2017年1月8日日曜日

モンゴル帝国歴史小説とモンゴル史研究者 (1) フビライ大ハーン即位の経緯

・杉山正明 (2004.2) 『モンゴル帝国と大元ウルス』(東洋史研究叢書刊之六十五(新装版3)). 32pls.+vi+548pp. 京都大学学術出版会, 京都.














を読みました。いまさらですが。杉山先生のモンゴル帝国関連論文集です。

ちょっとした発見があったので、ちょっと長くなりますが記しておきます。

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必要な部分(チュベイ王家とかコデン王家の論文)はすでに読んでいたのですが、一冊丸ごと読むのは初めてでした。

特に本書の目玉である「第2章 モンゴル帝国の変容 クビライの奪権と大元ウルスの成立」は読んでいなかったのですが、ようやくきちんと読めた。これは、

・杉山正明 (1982.3) クビライ政権の東方三王家 鄂州の役前後再論. 東方学報, no.54, pp.257-315.

を再録したものです。

フビライ(クビライ)が即位するまでの経緯を細かく追った論文。モンケの南宋攻撃軍に、フビライが一度は外されながら、再度加わり、そしてモンケの急死によって、一躍大ハーン位に就くまでの経緯が事細かに考察されている。

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馴染みのないチンギス家の人名が多いので、まずフビライ周辺の系図を挙げておきましょう。


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この論文では、第4代大ハーンのモンケ[位1251-59d]による1257~59年の南宋征伐とその急死、そしてその直後、弟たちフビライとアリク・ブガによる大ハーン位争いを軸として論考が進められる。

特に南宋攻撃におけるタガチャルの不可解な撤退と、モゲがモンケの死をいち早くフビライに伝えたことに注目しています。

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1251年、トゥルイ家の嫡男モンケ(チンギス・ハーンの孫)が第4代大ハーンとして即位すると、次弟フビライは漢地に所領を与えられた(金は第2代大ハーンのオゴタイ時代の1234年にすでに滅亡)。フビライは漢人軍閥も手なづけ、着々と漢地支配を固めていた。また、1252~54年には雲南に遠征、大理王国を滅ぼしてもいる。

しかし、モンケはフビライ所領における会計不備を指摘し、フビライの部下を多数処刑。フビライは失脚し、1957年に始まる南宋攻撃軍からも外されてしまう。

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モンケの南宋攻撃軍は、三派に分かれて進軍。中翼軍をモンケが指揮し、四川経由で南進。右翼軍はウリャンハタイが指揮(フビライと共に遠征し、そのまま雲南にとどまっていた)し、ベトナムまで進軍しその後北上。左翼軍はオッチギン(チンギス・ハーンの末弟)家のタガチャル(テムゲ・オッチギンの孫)が指揮し、漢土中央を南進して行った。

ところが、タガチャル指揮の左翼軍は漢江流域の要衝・襄陽への攻撃をわずか一週間で諦め撤退してしまう、という不可解な行動を取る。

激怒したモンケにより、タガチャルは左翼軍主将をはずされ、代わってフビライが左翼軍主将を命ぜられる。フビライの表舞台への復活である。

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1259年、フビライ軍が長江中流域の要衝・鄂州(現在の武漢)の攻撃にかかろうとしたところ、四川に進んでいたモンケが急死したとの知らせが入った。

これはモンケに従軍していたフビライの庶弟モゲからの、内密の知らせであった。フビライは、大ハーンの死をいち早く知ることができたのだ。

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フビライは、作戦を継続するか、中止して撤退するかの選択を迫られた。しかしここで撤退すれば、ベトナムから北上を続けているウリャンハタイ軍は孤立してしまう。

フビライの下した決断は鄂州攻撃であった。しかし決着方法も巧妙に練られており、南宋軍を指揮する賈似道との間で密かに停戦協議も進めていた。またタガチャル率いる東方三王国軍もフビライ軍に合流した。

やがて、北上してきたウリャンハタイとも連絡が取れ、フビライ軍はここで撤退。

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モンケ死後、大ハーン位争いが始まる。モンケの次弟フビライと末弟アリク・ブガの争いである。

南宋攻撃の間、アリク・ブガはモンゴル高原の都カラコルムで留守を守っており、モンケの葬儀もアリク・ブガが執り行った。西方のジョチ家、チャガタイ家の支持も取り付け、1260年アリク・ブガはクリルタイを開き、大ハーンに即位。

一方、フビライも漢地の自領で東方~漢地の有力者だけを集めて独自のクリルタイを開き大ハーンに即位。二人の大ハーンが並び立つことになった。

タガチャルをはじめとする東方三王国はもちろんフビライ支持。漢人軍閥もフビライを支持。

アリク・ブガとフビライの争いは、経済的に豊かな漢地を押さえ、モンゴル高原のアリク・ブガ勢力への物資供給を断ったフビライが圧倒的に優位に進めた。

そして1264年にはアリク・ブガが降伏。ついにフビライが唯一の大ハーンとして勝利をおさめたのだ。

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フビライの大ハーン奪権には、いくつかキー・ポイントがあるが、まず不可解なタガチャルの撤退によりフビライが復権したことと、そのタガチャルをはじめとする東方三王国が、モンケの死後いち早くフビライ側についた点があげられる。

こうして、その後の経緯まで見ていくと、タガチャルの無気力撤退も、フビライを復権させるための出来レースだったんではないか?と勘ぐりたくなるのだが、証拠がないので、杉山論文ではそこまで言わない。しかし、杉山先生も読者もそう思わざるをえないような筆致ですね。

モゲがモンケの死を、内密にいち早くフビライに知らせたことにより、フビライが迅速な対応を取ることができたのは間違いない。モゲのこの行動は、モゲがフビライの庶弟であり、さらには乳兄弟であったという、フビライとの密接な関係によるもの。

フビライにはそういった運と、陣営設立への綿密な工作により、アリク・ブガからの奪権に成功したのだ。

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この論文を読んだ時に「あっ」と思った。

このあたりの下りは、杉山先生の他の著作、『クビライの挑戦』や『モンゴル帝国の興亡』などでも読んでいたのだが、わりと読みすごしていて印象が薄かった。

この件についてしっかり頭に入ったのは、実は小説を読んでからだったのである。その小説とは・・・・

・陳舜臣 (1997.5-.10) 『チンギス・ハーンの一族 1~4』. 朝日新聞社, 東京.
← 初出:(1995.4-97.5) 連載. 朝日新聞.
→ 再発:(2000.5-.6) (集英社文庫). 集英社, 東京./(2000.10-.11)(陳舜臣中国ライブラリー 17-18). 集英社, 東京./(2007.1-.2) (中公文庫). 中央公論新社, 東京.

















デザイン : 河田純
(集英社文庫版)

その3巻がフビライ即位の巻です。

これは小説ですから、推測も自由。ここでは、タガチャルは以前からモンケに不満を持っていて、南宋攻撃以前からフビライと近しい関係にあった、という筋書きがなされています。小説としては、無理のない自然な流れでしょう。しかしこの流れを強調する点では、実に杉山論文そのままなのです。

意外。というのも実は、杉山先生と陳先生は、この小説の前に、「耶律楚材」について確執があったのです。

ツヅク

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