2012年2月25日土曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(34) 歴史上のケサル@ラダック/ギルギット

創作文学とみられる「ケサル王物語」とは別に、西部チベット方面には実在の人物扱い(史実かどうかわからない)のケサルが存在しています。

代表的なのは、『ラダック王統記』に語られている10世紀初めラダック東部を支配していた「ケサル王の子孫」を称するギャア王国。この王国は、中央チベットから落ち延びた吐蕃王家の末裔キデ・ニマゴン(skyid lde nyi ma mgon)と同盟し領土を保持した、あるいは激しく戦い敗れた、と伝えられています。

ラダック東部にいた「ケサル王」とはいったい何者なのでしょうか?どこから来たのでしょうか?そして、物語のカムのケサル王とどういう関係があるのでしょうか?

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11世紀後半、ラダック側からグゲ王国に侵攻した「ギャアのケサル(rgya gye sar)」という勢力についての記録もあります(『ンガリー王統記』)。これは前述のラダック東部「ケサル王の子孫」=ギャア王国の後裔とみなすことができるでしょう(ニマゴン時代の150年後に当たる)。

さらに、これは11世紀後半に西部ヒマラヤ一帯を席巻したラダック王ラチェン・ウトパラ(lha chen 'ut pa la)と年代がほぼ一致するため、同一勢力ではないか?と考える説もあります。この説に従えば、ラチェン・ウトパラ王は吐蕃王家の末裔とは別系統であり、「ギャアのケサル王」の子孫ということになります。

ラダック王の系譜は当然ながらチベット語の名前が続きますが、この「ウトパラ」という名は、チベット語ではなくサンスクリット語の「Utpala=睡蓮」そのまま。同王が非チベット系である、という説にとっては有利な証拠になります。

ただし、そもそもこの議論の基礎となっている『ラダック王統記』の16世紀以前の系譜がどれだけ正確であるのか?という疑問があり、このため、この問題もあまりつっこんだ議論まで到達しないのが現状。

このギャアの王は、チベット人到来前の先住民ダルドと推測されてはいますが、その出自ははっきりしません。また、クッルー史(『Kullu Vamsavali』)に現れるギャア・ムル・オル王国(7世紀)がその祖先に当たる、という説もあります。

ギャア王国の歴史については、女国、シャンシュン、中国史料に現れるラダック周辺の地名(秣邏娑(婆)/三波訶/娑播慈)などとのからみで、深く広く考察しなければならないのですが、その検討はいまだ未了。が、西部チベットの古代史を探る上で、今後ますます重要なテーマとなるはずです。

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ギルギット史にもケサル(キセル)が現れます。トラカン朝の一つ前の王朝はシャー・レイス(Shah Rais)朝と呼ばれています(注2)。その最後の王は、有名なシュリー・バダト(Shri Badat)(注3)。王朝の祖がキセル(Kiser)といいます。このキセルは、ラダック王の王子で、ギルギットにやって来て新王朝を開いた人物とされています。

このキセルとラダック(ギャア王国)のケサルは関係があるのでしょうか?それとも「ケサル王物語」が伝わったことにより、歴史の方が創作文学の影響を受けたのでしょうか?シャー・レイス朝が始まった年代も、「ケサル王物語」の成立年代や西部チベット~カラコルムに伝わった年代、何もかも謎のままです。

このあたりの調査研究はまだほとんど進んでおらず、謎が多い分野です。その分若手研究者にとっては、狙い目の分野でもあるんですけどね・・・。

私見としてはある程度まとまった考えがあるんですが、フンザに続いてギルギット史に長々と深入りするつもりは今はないので、いずれまた改めて・・・。

参考:
・August Hermann Francke (1926) ANTIQUITIES OF INDIAN TIBET : PART(VOLUME) II : THE CHRONICLES OF LADAKH AND MINOR CHRONICLES. pp.viii+310. Calcutta. → Reprint : (1992) Asian Educational Services, New Delhi.
・Luciano Petech (1977) THE KINGDOM OF LADAKH C.950-1842A.D. pp.XII+191. IsMEO, Roma.
・Ahmad Hassan Dani (1991) HISTORY OF NORTHERN AREAS OF PAKISTAN. pp.xvi+532. National Institute of Historical and Cultural Research, Islamabad. (改訂版も出ているようだ)
・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.xi+642. Dharamsala, India.

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(注1)
ギャア王国は10世紀以降もラダック王国からは独立した勢力として存続し続けたが、16世紀後半にラダック王国に従ったようだ。しかしその後も自治を保ち、「stod rgyal po(上手(ラダック)の王)」と呼ばれて尊崇され続けた。18世紀前半にはラダック王国宰相ソナム・ルンドゥプを輩出するなど、ラダック政府中枢を担うこともあった。

(注2)
シャー・レイス朝と、碑文などに王名が残るパトラ・シャーヒー朝、漢文史料に名を残す勃律王家などとの関係はわかっていません。同一、あるいは連続するものである可能性もありますが、今のところきちんと整理されていません。この交通整理はそのうちちゃんとやります、ってば・・・。

(注3)
シュリー・バダト王には、敬虔な仏教徒王、とする伝説と、残虐な人喰い王、という対照的な伝説がある。後者は典型的な「末代悪王」エピソードであり、史実そのままとは考えられない。またそのエピソードは、パミール~ヌブラ方面に流布しているロバ脚の人喰い悪魔(ヌブラでの名はジョ・ボンカン/jo bong rkang)伝説とよく似ており、カラコルム一帯に流布していた「人喰い悪魔」伝説を、末代悪王説話として取り入れたのだろう。

なおこの説話は、ミダス王伝説(「王様の耳はロバの耳」や「触るとなんでも金になる」の人)、アレクサンドロス大王(ズルカルナイン)伝説、シェンラブ・ミウォ伝説、シャンシュン王の王冠、ドゥンパの帽子などとも関係があり、壮大なスケールの話になるのですが、今はそっちに行くことはできません。いずれまた(こればっかり、とツッコミが入るはず)。

参考:
・Rohit Vohra (1995) Early History of Ladakh : Mythic Lore & Fabulation : A Preliminary Note on the Conjectural History of the 1st Millennium A.D. IN : Henry A. Osmaston & Phillip Denwood (ed.) (1995) RECENT RESEARCH ON LADAKH 4 & 5 : PROCEEDINGS OF THE FOURTH AND FIFTH INTERNATIONAL COLLOQUIA ON LADAKH. pp.215-233. Motilal Banarsidass, Delhi.

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