2009年6月21日日曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(2) ボロル(ギルギット~フンザ)簡史

ギルギット/フンザ/ヤスィンからバルティスタンにかけての広い地域は、7~8世紀には、インドや西方世界からは「ボロル(Bolor)」と、中国からは「勃律(中古音[buat liuet])」と呼ばれていました(注1)。その語源は同地を支配していた王朝の名称「Patola/Palola」とみられています(注2)が、それの意味するところは謎です。

一方、同地域はチベットからは「ブルシャ(bru sha/'bru zha)」と呼ばれていました。「ブルシャ」という名と「ボロル」、そして「バルティ」がどういう関係にあるのか、これもわかっていません。一説ではこの三つはすべて王朝名「Patola」が語源ではないか、ともいわれていますが、微妙に音が異なる理由が説明できず、結論は出ていません。

なお、「bru sha/'bru zha」は現代ウー・ツァン方言では「ドゥシャ」になりますが、ここでは吐蕃時代の話が中心となるので、昔の発音通り(あるいはバルティ語風に)「ブルシャ」を主に使うことにします。

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ギルギット~フンザの歴史を概観しておきます。

古代のギルギット/フンザ/ヤスィン/バルティスタンを支配していたのはボロル(Bolor/勃律)という国です。

中国の史書、地理書、求法僧の旅行記では、前漢代からパミール(葱嶺)を越えた南側山岳部の地名が「懸度/県度(インダス川沿い)」、「難兜国(現バルティスタンか?)」、「阿鈎羌(難兜国の後裔か?)」、「陁歴(現Darel)」などの名で現れます。6世紀に入ると「波倫」、「波路」、「鉢盧勒」の名が現れ始めます。これらが「Bolor」の音写であるのは確実です。

この国は唐代になると、唐に使者を派遣するようになり、「勃律」の名で呼ばれます。7世紀後半、唐の西方進出が盛んな時代です。

一方、吐蕃も643~44年のシャンシュン制圧を皮切りに、7世紀後半チベット高原を横断しての西方進出を開始します。ボロル/ブルシャ(勃律)が先に直接接触したのは唐軍でなく吐蕃軍の方でした。

ボロル/ブルシャは吐蕃に協力し、吐蕃軍のタリム盆地進出のルートを提供したと思われます(注3)。その経緯は史料でははっきりしませんが、『冊府元亀』や『資治通鑑』によれば、早くも662年には吐蕃軍がカシュガル(疏勒)の南に姿を現していますから、643~44年のシャンシュン制圧後20年ほどでボロル方面までを勢力下に収めたものと思われます(注4)。ボロル(勃律)はその一方で唐へ使節派遣も続け、両面外交を展開していました。

当時のボロル/ブルシャ(勃律)の中心はバルティスタンの方でした。721年頃同国は大勃律・小勃律に分裂します。本拠地バルティスタンに残った勢力(王家主流派か?)は唐からは大勃律と呼ばれ、引き続き親吐蕃政策を続けますが、王子・没謹忙(注5)はギルギット方面に逃亡してギルギット~フンザ~ヤスィンを取り、唐からは小勃律と呼ばれます。没謹忙はこの直前まで長安に滞在し玄宗にかわいがられていましたから(『新唐書』西域伝)、当然親唐政権になりました。

タリム盆地西部へ盛んに軍事展開を行っていた吐蕃にとっては、これは目の上のたんこぶです。そこで、吐蕃は737年に小勃律(bru zha yul)を討ち、740年には王女ティマルー(注6)を嫁がせます。これで再び小勃律は吐蕃勢力圏内に戻ったわけです。

今度は唐が黙っていません。有名な高仙芝の小勃律遠征があったのはその7年後、747年のことでした。

その後、安史の乱(755~63年)による混乱で、唐の西方経営は大きく後退し(注7)、漢文史料からボロル/勃律の消息を追うことはできなくなります。

大勃律の方はやがてバルティスタン(Baltistan)/バルティ・ユル(sbal ti'i yul)と呼ばれますが、小勃律の方にはボロル/ブルシャの名が残りました。著者不詳(982)『HUDŪD AL-'ĀLAM(世界地理誌-東から西まで)』、13世紀のマルコ・ポーロ、16世紀のミルザ・ハイダル・ドゥグラト(注8)もこの地をボロルの名で呼んでいます。

11世紀頃、ボロル/ブルシャ/小勃律の方は王朝交代があり(注9)、テュルク系とみられるトラカン(Trakhan)朝が始まります(注10)。14~15世紀になると、ギルギットを中心としたトラカン朝の分家として、チトラル~ヤスィンのレイシア(Rasia)朝(注11)、フンザのアヤシ(Ayash)朝、ナガルのマグロト(Maglot)朝が分離し、旧ボロルの統一は失われていきます。

このあたりからボロルという総称は次第に使われなくなり、それぞれの小王国がギルギット、ヤスィン、フンザ、ナガルといったローカル名で呼ばれるようになります。


カラコルムを背景にしたギルギットの町

参考:
・森安孝夫 (1983)吐蕃の中央アジア進出. 金沢大学文学部論集史学科篇, no.4[1983/11], pp.1-85+figs..
・Ahmad Hassan Dani (1991) HISTORY OF NORTHERN AREAS OF PAKISTAN. pp.xvi+532. National Institute of Historical and Cultural Research, Islamabad. (改訂版も出ているようだ)

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(注1)
「勃律」は、おそらく「Bolor」の音写であろうと推測されているが、語尾の「-t」が一致せず、よって「Balti」を写したものではないか?という考えもある。

参考:
・桑山正進・編 (1998) 『慧超往五天竺國傳研究改訂第二刷』. pp.xii+292+pls. 臨川書店, 京都.

(注2)
碑文・銘文によってスペル(あるいは釈字)にばらつきがあり、「Palola」、「Palala」、「Patola」などと読まれている。

(注3)
西部チベット側からカラコルム山脈を北に越えてタリム盆地西部に出る主なルートは、東から順に

(1)カラコルム峠ルート
ラダックのレーからカルドン・ラ(峠)を越えて、あるいはルトクからパンゴン・ツォを経て西へ進み(この場合は越える峠がないので行軍にはより好都合)、ヌブラ・シャヨク川流域に出る。サセル・ラを越えてシャヨク川上流部に進み、カラコルム峠を越える。そこからもう一つ峠を越えてカラカラシュ川流域に入り、これを下るとホータン(和田、唐代は于闐)。
(2)ミンタカ峠ルート
ルトク~シャヨク川経由、あるいはラダック~プリク経由でバルティスタンに進み、インダス川沿いにギルギットへ。そしてフンザ川沿いに北上しミンタカ峠を越えサリコル谷(カラジール谷/ミンタカ谷)へ抜ける。カラジール川(タシュクルガン川)流域からスバシ峠を越えてゲス川流域を下るとカシュガル。
(3)ダルコット峠ルート
ギルギットまでは(2)と同じ。ギルギットからはギルギット川(ギズル川)を西・上流へ進みヤスィンへ。ヤスィン川沿いを北上しダルコット峠を越えてヤルフーン川最上流部へ出て、すぐにボロゴール峠を越えてワハーン谷へ。ワハーン谷を東へ進みワフジール峠を越えるとサリコル谷(カラジール谷/ミンタカ谷)。あとは(2)と同じ。

西チベットからタリム盆地への経路

この中では、無人・不毛の区間が長く、峠越えの数が多い(1)カラコルム峠ルートが最も厳しい。昔は荷駄獣・食用家畜を大量に引き連れての行軍だったと推測されるので、行軍には不利。しかしカシュガルに出ないで直接ホータンに向かう軍は、このルートをとったかもしれない。

なお現在カシュガル~アリを結んでいる新蔵公路は1950年代に開発された軍用道路。それ以前このルートがどのような状況にあったかは不明。しかし、標高5000mを越える無人・不毛の区間が長すぎて、昔交易路・軍用路として頻繁に使われていたとは思えない。

(2)ミンタカ峠ルートは、カシュガルまで大きな峠越えが二度で済み、峠の前後を除き町・村も多く、また標高もさほど上がらないので途中草地も多い。タリム盆地西部への行軍には最も適したルート。

今は一つ東のフンジェラブ峠にカラコルム・ハイウェイが通され、ミンタカ峠は現在すたれている。

(3)ダルコット峠ルートの条件はミンタカ峠とほぼ同様だが、タリム盆地へはやや遠回りになり、むしろトハリスタン~ソグディアナへの行軍に用いられることが多かっただろう。なお、逆ルートは高仙芝が747年の小勃律遠征の際に利用したルートでもある。

これを考えると、吐蕃軍のタリム盆地西部進出には(2)ミンタカ峠ルートが主に使われていたものと推測される。そうなれば、ボロルが戦略上重要な場所であったことは間違いない。唐と吐蕃が争奪戦を繰り広げた理由もよく理解できる。

参考:
・酒井敏明 (1962) パミールをめぐる交通路. 史林, vol.45, no.5[1962/09], pp.63-88.

(注4)
『敦煌出土チベット語文献(敦煌文献)』の「年表(編年記)」と「歴代ツェンポ伝記(年代記)」には、643~44年頃(欠損が多く年代ははっきりしない)吐蕃がシャンシュン(zhang zhung)王国リク・ミリャ(lig mi rhya)王朝を倒した事件が記されているが、その直後さらに西方に勢力を広げていった経緯は記されていない。

なお、リク・ミリャ王朝滅亡後のシャンシュン王国は、キュンポ(khyung po)氏とみられるラサンジェ(ra sang rje)王朝が支配し30年間ほど吐蕃の属国として存続しているので、643~44年でシャンシュン王国が滅亡したわけではない。詳しくはいずれまた。

敦煌出土チベット語文献については、チベット史研究者以外にはあまりなじみがないので、いずれ解説する予定。

慧超『往五天竺国伝』など求法僧の旅行記・地理志などについても解説が必要でしょう。要するに、まず文献紹介が必要なのはわかっているんですが・・・。

(追記)@2009/07/08
『la dwags rgyal rabs(ラダック王統紀)』にはクンソン・ドゥジェ(gung srong 'du rje)=ティ・ドゥーソン(khri 'dus srong)[位:676-704d]代の出来事として、「この王の時に、東は王の河(rgyal po'i chu=黄河?)、南はベルポ(bal po=ネパール)のシンクン(shing khun=不明)、北はホル(hor)のタタク・タルチェン(kra krag dar chen=カラカシュすなわちホータン?)、西はロウォ・チュンリン(blo bo chun rings=ムスタン)、バルティ(sbal ti)への道上にあるナンゴン(nang gong=スカルドゥの古名)、下手のシカル(shi skar=シガル)までを占領し統一した。」とある。

これは、吐蕃軍がカシュガル付近に現れた662年よりもやや後の時代になるものの、7世紀後半には吐蕃軍がバルティスタンまで支配下に治めていた事実が窺える。当時はボロル(ブルシャ/勃律)として大小分裂前であり、この国はギルギットを含んでいたはずだから、ギルギット方面も当然抑えていたに違いない。

なお、『mnga' ris rgyal rabs(ンガリー王統紀)』にも同様の記事があり、おそらく同じ情報源を利用していると思われる。

参考:
・August Hermann Francke (1926) ANTIQUITIES OF INDIAN TIBET : PART(VOLUME) II : THE CHRONICLES OF LADAKH AND MINOR CHRONICLES. pp.viii+310. Calcutta. → Reprint : (1992) Asian Educational Services, New Delhi.
・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.xi+642. Dharamsala, India.

(注5)
碑文や銘文に残されている王名によれば、7世紀頃(確かな年代は不明)のボロル王はサンスクリット語の名前を名乗っていた(例:Vikramaditya Nandiなど)。没謹忙(中古音[muat kian mang])は「Vikrama(+ナントカ)」とか「Vajra-mangala」あたりではないかと推測できるが定説はない。

(注6)
王女ティマルー(je ba khri ma lod)の続柄は不明だが、当時の吐蕃王ティデ・ツクツェン(khri lde gtsug rtsan)の娘とみてよいだろう。なお、ティデ・ツクツェンの祖母にあたるド(ブロ)氏王妃ティマルー('bro za khri ma lod、?-712)とは別人なので注意。

(注7)
かつては、751年の「タラス河の戦い」で高仙芝率いる唐軍がアッバース朝軍に敗れたことを機として唐の西方経営が後退した、と唱えられることが多かったが、現在は、タラス河での戦敗は大きな影響をもたらしていない、という説が優勢。高仙芝は唐朝廷から全く罰せられていないし、タラス戦後もボロル方面での唐軍の対吐蕃攻勢は活発で、753年には吐蕃勢力下の大勃律へ遠征を行い成功させている。

むしろ安史の乱に始まる内政の混乱で、8世紀後半以降唐は西方経営どころではなくなった、というのが実状らしい。

8世紀後半には吐蕃が逆襲を開始。西方遠征を成功させ、パミール諸国が吐蕃朝廷に使節を送るようになる。大小勃律もこれで再び吐蕃の傘下に戻ったと思われる。吐蕃支配から解放されるのは842年の吐蕃帝国崩壊後であろう。

(注8)
Mirza Muhammad Haidar Dughlat(1499/1500-51)。ドゥグラート部はカシュガル土着の名家。モンゴル帝国チャガタイ・カン家に仕えると共に、カンの擁立を牛耳り代々娘婿(クルガン=キュルゲン)として君臨した。14世紀後半にはチャガタイ・カン(モグーリスターン・カン)位を簒奪したカマルッディーンという人物もいた。

チャガタイ家は内紛・分裂を繰り返したあげく勢力はどんどん縮小し、16世紀初頭には所領はタリム盆地のみとなった(カシュガル・カン家)。

ミルザ・ハイダルは当時のカシュガル・カンであるサイード・カン[位:1514-37/38]に仕え、ボロル、バルティスタン、ラダック、カシミールなどに遠征し成功を収めた。しかしラシード・カン[位:1537/38-59/60]の代になると、粛清を恐れムガル皇帝フマユーンの下に亡命(フマユーンの父である初代ムガル皇帝バーブルとミルザ・ハイダルは母方で従弟同士に当たる)。1541~51年にはカシミールの支配者として君臨し、そこで生涯を終えた。

カシミール在住の1541~45年に彼が記した『TARIKH-I-RASHIDI(ラシード・カンに捧げる歴史書)』は、自伝であると共にチャガタイ・カン家の歴史を記したもので、史料に乏しい後期チャガタイ家の動向を伝える第一級史料となっている。

ミルザ・ハイダル自身が指揮したボロル、ラダック、バルティスタン遠征の記録も、16世紀前半の西部ヒマラヤ~カラコルム地域の様子を伝える貴重な史料である。ラダックやグゲ側の史料では、同時代の記録は簡略すぎて、はっきりとわかっていないことが多い。また『TARIKH-I-RASHIDI』の記述とは一致しない点も多く、それらの問題は今なお充分解明されているとは言い難い。

参考:
・Mirza Muhammad Haidar Dughlat, Ney Elias(ed.), E. Denison Ross(tr.) (1895) TARIKH-I-RASHIDI OF MIRZA MUHAMMAD HAIDAR DUGHLAT : A HISTORY OF THE MOGHULS OF CENTRAL ASIA. pp.xxiii+128+535. London. → Reprint : (1986) Renaissance Publishing House, Delhi.
・間野英二 (1987) バーブル・パーディシャーフとハイダル・ミルザー その相互関係. 東洋史研究, vol.46, no.3[1987/12], pp.97-128.

(注9)
それ以前にも複数回王朝交代があった可能性があるが、ややこしくて長い話になる上に、今のところ定説もないので、今回は省略。

(注10)
トラカン(Trakhan)とは、突厥やその末裔が用いていた官職名タルカン(tarkhan)が訛ったものであるのは明らか。ただし、この王家がテュルクのどういう系統に属すのかは、わかっていない。

同王家は後にイスラム化し、西方起源(ペルシア起源)を称し始め、テュルク起源である事実を隠蔽した、とみられている。これはイスラム化した王朝に典型的に見られる系図改竄手法。

またトラカン王朝の創始年代も諸説あるが、詳しい話はいずれまた。

(注11)
レイシア朝は16世紀末、ムガル皇帝バーブルの一族を称するカトル(Kator)朝に取って代わられる。チトラルを支配するカトル朝からはさらにフシュワクト(Khushwaqt)朝が分家しマストゥージ~ヤスィンを支配した。フシュワクト朝は徐々にプンヤール(Punial)までを手中に収めてギルギットに迫り、19世紀にはカラコルム諸国は大混乱に陥る。

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(追記)@2009/07/08

(注4)を若干補足した。

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