2017年1月29日日曜日

ヒマーチャル小出し劇場(38) Kinnaur Labrang Kharに屋根がついてる!?

Labrangとは、Middle Kinnaurにあるリンチェン・サンポゆかりの村Kanamの隣り村。Kinnaurではおなじみの角塔砦がそびえる村だ。













私が初めて訪れた1997年当時は、ガイドブックはもちろんのこと、学術書などにも、Labrangについてはいっさい情報がなかった。

Kanamに行った時に、谷を挟んで変なもの(Labrang Khar)があるのを見つけてはじめて発見。驚いたものです。奥が深いんですよ、Kinnaurは。

例によって、ヒマーチャル・ガイドブックのボツ原稿から。

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◇ Labrang བླ་བྲང་ bla brang लबरंग <2940>

Kanam ཀཱ་སྣམས་ kA snamsから谷を挟んで対岸に位置する急斜面に開けた村。人口約700人。リンク・ロードからは約200mの急登。

村を睥睨する角塔城跡が遠くからもよく目立つ。この他興味深い寺院がいくつかある。集落内はチョルテンやマニ壇だらけで、ひときわチベット色の濃い場所。斜面に密集して立ち並ぶ住宅はいずれも2~4層の立派なもので、上部は張り出しバルコニーになっており、村全体が一つの要塞のようだ。

◆Labrang Khar བླ་བྲང་མཁར་ bla brang mkhar

村の南側最上手に立つ7層の大角塔建築。その手前がSakangshu Mandir。Labrang KharはMorang Kharよりも一回り大きく高さ約30m。高台に立っていることもあり実に勇壮だ。

これもMorang Khar同様、地元のThakurによって建てられたものらしく、中世の集落間抗争時代のなごり。それにしても村の規模には似つかわしくない大きさだ。

壁はおなじみ、平石を積んだ層と太い角材を交互に積み上げたKatkuni構造。第5・6層と最上第8層には張り出しバルコニーが回してあったようだが、現在は骨組みが残るのみ。最上層は特に崩壊が著しい。内部には入れない。

その下手にもちょっと小振りの5層角塔が立つ。こちらは保存も良く、張り出しバルコニーが美しい。

(以下省略)

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で、ちょっと久々にLabrangを検索したところ、こんなサイトを見つけた。

・HubPages > Travel and Places > Visiting Asia > Southern Asia > India > Sanjay Sharma/The Kinner Tribe of Kinnaur (Updated on September 13, 2016)
http://hubpages.com/travel/The-Kinner-Tribe-of-Kinnaur

真ん中あたりのHouses in Kinnaurで、左から3番目の写真をクリックすると
https://usercontent2.hubstatic.com/8979103_f520.jpg

Labrang Kharが現れるのだが、なんと驚いたことに豪華な屋根がついている。バルコニーも新しくつけられている。

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角塔型の寺院・砦は、Lower KinnaurやShimla丘陵では雨や雪が多いので、反り屋根がついているが、Himalaya主稜を越えてチベット高原側のMiddle Kinnaurより上手に入ると反り屋根はなくなる。

これはHimalaya主稜を超えたところではぐっと降水量が減るから必要なくなるのだが、それはMorang Kharなども同じ。

上記サイトのずっと上の方、4. Gandharvas
https://usercontent1.hubstatic.com/8979106_f520.jpg

には、1860年のLabrang Kharの写真があり、私が撮った1997年の写真と同じく、屋根はない。おそらく昔からこうだったはずだ。

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いやあ、なんか違和感がすごいなあ。凝りに凝った屋根の意匠は、最近建てられた、あるいは再建された寺院の屋根とそっくり。これは、おそらく再現ではなく創作だろう。

日本だったら文化財に指定されるような建築をどんどん新しくしちゃう感覚は、日本人にはちょっと理解できない。観光客目当てなのだろうか?

あるいは、屋上はもともと土で固めただけなので、最近雨漏りがひどくなったのかもしれない。最近気候がだいぶ変わってHimalayaの裏手でも降水量が増えているし。

いつかまた行って、どういうことか理由を聞いてみたいところです。

2017年1月18日水曜日

モンゴル帝国歴史小説とモンゴル史研究者 (3) 『チンギス・ハン 世界を創った男』

・堺屋太一 (2007.7-.12) 『チンギス・ハン 世界を創った男 1-4』. 日本経済新聞出版社, 東京.
← 初出 : (2006.2-07.8) 日本経済新聞.
→ 再発 : (2011.8-.10) 『世界を創った男 チンギス・ハン 上・中・下』(日経ビジネス人文庫). 日本経済新聞出版社, 東京.


カバーイラストレーション : 横山明
ブックデザイン : 鈴木成一デザイン室+西山真紀子(albireo)
(日経ビジネス人文庫版)

カバー絵は、モンゴルというより、なんかスキタイみたい。

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チンギス・ハーンを取り上げた小説は、

・井上靖 (1960.10) 『蒼き狼』. 文藝春秋新社, 東京.
← 初出 : (1959.10-60.7) 文藝春秋.
→ 再発 : (1964.6) (新潮文庫). 新潮社, 東京./(1970.7) (旺文社文庫). 旺文社, 東京./(1996.4) 『天平の甍 海峡 敦煌 蒼き狼』(井上靖全集 12). 新潮社, 東京. ほか多数














カバー : 平山郁夫
(新潮文庫版)

をはじめ、枚挙にいとまがないが、『元朝秘史』をなぞるのが精一杯で、そこから一歩も出ない作品が多い。チンギス・ハーンの若き日に関する史料というのは『元朝秘史』しかないわけで、それに依存するのは仕方ない。だが、そこにどれだけオリジナリティを付加できるかが、小説家の腕の見せどころ。

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『蒼き狼』は、テムジン、ジョチの2代に渡る「俺は父親の血を受け継いでいないのではないか?」という葛藤が横糸となり、縦糸で流れるモンゴル勃興期の物語を奥深いものにしていた。

意図的に質実剛健に徹した文体といい、素晴らしい作品。若いうちに読んでおくべき必読書ですよ。まだ読んでない人は是非どうぞ。

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で、「堺屋チンギス」ですが、私は日経を読むような人ではないので、読んだのは単行本になってからでした。そもそも堺屋小説というもの自体読んだことがない。

堺屋先生は元・通産省官僚で、作家になった後も1998~2000年には経済企画庁長官を務めるなど、経済界の重鎮でもあります。歴史小説の中でも組織論や経済について語るなど、半分ビジネス書扱いされるような作品が多い。私はビジネス書・経済書のようなものも興味がないので、堺屋小説とはそれまで全く無縁でした。

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当然「モンゴル史ものだから一応読んでおくか」と、あまり期待しないで読み始めました。

最初は若き日のテムジン。当然『元朝秘史』に沿って、おなじみのストーリーが展開されます。どうということはない。

しかし、モンゴル語の用語や地名がやたらと充実しているのが気になった。そこで「モンゴル関係に強い協力者がいるな」と気がつきました。

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1巻を読み終わり、巻末の解説や注釈を見てびっくり。系図、地図、年表の充実ぶりたるやただごとではない。周辺の情勢や社会構造などにも目が行き届き、小説家だけでできる仕事ではない、モンゴル史に相当詳しい人、おそらく研究者が協力している、とまでわかりました。

『元朝秘史』だけでなく、『集史』や『聖武親征録』にも言及があり、研究者が深く関与しているのは確実となります。

協力○○とはっきり書かれていないので、誰だろう?といぶかしりながら、先を読み進めました。

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部族についてや移動・戦の場所についての言及が詳しく、どういう素性の誰、場所は具体的にどこ、というイメージをはっきり持って記述していることがわかり、すごく気持ちいい。記述がぼやけていないのだ。

テムジン=チンギス・ハーンがモンゴルを統一し、戦線が拡大してくると、金国やナイマン、またその彼方の情勢が詳しく語られる。広く歴史の大勢や政治情勢を把握していないと訳がわからなくなるところだが、それもしっかり押さえている。

モンゴル帝国の組織図なんてのまで出てきて、小説らしからぬ体裁が強まる。「こんなの必要か?」っていうくらい系図も一層詳しくなって来ました。この辺で「もしかするとあの先生か?」と目星がついてきたのですが・・・。

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耶律楚材も登場しますが、

「その方何ができる」
「さらば私、行政の方に通じ、詩作文書を能くし、占卜の術にも秀でております」
同書文庫版・下p.264

というわけで、どっちかというと杉山説を採用して、ハーン付きの占卜師という扱いになりました。

むしろ耶律阿海の方が登場回数が多く、こちらも杉山説を採用しているらしい。

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ホラズム遠征になると、歴史研究書・論文でも見たことないような詳細な経路図が出てきて、またもや驚かされる。ホラズム帝国年表まである。この辺まで来ると、協力している研究者が注釈を半ば乗っ取ったような格好になっている。

やり過ぎと感じる人も多いかもしれないが、これくらいやり過ぎたほうが歴史好きには断然面白い。大賛成です。

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西夏を占領したところでチンギス・ハーンが崩御。この小説もここであっさり終わりとなりました。

しかし予想を大きく裏切り、私にとっては大変楽しめた小説になりました。もっとも、それは小説の評価とは何か別のもののような気がしますが・・・。まあそれはどうでもいい。

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単行本の段階では、協力していた研究者が誰かはわからなかったのですが、文庫版のあとがきでようやくそれが明かされました。

本書の執筆に当たっては赤坂恒明氏の全面的な協力を得た。
同書・下・文庫版 p.466

やっぱり赤坂先生かあ~、ですね、感想は。系図がやたらと充実しているのに気づいたあたりで、もしかして・・・と思っていましたが、そういうことでしたか。考証がやたらとしっかりしているのも納得です。

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赤坂先生は一般書にはあまり登場しないので、モンゴル史研究者やモンゴル史好きにしか名前が売れていませんが、注目のモンゴル史研究者です。

・赤坂恒明のページ(開設 : 1997.12.22)
http://www.geocities.jp/akasakatsuneaki/akasaka.html

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・洋泉社 > 【ここまでわかった】戦国時代の天皇と公家衆たち(出版年月日2015/12/04)
http://www.yosensha.co.jp/book/b213586.html

によれば、

赤坂恒明 あかさか・つねあき
一九六八年千葉生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程退学。
現在、内蒙古大学蒙古学研究中心専職研究員・東海大学等非常勤講師。

だそうです。最近はモンゴル史だけではなく、日本史の分野でも活躍されているようですね。

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著作には、

・赤坂恒明 (2005.2) 『ジュチ裔諸政権史の研究』. ii+548+191pp. 風間書房, 東京.

があります。これがものすごい!

最近、世界史概説書(山川のとか『中央ユーラシアを知る事典』など)でジョチ家の系図がやたらと詳しくなったと思いませんか?ジョチ家主流だけじゃなく、その後継のアストラハン・ハーン家、カザン・ハーン家、カシモフ・ハーン家、クリミア・ハーン家や中央アジアのウズベク三ハーン国、カザフ・大中小ユズ、シビル・ハーン家まで、それまで漠然としか把握できていなかった巨大な系図が一目瞭然となっています。

これ、全部赤坂先生の仕事です。私もチンギス家の系図を作るのにかなり参考にさせていただきました。

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当初はジョチ家の系譜を追うことをテーマに研究をされていましたが、それは上記学術書の出版で一段落したようで、最近はモンゴル史を広く研究され、日本近世史の分野でも活躍されています。

赤坂先生の単著ではないので目立ちませんが、近著の、

・ボルジギン・ブレンサイン・編著, 赤坂恒明・編集協力 (2015.7) 『内モンゴルを知るための60章』(エリア・スタディーズ 135). 424pp. 明石書店, 東京.
・小松久男・編著 (2016.8) 『テュルクを知るための61章』(エリア・スタディーズ 148). 384pp. 明石書店, 東京.

もすごかった。驚いた。

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『内モンゴル・・・』では編集協力となっていますが、実質赤坂先生が編者でしょう。しかし内モンゴル人の研究者が続々と育ってきているのは間違いなく、それはうれしくも驚きでした。

同書では赤坂先生の執筆担当は、ハラチン部の日本人女性教師、トルグート部、黒竜江省のモンゴル人、新疆のモンゴル人(トゥバ人)、エベンキ/オロチョンなど。大筋は内モンゴル人研究者に任せ、手薄な項目を赤坂先生が埋めたという感じ。赤坂先生のモンゴルの隅々まで目が行き届いている実力がよくわかります。

『内モンゴル・・・』については他にも感想があるので、別稿で再論しましょう。とにかくモンゴル好きには必携書ですよ。

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『テュルク・・・』では編者ではありませんが、執筆項目のマニアックさ(学者にとっては当然だが)がものすごい。

テュルクの系譜、トゥバ、チュヴァシ/ガガウス、モンゴル帝国とテュルク、ハンガリーのテュルク学、在日トルコ・タタール、クリムチャク/カライム、南樺太のサハ人、キルギスの後裔、勇利アルバチャコフ(バシキール人)。いやいや、すごいですね。

こちらも必携です。

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これだけの実力者が協力したのですから、堺屋チンギス小説の考証が充実していないはずはないのです。読み応え十分、満足しました。

もっとも考証がしっかりしているからといって、小説の出来自体がいいかどうかはまた別のお話、また売れ行きもしかり。

一応文庫にもなって今も流通しているのだが、日経ビジネス人文庫というビジネス関連書の多いシリーズの中にあるため、どうにも目立たない。小説好きよりも歴史好きの人向きの作品と言えるでしょう。まだ読んでない人は是非。

なお、陳先生の『耶律楚材』や『チンギス・ハーンの一族』は文庫も全集も絶版のまま全滅。古本を、あるいは図書館で探してください。

2017年1月15日日曜日

早稲田大学 會津八一記念博物館 「チベット仏教の美術」展

を見て来ました。



会期 : 2016年12月8日(木)~2017年1月31日(火)
会場 : 會津八一記念博物館 2F 常設展示室
時間 : 10:00~17:00(入場は16:30まで)
閉館日 : 日曜・祝日
入館料 : 無料

・早稲田大学 > 早稲田大学 會津八一記念博物館 > ニュース > 特集展示 チベット仏教の美術(Tue, 06 Dec 2016)
https://www.waseda.jp/culture/aizu-museum/news/2016/12/06/1486/

・早稲田大学 > News ニュース > 「特集展示 チベット仏教の美術」展が開催中です(Posted Tue, 10 Jan 2017)
https://www.waseda.jp/top/news/47684

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私はGoogle Newsでチベット関係のニュースを表示させているのですが、今年になってからそのトップに、この展覧会のニュースが出るようになった。

全然知らなかったのでありがたい。というわけで、時間が取れる今のうちに行ってきたわけです。会期も今月いっぱいだし。

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早稲田大学に行ったのもだいぶ久しぶり。

南門通りを歩いて、「そういえば、カワチェンは昔ここにあったんだよなあ」などと思いながら。

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會津八一記念博物館は南門からすぐ。会場は2階、いろんな展示物と一緒。ケース4つとささやかな展示。

展示物リストは以下のとおり。


https://www.waseda.jp/culture/aizu-museum/assets/uploads/2016/12/bf02a842387416fed5a067dfbcd44cec.pdf

ツァツァ ཚ་ཚ་ tsha tsha(日干しあるいは素焼きの粘土製仏像小プレート)、陶仏、銅仏。いずれも10cm程度の小さいもの。

これは美術史家(でもある)會津八一先生が個人的に集めたものと、陸軍将校であった服部和彦氏が中国で集めたものだという(國學院大學にもコレクションがある)。年代は17~19世紀。

この時代になると、図像のスタイルはもうガチガチに固定されてしまい、仏像や仏画を見ても年代差や地域差はほとんどなくなります。ですから、見ただけだとあまり細かい年代や場所までは特定できなくなります。

「康煕帝のために作った」と銘があるものを含んでいるので、おそらくチベット本土の作ではなく、北京周辺で作られたものがほとんどなのではないだろうか。特に陶製の仏像というものは、チベットではまず見られないものだし。

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なぜか、やたらとツェパメ ཚེ་དཔག་མེད་ tshe dpag med 無量寿菩薩が多かったなあ。

「マハーカーラ(大黒天)立像」というものが珍しかった。まず木造であるのが珍しい。そして経典を抱えたグルキ・ゴンポ གུར་གྱི་མགོན་པོ་ gur gyi mgon poの姿、これもちょっと珍しい。これはサキャパの守護尊である。

チベット仏教の図像からは少し逸脱している感もあり、おもしろい像であった。

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尊格比定には田中公明先生が協力しているので、これはもう確実です。

ひとつ気になるのは、こういった仏教図像を紹介する本や展覧会では、いつまでたっても漢名とサンスクリット名だけの表記で、チベット語での表記がない。田中先生の近著でさえそう。

チベット文字フォントもだいぶ扱いやすくなっているし、そろそろチベット語・チベット文字での表記もしてほしい、と思う。

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この展覧会は会場の一部で、他にも中国の銅鏡などの文物やアイヌの文物など(會津八一コレクション)が展示されています。無料だし、気軽に見て回れるので、早稲田近辺にお寄りの際はぜひ行ってみてください。

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(追記)@2017/01/17

前掲の

https://www.waseda.jp/top/news/47684

に、4つのケース全部の写真があります。これでだいたいどういう展示かイメージはつかめるでしょう。

そういえば、3番めのケースの右奥かな、キュン ཁྱུང་ khyung ガルーダ(金翅鳥)の小像がちょっと珍しかったな。かわいらしいし。

2017年1月12日木曜日

モンゴル帝国歴史小説とモンゴル史研究者 (2) 『耶律楚材』、『チンギス・ハーンの一族』

・陳舜臣 (1994.5) 『耶律楚材 上・下』. 集英社, 東京.
→ 再発: (1997.5) (集英社文庫). 集英社, 東京./(2000.9) (陳舜臣中国ライブラリー 19). 集英社, 東京.など

という小説があります。



AD : 菊地信義
(集英社文庫版)

これは、モンゴル帝国第2代大ハーンであるオゴタイ時代に中書令を務めた契丹人・耶律楚材の生涯を描いた小説。

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ここでは陳先生は、耶律楚材を「死を覚悟して,モンゴルの野蛮から文明を守った名宰相」と高く評価しています。この小説の前にも、

・陳舜臣 (1990.11) 中国傑物伝 11 耶律楚材 死を覚悟して,モンゴルの野蛮から文明を守った名宰相. ウィル, vol.9, no.11, pp.148-154.
→ 収録: 陳舜臣 (1991.10) 『中国傑物伝』. 330pp. 中央公論社, 東京./(1994.9) (中公文庫). 381pp. 中央公論社, 東京./(2001.8) (陳舜臣中国ライブラリー 28). 553pp. 集英社, 集英社.

というエッセイを書いています。

「モンゴルの野蛮」とはまた、中国人に顕著な中華思想丸出しのタイトルですね。

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さあ、これに噛みついたのが杉山先生でした。

中国や欧米におけるモンゴル史研究は、漢籍史料や欧語史料に頼りがちでした。その結果、「世界を破壊し尽くしたチンギス・ハーン」「野蛮なモンゴル帝国」という否定的なイメージが世間にはびこります。

かつてモンゴル帝国の支配を受けたロシア(ソ連)や中国が、20世紀中に喧伝した否定的なイメージの影響も大きかった。モンゴル人民共和国においてさえ、ソ連の衛星国であったがために、チンギス・ハーンを極悪人として教育していたほど。

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杉山先生(だけではないのですが)は、これまであまり利用されてこなかったペルシア語史料を重要視して研究を進めます。特にフレグ・ウルスで編纂されたペルシア語モンゴル帝国史である

・Rashīd al-Dīn (1314) 『Jāmi' al-Tavārīkh(集史)』.

を最重要史料として研究を進めます。

その結果、それまでの悪いイメージを覆す史実を明らかにしていきました。最近では、

・杉山正明 (1992.6) 『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』(角川選書). 角川書店, 東京.
→ 再発: (2014.12) (改訂版)(角川ソフィア文庫). 角川書店, 東京.
・杉山正明 (1997.10) 『遊牧民から見た世界史 民族も国境もこえて』. 日本経済新聞社, 東京.
→ 再発: (2003.1) (日経ビジネス人文庫). 日本経済新聞社, 東京./(2011.7) (増補版)(日経ビジネス人文庫). 日本経済新聞社, 東京.
・杉山正明 (2000.12) 『世界史を変貌させたモンゴル 時代史のデッサン』(角川叢書). 角川書店, 東京.
・杉山正明 (2002.9) 『逆説のユーラシア史 モンゴルからのまなざし』. 日本経済新聞社, 東京.
→ 改題再発: (2006.3) 『モンゴルが世界を覆す』(日経ビジネス人文庫). 日本経済新聞社, 東京.

といったモンゴル帝国を肯定的に捉える一般書を続々と書かれている通り。

余談ですが、杉山先生はその方面でも、モンゴル史研究者の岡田英弘先生+宮脇淳子先生との間で軋轢を生んでいるのは、知ってる人は知っているが、ここでは触れる余裕なし。

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その方面での杉山先生の論調は、歴史研究を越えて、なんだかプロパガンダ的な色も感じさせるので、そのすべてに諸手を上げて賛成する気にもならないのですが・・・。

でも、歴史研究では史料が違えばまた別の姿が見えてくるのはよくある話です。利用可能なすべての史料を突き合わせて、徐々に真の姿に近づけていこうとするアプローチは間違いなく正しい。

特に東洋史では、いまだに漢籍史料絶対主義に陥っているケースが多々見られる(チベット史研究でもいまだに多い)ので、他言語史料も重要視するべきなのは、これからも変わらないでしょう。

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それで、耶律楚材に関しては、

・杉山正明 (1996.7) 『耶律楚材とその時代』(中国歴史人物選 8). 372pp. 白帝社, 東京.

という著作を発表。














耶律楚材の名は、ラシード・アッディーンの『集史』をはじめ、ペルシア語の歴史書には、まったく見えない。
(同書 p.6)

現実において、耶律楚材は、全モンゴル規模にわたる「行政官」でも「立案者」でも、ありえなかった。その資格・能力がなかった。まして、全モンゴルを指揮する「宰相」などでは、ありうべくもなかった。
(同書 p.23)

結論を先取りするかたちになるが、楚材は、チンギス・カン時代、ぜんぜん重視されなかった。むしろ、不平と失意の日々であった。第二代のオゴデイ・カアンの時代になって、少しは改善されたものの、あたえられた任務は、漢土を中心とする文化・教育面のごく一部と、河北・山東・山西における税収業務にかぎられた。それも、すぐに、あやうくなった。かれは、いわば、イメージ先行型の人間であった。

これまでよく語られたように、モンゴル大カアンが、かれに全幅の信頼をおいて、なんでも相談したという場面など、現実には、あるはずもなかった。それは、後述するように、多分に漢文史料の創作である。楚材本人にとっては、夢物語だったろう。
(同書 p.24-25)

陳舜臣氏の『耶律楚材』上下(集英社)は、楚材をあらんかぎり巨大化、聖人化した歴史ファンタジーであった。小説は、ここまで現実から離れて、虚空のかなたに飛翔できるのか。やはり歴史と小説とは、ひどくちがう。率直にそう感じた。

しかし、責任は、氏にあるのではないだろう。これまで、学者・研究者といわれる人たちが楚材を誇大視したためである。陳氏は、その路線を限りなく押しすすめたにすぎない。
(同書 p.368)

と容赦ない。

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杉山先生が大々的に協力した

・NHK総合テレビ(1992.4-.8) NHKスペシャル 大モンゴル 1~5

では、耶律楚材はほとんど登場しませんでした。杉山先生の意見がだいぶ反映されていたようです。

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この辺はすでに陳先生の耳にも入っていたようで、『耶律楚材 下』のあとがきで、

なかには、彼はそれほど重要な人物ではなかったと推測する人もいる。
『耶律楚材 下』(集英社文庫版) p.319

と書いています。

杉山先生の耶律楚材本が出た1996年には、陳舜臣「チンギス・ハーンの一族」の連載がすでに始まっていました(1995年4月~)。

こちらにも当然耶律楚材は登場し、「宰相役の中書令」などと表記されていますが、その登場場面はだいぶ少なくなっています。

中書令という職は、それ以前の時代には確かに宰相ですが、元代には全く別で、文書係のトップでしかなかったようです。従って、耶律楚材を「宰相」と表現するのは明らかに誇大、というのが杉山説。

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ここまでのお話を、著作の発表年月を基準に年表風にまとめるとこうなります。

1982.3 杉山正明 「クビライ政権の東方三王家 鄂州の役前後再論」(東方学報・京都)

1990.11 陳舜臣 連載「中国傑物伝 11 耶律楚材 死を覚悟して,モンゴルの野蛮から文明を守った名宰相」(ウィル)
1991.10 陳舜臣 『中国傑物伝』(中央公論社)

1992.4-.8 「NHKスペシャル 大モンゴル 1-5」(NHK総合テレビ)(杉山正明ほか協力)
1992.4-.8 NHK取材班・編 『大モンゴル 1-4』(角川書店)

1994.5 陳舜臣 『耶律楚材 上・下』(集英社)

1995.4 杉山正明 『クビライの挑戦 モンゴル海上帝国への道』(朝日選書)

1995.4-97.5 陳舜臣 連載「チンギス・ハーンの一族」(朝日新聞)

1996.5 杉山正明 『モンゴル帝国の興亡 上 軍事拡大の時代』(講談社現代新書)
1996.6 杉山正明 『モンゴル帝国の興亡 下 世界経営の時代』(講談社現代新書)
1996.7 杉山正明 『耶律楚材とその時代』(白帝社)

1997.5 陳舜臣 『チンギス・ハーンの一族 1 草原の覇者』(朝日新聞社)
1997.8 陳舜臣 『チンギス・ハーンの一族 2 中間を征く』(朝日新聞社)
1997.10 陳舜臣 『チンギス・ハーンの一族 3 滄海への道』(朝日新聞社)
1997.10 陳舜臣 『チンギス・ハーンの一族 4 斜陽万里』(朝日新聞社)

2004.2 杉山正明 『モンゴル帝国と大元ウルス』「第2章 モンゴル帝国の変容 クビライの脱権と大元ウルスの成立」(京都大学学術出版会)

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陳舜臣「チンギス・ハーンの一族」連載開始直後の1995年4月に、杉山先生の朝日選書『クビライの挑戦』、連載中盤の1996年5~6月に講談社現代新書『モンゴル帝国の興亡』が発表されています。

陳先生は、連載しながらこれら杉山先生の著作をだいぶ参考にしている形跡があります。前回紹介したフビライ即位時におけるタガチャルの行動を強調した展開が、その代表といえるでしょう。

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杉山先生は、陳舜臣「チンギス・ハーンの一族」については何もコメントしていません。耶律楚材の件からすると、何かコメントを発してもおかしくないのですが・・・。

陳先生が、小説でタガチャルの件を大きく取り上げたことについて、プラス方向にか、マイナス方向にかわかりませんが、何らかの感想を持ったはずですが、今のところコメントは発見できません。

私は、両者の間で手打ちがあったんではないか?と見ます。邪推かもしれませんが・・・。

間に立ったのは、可能性としては、『フビライの挑戦』、『チンギス・ハーンの一族』双方の版元である朝日新聞かな?などとも思っています。

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陳舜臣『チンギス・ハーンの一族』は、チンギス・ハーン~フビライまでのモンゴル帝国を描いた小説。

この分野では、チンギス・ハーンの生涯を描いて終わり、という小説がほとんどである中、フビライまでとはいえ元朝を描いているのが特徴です。

またモンゴル王家の女性たちが大きく取り上げられているのも珍しい。中盤は、モンゴル王家の女衆のお茶飲み話を軸にストーリーが展開される、というのもユニークな手法でした。

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連載前、あるいは連載中にモンゴル史関係の本がたくさん出版されたことは、陳先生にとってはよかったんではないでしょうか。

この小説はとにかく考証がしっかりしている。歴史好きには面白い小説だったと思います。

まあでも、陳先生の特徴ではあるのですが、この人は「戦さ」が描けない。ダイナミズムはあまりなく、淡々とストーリー/時間が進んでいく印象が強い。その点で小説としての評価は分かれることでしょう。

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2006年はチンギス・ハーン即位800周年でした。この前後には、またもやモンゴル帝国ブームがやって来ます。

例によってチンギス・ハーンを取り上げた小説・本がたくさん出たわけですが、今回大作に挑んだのは堺屋太一。

・堺屋太一 (2007.7-.12) 『チンギス・ハン 世界を創った男 1-4』. 日本経済新聞出版社, 東京.
← 初出 : (2006.2-07. 8) 日本経済新聞.
→ 再発 : (2011.8-.11) 『世界を創った男 チンギス・ハン 上・中・下』(日経ビジネス人文庫). 日本経済新聞出版社, 東京.

この小説には、最初からモンゴル史研究者が深く関わっていたのです。

ツヅク

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(追記)@2017/01/12

陳先生には、

・陳舜臣 (1979.2) 『小説 マルコ・ポーロ 中国冒険譚』. 252pp. 文藝春秋, 東京.
← 初出 : (1978.2-79.1) オール讀物, 1978年2月号-79年1月号.
→ 再発 : (1983.4) (文春文庫). 361pp. 文藝春秋, 東京./(2000.11) (陳舜臣中国ライブラリー 18) 集英社, 東京. など














カバー : 廣瀬郁/かもよしひさ
(文春文庫版)

という作品もあります。

『マルコ・ポーロ』、『耶律楚材』、『チンギス・ハーンの一族』を、私は勝手に「陳舜臣 元朝三部作」と呼んでいます。

マルコ・ポーロの物語と言っても、マルコ・ポーロについては自身の口述とされる『Devisement du monde(世界の記述/東方見聞録)』以外に史料はないわけで、その分大胆にフィクションで色付けすることができた作品です。

推理・活劇ものの要素が強く、後期の硬直した歴史小説よりは小説として格段に面白い。のびのび書けてる、と思う。

陳作品としてはあまり注目されたことがないが、こちらも一度読んでみてください。

2017年1月8日日曜日

モンゴル帝国歴史小説とモンゴル史研究者 (1) フビライ大ハーン即位の経緯

・杉山正明 (2004.2) 『モンゴル帝国と大元ウルス』(東洋史研究叢書刊之六十五(新装版3)). 32pls.+vi+548pp. 京都大学学術出版会, 京都.














を読みました。いまさらですが。杉山先生のモンゴル帝国関連論文集です。

ちょっとした発見があったので、ちょっと長くなりますが記しておきます。

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必要な部分(チュベイ王家とかコデン王家の論文)はすでに読んでいたのですが、一冊丸ごと読むのは初めてでした。

特に本書の目玉である「第2章 モンゴル帝国の変容 クビライの奪権と大元ウルスの成立」は読んでいなかったのですが、ようやくきちんと読めた。これは、

・杉山正明 (1982.3) クビライ政権の東方三王家 鄂州の役前後再論. 東方学報, no.54, pp.257-315.

を再録したものです。

フビライ(クビライ)が即位するまでの経緯を細かく追った論文。モンケの南宋攻撃軍に、フビライが一度は外されながら、再度加わり、そしてモンケの急死によって、一躍大ハーン位に就くまでの経緯が事細かに考察されている。

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馴染みのないチンギス家の人名が多いので、まずフビライ周辺の系図を挙げておきましょう。


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この論文では、第4代大ハーンのモンケ[位1251-59d]による1257~59年の南宋征伐とその急死、そしてその直後、弟たちフビライとアリク・ブガによる大ハーン位争いを軸として論考が進められる。

特に南宋攻撃におけるタガチャルの不可解な撤退と、モゲがモンケの死をいち早くフビライに伝えたことに注目しています。

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1251年、トゥルイ家の嫡男モンケ(チンギス・ハーンの孫)が第4代大ハーンとして即位すると、次弟フビライは漢地に所領を与えられた(金は第2代大ハーンのオゴタイ時代の1234年にすでに滅亡)。フビライは漢人軍閥も手なづけ、着々と漢地支配を固めていた。また、1252~54年には雲南に遠征、大理王国を滅ぼしてもいる。

しかし、モンケはフビライ所領における会計不備を指摘し、フビライの部下を多数処刑。フビライは失脚し、1957年に始まる南宋攻撃軍からも外されてしまう。

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モンケの南宋攻撃軍は、三派に分かれて進軍。中翼軍をモンケが指揮し、四川経由で南進。右翼軍はウリャンハタイが指揮(フビライと共に遠征し、そのまま雲南にとどまっていた)し、ベトナムまで進軍しその後北上。左翼軍はオッチギン(チンギス・ハーンの末弟)家のタガチャル(テムゲ・オッチギンの孫)が指揮し、漢土中央を南進して行った。

ところが、タガチャル指揮の左翼軍は漢江流域の要衝・襄陽への攻撃をわずか一週間で諦め撤退してしまう、という不可解な行動を取る。

激怒したモンケにより、タガチャルは左翼軍主将をはずされ、代わってフビライが左翼軍主将を命ぜられる。フビライの表舞台への復活である。

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1259年、フビライ軍が長江中流域の要衝・鄂州(現在の武漢)の攻撃にかかろうとしたところ、四川に進んでいたモンケが急死したとの知らせが入った。

これはモンケに従軍していたフビライの庶弟モゲからの、内密の知らせであった。フビライは、大ハーンの死をいち早く知ることができたのだ。

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フビライは、作戦を継続するか、中止して撤退するかの選択を迫られた。しかしここで撤退すれば、ベトナムから北上を続けているウリャンハタイ軍は孤立してしまう。

フビライの下した決断は鄂州攻撃であった。しかし決着方法も巧妙に練られており、南宋軍を指揮する賈似道との間で密かに停戦協議も進めていた。またタガチャル率いる東方三王国軍もフビライ軍に合流した。

やがて、北上してきたウリャンハタイとも連絡が取れ、フビライ軍はここで撤退。

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モンケ死後、大ハーン位争いが始まる。モンケの次弟フビライと末弟アリク・ブガの争いである。

南宋攻撃の間、アリク・ブガはモンゴル高原の都カラコルムで留守を守っており、モンケの葬儀もアリク・ブガが執り行った。西方のジョチ家、チャガタイ家の支持も取り付け、1260年アリク・ブガはクリルタイを開き、大ハーンに即位。

一方、フビライも漢地の自領で東方~漢地の有力者だけを集めて独自のクリルタイを開き大ハーンに即位。二人の大ハーンが並び立つことになった。

タガチャルをはじめとする東方三王国はもちろんフビライ支持。漢人軍閥もフビライを支持。

アリク・ブガとフビライの争いは、経済的に豊かな漢地を押さえ、モンゴル高原のアリク・ブガ勢力への物資供給を断ったフビライが圧倒的に優位に進めた。

そして1264年にはアリク・ブガが降伏。ついにフビライが唯一の大ハーンとして勝利をおさめたのだ。

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フビライの大ハーン奪権には、いくつかキー・ポイントがあるが、まず不可解なタガチャルの撤退によりフビライが復権したことと、そのタガチャルをはじめとする東方三王国が、モンケの死後いち早くフビライ側についた点があげられる。

こうして、その後の経緯まで見ていくと、タガチャルの無気力撤退も、フビライを復権させるための出来レースだったんではないか?と勘ぐりたくなるのだが、証拠がないので、杉山論文ではそこまで言わない。しかし、杉山先生も読者もそう思わざるをえないような筆致ですね。

モゲがモンケの死を、内密にいち早くフビライに知らせたことにより、フビライが迅速な対応を取ることができたのは間違いない。モゲのこの行動は、モゲがフビライの庶弟であり、さらには乳兄弟であったという、フビライとの密接な関係によるもの。

フビライにはそういった運と、陣営設立への綿密な工作により、アリク・ブガからの奪権に成功したのだ。

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この論文を読んだ時に「あっ」と思った。

このあたりの下りは、杉山先生の他の著作、『クビライの挑戦』や『モンゴル帝国の興亡』などでも読んでいたのだが、わりと読みすごしていて印象が薄かった。

この件についてしっかり頭に入ったのは、実は小説を読んでからだったのである。その小説とは・・・・

・陳舜臣 (1997.5-.10) 『チンギス・ハーンの一族 1~4』. 朝日新聞社, 東京.
← 初出:(1995.4-97.5) 連載. 朝日新聞.
→ 再発:(2000.5-.6) (集英社文庫). 集英社, 東京./(2000.10-.11)(陳舜臣中国ライブラリー 17-18). 集英社, 東京./(2007.1-.2) (中公文庫). 中央公論新社, 東京.

















デザイン : 河田純
(集英社文庫版)

その3巻がフビライ即位の巻です。

これは小説ですから、推測も自由。ここでは、タガチャルは以前からモンケに不満を持っていて、南宋攻撃以前からフビライと近しい関係にあった、という筋書きがなされています。小説としては、無理のない自然な流れでしょう。しかしこの流れを強調する点では、実に杉山論文そのままなのです。

意外。というのも実は、杉山先生と陳先生は、この小説の前に、「耶律楚材」について確執があったのです。

ツヅク

2017年1月3日火曜日

今年も初詣は矢川弁財天に行きました

昨年に引き続き矢川弁財天に行きました。









これまでのレポートはこちらで。

2016年1月1日金曜日 初詣は矢川弁財天へ
2015年9月20日日曜日 狛犬ならぬ狛蛇?

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ここは相変わらずのんびりした神社でよろしい。2体の狛蛇様もこの通り。


今年も神社をお守りしている母娘お二方と、弁財天の話や蛇神様の話などができて楽しかった。そんな話できる人は周りにいませんからね。

このあたりには本当に白蛇様がいるらしい。その目撃談もお聞きしました。見たいねえ。

せんべいももちろん買いました。写真取る前に割れちゃったんで、今回は写真なし。もう食べました。

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内院の白蛇様です。今年は2体が向かい合っているところの写真で。