。それにふさわしい人物として、「唐軍高官・阿史那元慶の(長安で育った)娘」という仮説は成立するのではないか、と考えているわけ。
------------------------------------------
これだけでも、かなりややこしい話なのだが、この時代の西突厥は系譜が巨大で、可汗位もあっちこっち行ってるし、在位期間も短く、並立していたりもして、何がなんだか分からない。
そういう整理をするためにChavannes本は一度読んでおく必要があるのだ。
名著
・内藤みどり (1988.2) 『西突厥史の研究』. ix+456pp. 早稲田大学出版部, 東京.
も、このChavannes本をだいぶ参考にしているわけだし。
------------------------------------------
また、西突厥の第2代可汗・達頭(タルドゥ)可汗[位:565-603]も、隋・東突厥連合軍に敗れて、吐谷渾に逃げ込んでから行方がわからない。
おそらく、7世紀の吐谷渾、そしてそれを占領した吐蕃の中には、達頭可汗と共に逃げ込んで来たテュルク系の人々がかなりいるのではないか、と考えている。
吐蕃時代の有力氏族に、チョクロ ཅོག་རོ་ cog ro氏という家系がある。吐蕃王妃を出したり、親吐蕃の吐谷渾王家(マガトヨゴン・カガン)にも王妃を出したり、ロン བློན་ blon(吐蕃の大臣)を出したりする名家だった。
チョクロ氏は、吐蕃北方/吐谷渾関係で名前がよく出て来るので、私は吐谷渾出身氏族と見ている。そしてその名前チョクロは、「テュルク=突厥=勅勒」が訛ったものではあるまいか?と思ったりしてる。そして、それは遡ると、達頭可汗の吐谷渾への逃亡と関係あるのでは?とも。
まあ、これも仮説の初期段階程度で、もっと裏付けが取れるまではヨタ話の域を出ないが・・・。
------------------------------------------
特に、達頭可汗のその後については皆目記録がないので、何もわからない。
「何もわからない」というのは、何を勝手に思ってもかまわないわけなので、そうすると「達頭可汗は、日本に行って聖徳太子になった」とかアホなことを言う人までいる。
まあ、そうなりたくはないので、今は思っているだけで、淡々と裏付けを集めよう、という魂胆です。
その資料としても、『西突厥史料』を買った、というわけでした。
------------------------------------------
まだまだツヅク。
0 件のコメント:
コメントを投稿