2009年8月5日水曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(10) 訂正:サンギェ・イェシェのクロノロジー

2009年7月17日 「ブルシャスキーって何語?」の巻(8) 仏教ニンマパとブルシャ で、サンギェ・イェシェの年代を

> 「生年は8世紀前半/半ば、没年は9世紀前半/半ば」あたりが妥当なところだろうか。

と書きましたが、我ながら腑に落ちない点もあるので、少し調べ直してみました。

前述の通り、サンギェ・イェシェの生没年はざっと見ただけでも770-883(114歳)、772-892(121歳)、823-962(140歳)、841or844-956(116or113歳)と諸説紛々で、実態は謎に包まれています。

今回紹介するのは「844年生まれ」という見解です。出典は、いつもおなじみの

・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.xi+642. Dharamsala.

その

Addendum One : Dating dPal.'khor.btsan's reign and the establishment of the kingdom of mNga'.ris skor.gsum. pp.541-551.

で、サンギェ・イェシェの生年・年齢が重要なデータとして扱われているのです。

これは、吐蕃帝国崩壊~グゲ王国成立の間の時代、ウースン王('od srung、ダルマ・ウィドゥムテン王の子)~その子ペルコルツェン王(dpal 'khor brtsan、初代グゲ王キデ・ニマゴンの父)の年代について論じたものです。

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ざっとこの時代の出来事を概観しておくと、

842年にダルマ・ウィドゥムテン(通称ラン・ダルマ、一般に「破仏」で有名だが実はその事実はなかったらしく、仏教僧ペルギ・ドルジェによる暗殺も否定されている)が死ぬと、その大妃であるナナム氏(sna nam bza')が生んだ(とされる、養子という説もある)ティデ・ユムテン(khri lde yum brtan)と小妃ツェポン氏(tshe spong bza')が生んだ(前王死去時は懐妊中であった)ナムデ・ウースン(gnam lde 'od srung)双方が王位を主張。

ユムテン側はウル(ラサ周辺)を支配、ウースン側はヨル(ヤルルン周辺)を支配し南北朝の対立が続く。この間に周辺地域を席巻した吐蕃軍は統制が乱れ、占領地は次々に失われていった。唐との交渉も途絶え、チベット国内の情勢は外には知られなくなる。

ウースンは9世紀末~10世紀初に没し、その子ペルコルツェンが継いだ。ペルコルツェンは次第にユムテン側に圧倒され、ヤルルンには居れなくなりギャンツェ~ラツェに移った。その間(もしくはその次の世代)に国内には反乱が多発し、ついには吐蕃王墓が荒らされるまでにペルコルツェンは落ちぶれた。

ペルコルツェンは10世紀初に暗殺され、その二子タシ・ツェクパペル(bkra shis brtsegs pa dpal)とキデ・ニマゴン(skyid lde nyi ma mgon)は西遷を余儀なくされた。タシ・ツェクパペルはツァン西部に落ち着き、その子孫はゾンカ(rdzong kha)~キーロン(skyid grong)を支配するグンタン(gung thang)王国をはじめ、ツァン西部に多くの小王国を建てた。また一部はヤルルンに戻り、ヤルルン・ジョウォ(yar lung jo bo)として諸領主の尊厳を集めた。またアムド・ツォンカ(tsong kha)に招かれ青唐王国を建てた唃厮囉(rgyal sras)もタシ・ツェクパペルの子孫とみられる。

一方のキデ・ニマゴンはさらに西に移り、プラン(spu hrang)に落ち着いた。そして西部チベット一帯を制圧し、その子孫はグゲ・プラン王国、ラダック王国、ザンスカール諸王国、ヤツェ王国などを建てた。この家系は熱心な仏教徒として知られ、吐蕃崩壊後国家の庇護を失い衰亡した仏教の復興に大きな役割を果たす。

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吐蕃時代の年代については、『敦煌文献・年表(編年記)』が絶対的な信頼度を持っていますが、それもティソン・デツェン王の治世半ば763年までしか残っていません。吐蕃後期の年代については、これに代わって中国側の史料を主にあてにしますが、こちらも吐蕃末期のダルマ・ウィドゥムテン王の頃には混乱した記述が目立つようになります。吐蕃王家・政府自体が混乱し、唐もその実情を把握し切れていない様子が窺えます。

その後のユムテン、ウースン以降の世代になると、中国側にもほとんど記録がなくなりますから、後世に編纂されたチベット語史料(仏教史)を使うしかありません。しかしこれらの史料では互いに矛盾した年次を伝えているため混乱が著しく、その年代を考察した論考も錯綜しています(注1)。

近年では、『プトゥン仏教史』、『紅史』、『王統明示鏡』のいわゆる古典三史料よりも、吐蕃史に詳しくまたより正確な情報を伝えていると評判の高い

・dpa' bo gtsug lag phreng ba (16C半ば) 『dam pa chos kyi 'khor lo bsgyur ba rnams kyi byung ba gsal bar byed pa mkhas pa'i dga' ston(聖典転法輪の顕現による輝きなる学者の宴)』 → 略称 : 『mkhas pa'i dga' ston(ケーペーガートン/賢者の喜宴/学者の宴)』
・mkhas pa lde'u (13C中以降) 『rgya bod kyi chos 'byung rgyas pa(インド・チベットの仏教弘通史)』 → 略称 : 『mkhas pa lde'u chos 'byung(ケーパ・デウ仏教史)』
・lde'u jo sras (13C中?) 『chos 'byung chen mo bstan pa'i rgyal mtshan(法幢なる大仏教史)』 → 略称 : 『lde'u jo sras chos 'byung(デウ・ジョセー仏教史)』

などが出版されて利用しやすくなり、より重視されるようになりました。

しかし、この時代に関しては、下記のサキャパ系史書の評価が高く、年次も一貫しているため、この年代を採用する研究者が多いようです。

・sa skya pa bsod nams rtse mo (1167) 『chos la 'jug pa'i sgo zhes bya ba'i bstan bcos(仏教入門と名づける経典)』 → 略称 : 『ソナム・ツェモ仏教入門』
・rje btsun grags pa rgyal mtshan (13C初?) 『bod kyi rgyal rabs(チベット王統記)』 → 略称 : 『ダクパ・ギャルツェン王統記』
・'gro mgon 'phags pa blo gros rgyal mtshan (1275) 『bod kyi rgyal rabs(チベット王統記)』 → 略称 : 『パスパ王統記』

842年(水犬年)ダルマ・ウィドゥムテン死
843年(水豚年)ウースン誕生・即位
893年(水牛年)ペルコルツェン誕生
905年(木牛年)ウースン死/ペルコルツェン即位
923年(水羊年)ペルコルツェン死
929年(土牛年)反乱(kheng log)が起きる
937年(火鳥年)吐蕃王墓が荒らされる

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これに対し、Vitali(1996)が得た結論は、これまでの定説に反して『デウ・ジョセー仏教史』の年次を採用する、というものでした(注2)。その年代は、

840(猿年)ウースンの誕生/即位
881(牛年)ペルコルツェンの誕生
893(牛年)ウースンの死/ペルコルツェン(13歳)の即位
905?(牛年)反乱(kheng log)の勃発(西暦は推定)
910(馬年)ペルコルツェンの死(暗殺)

反乱の年は単に「ペルコルツェン代のある牛年」としか記述がありませんが、他史料より推定したものです。

その証拠として重要視されているのが、

・nyang ral nyi ma 'od zer (12C後半?) 『chos 'byung me tog snying po sbrang rtsi' bcud(花蘂の蜜汁なる仏教史)』 → 通称 : 『nyan ral chos 'byung(ニャンレル仏教史)』
・padma 'phrin las rdo rje brag rig 'dzin (18C初?) 『yo ga gsum gyi bka' babs gnubs sangs rgyas ye shes kyi rnam thar(三つのヨーガの伝授:サンギェ・イェシェの伝記)』 → 略称 : 『sangs rgyas ye shes kyi rnam thar(サンギェ・イェシェ伝)』

『ニャンレル仏教史』は吐蕃時代の仏教史を記したもので、ウースン~ペルコルツェンの時代については上記のサキャパ三史料とほぼ同じ年次を採用しています。Vitali(1996)が重視しているのはそこではなく、サンギェ・イェシェが登場する箇所です。

┌┌┌┌┌ 以下、Vitali(1996)より ┐┐┐┐┐

『ニャンレル仏教史』より

領主に対する反乱により(国は)混乱状態となった。まずカム(khams)で反乱が起こった。次にチベット(bod)・チム(mchims/おそらくサムイェ周辺)でも反乱が起こり、ダルジェ・ペルギ・ダクパ(dar rje dpal gyi grags pa)はカムに避難した。次にウル(dbu ru/ウー北部・ラサ周辺)、ヨル(g-yo ru/ウー南部・ロカ周辺)、イェル(g-yas ru/ツァン北部)、ルラク(ru lag/ツァン南部)の三地方(「四地方」の誤り)でも反乱が起きた。

ウルで反乱が起きた際、ヌブ・サンギェ・イェシェ(gnubs sangs rgyas ye shes)の六人の子のうち四人はこの反乱で死に、一人は病死、一人は恥知らずにも逃亡した。この時、ヌブ・サンギェ・イェシェは、乞食に身をやつしてネパール(bal yul)のラマたちにお会しに行くつもりだった。

└└└└└ 以上、Vitali(1996)より ┘┘┘┘┘

これで、サンギェ・イェシェがペルコルツェン時代の反乱(注3)時には壮年~老人といえる年齢であったことがわかります。

その反乱の年次をもう少し詳しく知りたいところですが、そちらは『サンギェ・イェシェ伝』の方にあります。

┌┌┌┌┌ 以下、Vitali(1996)より ┐┐┐┐┐

『サンギェ・イェシェ伝』より

サンギェ・イェシェがおっしゃられるに、「そして、木男鼠年(甲子/きのえね)に61歳(還暦)を迎えたのだが、自分にとっては厄年(skeg)に当たっていており、真ん中(三回のうちの二回目、注4)の反乱が起きた。ダク(sgrags/サムイェの西方でヤル・ツァンポ北岸)に居ることができなくなり、ヌブ・ユル谷(gnubs yul rong/ヤムドク・ツォの西側)に避難した」と。さらに、「そこにも居れなくなり、ニェモ・チェカル(snye mo bye mkhar/ラサとユンドゥンリンの間でヤル・ツァンポ北岸)に移った」とおっしゃられた。

└└└└└ 以上、Vitali(1996)より ┘┘┘┘┘

ここでは、サンギェ・イェシェが61歳(かぞえ)であった年が木男鼠年(甲子/きのえね)とされているわけですが、その年に当たる候補としては

(1)784年誕生1歳-844年還暦61歳
(2)844年誕生1歳-904年還暦61歳
(3)904年誕生1歳-964年還暦61歳

あたりが考えられます。反乱(kheng log)の事実を考慮すると、最もしっくり行くのが、大規模な反乱が続発し、ついにはチョンギェの吐蕃王墓が荒らされたペルコルツェン時代(9世紀末~10世紀前半)に年代が落ちる(2)です。

反乱の年代をウースン時代に置く史料もありますが、ウースンは死後チョンギェの王墓に葬られた(彼が王墓に葬られた最後の吐蕃王)のであって、「王墓が荒らされた後でもかまわずそこに葬られた」とするのは不自然です。よってその反乱の年代をウースン時代に置くのは難しいでしょう(注5)。

(1)の可能性はどうでしょう。844年はラン・ダルマ王の死去直後でユムテン党vsウースン党間の王位争いがあったことが知られています。しかし反乱という形にまで至ったという記録はありません。また同時期の「論恐熱の反乱」もウー・ツァンにまで及んでいないのは(注5)で述べたとおりです。可能性としては(2)よりだいぶ低くなります(注6)。

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Vitali(1996)の説は、(2)の年代を採用し、「ペルコルツェンの在位期間-反乱-サンギェ・イェシェ61歳」がすべて同じ期間に落ちる唯一の史料『デウ・ジョセー仏教史』の年代を最も信頼できる、とするものです。

しかしこの説に問題がないわけではありません。特に、『デウ・ジョセー仏教史』では、ウースンの生年を840年と置いているのは疑問です。

中国側の記録は錯綜こそしていますが、ラン・ダルマ王の死を840年以前に置く解釈を取るのは不可能です。その点では「サキャパ三史料」の年代に分があります。

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また、Vitali説の一番のキーとなっているのが、『サンギェ・イェシェ伝』に述べられている「61歳=木男鼠年(甲子/きのえね)」です。しかし、これは本当に全面的に信頼していい数字なのでしょうか?

『サンギェ・イェシェ伝』が収録されているのは、

・padma 'phrin las rdo rje brag rig(18C初?) 『bka' ma mdo dbang gi bla ma rgyud pa'i rnam thar(アヌヨーガ乗経典相承祖師伝集)』

ですが、『サンギェ・イェシェ伝』をペマ・ティンレー(1640?-1718)自身が書いたのか、それともニンマパに伝わるその伝記を収録しただけなのか、手元の資料ではわかりませんでした。

もしペマ・ティンレー自身が書いたのだとすれば、それは17~18世紀のことですから、内容への信頼度はだいぶ下がります。

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また、カーラチャクラ暦が始まる1027年以前の暦法では、年の表記は干支併記ではなく十二支のみだったと考えられています。ですからサンギェ・イェシェ61歳の年「木男鼠年(甲子/きのえね)」という表記も怪しむべきで、本来は「鼠年(子/ね)」としか記録されていなかったとも考えられます。

そうなると、この年に当たる候補は、・・・・880年、892年、904年、916年、928年・・・とだいぶ広がってしまいます。

どうも現状ではVitali説に無条件で賛同するわけにもいきません。

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「サンギェ・イェシェの生年は844年で、61歳時は904年」というきっちりした数字をそのまま許容はできませんが、もう少しぼんやりと「サンギェ・イェシェの老齢のころに反乱(kheng log)があった」という事実は、『ニャンレル仏教史』、『サンギェ・イェシェ伝』の双方に類似の記述があるのですから認めてもよさそうです(注7)。

となると、きっちりした年次までは特定しないにしても、「9世紀中頃生まれ、10世紀初め頃の反乱が頻発したペルコルツェン時代には還暦の年頃だった」ということまでは言えそうです。没年はわかりませんが、百歳程度だったとすれば10世紀中頃になるでしょう。これは前々回推定した年代より実に百年後にずれ込んでいます。

ニンマパ関連史料の扱いの難しさを実感します。

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サンギェ・イェシェの年代を上述のように変更した場合、前述の『一切仏集密意経』訳経の年代も変更する必要があります。次回はその辺を修正しておきましょう。

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(注1)
この時代、特に年代を論じたものとしては、Vitali(1996)のほか、

・佐藤長 (1964) ダルマ王の子孫について. 東洋学報, vol.46, no.4[1964]. → 再録 : 佐藤長 (1986) 『中世チベット史研究』所収. pp.43-88. 同朋舎, 京都.
・山口瑞鳳 (1980) ダルマ王の二子と吐蕃の分裂. 駒沢大学仏教学部論集, no.11[1980/11], pp.214-233.
・Luciano Petech (1994) The Disintegration of the Tibetan Kingdom. IN : Per Kvaerne(ed.) (1994) Tibetan Studies : Proceedings of the 6th International Semina77777r of the International Association for Tibetan Studies, Fagernes, 1992, vol.2. → Reprinted IN : Alex McKay (ed.) (2003) THE HISTORY OF TIBET : VOLUME I. pp.286-297.

などがある。

(注2)
山口(1980)、Vitali(1996)などにより、各史料のウースン~ペルコルツェン時代の年代をまとめてみるとこのようになる。


(注3)
「サキャパ三史料」では、反乱が起きたのはペルコルツェンの死後になっている。『デウ・ジョセー仏教史』では、反乱によりヤルルンに居れなくなりさらにその流れで暗殺された、ということになっており、こちらの方がしっくりくる、ような気がする。

(注4)
二回目ではなく、チョンギェの吐蕃王墓が荒らされた三回目の反乱であった可能性もある。

(注5)
ただし、ウースン時代にも反乱と呼べるものはあった。『新唐書』や『資治通鑑』が詳しく伝えている842~66年の「論恐熱(blon khong bzher?)の反乱」がそれだが、その舞台は一貫してアムド~河西であり、チベット中央に影響が及ぶものではなかった。

(注6)
(2)を採用した場合、サンギェ・イェシェの業績として有名な

・グル・リンポチェの弟子となる
・ティソン・デツェン時代の訳経作業に参加した
・ラン・ダルマ王を幻術によりこらしめた

などのエピソードは、生まれる前の出来事になってしまい、三つ丸ごとありえないことになります。

(1)を採用した場合は、この三つのエピソードをうまく生かせることになり、その面では都合のいい年代論になる。ただし反乱エピソードの方をうまく説明できない。

(注7)
『ニャンレル仏教史』、『サンギェ・イェシェ伝』ともニンマパ関連史料である、という点では少し割り引いて考える必要はあるかもしれない。そうなると結局「ニンマパ関連史料」はどの程度信頼できるのか?という大問題にはまっていくので、この議論のこれ以上の展開は何らかの新証拠の発掘を待ちたいと思う。

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