2012年4月24日火曜日

全くもって失礼なチベット珍本 『動乱の曠野』 の巻(2)

さて、『動乱の曠野』の「第4話 最後の秘教」のあらすじを紹介すると・・・

と、その前に、チベット・ファン、ダライ・ラマ法王ファンは怒らないでね。それから著者もすでに亡くなって久しいので、関係者に怒りをぶつけたりもしないでね。

では行きましょう。

と思いましたが、ネタばれを嫌う方もいることでしょう。あらすじはコメント欄に入れておきます。では、あらすじを読みたい方はそちらでどうぞ。

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(しばらくお待ちください)

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えー、あらすじをお読みになりましたか?そういうお話です。

なんとも電波少年なみに失礼な話ですが、当時はチベットなど遠い遠い世界。ダライ・ラマ法王についても、実在の人物という認識はあるものの「遠い国の偉い人」程度で、おとぎ話の登場人物と大差ない扱いだったのでしょう。

実在の同時代人について、これだけ事実と異なるストーリーを与えておきながら、「ドキュメンタリー」と称して許されていたのですから、おおらかな時代だったんですねえ。

風俗小説家としては濡れ場を入れるのは義務みたいなものですから当然のように出てきます。しかし、その描写は至ってソフトなもので、それほど不快感を感じることはありません。

まさかそのダライ・ラマ法王が、1989年にはノーベル平和賞を受賞し世界的に有名な人物になるとは、著者は想像だにしていなかったでしょう。そのニュースを聞いて清水氏(胡桃沢氏)は頭をかかえたかもしれません。

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この本が出版されたのは1956年10月。1959年三月蜂起~亡命の2年半前です。奇妙なことに、ラサ脱出~亡命という展開や、その脱出ルートまで2年半後の事実とよく似ています。一瞬「予言?」とまで思ってしまいますが、まあ偶然ということなのでしょう。

ダライ・ラマ法王は、1950年には一時チュンビ谷のトモ(གྲོ་མོ་/gro mo/亜東)に避難しています。新聞報道などでその事実を知り、参考にしているのは間違いないでしょう。しかしこの時はインドに入ってはおらず、もちろん亡命もしていません。事実と異なり亡命させ、さらに日本/USAに流浪させたのはどうしてなのでしょう?また、脱出ルートもチュンビではなく、わざわざアッサム経由にした理由も謎です。なにか元ネタがあるような気がしますが、今のところわかりません。

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で、この『動乱の曠野』、そのまま絶版と思いきや、胡桃沢耕史・名義の「小説」として、

・(1985)グリーンアロー出版
・(1988)徳間文庫
・(1992)廣済堂文庫

から三度も再発されています。1989年の法王のノーベル平和賞受賞後にも、平気で再発されているのには呆れますね(笑)。

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この小説について、ダライ・ラマ法王が小耳に挟んだらどうなるでしょうか。おおらかな法王のことです。きっと「はっはっはっ、それはまた愉快なお話ですね」と、一笑に付すに違いありません。さほど大騒ぎするような代物ではなく、「捏造業界では小物」と言っていいでしょう。なにせすぐウソとわかってしまう。

『動乱の曠野』は、1950年代日本人のチベット観を知る上でも面白い資料と思われますが、これまで全く見逃されてきたのはどうしてでしょう?胡桃沢氏が封印していたわけでもなさそうだし。

ツッコミどころは多々あるものの、ネーチュンが出てきたり、客人にカタをかけたり(色は「赤」なのが笑えるが)と、チベット文化も意外に詳しく調べてあります。当時出版された文献を当たっていけば、参考書も特定できそうな気もしますが、そこまでする余裕は今はありません。

とりあえず、「こんな珍品がありましたよ」という報告に今は止めておきますか。

1 件のコメント:

  1. ・清水正二郎(1956)『動乱の曠野 世界ドキュメンタリー文庫5』 第四話 ・・・チベット・・・ 最後の秘教(昭和二十八年-昭和三十一年)

    のあらすじです。

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    物語の冒頭は、東京・築地本願寺を訪れる謎の女性・啓子。彼女が訪れたのは若き僧の部屋。二人はお茶を持ってきた番僧にはわからない言葉で話しこんでいた。

    舞台は変わって、1948年の中国北西。内モンゴル貴族・札巴(ジャバ)は二人の妻を伴いチベットへ向かっていた。その第二夫人は、孤児となったところを拾われた日本人・啓子(16歳くらい)。

    三人はラサに到着すると若きダライ・ラマ法王に謁見。客人として歓待された。おりしも中国共産党は「チベット解放」を宣言。神降ろしの神託によりチベット側の敗北が予言されると、ダライ・ラマ法王はラサを脱出(1950年?)。札巴ら三人もこれに従った。

    一行からは重臣や軍人たちが次々に脱走。いつの間にか札巴がリーダーとして君臨し、我が物顔に振る舞っていた。一行はネパール入国を拒否され東へ迂回。国境を越えてアッサムへ南下し、ジャングルをさまよう。札巴は法王が不調を訴えても行軍を止めず、ついには法王をジャングルに置き去りにする始末。法王の看病に残ったのは老僧と啓子の二人だけであった。

    看病に尽力するうちに、啓子は法王と関係を持つようになる(こらこらーっ!)。一方、先に進んだ札巴たちは土民に襲撃され全滅。法王と啓子は東パキスタン(現・バングラデシュ)軍に救出される(なぜかカルカッタが東パキスタンにあることになっている)。

    法王は、浄土真宗本願寺派の招聘により密かに日本へ渡航。築地本願寺に隠棲していた。啓子も日本帰国を果たし無事実家へ。そして二人は久々の再会。しかし法王は啓子の求愛を拒み、未練を残しながら両者は別れた。

    USAより法王受け入れの申し入れがあり、法王は密かに横浜港より渡米。船上の人となった法王は、別れ際に啓子に平手打ちをされた頬をなでつつ、「あなたは神じゃなくて人間なのよ、ほら痛いでしょう」という言葉を思い出すのだった。

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