ブル氏はシェンラブ・ミウォの子孫を称するシェン(gshen)氏と共に、11世紀以降ウー・ツァンにおけるボン教復興に尽力した家系です(注1)。また各種チベット史書では、古代チベット四大(または六大)部族の一つトン(stong)部族の代表として挙げられています。
このブル氏は、ボン教経典『bstan 'byung(テンチュン)』や『legs bshad mdzod(レクシェー・ズー)』では、トゥーカル(thod dkar、トハリスターン)に降臨した天神族とされ、その後ブルシャに移り、さらに一部がンガリーを経てウー・ツァンに移った、とされているのです(注2)。
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まずはこの二経典を説明しておきましょう。
『テンチュン』の正式タイトルは、
・kun grol grags pa (1766) 『sangs rgyas bstan pa spyi'i 'byung khungs yid bzhin nor bu 'dod pa 'jo ba'i gter mdzod(神々の教えすべての起源、大願成就の宝石を有する乳の宝蔵)』/通称『bstan 'byung(<ボン>教史)』
ブル氏に関する部分は、その原文(Bacot式転写)と英訳が、
・Helmut H. Hoffmann (1969) An Account of the Bon Religion in Gilgit. Central Asiatic Journal, vol.13, no.2[1969], pp.137-145.
に収録されています。
『レクシェー・ズー』の正式名称は、
・grub dbang bkra shis rgyal mtshan dri med snying po (ca.1922) 『legs bshad rin po che'i mdzod dpyod ldan dga' ba'i char(宝珠なる麗辞の宝蔵、賢者への慈雨)』。
「ボン教史」を記した経典で、特に11世紀以降のボン教復興期に詳しい。シェン(gshen)氏、ブル('bru)氏、キュンポ(khyung po)氏など、ボン教の有力氏族の系譜を記した記事も貴重です。
『レクシェー・ズー』4章以降の原文(Wylie式転写)、英訳はKarmay(1972)に収録されています。
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ブル氏の系譜に関しては、『テンチュン』と『レクシェー・ズー』はほぼ同じ内容を伝えており、おそらく後者が前者を参照、あるいは両者がなにか同一の情報源を利用した、とみてよさそうです。『テンチュン』の方がやや詳しい事情を伝えており、『レクシェー・ズー』にはみえないエピソードがあり、貴重です。
ここでは『テンチュン』を基準にブル氏の起源伝説を見ていき、両経典に差異がある箇所は(注)に示しておきます。
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┌┌┌┌┌ 以下、Hoffmann(1969)より抜粋 ┐┐┐┐┐
ブル('bru)氏には「天のブル氏(gnam 'bru)」と「地のブル(sa 'bru)」があり、「天のブル氏」がここで述べるブル氏。「地のブル」は仏教サキャパ(クン氏/'khon、注3)。
天界の最上に位置するオクミン・トゥクポ・クーパ('og min stug po bkod pa)から、インドラ神(brgya byin)の子であるウーセル・ダンデン('od gser mdang ldan/黄金光の輝き、注4)は、衆生を救おうと、まず下位の天界の一つバルラ・ウーサル(bar lha 'od gsal)に下り、続いてツァスムラ(rtsa gsum lha/三十三天)に下った。
リ・ラブ(ri rab/最勝の山=メール山/須弥山)の頂上から下界を見たところ、大ザムリン('dzam gling chen/大贍部洲、注5)の一角、ウギェン(o rgyan/ウディヤーナ)、ブルシャ(bru sha/ギルギット)トゥーカル(thod gar/トハリスターン)においてンガムレン・ナクポ(ngams len nag po/黒い色を持つ者)率いる悪鬼(bdud)たちが地上の人々・家畜たちを疫病・冷害・干魃・虫害で苦しめていることを知った。
ウーセル・ダンデンは、ヤンガル(ya ngal)司祭(gshen)に導かれ、ツェ(mtshe)とチョ(gcho)司祭(gshen)を従え(注6)、ウギェン、ブルシャ、トゥーカルのセーカル(gsas mkhar、注7)に降臨した。
これを知ったセーウェル(sad wer)王(注8)はウーセル・ダンデンを王宮に招き、バラモン・サルバル(bram ze gsal 'bar)に「神の御子にお名前を差し上げるように」と命じた。
バラモンは「お体には様々な吉兆が現れております。天より地に降臨なされた(brul ba)がゆえに
ブルシャ・ナムセー・チドルは魔王ンガムレン・ナクポを退治し(注10)、国は幸福を取り戻した。ウギェン、トゥーカル、ブルシャの国々にボン教を布教し、セーウェル王やバラモン・サルバルをはじめとする王家の人々もこれに帰依した(注11)。
その後、ツェーポ(btshad po、注12)という者がンガリー・コルスムから四度に渡り攻めてきて、ブルシャ・ナムセーの都を占領した(注13)。そのツーデ(rtsod sde)王は一時は捕虜となったが、王の体重と同じだけの黄金を集めて身代金として支払い釈放された(注14)。
ブルシャ・ナムセー・チドルが、金の角つき帽をかぶり(gser gyi bya ru can)、トルコ石でできた太鼓に乗って戦場の空に現れると、敵味方の軍勢はひれ伏し、ツェーポはブルシャ・ナムセー・チドルを導師として崇めた。
ブルシャ・ナムセー・チドルの子はラウ・セーキュン(lha bu gsas khyung)。その子ツェツェンキェー(mtshe btsan skyes)は訳経師として有名(注15)。ツェツェンキェーには九人の子が生まれ、上の五人はブルシャに止まり、下の四人はツェーポ・ツェーデ(btsad po rtsad lde)に招かれンガリーに移った(注16)。ンガリー・コルスムからチベット国の四ル(bod yul ru bzhi)までみなこの四兄弟を崇めるようになった(注17)。
四兄弟の一番上、ユンギャム・チェン(g-yung rgyam chen、注18)がツァン(gtsang)に移り定住した。その二人の子のうちの上がキュン・ナクジン(khyung nag 'dzin)。その子はユンドゥン・センゲ(g-yung drung seng ge)。その三人の子はナムケー・ユンドゥン(nam kha'i g-yung drung)、リンギャル(rin rgyal)、シェルギャル(sher rgyal、注19)。
└└└└└ 以上、Hoffmann(1969)より抜粋 ┘┘┘┘┘
Hoffmann(1969)に収録されている『テンチュン』のブル氏の記事はここで終わっています。ツァンに移ったブル氏の略史は(注1)に見えるとおり。
内容の検討は次回以降に譲ります。それにしてもなかなか終わりませんね、この話題。
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(注1)
ボン教中興の祖とされるテルトン(gter ston/埋蔵経典発掘者)であるシェンチェン・ルガー(gshen chen klu dga'、996-1035)の弟子として、彼を補佐したドゥチェン・ナムカー・ユンドゥン('bru chen nam mkha' g-yung drung、994-1054)や、1072年にイェル・エンサカ(g-yas ru dbeng sa kha)寺を創建したドゥチェン・ユンドゥン・ラマ('bru chen g-yung drung bla ma)などが有名。
ブル氏一族はイェル・エンサカ寺近郊のトプギャル(thob rgyal/土布加)を領有し、同寺の僧院長を何度も輩出するなどウー・ツァン・ボン教の中核氏族として君臨してきた。仏教に多くみられる氏族教団的な組織を形成していたと思われる。
17世紀にパンチェン・リンポチェ五世(二世という数え方もある)ロサン・イェシェ(blo bzang ye shes、1663-1737)を輩出。その際に一族の大方は仏教に転向した。さらに19世紀にはパンチェン八世(五世という数え方もある)テンペー・ワンチュク(bstan pa'i dbang phyug、1855-81)を輩出し、その代にブル氏は完全に仏教徒となり、トプギャルの所領もタシルンポ寺に接収された。
ボン教の名家から仏教ゲルクパのトゥルク、それもパンチェン・リンポチェという大名跡が選出されるのは、一見奇異に思えるかも知れないが、それなりの理由がある。
ウー・ツァンのボン教では、顕教、特に論理学の分野でゲルクパの影響を強く受けている。1836年に論理学の大学ユンドゥンリン寺が建立されるまでは、ボン教僧といえども仏教僧院で顕教の修業をするケースが多かった。こういった交流を通じてブル氏もタシルンポ寺人脈に食い込んでいったのだろう。
インドのドランジに再建されたメンリ寺でも、午後になると僧院の中庭で激しい問答(dam bca')が繰り広げられている。その姿はゲルクパ僧院でみられるものとそっくり。いや、その熱気はゲルクパ僧院をこえているかもしれない。
ドランジ・メンリ寺のタムチャー風景
なお、ウー・ツァンのブル氏とは別に、ギャロン(rgyal rong)に落ち着いたブル氏もいた(両者の関係は不明)。この家系は12世紀にはさらにゴロク(mgo log/'gu log)に移動し一帯を制圧。上中下の三つの家系に分かれたため、いわゆる「ゴロク三部」と呼ばれた。
参考:
・Samten Gyaltshan Karmay (1972) THE TRESURY OF GOOD SAYING : A TIBETAN HISTORY OF BON. pp.xl+365+pls. Oxford University Press, London. → Reprint : (2001) Motilal Banarsidass, Delhi.
・Samten Gyaltshan Karmay (1975) A General Introduction to the History and Doctrine of Bon. Memoirs of the Research Department of the Toyo Bunko, no.33, pp.171-218. → Reprinted IN : Karmay(1998) THE ARROW AND THE SPINDLE. pp.104-156. Mandala Book Point, Kathmandu.
・サムテン・G・カルメイ(1987) ポン教. 長野泰彦+立川武蔵・編 (1987) 『チベットの言語と文化』所収. pp.364-388. 冬樹社, 東京.
・ジャンベン・ギャツォ・著, 池上正治・訳 (1991) 『パンチェン・ラマ伝』. pp.349. 平河出版社, 東京. ← 中文原版 : 降辺嘉措('jam dbyangs rgya mtsho) (1989) 『班禅大師』. 東方出版社, 北京.
・智観巴・貢却乎丹巴繞吉・著, 呉均+毛継祖+馬世林・訳 (1989) 『安多政教史』. pp.742. 甘粛民族出版社, 蘭州.
・Chö-Yang (1991) Section One : Religion(Five Principal Spiritual Traditions of Tibet). Chö-Yang, Year of Tibet Edition[1991], pp.6-149. → 邦訳 : Chö-Yang・著, イェーシェー・ラモ・訳 (1994) チベットの5つの精神文化 ボン教 ニンマ派 カギュ派 サキャ派 ゲルク派. 季刊・仏教, no.26「特集・チベット」[1994/1], pp.64-133.
・青海省社会科学院蔵学研究所・編, 陳慶英・主編 (1991) 『中国蔵族部落』. pp.14+5+651. 中国蔵学出版社, 北京. (第2版が2004年に出ているらしい)
・光嶌督 (1992) 『ボン教学統の研究』. (和文)pp.5+ii+123,(中文)pp.ii+99,(英文)pp.ii+147. 風響社, 東京.
(注2)
スムパのラン氏の歴史を伝えるta'i si tu byang chub rgyal mtshan (14C中?) 『rlangs kyi po ti bse ru(ラン・ポティセル/朗氏家族史)』では、『テンチュン』や『レクシェー・ズー』とは全く異なる出自が語られている。
ここでは、吐蕃王家の遠縁とされるアニェ・ムシ・ティト(a nye mu zi khri to)の六子がチベット六大氏族それぞれの祖とされ、その中の一人アチャク・ブル(a lcags 'bru)がトン(stong)部族/ブル('bru)氏の始祖となっている。
また、『ラダック王統記』では、地上に降臨した天神族の後裔リンジェウラ(ring rje'u ra)という人物をトン部族の祖としており、起源探索もなかなか一筋縄ではいかない。なお、この神話はドン(ldong)部族について詳しいので、このドン部族が有する神話を転用したのかもしれない。
参考:
・Karmay(1972)前掲
・Yeshe De Project (1986) ANCIENT TIBET : RESEARCH MATERIALS FROM YESHE DE PROJECT. pp.xi+371. Dharma Publishing, Berkeley.
・大司徒・絳求堅贊・著, 贊拉・阿旺+余万治・訳, 陳慶英・校 (1989) 『朗氏家族史』. pp.6+323. 西蔵人民出版社, 拉薩. → 再版 : (2002)西蔵人民出版社, 拉薩.
(注3)
サキャパ系の史料(修正@2009/09/03)によれば、クン氏は「天神三兄弟の次男がンガリー・トゥー(mnga' ris stod)に降臨したことに始まる氏族」とされている。そこでは、「ブル氏と同族」という記述こそないが、「西部チベット方面に降臨した天神族」という出自はブル氏と一致しており、本当に同祖であった可能性は高そう。ただし互いの系譜上のどこでつながるのかは不明。
ブル氏のウーセル・ダンデン(ブルシャ・ナムセー・チドル)よりもかなり前の世代(『テンチュン』などには記録が残っていないが)で分かれているような気はする。
参考:
・Giuseppe Tucci (1949) TIBETAN PAINTED SCROLLS (3vols.). La Libreria della Stato, Roma. → Reprinted : (1980) Rinsen Book, Kyoto.
(注4)
これは『テンチュン』でのスペル。『レクシェー・ズー』では「'od zer gdangs ldan(光明の輝き)」。
(注5)
天界の描写、および地上の描写から、この経典が語る世界観は小乗仏教の経典『大毘婆娑論』や『倶舎論』の影響を受けていることがわかる。いわゆる「須弥山世界観」である。
ザムリンは正しくはザムブリン('dzam bu gling)とつづられ、サンスクリット語のJambu-dvīdaのチベット語訳。須弥山の東西南北に位置する四大陸の一つで、これは南の大陸。人間が住む世界で、南が狭い逆三角形をしている。インド亜大陸がモデルであるのは明白。
須弥山世界観については、定方晟の一連の著作を参照されたし。
・定方晟 (1973) 『須弥山と極楽』. pp.193. 講談社現代新書330, 東京.
・定方晟 (1985) 『インド宇宙誌』. pp.261+ix. 春秋社, 東京.
・定方晟 (1989) 須弥山世界と蓮華蔵世界. 岩田慶治+杉浦康平・編 (1989) 『美と宗教のコスモス(2) アジアの宇宙観』所収. pp.130-173. 講談社, 東京.
(注6)
ヤンガル(ya ngal)氏は、ラトゥー・チャン(la stod byang/ツァン北西部)に地盤を有する氏族で、ボン教ではイェル・エンサカ寺でブル氏と共に活動した。12世紀後半には、その一員ルダクパ・タシ・ギャルツェン(klu brag pa bkra shis rgyal mtshan)がロー・マンタン~ドルポでのボン教布教に成功する。klu bragはカリ・ガンダキ流域の地名で、彼が建立したボン教僧院が今もそこにある。ネパールでの呼び名はLubra。
神話に従うなら、ヤンガル氏はトゥーカル/ブルシャからブル氏と共にウー・ツァンにやって来た、と考えることができるかもしれない。あるいはラトゥー・チャン土着の氏族で、ウー・ツァンにブル氏がやって来てから交流を持つようになり、その親密さゆえにブル氏の神話に反映された、という可能性もある。
ツェ氏とツォ氏は、『レクシェー・ズー』では「mtsho cog gshen」と表記されており、Karmay(1972)では、ツォツォク(mtsho cog)という一人の司祭、と解釈されている。
ツェ氏(mtshe/mtshe mi/mtsho/rtse)とチョ/チョク/ツォ氏(gcho/cog/mtso/gtso)氏は、『紅史』、『ダライ・ラマ五世年代記(西蔵王臣記)』、『ケーペーガートン(賢者の喜宴)』、『ラダック王統記』、『敦煌文献PT1038』などでは、初代吐蕃王ニャティ・ツェンポ時代の氏族として現れ、そちらでも司祭(gshen)とされていることが多い。
『ya ngal gdung rabs(ヤンガル氏族史)』になると、この三氏族がニャティ・ツェンポのクシェン(sku gshen/王家付きの司祭)として現れる(Vitali 1996)。ウーセル・ダンデンの降臨神話自体、ニャティ・ツェンポのものとよく似ており、影響関係が注目される。
シェンラブ・ミウォの降臨譚やケサルの降臨譚との類似点も多く、比較神話学の対象としても面白いが、今はとてもそこまでは手が回りません。
参考:
・David P. Jackson (1978) Notes on the History of Se-rib, and Nearby Places in the Upper Kali Gandaki Valley. Kailash, vol.6, no.3[1978], pp.195-227.
・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.xi+642. Dharamsala.
・John Myrdhin Reynolds (2005) THE ORAL TRADITION FROM ZHANG-ZHUNG. pp.xx+577. Vajra Publications, Kathmandu.
(注7)
gsas mkharとは、ボン教の神々を祠る社のこと。
(注8)
『レクシェー・ズー』では王の名は「sad wer gsal 'bar」とされるが、バラモンの名「gsal 'bar」との混同がみられるようで、『テンチュン』の方が本来の表記と思われる。
「sad wer」はシャンシュン語で、「神(々)の王」の意味。チベット語では「lha rgyal(po)」。サンスクリット語「Devarāja」の訳語とみられる。これは名前というより称号であり、それもごくありふれた名なので、特定の人物には比定できそうにない。
『テンチュン』では、この王は上記三国全体を支配する王という設定のようだが、トハリスターン/ブルシャ/ウディヤーナを広く支配した勢力はクシャーン朝、エフタルくらいのもの。この物語をそこまで逆上らせるのは厳しい。古い時代の記憶が反映されている、という程度はいえるかもしれないが・・・。『レクシェー・ズー』では「トゥーカルの王(tho(d) gar rgyal po)」とされる。
その後、物語の舞台はブルシャばかりになるので、実際はブルシャ王という扱いではないかと思われる。
(注9)
この部分はHoffmann訳には誤りがあり、Karmay訳の方が正確。
ヒンドゥ教では、頭蓋骨頂部に隙間があるのは超人の印だという。ヨーガの際にはルン(Vayu/風)がここを通ったり留まったりして重要な役割を持つらしい
「spyi rdol」の部分は『レクシェー・ズー』では「spyi brtol」。どちらでも同じ意味だが、「spyi brtol」だと「恥知らず」という意味で使われることもあるようなのでちょっと具合が悪い。
(注10)
トゥーカル以下の諸国に厄災をもたらしたンガムレン・ナクポは、もしかすると、7~8世紀のイスラム軍の侵攻をモデルにしているのかもしれない。唐ではアッバース朝のことを「黒衣大食」と呼んだ。
(注11)
『レクシェー・ズー』では、トゥーカル王セーウェルより禅定を受けて王位についたことになっている。しかし、子孫の動向を見るとみな宗教者であり、世俗的な支配者としてあとを継いでいる様子はない。
(注12)
吐蕃王を意味する「ツェンポ(btsan po)」の古語。ボン教文献では「btsad po」とつづられていることが多い。
(注13)
『レクシェー・ズー』にはこのエピソードはなく、その曾孫の世代に戦争があったことになっている。
このブルシャとチベットの戦争は、722年の吐蕃軍侵攻を唐の援軍を得て撃退した事件、あるいは737年の吐蕃軍の小勃律占領~747年の唐軍の小勃律占領(吐蕃軍を駆逐)がモデルとなっていると思われる。
(注14)
この部分はHoffmann訳とは異なる見解を取った。
これは、かの有名な「イェシェ・ウー(ye shes 'od)のガルロク(カルルク)遠征」とそっくりなエピソード。このツーデ(rtsod sde)王の名は、グゲ王ツェ・デ(rtse lde)[位:1057-ca.90d]がモデルと思われる。ツェ・デの曾祖父の兄弟がイェシェ・ウー(947-1024)に当たる。おそらくチベット仏教の諸史書の影響を受けたものと思われる。
しかし、『ンガリー王統記』に記されているとおり、ブルシャに遠征し捕虜となったのは実際はツェ・デの父ウー・デ('od lde)[位:1024-37d]であり、時代設定も人名もかなり混乱がみられる。
なおbtsad po rtsod sdeは、後にもbtsad po rtshad ldeとして再び登場する。
(注15)
ツェツェンキェーは、ニンマパ経典『一切仏集密意経』をチベット語に訳したブルシャの密教僧チェツェンキェー(che btsan skyes)と同一人物と見てよい。
『レクシェー・ズー』ではトツェンキェー(mtho btsan skyes)とつづられる。
(注16)
『レクシェー・ズー』では、この下の四人兄弟が最初ツェーポ・ツーデと争ったが、後に(仲直りし)王に招かれた、ことになっている。
おそらく、ツェーポ・ツーデ/ツェーデが時代をこえて二度に渡って現れる『テンチュン』の記事に疑問を持ち、『レクシェー・ズー』では二つを同時代の事件として統合したものと思われる。
(注17)
『レクシェー・ズー』では、「ンガリー・コルスムからチベット国の四ルまでみなブルシャの領土(mnga' ris)となった」とあるが、もちろん歴史上そういう事実は全くない。
(注18)
『レクシェー・ズー』では、ユンドゥン・ギャルツェン(g-yung drung rgyal mtshan)。こちらの方が整った名前であるが、だからといって正確かどうかはわからない。『テンチュン』の方はブルシャ語的な名前を報告している可能性なども考慮する必要があろう。
(注19)
『レクシェー・ズー』では、「ユンドゥン・センゲの子が三人」というのは同じだが、名前がわかっているのはナムカー・ユンドゥン(nam mkha' g-yung drung)のみ。そして、ナムカー・ユンドゥンの四人の子のうちの二人が、リンチェン・ギャルツェン(rin chen rgyal mtshan)とシェーラブ・ギャルツェン(shes rab rgyal mtshan)となっている。
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(追記)@2009/09/03
(注3)冒頭の文献名を、『ダライ・ラマ五世年代記/西蔵王臣記』から「サキャパ系の史料」に修正した。
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