2012年2月26日日曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(35) アフガニスタンのケサル王

ギルギット~フンザから西へちょっと足をのばすと、もうアフガニスタンです。アフガニスタンには、8世紀に「フロム・ケサロ(From Kesaro)」という名の王が実在していました。チベットのケサルも「phrom ge sar(トム・ケサル)」と呼ばれることがあります(注1)。両者はどういう関係にあるのでしょうか。

この王は7~9世紀にカーブル周辺を支配したカーブル・テュルク・シャー(注2)の一人。カーブル・テュルク・シャーはその傍系のザーブル王国(注3)と共に、長らくイスラム軍の東進を阻んできました。この王は、漢文史料には「拂菻罽裟」の名で現れます。

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この名は「ローマのカエサル」の意味です。カエサルといえばローマ共和国末期に活躍した独裁官ですが、共和国から帝国となるとその名はローマ皇帝の別称として機能するようになり、後には皇帝を補佐する「副帝」の名称となりました。これはローマ帝国が東西分裂後も東ローマ帝国(ビザンティン帝国)に受け継がれ、正帝アウグストゥスと副帝カエサルの称号が使われてきました。

カーブル・テュルク・シャーは、東ローマ帝国とは直接の接触はないものの、共にイスラム帝国と対立していた関係上、東ローマ帝国に対して親近感を持っていたと思われます。

テュルク・シャーのフロム・ケサルの在位は738-45年。即位の20年前、717~18年には東ローマの都コンスタンティノープルはイスラム帝国軍に包囲されました。しかし東ローマ軍はかろうじてイスラム軍撃退に成功する、という事件が起きています。フロム・ケサロの名は、この勝利を記念して名づけられたものではないか?と推測するのが下記論文です。

・J.Harmatta+B.A.Litvinsky (1996) Tokharistan and Gandhara under Western Türk Rule(650-750). IN : B.A. Litvinsky etal.(ed.) (1996) HISTORY OF CIVILIZATIONS OF CENTRAL ASIA VOLUME III. p.367-401. UNESCO Publishing, Paris.

その推測が当たっているかどうかはわかりませんが、「ローマのカエサル」という名の威光が、8世紀のアフガニスタンまで届いていたのは間違いないでしょう。

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では、アフガニスタンからさらに東に進み、カラコルム、西部チベット、そして東部チベットに「(ローマの)カエサル」を名乗る人物が現れるのはどういう経緯なのでしょうか?人物といっても、それは伝説の人物だったり、ある家系におけるはっきりしない先祖だったりと、その実像は霞がかかったような姿をしています。またそれらケサル同士の関係も全くわかっていません。

しかし、この「ローマのカエサル」という名の威光が、アフガニスタンからさらにカラコルム~西部チベット、そして(その経緯はわからないが)チベット本土~東チベットにまで及び、「ケサル王物語」主人公の名として採用された、と考えることは可能でしょう。

これはRolf A. Steinが唱えた説ですが、一般には、これを「ローマのカエサルの英雄譚がケサル王ストーリーのモデルになった」という説だと誤解する人が多く、珍説として冷遇されているのは残念です。

あくまでスタンの説は、「ローマのカエサル」という「名/称号」が「ケサル王物語」主人公の名として採用されている(可能性がある)、と唱えているだけであって、そのストーリーにカエサルの英雄譚・人物像が直接反映されている、という説ではないことに留意する必要があります。

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ローマからアフガニスタンを経てチベットまで各地に点々と残る「(フロム・)ケサル」の名前。今はその地点を抑えることくらいしかできませんが、「フンザのケサル王物語」もケサル王物語成立の謎を解明する上で重要な証拠のはずです。

西のアレクサンドロス大王伝説と東のケサル伝説の境界がだいたいカラコルムあたりに来ることも意味ありげに見えます。フンザにはその両伝説が存在するのですから、両伝説の研究にとっても重要な場所ではないでしょうか。

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(注1)
リン・ケサル(gling ge sar)とトム・ケサル(phrom ge sar)は、実は同一人物とは限りません。

リン・ケサルは「ケサル王物語」の主人公、あるいは11世紀頃実在した(ということになっている)カム・リンツァン王国の王。トム・ケサルは、ボン教文献に登場する異国の王(主にテュルクの彼方にいる王)。『王統明示鏡』では文成公主の求婚者の一人としても登場します。この二名称についても、今のところ、きちんと整理されていません。

要するに、創作・実在・伝説上の人物を含めると「ケサル」と呼ばれる人物はいろいろな時代、あちこちにたくさんいるのです。これらをみな、一人の人物、あるいは一つの特定の勢力として無理に説明しようとすると、混乱するばかりで議論が収束していかないのです。

(注2)
カーブル・テュルク・シャーはテュルク系であるのは間違いないが、テュルクのどういう系統であるのか記録がない。

・稲葉穣 (2003) アフガニスタンにおけるハラジュの王國. 東方学報京都, no.76(2003), p.382-313.

では、中央アジアから南下してきたテュルクの一派ハラジュ(Khalaj)ではないか?、という説が提示されている。

また、カーブル・テュルク・シャーの祖とされるバルハ・テギン(Barha Tegin)は「チベットのテュルク」とされるが、この人物が想定されている7世紀初にはチベット(吐蕃)はまだ西方に進出しておらず、どうとらえるべきかわからない。

ハラジュは、後に大半がパシュトゥーンに同化してしまい、アフガニスタンではその名は消滅。ハラジュの一派はパシュトゥーンと共にインドに進出。15世紀には、短命ではあったがハルジー朝(デリー・スルタン王国の一つ)を樹立する。

またアフガニスタンから西へ向かったハラジュもいた。イラン西部にはハラジュ(Khalaj/Xalaj)を自称する民族が今も約四万人おり、テュルク系言語(ハラジュ語)を保持している。

(注3)
ザーブル王国は、本家筋のカーブル・テュルク・シャーと同時代にガズニ周辺を支配していた(680~872)。王号はRTBYL=ラトビルといい、テュルク系の官職名iltabarが訛ったものか?という説がある。

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(追記1)
アフガニスタンのカーブル・テュルク・シャーについては、一般に知名度は低いのですが、複数の研究者の尽力によりかなり解明が進んでいます。ここではその内容を紹介することはできないので、主な論文を示しておきます。

日本における第一人者は、もちろん桑山正進先生。桑山論文は大量にあるので、今回はごくごく主要なものに限りました。

・P.D.Pandey(1973)THE SHĀHIS OF AFGHANISTAN AND PUNJAB. Delhi.
・桑山正進(1981)迦畢試国編年史料稿(上). 仏教藝術, no.137(1981/7), pp.86-114.
・桑山正進(1982)迦畢試国編年史料稿(下). 仏教藝術, no.140 (1982/1), pp.80-117.
・Helmut Humbach(1983)Phrom Gesar and the Bactrian Rome. IN : Peter Snoy (ed.)(1983) ETHNOLOGUE UND GESCHICHTE : FESTCHRIFT FUR KARL JETTMAR. pp.303-308. Steiner, Wiesbaden.
・Abdur Rehman(1988)THE LAST TWO DYNASTIES OF ŚAHIS : ANALYSIS OF THEIR HISTORY, ARCHAEOLOGY, COINAGE AND PALAEOGRAPHY pp.xvii+373+xi+figs.22+pls.XIX. Renaissance Publishing House, New Delhi.
・桑山正進(1990)『カーピシー・ガンダーラ史研究』. 京都大学人文科学研究所, 京都.
・稲葉穣(1991)七-八世紀ザーブリスターンの三人の王. 西南アジア研究, no.35(1991), pp.39-60.
・桑山正進(1993)6-8世紀Kāpiśī-Kābul-Zābul貨幣と發行者. 東方学報京都, no.65(1993), pp.430-381, pls.I-VIII.
・J.Harmatta and B.A.Litvinsky(1996)16 Tokharistan and Gandhara under Western Türk Rule (650-750). IN: B.A. Litvinsky etal. (ed.) HISTORY OF CIVILIZATIONS OF CENTRAL ASIA VOLUME III. pp.367-401. UNESCO Publishing, Paris.
・稲葉穣(2003)アフガニスタンにおけるハラジュの王國. 東方学報京都, no.76(2003), pp.382-313.
・ヴィレム・フォーヘルサング, 前田耕作+山内和也・監訳(2005)第11章 イスラームの到来 ザーブリスターン/東アフガニスタンのトルコ系王朝とインド系王朝. 『世界歴史叢書 アフガニスタンの歴史と文化』収録. pp.278-282. 明石書店. ←英語原版 : Willem Vogelsang(2002)THE AFGHANS. Blackwell.

桑山先生には、カーピシー・キンガル朝やカーブル・テュルク・シャー~ヒンドゥ・シャーについて、一般向けの教養書をぜひ書いてほしいのですが、なかなか難しいのでしょうね。桑山先生が無理なら、お弟子さん筋に当たる稲葉先生に期待したいところ。

今のところは、フォーヘルサング本でその概要をつかむのが、一番手近な方法でしょう。

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(追記2)
なおこの話題は、いずれアップされるであろう「ケサル王物語に史実性はあるか?」に続きます。あんまり期待しないで待っていてください。

2012年2月25日土曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(34) 歴史上のケサル@ラダック/ギルギット

創作文学とみられる「ケサル王物語」とは別に、西部チベット方面には実在の人物扱い(史実かどうかわからない)のケサルが存在しています。

代表的なのは、『ラダック王統記』に語られている10世紀初めラダック東部を支配していた「ケサル王の子孫」を称するギャア王国。この王国は、中央チベットから落ち延びた吐蕃王家の末裔キデ・ニマゴン(skyid lde nyi ma mgon)と同盟し領土を保持した、あるいは激しく戦い敗れた、と伝えられています。

ラダック東部にいた「ケサル王」とはいったい何者なのでしょうか?どこから来たのでしょうか?そして、物語のカムのケサル王とどういう関係があるのでしょうか?

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11世紀後半、ラダック側からグゲ王国に侵攻した「ギャアのケサル(rgya gye sar)」という勢力についての記録もあります(『ンガリー王統記』)。これは前述のラダック東部「ケサル王の子孫」=ギャア王国の後裔とみなすことができるでしょう(ニマゴン時代の150年後に当たる)。

さらに、これは11世紀後半に西部ヒマラヤ一帯を席巻したラダック王ラチェン・ウトパラ(lha chen 'ut pa la)と年代がほぼ一致するため、同一勢力ではないか?と考える説もあります。この説に従えば、ラチェン・ウトパラ王は吐蕃王家の末裔とは別系統であり、「ギャアのケサル王」の子孫ということになります。

ラダック王の系譜は当然ながらチベット語の名前が続きますが、この「ウトパラ」という名は、チベット語ではなくサンスクリット語の「Utpala=睡蓮」そのまま。同王が非チベット系である、という説にとっては有利な証拠になります。

ただし、そもそもこの議論の基礎となっている『ラダック王統記』の16世紀以前の系譜がどれだけ正確であるのか?という疑問があり、このため、この問題もあまりつっこんだ議論まで到達しないのが現状。

このギャアの王は、チベット人到来前の先住民ダルドと推測されてはいますが、その出自ははっきりしません。また、クッルー史(『Kullu Vamsavali』)に現れるギャア・ムル・オル王国(7世紀)がその祖先に当たる、という説もあります。

ギャア王国の歴史については、女国、シャンシュン、中国史料に現れるラダック周辺の地名(秣邏娑(婆)/三波訶/娑播慈)などとのからみで、深く広く考察しなければならないのですが、その検討はいまだ未了。が、西部チベットの古代史を探る上で、今後ますます重要なテーマとなるはずです。

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ギルギット史にもケサル(キセル)が現れます。トラカン朝の一つ前の王朝はシャー・レイス(Shah Rais)朝と呼ばれています(注2)。その最後の王は、有名なシュリー・バダト(Shri Badat)(注3)。王朝の祖がキセル(Kiser)といいます。このキセルは、ラダック王の王子で、ギルギットにやって来て新王朝を開いた人物とされています。

このキセルとラダック(ギャア王国)のケサルは関係があるのでしょうか?それとも「ケサル王物語」が伝わったことにより、歴史の方が創作文学の影響を受けたのでしょうか?シャー・レイス朝が始まった年代も、「ケサル王物語」の成立年代や西部チベット~カラコルムに伝わった年代、何もかも謎のままです。

このあたりの調査研究はまだほとんど進んでおらず、謎が多い分野です。その分若手研究者にとっては、狙い目の分野でもあるんですけどね・・・。

私見としてはある程度まとまった考えがあるんですが、フンザに続いてギルギット史に長々と深入りするつもりは今はないので、いずれまた改めて・・・。

参考:
・August Hermann Francke (1926) ANTIQUITIES OF INDIAN TIBET : PART(VOLUME) II : THE CHRONICLES OF LADAKH AND MINOR CHRONICLES. pp.viii+310. Calcutta. → Reprint : (1992) Asian Educational Services, New Delhi.
・Luciano Petech (1977) THE KINGDOM OF LADAKH C.950-1842A.D. pp.XII+191. IsMEO, Roma.
・Ahmad Hassan Dani (1991) HISTORY OF NORTHERN AREAS OF PAKISTAN. pp.xvi+532. National Institute of Historical and Cultural Research, Islamabad. (改訂版も出ているようだ)
・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.xi+642. Dharamsala, India.

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(注1)
ギャア王国は10世紀以降もラダック王国からは独立した勢力として存続し続けたが、16世紀後半にラダック王国に従ったようだ。しかしその後も自治を保ち、「stod rgyal po(上手(ラダック)の王)」と呼ばれて尊崇され続けた。18世紀前半にはラダック王国宰相ソナム・ルンドゥプを輩出するなど、ラダック政府中枢を担うこともあった。

(注2)
シャー・レイス朝と、碑文などに王名が残るパトラ・シャーヒー朝、漢文史料に名を残す勃律王家などとの関係はわかっていません。同一、あるいは連続するものである可能性もありますが、今のところきちんと整理されていません。この交通整理はそのうちちゃんとやります、ってば・・・。

(注3)
シュリー・バダト王には、敬虔な仏教徒王、とする伝説と、残虐な人喰い王、という対照的な伝説がある。後者は典型的な「末代悪王」エピソードであり、史実そのままとは考えられない。またそのエピソードは、パミール~ヌブラ方面に流布しているロバ脚の人喰い悪魔(ヌブラでの名はジョ・ボンカン/jo bong rkang)伝説とよく似ており、カラコルム一帯に流布していた「人喰い悪魔」伝説を、末代悪王説話として取り入れたのだろう。

なおこの説話は、ミダス王伝説(「王様の耳はロバの耳」や「触るとなんでも金になる」の人)、アレクサンドロス大王(ズルカルナイン)伝説、シェンラブ・ミウォ伝説、シャンシュン王の王冠、ドゥンパの帽子などとも関係があり、壮大なスケールの話になるのですが、今はそっちに行くことはできません。いずれまた(こればっかり、とツッコミが入るはず)。

参考:
・Rohit Vohra (1995) Early History of Ladakh : Mythic Lore & Fabulation : A Preliminary Note on the Conjectural History of the 1st Millennium A.D. IN : Henry A. Osmaston & Phillip Denwood (ed.) (1995) RECENT RESEARCH ON LADAKH 4 & 5 : PROCEEDINGS OF THE FOURTH AND FIFTH INTERNATIONAL COLLOQUIA ON LADAKH. pp.215-233. Motilal Banarsidass, Delhi.

2012年2月24日金曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(33) フンザに残る「ケサル王物語」

フンザが明らかにチベットから影響を受けた文化として、「ケサル王物語」(注1)があります。

「ケサル王物語」がアムド・カム~ウー・ツァン、さらにラダックに分布していることはよく知られています。特にラダックの「ケサル王物語」は西洋では最も早く知られたヴァージョンで、20世紀前半には唯一の入手可能資料でもありました。

ラダックからさらに西に進み、バルティスタンにも「ケサル王物語」があります。ここは今はイスラム圏とはいえ、まだチベット語圏内ですから理解できます。しかし、フンザにまで「ケサル王物語」があるとなるとちょっと不思議です。

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フンザ版「ケサル王物語」のストーリーは、出生、嫁取り作戦と王への成り上がり、北の悪魔退治、対ホル戦争までの基本的なストーリーが揃っており、主な人名・地名もKiser(ge sar)、Brumo('brug mo)、Ling(gling)、Hor(hor)と、チベット版とほぼ同じです。

「ケサル王物語」はチベット文化圏を越えてモンゴルやカラコルムにまで広がりをみせているのですが、対ホル戦争まではほぼ同じストーリーが保持されており、驚くべき均質性を示しています(注2)。

対ホル戦争までのストーリーが完成した段階で各地に流布したのは間違いないでしょう。ただし発生地点や伝わった年代・経路はいまだ確定されていません。

対ホル戦争までのストーリーで、一番違いを見せるのが冒頭・出生の部分。チベット本土のヴァージョンではグル・リンポチェなどが現れ仏教的な潤色がなされているのに対し、ラダック、バルティスタン、フンザでは仏教的な潤色が一切ないのが特徴。おそらくこちらの方が原型に近いのでしょう。

フンザの「ケサル王物語」も、吐蕃時代から続く、というよりバルティスタンとの交流で伝えられたもの、と考えるべきでしょう。「ケサル王物語」の成立時期は11世紀頃という説が有力ですし、フンザへの伝播を、吐蕃時代にまでさかのぼらせるのは難しそう。チベット本土ではその後、後続ストーリーが多数創作されましたが、西部チベット方面に伝わったのは対ホル戦争までのコア・ストーリーだけでした。

「ケサル王物語」の成立時期、成立地点、発展過程、伝播経路の研究の上でもフンザの「ケサル王物語」は重要な位置にあるのですが、Lorimerが報告して以来、あまり注目されたことはないのは残念。

参考:
< ラダックのケサル王物語 >
・August Hermann Francke (1941) A LOWER LADAKHI VERSION OF THE KESAR SAGA. pp.xxxii+493. Royal Asiatic Society of Bengal, Calcutta. → Reprint : (2000) Asian Educational Services, New Delhi.
・Tsering Mutup (1983) Kesar Ling Norbu Dadul. IN : Detlef Kantowsky+Reinhard Sander(ed.) (1983) RECENT RESEARCH ON LADAKH : HISTORY, CULTURE, SOCIOLOGY, ECOLOGY. pp.9-28. Welforum Verlag, Munchen.

< バルティスタンのケサル王物語 >
・岡田千歳 (2001~03) 叙事詩「ケサル物語」の挿入歌について パキスタン北部バルティスタンの調査報告(1)~(3). 桃山学院大学教育研究所研究紀要, no.10~12.

< フンザのケサル王物語 >
・David Lockhart Robertson Lorimer (1935) THE BURUSHASKI LANGUAGE II : TEXT AND TRANSLATION. Instituttet for Sammenlignende Kulturforskning/Aschehoug, Oslo. (ブルシャスキー語で語られた昔話集) → Reprint : (1981) FOLK TALES OF HUNZA. pp.196. National Institute of Folk Heritage, Islamabad. (上記書の英訳部分のみを抜粋したもの)

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(注1)
「ケサル王物語(ge sar gyi sgrung)」は、チベット文化圏全域およびモンゴルに流布している長大な叙事詩。リン国(gling)に生まれたケサル(ge sar)がその国の王に成り上がり、ホル国(hor yul)などの諸国と戦う、というストーリー。本来は口伝で伝えられた物語で、ドゥンパ(sgrung pa=物語師)が代々語り伝えてきた。近年、チベット語、中文訳書、欧文訳書などの形で文字資料として残されるようになった。

チベットの「ケサル王物語」の邦訳書は、

・君島久子 (1987) 『ケサル大王物語 幻のチベット英雄伝』. pp.222. 筑摩書房, 東京. (中文訳本からの重訳であり、子供向けの抄訳)

しかなく、お寒い現状。各地の「ケサル王物語」邦訳稿は他にいくつかあるが、断片的なもの。

モンゴルの「ゲセル王物語」(モンゴルでは「Geser」となる)の邦訳書は、

・若松寛・訳(1993) 『ゲセル・ハーン物語』. pp.429. 平凡社東洋文庫566, 東京.

がある。

ケサルに関する論考でアプローチしやすく、また優れたものとしては、

・金子英一 (1987) ケサル叙事詩. 長野泰彦+立川武蔵・編 (1987) 『チベットの言語と文化』所収. pp.408-427. 冬樹社, 東京.

がある。

(注2)
チベット本土の「ケサル王物語」では、対ホル戦争の後に、対ジャン('jang/南詔)戦争、対モン(mon/南の異民族)戦争、対タジク(stag gzigs/ペルシア)戦争などなど、同工異曲の戦記が延々と続き、最後はケサルが天に戻る話で完結する長大なものになっている。

しかし、ラダック、バルティスタン、フンザに流布しているヴァージョンは、いずれも対ホル戦争の勝利で終わるシンプルなストーリー。おそらくこれが「ケサル王物語」のコア・ストーリーであり、西部チベットに伝わるヴァージョンは「ケサル王物語」の原型を伝えるものと考えてよさそう。

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(追記)@2012/02/25
各地の「ケサル王物語」の比較を試みた先駆的な研究として、次のような論文があります。

・角道(かくどう)正佳(1997)土族のゲセル. 大阪外国語大学論集, no.18(1997), pp.225-250.

著者は土族についての研究者らしいのですが、土族をはじめアムド、裕固族、デード・モンゴル(青海モンゴル)、モンゴル、オイラト、そしてフンザに伝わる「ケサル王物語」を用いて、各モチーフの比較検討を行っています。

「ケサル王物語」の発祥の時期・場所、伝播、変容を探索するには、まずこのような基礎的な研究が不可欠です。が、地域が広範にわたる上に、言語もチベット語をはじめモンゴル語、ブルシャスキー語など多岐に渡るため、なかなか研究も思うに任せないようです。

角道氏は、必ずしも「ケサル/ゲセル」を専門とする方ではないので、当分野に関してはその後発展がきかれないのが残念です。が、今後このような各地の「ケサル」の比較研究が盛んになることが望まれますし、実際進むのではないかとワクワクしています。

2012年2月20日月曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(32) フンザの麺料理・ダウロ/ダウドの謎-その2

ダウロにはもう一つ重要な特徴があります。それは、麺料理であるよりもスープとしての性格が強いこと。前述のように、場所によっては麺がみっちり入ったものもあり、かなりヴァリエーションはあるのですが、おおむねスープ・メインと考えていいでしょう。

これは麺を主体とするラグマン(スユック・アシュ)、トゥクパとは一致しない特性です。似た料理が近隣にないでしょうか。

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・石毛直道 (1991) 『文化麺類学ことはじめ』. pp.298. フーディアム・コミュニケーション, 東京. → 改題の上再版 : (2006) 『麺の文化史』. pp.395. 講談社学術文庫1774, 東京. (注)

には、キルギスタンの麺料理ウグラー(ugra、ウズベク語)/ウゴロー(ugoro、タジク語)/ケシマ(kesima、キルギス語)というものが取り上げられています。


ウグラー@キルギスタン・オシュ
石毛(1991)より

これはスープ(写真ではどういったタイプのスープかわからないが、マトンをダシに塩で味付けしたものか?トマトは入っていないよう)に、幅2~3mmと細くてなおかつ短い切り麺を入れたもの。麺はスープで直接煮込むようです。

ダウロも似た調理法をとるらしく、乾麺状態のスパゲッティやマカロニをいきなりスープで煮込んでいるようです。よって麺の芯が茹で上がる前に周囲が溶け出し、スープにはとろみが出てきます。だから、意外にできあがりまで時間がかかっていましたね。

スープ・メインという性格といい、短い麺といい、麺を直接スープで煮るという調理法といい、ウグラーとダウロはよく似ています。

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石毛(1991)には、さらに気になる報告があります。

> ウズベク族もウグラーを食べるが、タジク族が一番よく食べる。
> キルギス族はあまり食べない。

フンザのすぐ北にはタジク系のワヒー人が住んでおり、フンザ本体とは密接な関係にあります。また、そのワヒー人の故郷ワハーン谷ともフンザは交流を続けてきました。

このタジク/ワヒー人経由で、ウグラーがタジク→ワヒー→フンザへと持ち込まれ、ダウロとなった可能性が考えられます。

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なお、ウグラーは東トゥルキスタン(ウイグル)にもあります。

・しみずゆりこ/新疆瓦版-ウルムチまでは何マイル? > 異邦人(マレビト)の目から見たウイグル > ウイグルの暮らしと文化 > ウイグルの食文化 > II. ウイグル料理~小麦料理編~
http://home.m01.itscom.net/shimizu/yultuz/uighur/culture/food/index.htm
・愛の架け橋 > 2007-07-25 ウイグル人料理(7) ウグレ
http://blog.okinawabbtv.com/kakehasi/index.php?catid=7060
・knol : A unit of knowledge > Uyghur Noodles (Ugra)
http://knol.google.com/k/yushanjiang-simayi/uyghur-noodles-ugra/2ystybnyf5mc5/19n

を見ると、スープ・メインというのは同じですが、麺は細いとは言えず、また長く、量も多そうに見えます。西トゥルキスタンのウグラーとはちょっと違っていますね。ダウロに似ているのは西トゥルキスタンのウグラーの方でしょうか。

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石毛(1991)によれば、イランにはアウシュ(スープ)、アフガニスタンにもアウシュ(麺入りスープ)という料理があって、西トゥルキスタンのウグラーと関係がある、とみられています。

ウイグルのスユック・アシュの「アシュ」もこれと同源の単語でしょう。ウイグル語では「麺」を意味するらしいのですが、ではこれがペルシアまで伝わり、そちらでは肝心の麺が抜けてスープだけになったのか?わからないことだらけです。

内陸アジアでの麺料理伝播は大半が「東→西」という流れなのですが、もしかするとアウシュ/ウグラーだけには、局所的にタジク→フンザという「西→東」という流れがあるのかもしれません。

この件に関しては、自分はもとより専門家による検討もいまだ充分ではなく、満足いく結論に到達はできません。しかし、ダウロとウグラーには関係があり、そしてタジク~ワヒーがこれを媒介したのではないか?という仮説を立てることはできそうです。

今のところ手元にタジク~ワヒーの食文化に関する資料がなく、彼らがどういうウグラーを食べているのかはっきりしません。特に最も重要な上フンザのワヒーについて全くわかっていないので、もっと調べる必要があります。

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ダウロの成立にはこれで、トゥルキスタンのウグラーとラグマン(スユック・アシュ)、チベットのトゥクパ(特にテントゥク)、と3つの源流が想定できそうです。しかし、調べていくうちにどちらかというとトゥルキスタンからの流れの方が太そうな気もしてきました。

ダウロの麺やスープにヴァリエーションがみられるのは、各々の影響力の大小に起因するものなのかもしれません。

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最後に「ダウロ」という名称についてですが、これがまた皆目わかりません。手元のブルシャスキー語語彙集には、めぼしい単語はありませんでした。

トゥルキスタンの麺料理の中にも、似た名前は今のところ見つかりません。

石毛(1991)には、ブータンのあんかけうどん「タルメン」という料理が現れます。これは中国のあんかけ麺「打滷麺(ダァルゥミェン)」直系の麺料理と考えられています。

ダウロとは名前がちょっと似ています。ダウロでは麺が溶けだしてスープにとろみがついているあたりも、このタルメンと共通点があります(タルメンの方はおそらく片栗粉でしょうけど)。しかし、私はチベット本土でタルメンを見たことがなく、さらにラダックの方でも見たことがありません。ブータンにもどういう経路で中国から伝わったのか明らかではありません。

中国の打滷麺が、少なくともその名称が、チベット→西部チベットを経てフンザにまで伝わった、とするにはまだまだ証拠が足りません。

今のところは、ダウロの語源も謎とする他ありません。

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思ったより大作になってしまいましたが、麺料理ひとつとっても、フンザにはトゥルキスタンやチベット双方の影響が想定できるわけです。それもかなり複雑な経路が想定できます。

フンザの文化は、近隣の多様な世界と反応しながら成長してきたもので、フンザを「外界から隔絶した隠れ里」とする考え(というより商売上のキャッチフレーズ)にはとても賛成できません。

しかし、ダウロの食文化調査・研究は今のところ見当たりません。フンザに関する研究は、この分野に限った話ではないのですが、未着手の問題だらけです。

ここで延々書き続けていることでもわかるように、フンザについては興味深い話題ばかりです。が、問題は山積み。とても私がそれを次々処理できるものでもありません。いずれ各分野で、新進気鋭の研究者が現れて解決してくれることを期待しましょう。

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(注)
原版はカラー写真が豊富。料理の実体を詳しく知るために、文庫版『麺の文化史』でなく、原版『文化麺類学ことはじめ』の方を入手する意義は大きい。

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(追記1)
以上は2年以上前にすでに書き上げていたものですが、最近見つけたサイトに次のようなものがあります。

・和人+あづさ/旅して~世界206ヶ国&旅と暮らし>2人の世界旅>その土地の食>パキスタン>ダウロまたはダウド…パキスタン
http://tabisite.com/hm/shoku/v75/11071508.html

こちらではすでに、フンザのダウロとアフガニスタンのオシュ/イランのアシュが同類の料理であることが指摘されています。

この記事がいつ発表されたのかはわかりませんが、著者がフンザを訪問されているのは2011年7月らしいので、記事のアップはそれ以降と思われます。

とはいえ、オシュ(アフガニスタン)/アシュ(イラン)は、麺料理という性格上、東方(直近の発信源は西トゥルキスタン)から伝播したものとみられますし、ダウロ(フンザ)とじかにつながるものではないと私は考えます。

上記3種の麺料理はすべて西トゥルキスタンのウグラーが発信源でしょう。特にそれをフンザへ伝える役割を果たしたのがタジク系ワヒー人か?というのが、私独自の説、ということになります。

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(追記2)
ダウロに関しては、昔、国立民族学博物館友の会の会誌「月刊みんぱく」内の質問コーナーで、石毛直道先生に直々に答えていただきました。あれからずいぶん経ちましたが、ようやくその恩返しができたような気がします。

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(追記3)@2012/02/23

・坂本一敏(2008)『誰も知らない中国拉麺之路(ラーメンロード) 日本ラーメンの源流を探る』. pp.238. 小学館101新書009, 東京.

という本があります。多様であり、かつ大量に存在する中国麺の世界を食べ歩き、中国→日本への麺類伝播を探索した大変な労作。

薄味新書乱発の大海に埋もれてしまい、ほとんど無名なのは残念。もっと読まれてしかるべきな本。

本書の最後は、中国領西はずれとしてのフンジェラブ峠。ちょっと足を伸ばせば、著者もフンザのダウロに遭遇し、新たな世界が広がるはずであった。残念。でも、それでは「中国麺の世界」を逸脱してしまうから、それでよかったのかも・・・。

2012年2月19日日曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(31) フンザの麺料理・ダウロ/ダウドの謎-その1

今回は余談みたいなもんですが、フンザの麺料理「ダウロ/ダウド(dauro/daudo/dawdo)」について。

フンザには麺料理があります。麺料理といっても中国の各種麺類、日本のそば/うどん/ラーメン、チベットのトゥクパとは違い、どちらかというとスープに比重がかかったものです。量も少なく、丼ではなく小ぶりの茶碗で出てきます。

こういった麺料理がフンザ・オリジナルで出現したとは思えません。パキスタン平野部にこういった麺料理は存在しないので、そちらから来たとも考えられません。

当然、隣接地域に存在している麺料理、チベットのトゥクパ、トゥルキスタンのラグマンとの関係が注目されます。これらに加え、同じトゥルキスタンの料理ではありますが、至って無名なウグラー/ウゴロー/ケシマというヌードル・スープが鍵を握っているのではないか、とにらんでいます。

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フンザでダウロを食べたのはだいぶ昔なのですが、当時は食文化にはあまり興味はなかった上に、フィルムをケチっていたので(注)、残念ながらダウロの写真は撮っていません。ダウロの写真は各種旅行記サイトでご覧ください。

・パキスタン風 pakfu.exblog.jp > 10月17日 フンザの伝統料理
http://pakfu.exblog.jp/6704480/
・satomi / 旅 tabiato 跡 - blog > 10. パキスタン > 2006年05月01日 ああ、癒しのダウロ@ギルギット
http://blog.livedoor.jp/albmire/archives/cat_50008319.html
・Masakis Sawai / 南船北馬 WORLD TRAVEL SITE > 旅の間に食べた料理の写真と感想です。> 南アジア > パキスタン
http://sawai.ms/gyu/gyuasia2.html
・坂口克 / 5月3日(水) フンザお散歩
http://www.sakaguti.org/honmon%20page/pakistan/hunza/hunza.htm
・xiaokobamiki / 私の旅はこんな旅 > ギルギットからヤシンへ (パキスタン) > 10/21'06 ギルギットからヤシンへ
http://kobamiki.exblog.jp/6421816/
・Haruko Y. Izawa / お宝発見!体験型異次元空間 > 突撃!食の探検隊 > Food in 南アジア > Pakistan パキスタン > 《北部フンザの食事》ダウロ
http://sekitori.web.infoseek.co.jp/Food/w_PK_fd8_dauro.html

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ダウロ発祥の地はフンザで間違いないのですが、ギルギット、ラワルピンディ、ラホールなどでも見かけるようです。おそらくフンザ人が移住して住んでいるのでしょう。

上にあげたサイトの写真を見ると、一口にダウロといってもかなりヴァリエーションがあります。麺とスープに分けてその内容を検討してみましょう。

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まず、スープですが、私が食べたフンザの3ヶ所では例外なくトマト・ソースでした。見た目は真っ赤で油が浮き、辛そうに見えますが、唐辛子は入っていません(と思う)。胡椒がきいていた記憶はあります。肉のダシはほとんどきいてないのでごくあっさりした味です。

ダウロだけで一食をまかなおうとすると、量も少ない上にあっさり味なので、かなり物足りなく感じます。これはやはりメイン・ディッシュではなく、スープとしての役割が大きいのでしょう。

パキスタン平野部から北上していくと、マトン+バターのこってりカレーに胃が疲れてきます。そしてフンザに着くと、日本人にはダウロのあっさり味が懐かしく感じられるようです。

考えてみると、各種ウェブサイトでもダウロを取り上げているのは、なぜか日本人ばかりです。欧米のサイトでは、ダウロに注目している人は皆無に近い有様。やはりダウロに、東洋の食事(特に中国料理)に近いものを感じているのですね。また、麺好き民族=日本人の面目躍如といったところでしょうか。

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さて、このトマト・ベースのスープですが、これはトゥルキスタンの麺料理ラグマンのスープと同じです。当然起源をそちらに求めることができるでしょう。

フンザは古くからトゥルキスタンと関係が深く、共産中国成立前にはパミール北側に放牧地を持ちカシュガル/ヤルカンドとの交易も盛んでした。

ただし、ラグマンは現中国・東トゥルキスタンと旧ソ連・西トゥルキスタンでは内容が違っています。東トゥルキスタン(タリム盆地)ではラグマンといえば、麺に具をかけるだけの汁なし麺で、中国語では「拌麺(バンミェン)」という食べ方が主となります。一方、西トゥルキスタン(旧ソ連中央アジア)では、トマト・スープの汁麺です。この汁麺は、東トゥルキスタンの方ではスユック・アシュという名前になります。ダウロと関係しているのは拌麺ではなく、このスユック・アシュの方でしょう。

参考:
・しみずゆりこ/新疆瓦版-ウルムチまでは何マイル? > 異邦人(マレビト)の目から見たウイグル > ウイグルの暮らしと文化 > ウイグルの食文化 > II. ウイグル料理~小麦料理編~
http://home.m01.itscom.net/shimizu/yultuz/uighur/culture/food/index.htm

しかし、上記の諸サイトを見るとダウロのスープは必ずしもトマト・ベースとは限らないようです。ものによってはマトンのダシがよくきいているものもあり、ターメリックで黄色くなったマサラ味ありと様々。

ダウロといえばトマト・スープと思っていた私には、かなり意外でした。マトンのダシに塩で味つけしただけのスープは、ラグマン(スユック・アシュ)よりもチベットのトゥクパの汁に近くなってきます。

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麺の方を見てみましょう。フンザで食べた3食のうち、2食は短いスパゲッティやマカロニが入っている、というより浮かんでいる、といったもの。麺がメインではないように感じました。

スパゲッティやマカロニというのは比喩ではなく、本当に市販のスパゲティやマカロニが入っているのです。ちょっと興ざめしますね。この麺へのこだわりのなさがまた、スープ・メインであることを強く感じさせます。

スパゲッティはわざわざ短く折った上で入れてあるので、麺をすするという食べ方はできません。当然箸は使いません。フォークに類する道具も使いません。スプーンですくって食べるだけです。食べにくいったらありゃしない。

しかし諸サイトで見ると、意外に麺がたっぷり入ったものもあり、「メインはスープか?麺か?」という問題は、もう少し検討の余地がありそうです。

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フンザでダウロを食べた当時はあまり気にしていなかったので記憶が定かではないのですが、3食のうち1食だけ、麺はスパゲッティやマカロニではなく幅広麺を短く切ったものでした(・・・だった記憶がある)。

記憶もおぼろげになり、あれは他の場所と混同してるのかなあ?と不安になったりしましたが、

・Lahore Pakistan > 日記帳(パキスタンラホール生活史) > 2003年12月 > 12月7日
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/2612/geodiary0312.html

に、

> むせるフンザ麺:
> ダウロと呼ばれる、パキスタンの桃源郷フンザで
> 食べれるうどん。トマトベースでペッパーの雨。
> 平たい麺とスープで、3人でむせながら食道にながす。

という記述を発見し、やはり幅広麺の記憶は間違いないと確信しました。

これはチベットのテントゥク('then thug)を思い出させます。テントゥクも幅広麺を短く切ったものです。麺を汁と一緒に煮込むので麺の表面が溶けだし、汁は「あんかけ」風のどろっとしたものになります。

東トゥルキスタンのラグマン(スユック・アシュ)にも幅広麺をちぎったものがあり、「ウズップ・タシュラップ」あるいは「麺片/メンペル」と呼ばれます。テントゥク自体、トゥルキスタンに近いアムドに起源を持つ、という話を聞いたことがあり、おそらく両者は同源なのでしょう。

こうなると、ダウロの幅広麺については、どちらの影響かわからなくなります。

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チベット~フンザ間の「麺事情」を概観しておきましょう。

チベット本土では、トゥクパといえども、麺は市販の乾麺うどんになっています。それは食堂でも家庭でも同じようです。小麦粉を生地にして麺を作るやり方はかなり手間がかかるので、ほとんど見たことがありません。

ラダックでは、食堂では市販の乾麺を使っています。これは黄色く縮れた麺(おそらく鹹水が入っている)でラーメンと似ています。これを朝一で大量に茹で、茹で上がったら一食ずつにわけてテーブルの上に並べふきんをかけておきます。で、注文が来たらチャッチャッと湯通ししマトン・スープに入れます。日本の「立ち食いそば屋」スタイルですね。

ラダック、特にレーの外食におけるチベット料理の担い手は、実はラダッキではなく亡命チベット人やネパールのシェルパなのです。ですから、レーの食堂のメニューだけをもってラダック料理を判断することはできないのですが、外食産業(というほどの規模ではないが)でのトゥクパの現状はこんなところです。

ラダックの家庭では、今も小麦粉生地から麺を作るやり方が行われていますが、手間がかかるのでこちらもインスタント・ラーメンなどに取って代わられつつあります。



これはヒマーチャル・プラデシュ州パーンギー、チベット系の家庭で見せてもらった麺作りの様子です。小麦粉生地から手でよって麺を細く練り出しています。延べ棒やら包丁やら押し出し機などは使わない、最も基本的な麺作りですね。油なども塗っていないので非常に手間のかかる仕事です。客として歓待されている証拠ですから、いたく感銘を受けました。

なお、幅広麺の料理テントゥクはラダックにも存在していますが、これも亡命チベット人が持ち込んだ可能性が高そうです。それ以前、ラダックにテントゥクが存在していたかどうかは、今のところわかりません。

さて、バルティスタンでは、トゥクパは一般にはもう見かけませんが、スカルドゥに「Tibetan Restaurant」と称する店が2軒あり、そこにチャウメン(焼きそば)がありました。しかし、麺は市販のスパゲッティです。調理方法や味も中華風で、聞いたところカシュガルだかで修業したと言っていました。印パ国境が閉ざされて半世紀ですから、食文化の面でも、チベット側との断絶はどんどん広がっているようです。

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こういった周囲の状況も踏まえた上で、このフンザのダウロの起源を考えてみましょう。

はっきりした結論は出ないのですが、トマト・ベースのスープにはトゥルキスタンのラグマン(スユック・アシュ)からの影響を、幅広麺にはチベットのテントゥク/ラグマン(スユック・アシュ)双方からの影響を感じさせます。トゥルキスタン、チベット(というよりバルティスタン/ラダック)双方との交流の結果生まれた料理と言えるかもしれません。

麺については、ごく一部を除き今はほとんど市販のスパゲッティ/マカロニになっているため、麺の性格から起源を探索することは難しくなっています。手打ち麺であれば、もうちょっと起源探索のヒントになるんですが。

スープに関してはトマト・ベースでないものもかなりありますから、それらはむしろチベット・トゥクパの影響が強いのかもしれません。

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新大陸原産の野菜であるトマトは、いつトゥルキスタンに入ってきたのでしょうか?トマトは中国料理ではまず使われない素材です。そのルートは中国からではないでしょう。では西から?ラグマンの麺は東から来て、トマト・ベースのスープはそのずっと後に西から来たのでしょうか?

これはラグマンの起源にかかわる問題になってしまいます。実はラグマン自体もあまり詳しく研究が進んでいるわけではないので、ここであまり突っ込んだ検討はできません。

トマト自体、ヨーロッパ(特にスペインやイタリアなどの南ヨーロッパ)で食用として利用されるようになったのは17世紀です。トゥルキスタンにトマトが入ってきたのは、もちろんそれよりずっと後でしょう。

こうして考えると、トマト・スープがフンザに入ってきたのも、かなり最近の出来事ではないか?とも考えられます。ひょっとすると、すでにダウロがあったところにトマト・スープが加わった可能性だってありそうです。トマト・ベースでないスープのダウロがあちこちに見られることからも、それが窺えます。

トマト・スープを基準にダウロの起源を考えるのはどうも危険ですね。

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そうなると、ダウロはチベット・トゥクパとの関係の方が深そうな気もしてきます。

ところが、実はチベットのトゥクパもあまり研究が進んでいないテーマです。中国の麺料理の影響であるのは間違いありませんが、ではいつチベットに広まったのか、麺の作り方などの分布・発展史なども皆目分かりません。

チベット史文献というのは、これはもう徹頭徹尾仏教がらみのことばかりが書かれていて、こういった庶民の習俗などは完全無視です。一般人の日常生活が記録に残るようになるのは、欧米人が入り込むようになってから、大半は19世紀以降です。トゥクパもいつごろから中央チベットで普及し、それがいつ西部チベットに伝わったのか全く謎です。もちろん、さらにフンザまでトゥクパが伝わった記録などあるはずがありません。

ダウロとトゥクパの関係を強く感じさせるものも幅広麺(テントゥク)くらいしかありません。そのテントゥクも西部チベットにいつ入ってきたのか、フンザまで伝わる機会はあったのか、などわからないことだらけです。

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(注)
パキスタンからカシュガルへ抜け、すぐさま新蔵公路でンガリーへ向かったので、そのンガリーでフィルム切れになるのが心配だったのです。

2012年2月17日金曜日

ヒマーチャル小出し劇場(2) 山上の貴婦人パラーシャル・リシ・マンディル

人里離れた山頂にひっそりとそびえているパラーシャル・リシ・マンディルは、ヒマーチャル最大の穴場。

「山上の貴婦人」というキャッチフレーズは私がつけたものですが、その外観に対するイメージです。祀られているのはリシ(聖仙)。女神を祀っているわけではないので注意。



2012年2月16日木曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(30) バルティット故城/神降ろしビタン

フンザの象徴としてそびえ立つバルティット故城は一見してチベット風の建築であることがわかります。


バルティット故城@フンザ

しかし、これはそれほど古い建築物ではありません。17世紀前半、フンザ王アヤショ二世(Ayasho II)は、スカルドゥ王アブダル・カーン(Abdal Khan)の王女シャー・ハトゥン(Shah Khatun)を王妃に迎えました。これを契機としてバルティスタンから工人を呼び寄せ、バルティット城と下手のアルティット城を建てたものです。

そういった経緯で、チベット建築の流れをくむ建築物がフンザにも見られるわけです。その名「Baltit」が、「バルティ」にちなむことも言うまでもありません。

フンザとバルティスタンの関係が一番親密になったのは、この頃でしょうか。「ブルシャ」、「ブルシャスキー」というチベット語(バルティ語)がフンザに入り、自称として使われるようになったという仮説に組み入れるならば、その契機をこの時代に置いてみるのもひとつの案でしょう。

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フンザなどに見られるフラット・ルーフの民家建築はチベットと共通ですが、これは一方的にチベットからの影響であるとはいえません。民家建築はその地の気候・風土・建築材料のあるなしに規定されますから、言えることは、カラコルムとチベットの気候・風土は似ており、フラット・ルーフの民家がそれに最も適した建築である、ということだけ。

また、これはフンザだけではなくバルティスタンにも見られるのですが、この一帯には尖塔を持った形状のマスジド(モスク)があり、これを「チベタン・モスク」と呼ぶ人もいます。


尖塔マスジド@バルティスタン

しかしこれはチベット建築ではなく、カシミールに起源を持つ建築様式です(スリナガルのシャー・ハムダン・マスジドなどが代表例)。


シャー・ハムダン・マスジド@スリナガル

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フンザにはビタン(Bitan)と呼ばれる「神降ろし」がいます。いわゆるシャーマニズムですが、チベット文化圏のラバ(lha ba)と非常によく似ています。しかしこれも単純にチベットからの影響と考えることはできません。チベット文化やイスラム文化が形成される以前から、ヒマラヤ一帯にあった文化が、新興の宗教(仏教やイスラム教)に消されずに生き残っている、と考えるべきでしょう。


トランス状態のBitan
Homayun Sidky(1995)HUNZA : AN ETHNOGRAPHIC OUTLINE. Illustrated Book Publishers, Jaipur. の表紙より

2012年2月14日火曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(29) フンザ~ギルギットに残るチベット語

フンザ~ギルギットにはチベットの影響が今もいくつか残っています。

まず、ことば。ギルギットのシナー語、フンザのブルシャスキー語にはチベット語/バルティ語の単語がいくつか借用されています。

ブルシャスキー語
祖母 : api/epi ← a phyi(チベット語古語/ラダック語/バルティ語)
塩 : payu ← pa yu(バルティ語/プリク語)
米 : bron/bras ← bras(チベット語)
そば(穀物): bro ← bra bo/bra'o(チベット語)
ポプラ(木): byarpha ← dbyar pa(チベット語)
ハンカチ : lagphis ← lag phyis(チベット語)
幕営地 : brangsa ← 'brang sa(チベット語)

シナー語
たまねぎ : tsong ← cong(チベット語)
そば(穀物): bro ← bra bo/bra'o(チベット語)
靴下 : kangtse ← rkang tse(バルティ語)
ソーダ(鉱物): phul ← bul(チベット語)
約束 : chadkha ← chad ka(チベット語)

出典:
・John Biddulph (1880) TRIBES OF THE HINDOO KOOSH. pp.vi+164+clxix. Calcutta. → Reprint : (2001) Bhavana Books & Prints, New Delhi.
・Homayun Sidky (1995) HUNZA : AN ETHNOGRAPHIC OUTLINE. pp.209. Illustrated Book Publishers, Jaipur.
・Syed Muhammad Abbas Kazmi (1996) The Balti Language. IN : P.N. Pushp+K. Warikoo(ed.) (1996) JAMMU, KASHMIR AND LADAKH : LINGUISTIC PREDICAMENT. pp.135-153. Har-Anand Publications, New Delhi.

これらが吐蕃時代から続くものなのか、バルティスタンとの交流(注)の結果比較的近年にもたらされた影響なのか、わかりませんが、単語のいくつかにチベット方面からの影響があることは間違いありません。

「ブルシャ」という地名・民族名、「ブルシャスキー」という言語名もそういった過程でチベット/ラダック/バルティスタンから比較的近年にもたらされた、という可能性もありますが、他称であったものが自称として採用されたのであれば、それには何か重要な契機があったはずです。それがわかりません。

また、自称「Burusho」、「Burushaski」が、吐蕃と関係が深かった8世紀頃から続くものであったならば、何らかの記録が残っていそうなものですが、それは一切ありません(あるのはチベット側からの他称としてのみ)。よって、どちらかというと「比較的近年にチベット/バルティスタンからもたらされたのでは?」という考えに傾きつつあるのですが、証拠がなさすぎます。

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(注)
フンザ・ナガルとバルティスタンの間にはカラコルム支脈の高山が横たわり一見通行不可能であるかのように思えるが、ナガルからヒスパー氷河~ヒスパー峠~ビアホー氷河を経てアスコールへ抜けるルートは、氷河が延々続く厳しい道ながら古くから重要な交易路であった(トレッキング・ルートとして、また「スノーレイク」のある場所としても有名)。

ナガルの人々にはモンゴロイドの形質が見られ、フンザの人々とは外見が異なる。これはこのルートでバルティスタンとの交流が続いた結果と考えられている。

バルティスタン・シガル(Shigar/shi dgar)の王家は、ギルギットのトラカン朝の傍系で、フンザ・ナガルの代官を務めていたチャタム(Cha ThamあるいはShah Hatam)が、いとこであるギルギット王ハイダル・カーンと争い、そして敗れてシガルに亡命したことに始まる、とされる(14世紀か?)。この際の亡命ルートも、敵の領地ギルギット~インダス川経由の道は取れないので、当然ヒスパー氷河経由だったはずだ。

2012年2月12日日曜日

ヒマーチャル小出し劇場(1) シェインシャルの五重塔寺院

出版企画丸ごと没にされたヒマーチャル・ガイドブックから、小出しで絶景を紹介するこのシリーズ。

その第1回はシェインシャルの五重塔寺院マヌ・リシ・マンディル。旅行情報や寺に関する情報は省略。雰囲気だけお楽しみください。



2012年2月10日金曜日

青唐王国関係論文リスト の巻

まだブルシャ話の途中ですが、一息ついたところで、青唐王国の話題をはさみます。

青唐王国とは、11世紀にアムドのツォンカに栄えたチベット系の王国です。その祖である唃厮囉(rgyal sras)は、吐蕃王家の末裔に当たります(注)。

この王国については、チベット好きの間でもあまり知られていません。せいぜい、山口瑞鳳氏の著作で簡単に触れてあるのを見たかなあ、というケースが多いでしょう。

そこでは「仏教王国吐蕃の再現」といった褒め言葉で語られていますが、その政権基盤は脆弱でした。最盛期であるはずの唃厮囉時代ですら三つに分裂していたくらいです。また、山口書では青唐王国の末路について言及されていません。

青唐王国は、東隣りの西夏と対立。そのせいもあり北宋と協力していましたが、内紛のあまりのグダグダぶりに「対・西夏の牽制役として失格」との烙印を押され、最後はその北宋に滅ぼされてしまいます(12世紀初)。

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この王国の歴史については、チベット史の分野では珍しく一から十まで漢文史料頼みで研究がなされています。具体的には『宋史』、『続・資治通鑑長編』、『宋会要輯稿』などが主な史料。

逆にチベット語史料では、この王国についてほとんど記録がなく、歴史を追うことができない状態です。唯一、「タシ・ツェクパ・ペルの孫ティデ(khri lde)がアムドのツォンカに行った」という記録が諸仏教史に残っていますが、この系譜についての続報はありません(追記参照)

「唃厮囉=ティデ」なのか?というと、私は「そうではない」と考えているのですが、この話題を始めるとすぐには終わらないので、今は立ち入らないことにします。

ただ、チベット語史料も近年意外なものが続々発見/再発見されているので、もしかすると青唐関連の史料も何か出てきているのかも?と期待もしています。アムド事情にはすべてに疎いので、もしそういう話題をご存知の方がいらしたら教えてください。

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今回のテーマですが、その青唐王国に関する論文のリストです。日本語のものが中心です。中文、欧文のものがたくさん抜けているであろうことは承知していますが、今回はご容赦を。ご指摘があればもちろん反映させていただきますので、抜けに気づかれた方はご一報を。

なぜ今このリストを示すのかというと、この分野では日本の二大巨頭である岩崎先生と鈴木先生の研究も20年ほど前に一段落。しかし、その結果は単行本などのまとまった形にはなっていません。チベット通史の中でもほぼ忘れ去られている状態。

で、これを機会に、既存論文を並べるだけでもいいからどこかで単行本化してくれないもんかなあ、というのが目論見です。日本チベット学会が論集のような形で出してくれればいいんですが、どうも同学会がそういった活動をした形跡はないようなので望み薄か・・・。

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・中島敏(1934)西羌族をめぐる宋夏の抗争.歴史学研究,vol.1,no.6.
・榎一雄(1940)王韶の煕河経略に就いて.蒙古学報,no.1.
・長澤和俊(1956)吐蕃の河西進出と東西交通.史観,no.47.
・長澤和俊(1960)遼代吐蕃遣使考.史観,no.57・58.
・前田正名(1964)『河西の歴史地理学的研究』.吉川弘文館.
・岩崎力(1974)西涼府潘羅支政権始末考.東方学,no.47.
・岩崎力(1975)西涼府政権の滅亡と宗哥族の発展.『鈴木俊先生古稀記念東洋史論叢』収録.山川出版社.
・岩崎力(1978)宗哥城唃厮囉政権の性格と企図.中央大学アジア史研究,no.2.
・鈴木俊一(1982)青唐をめぐる交通路.早稲田大学大学院文学研究科紀要 別冊,no.8.
・鈴木俊一(1983)青唐阿里骨政権の成立と契丹公主.史滴,no.4.
・鈴木俊一(1984)古代の河西通過路について.安田学園研究紀要,no.24.
・鈴木俊一(1985)「ゲルセ」-青唐吐蕃王国の王号-.安田学園研究紀要,no.25.
・岩崎力(1986)西夏建国と宗哥族の動向.『中村治兵衛先生古稀記念東洋史論叢』収録.刀水書房.
・岩崎力(1987)宋代河西チベット族と佛教.東洋史研究,vol.46,no.1.
・鈴木俊一(1987)青唐吐蕃唃厮囉王家と青海諸部族の動向 ~とくに喬氏を中心として~.安田学園研究紀要,no.27.
・鈴木俊一(1988)青唐大酋青宜結鬼章と煕河.安田学園研究紀要,no.28.
・祝啓源(1988)『唃厮囉-宋代藏族政権』.青海人民出版社,西寧.
・IWASAKI Tsutomu(1993)The Tibetan Tribes of Ho-hsi and Buddhism during the Northern Sung Period.Acta Asiatica,no.64.→ Reprinted IN : Alex McKay(ed.)(2003)HISTORY OF TIBET, VOLUME TWO.Routledge Curzon.
・陳光国(1997)『青海藏族史』 第四章 宋代的唃厮囉(公元960年-1279年).青海民族出版社,西寧.
・Bianca Horlemann(2007)The Relations of the Eleventh-Century Tsong kha Tribal Confederation to Its Neighbour States on the Silk Road.IN:Matthew T.Kapstein+Brandon Dotson(ed.)(2007)CONTRIBUTIONS TO THE CULTURAL HISTORY OF EARLY TIBET.Brill,Leiden.

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(注)
詳しく述べると、ランダルマ王の二子ユムテンとウースンのうちのウースン系の子孫です。ウースンの子がペルコルツェン、その二子はキデ・ニマゴンとタシ・ツェクパ・ペル。唃厮囉は、後者タシ・ツェクパ・ペルの子孫になります。なお、ニマゴンの子孫がラダック王家、グゲ王家になります。

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(追記)@2012/02/12
khri ldeの子孫については、『紅史』、『王統明示鏡』にその一人としてspyan snga don chenが、『新紅史』にはlha don po cheが現れます。この人物は、漢文史料の、唃厮囉の息子の一人で第二代青唐王・董氈[位:1065-83d]であるのは確実です。しかしチベット語史料では、その続報はありません。

2012年2月7日火曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(28) 「ブルシャスキー」はチベット語か?

ギルギット~フンザ方面では、自称としてブルシャが使われていた、というはっきりした記録がありません。その名が現れるのは、ほとんどがチベット側の記録ばかりです。

しかしこのブルシャというチベット語はどうわけか、現在はフンザ~ナガルの人々の自称「Burusho」、言葉の名称「Burushaski」として生き残っています。

この自称は、「古くから使われてきたが、記録には残っていないだけ」なのか、「比較的近年にチベットあるいはバルティスタンから外来語として導入されたもの」なのか、それは謎です。

いずれにしても「ブルシャ」という単語はチベットと関係が深いのは間違いありませんから、それならば「ブルシャスキー」という単語の後半「スキー」もチベット語ではないか?と見当をつけても悪くはないでしょう。

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実は 「ブルシャスキーって何語?」の巻(8)ニンマパ経典のブルシャ語タイトル の回にすでによく似たチベット語が出てきているのですが、気づいた方もいることでしょう。それは

>bru zha'i skad du(ブルシャ語では)

です。つまり、Burushaskiとはチベット語の「'bru zha'i skad(ブルシャの言葉=ブルシャ語)」が訛った形ではあるまいか、と考えているわけです。

「skad」はウー・ツァン方言では「ケー」ですが、プリク~バルティスタンでは「スカット」と読まれます。その中間、ラダックでは「ケー」、「スカット」の双方が聞かれるようです。

ラダック語、プリク語、バルティ語では、母音で終わる音節に続く場合、次の音節の添頭字「s-」が発音されることがあります。「bde skyid(デスキット)」、「bde skyong(デスキョン)」などがその例です。

よって「ブルシャスキー」は、おそらくラダック~バルティスタンあたりで「'bru zha'i skad」を「ブルシャイスケー/ブルシェースケー」と呼んだ発音が、そのままフンザで(かつてはもっと広く旧ボロル全域で?)使われるようになったのでは?と考えてみます。

どうでしょう?

これは、チベット語、チベットとカラコルムの関係を知る者であればすぐに思いつく案だと思うのですが、見渡したところこの説を唱えている人は見あたりません。不思議です。

もしすでに誰かが同じ説を唱えていたとすれば、教えてください。その場合は「私が初出」という主張は撤回します。

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しかし、チベットからの他称であるはずの「ブルシャ」、「ブルシャスキー」が、特に全部チベット語だとすれば、なぜに現在はフンザ人やその言葉の自称として生き残っているのか、その経緯は謎です。

やはりまず、「ブルシャ」自体の語源が、土着の名称から来ているのか、地元とはあまり関係なくチベット人が他称として作り出したのか、明らかにしないことには、どうにも気持ち悪いですね。この問題には検討の余地がまだたっぷりあります。

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でも、直感ですが、この説はすぐに常識として広まるんじゃないかという気がしています。なにせ結構わかりやすい。

ただ、問題はその広まり方。特にネット上では、出典を明記しないことで「他人の労力にタダ乗りして、利益は独り占めする」という剽窃技術が横行しています(ネット上に限らず、紙の世界も現場の世界も同じですが)。これもそうなる恐れは十分あります。当blogなど世間的には屁のような扱いですしね。でもそうならないことを信じましょう。

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28回分も書いてようやくたどり着いた結論ですが、このblogでできる「ブルシャスキーの語源」についての検討はここまでです。

(29)~(36)はおまけですが、その他の話題に見えるチベットとブルシャ(ギルギット~フンザ)の関係を見ておきましょう。

2012年2月5日日曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(27) 漢文史料に現れる「ブルシャ」その4

最後に、(3)継業『呉船録』 (10世紀) - 「布路州[pu lu tciau]」を見てみます。

結論を先に言ってしまうと、これだけが唯一確実に「ブルシャ」を示す漢名、ということになります。

これは、

・范成大 (南宋1177) 『呉船録』

に収録されています。邦訳は、

・范成大・著, 小川環樹・訳 (2001) 『呉船録・攬轡録(らんぴろく)・驂鸞録(さんらんろく)』. pp.209. 平凡社東洋文庫696, 東京. ← 初訳 : (1947) 『養徳叢書外国篇 呉船録』. 養徳社, 奈良県丹波山町.

などで。

南宋の官吏で文人でもある范成大が、1177年(淳煕四年)に任地の成都から故郷・江蘇に帰るために長江流域を船で下った際の旅行記です。途中あちこちに寄り道しながらの旅なのですが、その最初の方で、四川省岷江流域、峨眉山の牛心寺に参詣します。そこで、北宋代初期にインドに派遣された僧・継業の行程記(原本は今は散逸か?)を閲覧しその内容を書き写し、本書に収めてあります。その部分は特に『継業西域行程』とも呼ばれています。

『継業西域行程』は、

・高楠順次郎ほか・編(1929) 『大正新脩大蔵経 第五十一巻 史伝部 三』. 大蔵出版, 東京.
・仏書刊行会・編(1990) 『大日本仏教全書 第113冊 遊方伝叢書 第一』. 名著刊行会, 東京.

などにも収録されています。これらに基づき継業の行程を略述すると、このようになります。

┌┌┌┌┌ 以下、『大正大蔵経51』、小川(2001)より抜粋 ┐┐┐┐┐

北宋初期の964年(乾徳二年)、太祖が僧三百人に、インドに赴き仏舎利と貝葉経典を将来するよう詔した。継業はこの一行(実際は何人なのか不明)に加わり、976年(開宝九年)に帰国した。

階州(四川省にほど近い甘粛省最南部)を出発。河西から西域南道の于闐(ホータン)を経て疏勒(カシュガル)へ。雪嶺(パミール)を越えて布路州(ブルシャ/ボロル)国に至る。大葱嶺雪山(ナンガ・パルバット山塊=ヒマラヤ最西端)を越えて伽濕彌羅(カシミール)国に至る。

その後、健陀羅(ガンダーラ)国、太(左)爛陀羅(ジャランダル)国、大曲女城(カナウジ)を経て、摩迦提(マガダ)国周辺にあるお馴染みの仏跡を巡歴。

帰路はここから北上。泥波羅(ネパール)国を経て摩偸果(摩逾里=マンユル/mang yul=キーロン~ゾンカ)に至る。雪嶺(ヒマラヤ)を越え三耶寺(bsam yas=サムイェ)に至る。これより(唐蕃)故道を経て階州に戻った。

太祖はすでに崩御し太宗が即位していた(976年)。継業は太宗に謁見し、インドより将来した仏舎利などを献上した。継業はその後、峨眉山に登り牛心寺を建立。そこで八十四歳の生涯を終えた(没年不詳)。

└└└└└ 以上、『大正大蔵経51』、小川(2001)より抜粋 ┘┘┘┘┘

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要するに「遅れて来た求法僧」の記録ですが、時代が遅いせいもあり、東西交渉史やチベット史の分野でもほとんど注目されていない史料です。

語るべき話題はたくさんありますが、ここでは「ブルシャ」関係の問題に絞ります。

雪嶺(パミール)を越えたところで到達した国「布路州」がブルシャ/ボロルであるのは、位置的にも音からも間違いありません。チベット語史料に「bru sha/'bru zha」が現れる8世紀よりはかなり遅れ、「ブルシャ」の初出にはなりませんが、「ブルシャ」の音を示す唯一の(確実な)漢名として貴重です。

では、この当時、現地で「ブルシャ(布路州)」という地名が自称として使われていた、と考えていいのでしょうか?どうもそうとも言えないようです。

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継業の帰路に注目する必要があります。継業が帰路に使ったのは珍しくチベット経由の道でした。中国とインドを結ぶ交通路としてチベット経由の道(唐蕃古道)が使われたのは7世紀中頃のわずか30年ほどです。その後、唐-吐蕃は対立関係に入り、両国の使者が互いに行き来する程度で、求法僧や唐の対インド使節が利用することはなくなりました。

9世紀半ばに吐蕃帝国が崩壊すると、その障害はなくなったはずですが、その頃になると唐の方も内政が乱れ西方進出どころではなくなります。それは五代~北宋も同じです。当時は契丹(遼)、西夏に対応するのが精一杯で、インドどころかチベットにすら目が届かない状態でした。

チベット側で北宋と接触があったのはアムド・ツォンカに勢力を持っていたいわゆる「青唐王国」などのみです。ですから、わずかな分量とはいえ、中央チベットを通過した継業の行程記は貴重な記録です。

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継業らがどの程度中央チベットに滞在したのかわかりませんが、そこでいろいろと情報収集をしたことでしょう。そこでボロル(ギルギット周辺)のチベット名が「ブルシャ」であることを知ったのかもしれません(そして、「ボロル」の方を忘れてしまったなんてことも・・・)。「ブルシャ」という地名がチベットの史料にしか現れないことを考えると、「布路州」もその影響を受けた結果ではないか、と怪しまれます。

こうなると、「布路州」をストレートに当時の現地での呼び名と判断するのは躊躇してしまいます。もう一つ、チベットと無関係に「ブルシャ」が使われている例があれば決まりなのですが・・・。

結局、「布路州」はチベット語「bru sha/'bru zha」の音写であるのは確実ですが、それが10世紀末における現地での自称であったのかどうかはわからない、ということになります。

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「ブルシャ」の漢語音写の例を四つ検討してみましたが、これらからは「ブルシャ」の語源や、その用例が8世紀以前に逆上るかどうか、また地元で自称として使われていたかどうか、ははっきりしませんでした。

これで「ブルシャ」の語源についてはできる限り検討し切りました。現段階ではあまりパッとした結論にはなっていませんが、これが将来解明のヒントになるかもしれません。それを期待して、次に「-スキー」の方の検討にようやく移ります。

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(追記)@2016/02/07

本件の続報があります。こちらもご覧ください。

2014年3月29日土曜日 「ブルシャ」の語源 Revisited

今後のアップ予定

みなさん、こんにちは(誰に対して?)。

やる気をなくして放置していたこのblogですが、またやってみることにします。

今後アップする予定、あるいは少し手を加えればアップできそうなネタをいくつかあげておきましょうか(自分を追い込むため?)。

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1-ブルシャ話の続き

これはすでに(36)までできあがっていて、手元では完結していますから、毎日アップしていけば十日ほどで終了します。コンピュータが壊れて、消えたかと思っていたがちゃんとバックアップしていた。偉いなオレ。

その後ちゃんとブルシャスキー語も勉強したので(ネタはBiddulph本の文法簡解ですが)、ブルシャスキー語文法や言語学上の位置づけなども補足してみたいけど、それはいずれ改めて。

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2-水木しげる関係

「ゲゲゲの女房」制作発表をきっかけに作った水木しげる自伝のまとめですが、世間的には本blogでは一番評判がよかったネタでしょうか(でも影響力は極小)。

そういう私は、結局「ゲゲゲの女房」は一度も見ませんでした。なぜかというとテレビがないから。といっても「地デジ化に抗議して」とかのカッコイイ理由ではなくて、「テレビが壊れた後、貧乏で買えないから」です。

このテーマの続きは3回分すでにストックがあり、「海外旅行記」編です。これもなかなかおもしろい。

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3-チベット・ヒマラヤのテレビ番組総覧

類似企画はいくつかのウェブサイトにあり、私もかつて協力していましたが、名前が出るわけでもなく、特に感謝されるわけでもなく、サイト主が一方的に得するだけなので、もう協力する気もなくなりました。おまけにそこからパクった別サイトには、その私の文章がそのまま載っていたりして、不快なことこの上ない。

当バージョンの特長は、戦後の番組総ざらえという点。調べ方は、新聞縮刷版のテレビ番組表を1953年から毎日順に当たるという、ひどく地味な作業。大変でしたが、これも実におもしろい。

何から紹介しようかな。ダライ・ラマ法王TV出演史、雪男関連番組史あたりから行ってみようか。

なお、1953~1990年まではすでに年表形式にまとまっているので、紙の形にすることもできそうですが、需要はないだろうし、かといって私には金がなくて自費出版することも不可能だし、で、日の目を見るのは難しいでしょう。

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4-シャンバラ・アガルタ業界盛衰記

これもだいぶ前にまとめてあって、ごくごく簡略版を2chに書いたことがあります。

シャスタ山、チャネリング、オウム真理教あたりを調べるのに手間取ったため(注1)、長らく放置していました。が、その辺ももう頭の中ではまとまっているので、ちょっと馬力をかければ完結させられます。20回くらいでまとまるでしょう。

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5-「ケサル王物語」に史実性はあるか?

大きいテーマですね。これはまだ書いていませんが、なかなか面白い話ですよ。特に、日本ではあまり注目されていないタシ・ツェリン論文を一押しで紹介するつもり。

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6-文成公主はクンソン・クンツェンと結婚したか?

これも大テーマですね。なにしろ山口瑞鳳先生の説に反論するんですから。といっても、私独自の説はほとんどなく、山口 vs. Uray論争を紹介する程度。「この説が通用しているのは日本だけですよ」というお話です。

ほかにも吐蕃史関連では、もう作ってある古代氏族一覧なんかもおもしろい。その前に「吐蕃史文献案内」やらなきゃ。これは私がやるべき仕事ではないような気がするけど・・・。

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7-ヒマーチャル案内

ガイドブック没原稿から。小出しで。

過去2冊の出版経験から、苦労した挙句に役に立つ便利なものを発表しても、自分には何の得にもならず、利権を押さえている人たちの商売に利用されるだけ、というのがよくわかりましたので、没原稿くらい自分のためになる形で使いたいと思います。金にはならなくとも、不快感を味わうことのない様に気をつけて。

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8-諸掲示板投稿ネタ

一昔前、2chあたりの学術系板によく出入りしていたので、書き残してあるネタがたくさんあります。

各種掲示板からひろったチベット関連書き込みを集めて、まとめてくれているサイトなんかもあります。そこを見ると、歴史編の古代・中世史あたりは半分くらい私の文章なんで、笑っちゃいました。

いや、これは批判・抗議しているわけではありません。通常であれば流れてしまって、アクセスできなくなったはずの文章を保存してくれているのですから、むしろありがたいことだと思っています。2chあたりに書き散らした、ということはすでに著作権を放棄しているも同然ですし。

でも、自分の文章が自分のあずかり知らぬところにある、というのはどうにも落ち着きが悪いので、そういったお蔵出しネタもアップしていこうかと思っているところ。

まとまっているもので、思いつくところは、氐羌関連、エフタル関連、カラウナス~ハザーラ人関連、三皇五帝関連、与那国海底遺跡関連(注2)・・・。あれれ、チベット・ネタが一つもないや。

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9-その他、マイナーな歴史もの

日本では研究者が少なく、あまり紹介されたこのない地域の歴史を簡単にまとめてみるという仕事(をやってみたいなー、という希望)。

一番やるべきなのは「グゲ王国史」「シャンシュン王国史」でしょうが、大仕事になりますね。グゲの方はRoberto Vitali先生の後追いをするだけなので、「Vitali本を見よ」で済む話なんですが・・・。「シャンシュン史」の方は、きちんとした絵が描けているわけではありませんが、たたき台として提示してもいいようなお話はできています。

そうそう、「シャンシュン史」がらみでは「野生のシェンラブ・ミウォ」という、なかなかおもしろいものも用意しています。

カシミール略史、吐谷渾略史、青唐王国略史(注3)、ギャロン十八王国略史(注4)などなど。私がその適任者とは思えないのだが、日本では誰もやらないのでやってみたい、という程度。

誰かが先にやってくれるなら、それに越したことはない。

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さて、この中の何%が実現するか?
というわけで、ブルシャ話から再開します。

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(注1)
特に、徳間書店の「超知シリーズ」から出続けている「超シャンバラ」シリーズの勢いに圧倒されて、「シャンバラ業界」の近況はとてもフォローしきれない。その内容に新味がないのは、読まなくてもわかっているんだが・・・。

(注2)
2003年末に2ch考古学板で、hammerhead名で集中的に海底遺跡説批判の論陣を張ったアレです。最初はやる気がなかったし、前向きの話ではないので気が重かった。分量もかなりのものになり、時間もかかり(3ヶ月くらいかかった)、苦痛の作業でした。

しかし、その後、与那国も熱海沖も「海底遺跡説」はだいぶ化けの皮がはがれて、下火になったようではあります。私の書き物の中では、世間への影響力が一番大きかった仕事でしょうか(やっぱり一銭にもなっていないが)。

掲示板という性格上、図面をお見せできなかったので、その辺を中心に。

(注3)
青唐王国史に関しては、中国では祝啓源先生、日本では岩崎力先生と鈴木俊一先生が精力的に論考を発表されていますが、邦文単行本の形ではまとまっていない。既存論考を並べるだけでいいから、是非まとめてほしい。まず、私が論文リストあたりをアップしてみるか(すでに作ってある)。

(注4)
ギャロン十八王国については、女国/シャンシュンがらみで言及することになるのかな。