2009年9月29日火曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(24) 漢文史料に現れる「ブルシャ」その1

・桑山正進・編 (1998) 『慧超往五天竺國傳研究 改訂第二刷』. pp.xii+292+pls. 臨川書店, 京都.

は、8世紀前半の求法僧・慧超が著した地理書『往五天竺国伝』の研究書です。これには詳細な注釈がついており、8世紀のカラコルム~西部チベットについても情報の宝庫です。p.104-107は「注97 大勃律国」(執筆・森安孝夫)になっており、そこにボロル/ブルシャ/バルティの名を記録した諸文献の一覧表があります。

できあがりは一見なんのことはない表ですが、実はたいへんな労作で、これだけ広範に渡る文献に当たり、ひとつひとつ丹念に拾い出していく作業には相当な手間と時間がかかったはずです。敬意を表します。

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このうち、「ボロル」の音写とみられる波倫/鉢盧勒/波路/鉢露羅/勃律?/布露/卜羅爾/博洛爾、「バルティ」の音写とみられる巴児希などがギルギット~バルティスタン周辺の地名を示すことは明白です。

そして、「ブルシャ」を音写した(かもしれない)漢字として、次の三つがあげられています。

(1)『魏書』世宗本紀 - 「不流沙[中古音:piuat/piau liau sha]」
(2)『佛本行集経』巻11(隋訳) - 「波流沙[中古音:pua liau sha]」
(3)継業 『呉船録』(10世紀) - 「布路州[中古音:pu lu tciau]」

これが本当にボロル/ブルシャ(ギルギット/フンザ/バルティスタン)を示すものであるのか、確かめてみましょう。

これとは別に、私が独自に仏典から発見した

(2a)『佛説菩薩本行経』巻上(東晋訳) - 「不流沙[中古音:piuat/piau liau sha]」

も合わせて検討します。

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まず、(1)『魏書』世宗本紀 - 「不流沙[中古音:piuat/piau liau sha]」 から。

これは、北魏皇帝・世宗・宣武帝[位:499-515d]代の諸国遣使記事に現れます。それもごくごく局所的で、511年(永平四年)に二度に渡って現れるだけです。

511年(永平四年)の遣使記事を抜き出してみると、

・四年春正月・・・。甲子、阿悅陀、不數羅國並遣使朝獻。
・(春)三月癸卯、婆比幡彌、烏萇、比地、乾達諸國並遣使朝獻。
・(夏)六月乙亥、乾達、阿婆羅、達舍、越伽使密、不流沙諸國並遣使朝獻。
・秋七月辛酉、吐谷渾、契丹國並遣使朝獻。
・(秋)八月辛未、阿婆羅、達舍、越伽使密、不流沙等諸國並遣使朝獻。
・(秋八月)癸巳、勿吉國獻楛矢。
・(秋)九月・・・。嚈噠、朱居槃、波羅、莫伽陀、移婆僕羅、倶薩羅、舍彌、羅樂陀等諸國並遣使朝獻。
・冬十月丁丑、婆比幡彌、烏萇、比地、乾達等諸國並遣使朝獻。
・(冬)十有一月甲午、宕昌國遣使朝獻。
・(冬十有一月)戊申、難地、伏羅國並遣使朝獻。
・(冬)十有二月・・・。戊子、大羅汗、婆來伽國遣使朝獻。

六月と八月の二度、不流沙国が北魏朝廷に遣使したことになっています(注1)。

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この「不流沙」がボロル/ブルシャを示すのであれば、8世紀にチベット語文献に現れる「bru sha/'bru zha」に先立ち、最も古い用例になります。

が、一番の疑問は、北魏代の出来事を記した文献では、ボロル/ブルシャは「波倫」、「波路」、「鉢盧勒」と記されており、これらは一貫して「Bolor」の音写であるのに、この「不流沙」だけが例外で「bru sha/'bru zha」の音写になってしまうことです。

同じ『魏書』でも、西域伝では「波路」とされているのに、同じ国が本紀では原音も異なる「不流沙」という別名で記されているのであれば、これは奇妙です。また西域伝の記事では、波路国が北魏に遣使した旨の記述がありません(本紀の遣使記事の方にも波路国の名はありません)。

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ただし、『魏書』西域伝には大きな問題があります。『魏書』の一部は唐~五代の頃に散逸しており、西域伝も実は丸々欠損しているのです。

幸いなことに、『魏書』西域伝は、『周書』異域伝、『隋書』西域伝と共に、『北史』西域伝の編纂に利用されており、そこに『魏書』西域伝からの引用とみられる箇所が多数みられます。

そこで、宋代に『魏書』を再版する際に、『北史』西域伝より北魏代と思われる記事を抽出して『魏書』西域伝を復元しています。

詳しくは、

・内田吟風 (1970~72) 魏書西域伝原文考釈(上)(中)(下). 東洋史研究, (上)-vol.29, no.1[1970/06], pp.83-106, (中)-vol.30, no.2・3[1971/12], pp.82-101, (下)-vol.31, no.3[1972/12], pp.58-72.
・内藤みどり(1984) 『魏書』西域伝の構成について. 早稲田大学文学部東洋史研究室・編 (1984) 『中国正史の基礎的研究』所収. pp.147-180. 早稲田大学出版部, 東京.

あたりをご覧下さい。

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現・『魏書』西域伝・波路国の条は、『北史』西域伝・波路国の条とほとんど同文で、内田(1970~72)説では原・『魏書』西域伝・波路国の条の内容がそのまま保存されている、と考えられています。

しかし、『北史』編纂の際には原・『魏書』から抜粋して収録されているケースが多く、『北史』記事ではかなり情報落ちしている可能性も否定できません。

原・『魏書』西域伝に「波路の別名は不流沙」とか「波路/不流沙は永平四年に遣使」といった記事がもともとあって、『北史』編纂の際に情報落ちした、という可能性がないわけではありませんが、現状の文面からは、「波路」と「不流沙」の関係を知ることはできません。

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方向を変えて、本紀の文面から攻めてみましょう。

不流沙国と一緒に遣使している国は、乾達[中古音:kan/gien dat]、阿婆羅[中古音:a bua la]、達舍[中古音:dat cia]、越伽使密[中古音:yiwat ka shia miet]の四ヶ国です。

この中で、列伝にほぼ同じ国名が確認できるのは乾達=乾陁(Gandhara)国のみ(注2)。本紀に現れる遣使国で列伝が立っていない国はかなりあります。このことからも原・『魏書』西域伝→『北史』西域伝の段階でかなり情報落ちしているのでは?と思わせます。

不流沙を含んだこの五ヶ国は、同時に遣使しているのですから、互いに近隣であった可能性があります。

まず、乾達(ガンダーラ)の近くで探してみましょう。すると、他に比定できそうなのは、「達舎」=「Taxila」(注3)、「越伽使密」=「Kashmir」(注4)、でしょうか(別の比定については次回)。不流沙=ボロル/ブルシャだとすれば、これはカシミールのすぐ北に当たりますから、これらの国々と一緒に北魏に使節を送っても不自然ではありません。

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ところが、これらの国々の近くにはボロル/ブルシャとは別に、これと似た地名が存在しています。

まずは、いわずと知れた「プルシャプラ(現・Peshawar)」です。この地名の漢文表記をいくつか見てみると、

・法顕 (東晋416) 『法顕伝(仏国記)』 - 「弗樓沙[中古音:piuat lau sha]」
・魏収・撰 (北斉554) 『魏書』西域伝 - 「富樓沙[中古音:piau lau sha]」(5世紀のキダーラ・クシャン(大月氏)傍系・小月氏の都として)
・玄奘 (唐646) 『大唐西域記』 - 「布路沙布邏[中古音:pu lu sha pu la]」

これが「不流沙」と表記されていても不思議ではありません。

しかし、5世紀末~6世紀中頃、ガンダーラはエフタル・テギンに治められており、その中心地プルシャプラは当時ガンダーラ城(乾陀羅城)と呼ばれていました(『洛陽伽藍記』)。とすれば、乾達(ガンダーラ)国とプルシャプラが511年に同時に別国扱いで使節を送っているのは矛盾します。

「不流沙=プルシャプラ」という比定はかなり可能性が低そうです

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まぎらわしいのですが、プルシャプラの近くにはもう一つ似た地名があります。

・楊衒之 (東魏547) 『洛陽伽藍記』 - 「佛沙伏[中古音:biuat sha biuk/biau]」(「伏」は「町」を意味する接尾辞「-pura」)
・玄奘 (唐646) 『大唐西域記』 - 「跋虜沙[中古音:buat lu sha]」

これは、プルシャプラ(ペシャワール)からカーブル川を北に渡り東北東に65kmにある現Shahbaz Garhiに比定されています。「佛沙伏」、「跋虜沙」の原音はVaroucha、Palusha、Varusha(pura)などと推定されていますが、定説はありません。

これも「不流沙」と表記されても何ら不思議はありません。

この地は古くからプルシャプラと並ぶガンダーラの要地だったらしく、近郊には紀元前3世紀のアショーカ王碑文をはじめ仏教遺跡が多数発見されています。もしかすると両都市とも実は同じ名で、地名の移動があった、ということなのかもしれません。

しかし、エフタル・テギンの支配下のガンダーラにありながら、その領内の都市(国家?)が北魏に遣使などできるものでしょうか?佛沙伏/跋虜沙にローカルな王がいて、エフタル・テギンの属国として従っていたのであれば、エフタル・テギン(乾達王)と共に北魏に遣使を送った可能性はあります。

が、『洛陽伽藍記』では、当時佛沙伏に王がいた旨の記述がありません。エフタル・テギンがガンダーラを制圧する以前の同地の政体についても情報がありません。

一緒に遣使している「達舎国」が同じくエフタル・テギン支配下のガンダーラにある「タキシラ(Taxila)」であるならば、そういった可能性はさらに高まりますが、タキシラにもローカルな王がいたかどうか不明です。

このお話は次回に続きます。


ガンダーラ周辺の地図(6世紀前半)
出典:
・桑山正進 (1990) 『カーピシー・ガンダーラ史研究』. 京都大学人文科学研究所, 京都.
(一部を改変した)

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(注1)
『北史』では、511年(永平四年)は、

・是歳,西域、東夷、北狄二十九國並遣使朝貢。

と簡略化されている。

(注2)
当時ガンダーラはエフタル傍系のテギン(官職名)が支配していた。トハリスターンに本拠地を構えていたエフタル本国からはかなり離れているため、『魏書』では嚈噠/[ロ歇]噠(エフタル)とは別扱いにされている。

なお、このガンダーラの支配者エフタル・テギンが、仏典やインド/カシミール史に現れるフーナのミヒラクラに比定できるか?という話題はとても今はカバーしきれない。

実はエフタルに関する話題も、私の得意分野ではあるので、いつか機会があれば、やってみましょう。

(注3)
タキシラは、この他、

「竺刹尸羅」@『法顕伝(仏国記)』
「呾叉始羅」@『大唐西域記』/『慈恩寺三蔵伝』

と表記されている。

(注4)
カシミールは、唐代には「迦濕彌羅/箇失蜜」と表記されているが、南北朝時代には「罽賓」と記されていた。

この「罽賓」は実にやっかいな用語。漢代にはガンダーラ一帯をさした。南北朝時代には、罽賓はカシミールをさす場合とカーピシー~ガンダーラをさす場合があって混乱している。

『大唐西域記』が迦濕彌羅(カシミール)国について「旧に罽賓という。訛なり。」と注記し、混乱に収拾がはかられた。以後唐代には罽賓=カーピシー、迦濕彌羅/箇失蜜=カシミールとはっきり区別されるようになった。

『魏書』西域伝には、罽賓国の条がある。「罽賓国は善見城に都しする。波路(ボロル)の西南に在り。」とされ、方角的にはカーピシーだが、両国間の距離は三百里=約150kmしかなく、その点ではカシミールの方がふさわしい。記事にも農作物が豊富な様が描かれており、これは間違いなくカシミールを示す内容。

しかし、求法僧の旅行記などに現れる罽賓はガンダーラ一帯をさしているケースが多い。この件に関する詳細な論考は、

・桑山正進 (1983) 罽賓と佛鉢. (1983) 『展望 アジアの考古学 樋口隆康教授退官記念論集』所収 pp.598-607. 新潮社, 東京.
・桑山正進 (1985) バーミヤーン大佛成立にかかわるふたつの道. 東方学報京都, no.57[1985/03], pp.109-209.
・桑山正進 (1990) 『カーピシー・ガンダーラ史研究』. 京都大学人文科学研究所, 京都.

を参照のこと。

本紀には罽賓と越伽使密の双方が現れる。『魏書』本紀の遣使記事より抜き出してみると、

451(太平真君12→正平1)
・春正月・・・。是月、破洛那、罽賓、迷密諸國各遣使朝獻。
453(興安2)
・(冬)十有二月、・・・。庫莫奚、契丹、罽賓等十餘國各遣使朝貢。
502(景明3)
・是歳、疏勒、罽賓、婆羅捺、烏萇、阿喩陀、羅婆、不崙、陀拔羅、弗波女提、斯羅、噠舍、伏耆奚那太、羅槃、烏稽、悉萬斤、朱居槃、訶盤陀、撥斤、厭味、朱沴洛、南天竺、持沙那斯頭諸國並遣使朝貢。
508(正始5→永平1)
・秋七月辛卯、高車、契丹、汗畔、罽賓諸國並遣使朝獻。
511(永平4)
・(夏)六月乙亥、乾達、阿婆羅、達舍、越伽使密、不流沙諸國並遣使朝獻。
・(秋)八月辛未、阿婆羅、達舍、越伽使密、不流沙等諸國並遣使朝獻。
517(煕平2)
・(春正月)癸丑、地伏羅、罽賓國並遣使朝獻。
・秋七月乙丑、地伏羅、罽賓國並遣使朝獻。

罽賓と越伽使密は同年に遣使したことはないので、そこからは同じ国か別の国か判断できない。

『魏書』西域伝・罽賓条は、大半がカシミールを示す記事と思われるので、遣使を送っている罽賓もカシミールである可能性が高い。しかし、中にはカーピシーも混在しているのではないか?とも思わせる。特に、517年の地伏羅(ザーブル、アフガニスタン南部)と共に遣使している罽賓はその隣接国カーピシーの方かもしれない。

この時代は、カーピシーもカシミールも充分な史料がなく、北魏に遣使できるような国・政情であったかどうかわからない。この問題はもう少しつっこんで調べないと結論が出せない。また「不流沙」問題も、そこから解けるヒントが現れてくるかも知れないので、注目し続けたいところ。

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