2009年2月12日木曜日

余談 : ゲルツェ方言

ンガリー地方のチベット語でも特異な存在が、チャンタン高原上に位置するsger rtse(ゲルツェ/改則)の言葉。このゲルツェ方言は、なんとカム方言の一種と分類されています(注1)。カムの心臓部、四川省のdkar mdzes(カンゼ/甘孜)からは約1200kmのかなた。

私自身はゲルツェにはごく短時間滞在しただけなので、カム方言かどうか私にはわかりません。それに、この辺を通過するときはたいていカムパの商人/ドライバーと一緒のことが多いので、ゲルツェ方言を聞いてもたぶん変だとは思わなかったでしょう(笑)。

カムの西はずれとはどこなのか?はっきりしません。通常は「西蔵自治区・昌都(chab mdo/チャムド)地区の西はずれまで」という印象を持っていますが、その場合、川蔵公路北路沿いだとsteng chen(テンチェン/丁青)あたりまでになります。

しかし、言語学上はカム方言はそれを越えてsnyan rong(ニェンロン/聶榮)、nag chu(ナクチュ/那曲)あたりまでずっと続いていることになっています。

ゲルツェに戻りますが、西(1987)(注2)の図ですと、ナクチュからもずっと離れて、はるか西のゲルツェにカム方言がぽつんと孤立しているように見えます。しかし、

・中華取名網>新聞中心>方言>成分>蔵語分幾個方言区?
http://www.chinaname.cn/article/2008-9/37016.htm

によれば、チャンタン高原上、ゲルツェ~ナクチュ間にあるshan rtsa(シャンツァ/申扎)、dpal mgon (ペルゴン/バンゴン/班戈)あたりの言葉もカム方言だということです。最近の調査で判明したのでしょうか(根拠とする論文名は知りませんが)。

今後調査が進めば、チャンタン高原上ではぞろり全域でカム方言が話されている?ことがわかるのかもしれません。

ゲルツェの歴史というのはあまりわかっていませんが、

・Toni Huber (2005) Antelope Hunting in Northern Tibet : Cultural Adaptations to Wildlife Behaviour. IN A. Boesi & F. Cardi (eds.)(2005) WILDLIFE AND PLANTS IN TRADITIONAL AND MODERN TIBET : CONCEPTIONS, EXPLORATION, AND CONVERSATION. Memorie della Societa italiana di Scienze Naturali e del Museo Civico di Storia naturale di Milano.
also available @ http://www.cwru.edu/affil/tibet/booksAndPapers/Antilope.hunting.in.northern.Tibet.pdf

によれば、ゲルツェの人々は三百年以上前にカムから移住してきた、と語り継がれているそうです。この年代(17世紀頃?)ですと、ガンデン・ツェワンの西チベット~ラダック遠征(注3)、ホル・ギャルポ(注4)の蔵北支配、など、関係を調べるべき事項はかなりありますが、今のところ私にわかっているのはこの辺まで。

なにより、このまま続けるといつまでたってもラダック語の話に行かないので、この話はとりあえずこれでおしまい。

次回こそラダック語の話です。


(注1)
前述の

・瞿靄堂+譚克譲(1983) 『阿里蔵語』. pp.III+409. 中国社会科学出版社, 北京.

で明らかにされた。

(注2)
・西義郎 (1987) チベット語の方言. 長野泰彦+立川武蔵・編著(1987)『北村甫退官記念論文集 チベットの言語と文化』所収. p.170-203. 冬樹社, 東京.


地図 : チベット語方言分布図(西1987を改変)(2009/02/15追記)

試行作です。至って雑な図で、上図のみを基準に何かを論ずるのは避け、必ず原図を参照していただきたい。なお、空白部は「住民が不在」あるいは「チベット語話者が不在」というわけではなく、単に「未調査地域(1987年の段階で方言区分不明)」という意味です。またギャロン(嘉戎)語やグルン語など、チベット語と近縁の言語の分布域も表示していません。また西部チベットに関しては、筆者による見解を加えています。(2009/02/15追記)

(注3)
dga' ldan tshe dbang dpal bzang po(ガンデン・ツェワン・ペルサンポ)は、モンゴル西部からアムドに移住したオイラト・ホシュート部グーシ・ハーン家の一員(ダライ・バートル・ドルジ/別名ドルジ・ダライ・ホンタイジの子でグーシ・ハーンの孫にあたる)。出家しチベットで修行を積んでいたが、ダライ・ラマ五世の命を受けて還俗し、遠征軍司令官として対ラダック戦争(1679~83)を主導した。ラダックが併合していた旧グゲ領(現在のンガリー)を奪取し、さらにラダック深く攻め入った。ラダック軍はカシミールのムガル帝国軍の支援を受け、タシガン(現・中印国境)までチベット軍を押し返したところで講和が成立(旧グゲ領はチベット政府が併合)。

ンガリーには、sog(原義は「ソグド」のことだが、後にはモンゴルをさす)とかhor(古くは甘粛~青海の異民族をさしたが、後にモンゴル、ウイグル、イスラム教徒などをさすようになった)といったモンゴルに関係する地名が多数残っており、これはこのガンデン・ツェワンの遠征軍~その後のチベット政府駐屯軍に関係した地名とみられる。

文献 :
・Luciano Petech (1977) THE KINGDOM OF LADAKH C.950-1842 A.D. pp.XII+191. Isttuito Italiano per il Medio ed Estremo Oriente(IsMEO), Roma.
・武振華・主編(1995) 『西蔵地名』. pp.32+592. 中国蔵学出版社, 北京.
・手塚利彰 (1999) グシハン一族と属領の統属関係. 立命館東洋史学, no.22, pp.41-76.

(注4)
hor rgyal po(ホル・ギャルポ/霍爾王)は、14世紀以降nag chu(ナクチュ/那曲)地方(蔵北地方)一帯を広く支配した王家で、その支配下諸族はhor tsho so dgu(ホル三十九部)と呼ばれた。17世紀以降はグーシ・ハーン王家~チベット政府に従属。

この王家は、元朝皇帝トク・テムル(文宗)[位:1329-32]の弟gu ron o lon thi'i ji(グロン・オロン・タイジ)がこの地方に居を構えたことに始まる、とされるが、元朝の系譜にこの人物らしき名前は発見できない。胡散臭い系譜。

元代、甘粛~青海北部に册封されたチンギス・ハーンの一族はたくさんおり、その中には元朝北帰(1368年)後も明の勢力圏内に留まった者も少なくない。グロン・オロン・タイジもあるいはそのような集団の一員で、何らかの理由でチベットに移住したのかもしれない。などと妄想してみたりするが、実際どうなのか皆目わからない。

文献 :
・格勒ほか・編著(1993) 『蔵北牧民 西蔵那曲地区社会歴史調査』. pls.+pp.4+467. 中国蔵学出版社, 北京.
・手塚(1999) 上述.

------------------------------------------

(追記@2009/02/15)
(注2)に「チベット方言分布図」を追加した。

0 件のコメント:

コメントを投稿